毎日小遣い800円
オーグ


 

 小雨の降る肌寒い夜だった。私はいつものように会社の帰りに自宅近くの居酒屋で晩酌もかねた食事をしていた。女房の母親の体調が悪く、妻が実家に帰ってから一月ほど経つ。こんな夜に、客は少ない。同じく会社帰りなのだろう、サラリーマン風のスーツの男が二人、向かい合ってボソボソと話ながら、料理をつつきつつ、ビールを飲んでいた。私はなじみの店主と、世間話をしながらぼんやりと、テレビでやっているゴルフのハワイアンオープンの中継を眺めていた。
 と、そこに一人の男が静かに扉を開け、入ってきた。濡れたレインコートを脱ぎつつ、聞き取りにくい小さな声で、店主に熱燗を頼むと、男は私と一つ離れたカウンターの席についた。
その位置なら、まだテレビが正面近くから観られる。ゴルフでも観たいのだろうと、男がそこに座った理由をなんとなく想像していた。・・・・しかし、男が私の近くの席を選んだのには訳があったことを知ったのは、彼が熱燗を二本も開けた頃だった。
 私と店の親父が談笑していると、男がその会話に入ってきた。私たちは、女房とうまく行く方法を話題にしていたのだった。
「そうですねぇ・・・。まったくですわ。女房と言う物には、男なら誰でも苦労させられているんじゃないですかねぇ。」
「ははは。旦那もですかい。」
店主は努めて明るく答えると、テーブル客の注文を取りに行った。
「以前は私なんか毎朝、タバコ代と昼食代の800円が、食卓に乗っているだけで、朝飯どころか起きても来やしなかったですよ。」
亭主なんて情けないもんです・・と、男はグイッと酒をあおった。私は男が、過去形で話すのを妙に思いながら言った。
「800円とはまた、キツイですなぁ」
私は同情を込めて言った。しかし、私だった似たようなものだ。子供のついでに弁当を作っているからと、毎日の小遣いは500円玉一枚っきりである。
「それじゃ、こうやって一杯やって帰るのも大変でしょうねえ」
私が言うと
「いえ、それがね・・くっくっく・・・」
男は意味深な笑いをすると、私の隣の席に移ってきた。
「あなた、2丁目の団地の中井さんでしょう?」
私は驚いた。何しろ見た事も無い男から、いきなり住所と氏名を当てられたのだ。
「ど・・どちらかで、お会いしましたっけ?」
「いえ。あなたは私を知らないはずです。」
私は急に、気味が悪くなった。しかし、怪しい目的の人間、たとえば興信所だの探偵社だのの人間なら、こうも簡単に私に接触はしてこないだろう。ちょっとした好奇心を起こした私は、もうしばらく話を聞いてみる事にした。
「ああ、驚かせてすみません。実は私、女房監視委員会の者なんです」
男は声をひそめて言った。
「え? 女房を監視するんですか?しかも委員会とはまた・・・」
「そうなんです。しかし監視するのは自分の女房じゃない。委員会の別のメンバーの女房なんですよ。」
「はぁ・・」

 要するに男の言う事は、このようなことだった。給料が振り込み式になってから、男性の収入はすべて口座に入り、必然的にカードや通帳を持っている女房の所有となってしまった。男は、自分が稼いだ金であるにもかかわらず女房から小遣いを貰うという、矛盾が起きてしまった。そこで家計を自分が管理するために、なにか女房の弱点を見つけなければならない。結局、十数人の有志が集まり、それぞれ自分の有給休暇を利用して、同じメンバーの女房の一日の行動を見張るようになったらしいのだった。
 いやはや、監視を始めてみると、女房連中の金遣いの荒い事荒い事。やれホテルの格安ランチに通うは、ケーキバイキングに行くは、若い男の居るテニスサークルに入るは、もう開いた口が塞がらないどころか、顎がはずれるほど口が開いたまま病院に運ばれるメンバーまで出る始末。これではいかんと、それぞれが、メンバーの女房の無駄遣いの場面、浮気の現場、パチンコ通いの現実、これらを写真やビデオに収め、証拠が固まると、メンバー全員で(ここがなぜか情けないのだが・・)その家に押しかけ、女房を徹底的に責め尽くし、金の管理を亭主に取り戻す・・・・・と、言うものらしかった。

「実は私、中井さんと棟は違いますが同じ団地に住んでいる、長田と申します。」
男は急に改まって名詞を出した。
「いやいや、こりゃまた、どうもどうも・・・」
私は何と言っていいのか困りながらも、名詞を出した。
「そうです。お察しの通りです。毎晩飲みにもいかず早帰り。休日はゴルフでもなくベランダの花壇の手入れ。いやいや、お察しします。あなたは貧乏亭主の鑑です。」
褒められたのか、バカにされたのかよく分からず、黙っていると
「どうです。仲間になりませんか。実はうちのメンバーが撮ったケーキバイキングの写真にあなたの奥様も偶然写っていましてねぇ。こうしてお誘いする機会を狙っていたと、まあこういう訳なんですわ。」

確かに聞いてみれば、悪い話ではない。悪事を働くわけでもなく、逆に相手の悪事を暴いてしまおうという、ちょっと痛快な話ではある。しかし、うちの女房は自分で言うのも変だがそうそう悪い女房ではないと思っている。家事全般をつつがなくこなし、私の安月給でもなんとかやりくりしてくれている。監視と言うのも、どうも申し訳ないようで気が引ける。
「ね、中井さん、いかがですか。やって損があるじゃなし。何もなければそれに越したことは無いじゃないですか。」

ぼんやりとテレビでやっているゴルフのハワイアンオープンに視線を移すと、それをみながら私は考えていた。
しかし、次の瞬間、私は大声で言った。
「長田さんっ! やります。いえっ やらせて下さい。是非にもお願いいたしますっ!」
私は長田さんの腕をがっしりとつかみ、思わず立ち上がった。

その後ろのテレビでは、ゴルフのギャラリーが写り、その中に女房と、体調が悪いはずの女房の母親が真っ赤なアロハを着て、白人男性の腕にしがみつきながら、はしゃいでいる姿が写っていたのだった。

                                 おわり



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