マグダラのマリア
五十嵐 鈴
「じゃあ私、もう帰るから」
いきなり目に飛び込んできたのは、半裸の女性がタイトスカートを腰まで上げて、ボタンをとめたところだった。
「ああ、気を付けて帰れ」
男の声が彼女の奥から聞こえたが、目の前で流れる映像の衝撃的さに、俺の目は恥ずかしいほど見開かれた。
女性は二十代の半ばくらいなのだと思う。自分の趣味ではないが、美人だった。自分が男だという点を差し引いても。脱ぎ散らかしたブラウスやジャケットのシワを気にしつつ、大人の女性らしい仕草でそれを着た。
「じゃ、またね」
ひらひらと奥に向かって手を振る女性が、こちらを振り返った。そこで初めて俺に気付いたらしい。面食らった表情を見せたが、すぐに笑顔を見せた。それに少し驚く。
「…あら、あなたもしかして、ずっと見ていたの?」
「え、あ、いや」
俺のしどろもどろなセリフが聞こえていないのか、「じゃあね、ボク」と横を通り過ぎ、玄関に出て靴を履き、去っていった。
その様子を唖然としながら見送っていると、
「なんだ、入って来てたのか」
部屋の奥で、衣擦れの音がした。
「……先生、」
「なんだ、子供には少し刺激的すぎたか?」
にやりと笑って、先生がからかってくる。なんと反論していいか、まったく分からなかった。
別に、行為自体は人の自由なのだし。ここは先生の家なのだし。
どちらかと言うと、返事がないからと言って勝手に上がりこんでしまった自分に非があるわけだ。
「せっ、先生が返事しないからだろ。何遍も呼んだのに」
「ああ、そう言えば聞こえたな。いい具合に彼女も興奮していたようだから、いい刺激になった」
興奮ってさ、刺激ってさ。
それが何を意味するのか思い浮かべ、かーっと顔に熱が集まるのがわかった。
「と、とにかく、玄関に置いといたからな」
「聞かないのか」
「何を!」
とにかく早くここから去りたくて、つい声が荒くなる。それすらも先生は愉しそうだったが。
「あの女が誰かを」
「別に、……」
「科野が病欠でな。当分あの女が原稿を取りに来るらしい」
「科野さんが?」
馴染みの顔を思い浮かべ、少し毒気を抜かれた。
この官能小説家先生の担当編集者だ。いつもこの先生に振り回される、あの気の毒なメガネ顔を思い浮かべ、なんとも可哀相になった。
「インフルエンザらしい。まあそういうことだ」
「かわいそうに」
思わず口からついて出る。先生が喉を鳴らして笑った。
「病欠したことか? それとも俺が臨時の担当と寝たことが?」
「その両方プラス、それを知らないことだよっ! この馬鹿!」
傍にあった灰皿を引っ掴んで、力任せに投げた。
何度目かの新しい窓ガラスが、また割れた。
昔からこのあたりには、季節や天候に関する言葉が多い。
雨や風にしたって、指折るほどに種類がある。
ただ理解できないのは、太陽。
俺だけじゃない、周りの人間は太陽を見たことがない。それはもうずっと昔からの当たり前で、雲がすっかりと空を覆う世の中。それが全てだったからだ。
何時も薄暗い昼間。ずっと向こうの方に見える赤い壁。向こう側に行ったことがある人間なんていないほどの、高い、大きな壁で囲まれた世の中。
それが俺の、少なくともこの十八年間のすべて。
叔父から引き継いだ「死体屋」の仕事。早い話が死体の再利用屋。あの官能小説家の先生はそのお得意様で、叔父さんとも仲が良かったらしい。歳は結構離れているのだが、くされ縁かも知れないと最近は思う。
変わった先生なのは知っていた。死んだらミンチか臓器提供かの死体を、わざわざ丸ごと買って自分で埋葬するのだから、近所ではもちろん変人扱いされている。まさか新しい担当編集者を捕まえて、「そういう仲」に縺れこんだのは予想外だったが、ある意味あの人も人間らしいところがあるのかも知れない。
(まー…、あの男も動物だったってことだよな。あんな内容の小説書いてるけどさあ、なんかリアルに実感した感じだよなあ)
ふと、あの女編集者の顔が脳裏を過ぎった。
女の名前は、佐瀬真知華というらしい。
結局別れ際に先生は、それだけ告げた。
なんとなく釈然としない心持ちで帰宅し、それでも頭を占めている先の出来事を思い出して赤面した。
だってさ、あと少し俺が来るのが早かったら。
最中にばったりだったわけで。
俺だって男なわけだし。年頃だし。男女で服脱いで横になってすることって言ったら一つしか思い浮かばないわけで。
見たかったわけではないけど、興味はあった。認める。
しかし認めたところで、恥ずかしさが増すだけだったのだが。
頭を掻き乱して荒々しく息をついた後、少し息を止めて冷静になろうと考えた。
そうだ、メシ食おう。
そしてさっさと風呂入って寝ちまえばいい。
強迫観念じみた決意を浮かべて冷蔵庫を空けると、夕ご飯に成り得そうなものが何もなかったりして、溜息を深くついた。
仕方ない、買いに行くしかないか。
財布だけ持って、靴を履き、鍵をかけて、繁華街の方へと向かった時には、既に夜の帳が降りていた。
遊び人と呼ばれることがある。
人によっては不名誉だと思うかも知れないが、真知華はそうは思わなかった。
愛だの恋だの、一つのものにしか目がいかないなんて馬鹿のすることだと思うのだ。それは男でも女でも。
盲目的で、狂信的で―――下手をすると世の中で一番タチが悪い。快楽物質に躍らされて、目隠しのままの綱渡りをして、仕舞いに落ちる、そんな感じがする。
そう思うゆえに、色々な男と付き合った。恋心に目がくらんだことは一度もなかったが。
(君はあれだ、冷めているね。まあ、僕にとって…いや、僕たちにとって? その方が都合良かったんだけど)
今まで真知華が付き合った男を想像したのか、ある男はそう云ったものだった。
(でも時折、そうしなければいけないと思い込んで…遊び歩いているようなところもあったよ。それを助けてあげたかったんだけどね、無理だったね、僕は)
少し前に別れた男だ。そのセリフを思い出し、なんとも言えない憤りを感じた。
思い込んでる? 一体なぜ思い込むっていうの。
私は私の考えるようにしている。それだけのことよ、と、その時は言った。今でも変わらない。なのに何故か、開いた穴がいつまで経っても塞がらないような、そんな居心地の悪さ。
馬鹿馬鹿しい。その一言で無理矢理にねじ伏せて、ハイヒールの踵を叩きつけるように歩いた。
自宅は繁華街の外れにあるマンションだったので、後は帰るだけの真知華は早足に家路を急いだ。夜の繁華街は眩しいほどだったが、少し外れに出れば明かりもずっと減ってしまう。雑音も人の声もなくなる。
少し怯えるが、静かなのは好きだった。
先の記憶は早々と頭から薄れつつあり、僅かな街灯を頼りに路地を曲がった、
それを見計らったかのように、ショルダーバックを持つほうの手が掴まれ、一気に引っ張られた。
ハイヒールが災いした。よろめいて倒れこそしなかったものの、引っ張ったであろう相手に寄りかかる結果となった。すぐに体制を整え直そうとするが、その動きは不自然に止まった。
ちくりと、背中に。
微かに。しかし確実に。
目にしなくてもわかる。背につきつけられたもの、
刃物。
「叫ぶなよ」
押し殺した声が背中から聞こえた。息が少し荒いのは、やはり興奮しているせいなのだろうか。男なのは間違いない。
警告されたところで、声なんて出なかった。
逆らう様子がないことに、男はいささか安心したらしい。落ち着こうと深く呼吸をするのがわかる。そしてゆっくりと、二の句を吐いた。
「なぜ、こんな目に遭うか、分かるか」
問われ、混乱した頭がフルスピードで回転しだした。
鞄は何時の間にか手から離れ、地面に放り出されてきた。蓋が開き、中身がみっともなく投げ出されている。原稿を社に置いてきたのは正解だった。他人の原稿を家に持ち込むことなんて、したこともないが。
そうなると金が目当てというわけではないらしい。あとは、暴漢か、それとも自分に何かの恨みでもあるのか。
いつ刺されてもおかしくない男性遍歴だ。むしろこの可能性の方が高そうだと真知華は思った。
大方、いつぞやに振った男の一人なのだろう。
「派手に男渡りしてるおまえの事だから分かるよな。あの時から、いつこうしてやろうか―――ずっと考えてたんだ」
呪詛に似た、怨念の篭った声。声をかみ殺して聞いていた。
「なあ、どんな気分だ、なあ―――」
高揚し始めた男の声が不意に止まった。
理由はすぐに分かった。足音が聞こえてきたからだ。
平べったい靴なのだろう。ぺたぺたとした足音が向こう側から聞こえてくる。明らかにこちらに向かっていた。
男が真知華の腕を強く掴み、それが少し痛い。ついでにつきつけられた刃物も。
そして、曲がり角で足音がぴたりと止まった。
「ええと…」
歩を止め、俺は頼りなさげな声で呟いた。
買い物に行こうと、繁華街に出る時だった。地元民ならではの抜け道をすり抜けて行こうとすると、見たばかりの顔が目に入ったのだ。
暗がりであったものだから、実のところその人物が記憶どおりの人か、自信はなかった。
確か、佐瀬真知華。真知華さん。
知り合った、とも言い難い。ほとんど他人に近い。それだけだったなら、気も留めずに見ない振りをしただろう。今日会ったばかりで、呼び止めることなんてことは、誰もがそうそうしない事だ。
ただ、見たのだ。
暗がりに隠れて、まるでじっと狙う様に、それを見ている男に。
素人がいくら暗がりに隠れるとは言え、少し遠目から見たら簡単に分かる。ただ、彼女自身は気付いていないようだった。後ろを振り返るなんて、何か違和感を感じでもしない限り、あまり見ないだろう。
そして、明らかに、暗がりに引っ張り込まれた。
それだけだった。それだけだったが、黙っていられない理由だった。
「真知華さん?」
声をかけて、足を滑らせるように一歩出した。
その刹那、空を切る音がして、何かがつきつけられた。
僅かな光を反射して光る刃物、ナイフ。
予想通り、彼女の向こうの暗がりにいる男が、そのナイフを突き出していた。
「それ以上動くなよ…この女がどうなっても知らないぞ…」
「チッ…」
やっぱり、と思いながらも唇をかみ締めた。
でもそれでいい。手は打ってある。
密かに内心は確信していた、そう思った瞬間。
「やればいいじゃない」
彼女が口を開いた。それだけに留まらなかった。
「殺せばいいじゃないの。どうせそのつもりだったくせに」
「なんだと…」
「恨みがあったんでしょ。どうせ私はアンタの顔も覚えてない。それだけの男だったのよ。だから昔の私も振ったんだわ」
「ちょ…」
どんどんと言葉が滑り出す彼女に、慌てて静止をかけようとした。男の顔は、どうも赤くなったらしく、暗がりでも僅かに分かる。
俺に突き出していたナイフを、彼女の首元に押し当てた。刃を当て、滑らせたら―――。
「ふざけるな、本気だぞ!」
「なら引きなさいよ!」
「やめ…っ」
止めようと、動き出そうとした瞬間。
遠くから、聞こえる、
パトカー、サイレン。
男は目を丸くさせた。
ドアの閉まる音に、顔を上げると、刑事の隣に真知華さんが立っていた。
「簡単に調書は取らせてもらった。また後日来てもらうことになるだろうから、今日は一旦帰るといい」
刑事が俺たちにそう云った。
あの不審な男を見た時、実は真っ先に警察に連絡しておいたのだ。
あの変人先生の知り合いには警察もいたから、それが役に立った。顔見知りの刑事さんを捕まえられたのも幸運だった。知り合いになら、大事に至らない事だったとしても、なんとかしてくれるだろう、なんて軽く考えることができたから。
「送ってってやれよ」
刑事がぼそりと俺に言った。それって警察の仕事じゃないのか。
彼女はずっと口を噤んでいた。送るよ、と言うと、少し苦笑した。嘲笑ではなかったと思う。多分。
夜道に出て、別に何も話をするわけでもなく、彼女の家も知らないわけで、結果的に一歩後ろについて歩いていたが、なんとなく沈黙が痛かった。
「あのさ」
だから、ぼそりと。
「ああいうの、良くないと思うんだけど」
「良くないって?」
「自分を投げ捨ててるような、さ」
「きみもそう云うのね」
子供に向ける目。ちらりとこちらを見た。
「何も投げ捨ててなんかいない。そうだと思ったからそう云ったのよ」
「……そうだと思っててもさ」
命は大事にしたほうがいい。
あまりに手垢のついた言葉だと思って、やめた。
「まあ、―――そうね」
彼女が笑った。
「さすがに、少し怖かった」
俺より数センチ高い身長。そっと手が掴まれた。
「啖呵きったはいいけれど、結構、怖かったから。変にプライドがあるからかしら、怖くないように見せかけたかったのも知れないけれど」
手が少し、震えていた。
「だからこれからは―――もう少し、上手い事やってやるわ」
ぴたりと止まって、震え残った手が力を増したかと思うと、握られて、すぐ離れた。
「ありがとうね、それはちゃんと言っておくわ」
さらりと向こう側を向いた彼女は、マンションの入り口に吸い込まれていって、
「……なんだよ」
震えてたんじゃないか。
少し溜飲を下げ、少し残った何かを残したまま、一気に脱力した。
俺も怖かった、らしかった。