魚が死んでいた
五十嵐 鈴




 魚が死んでいた。

 青い魚だった。
 いや、紺と言ったほうが正しい。
 尾ひれは光を透かしている。照明が上から当たるからなのか、背ひれと尾ひれの上側は色素が薄い。
 綺麗な魚だった。死んでるのに。
 体長十センチもない、小さな魚。コップ大の入れ物がコイツの住家なのだろう。
 そのラベルには、

 ベタ オス 500円

 と記されている。それがコイツの全てらしい。ベタという種類の魚なのだろうか。
(熱帯魚…か? 全身真っ青だし)
 まじまじとその魚を見ながら、俺はそう思った。


 バイト帰りのことだった。
 バイト先は、大手ショッピングセンターの青果コーナーだったりするのだが、朝は晴れてたのに、夕方には雨がざあざあ降りで。仕方なしに傘を買った。
 ちょっとおしゃれな雑貨屋の隅にある、安い傘の売場で地味な傘を一本買い、通路を挟んだ向かいに、夏休み特設コーナーが展開していることに気付いた。。
 メインはカブトムシとか、今子供の間で特に人気な昆虫系。昆虫セットの横に、金魚なんかが並んでいる。それでも昆虫に比べたら十分の一もない量だ。
 さらにその金魚に押されて、ベタが一匹だけ、小さな容器に収まって死んでいた。
 隣で親子がカブトムシに熱中している。男の子が興奮して父親と話をしていた。
 この魚は、こんな声を毎日聞きながら、一匹だけずっと、過ごしていたのだろうか。
 ストレス、病気、飢餓、寿命―――死因はいくらでも思いついたが、悲しくなって原因探りをやめた。
 ふと、とある考えを思いつく。
 財布には、さっきATMから下ろしたばかりの千円札が何枚か入っている。それを使えば、こいつを買い取って、埋めてやることくらいは出来る。
 同時に、無駄な金を使うような気もした。ほんの一瞬の自己満足を買うには、いささか高い買い物ではないのか。
 こんなちっぽけな生き物のために。
 容器を片手で持ち上げてみる。横から見ても何処から見ても、惨めに死んでいる魚が一匹。ただそれだけだった。
 ぷかぷか浮いて揺れているその様は、当たり前だが全く生気も活力もない。じっとそれを見つめる。
(死んだら、おしまいだけどさ…。でも…)
 それは、理屈じゃない。そうしてやりたいと思った。
 自己満足かも知れない。エゴかも知れない。
 しかし純粋に―――この小さい魚のために、出来ることをしたいとも思った。ほんの一割にも満たない感情かも知れないが、確かに、思った。
 逡巡して考えに耽っていると、
「あのー、お客様…」
 売場の係員が、死んだ魚を真剣に見遣る俺を訝しんだのか、ついに声を掛けてきた。
「そちらの商品、お下げしますけれど…。よろしければ、お取り寄せさせて頂きますが…」
 まだ年若い販売員の女は、慎重に言葉を選んでるといった風だった。俺と同じくらいの年かもな、と思いつつ、
「いや、これ下さい」
 とゆっくり言った。
「え?」
 俺の発言に、販売員が目を丸くする。魚と俺を見比べ、その顔は「既に死んでますけれど」と言いたげだ。
 そんな顔をするのも当たり前だが、俺は何事もない風に、
「あ、あと餌もください」
 と続けた。
 はあ、と生返事で、販売員が会計をしてくれた。しめて八百七十九円。餌代込み。埋葬するときに、餌も一緒に入れてやろう。
 千円札を受け皿に乗せて、それを販売員が受けとる。ふと目があって、少し俺は顔を強張らせた。
「変な人だと、思ってる?」
 沈黙に加えた、微妙な雰囲気に耐え切れず、俺はそう問い掛けてみた。聞こえないフリでもされるかと思いきや、案外その女は真面目に答えた。
「いえ、そんなこと…。だって、埋めてあげるんでしょう?」
「そう思う?」
「そう思いたいです」
 確かに、食欲を掻き立てる魚でもない。考えてぞっとした。
「それに…」
 女は意外にも、さらに言葉を続けて、
「普通のお客さんなら、仕方ないよね、かわいそうだね、で終っちゃうのに。お客様はわざわざここまでされていらっしゃいますから―――悲しいけど、嬉しいんです」
 お釣を渡しつつ、軽く目を伏せた状態から顔を上げて、
「ありがとうございました。お気をつけて」
 営業スマイルに少しだけ影を隠し切れず、販売員の女は会釈した。
 半透明のタフレン袋に入った「それ」を受け取ると、財布をポケットに入れて、彼女に会釈を返す。それから、すぐそこのベンチに座った。
 買ったばかりの傘の値札や包装を破いて、設置されているゴミ箱に捨てる。
 一体どこに埋葬してやろう。海が見えるところがいいのだろうか。公園に動物の死体を埋めるのは、よくないと聞いたことがあるが、犬猫でもあるまいし、別に構わないだろう。
(丘のほうにある公園、かな)
 場所の目星をつけたところで、タフレンの中を見た。腹を見せた魚が浮かんでいる。

 はずだった。

 がさっ、という袋の音と、揺れる水面に反応するように、魚が震えた。
 ぴくりと痙攣したかの如く震えて、尾ひれ胸ひれが咳を切ったかのようにバタバタと動き出す。俺は目を見開いた。
 暫くもがいていた魚は、やがて緩慢な動きになり、まるで何事もなかったかのように遊泳しだした。
 ちらりと顔をこちらに向け、
「なに見てるんだよ」
 といった不遜さすら感じさせながら。
「……あ」
 掠れた自分の声は、すぐに空気に溶けて消えた。
 胸の底から沸き上がる歓喜を懸命に押し込めて立ち上がると、売場のディスプレイを直している先の店員に話かける。
 後ろからいきなり、形振り構わずに背中に声をかけた。
「すいません、その金魚鉢ください!」
「はい、いらっしゃいま…せ」
 振り返って俺の姿を認めると、女は少し表情を曇らせた。苦いものを噛みしめたような。
 そんな彼女に、袋の中から魚を取り出して見せる。
 元気に泳ぐベタに、販売員の顔が面白いほど驚愕の色に変わった。
「ええええ!?」
 驚いて口を開けたままの彼女に、大きく何度も頷いて見せる。
「うわあ…」
 口元を両手で押さえ、軽く目尻を押さえた彼女の頬から、ぼろぼろ涙が流れた。
 その顔に、もう一度、
「金魚鉢、下さい」
 と俺は言った。







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