水色ラビリンス
奏位星華
+00+
雨が降っている。
まっ青な空から、ぱらぱらと。
辺りは一面に空と同じ色の紫陽花が咲き乱れていて、自分以外の世界が水色に包まれていた。
何故自分がここにいるのかわからない。でも、その理由を考えようとしても、全然思い出せない。
そうこうしているうちに気がつくと、自分の目の前に透き通った水色をした湖が広がっていた。
そこに導かれるようにして歩いてゆき、湖面に辿り着いてそっと覗きこむと、その中に映ったのは、学生服を来た見覚えのある男の子の顔。
(―誰?この人、どこかで見たことが……)
わたしが湖面に手を伸ばそうとしたその時、突然湖全体が光り出し、またたく間に視界が真っ白に変わった――。
+01+
「……あれ?」
気がつくと、わたしは校舎の外れにある池の傍に座り込んでいた。
(なんでわたし、こんなとこにいるんだろ?)
傍らの芝生の上に転がっていたカバンを手に立ち上がり、わたしはそこから校門へと走り出した。
期末テストに入る前の試験期間中、学校を出たわたしは白い半そでブラウスに水色のジャンパースカートの制服姿で、しとしとと降る霧雨の中を歩いていた。
駅に向かう歩道はこんな天気のせいか、この時間にしては行き交う車や人々は少なく、しばらく歩いていると、目の前の路面に両足がすっぽり入る大きさの水たまりが出来ていた。
それを何の気なしに座り込んで覗き込もうとした時。
ドン、と背後から大きな音とともに、わたしの体は前のめりになった。
「きゃあっ!」
顔面が水たまりに直撃すると思ったその時、バシャンという水音と共に、急に吸い込まれるような感覚が起こり、わたしは思わず強く目を閉じた。
数十秒後、うつぶせになったわたしが我に返って目を開けると、最初に視界に飛びこんできたのは、さっき歩いていたレンガ色の歩道だった。
ゆっくり起き上がってみると、かすり傷や打ち身をしていないどころか、制服が全然汚れてなかった。
あんなに派手に転倒したのに、と不思議に思っていると、ガサガサと背後で葉が擦れる音がした。
振り返ると、水色の紫陽花が辺り一面に咲き乱れる中から、ごそごそ、と何かが動いたので、そっと近づいて見てみると、白地に青いストライプのドレスを着た、淡い金髪の少女が姿を現した。
しかし、自分と違うのは、手のひらに乗るくらいの身長だったこと。
「……小人?」
「小人じゃないわよ!失礼な」
きつい口調でわたしを指差した後、その子はぴょん、と大きくジャンプして、右手の平に着地した。
「っていうか、あんたがでかいからじゃないの」
「はあ?そんなでかいっていわれても……」
小さな彼女に言い返している途中で、わたしははっとして首を左右に振ると、そこはさっき歩いていた通りではなく、辺り一面が水色の紫陽花の花でいっぱいだった。
「まーこんなとこに人間が迷い込むなんて、珍しいけどねー」
状況がつかめず困惑しているわたしに、少女は両腕を組んでこう名乗った。
「あたしは水無月ありす。ありすって呼んでいいわ。あんたは?」
「筒瀬文香です……あの、ここどこなんですか?」
「ここは紫陽花の園。一年でこの雨の時期にだけ姿を表す所よ」
わたしが迷い込んだ場所をありすが教えると、彼女は手のひらから飛び降りて地面に着地した。
「あたしは今からそこにある湖に行くところなの」
「えっ?湖?」
「ほら、行くわよ。着いてきなさい」
「は、はあ……」
小さな体でトコトコと早足で歩いていくありすの後に、わたしはとりあえずついていくことにした。
+02+
葉の緑と地面の茶色以外は、空も花の色も水色。でも、それは冷たさを感じさせない、明るく澄んだ色。
どこまで続いているんだろう、この花園は。
そんなことをぼんやりと考えながら、ありすの行く先を追っていると、彼女が急に立ち止まったので、彼女に声をかけた。
「どうしたの?」
わたしは小さくかがんで目線を地面に向けると、ありすの前に彼女と同じ背丈で、子犬を籠のバッグに入れた、腰まである茶色の長いソバージュの少女が現れた。
彼女はわたしたちに気づくと、にっこりと微笑って挨拶した。
「水無月さんごきげんよう」
「あら、芽衣じゃない」
ありすが彼女の名前を呼ぶと、籠の子犬が小さく吠えたので、じっとよく見てみると、前にどこかで見かけたような気がした。
「その方は?」
「あー、なんか他所から迷い込んできたのよ」
「まあまあ、遠いところからよくおいでくださいました」
おっとりとした口調でにこにこと話してくる彼女に対して、わたしはこんにちは、とぺこりと首を下げて挨拶した。
「うわー、犬までちっちゃい……」
わたしが子犬に手を伸ばすと、彼は舌を出して指先をなめた。
「あら、この子はあなたのことお好きなようですね」
「草月はあたしと芽衣以外は懐きにくいのよねー」
芽衣さんの犬の名前を聞いた途端、わたしの脳裏にふと何かが通り過ぎた感覚があった。
(あれ?この犬、どっかで会ったことがあるような…)
わたしがそこで考えこんでいると、地面にいたありすが仁王立ちでこう叫んだ。
「こらアヤカ!ぼーっとしてると置いてくわよ!」
「あ、ごめんごめん」
彼女に謝り、わたしがあわててすぐに立ち上がると、ありすは再び前を向いて歩き出した。
花園を散歩中だった芽衣さんも一緒に湖に行くことになり、三人でしばらく歩いていると、芽衣さんの籠に入っている草月がワン、と吠えた。
「ありすさん、あやかさん。東屋が見えましたわ」
自分の少し前を歩いていた彼女の声に反応して足元を見ると、小さな屋根がついた壁のない建物を見つけた。
自分がいる世界にある、ドールハウスのお家と同じ大きさで、その中にはありすと同じ背丈の青年がいた。
「おや、ありすさんじゃないですかー」
「しんちゃん!お久しぶりー」
しんちゃんと呼ばれた黒髪の青年に大きく手を振って東屋に走っていく彼女を見て、芽衣さんがわたしにこう言った。
「あやかさん、この方はここの園の休憩所を管理していらっしゃるの」
彼女に少し休みましょう、と誘われて、わたしは東屋の傍に座り込んで休むことにした。
「ここにしんちゃんがいてくれて良かったー。あたし丁度のど渇いてたのよねー」
東屋の中の席に腰掛けて、ありすが大きく全身を伸ばすと、その横で青年が手早くティーカップやお皿をテーブルに置き、お茶を淹れる用意を始めた。
「あ、芽衣さんとそちらのお客様もどうぞ」
青年が東屋の外にいたわたしと芽衣さんに手招きしたので、芽衣さんは彼の元へと向かった。
でもわたしは彼女たちより大きいので、東屋の中に入れない。すると、青年がわたしの傍まで来て、深くお辞儀をした。
「はじめまして、月架(しんか)と申します。ここの東屋の管理をしております」
よろしく、とこちらに右手を伸ばしてきたので、わたしもそっと手を差し出すと、彼の手がわたしの人差し指を持つ形で握手をした。
「あ、しんちゃん。芽衣とアヤカにもお茶入れてあげてよ」
ありすが月架さんに声をかけると、彼は両手を組んでわたしの方を見上げた。
「うーん、ですがアヤカ様は大きすぎますからねぇ……」
「いえ、わたしは別にいいですから」
「まあそんなことをおっしゃらずに」
マスターは左手にもっていた銀のスプーンを右手に持ち替え、わたしに向けてくるくると回した。
すると、突然視界が大きくぐらつき、気がつくとありすたちと同じ高さの目線になっていた。
「一時的に背丈を小さくしましたが、後ですぐ元に戻りますよ」
さあ中へどうぞ、と彼に招かれて、わたしは東屋へ入り席に着いた。
テーブルには青く透き通った液体が入ったカップが三人分と、レモンの汁が入ったピッチャーが置かれた。
「これはマローブルーっていうハーブを使ったお茶になります。そこにあるレモン汁を、お茶の中に加えてみてください」
月架さんにそう薦められて、わたしはピッチャーの中にあるレモン汁をカップの中にいれると、中の青い液体がみるみるうちに淡いピンク色に変化した。
「うわあ、すごい!お茶の色が変わってく!」
「普通はレモンをいれなくても、少しずつ色が変化して、最後には淡い紫になるんですよ」
月架さんがどうぞ、とお茶をすすめてきたので、わたしはカップのお茶を飲んでみると、ほのかに甘い香りと味が口の中で広がった。
「シンカさまが淹れるお茶はとても美味しいのですよ」
「そうそう。それだけじゃなくて、お菓子とかも作るの上手いんだから」
「ええっ?!私はそこまで上手じゃありませんよー」
芽衣さんとありすに対して、遠慮がちな口調で彼が答えているのを見て、わたしはお茶を飲みつつゆっくりと足を休めた。
「……ところで、アヤカはなんでこの園に迷いこんだわけ?」
お茶を飲み終わったわたしに、隣に座っていたありすが訪ねてきた。
「うーん、たしか学校から家に帰る途中で、水溜りを覗きこんでたら、突然後ろから何かぶつかってきて……気がついたらここにいたの」
「ふーん……他に何か思い出せる?」
「えーっと……」
わたしがそれよりもう少し前のことを思い出そうとしたら、どうもそこだけ全く思い出せない。
「ごめんありす…わかんないわ」
わたしがありすにそう答えると、彼女はそっか、と首を縦に二回振って席を立った。
「……ということは、アヤカはあの湖に自分の記憶の欠片を落としたんだわ」
「えっ?」
「まあそれがわかった以上、詳しいことは後で話すわ。行くわよ!」
「う、うん……」
よくわからないまま、ありすはわたしの腕を引っ張って、東屋の外に出た。
+03+
「気をつけていってきてくださいねー」
月架さんにお茶のお礼を言ったわたしたちは、彼に見送られて東屋を後にすると、再び紫陽花が咲く園の中を歩き始めた。
明るい空と、一面に咲く花の色が同じ水色の世界。
その中をずっと歩いていると、なんか気持ちまでこの世界に融けこんできそうな気がしてきた。 けれど、それとはまた別の何かが頭の中で引っかかり、ぐるぐると回りはじめていた。
(一体これは何なんだろう?)
そう考えながら歩いていると、トコトコと先を進んでいたありすがふと足を止め、クルリとこちらを向いた。
「着いたわよ」
ありすの声でわたしが顔を上げると、目の前には明るく透き通った青い湖が姿を表した。
「アヤカ、この湖が記憶の湖よ」
「記憶の湖?」
「いろいろな世界から零れ落ちた記憶が、欠片となってこの湖に落ちているのです」
「まぁようするに、なんらかの形で失った記憶が、この中にたくさん沈んでいるわけ。アヤカ、あんたがこの世界―紫陽花の園に迷い込んできたのも、多分この湖に記憶を落としてしまったからだと思うんだけど」
「それを取り戻さないと、元の世界に帰れない、ってことですか?」
「そういうこと」
ありすがきっぱりと言い切ると、わたしは湖岸まで歩いていき、しゃがみこんで水面を見つめた。
しかしその状態で数十分経っても何も起こらず、ただただ、静かに波を打つだけだった。
「アヤカー、何か変化はあったー?」
わたしの背後で、のんびりと草月の相手をしているありすが声をかけてきた。
「うーん、まだなんにも出てこないんだけど……」
振り返って彼女にそう答えている途中、ありすの隣にいた芽衣さんが突然わたしに大声で言ってきた。
「あやかさん見て!湖面が光り出しましたわ!」
湖の方を指差した彼女に言われて、わたしは再びその方へ視線を向けると、湖面全体が光り輝いていた。
それを見たわたしは、無意識のうちに体をそちらへと向け、ゆっくりと歩き出した。
「アヤカ?!」
「あやかさん!どうなさったのですか?!」
背後にいる二人が叫んでも、勝手に身体が湖へと入っていく。何かに導かれるようにして。
(そうだ、わたしは……)
身体が湖の中へと完全に入っていくと、わたしの意識はそこで一旦途切れた。
+04+
―朝もやの中、わたしは犬を散歩している少年と話しながら歩いていた。一体何を話しているのかはよく聞こえなくてわからなかったけど、お互いが笑い合いながら歩き続けていた。
彼が連れている犬は、芽衣さんが飼っている犬とおなじ種類のもので、小さな足でちょこちょこと前を走っていた。
(あれ?これって……わたしの記憶なの?)
そう不思議に思って少年の顔を見ると、どこかで見覚えのある顔だとわかった。
でも、どんな名前なのか、なぜわたしと仲良く話しているのかが、思い出せずにいた。
(わたし、この人のこと、知ってるはずなのに――……)
彼の事を思い出そうとした途端、空間がぐにゃりと大きく歪み出し、気がつくとわたしは学校の教室の中にいた。
(あれ?わたし、なんで学校に戻っているんだろう……)
そう思いながら教室を出て廊下に出ると、そこで突然足が勝手にどこかへ向かって歩き出した。
一体どこへ向かっているんだろうと、しばらくの間校舎の中を歩き続けると、ある教室の扉の前で足がぴたり、と止まった。
そこは、わたしが部活でよく使っている教室だった。
(そういえば、あの花園に来る前にここに来たような…)
わたしがようやく思い出しかけたその時、教室の中から、女生徒の声が聞こえてきた。
「……あの、私…先輩のこと、ずっと気になっていたんです、付き合ってもらえませんか?」
(―えっ?先輩って、一体誰なんだろう?)
わたしは彼女の発言が気になり、耳をすましてじっとしていると、その後にどこかで聞き覚えがある、男の子の声が聞こえた。
「―ごめん、君の気持ちはうれしいんだけど……」
しかし、その後の彼の発言が、何故かわたしの心に強い衝撃を受けた。
「俺、好きな子がいるんだ」
それを聞いた瞬間、わたしは呆然として立ち尽くした。
(―これってどういうこと?!もしかして……ありすが言ってた、わたしが失くした『記憶』って―…)
わたしがそう思って顔を上げたその時だった。
突然教室の扉が開き、中から男の子―さっき自分と話していた少年が姿を現した。
「屋代…せん…ぱい?」
わたしがとっさに口を開いた瞬間、ザアッ、と波が押し寄せる感覚が頭の中に流れこんできた。
(―思い出した!わたしの記憶……!)
そう思った次の瞬間、わたしは彼に背を向け、小走りでその場を立ち去った。
「…ヤカ!アヤカってば!」
ありすがわたしに向かって叫んでいるところで、わたしはハッとして目を開けると、そこは湖の水の中だった。
「大丈夫ですか?何かわかりました?」
ありすと一緒に湖に飛び込んだ芽衣さんが、心配そうにして訪ねてきた。
「あ、うん…」
ふと気がつくと、水の中でも呼吸ができるようになっていた。
「この湖はもぐっても窒息しないから……って、ちょっと!」
周囲を見まわしながらありすがわたしに話している途中で、突然彼女の表情がサッと変わった。
「―アヤカ!あんたの目の前に何か光ってる!」
ありすにそう言われて顔を上げると、数メートル先に水色の小さな光が二つ、点滅を繰り返しながら光っていた。
わたしはそこまでゆっくりと泳ぐと、その光の物体を両手のひらでしっかりと受け止めた。
おそるおそる閉じた両手を開いてみると、少しいびつな形をした水色に透き通った石が二つ。
「アクアマリンの原石みたいね」
芽衣さんが手のひらに乗った二つの石を見て答えると、ありすもそばに来てじっと見つめた。
「もしかして、この石はアヤカの記憶のかけらじゃないの?」
「……わたしの記憶?」
「多分、ここに来た時に失くした二つの記憶―それが形になったんだと思います」
「それじゃあ……わたしが元の世界に帰れる、ということ……?」
わたしが二人にそう尋ねた次の瞬間。
突然水の中が明るくなり、水面から突然何かが姿を現した。
「アヤカ!こっちに何か来る!」
わたしは手にしていた石を左手に持ち替えて顔を上げると、一本の腕がこちらに向かって伸びていた。
「それ掴んで!早く!」
ありすにそう言われて、わたしはそこへ腕を伸ばすと、互いの手が触れ合い、ぐっと強く握り締めると、辺りが真っ白に包まれていった。
+05+
「……筒瀬さん大丈夫?」
ぽつぽつと降る雨の中、わたしは黒髪の少年の手をしっかりと握っていた。
「はい、なんとか」
「ごめん、俺があわてて君を追っかけていて、君が突然立ち止まった時にぶつかってしまって」
「いえ、わたしがぼーっとしていたから……」
水溜りの中で座り込んでいたわたしは、立ち上がってすぐに謝ると、彼―屋代先輩はわたしの姿を見て驚いた。
「うわ、制服ずぶぬれだ!タオル出すからちょっと待ってて」
先輩は自分のカバンの中をごそごそと探りはじめると、わたしは彼に声をかけた。
「あ、あの……」
「何?」
「わたし、先輩にどうしても言いたいことが……」
先輩にそう伝えようとしたところで、彼はわたしの頭パサリ、と白いタオルを被せてくれた。
「後で話を聞くから、とりあえず服をなんとかしないとね」
彼の笑顔を見て、わたしははい、と笑顔で頷いた。
「やれやれ、あたしたちもはずみでこっちにきちゃったみたいねー」
「あら、それはあの時、ありすさんが彼女にしがみついたからではありませんの?」
「あのねぇ、アレはとっさのことだったの!」
「まぁ、ありすさんらしくありませんわねぇ」
「な、なに言ってるのよ!……まあ、いいけどね」
わたしのカバンの中から、ひょこっと現れた小さな少女たちは、お互い顔を見合わせた後、再びその中へと戻った。
―そのことは、わたしは全然気がつかなかったのだけど。
降り続いていた雨はいつの間にか止み、空には七色の虹がかかっていた。
それをくぐりながら、わたしは先輩の後についていった。