朝明けラルゴ
奏位星華



 空が白み始める頃、小さな居酒屋の前で女友達と別れた私は、両腕を大きく空へと伸ばし、十二月の冷たい空気を体内へと取り込んだ。
 目の前にあるビルに取り付けられたデジタル時計を見ると、朝の五時前になっていた。
(始発までまだ一時間あるなぁ……)
 

 ここ数日仕事続きでなかなか休みが取れなくて、昨夜は早く仕事が終わったので、久しぶりにこの街に帰ってきた友人に会ってきた。
 しかし、こんな時間まで一緒に飲み明かすとは思わなかったけど。
 わたしは街灯に照らされた人気の少ない通りを、駅に向かって歩き始めた。

 駅前から少し外れた場所に、一軒の小さな喫茶店がある。
 この店は営業時間が夕方から明け方までで、この時間帯だと一昔前は終電に遅れたサラリーマンが時間潰しに来ていたのだが、最近になってマスターの息子が店を手伝うようになってからは若いお客が増えるようになった。

 二十四時間営業しているコンビニやファミレス、インターネットカフェもあるけど、わたしは静かで落ち着きがあるこの店が好きで、たまに仕事帰りにふらっと訪れている。
 ドアを開けて中に入ると、黄がかった照明のせいか店内はとても明るく、私は窓際の奥の席に座った。辺りを見回すと、お客は五、六人くらいで、男女のカップルもいれば、一人で来ている人もいた。

 店員に注文を頼んだ後、わたしは店のスピーカーから流れてくる音楽を聴きながら、窓の向こうの暗闇をぼんやりと見つめていた。
 ニ、三曲ジャズナンバーが続いた後、突然ふと聞き覚えがある懐かしいメロディーが、私の耳へと流れ込んできた。
 シンセサイザーで演奏されたクラシックナンバー。その曲の題名を思い出そうと頭の中を整理していると、背後から男性の声が聞こえてきた。 
「ヘンデルのラルゴ、かぁ……」
 それを聞いた瞬間、わたしは思わず立ち上がって振り返ると、見覚えのある顔立ちが視界に入ってきた。

「……あれ?上安さん?」

 自分の名字がその口から放たれた時、私はハッと気がついて、その人の顔を見て驚いた。

「か、狩留家くん?!」

 まさかこんな場所で再会するなんて――……。
 わたしは思わず立ち上がり、開いた口を右手でふさいだ。



「お待たせいたしました」
 注文したコーヒーを持ってきた店員さんの声で、わたしはすぐに席に座ると、狩留家くんが立ち上がり、わたしの向かい側の席に来た。
「座っていい?」
「あ、はい……」
 彼は椅子に座ると、店員さんにすみませんと言った後に首を軽く縦に振り、こちらを振り向いて微笑んだ。
「久しぶりだね、十年ぶりかな」
「そうですね」
 狩留家くんとは高校時代の同級生で、音楽部に入っていた彼はいつもフォークギターを持ち歩いていた。
 わたしの母校だった高校は音楽系のクラブが音楽部と吹奏楽部、合唱部、軽音楽部と四つあり、各部間での交流も結構あった。その中で音楽部とわたしが所属していた合唱部が、当時は一番交流が深かった。
 高校三年の春、狩留家くんが音楽部の部長で、わたしが合唱部の部長だった時、音楽部でピアノをやっていた生徒に、合唱部のコンクールの伴奏を頼みに彼のところに行ったのがきっかけで、お互い一緒にいることが増えた。
 卒業後まで続いた関係は、それぞれ違う大学に進学した事で終わりを告げた。その後風のうわさで彼は大学を卒業後、外国に行ったと聞いていたのだけど。
「どうしたの?こんな時間に一人で」
「あ、さっきまで大学時代の友達と飲んでたの。狩留家くんは?」
「僕はそこの通りで弾き語りしてた」
「ストリートミュージシャン?」
「うん、仕事の息抜きにだけどね」
 椅子の横に立てかけたギターケースをポンと手で叩いて、狩留家くんは笑顔で答えた。
「狩留家くんって、大学出てからどうしてたの?外国行ったって話だったけど」
「うん、ちょっとニ、三年くらいヨーロッパに。向こうでバイトしながらいろんな国を回ってた。それからこっちに帰って音楽学校の講師やってる」
「そうなんだ……」
「上安さんはどう?」
「わたしは普通に会社行ってる。仕事は大変だけどすごく楽しいし。その分恋愛はとんとご無沙汰だけど」
「そっか、じゃあお互いフリーってことかあ」
「ですね」
 顔を見合わせて苦笑いした後、わたしはコーヒーをすすって彼にこう言った。
「なんだかんだ言って、狩留家くんは自分の道を歩いてるよね」
「そう?」
「だって高校の時、音楽関係の仕事に就くって言ってたでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「わたしは普通に生活してるから、なんかすごいなって」


……正直うらやましいなあ。



 そう心の中でつぶやいたその直後に顔を上げると、狩留家くんの背後の風景が一変し、以前に見覚えがある世界が広がっていた。



「えっ?ここは……」



 そこは高校の教室の中で、時間は放課後。淡い黄金色の光が、わたしと狩留家くんしかいない室内の中へと差し込んでいた。
「上安さんどうしたの?」
 狩留家くんの声でわたしは視界をまっすぐに戻すと、彼の服装は黒の詰襟に変わっていて、自分も紺のリボンを結んだセーラー服を纏っていた。
 そして、黒板の上にあるスピーカーから、さっきのあの音楽―ヘンデルのラルゴが流れてきた。今度はバイオリンの演奏で。
 それをしばらく聞いていると、以前狩留家くんがこんなことを言ってたのを思い出した。

「上安さんってクラシック音楽も好きなの?」

 その言葉が今目の前にいる彼の口から出た瞬間、わたしはあわててはい、と答えた。

(あ、あれ?)

 わたしは突然変化した状況に戸惑いながらも、狩留家くんと話し続けた、いや、"話していた"んだ。 
 今のわたしは、高校時代のわたしに戻っているんだ。狩留家くんも同じなんだろうか? 
「僕も好きなんだ。親父が好きで家でよく聞かされてたからだけど」
 学生の狩留家くんの笑顔、すごく生き生きしてる。あの頃と変わってないなあ。
「わたしは、そう……中学に聞いたモーツアルトの曲が気になって、その曲の題名が何だろう、って探したのがきっかけで、いろんな作曲家のクラシックを聞くようになったの」
 口が勝手に開いて言葉を発してる。……でもこれは高校の時の自分が話しているとわかると、わたしはそのまま意識をそちらに向けた。

 その時だった。
 さっき狩留家くんと再会した時に、彼がはじめに言った言葉を、学生時代の彼が再び言ったのだ。

「ヘンデルのラルゴ、かあ……」

 それを聞いたわたしは、彼に向かってこうこたえた。
「あ、わたしこの曲好き」
「へぇー、そうなんだ」
「わたしの中学の下校時間の音楽だったの。初めて聴いた時にすごくいいなあ、って」
「僕は小学校の頃が最初だったかな。家で親父のレコードを適当に借りて聞いてるときだったんだけど……」
 狩留家くんがそう話している途中で、周りの風景がまた変化した。
 そこはどこかの家の部屋で、ふと横を見ると、書棚には多くの本とレコードが並んでいた。 
(ここ、もしかして狩留家くんの家の中?)
 わたしがほの暗い室内をきょろきょろと見回していると、窓際にあるレコードプレーヤーの側に、一人の少年が座ってじっと音楽を聴いていた。
 そのプレーヤーから流れている音楽も、さっきと同じ曲。
(あの子、幼い頃の狩留家くんかな……)
 少年を見てふと思ったわたしが、彼に声をかけようとすると、ふと窓の向こうから淡い金色の陽光が射し込んできて、部屋中を明るく照らし出した。

「―突然金色の光が部屋に広がって、とてもきれいでなつかしい感じがしたんだ」

 その声は、わたしの脳裏に大きく響いてくると、徐々に目の前が明るくなっていき、やがて真っ白になっていった。


「…安さん、上安さん?」
 狩留家くんの声で意識を取り戻したわたしは、元の喫茶店の席に座っていた。
「あ、わたし……どうしちゃったんだろ……」
「大丈夫?ずっと飲んでた、って言ってたから」
「ううん、そうじゃなくて……ちょっと昔のことを思い出してた」
「そうだったんだ、よかった」
 ほっとした表情を見せた狩留家くんに、わたしはさっきのことを打ち明けようとしたら、ふと目の前に苺のショートケーキが乗った皿が飛び込んできた。
「え?わたし、ケーキ頼んでないんだけど」
「僕が頼んだんだ。おごるよ」
「で、でも……」
 いいからいいから、と彼に言われたわたしは、それじゃあとそれに甘えさせてもらったのだった。


 二人で一緒に店を出ると、東の空が淡い金色に染まっていた。
(それにしても、高校の時のはともかく、その後出てきたあの記憶って……もしかして彼の記憶を垣間見たのかな?)
 駅へ向かう途中で、わたしはふと狩留家くんにさっきの自分が体験したことを打ち明けようかな、と悩んでいると、彼がふとこう言ってきた。
「さっきの店で流れていたラルゴ、クスコのカバー版なんだ」
「知ってるの?」
 わたしがそう訊ねると、彼は頷いてこう続けた。
「その曲が入ったCD持ってるんだ。いろんな作曲家の曲をカバーしたのをまとめてあるんだけど」
 こんど貸してあげるよ、と狩留家くんが言ってきたので、わたしはいいよとこたえた後、携帯の番号をお互い交換しあった。


「ラルゴって、色にたとえたらこの明け方の空の色みたいじゃない?」
 わたしが夜明けの空を見上げてつぶやくと、隣にいた狩留家くんがそうだね、と笑ってこたえた。
「淡い金色?」
「うん、そう。それでもってすごく懐かしい感じ。学生時代の放課後とか、小さい頃の思い出がよみがえってくるの」
「思い出かあ……」
 彼が顔を上げて空を見つめると、東の山々から朝の光が差し込んできた。
「じゃあ今度会った時に」
「うんわかった。連絡してね」
 駅の改札口で狩留家くんと別れて、わたしはその場で彼を見送ってから歩き出した。新しい光に満ちた朝の光の中へ向かって。



http://www.juv-st.com/