マテイの炎
如月冴子




1.

 つま先に擦り寄るようにひたひたと広がる海を見下ろして、少女は露骨に眉をひそめた。
 夜闇の中では色は知れない。が、おそらく赤黒いのだろう。
 水分にしては、やけにとろみがある。
 鉄分の臭いが鼻をついた。
「やりすぎなんじゃないの」
 独白にしては声が大きすぎた。屈強な体躯がいくつも振り返り、小柄な少女を見つけ出す。
 人垣の間から、力なく地面に倒れ伏した赤黒い海の源が見えた。もうそれはおそらく、人ではあるまい。
「これはこれは、CCC(トリプルC)嬢じゃないか!」
 左胸に揃いの羽飾りをつけた男たちの中からひとり、さわやかな微笑を顔に貼り付けた男が進み出た。両手を広げ、さも感激したという様子で。
 胡散臭くてたまらない。少女は目をすがめる。
 太陽と海とが似合いそうなさわやかな笑みだが、頬といわず首といわず、返り血を浴びているのだ。その笑顔は実に不気味だった。
「なに、これ」
 年長者に礼儀も払わず、少女は地面を顎で示す。じわじわと広がる血の海を。
「また吸血鬼だよ」
 困ったように肩をすくめる男の身振りは、広い舞台でのみ映えるような、大仰なものだった。この男はいつもそうだ。深刻さが感じられない。
「名うての賞金稼ぎであるCCC嬢が、騒ぎを聞きつけて飛んできてくれたことには感謝する。が、お手を煩わせるまでもなく、我々自警団がとどこおりなく処理を済ませたところだ」
 まるで舞台口上だ。
 おざなりに頷いて、少女は薄汚い袋小路に背を向けた。
 来た道をたどり、大通りへと戻る。下卑た喧騒と酒の臭いとがまざりあう歓楽街を一本折れたところで、吸血鬼狩りという名の殺戮が行われているのだ。気分が悪い。
 路地から酒場の明かりもまぶしい大通りへ戻り、小柄な少女はふと、空を仰いだ。
 風に運ばれた砂が舞い、空はいつもくすんでいる。
 滅多に晴れ間を見せない空も、このアルマロスの特徴だ。荒野の只中にある、ならず者の集まる無法地帯。
 たしかに自然はきびしい。治安も決していいとはいえない。
 けれども、住み難いと感じたことはなかったのだ。
 ――― 一月ほど前までは。



2.

「脚で扉を開けるなと、何度言ったら分かってくれるんだろうこの子は!」
 不可侵の砦であるカウンターの内側で、一本の棒のようにひょろっと長いマスターが片手で顔を覆った。
 悲壮な面持ちである。
「あたし今とっても、美味しいカフェオレが飲みたい気分なんだけど!」
 酒場の扉を行儀悪くも脚で蹴り開けて入ってきた紺の髪をもつ少女は、酔っ払いの如く据わった目できっぱりと言った。
 漆黒の瞳の奥に今は、押し殺しきれない憤りが燃え滾っている。
 小柄な体にはいささか高い椅子に陣取って、なめらかに磨かれたカウンターにがつんと頬杖をついた。
「なんだカイナ、荒れてるじゃねぇかよ」
 左斜め後ろから、声が割り込んできた。
 少女が荒んだ視線を向けると、既に半ばほどまで消費されたジョッキを手にした、山のような大男が立っていた。
 綺麗に刈られた芝生の如き短髪の筋骨隆々とした男は、カウンターにジョッキを置き、少女の隣に陣取る。
「どうもこうも!」
 馴染みの顔を見たところで、短気なりにがっちりと押さえ込んできた不満が勢い良く噴火した。
「なんなのあれは。気分悪いったら!」
 右肩に蠍の刺青を持つ男は、しばらく視線を宙に漂わせてから、盛大に眉間に皺を寄せた。
「ああ、アレな。また何かやったんか、あいつら」
「吸血鬼狩りだってさ!」
 憤然と吐き出して、この界隈でCCCという通称で呼ばれる少女は大仰に肩をすくめた。同時に、あの嫌な男の仕草を思い出して、盛大にしぶい顔をした。


            *


 アルマロスは、中央から遠くはなれた、不毛の大地の只中にある。
 広大な荒野を渡る行商人たちのキャンプが発展した街で、現在も多くの商人たちが出入りをしている。
 周辺には大きな街はない。更に、砂塵から街を守るために築かれた高い外壁が、くっきりと内と外とを区切っている。
 元来商人たちはしたたかな生きものである。必然的に、アルマロスに集まる人びとは、一癖も二癖も隠し持った人間に限られてくる。
 やり手の商人、中央を追われて逃れてきたもの、地方の集落から仕事を求めてくるもの、孤児たち、没落貴族、なによりアルマロスは賞金稼ぎの街として知られている。
 のどかで美しく整えられた街ではないにしろ、それなりのルールが存在し、それに則って生きている以上、決して地獄ではない。癖が強いだけだ。
 “だけだった”。少し前までは。

 一月ほど前から、人気のない路地裏で死体が見つかるようになった。
 もともと荒くれものの街であるので、死体が見つかること自体は、さほどショッキングなニュースではない。
 しかし、同様の手口で殺された死体が増えるにつれて、やはり人びとは不安を覚えはじめた。
 噛み付かれた痕があるのだ。
 首に。
 吸血鬼だサタンだとアルマロスは騒然となり、更にはこんな辺境には不似合いな上等な出で立ちをした亡霊を見たという噂があちこちで上がりはじめ、混乱は飽和状態に達していた。

 自警団が結成されたのは、亡霊の噂が立ち始めた頃だった。
 この街のすべてが賞金稼ぎと商人とならず者で構成されているわけではない。この街に根付き、生活をしている一般人のほうが圧倒的に多いのだ。
 件の吸血鬼――― 一応そう呼称するとして―――は神出鬼没であり、決して狭くはないアルマロスの、いたるところに現れる。
 いくら優秀な賞金稼ぎが集まる街とはいえ、いざ吸血鬼が現れたそのときに、傍にいるとは限らない。
 自らの生活は自らの手で守るのだという崇高な理想のもと、一般市民の若者たちが集まって結成されたのが、自警団だった。
 数人でグループを組み、交代で居住区を中心に見回りを行う。住民たちも、自らの危険も顧みずに立ち上がった若者たちに、賞賛の眼差しを贈る。
 美談だった。
 しかし、半月ほど前からゆっくりと確実に、歯車がかみ合わなくなりはじめた。
 異変は、自警団のひとりが誤って、没落貴族を殺害してしまったことに端を発する。
 自警団に加わらなければアルマロスの男ではない、という周囲の無言の圧力に負けて参加したその男は、元来たいへんな怖がりだった。
 殺された没落貴族はといえば、中央を追われ辺境へ落ち延びてきたものの、特権階級であったことのプライドを捨てきれずに、いつも身なりに気を使っていたのだという。
 人気のない暗がりで、臆病な自警団と上等な出で立ちの没落貴族がばったりと鉢合わせた結果は、決して想像に難くない。
 あっけなく、血は流れた。

 元々軋轢がなかったわけではない。没落貴族たちは、中央を追われて流れ込んできたいわば余所者である。
 しかし彼らには、多くの人間を額ずかせてきた特権階級としてのプライドがある。
 アルマロスの住民といえば、階級に縛られぬ自由人がおおい。”そり”は合わない。
 表だって争うのが馬鹿らしく、お互いに妥協を重ねながら、なんとか均衡を保っていただけなのだ。

 十五年前。
 強力な一神教で世界を束ねていた教会の中枢部が瓦解した。
 教会の権威は堕ち、栄華を誇った聖都は半壊し、未だ再建の最中にあるという。
 教会の失墜とともに旧体制が軒並み崩れ、すべてを牛耳っていた宗教の力が弱まったことを受けて、お飾りに過ぎなかった王族が権利を主張する傍ら、貴族たちの盛衰も激しく、中央はまさに混乱を極みにある。
 辺境へ落ち延びてくる没落貴族の数は増えるばかりで、住民たちの不満は日に日につのるばかりだった。
 自警団による没落貴族の殺害は、恰好の引き金になる。
 日々の鬱憤が表面化し、アルマロスは殺伐とし始めたのだ。


            *


「でもよ、実際ゾンビみたいなのもいるんだろ。見たこたぁねぇけどよ」
 空になったジョッキの底を半眼で覗き込みながら、巨漢が言った。
「白髪に赤い瞳の死体がいくつか見つかってはいるみたいだね」
 うつくしく磨き上げられたカウンターの上に、淹れたてのカフェオレをしずかに置いて、紳士を体現するマスターが話を引き継いだ。
「何でも、生きている人間と見れば見境がないとか」
「見境ないのは奴らのほうだってば」
 両手でカップを持ち上げて、カイナはにべもなく言い放つ。
「気持ち悪いゾンビが徘徊してたって、貴族狩りしていいって理由にはならないでしょ」
「まぁ、近頃はやたらと幅きかせてやがるがなぁ」
 ジョッキをあきらめ丸太のような腕を組んで、このあたりでは名の知れた運び屋は、深刻そうに眉間に皺を寄せる。
「ボクたち正義ですって顔に書いてあるのが気に入らないのよ」
 カイナの猫舌を考慮して適温に調節されたカフェオレを一気に飲み干して、子どもっぽく唇を尖らせた。
「なんつったかな、リーダー格の男」
 右の肩に掘り込まれた刺青にちなんで「蠍」と通称で呼ばれる男は、たくましい人差し指でこめかみを掻く。
「カゼルでしょ」
「そう、そいつだ。アルマロス出身だって言ってはいるがよ、ガキの頃の話なんだろ? しばらくこのあたりを離れてて、最近になって戻ってきたらしいじゃねぇかよ」
「なんだ、案外情報通じゃないの」
「馬鹿いえ、運送業が運ぶもんは荷物だけじゃねぇんだ」
 素直に感心した様子の賞金稼ぎに、蠍は憤然と言い返した。
「ここは元々我々の街だ、お貴族様に大きな顔をされるのは気に入らない、か」
 右側にひらりと揺れる白を感じて、カイナはそちらに体を捻った。若干かすれた低い声は、あらたに現れた客のものだった。
「先生、ひさしぶり!」
 カイナがぱっと顔を輝かせる。
 病的なほどに青白い白衣を羽織った、三十がらみの女が口の端を歪めるようにして笑う。
 不揃いな金髪がまっさらな白衣につつまれた肩を流れ、肩甲骨のあたりまで伸びている。若干不健康そうながら、顔だちは整っていて、スタイルもいい。
「ドクター・イシス、こんばんは。いつものでいいですね」
「そうしておくれ。まったく、この街の奴らはわたしを過労死させたいらしい」
 自ら左の肩に手をやって、揉み解す。顔には疲労がくっきりと滲んでいた。
「しばらくじゃないか。どうしてたんだよ? 酒好きが」
 カイナを挟んだ向こう側から、蠍が顔を出す。
 ドクター・イシスはいささか鋭い感じのする目を細め、巨漢を睨み据えた。
「あんたがわたしの代わりに患者を診てくれるっていうんなら、わたしは好きなだけ昼間っから酒を浴びてられるんだけどね」
「最近はどうやら、あなたのところに駆け込む患者が増えているそうですね」
 女医の前にグラスを置いて、マスターが苦々しく笑う。
「駆け込み寺にした覚えはないんだけどね」
 凝り固まった肩をすくめ、イシスはグラスに口をつける。
「正規の病院にいけない奴らがこぞってうちに来るんだよ。困ったことに奴ら、金だけは持ってるもんでね、金さえ貰えれば面倒見るっていううちのスタンスが災いしてるのさ」
 イシスは正規の手順を踏んで開業しているわけではない。いわゆる闇医者である。
 お尋ね者であろうが何であろうが、治療費さえ出せるのならば診る。荒くれ者の多いアルマロスでは、重宝がられている。
 賞金稼ぎの中でも彼女を贔屓にしているものは多く、カイナもそのひとりだった。
 守銭奴だと陰口を叩かれるイシスではあるが、元々は研究者一族の出で、若い頃は聖都の研究所にいたこともある。医者としてのプライドや技術は一級で、本当に苦しんでいる患者を目の前にすれば、金などなくても診てしまう性分だということを、カイナは良く知っていた。
 酒好きで口が悪く手も早い、性格も若干キツめのために敬遠されがちではあるのだが、この酒場に集まるものたちには随分と慕われているのだ。
「お貴族さま、か?」
 声をひそめ、蠍が問う。
 煙草に火をつけながら、イシスは頷いた。
「財産没収されてるとはいえ、落ち延びてくるために残った財産全部持ってくるからね、宝飾品なんかも合わせれば、この界隈の奴らよりは随分と金持ちだ」
「そんなに酷いんだ、貴族狩り?」
「かすり傷程度で飛び込んでくるような軟弱者は蹴りだしてるけどね、厄介な猫をこの間、ついつい拾っちまったのさ」
「ネコ?」
 いぶかしげに眉を寄せるカイナの、紺色の髪を乱暴に撫でてイシスが嘆息する。
「目を離すとすぐにいなくなっちまうんだよ。あれは生粋の貴族育ちなんだね。本人に悪気はないんだろうが、背中にボクは貴族です、と書いて歩いているようなもんだ。この街を出歩くのは危なすぎる」
「珍しいな、飛び出した患者は連れ戻さない主義のお前さんが。ああ分かったあれだろ、いい男なんだな?」
 言ってから、蠍はすぐに身構えた。彼女の気に障ろうものなら、灰皿やグラス、火のついた煙草などが投げつけられる可能性がある。が、イシスは赤い唇を引いて、艶然と微笑した。
「あと十年経てば、わたし好みの男に育つだろうよ」
「なんだガキかよ」
 蠍はあからさまにがっかりと顔に書いた。
「ガキなんだけどね、気位は高いわ頑固だわ、困ったものさ。見目麗しくなかったら叩き出してるところなんだけどね」
 イシスは見目などで患者を差別はしない。おそらくは彼女に拾われたという少年の体調があまり良くはないということだろう。ドクターストップをかけた場合、イシスはきびしい。そして、経験と知識に裏打ちされた直感は、正しい。
「何はともあれ、ここしばらくはあんまりいい空気じゃないね、アルマロスは」
 イシスはほそく紫煙を吐いて、グラスを煽った。



3.

「あ、じいちゃん」
 道端に、カイナは小走りに近寄った。
 酒場の帰り道、夜も程よく更けて、店が集中するメインストリートはひっそりと静まり返っている。歓楽街の喧騒が渇いた風に乗ってわずかに届くのみだ。
 売り物を撤収して空っぽになった露天の傍に佇んでいた小柄な老人が振り返った。
「おまえさんか。こんな時間にひとりでは、危なかろう」
 顔には年輪のように皺が刻まれている。齢は七十を越えているだろう。蓬髪に白い口髭で、身なりも決していいとは言えないが、背筋はしっかりと伸びており眼差しはつよく、凛としていた。
「あたしは平気なの。このあたりでは有名人だから」
 カイナは勝ち誇ったように胸を張る。老人は愉快そうに笑った。
「じいちゃんこそ危ないでしょ。夜は出歩かないほうがいいよ」
「まぁ今更、どこにおっても同じよ」
「だけどさ、今は特に危ないよ。だってじいちゃん」
 貴族じゃないか、とは流石に口には出せなかった。
 しかし複雑そうなカイナの表情を正しく読み取って、老人は目元を和らげる。
「心配せんでもこれからねぐらに戻るところだ」
「だったら腕利きの賞金稼ぎが護衛してあげる」
 楽しげに宣言するカイナを、老人は拒まなかった。連れ立って歩き出す。

 老人―――ハマエルとは数ヶ月前に出会った。
 ハマエルは、街外れの壊れかけた小屋に住み、孤児たちに読み書きを教えている。
 彼の教え子が露天で盗みを働いたらしく、子どもを庇って商人に暴行を加えられているところに丁度出くわしたのだった。
 商人はすっかり気が立ってしまっていて、盗みの罰には度が過ぎていた。子どもは泣きじゃくっているし、老人は無抵抗だったので、見かねて割って入ったのがきっかけだった。
 カイナはこの街では顔が利く。割って入ったことにより、見るに見かねていた周囲の人間も手を貸してくれた。
 とりあえず盗みを働いた子どもにゲンコツひとつをお見舞いしてから、カイナはハマエルをイシスの元へ連れて行った。

 ハマエルはアルマロスにおいてはただの浮浪者でしかない。
 いずこからか逃れてきたものか、数年前にこの街に住み始めたらしい。
 流石に身なりはみすぼらしいものの、教養があり知識も豊富で、一部では賢者のように扱われていることを、あとから知った。
 元は貴族の生まれで、中央では随分とあくどいこともしたのだと聞いた。それ以上のことは頑として口を割らない。ハマエルという名も本名ではないのかもしれない。
「でもさ、つらくないの?」
 夜空を見上げ、カイナは口を開いた。
 ハマエルの視線が向けられるのを感じる。
「いい暮らししてたんでしょ。あたしは孤児育ちだから全然想像つかないけど。今の暮らしとは全然違うでしょ」
「お前さんは孤児だったことで不幸になったかね」
 カイナは夜空から、傍らを歩く老人に視線をうつす。
 ゆっくりと首を横に振る。
「この街に暮らしてる子どもたちに比べたら、すっごく恵まれてると思うよ。確かにオヤジは禄でもないやつだったし、母さんはあたしがちいさい頃に死んじゃったけど。それからあたしの面倒を見てくれたひとたちが、大事にしてくれたからさ」
 ハマエルは満足そうにひとつ深く頷いた。
「肩書きや札束ではないのだよ。私はこの街に来てからそれを知った。選ばれて生まれ、民を従えるものと自惚れて、金と財宝に囲まれてしあわせだと思っておったがの。周囲の顔色をうかがい言葉の裏を読み、騙し騙され疑心暗鬼を飼い馴らしながら生きておったのだ。それをしあわせだと思っておったことが、わびしいかの」
「みんな、じいちゃんみたいな考え方だったら、こんなことにならなかったかな」
 カイナはつま先に視線を落とした。
 中央を逃れてアルマロスに落ち延びてきた貴族たちが疎まれるのは、彼らが今はもううしなわれた過去の幻影にしがみつくからだ。
 地位や富、従属する民。自らを支えてきたものがすべて、失われたことを認めるのがおそろしいからだ。ゆえに倣岸になる。
「仕方がない。かなしいことだが」
 ハマエルがちいさく首を振る。
「ひとはそう簡単には変わらんよ。生まれたときから権力を支え、民を治めるものだと教えられて育つとな、それが世界のすべてになる。彼らを庇うわけではないが、覚悟もないうちにすべてを取り上げられるとな、どうすればいいのかも分からなくなるのだ。それはおそろしいことだよ」
 唐突に光をうしなうようなものだ。
「私は、笑って食事をしながらテーブルの下で足を蹴りあうような生活に随分辟易していたし、覚悟を決めて一切合財を放り捨てたから、あたらしいものも見えたのだ。自らが盲目にならなかったことを、しあわせだと思うとるよ」
「覚悟、かぁ」
 理屈としてはわかるが、いまいち実感の湧かない話だった。
「金や地位がなくともひとは生きてゆける。自分が生きているのだと体の隅々まで信じられるのならば、な」
 ハマエルは気高い目をしている。
 うつくしいな、とカイナは思った。
 初めて出会ったときも、彼は真っ直ぐな目をしていた。だから一目でこの老人を好きになった。
 カイナはいつも、濁らない瞳が好きだ。
「さて、護衛はこのあたりでよかろう。お忙しい賞金稼ぎ殿のお手をあまり煩わすと、若いもんが煩いでな」
 ハマエルの口調には、どこかからかうような響きがあった。
「あたしを普通に雇うと、高いよ」
 調子に乗ってカイナも腰に手をあてる。
 老人は大声を上げて笑う。
「気をつけてお帰り」
 肩越しに振り返り、やさしく、ハマエルは言った。



4.

 細くのぼる煙を見上げると、いつもどおりのくすんだ空がある。陽が傾きかけて、わずかに橙色に染まっていた。
 不意に視界が歪んで、カイナはうつむく。手の甲を目に押し当てた。
 鼻をつくのはいやな臭いだ。肉の焼ける臭いだった。
 背後から近づいた気配が、カイナの頭を鷲掴みにして乱暴に撫でた。
「……あのガキが、目を覚ましたよ」
 低い女の声が心地よく耳に馴染む。
 体を捩って振り返り、カイナは白衣の胸に飛び込んだ。
「こないだの晩会ったばっかりだったのに。おかしいところなんて全然なかったんだよ……」
 体温が、我慢の糸を切った。イシスは、小刻みに震えるカイナの背を擦る。
 煙草の香りがする白衣に額を押し付けて、カイナは咽喉までせりあがる嗚咽を噛み殺した。


            *


 マスターに買出しを頼まれていた。そのあたりに居合わせた蠍を引きずって、カイナは食事時でにぎわう繁華街に出かけた。
 露天の建ち並ぶメインストリートは、夜間の静寂が嘘のように活気に溢れ、ぼんやりしていると人とぶつかりそうになる。
 荷物はすべて屈強な運び屋に押し付け、カイナはするするっと人波をすり抜ける。強かに逞しく荒野に生きるひとびとの活気を感じられるから、カイナはこの通りが好きだった。
 昼間ばかりは、陰惨で殺伐とした空気を感じずに済む―――はずだったのだが。

 絹を裂くような女の悲鳴で、ふたりは異変に気がついた。
 絶え間なく揺れ動いていた人波も一瞬とまり、声の方向へ顔を向ける。
「おい」
 身を屈めた蠍が、強張った声で囁いた。
 悲鳴につづき、ざわめきが起こる。そう遠くはない。一本向こうの通りか。
 カイナは駆け出していた。固まった人ごみをすり抜け、わき道を目指す。そこから隣のとおりへ抜けられるはずだ。
「おい、カイナ待てよ!」
 両手に大荷物を抱えた蠍は、ひとびとの只中で巨躯をもてあます。しかしカイナは振り返らなかった。嫌な予感がする。
 饐えた臭いのする裏路地を抜けると、もう一本の大通りへ出る。露天の並ぶ先程の道とは違い、しっかりとした店が並ぶ商店街だった。
 細道から飛び出して、素早く周囲を見回す。
 騒ぎの原因はすぐに見つかった。右手側に人垣がある。
 人垣をかたちづくる人間の中にちらほらと羽飾りをつけた男たちを見出して、カイナは思わず舌打ちをした。
「あんたたち、こんな昼間からなんなのよ!」
 苛立ちにまかせて叫べば、人垣が次々に振り返る。
 顔の売れた賞金稼ぎの乱入に、いくつかの顔が苦い色を浮かべる。
 カイナが大股に歩み寄れば、人の壁が割れて、道ができた。
「こんな時間からパトロール? 自警団って勤勉なの、ね」
 厭味が尻つぼみに消えた。
 割れた人垣に導かれた先に、数人の男と、その傍らで気を失っている人形のような少年と、
血だまりがあった。
「CCC嬢か」
 血だまりに片脚を浸した男が振り返った。数日前の晩も同じような出会い方をした男だ。
 自警団の事実上のリーダーである。
 しかしカイナは、カゼルの顔など捕らえない。視線は血だまりの中心に縫いとめられて、動かせなかった。
「なに、これ」
 ぼろっと零れ落ちた言葉を、カイナは他人事のように聞いた。
 唇の端が強張って、上手く喋れない。ひきつっているような気がする。
 自発的に瞬くことを忘れた双眼が、水分をもとめてちりちりと痛んだ。
「てめぇら一体何してやがる」
 野太い怒号が背後から突っ込んできた。再び閉じた人垣を乱暴にかきわけて、両腕に紙袋を携えた巨漢が、氷像のように固まっているカイナの傍らに立った。そして、唖然と息を飲む。
「”じいさん”」
 呟いて、蠍も絶句した。
 血だまりの中心に横たわっているのは、小柄な老人だった。
「残念なことだが」
 沈痛な面持ちで、カゼルが口を開いた。
「彼も悪魔の犠牲に―――」
 言葉は途中で途切れた。小さな体が突っ込んできて、カゼルの胸倉を掴み上げたからだ。
「じいちゃんがあんたに何したっていうの!」
 吸血鬼は人を襲うことによって仲間をつくる。噛まれた人間は、”運がよければ死ぬ”。そうでなければ仲間になるのだ、というのが定説ではある。
 しかしアルマロスにおいてそれは、自警団が貴族たちを攻撃するための大義名分でしかなかったはずだ。
 ハマエルが吸血鬼に襲われて仲間になり、ひとびとを襲った?
 そんな話が信じられるものか。
「かわいそうに」
 カゼルはゆっくりと目をほそめた。瞳に同情を滲ませる。
「見てごらん、彼の首筋を」
 血だまりに横たわる老人を、カゼルは指差した。
 示されるまま、カイナは顔をそちらへ向ける。
 年輪のような皺が刻まれた首筋に、くっきりとふたつの丸い痕がある。
「だからなんだって言うの!」
 カイナは噛み付いた。
 噛み痕が遺された死体が見つかったのも事実、身なりのいい亡霊の噂が立ったのも事実、しかし吸血鬼化した没落貴族がひとびとを襲うなどという事実は確認されていない。
 自警団は貴族出身者ばかりを選んでは殺している。いくら鬱屈が溜まっていたとしても、やりすぎだ。おかしい。
「みんなじいちゃんが誰かを襲うのを見たっていうの!?」
 人波が動揺したように揺れた。困ったように互いの顔を見るばかりで、意見をいうものはいない。
「俺たちに、毎日悪魔に怯えて暮らせっていうのか」
 カゼルの傍らに控えていた男が割って入った。苛立たしげに、カイナの細い腕をカゼルの胸元から引き剥がす。男の胸元にも、自警団の構成員であることを示す羽飾りがへばりついている。
 逞しい腕が、後ろからそっとカイナを引き寄せた。気づけば、蠍がすぐ傍にいる。
 ここのところ、自警団の男どもは気が立っている。小競り合いを起こすのが賢くないということを、カイナも重々承知している。承知しては、いるが。黙っていろというのか。
 しかし蠍はめずらしく、きびしい目をしていた。その瞳が現状を受け入れているわけではなく、苦々しい色で満ちているのを見て取って、カイナも咽喉元まで出かかったたくさんの罵声をなんとか飲み下す。
 爪が食い込むほどに拳を握り、きつく目を瞑る。大きく息を吸い込み、吐き出した。
 ゆっくりと閉ざした瞳を開き、カイナは一歩を踏み出した。ひたひたと寄せる、まだ新しい血だまりのほうへ。
 数日前までかくしゃくと元気だった、うつくしい眼差しを持つ老人のもとへ。
「お、おい! こういう死体は全部自警団が管理す―――」
 カイナをリーダーから引き剥がした男が慌てて少女の肩を掴んだ。瞬間。
 低い呻き声が上がる。男はよろめくように後ずさると、その場にうずくまった。
 腹部を押さえて、激しく咳き込む。
 みぞおちに肘鉄を打ち込まれたのだということに、本人はおそらく気づいていないだろう。
 それほどに少女の動きはすばやく、迷いがなかった。
 悶絶する男には目もくれず、カイナはハマエルの体に歩み寄った。汚れも厭わず、血の海に膝をつく。
 すっかりと血の気を失った肌に触れると、もう既に熱はうしなわれていた。
 ふと、真上から影が落ちた。横手から、逞しい腕が伸びる。
「俺が運ぶ。おまえはあのガキを背負って来い」
 右肩に、蠍の刺青を持つ男だった。青い双眼に、深い哀悼の色がにじんでいる。
 口を開けば泣き出してしまいそうで、カイナは無言で頷いた。
 視界の端で、ぐったりと気を失っている十三、四ほどの少年に視線を移す。
 こめかみあたりに血が滲んでいる以外、外傷はなさそうだ。
 陽光を跳ね返す白っぽい金髪に、つくりもののように整った顔立ちの少年だった。肌は透けるほどに白く、体は華奢で、このあたりの子どもとはとても思えない。
 自警団は、もはやカイナの動きを阻もうとはしなかった。
 ぐったりとして重い少年の体をなんとか背負うと、気まずそうに沈黙する人垣を抜けて、イシスの診療所へと足を向けた。


            *


 泣き腫らした目を擦りながら、カイナはゆっくりと歩き出した。
 イシスの診療所は街のはずれにあり、ここはその裏手にある丘だった。
「この間の晩に、じいちゃんがさ」
 砂っぽい風が、連れ立って歩く女ふたりの髪を乱暴になぶる。
「気をつけてお帰り、って言ったんだ。なんだかすっごくくすぐったい気分になってさ。あたし、父親も母親も子どもの頃に死んじゃったし、おじいちゃんとかおばあちゃんとか、そういうのに憧れてたのね。だから」
 じんわりと視界が滲む。せっかく止まった涙がまたこみ上げてくるのを感じる。
「だから、うれしかったんだ」
 声が不自然に揺れた。カイナはうつむいて、小さく鼻をすする。

 カイナが育ったのは、アルマロスからは随分と離れた、田舎の村だ。
 ろくでなしの父親とやさしかった母親を失ったあと、こじんまりとした教会に引き取られた。
 育ててくれた神父夫妻や周りの人間は、勿体無いぐらいの愛情をカイナに注いでくれた。
 本当の家族だと、今でも思っている。かけがえのない、大切なものだ。
 さびしい思いをしたことはない。あたたかい愛情に常につつまれていた。恵まれていると思う。
 自分を不幸だと憐れむこともなく、愛情に餓えることもなかった。
 けれども、祖父母というものへの憧れは強かった。
 老人といっても実際の親戚とはすっかり縁が切れてしまっていたし、教会を訪れるのは敬虔な信者ぐらいで、長い時間を共に過ごしたことがない。
 知識があり、経験豊富であり、口煩くはあっても愛情を持って諭してくれる。ハマエルは、カイナの理想の祖父像だった。
 生まれた村を出て、腕一本で荒野を渡り歩く。自分の面倒はある程度自分で見ることができる。一応、一人前のつもりだ。
 けれども、ハマエルと話すときは何故か、随分と子どもっぽくなっていることに気がついていた。
 甘えていたのかもしれない。

「ハマエル翁は高潔な人間だった」
 イシスは苦味を堪えるような顔をした。
「残念でならんよ」
「じいちゃん本当に吸血鬼になってたのかな」
「それについては」
 イシスの右手が裏口の扉にかかる。
 まるで焦らすかのように立ち止まり、わずかにカイナを肩越しに振り返った。
「話さなねばならんことがある。聞かねばならんことも」
「聞くって、なにを」
 自分にだろうか? この件についてカイナは何も知らない。
 ずいぶん間の抜けた顔をしていたのか、イシスが口の端で笑った。
「おまえにじゃない。猪突猛進な子猫殿にさ」
 頭の上に疑問符を浮かべるカイナには構わず、イシスは診療所の扉を押し開く。
「触れるな!」
 途端、鋭い叫びに出迎えられた。
 未だ幼い声は、金属質で耳ざわりだ。
「俺だってな、触りたくて触ってるんじゃねぇんだぞクソガキ!」
 野太い怒号も聞こえてきた。イシスは思わず片手で顔を覆う。
「ガキふたりを置いていくんじゃなかった」
 げんなりと吐き出して、闇医者は大股に処置室に歩み寄った。白いカーテンで区切られただけの空間へ、割って入る。
「騒ぐなガキども、ここは一応病院だよ」
 カーテンを勢いよく引いたその先は、ごくごく普通の診察室だった。
 医者用の机と椅子、薬棚、壁際に寄せられたベッド。シーツやカーテンは病的に青白い。消毒液の臭いに満ちている。まさに病院以外のなにものでもない。
「だってこいつがよ!」
 清潔なシーツとはまったく相容れない大男が苛立った声を上げる。ベッドから飛び出そうとしている小さな影を押さえ込んでいるところだった。
 運び屋の逞しい腕に押さえ込まれた少年が、恨めしそうにイシスを睨んだ。
「学習能力のないガキに睨まれたって、痒くもないね」
 ベッドに歩み寄り、女医は愛らしい顔立ちの少年を見下ろす。
「何度目だい、お坊ちゃん」
「っ、誰も世話をしてくれなどと頼んではいない!」
「そうかい」
 イシスは鼻で笑った。
 蠍に比べれば枝のように細い腕が、少年の手首を無造作に掴み上げた。一流の人形師が技術のすべてを注いで作り上げたような顔が、苦痛に歪む。
「大きな口叩くじゃないか、体も満足に動かせないチビが」
 ぐっと身をかがめ、少年の碧眼と眼差しを合わせる。
「自分の限界を見極めな。何でも出来ると自惚れるなよ。無理をとおして自滅するのはただの阿呆だ。出来ることと出来ないことを知って、その内側で最善をつくすのが、大人ってものなんだよ」
 イシスは強く引き寄せた腕を乱暴に突き放した。苦痛のうめきが少年の咽喉からこぼれる。
 壁に背を預け、肩を震わせて呼吸をととのえる。無意識の産物なのか、片手で右腕を庇っていた。
「まずは、世話になった人間に”ありがとう”ぐらいは言えるようになりな」
 傲然と腕を組む闇医者から、少年はあからさまに顔を反らした。
 一向にあらためられる様子のない態度に、イシスは肩をすくめる。
「やらなければならないことが、あるのに……!」
 ならず者たちから顔を背けたまま、少年はうめくように零した。
 手負いの獣だ。めいっぱい外敵を威嚇している。かたくなに心を閉ざしている。
 痛々しさすら感じて、蠍は少年から目線をはずした。
 イシスは神聖な診察室でさも当然であるかのように煙草に火をつけている。
「話があるんじゃなかったのか」
 そちらを振り返り、運び屋は闇医者を促した。
「気が進まなかったが、ハマエル翁の遺体を解剖した」
 紫煙と共にイシスが吐き出した。診察室の空気が一瞬こおりつく。
「おかしいと思ったことはないか。自警団の奴ら、吸血鬼と烙印を押した死体を頑なに自分たちだけで処理していた。一度だって医者の触れる余地なんかなかったんだ。安全のためとは聞こえがいいが、いささか常軌を逸している」
「言われてみりゃ、おかしいかもな。何か出たのか」
「薬物反応が出た」
 少年の瞳がイシスをとらえる。反射的な行動だったのか、すぐに顔をそらした。
「死因は、薬物中毒によるショック死で、ほぼ間違いないだろう。吸血鬼らしくない死に方だと言わざるをえないな」
「じいちゃん、ドラッグなんかやるはずないよ」
「ドラッグを使って殺されたのさ。おそらくは、”首から動脈に抽入された”んだ」
 強風が、眼前にたちこめていた霧を吹き飛ばした。
 なにかが、繋がった。
「確かか」
 するどく蠍が問う。
「確証はないが、わたしは自分の直感を信じるよ」
「クリストファ伯は……」
 変声期も迎えていないあどけない声が割って入った。
「化け物になど、なってはいなかった」
 驚いて、カイナは声の主を見る。
 相変わらず壁に背を預け、右肩を庇ってはいるものの、少年はつよい目をしていた。
 違和感に戸惑う。初めて彼を見たときと、何かが絶対的に違っている。
 不自由もなく育ったであろう特権階級の少年は、あいかわらず女とも見紛ううつくしい顔立ちをしているのだが、”つくりもの”だとは、もう思えなかった。
 目だ。
 爛々とひかっている。
 虎視眈々と獲物を狙うけだもののような輝きだった。
「クリストファ伯って、ハマエルじいちゃんのこと?」
 少年はゆっくりと刻み付けるように頷いた。
「彼は昔、父が懇意にしていた聖都の貴族だ」
「聖都……」
 遥か遠くの大都市を思い浮かべた。王城があり、議会と教皇庁があり、十五年前まではすべての文化と権力の中心だった。
「お前はその、”クリストファ伯”に用があってわざわざこんな辺境まで出かけてきたのかい」
 少年の首が、今度はゆっくりと横に振られた。
「僕は―――」
 逡巡するように一度うつむいて、それから少年は顔を上げた。
 鋭く潔い眼差しを、一同に向けた。

「僕は、マテイを探しに来た」



5.

 ルミアル・ファレグ・ガリース・ラヴァル。
 少年はそう名乗った。
 長い名前にカイナがむずかしい顔をするので、「ルミアルでいい」と投げやりにつけくわえた。

「おまえ、本当に賞金稼ぎなのか」
 日も暮れ、人気のなくなった路地を繁華街から反対方向へ向かう。酒瓶や硝子が散乱する道を、カイナは躊躇いなく進んでゆく。置き去りにされぬため、ルミアルは自然、早足になった。
 準備があるので一度家に戻ると言い出したカイナについてきたのだった。
 こんな場所に家などあるのだろうか。宵の口を迎えて活気付いている街に背を向け、どんどんと人気のないほうへ向かっている。
 ぐるりと周囲を見回せば、廃墟やみすぼらしいアパートメントが建ち並んでいる。
 聞けば、旧市街だという。
「人を見かけで判断しちゃいけないって教わらなかった?」
 振り向きもせずに、カイナは歩きづらい道をさくさくと進んでゆく。
 人は見かけでは判断できない。そのことぐらいルミアルは知っている。けれどもあまりに不似合いすぎた。
 年の頃は十七八の、小柄で細身の女。言動にはまだどこか子どもっぽいところが残されている。
 賞金稼ぎといえば、腕っ節が必要になる。荒くれ者と対峙しなければならない。
 賞金首になるようなならず者と互角に争えるとはとても思えなかった。
 普段ならば、どれほど他人が虚勢を張ろうが嘘を並べようが構いはしないルミアルだが、今回ばかりは話が違う。自分に影響が出る。ゆえに慎重になっていた。

 ふと、カイナの足がとまった。
 三階建ての、コンクリートで造られた四角い建物。上方を見上げると、通りに面した硝子は粉々に割れて、窓の役目など果たしていないように思われた。無事なのは一階だけだ。
 まともな人間が住むような場所ではない。ましてやルミアルのような上級貴族は。
 ただの廃墟ではないか。
 少女の傍らに立って、ルミアルは不安げに同行者を見上げる。
 まさかここが家だなどと言い出すのでは。
 ルミアルの怯えた目に、何故かカイナは勝ち誇ったような笑みをこぼして、金属で出来た扉を押し開いた。
 錆びた金属特有の軋みをたてて、扉が開く。
「せ、施錠はしないのか」
 開かれた隙間から室内に踏み込むカイナに、ルミアルは目を瞠る。
「ん? ああ、いいのいいの、普通は入ってこられないからさ」
 何がなにやら分からなくなった。混乱をもてあましながら、ルミアルはカイナにつづく。
 とても人が居住するような空間とは思えなかった。まず、狭い。領内にある別荘の玄関の半分ほどもない。更には横倒しになったテーブルや椅子や棚などが散乱し、床は足の踏み場もないほどだ。
 暗がりの中でもつまずかず、カイナは器用に部屋を横切る。壁際で唯一まともに立っている食器棚の抽斗を、無造作に引っ張った。
 じゃりじゃりと靴と砕けたガラスが擦れる音を聞きながら、ルミアルはやっとのことでカイナの傍までたどりついた。横から、抽斗を覗きこむ。
 ふつうの抽斗ではなかった。
 底面にまるで電卓のような数字のボタンが並んでいる。
 厚みのないボタンの上で、カイナの指がなめらかに踊った。ボタン全体が一瞬、緑色の光を放つ。すると、食器棚の右隣の壁に鋭利なカッターで引いたような線が現れ、そのまま真横に”開いた”。
「光栄に思ってね」
 抽斗を押し戻しながら、カイナは呆然とする少年を見下ろした。
「あたし、家に男を連れ込むの、初めてなの」
 いたずらっぽく笑って、賞金稼ぎはくっきりと長方形に空いた穴へと歩き出す。
「ロ、ロストテクノロジーか?」
 思わず声が上ずる。隠し通路から先はくだりの階段になっていた。通路はほそく、圧迫感がある。
「そこまで大袈裟なものじゃないよ。聖都にもあるんじゃないの?」
 ルミアルが両手で壁を探りながらでなければ足元が覚束ないのに対して、さすがねぐらにしているだけはある。カイナはためらわずに靴音を響かせて着実に地下に歩を進めている。

 高度なコンピュータ技術は、遥か太古に失われている。
 今現在は、世界各地に点在する遺跡から発掘した技術を研究し、解明したごく一部を、日常生活に流用しているのみだ。
 セキュリティロックは、中央では随分と実用化されてはいるが、このような辺境で見るとは思わなかった。
「おまえ、一体なにものなんだ」
「だから、賞金稼ぎだってば」
 最後の一段を降りきって、カイナは溜息と共に振り返った。
「それにさっきからおまえおまえって。あたしにはちゃんとカイナって名前があるんですけど!」
 ルミアルはついと視線を逸らす。
「妙な名前だ」
「あっ、そう」
 苛立ちをこめて呟き、カイナはつきあたりの扉を向こう側へ押し開けた。
 やわらかいオレンジ色の光がほんわりと溢れ出した。だが、闇に順応していた目にはそれすらもまぶしい。ルミアルは思わず両目をつぶった。
「本名は結構まともなんだけどね」
 カイナの声が移動している。そろそろと目を開くと、小柄な背中が室内にすべりこんでゆくのが見えた。
「本名? カイナというのは偽名か」
 ものの少ない部屋だった。
 テーブルが中央にひとつ、奥の壁際に寄せられたベッドがひとつ。入り口のすぐ右手には流し。左手側の壁にはカイナの背丈よりも高い戸棚がひとつ。戸棚の傍に、別の部屋に通じているだろう扉があった。
 片付いているといよりも、ものがないという印象だった。
「ま、偽名って言ったら偽名かもしれないけど。今名乗ってるほうが大事なんだ。血の繋がった親がつけてくれた名前にはいい思い出がないからさ。酔っ払ったら暴れる親父が、怒鳴りつけるときに必ずあたしの名前を叫んでたから、昔の名前で呼ばれると、どうしても背筋がぞくっとするんだ」
 羽織っていたジャケットをベッドの上に放り出し、カイナは戸棚に歩み寄る。
「今の名前は、あたしを拾ってくれたひとがつけてくれたものでね。こっちの名前はすごく大事。誰に呼ばれても平気。胸張ってられる」
「例の、育て親、か」
 入り口で立ち止まっているルミアルを振り返り、カイナはすこしだけ苦笑して、「まぁね」と呟いた。

 
           *


「マテイ?」
 ときは、数時間ほど遡る。
 煙草を唇に挟んだまま、イシスが鸚鵡返しにした。
「なんだそりゃ」
 蠍がいぶかしげに眉間に皺を寄せる。
「この街の地下にあると聞いている。貴族専用の収容所だ」
 現地住民たちは顔を見合わせた。そんな話は聞いたことがない。
「貴族の収容所だって? 貴族は何か起こしても、大概が金を払えば許されていたんじゃないのかい? 今はどうだか知らないけど」
「ふつうの収容所ではない。身分の違うものと交わったものを強引に連行していたんだ。公に認められた存在ではなかったから、皆ただの噂だろうと思っていたが……」
 ルミアルは瞳の力を翳らせてうつむいた。
「噂ではなかった、ということか」
 診察机の上に鎮座した硝子の灰皿に煙草を押し付け、イシスは最後の紫煙を細く吐いた。
「それにしたって、選民思想も極められたりだね、身分違いの色恋は罪か。尊い血筋に下賎のそれが混ざるのは許せないって?」
「皆が皆、それほどまでに偏狭なわけではない!」
 噛み付く勢いでルミアルが顔を上げた。
「一部の過激派の意見だ」
 ルミアルの潔癖な眼差しを見詰め返し、イシスは小さく肩をすくめる。
「それにしても、マテイとは厭味な名だな。伝承によれば、七層ある天界の第五層、禁を犯して人間と交わった、グリゴリたちの牢獄じゃないか」
 グリゴリは、神に背き、人々に智恵を授けた天使と定義されている。
 彼らは人間の娘と交わったことにより断罪され、天界に幽閉された。
 天界とは名ばかり、果てなく荒野がつづき、火の柱がそびえたち、グリゴリたちは永遠の苦しみを与えられつづけている。
「そんなものがあるなら、噂ぐらい流れてきそうなものだがな。そんな情報、どこで拾った」
 ガセではないのか、と暗に言っていた。
「考古学を生業にしている男に聞いた。アルマロスの地下には太古の遺跡があると。おそらくマテイはそこなのだと」
「信頼できる筋なのか」
「既知の男ではなかった。だが、考古学の知識は並外れていた。世情にも詳しい様子だった。何よりも―――マテイの情報を得たのはそれが初めてだった」
 たとえそれがガセネタであろうとも、縋らずにはいられなかった。
 どうしても謎の収容所を発見しなければならなかったのだ。
 なぜならば。
「僕は姉上を連れ戻さなければならない。嘘偽りかもしれない、だが可能性があるならそれに賭ける」
 ルミアルの澄んだ碧眼には悲壮な決意すら滲んでいるように見えた。
「その男に、CCCを探せと言われた」
 蠍とイシスは、一斉に小柄な少女を振り返った。
「中央にも名が届く賞金稼ぎだと。―――知っているのか?」
「知ってるも何も……」
「どんな奴だった」
 蠍の言葉を遮って、カイナは大股にベッドに歩み寄った。
 鬼気迫る勢いでルミアルの肩をつかむ。途端、全身に電流のようにめぐった痛みに、ルミアルが顔をしかめた。
「め、珍しい容姿の男だった。黒髪に赤い瞳の」
「名前は!」
「シラギと。それだけしか聞いていない!」
 ルミアルは強引なカイナの腕を払い除けた。
 活き活きと、万華鏡のように変わるカイナの顔から、表情が消えた。
 振り払われ宙に浮いた右手もそのままに黙りこむ。しばらく視線を彷徨わせ、何かを嚥下するように一度双眸を閉ざした。
「―――分かった。その話、乗る」
 カイナは踵を返し、貴族の少年に背を向けた。
「準備するものがあるから、一端家に戻る」
 横顔は、きびしかった。
 夜を溶かし込んだような漆黒の瞳に、揺らがない決意が宿っている。
「どういう、ことだ」
 唐突にあの女の態度が変わったのは何故なのか。
 答えを求め、ルミアルの視線が運び屋と闇医者の間を彷徨った。
 イシスは露骨に視線をはずし、蠍はわざとらしくこめかみを掻いた。
「あー、別に口止めされてるわけじゃねぇんだがな。堂々とバラすのもな……」
 カイナの気配が完全に消えてから、大袈裟な咳払いをひとつ、蠍は少年に背を向けた。
「俺はこれからひとりごとを言うからな。ひとりごとだ」
 何故か野太い声で発声練習をしてから、蠍は堂々と独白した。
「アルマロスを根城にしているCCC嬢は、ガキの頃自分を拾って世話してくれた育て親を探している。数年前から音信不通だって言ってたっけな。そしてそいつは、黒髪に赤い目らしい」
 蠍は何故か胸を張って振り返る。
「ひとりごとは以上だ」
「不器用な男だねぇ……」
 イシスが深々と溜息をついた。
「とまぁ、あんたが探してるCCCはあの騒がしい娘だよ。信じる信じないは、あんた次第だけどね」
 少年は、狐につままれたような顔で幾度かまばたいた。
 含むような顔をして、蠍が入り口を顎でしゃくる。
 表情をひきしめ、ルミアルはベッドを飛び出した。


            *


「姉さんかぁ、どんなひとだった?」
 戸棚を開き、一抱えほどの箱を取り出しながら、カイナはルミアルを振り返った。
 木製の箱は金の装飾で縁取られ、殺風景な部屋には不似合いなほどうつくしい。
 両腕で重たそうに抱え上げ、部屋中央にある簡素なテーブルに乗せる。
「姉上はおやさしい方だった。年が離れた僕を随分と可愛がってくれた」
「ふうん」
「何だその顔は」
 にやにやと自分を見下ろす賞金稼ぎに、ルミアルは口をへの字に曲げた。
「ううん、お姉さんのことだいすきなんだな、って思っただけ。嬉しそうな顔してたからさ。いいなぁ、わたしも姉さん欲しかったな」
「兄弟はいないのか」
 口にしてから、慌ててルミアルは口元をおさえた。
 彼女は拾われ子だったのだ。
「いるよー。弟がひとり」
「え?」
「血は繋がってないんだけどね。あたしを育ててくれた教会の息子。あんた見てると思い出しちゃうのよね。どっちも女の子みたいな顔してるから」
「貴様、僕を侮辱しているのか」
「は? なんで?」
「女のような顔だと言われて誰がよろこぶか、馬鹿者」
「いいじゃないのよ別に。かわいいほうが絶対得だってば」
「だからうれしくないと言ってい……なんだそれは」
 大雑把なカイナが、いつにない慎重さで箱を上にひらく。溢れ出したまばゆい輝きに、ルミアルは悪態を飲み込んだ。
「備えあれば憂いなしって、言うでしょ」
 壊れ物を扱う手つきで、カイナは厳重に保管されていたそれを手にとった。
 黄金色に輝く銃身があらわれた。
 目を眇め、すみずみまで眺めてから、腰にまとわりついた頑丈なベルトの一部に押し込んだ。
 箱の中に手を差し込み、今度は銀色の銃身を引きずり出す。
「これは、神父がわたしに持たせてくれたお守り」
 なめらかに輝く銀の銃身を、カイナはいとおしそうに撫でた。
「あの馬鹿を絶対に引きずって帰ってやるんだから」
 きりりと表情をひきしめて、二丁目のピストルもホルスターにしまいこんだ。
「交換条件だからね。マテイ探索に協力するから、その考古学者のこと教えてよ」
 ルミアルは呆気にとられた。
 自分とほとんど身長も変わらぬような女だ。体格にめぐまれているわけでもない。むしろ貧相なほうだ。
 しかし、最前までとは何かが明らかに違っていた。不安にはならない。
 武装しただけだというのに、ただの少女は賞金稼ぎの顔になっていた。
「わ、分かっている! 支度が済んだなら、さっさと行くぞ」
 ルミアルは大声を出した。そのままくるりと踵を返し、部屋を出てゆく。
 すっかりとカイナに目を奪われていた自分に、送れて気がついたのだった。気恥ずかしさと腹立たしさがない交ぜになっていた。
「ちょっと何よ! あてがあるの?」
 いきなり背を向けたルミアルを、カイナは追った。
「あの男だ」
 地上へ続く階段へ足をかけ、ルミアルは腹の底から憎々しげに搾り出した。
「クリストファ伯を殺した、自警団とやらを仕切っていた男だ」
「……カゼル?」
「僕たちから姉上を奪ったのは、―――あの男なんだ」



6.

「あの男、姉上と共にマテイに連行されたはずだったんだ」
 最小限に声をひそめ、ルミアルが切り出した。
 ところはアルマロス郊外。住宅地を抜けたさらに向こう。外壁に程近い場所だった。
 辺境警備という名目で、自警団はこのあたりに本部を設置している。
 しかし考えてみれば妙な話だった。
 ひとびとは熱に浮かされていたから気づかなかったかもしれないが、本部は住宅地に近いほうがいいに決まっている。何故彼らはこのような街外れに本部を構えたのか。
 本部の入り口が見える、細い路地にふたりはいた。
「姉さんをたぶらかして一緒に捕まったはずの男が五体満足に自警団のリーダーなんか張ってる、か。確かに怪しいな。でもルミアル、あんたなんであの場にいたわけ?」
「あの場?」
「だから、ハマエルじいちゃんの」
 カイナは途中で言葉を切った。まだすべてを口に出せるほど、消化できたわけではない。
「……街で、お前に関する情報をあつめていた」
 気まずそうに、ルミアルも目を逸らす。
「人ごみのなかでクリストファ伯を見かけて、僕の知っている姿とは随分違ったからな、確証が持てずに追いかけたんだ。途中で人波にもまれて見失って―――あの路地に出たときには、クリストファ伯はもう倒れていた。割って入ろうとしたら殴られてな」
「そっか……」
「もっと早く辿りつけていたなら」
 ルミアルが形の良い唇を噛む。
「あんまり、変わらなかったと思うよ」
「それは! 僕が子どもだからか!」
「違うって!」
 かんしゃく玉のように爆発したルミアルの口を、カイナが覆った。
「あいつらは集団で動いてるんだ。何の目的があるのかは知らないけど、自警団の大部分はこの街の男で、自分たちで街を守ることに誇りを持ってるんだ。だから迷いがないんだよ。 正義感に溢れてるんだから。たとえ大人だってさ、単身で飛び込んでいったら敵わないよ。……あんたのせいじゃないんだってば」
 口元を押さえられてもがいていたルミアルが、しゅんと静まった。
 そっと、口元を覆っていた手を離す。
「父が亡くなれば、次の領主は僕だ」
 体の両脇で拳をきつく握り締め、ルミアルはうつむく。
「ラヴァル家は未だ、領地とむすびついて、貴族であることをゆるされている。領民も我々を立ててくれている。だから僕は、領地の人々を守らなければならない。貴族は搾取してふんぞり返る位ではない。いざというときに自らの持てる力のすべてをもって、民を守る存在なのだ。僕は……姉上が館から連れ去られるのを見ているしかできなかった。僕が幼いから、弱いから奪われる! これ以上黙って見ているのは嫌だ!」
「自分の限界を知ること」
 路地からわずかに顔を出し、カイナは本部の入り口をうかがった。
「先生も言ってたでしょ、無理してぶっ倒れたら意味がないんだって」
 カイナの左手が、うつむくルミアルの頭を乱暴に撫でる。糸のように細い金髪が、さらさらと指に絡んだ。
「それってさ、安全に自分の足元守ってろって意味じゃないんだよ。自分の出来る手段で、出来る限りのことをするってこと。力で敵わないんだったら、他の方法考えるしかないでしょ。正面突破がいつだって正しいわけじゃない」
「カイ……」
「うまく口裏合わせてね!」
「お、おい!」
 引き止める腕もむなしく、カイナは路地から飛び出している。
「たすけてぇ! 吸血鬼がぁ!」
 悲壮な絶叫が静まり返った街外れに響き渡る。
 腹をくくって、ラヴァル家の後継ぎは本部に駆け込んだ賞金稼ぎの背を追った。


 大声に、本部に待機していた自警団のメンバーは外に転がり出た。
 駆け寄ってくる小柄な少女に目をしばたく。
「CCCじゃないか……!」
 その後方からも息せき切らした少年が駆け寄ってくる。
「西門! 西門に……」
 華奢な少女が倒れこんでくるのを受け止め、当直であったパン屋の息子は、ちょうど反対側の西門方向を仰ぎ見た。
「応援呼んで来いって言われて、あたし、一番足が速いから、だから……」
 いつも肩で風を切ってアルマロスを闊歩している賞金稼ぎが、怯えきった様子で息を切らしている。
 普段は自警団を目の敵にしているようなCCCでさえすくみ上がらせるとは。なんという化け物なのか。やはりこの街は自分たちが守らなければならない。
「分かった。すぐに行く」
「ありがとう。南の詰め所にも、行かなきゃ……」
「頼む。お前ら行くぞ!」
 各々得物を手に取り、男どもは西門の方向へ駆け出してゆく。
 あとにのこされたのは、がらんと無人になった本部のみ。
「……あっけないな」
 男どもが走り去った方向に舌を出しているカイナに、ルミアルは歩み寄った。うまく行き過ぎた。これでは拍子抜けしてしまう。
「言ったでしょ、基本的にあいつら、いいやつなのよ」
 先程までの名演技はどこへやら、カイナはすたすたと無人になった本部に向かう。
「別に軍隊でも何でもない。純粋に街を守りたいだけ」
 戸締りもなにもあったものではない。開け放たれたままの本部に踏み入る。
「だから、裏で操ってる人間がいるなら、許せない」
 本部内部は閑散としていた。
 自警団本部と大層な名前が掲げられていたところで、特になんの仕事があるわけでもない。定刻におこなわれる見回りと、交代の当直ぐらいだ。
 壁一面に貼られたアルマロス全体の地図。それのところどころに赤いペンでつけられた印。
 中央に据えられたテーブルに投げ出された書類ばかりが、作戦本部らしさをかもし出していたが、床に転がった酒瓶がそれを台無しにしている。
「何もないわね」
 地図の前に立ち、腰に両手を当ててぐるりと室内を見回す。
 件のテーブル、床に転がった空き瓶、壁際に据えられた本棚。それ以外は何もない。
 ルミアルはこのような庶民の居住空間がめずらしいのか、うろうろと歩き回っては、さまざまなものを吟味している。本棚につめこまれた書籍の上にはうっすらと埃がつもっていて、汚れた指先にげんなりと嘆息した。
「ちょっと待った!」
 本棚から入り口の方へ移動する少年を、カイナがきびしく呼び止めた。
 一歩を踏み出したままの体勢で、ルミアルはぎくりと立ち止まる。
「半歩、後ろにもどって」
 有無を言わせぬ強い口調に、言われるがまま本棚の前へ後ずさりする。
「もう一回、一歩前へ」
「な、なんだ一体」
「いいから!」
 渋々、一歩前へ出る。足元で木の床がきしんだ。
 むずかしい顔をして、カイナがテーブルを迂回して近づいてくる。
 本棚の前にしゃがみこんで、指の骨で床を何度か叩く。
 今度は顔が汚れるのも構わずにぺったりと耳をつけた。気でも狂ったのだろうか。
「この下、空洞がある」
 男どもに踏みしめられた床に耳をつけたまま、カイナが上目遣いにルミアルを見た。
「馬鹿な。床に継ぎ目などどこにもないぞ」
 こんなに分かりやすい場所ならば、すぐにばれるではないか。
「多分なにか仕掛けがあるんだ。そんなにむずかしいものじゃないと思うんだけど……」
「おい、本部のドアが開いてるぞ!」
「畜生あいつ、ぶっとばしてやる!」
 荒々しい男の濁声が近づいてくる。地を揺るがすような足音が複数、こちらに向かってきていた。
「うわ、ヤバッ! もうちょっと持つと思ったのに!」
「だからあんなお粗末な作戦では」
「そんなこと言ってもしょうがないじゃない! どこか、どこか隠れるところ……」
「この部屋の何処にそんなものがあるんだ!」
 ルミアルが、埃の積もった本の背に、苛立ちに任せて拳を叩きつけた。
 やっぱりこんな賞金稼ぎなど、信用するべきではなかった、と自分の失策を悔やんでいるそのときに。
 足元から床が消えた。
「え」
「あれ」
 本当に呆気にとられたときには、声すら出ないものだということを、ふたりは体で知った。
 床というささえを失い、重力に導かれるままに落下する。
 ぱたん、と頭上で何かが閉まるような音。それとともに明かりがうしなわれ、周囲は完全な闇に包まれた。
 しばらくして。
 にぶい音と共に、ふたりは冷たく硬い場所に落下した。
「いたーい!」
 もうもうと上がる土ぼこりのなか、カイナの絶叫が周囲に反響する。響き方から考えて、随分と高く広い空間のようだ。
 ルミアルは、したたかに打ちつけた背中を擦りながら、やっとのことで上体を起こす。

 ―――なんだ誰もいねぇじゃねぇか。
 ―――くそっ、逃がしたか! 今度見つけたらただじゃおかねぇ!

 はるか頭上から、苛立った男どもの声が降ってくる。
「なんていうか、超古典的っていうか……」
 腰から落下したらしい。ズキズキと痛む腰を押さえて、カイナは立ち上がる。
 頭上を見上げると、うっすらと四角の形に光が漏れてきている。随分と高い。打撲で済んだだけ、ラッキーと言うものだろう。
「……ここに梯子があるぞ」
 周囲の壁をぺたぺたと触っていたルミアルが、カイナに批難の眼差しをむけてくる。
 見ればなるほど、落下した穴のあたりからここまで、縄梯子が設置されていた。落とし穴などではなく、ちゃんと入り口として機能しているようだ。
「仕掛け動かしたのはあんたじゃない」
 不可抗力というものだ。自分ばかりが悪いように批難されるのは納得できない。カイナは唇をとがらせる。
「大体おまえには計画性というものが―――」
「おや、仲間割れかな? うつくしくないね」
 一条の強烈な光が横合いから飛び込んできた。人工的な、闇を照らすためにつくられた光だ。
 唐突に照らされたライトは無遠慮にも、カイナの顔を舐めてゆく。闇に適応しかけた瞳孔が、対応しきれずに痛みを訴えた。
 聞き覚えがある声だった。
「正直君がここまでくるとは思わなかった。甘く見ていたよ、申し訳ない」
「お出迎えはありがたいんだけど、礼儀がなってないんじゃない? まぶしいんだけど」
 光を遮るように片手をかざす。注がれる光の向こう側から、かすかに笑う声が届いた。
「これは失礼。だが君だって不法侵入だよ、CCC―――カイナ・シラギ・クレスタ嬢」
 ゆっくりと、光が顔からはずされる。カイナの体を舐め下ろし、今度は頑丈なブーツを照らし出した。
 硬いコンクリートの床に踵を打ちつけて、男が現れる。見覚えのある顔が、見慣れない恰好をしていた。
 自警団のリーダーを張る男は、何故かまっさらな白衣を着ていたのである。
「なにそれ、何のつもり」
 思わず笑ってしまった。似合わないにも程がある。
「これが僕の本当の姿だよ、CCC」
 大仰な男は、両腕を大きく広げて見せた。
「貴様っ―――!」
 傍らから弾丸のように飛び出したものがある。
 憎悪をこめた呻き声と共に、ルミアルが白衣の男に向かって突っ込んでいった。
「姉上を何処へやった!」
 未だ幼い腕がカゼルの胸倉を掴み上げる。
 カゼルは、胸元に絡む少年の腕をさもつまらないものを見るように眺めおろした。
「ああ、誰かと思えば、ラヴァル家の坊ちゃんじゃないですか、お久しぶりだ」
 カゼルはわずかに口元をゆるめる。目元にふくんだ笑みは、暖かであるとはとても言えない。
「貴様、何故のうのうと!」
 姉と共にマテイに捕われたのではなかったのか。
「やれやれ、大した嫡男殿だなぁ」
 胸倉を掴み上げられたままで、カゼルは軽く肩をすくめて見せた。
「お父上がお倒れになったと聞いていますよ。いくら安定しているラヴァル領とはいえ、貴族を取り巻く環境は決して楽観できるものではない。そんな時期に聖都をはなれてこんな辺境まで姉探しですか。アシュタロスも嘆くでしょうね」
「軽々しく姉上の名を呼ぶな!」
「君にも失望したよ、CCC嬢」
 ルミアルの頭越しにカイナを眺め、カゼルは頤を持ち上げた。
「名うての賞金稼ぎが、温室育ちの子どもの妄言にあっさりと手を貸すとはね」
「残念だけど、あたしは義賊じゃないの。自分にメリットがあると踏んだだけ。こっちだって生活かかってるんだから」
 カイナは後方に半歩脚を下げる。重心を落として、背中のほうへさりげなく手を伸ばした。
「噂の二丁拳銃―――か。だがこちらには、自分から飛び込んできた盾がある。撃とうなどとは―――」
「くっ!」
「思わぬことだ」
 早業だった。
 カゼルは自らの胸倉からルミアルの腕を引き剥がし、いとも簡単に後ろ手に捻り上げる。
「い、いいから撃て! こいつだけは許すわけには……」
 じりじりと痛みを訴える程度に腕を捻り上げられて、ルミアルは端正な顔に苦痛の色を浮かべる。
 重心を低く構えたまま、カイナはルミアルとカゼルの顔を見比べる。
 懇願するような幼い瞳がまるで刺さるようだ。だが。
 カイナは溜息をひとつ、全身の緊張を解いた。後ろに引いていた足を戻し、無言で両手を挙げる。
「おまえっ、どう……!」
「賢明な判断、だ!」
 鈍い打撃音のあと、ルミアルがくたりと脱力する。無防備にカゼルの腕に重みを預けた。
「ルミアル!」
 思わず駆け出してから、カイナは己の失策に気づいた。
 カゼルの背後から無数の靴音が迫ってきた。慣性に逆らってようやく脚を止める頃には、奇妙な服装の男どもにぐるりと周囲を囲まれている。
「いやな趣味」
 思わず笑ってしまった。
 カイナとルミアルの間には、先程カゼルが放り出したライトが転がっている。
 唯一の光源であるそれが照らし出しているのは、自警団のリーダーを自称する男の勝ち誇ったような笑みと、ぐるりと周囲を取り囲む、漆黒の軍服姿の男たちだった。



7.

 漆黒の棺が、喪服の男たちに担がれて、遠く丘を往く。
 聖都から程近い、緑の豊かなラヴァル領の、堅固な城から運び出されたその棺は、ゆるやかな丘を下って、多くの誇り高き先祖の眠る墓へ運ばれるのだ。
「泣いてはなりません」
 すぐに俯きがちになる弟の腕を引いて、うつくしい娘がひそめた声で、鋭く言った。
 十八九という頃合の娘は、黒いヴェールで覆われていようとも隠し切れない秀麗な顔立ちに、毅然とした威厳を保っていた。
 口を開けばとめどなく零れそうな嗚咽を堪えるために、幼い弟は唇を噛む。
 葬列を眺める沿道の領民たちが、うつくしい姉弟を見て目元をおさえた。
「おかわいそうに、坊ちゃまはまだ母親が恋しいころでしょうに」
「奥方はもうずっと病に臥せってらして、甘えたくても甘えられなかっただろうに」
 憐れみといたわりのこもった囁きすら、緩みきった涙腺を刺激する。
 堪えきれず咽喉を鳴らした弟の手を、姉がもう一度強く引いた。
「ルミアル」
 潤んだ両目に力を込めて、涙が零れ落ちるのを阻止する。棺と共に隣を歩む姉を、ルミアルは見上げた。
 黒いヴェールの隙間から弟を見下ろす姉のうつくしい瞳は、深い悲しみと悲壮な決意とがせめぎあって揺れていた。
「あなたは領主の息子です。民の前で泣いてはなりません」
「お嬢様、坊ちゃまはまだお小さいのに……」
 乳母が横合いから助け舟を出そうとした。ルミアルはまだ五つで、大人の葬列に遅れぬように歩くのもやっとだった。くわえて、彼の母は病弱であり、物心ついたときから既にベッドの上の住人だった。甘えた記憶がない。乳母はそんな幼子をずっと憐れだと思っていた。
 ろくにふれあいも出来ぬままに母親が逝ったのだ。子どもが母を恋しがって泣くことの、何がいけないのか。
 しかし、透き通るような金の髪を纏め上げた娘は、後ろを歩く乳母を肩越しに振り返り、きっぱりと首を横に振った。
「ルミアル、母上はあなたの前で一度でも泣きましたか」
 自分と同じサファイアの如き双眼で見詰められ、ルミアルは首を横に振って応えた。
 母はどれほど病状が悪化しても、子どもたちの前で嘆くことはなかった。
 瞳を潤ませながらも毅然と顔を上げる弟に、令嬢は目元を和らげた。小さな手をやさしく握りなおす。
「ひとは、守るべきものの前で泣いてはなりません。わたしたちは彼らを守らなければならない。今、中央の体制はめまぐるしく変わっています。皆不安なのです。特に母上は広く慕われていらしたのだから、尚更です。皆、心細く思っていることでしょう」
 わかりますね、と姉は念を押した。
「あなたは次の領主です。毅然としていなさい。その背中はわたしが支えます。どうしても泣きたくなったら、わたしの部屋においで。だから今は、泣いては駄目よ」
 姉の目も、普段に比べたら随分と水分を多くたたえている。
 かなしくないわけではない。
 つないだ手から伝わるかすかな震えが、なによりも雄弁だ。
 口を開けば泣き言が零れそうだから、ルミアルはさらに強く唇を噛んだ。
 こっくりと首を前に倒した。それが精一杯だった。
 つないだ手を解いて、アシュタロスは弟の肩を抱き寄せた。
 水気をふくんだ風が肌をゆるやかに撫でてゆく。
 そのときルミアルは、姉の前では泣かぬと決めた。
 守るべきものの前で泣いてはならぬというのならば。
 何があっても決して、姉の前では泣かぬと、きつく心に誓ったのだ。


            *


 ノックに返事がなかった。
 肉親とはいえ、女性の部屋に勝手に入るのははばかられたが、結局ルミアルは扉を押し開いた。
「姉上?」
 扉の真正面にある、庭に面した窓の前で、アシュタロスが弾かれたように振り返った。
 胸元に何かを庇ったように見えた。
「ルミアル、ノックぐらい……」
「お返事がなかったので」
 ノックはしました、とつけくわえると、アシュタロスは何故か茹で上げたように真っ赤になった。
「姉上?」
 怪訝に思って声をかけると、アシュタロスはぎこちなく弟から顔を逸らした。こちらに向けられた耳までも赤い。
「具合でも悪いのですか」
「な、なんでもありません」
 慌てて否定するほうが、よっぽど怪しいのだが。
 腑に落ちない顔で黙りこむ弟に、アシュタロスは苦笑した。大きく深呼吸をしてから、右手の人差し指を口元に当てる。
「ひみつにしてね」
 向き直った姉の左手には、手紙のようなものがしっかりと握られていた。
「わたし今、好きなひとがいるのよ」
 はにかむその表情は、まるで少女のようだった。
 ルミアルはおどろいた。まばたきを忘れた。
 そのあとに湧き出してきたのは、驚くべきことに苛立ちだった。
 今すぐに、まるで宝物か何かのようにしっかりと握られている手紙を破り捨ててしまいたいとすら思って、そんな自分にも驚いた。
 冷静に考えてみれば、姉ももう二十歳を越している。縁談の話もいくつか舞い込んできていた。
 いずれは訪れることだ。姉はいつか嫁いでゆくのだ。覚悟はできていたはずだ。
 しかし、突きつけられた現実の、なんと胸を抉ることか。
 姉がいなくなるということを認めたくなかった。
 拳を握り締めて、ルミアルはうつむいた。
「ルー?」
 ルミアルが十を越えてからはほとんど呼ばれなくなった愛称で、アシュタロスが呼んだ。
 視線を持ち上げると、叱られた子どものような顔の姉がいた。
 窺うような瞳のなかに、揺れる戸惑いを見て、ルミアルは急に情けなくなった。
 母の葬儀の日に何があっても守ると決めた姉に、ただのやきもちで怯えた子どものような顔をさせるなんて。
「なんでもありません。姉上が随分取り乱しておいでなので、面白くて」
「い、意地悪な子!」
 再び頬を真っ赤に染めて、アシュタロスは弟から顔をそむけた。


 夜半に城に忍び込んだ賊によって、眼前で姉が連れ去られたのは、それから一月も経たぬうちだった。
 姉は町の男と遠くへ逃げ伸びようとしていた。
 父は厳格だ。おそらく一般市民との婚姻など許すまい。
 手に手を取って、駆け落ちをしようとしている最中、奇妙な仮面をつけた集団にふたりとも拉致されてしまったのだった。
 漆黒の衣を纏った集団にもまれて見えなくなる姉に、必死に手を伸ばす。
 声が嗄れるまで叫ぶ。伸ばした腕は短く、服の裾すら掴めなかった。


 ―――それはおそらく、マテイの徒だな。
 ―――大きな口叩くじゃないか、体も満足に動かせないチビが。
 ―――やれやれ、大した嫡男殿だなぁ。
 ―――あんたのせいじゃないんだってば。

 いくつもの声が入り乱れて、ぐるぐるとルミアルを取り囲む。
 あの忌むべき晩の再来なのか、ひとびとの悲鳴や絶叫までもが聞こえてくる。
 飛び込んだ深い水の底から、ゆっくりと浮かび上がるような、不可思議な浮遊感を感じた。



8.

「ね……うえ」
 自分の唇から零れた声で、覚醒した。
「あ、目が醒めた?」
 場違いに軽やかな声が応えて、ルミアルは完全に自分を取り戻す。
 傍らを見ると、後ろ手に縛られた賞金稼ぎが壁に背をつけて座っている。彼女の肩にもたれていた自分に遅れて気がつき、慌てて姿勢を正した。
「い、今のを聞いていたか」
「え? 何が?」
 うわごととはいえ、姉を呼んでいた自分が恥ずかしい。しかしカイナはきょとんとした顔でルミアルを見詰め返しただけだった。それがたとえただのごまかしであったとしても、ルミアルにはありがたかった。
「……聞いていないのならいい。それよりここはどこだ?」
 あたりを見回す。カゼルに腕を捻り上げられたあとの記憶がない。
 明かりは全くなかったが、座り込んでいる床がほのかに明るい。それは、床がなめらかな金属で出来ているからに他ならなかった。
 四方の壁すべてが、同じ素材で出来ているようだ。
「……遺跡か?」
「かもね。すくなくとも、アルマロスの人間が作ったものじゃなさそうだけど」
 咽喉を逸らしてカイナが天井を仰ぐ。今遺されている技術では、このような施設を作るのは容易ではない。
「どうして無事なんだ?」
 危機を作り出した人間が聞くべきことではないかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
 吸血鬼狩りと称して容赦なく貴族たちを葬ってきたはずの男が、子どもだからといって情けをかけたとは思えない。抵抗の意志などなかったに違いないクリストファ伯ですら、あっさりと手にかけたのだから。
「なんかあったみたい。最初はもうやばいかもって思ったんだけど、あたしたちをここに押し込んで、焦ってどっか行っちゃった。ラッキーと言えばラッキーなん、だ、け、ど」
 もぞもぞとカイナが身じろぎをする。首を捻ってそちらを見ると、いつのまに解いたものか、両腕の自由を取り戻し、立ち上がる少女が見えた。
 ぽかんと目を見開いている少年貴族に気がついて、カイナは縄を得意げに掲げて見せる。
「言ったでしょ、賞金稼ぎなんだって」
 いつのまにかカイナの右手には、ちいさなナイフが握られている。一体どこに隠し持っていたのか。
「だけど厄介なのは」
 未だぽかんとしているルミアルの縄を切ってやりながら、カイナは最前の光景を思い出す。
「教会の残党が噛んでるっぽいのよね」
「なんだって?」
 きつく戒められて痺れた両腕を擦り、ルミアルは立ち上がる。
「あんたが気絶しちゃったあとなんだけど、軍服の男どもに取り囲まれたのよね。黒に金の縁取りで、左胸に金の十字の刺繍があるやつ」
 カイナは己の左胸の上で十字を書いた。
「馬鹿な! 旧教会正規軍の軍服だぞ。十五年前に一度解体されて、再編されたはずだ。今は白い軍服に変わっている」
「そうだけど、いたのよ」
 しょうがないじゃない、とカイナが唇をとがらせた。
「だとしたら、ここは一体」
 なんなのだ、とまでは続けられなかった。
 劈くような悲鳴が扉越しに届いた。
 ひとつが上がったら、あとは連鎖するように絶叫が響き渡り、いくつもの足音が入り乱れた。
 そしてそれは確実に、こちらに近づいてきている。
「ひとつだけ約束して」
 鋼鉄の床に、ブーツの踵を高らかに鳴らして、カイナは扉へ歩み寄る。たくさんの悲鳴と靴音に思わずすくむルミアルとは違って、迷いや怯えがなかった。
 扉の前に立ち、小柄で細身の、賞金稼ぎとは思えぬ少女が振り返る。
 鋭い目でルミアルを射た。
「あたしから離れないで」
 ルミアルは唇を噛む。何も言えなかった。先程の状況を不利に動かしたのは自分の浅慮だ。
 思わず黙り込むと、カイナが首をかしげるようにして不敵に笑った。
「荒事は、あたしの仕事」
 どこか誇らしげに宣言して、カイナはノブも何もない扉の、傍らにあるパネルに触れた。
 空気が抜けるような音を立てて、扉が横滑りに開いた。
「おい!」
 反射的に叫んでいた。開かれた扉の向こうに漆黒の軍服を纏った男が立っていたからだった。
 俊敏にカイナが横に飛びのく。すると、時代遅れの軍服を纏った体がぐらりと傾いで、そのまま前のめりに倒れた。
 跪いて、仰向けに返す。既に息はなかった。
 白目を向き、顔は苦痛に歪んでいる。
 遠巻きにそれを眺め、ルミアルは思わず口元を覆った。
 “首筋に噛み痕がある”。
「いやあっ」
 間近で上がった悲鳴が、こみ上げた嘔吐感を忘れさせる。
 名の売れた賞金稼ぎCCCでもやはり女、間近で死体を見るのは―――。
「うわー、どうしようと思ってたのよ! ラッキー!」
 できたての死体の傍らで、カイナが何かを大事そうに抱き締めている。
 とても死体に慄いた人間の台詞ではなかった。
 拍子抜けして、ルミアルは目を凝らす。闇の中で僅かな光を跳ね返す、うつくしい金と銀が見えた。
 おずおずと、死体を迂回するように近づいた。
 賞金稼ぎは片手に一丁ずつ、金と銀のピストルを握っていた。
 眼前にかざし、目を眇め、丁寧に点検する。
「おまえの武器か」
「武器っていうか、相棒ね」
 心の底から安堵している様子のカイナに、ルミアルは興味をひかれる。
 思えば、大雑把で無計画でどこか粗野な少女が、この二丁のピストルを扱うときだけは細心の注意を払っていた。
「大事なもの、なのか」
「うん」
 即答で頷いた。迷いはなかった。
「あたしを育ててくれた人が預けてくれたの。絶対に生きて帰って、これを返すって約束してるんだ。こいつらと一緒にいるかぎり、どんなにあの村から遠く離れても、あたしは家族と一緒にいるって信じられる」
 彼女の言う”家族”が肉親でないことは、ルミアルにも分かった。
 身寄りのなくなった彼女を家族のように育ててくれたという、辺境の村の神父夫妻。そして、彼女が弟と呼んで可愛がる、その夫妻の息子。
 肉親を失ったということが、今の彼女に暗い影のひとつも落としていないのは。
 愛されているからか。
 ゆるぎない一本の柱のように、彼女を支える愛情と信頼とが、ルミアルには見えた。
 だから彼女は無鉄砲に、傍若無人に、突撃することが出来るのか。
 帰る場所がある。
 だから、前を見据えていられるのか。
 姉と言う存在だけで己を支えていた自分には、まぶしい。
 それでもルミアルには姉がすべてだった。
 病に臥せっている母よりも、領主として忙しい父よりも、誰よりも傍にいてあたたかく見守ってくれていたのだ。
 どれほど領主の嫡男としての自覚に欠けると罵られようとも、姉を取り返せるかも知れぬのなら、黙ってなどいられなかった。

 ひらりと、何か白いものが視界を過ぎった。
 開け放たれた扉の向こう、できたての死体が倒れこんできた廊下だ。細い道が一本、まっすぐに伸びている。
 その延長線上で、何か白いものが踊った。
 一瞬ルミアルは、カゼルを思い浮かべた。
 あの男が羽織っていた白衣はおそらく、あんなふうに翻るだろう。
 全身に緊張をみなぎらせて、おぼろな影に焦点を合わせ。
 ルミアルは絶句した。
 前方に伸びた一本の廊下に人影がある。しかし白衣姿の男などではない。
 引きずるほどに長いワンピースを纏った若い女性。
 きらきらと陽光を跳ね返していたはずの金髪は、すっかりと色が抜けて無惨な白髪になっていた。けれども。
「姉上!」
 体は勝手に動いた。声の限りに叫んで、鋼鉄の床を蹴って駆け出していた。
「ちょっと!」
 背後から制止する声が飛んできたが、足を止めることなどできなかった。
 まっすぐにこちらを見据える、憂いをふくんだ瞳。凛と、伸びた背筋。
 何度も夢に見るほどに焦がれた姿を今更、見間違うはずがなかった。
 前方で、白い影はひらりと身を翻す。奥へ―――濃い闇にぬりつぶされている先へと、すべるように消えていった。
「姉上! 待ってください!」
 背後から追いかけてくる靴音がある。おそらくカイナだろう。振り返る、たったそれだけの時間も惜しい。闇の中にくっきりと浮かんでいたはずの白い服も、もう見えない。
 まるであの夜のようだ。目の前であっけなく姉が連れ去られたあの夜。
 あれからもう五年も経っているというのに、この手はまだ。
 まだ届かないのだろうか。
「姉上っ―――!」
 声を振り絞って叫ぶ。金属でできた奇妙な壁に跳ね返り、まるであざ笑うかのように自分を追いかけてきた。


            *


 ルミアルがこぼれんばかりに目を見開いたと思った次の瞬間には、ちいさな体は弾丸のように部屋を飛び出していた。
「ちょっと!」
 今しがた離れるなと言ったばかりだというのに。
 制止の声も聞こえていないようだった。俊敏な背中はみるみるうちに遠くなる。
「ああもうっ」
 やり場のない苛立ちを悪態にして、カイナは横たわる死体をまたぎ超えた。まっすぐ一本に伸びる廊下を駆け出す。
 ブーツの踵と金属とがぶつかって、耳障りな音が鳴る。
 すばやさにはある程度自信があるのにもかかわらず、ルミアルとの距離は一向に縮まっている気がしない。それだけ彼が必死だということだろうか。姉の名を叫んだような気がするけれど。
 ルミアルの背中は振り向かない。おそらく前しか見えていないのだ。
 ゆくえの分からなくなった大事な人間を追い求める気持ちは、カイナにも痛いほどよく分かる。
 分かるからこそ、彼を危険にさらしたくはなかった。
 おそらくこの場所は古代の遺跡だ。高度なテクノロジーを誇っていた、文明の残骸なのだ。何が眠っているか分かったものではない。
「うわっ!」
 考え事をしていると、どうもいけない。
 壁がおのずと発するぼんやりとした光以外に光源が無いので、カイナは危うく突き当たりの壁にぶつかりそうになった。
 全力疾走だ。急には止まれない。両手を壁に突っ張る形で、なんとか激突はまぬかれた。
 道はそこで、左右に分かれていた。
 耳を澄まして、気配を追う。足音がよく響くのはありがたかった。右手側からかすかに靴音が届いてきている。
 じっとりと額に汗がにじむのを感じながら、右側に進路をとる。乱れた呼吸をなんとかなだめて、再び駆け出そうと―――した。
 二、三歩踏み出して、踏みとどまる。廊下の先は闇に飲まれて見えないはずなのに、不穏な気配がひたひたと水溜りのように寄せてきているのが分かる。本能的な勘だった。
 気配に遅れて、ぺたりとした足音。靴の踵の音ではなかった。はだしの足が触れる音だ。
 ルミアルではない。
 足音はひどく緩慢だった。引きずるように、ずるずると近づいてくる。
 やがて闇の中央がじんわりと滲んだかと思うと、白いものがぼんやり浮かび上がった。
 あまりに奇妙な格好に、一瞬それが何であるのか分からなかった。
 前かがみになってよろけるように足を踏み出す、人のかたちをしたものだということに気づいたのは、相手の表情が読み取れるほどに近づいたときだった。
 引きずるほどに長い白の衣を纏った白髪の人間だった。肌は疫病にやられたかのように土気色になり、伸び放題の髪がふらつくたびに揺れる。

 ―――でもよ、実際ゾンビみたいなのもいるんだろ。
 ―――白髪に赤い瞳の死体がいくつか見つかってはいるみたいだね。

 数日前に酒場で聞いた話がよみがえる。
 てっきり自警団のでっちあげだと思っていた。

 白い髪を振り乱し、亡霊が顔をあげた。
 すっかりとみずみずしさを失った皮膚の中で、落ち窪んだ双眼ばかりが爛々とかがやいている。
 何かを探すように眼球がうろうろと彷徨い、やがてカイナをとらえた。
 得体の知れない寒気がぞっと背中を撫で上げ、無意識のうちに足が後ろに下がろうとする。
 一拍をおいて、違和感の元凶に気づいた。目が血に濡れたように赤いのだった。
 赤い目の人間は存在する。カイナの尋ね人もそうだ。
 地方によっては悪魔の象徴とされることもあるが、カイナ自身はそのルビーのような瞳をおそろしいと感じたことは一度もない。
 しかし、こちらを見つめる白い亡霊の目は、カイナを見ているようで何も見ていないのだ。
 生気や理性がまったく感じられない。
 くぱぁっと女はおおきく口を開いた。
 口内の粘膜は赤く濡れている。上下の唇の間を唾液が糸を引いた。
 上唇の隙間から、ちらりと鋭い犬歯が覗いた。
 ぐるぐると咽喉が鳴る。飢えた肉食の獣のようだ。
 本能的な畏れがどこから湧いてくるのか、ようやくカイナは気づいた。
 女の目に映っている自分が、獲物だからだ。
 生存本能が警鐘を鳴らしつづけている。
 捕食されることへの恐怖なのだった。
 女の咽喉がけだもののうなりを上げた。咆哮だった。
 今までの緩慢さが嘘のように、一瞬で間合いが詰められる。
 むき出しの牙は一直線に、カイナの咽喉を狙ってきた。
 カイナも素人ではない。修羅場をこなした経験が、反射的に得物を引き抜かせた。突っ込んでくる女のこめかみを、金の銃で横殴りにする。
 鈍い音と衝撃が、銃を伝って右腕に響いた。
 弱っているらしい体は、あっけなく崩れ落ちた。べったりと床に座り込む女の額にすばやく照準を合わせて―――。
 ためらった。
 女は、赤い両目から、涙を流していた。
 開かれたままの唇から、絶え間なく嗚咽にも似たうめきがこぼれている。
 おそらく理性が残っているわけではないだろう。見開かれた両目に、正気の色はない。
 けれども女は人の形をして、確かに生きていた。
「くっそ」
 悪態をついて、カイナは愛銃で女の項あたりを強く打った。
 涙をこぼしたまま白目を剥いて、女の体は冷たい金属の床に沈んだ。

 ―――僕がおまえにこれを預けるのは、人殺しにするためではないよ。

 ここから遥か遠くにいる育て親の声が聞こえたような気がした。
 神父はいつも温厚だけれども、頑固だ。信念にはずれたことをしでかすと、こっぴどく叱られた。
 自分にカイナという新しい名前を与えた自称考古学者が消息を絶ってから半年後。
 夜半にこっそりと教会を抜け出そうとするカイナを当たり前のように発見して、彼は若いころに使っていたという二丁の拳銃を差し出した。

 ―――おまえが覚悟を決めてこの村を出て行くというのなら、僕は止めない。お前にとって”あいつ”がどれだけ大きなものなのか、僕も知っているつもりだ。だけれど。
 神父は一呼吸を置いて、深い緑の瞳に意思のつよい光を浮かべた。
 ―――おまえを案じている家族がいるということを、ちゃんと覚えておいてほしい。明日の朝になったらクレアは怒るし、ロビンは泣くよ。
 我が子と分け隔てなく育ててくれた”母親”と、幼いころから付きまとって離れなかった泣き虫の”弟”。
 カイナは思わずうつむいた。
 心配をかけたくなかった。ただそれだけで、夜中の出発を決めた。
 旅立ちを告げたら、きっと決心がにぶる。心配そうな顔をさせたくなかった。
 けれども思い返してみれば、それは自分勝手な考え方だった。
 黙っていなくなることがどれだけ心配をかけることなのか、自分だって味わったはずなのに。
 ―――戦うなとは言わない。ただおまえがふたたび”あいつ”や僕たちに会うときに、うしろめたく思わない道を往きなさい。僕たちはいつもおまえを信じている。だから、カイナ。自分を恥じないようにしなさい。


 神父から差し出され、受け取ったうつくしい銃は、力ではない。
 約束だった。
 今までまったく誰も傷つけずに生きてきたのかと問われれば、否というしかない。修羅場もくぐったし、格段に得物のあつかいもうまくなった。
 けれども、賞金稼ぎとしての名が売れれば売れるほど、カイナは慎重になった。
 引き金をひくのは、かんたんだ。技術と腕力とがあれば、人差し指に力を込めるだけでいい。
 それだけで、人はあっけなく死ぬ。
 力で強引にすべてを終わらせるのは、たやすい。
 簡単な道を選ぶほど、人間は考えることをやめる。
 視野がせまくなる。逃げることを覚える。力におぼれれば、驕るだろう。
 だからカイナは、最終手段と決めた。
 どうしようもない崖っぷちに追い詰められたら、人のいのちを奪ってしまうかもしれない。生き残りたいもの。
 けれど。力を持っているからこそ、ぎりぎりまで考える。あがくのだ。
 道をみずから切り拓く。その信念すら失ったら、おそらくもう、”親”には会えない。
 顔をあわせる勇気がない。
 胸を張って会いたかった。


 ピストルをホルスターにもどす。顔を上げ、闇に飲まれた廊下を見据えた。
 とりあえず今、自分がなすべきことは、弾丸のように飛んでいってしまった次期領主を見つけ出すことだった。



9.

 靴音の響き方が変わった。広い場所に出たようだった。
 広がる空間の気配に、思わずルミアルは立ち止まる。空間に対してあまりにも自分がちいさく感じられて、心細くなった。
 有機物の気配がしない。生きているものの気配が。
 空だ。寒々しい。
 泉から湧き出るような、水音ばかりが遠く聞こえる。
 すくむ足を叱咤して、水音に近づくことにした。
 無機質の只中に立ち尽くしているよりは、ずっとましだと思った。
 これほどまでに必死に全力疾走をした記憶は彼の人生にはなかった。気を抜くとすぐに咳き込みそうになる。酸素が足りなくて、めまいがした。
 必死に繰り返す荒い呼吸が自分のものだとは、にわかには信じられない。こんな自分の呼吸を聞いたことがない。
 額から浮き出した汗が眉間を伝って鼻のあたりまで落ちてくる。火照った体が汗のせいで冷え始めていた。
 自分の靴音ばかりが高く響く。
 後ろからカイナが追いかけてくるのではないかと思ったが、何も聞こえなかった。
 追いかけるしかないと思ったはずなのに、浅慮だったのではないかと後悔しはじめる。
 カイナに離れるなと言われたばかりだった。
 どれほど離れただろう? ずいぶんと走った気がする。感じた距離感が確かならば、この地下空間はおそろしいほど広いことになる。改めてそれを感じて、さらに心細くなった。
 己の限界を知ること。乱暴ながら面倒見のいい女医に言われた言葉が、今頃しみてくる。
 がむしゃらに突っ走ってつぶれるのはただの阿呆だ。
 自分はまだ、自分を知らない。自分すら知らない。

 前方がわずかに明るい。
 足元が見えることに気がついて、ルミアルははっと顔を上げた。
 確かな照明があるわけではない。壁際に近づいた、ただそれだけのことだった。
 しかし、ルミアルを待っていたのはただの壁ではなかった。
 薬のカプセルを縦にしたような。奇妙な機械が壁にそってずらりと並んでいる。水が湧くような音はそれらから聞こえていた。
 その奇妙な物体はガラス張りになっていて、内側に水分が満たされているようだった。
 何か物体が漬かっている。
 まるで水槽に近づくかのように、ルミアルは両手でカプセルに触れ、中を覗き込み。
 “内容物と目が合った”。
 飛びのくようにカプセルから離れ、よろめくままに後ろへ下がる。
 カプセルの中には、人間がいた。
 うつろに目を見開き、ぐったりと弛緩しているその様は、とても生きているとは思えない。
 循環しているらしい水に藻のようにたゆたう髪は、すっかりと色素が抜けて白髪になってしまっていた。
「まったく困った坊やだな」
 朗々と響きわたった男の声には、隠し切れない苛立ちが滲んでいた。
 声と共に爆発したかのようにいっせいに照明が点り、闇に適応していた瞳を容赦なく射抜いた。
 白色の照明は、独特の光沢を持つ壁や床に跳ね返り、目がくらむほどにまぶしい。
 眼前でフラッシュを焚かれたかのように、一瞬視界が効かなくなった。
「どうあっても絶望したいらしい」
 背後から足音が近づいてきた。体をひねって振り返る。
 白く焼けた視界に、ぼんやりとひとの形が浮かび上がった。
 大人の、中肉中背の男の、すがた。まずは輪郭だけが伝わってきた。
「貴様……」
 姿をくっきりと見とめるよりも先に、口をついて怨嗟がこぼれる。
 ちらちらとうるさい視界がようやく普段の明暗をとりもどすと、白衣姿の男がひとり、立っているのが見えた。
「あれは、一体なんだ!?」
 ずらりと並ぶカプセルを指差し、ルミアルは叫んだ。
 壁に沿ってならぶ無数のマシン。そのほとんどに人間が詰め込まれている。
 カゼルは憐憫にも似た笑みを浮かべ、両腕を広げた。
「ラヴァル家の次期当主殿、”マテイ”へようこそ。ここは―――」
 ばらばらと、無数の足音が乱れながら近づいてきた。
 黒い影がいくつもなだれ込んでくる。
 もう失われてしまったはずの教会の剣、漆黒と金の軍服。
 各々銃器を手にした亡霊たちは、カゼルの周りをぐるりと固めると、銃口をルミアルに向けた。

「ここは、今は亡き教皇猊下直属の、不老不死の妙薬の研究所です」
 王者のように兵士を従え、朗と通る声でカゼルは言った。


            *


 どっと降り注いだ光に、カイナは思わず足を止めた。
 闇に閉ざされていた世界が、上方からあますところなく照らし出され、あまりのまぶしさに目がくらんだのだった。
 いっせいに照明が点いたのだと、一拍おいて気づく。
 天井を仰いだ。照明のようなものは一切見えない。どういう仕組みなのかはよく分からない。このあたりは、ふらっといなくなった考古学者のほうが詳しい。
 明るくなっただけマシだ。そう思うことにした。
 今は音信不通の男の傍らで、幼いころから奇妙なガラクタ―――貴重な遺物らしいが―――を見続けてきたのだ。この不可思議な照明の仕組みに、興味が無いと言えば嘘になる。
 けれども今はもっと、優先すべきことがある。
 全世界の中で一人の男を捜すよりも、この遺跡の中で一人の少年を探すほうが、絶対に早い。
 反らした咽喉を、元に戻す。
 前方をまっすぐ見据えた。進むべき道があるのだ。
 少し離れたところに白い物体が倒れ伏しているのが見える。先程の女と同様だ。白い衣服に白髪。うつぶせに倒れていて、体の下には赤い絵の具をぶちまけたような汚れが広がっている。すっかりと固まっているように見えた。
 今日や昨日のものではあるまい。
 歩み寄って、見下ろした。左胸のあたりに黒いしみが広がっている。銃創だろうか。
 一体、ここでなにが起こっているというのだろう。
 命を失ったまま放置されている憐れな骸を見つめ、わずかに目を細めた。
 瞬間。
 しなやかな肉食獣の機敏さで、カイナは顔を上げた。
 まっすぐ伸びた一本の道の先から、何かが破裂するような音が届いた。
 それはあまりに、銃声に似ていた。



10.

 言葉がうまく嚥下できずに、ルミアルは数度まばたいた。
 何もかもすべて、理解の及ばぬ言葉だった。
 教皇? 不老不死の妙薬? 研究所?
 何の話だ?
「ここが古代の遺跡だったことぐらい、あなたにも分かるだろう。教皇猊下は考古学者たちを集め、この遺跡を研究所につくりかえた。伝説の不老不死の妙薬を手に入れるために、ね」
 カゼルはふたたび高い天井を仰いだ。照明器具が一切ないにもかかわらず、まぶしく何もかもを照らし出す不可思議な天井を。
「その妙薬は、細胞を再生しつづけるらしい。文字通り、老いもせず致命傷を受けない限りは死ぬこともないそうだよ。教会の支配体制が瓦解してから中央を逃れた教皇猊下は、その力を得て神になろうとしたのだね、ほかの人間とはあきらかに違う、絶対的で超越的な存在に。すべては己の復権のためにだ」
 教皇の私兵を気取っている割には、カゼルの口調にはどこか、さげすむ色がある。
「まぁ、ご本人は五年前に病を患われて、あっさりと召されてしまったがね。それと共にこの研究所も遺棄したのだが」
 朗々とつづくカゼルの演説も、ルミアルの耳にはほとんど入ってこなかった。
 ひとつの疑問が体中を支配していた。
「―――うえ、は」
 教会の研究所だと言うのなら、何故。
「姉上は、どうして連れ去られたんだ」
 確信めいた予感はあった。
 だが思考は、それを理解することを拒んでいる。
 認めたくない。決してそれは、認められない。
 やさしかった姉の笑顔ばかりが、何故か今、よみがえってくる。
 飲み込みの悪い生徒を見る顔で、白衣の男はひとつ溜息を落とした。
「これだから子どもは嫌いだ。すべてを白か黒かで分けようとする。真実をありのまま突きつけられたほうが痛いのだと分からないのか。―――察しているだろうに」
 カゼルは、ルミアルの肩越しに無数に並んだマシンを見た。
 その視線が、促した。予感を確信に切り替えなければならなかった。
「貴様、姉上を……」
 体の両脇にぶら下げた拳を、爪が肌を傷つけるほどに強く握り締めた。
「”実験台にしたのか”」
 血を吐くように、白か黒かを決めるために、ルミアルはとうとう予感を言葉にした。
 カゼルは答えない。
 その沈黙が、何よりも雄弁な回答だった。

 ―――ひみつにしてね。
 少女のように、唇の前で人差し指をたてる姉の顔が脳裏にちらついた。


 “わたし今、好きな人がいるのよ”―――。


「貴様ァ―――ッ!」
 世界が白く焼けた。己の咽喉から迸った絶叫は、獣のうなり声にも似ていた。
 次の瞬間、ルミアルは白衣の胸倉に掴みかかっていた。
 頭ひとつ分ほど高い相手の顔を、自分のほうへ引きずり寄せる。
「姉上は、姉上はおまえを……!」
 憤りがあとからあとから噴き出して、咽喉をふさぐ。
 言葉にならない。
 姉はあの時、この男を。
 こんな男を、確かに愛していた。愛していたのに。
 引きずり寄せた男の顔には、表情がない。優越も同情も憐憫も、悔恨もない。
 硝子のような瞳に映っている、般若の如き己の顔が、むなしいほどに。

「実験体は」
 口元だけを動かし、カゼルは言った。
「完成することはなかった。中毒症状を起こして死ぬものが大半だった。ごく一部は不老不死は手に入れた。だが、自我を保っていられたものは、ひとりもいなかった。我々は教皇の死とともにこの研究所を遺棄したが、風の噂で吸血鬼のことを耳に挟んだ。我々はこの研究所を完璧に葬り去るために、アルマロスへ戻ったのだ」
 ルミアルは突き飛ばすように、カゼルの胸元から手を離した。
 そんな言葉が聞きたいわけではない。
「彼らはね、咽喉が渇くんだそうだよ。だから見境なく、水分をもとめて人を襲う」
 だから首筋に食らいつき、生き血をすするというのか。
「不老不死というのは厄介なものでね、多少の傷を与えても細胞を再生してしまう。彼らに邪魔をされて、この遺跡のメインコントロールルームを探すのに、ずいぶんと手間取ってしまった。だがそれも、今日で終わりだ。電源が復旧したということは、誰かがコントロールルームに辿りついたのだろう。あとは自壊モードに切り替えればすべては終わる」
 カゼルがまわりに視線を向けると、軍人たちの銃口が改めて、ルミアルに照準をあわせた。
「マテイを知っているものには消えて貰わなくてはならない。誰も知らなければ、そんなものは無かったことになる。クリストファ伯も潔癖なひとだった。わざわざ名乗り出なければ、こちらも気づかなかったものを」
「なんだって?」
 血だまりを、思い出した。
 力なく横たわる老人の骸。
「やはり、おまえたちが殺したのか」
 腹のあたりから全身に冷たさが広がってゆく。怒りではなかった。
 あまりの無慈悲さに、おそろしくなった。
 カゼルは小さく肩をすくめる。
「存在を知るものが誰もいなくなれば、存在自体がなかったことになる。今、そう言ったはずだが」
「悪魔め! 地獄へ堕ちろ!」
 言葉尻にかぶせるように、ルミアルは叫んだ。
 カゼルは笑った。なぜか困ったように。
 今のこの状況にはあまりに不似合いで、ルミアルは一瞬、視線を奪われる。
 が、すぐに我に返った。
 マシンガンをたずさえた男たちが身構えたからだ。
 ぐるりと銃口に包囲されている。逃げ場はない。
「ならば先に天に召されて、愛しい姉を待つがいい」
 カゼルが軽く片手を挙げ、居並ぶ軍服たちを見回した。
 いくら世間知らずの子どもでも分かる。あの手が下ろされたときが、最期だ。

 そのとき。
 世界が赤く染まった。
 照明の明度が落ち、注ぐ光が赤に変わったのだった。
《退避勧告です。自壊モードが選択されました。当施設は三十分後に、マシン、データ、通用口等のすべてを爆破により自動的に破壊します。大変危険ですので、誘導灯に従い、直ちに脱出してください。繰り返します―――》
 危機感のない明瞭な女の声が降ってきた。
「時間だ」
 事務的にカゼルがつぶやく。それは死刑宣告だった。逃げ場もないのに、体は勝手に身構える。
 しかし、相対した軍人たちの顔が急に強張り、ルミアルの肩越しに後方を凝視するのが見えた。
 ざあっと大量の水が流れる音を背中で聞き、遅れて異変に気づく。
 鼻腔の粘膜を刺激する薬品の、強烈な臭い。ひたひたと寄せてくる水の気配。
 全身が総毛立つ。悪寒に、ルミアルは恐る恐る振り返った。

 すぐそこに、地獄があった。

 壁に沿って並んだ無数のカプセルが今は開き、内包した薬品を光沢のある床にぶちまけていた。
 わずかにとろみのあるその液体は、降り注ぐ赤い光に照らし出され、血液のようにじわじわと広がる。
 そして、薬物に濡れた床に。
 這い蹲る無数の。
 ―――人。
 産み落とされたばかりの獣の仔のように全身を濡らし、絶え間なくうめき声を上げている。いたるところから上がるそれらの声が高く低くまざりあい、耳をふさぎたくなった。
 阿鼻叫喚だ。
「うわああっ」
 耐えかねた軍人のひとりが、引き金を引き絞った。
 乱射された弾丸を受けて、実験体が奇妙に痙攣する。
 あっけなく仰向けに倒れ、しばらく震えたあと、再び緩慢に体を起こした。
「頭か心臓を狙え! 奴らは致命傷を与えられない限りは死なん!」
 呆然と立ち尽くす軍人たちに鋭く叫び、カゼルは右耳を押さえた。
「おい、どうなっている、コントロールルームは……」
 右耳に装着した通信端末からは、応答がない。舌打ちをし、カゼルは白衣の内側から自らも黒光りする拳銃を引きずり出した。
 銘々実験体に向かってゆく軍人たちをぐるりと眺めてから、銃口をルミアルに向けた。
「おまえからだ!」
 銃が咆哮した。
 “とたんに、カゼルの手からピストルが弾け飛んだ”。
 右手を押さえ、白衣の男はその場に膝をつく。
 弾丸が飛んできた方向を振り仰ぎ、歯軋りをした。
「CCC―――!」
 ルミアルは呆然と、小柄な人影が自分とカゼルの間に割って入るのを見た。
「カイ……」
「あとで一発、思いっきりぶん殴ってやるから、覚えてなさいよ!」
 走り通しだったのか、息は乱れている。怒髪天を衝く勢いで激怒しているのが、背中を見るだけで分かる。
 いくら腕のたつ賞金稼ぎとはいえ、ひとりが加勢したところで事態はまったく好転したわけではない。
 しかし、ルミアルは自分でも驚くほどに、安堵した。
 彼女は苛烈なまでの生命力を放っている。生命の熱。
 この煉獄では、なによりもまぶしかった。
「全部聞かせてもらったわよ」
 カイナは、黄金色の銃口をカゼルに向けた。
「あんたが教皇派の残党だったなんてね」
「わたしにもなにか賞金が掛かっているかな」
 痺れを訴える右手を押さえ、カゼルは立ち上がった。
 口元には不敵な笑みを浮かべていた。
「別に賞金なんてどうでもいいわよ。あたしは、あんたが、気に入らないの」
 ぴったりとカゼルの額に照準を合わせ、カイナは刻み付けるように宣言した。
「だがどうする、ここはすぐに爆破されるぞ。それに―――」
 いつの間に拾い上げたものか、カゼルの手にはピストルが戻っている。すばやく照準を合わせると、引き金を引いた。
 微動だにしないカイナの横をすり抜け、後方へ飛ぶ。濡れ雑巾を壁にぶつけるような音と、低いうめきが聞こえた。
「ここは吸血鬼の巣窟だ」
 ルミアルの背後で、眉間を打ち抜かれた実験体のひとりが膝からぐちゃりと床に沈んだ。
「それに、君の噂は聞いているよ。わたしが殺せるかね、今まで一度もターゲットを殺害したことがないそうじゃないか」
「知らないの? 賞金稼ぎは生け捕りが基本なの。それに、手当たり次第口封じをして回るしか芸がない奴らよりはマシよ!」
「カイナ!」
 ルミアルがカイナの腕を強く引いた。
 とっさに振り返ると、すぐそばまで白い影が近づいていた。
 ルミアルをかばうように下がらせ、掴みかかってくるそれを回し蹴りで退ける。受身すら取る余裕がない様子で、白い亡霊はあっけなく横に飛んだ。
 遠ざかる足音を背中で聞いた。おそらくカゼルだろう。黙って逃がす気にはなれない。しかし、後顧の憂いは絶っておかなければならなかった。
 奇妙な鳴き声をあげて立ち上がろうとする影に、カイナは銃口を向けた。
 廊下で対峙した女と同じように、赤い瞳から涙を流している。

 ―――彼らは、咽喉が渇くそうだよ。
 ―――奴らは致命傷を与えられない限りは死なん!

 自我や理性が残らなかった、と言うけれど。
 苦しくないなら、何故泣くだろう。
 さまざまな事情で生まれた街を離れ、希望や夢も抱いていただろうに。
「……ごめんね」
 引き金を引いた。
 額に間抜けな穴を開け、赤い両目を見開いたまま、濡れた体が仰向けに倒れた。
 小刻みに痙攣してから、動かなくなる。
「……ルミアル、あんた、銃の使い方わかる?」
 骸を見つめたまま、カイナが訊いた。
「射撃を習ったことならば、ある」
 憐れな体に吸い寄せられた視線を何とか引き剥がして、ルミアルは賞金稼ぎを見上げる。
 眼前に、銀色の銃身が差し出された。
「弾は六発。予備はあるけど、充填してる時間が惜しいから、無駄弾はつかわないで。とにかくあたしたちは、ここから生きて出るの。自分の命を守るためにつかって」
「おい……」
「壁に沿って青く光ってるのが誘導灯。その先に地上への出口があるはず。非常口は最後の最後まで封鎖されないから、そこを目指す。ついてきて」
「ちょっと待て、これはおまえの!」
 差し出されたまま受け取ってしまった重みを、ルミアルはもてあました。
 両手で感じているのは、決して物理的な質量ではない。
 セキュリティロックのかけられた自宅のなかで、さらに厳重にしまわれていた。
 一度は奪われた”これ”を取り戻したときの、心底安堵したような顔を、しっかりと覚えている。
 約束だと言った。家族のようなものだと。
 受け取れない。

 カイナは、黒曜石のような瞳で、穴が開くほどにルミアルを見つめた。
「今それをあんたに預けなかったら、あたしは多分一生後悔する」
 銀色の重みをもてあましている少年の手を、上から押さえ込んだ。
「あんたのことを百パーセント守ってあげられるかどうかわからない。悔しいけど、あたしは万能じゃないから。ふたりとも無事にここをでるために、これが一番効率がいいんだよ」
 今にも泣き出しそうな顔の少年に、カイナは破顔した。
「そいつの名前はマルクトっていうの。大事に扱ってよね」
 笑顔のカイナに上から強く押さえ込まれ、ルミアルはそれを受け取った。ひとつ、強くうなずく。
 自分の、自分たちの限界を、知ること。
 限られた領域のなかで、できる限りのことをすること。
 それが最善策だ。
 うなずき返し、カイナはぐるりと周囲を見回した。
「自我が無くっても生きて動いてる人間を撃つのは嫌だから、極力避けましょ……っていっても、助けられるわけじゃないんだけどね」
 数十分後には、この施設は爆破されてしまう。皆を連れて逃げることはできない。
 先程まで鳴り響いていた銃声が聞こえなくなっている。
 赤く照らし出された床には軍服姿の体がいくつも横たわっているのが見えた。
 数は力だ。一度に複数に襲われたら、いくら銃器を手にしていても勝てない。
 累々と重なった、白い遺体もある。先程よりは数が減っているものの、まだ苦しげにうめいてカイナたちに近づいてこようとするものもある。
 しかし動きは緩慢だ。足を止めなければ、振り切れる。
 カプセルが並んでいたのとは対面側の壁の足元が、青く光っていた。矢印の形をしている。
 ふたりは揃って、光を見た。
「行くわよ」
 大きく息を吸い込み、ルミアルはしっかりとうなずいた。



11.

 世界は赤く染め上げられていた。
 荒い呼吸が絶えず聞こえている。
 響く靴音もどこか遠い。もはや慣性で走っていた。
 足元ばかりが青く光っている。その矢印が導く先が、地上への出口だ。

 これほど走ったのは、いつぶりだろう。
 子どもの頃以来だろうか。
 あの頃は―――いつも走っていた。さまざまなものから逃れるために。
 追いつかれ、捕まえられたら殺される。けれども、盗まずには生きていけなかった。
 物心がついたときから親はいなかった。
 アルマロスの旧市街で、汚水をすするように生きていた。
 生き残るためならば何でもやった。気がつけば、生き残ることだけが自分のすべてになっていた。
 惨めな孤児である、盗人である、汚らしい自分を葬り去るために。
 生まれ変わるために。

 貴族など、くだらないと思っていた。
 家の名ばかりで民を縛るなんて。何の疑問もなく、自らの血筋の上に胡坐をかいている。
 たくさんのものにしがみつき、たくさんのものを追い落とし、教皇派につらなる秘密結社にたどり着いたとき、マテイに実験体を送り込む任務を請けた。

 貴族たちは、まじめな顔をして近づいてくる人間を、疑うということを知らない。
 “自分たち貴族をだますものがいるはずがない”とどこかで信じ込んでいる。
 へりくだって甘え、時には悲壮な顔をすれば、簡単にことは運んだ。
 指をさして笑い出したくなるほど、たやすく。
 彼らは私怨以外の恨みなど、知らない顔をしている。
 日々の糧に困り、瓦礫ばかりの街で這い蹲り、世界のすべてをのろっている子どもがいるということなど、知らない。
 自分たちが貴族だというだけで、憎まれるということを知らない。
 彼らの、彼女らの、裏切られたと知ったときの顔といったら。
 あの醜くひきつった顔を見るために、自分はここまで上り詰めたのだと思った。
 心地よかった。快感だった。腹の底から笑いがこみ上げてくる。
 生まれて初めて満たされた。そう、信じた。


 前方に白い影を見つけた。
 呪術でもかけられたかのように、足が止まる。
 指先すらも動かせなかったのは、一気に体中を包み込む疲労感だけではない。
 注がれる視線のせいだった。

 ひとりの女が立っている。
 他の実験体と同じ白い衣服に、引きずるほどの白髪。
 薬物を投与された結果の、赤い瞳。
 金髪に碧眼の、まぶしいほどの美女だったのに。今は亡霊のようだ。
 ただ、両目がたたえている憂いの色だけは、昔と変わっていなかった。
 その場に縫いとめ、動けなくさせる不思議な魔力を、昔から彼女の瞳は持っていた。
 まるですべるように、彼女は近づいてくる。
 上方から注ぐ赤い光に、白い服と髪とが染まる。
 肩で息をする男のすぐ傍らまで歩み寄り、濡れた瞳でじっと、見上げた。
「アシュタロス」
 名を呼んだ。
 陥れた数多の令嬢の名など、マテイに引き渡した次の瞬間には忘れた。
 けれどその名はまるで呪いのように、離れずにあった。
 生気を失くした青白い、ほそい腕が伸べられる。
 顔のかたちをたどるように、頬に触れた。
 カゼルは右腕を持ち上げた。
 握ったままだった銃口を、アシュタロスの額に当てる。
 濡れた赤い瞳は、ゆらがない。じっと、男を見上げている。
 息を止めて、人差し指に力を込めた。
 かすかな手ごたえのあと、かちり、と。鳴った。
「……弾切れか」
 小さく笑って、カゼルはピストルを放った。床に跳ね返り、回転して遠くへすべった。
 空いた手で、頬をたどる手に触れる。
 五年前から変わらない。
 この手に触れるときには、言葉にできない感慨があった。その理由が、今は分かる。

 純粋無垢で、けがれのない。
 慈悲にあふれた白い腕を、汚してやりたかった。
 汚物にまみれなければ生き残れなかった自分の側に、引きずり込んでやりたかったのだ。
 何故うまれながらに恵まれて、清らに笑っていることが許されるのか。
 “うらやましい”。
 まぶしさに、指の先だけでもかまわない。
 届けと、願った。
 ひかりに触れたかった。

 憐れなほどに傷んで、色を失った髪に触れた。
 指先で梳くように撫で、形のよい頭を引き寄せた。
 やけに熱い吐息が咽喉に触れる。自然に、口元が緩んだ。笑ってしまった。
 なんて、陳腐な幕切れだろう。
 自分には勿体ないぐらいだ。こんな終わりを、選べるとは思わなかった。
 死ぬ覚悟ならいつだってできていた。つかまったら終わりなのは、幼い頃から何も変わっちゃいなかった。
 だからずっと、走っていたのだ。
 弾丸の雨にさらされて、顔も自分とは分からぬほどにつぶされて、どぶに捨てられる。そんなものが、似合いだと思っていたのに。
 やけに熱い唇が首筋に触れた。
 なぜか神聖な気持ちで、目を閉じた。


 鋭い牙が、肉を食い破って沈む鈍い音を、他人事のように聞いた。


              *


 誘導灯が導く角を折れたところで。
 白衣姿がゆっくりと床にくずれおちるのを見た。
 その向こうに現れた、華奢な女を。
 ルミアルは見つけた。

 口元を血で真っ赤に汚し、彼女はこちらを見ていた。
「姉上」
 カゼルの屍をはさんで、ルミアルは姉と対峙した。
 姉に歩み寄るのを、カイナは止めなかった。

《退避勧告です。爆破まで、あと十分。中央ブロックを隔壁で閉鎖します。誘導灯に従い、速やかに―――》

 幼い頃は、腰にまとわりつくのが精一杯だった。
 今は、少し見上げるだけで、姉の顔がある。
 彼女は金髪も碧眼も、うしなっていた。
 けれども、どんな薬物も、彼女の瞳がたたえる不思議な力を奪うことは、できなかった。
 まっすぐに見つめ、虚勢や欺瞞を溶かしてしまうまなざし。
 自我を失っても、瞳の色が変わっても、そのまなざしはまっすぐにルミアルを見た。
 赤く濡れた瞳から、ひとすじ。頬を伝って涙が落ちた。
 視界が滲んで、ルミアルは慌てて目に力を込める。

 もう、元通りにはならない。
 わかっている。
 うすく開かれた唇の間から、ひとでは決してありえない長さの犬歯が覗いている。未だ、血を滴らせている。
 憂いをふくんだ瞳はルミアルを捕らえているように見えるけれど、本当はもう何も映していないのだろう。
 しなやかな両腕が、まるでいたわるようにルミアルの肩に乗った。
 肩に感じる重みがあまりに愛しくて、このまますがりついてしまいたくなった。
 抱きしめて、泣き出してしまいたい。
 けれど、ルミアルはもう決めてしまっていた。幼い頃に。
 姉の前では決して泣かないのだと。
 守るべきものの前では、泣かない。
 きつく唇を噛んだ。母の棺の隣を、並んで歩いていたときのように。

 まるで弟の顔を覗き込むように、アシュタロスは顔を傾けた。
 そのまま、日焼けもしていない首筋に、唇を寄せようとする。
 ルミアルはそっと、目を閉じ、深く呼吸した。
 呼吸と共に何かを、飲み込んで、目を開けた。
「迎えに来ました」
 体の脇に垂らしていた右腕を持ち上げた。
 目の前にある、やわらかい姉の体に、銀の銃身を押し付ける。
「一緒に、ラヴァルへ―――帰りましょう」


 ―――ルミアル、泣いては駄目よ。


 引き金を、引いた。



12.

「神父が―――ああ、あたしを育ててくれた人ね。なんだか分からないけど、軍部の中枢に知り合いがいるみたいだから、マテイのことはそこから話しておくよ」
「僕も、聖都に戻ってまたあの考古学者に会ったら伝えておく。娘が探していると」
 すこし照れくさそうにカイナが笑った。

 トラックは、アルマロスの西門を出たあたりに停まっている。
 運転席には、二の腕に蠍の刺青を持つ男が座り、助手席にはおよそトラックに似合わない美少年が、顔やら腕やらいたるところに絆創膏と湿布をあてがわれて座っていた。
 助手席の窓をのぞきこんでいる少女も、同じようないでたちだった。
 このぐらいの怪我で済んだだけ、儲けもんだと思いな。
 守銭奴で知られる闇医者は、呆れ顔でふたりを手当てしたものだ。


            *


 ふたりが、マテイを脱出して、アルマロスの外壁の外にある廃教会にたどり着いたのと、マテイが爆破されたのは、ほとんど同時だった。
 地上に出てへたり込もうとするルミアルを引きずって、カイナは外壁の方へ走った。
 間をおかず、どっと下から突き上げるような衝撃が起こって、そのあとしばらく横にゆれた。
 振動にあっけなく地面に転がったふたりは、まばゆい光を感じて、空を仰ぐ。

 炎の柱が夜空に聳え立っていた。
 廃教会の木材を燃料として、非常口から地上に突き出した炎は、さらに燃えた。
 吹き付ける熱波を肌で感じて、ようやく、この体が生き延びて、まだ感覚を持ち続けているのだということに気づいた。
 ひりひりと焼けるような熱に照らされた頬に違和感を覚えて、ルミアルは自分の頬をこする。
 濡れていた。
 指先が液体に触れた瞬間、制御できないほどの波が腹の底から突き上げてきた。
 こらえきれず、とうとう、嗚咽を漏らした。
 地面にべったりと座り込んで、片手で口元を覆う。
 今まで押さえ込んできたすべてのものが、抗いがたい強さでこみ上げてくる。
 口元を覆う手の甲に、熱いしずくが伝って落ちてきた。

 姉の体を、連れて出てくることはできなかった。
 せめてこの炎が、彼女を安らかに葬ってくれればいいと、願った。

 ふと、何かが肩に触れた。
 疑問に思う前に、ぐっと強く引き寄せられる。
 すぐそばに、賞金稼ぎが座っていた。
 ルミアルの肩を抱き寄せたまま、じっと、炎を見つめている。
 あの日のことを思い出した。
 母親の葬儀の日、姉が。
 同じように肩を抱き寄せたことを。
 そのときと同じぐらいに、あたたかな腕だった。
 ルミアルは全身の力を抜いて、抱き寄せられるままに、カイナに重みを預けた。
 ほそい肩に顔を埋め、声を殺して、泣いた。


             *


 あの悪夢のような夜から三日が経ち、四日目の朝に、ルミアルは領地に戻るとカイナに告げた。
 ラヴァル領は、聖都カルチェ・ラタンのそばにある。
 アルマロスは辺境だ。
 聖都にゆくためには、車でソドムという街に出てから、鉄道を使う必要がある。
 運び屋はようやく、運び屋らしい仕事を与えられた。
 生意気なガキは嫌いだ、と文句を言いながらも案外たのしそうに、トラックを引っ張ってきた。
 先程から、ルミアルは何かを言いたそうに口を開いては、結局黙ってしまう。
 今回の依頼料はどこに請求すればいいの、などと軽口を叩いていたカイナだが、とうとう会話も途切れてしまった。
「……そろそろ出すぜ、夕方までにはソドムに着かないと厄介だからな」
 不器用に咳払いをひとつしてから、蠍が促した。
「お大事にね」
 わざと強くルミアルの肩を叩くと、少年貴族は盛大に顔をしかめた。
「おまえもな」
 カイナの頬に貼られた湿布を顎で示して、言い返す。
「女の子の顔に傷が残るとか! 心配してくれないの? 責任取ってくれるわけ?」
「傷がくっきりと残ったら考える」
 ぷいっとルミアルが顔をそらすので、思わずカイナは笑ってしまった。
「じゃあひとっ走り行ってくらあ。戻ってきたら酒場で酒奢れよ、CCC」
 わざと通り名で呼びかけて、蠍はにんまりと笑った。
 一人前の賞金稼ぎと運び屋としての契約だ。酒を奢る程度とはいえ、報酬は支払わねばならぬだろう。
 片手を腰に当てて、カイナは右手で追い払うそぶりをした。
 ルミアルは助手席にすっぽりとうずまって、なにやらむずかしい顔をしていた。

 やがて、ゆるゆるとトラックが動き出す。
 門のすぐそばに立って、カイナはそれを見送った。
 しばらくはなれたところで、突然。
 助手席からひょっこりと、顔が覗いた。
「カイナ!」
 満身創痍の少年が、窓から身を乗り出して、声を張り上げていた。
 爪先立ちをして、カイナは徐々に遠ざかる少年を見る。
 アルマロス特有の砂を含んだ風に、つややかな金髪を遊ばせて、ルミアルは真剣なまなざしでカイナを見つめて。
「ありがとう!!」
 叫んだ。

 ぽかんとあっけにとられているカイナの視界には、運転席から伸びた腕に背中を捕まえられ、助手席に引きずり戻される少年が映っている。
 トラックは速度を上げ、みるみるうちに小さくなってゆく。
 ぽつんと、その姿がひとつの点になったころ、ようやくカイナは我に返った。
 今起こったことをゆっくりと反芻して、最後に、噴き出した。
 まったく最後まで、らしいというかなんというか。
 体に震えを及ぼすぐらいの笑いをこらえながら、頬に貼り付けた湿布を掻いた。
「あーあ。本当に傷が残ったら、嫁にしてくれって押しかけようかなぁ」
 うん、と大きく伸びをした。
 太陽は中天にさしかかり、アルマロスにはめずらしく、青空が覗いていた。
 どこを見渡してもトラックが見えなくなってから、カイナは自分の街に引き返した。
 実のところ、体のあちこちが痛かった。
 公共の通信回線を使って、辺境の割には通信設備が整っている”実家”に連絡をつけてから、もう一眠りしようと思った。
 夜もふける頃、蠍が戻ってくる。
 そうしたら、イシスも誘って酒盛りでもしたらいい。
 大騒ぎするためには、英気を養っておかなければならなかった。

 問題のすべてが解決したわけではない。自警団もまだある。
 一度発生したゆがみが元に戻るには、時間が要るだろう。
 しかし、亡霊はもう現れない。
 あともう少しすれば、アルマロスはきっと、元の顔をとりもどす。
 今晩行われるはずの酒盛りは、前祝も兼ねているに違いない。

 やっぱり今するべきことは、部屋に戻って寝床にもぐりこむことだ。
 砂っぽい風に背を押され、カイナは上機嫌で歩き出した。




<Fin>





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