空と海と笑顔と…
K・K



 実際に見た空と海は、記憶の中よりも青く澄んでいた。


 躍動するエンジンを一度止めて、信治はヘルメットを脱いだ。今までフルフェイスのヘルメットで遮られていた潮風が頬を撫でて髪の間をすり抜ける。何処までも長く伸びる海岸沿いを、何処までも行けるように道路が伸びている。どこまでも続く海の果ては、空に続いている気がした。
「けっこう長いな」
 少しだけそんな風景に目を奪われながら、信治はタンクに付けられたバッグの中から地図を取り出した。そして今の大まかな位置と赤ペンで塗られた目的地を探す。距離と道のりを確認して再びヘルメットを被り、エンジンを回して走り始めた。照りつける真夏の太陽や熱くなったアスファルト、肺へと入ってくる潮風がまるで何十年ぶりかのように何もかもが懐かしかった。
「けっこう忘れてるモンだな」
 ずっと覚えていたつもりだった。離れたのはせいぜい1年程度だけど、人の記憶は簡単に色あせている。空や海がこんなに鮮やかな青色だったとは思ってもいなかった。小さい頃に一生懸命育てたアサガオの花やあの時食べたスイカも、夜空に咲いたあの打ち上げ花火も、記憶と事実がどこかで違っているかもしれない。もしかしたらあの笑顔も……。
「人間の記憶てのは案外イイカゲンなもんだな」
 一人呟いて、信治はギアをもう一つ上げた。エンジンは一瞬だけ静まり再び高らかにその鼓動を刻む。昔から走る事が好きでたまらなかった。小さい頃は走って、少し大きくなったら普通の自転車、中学ではATB、そして今はバイク。流れていく景色と身体へと当たる空気の壁、それは他のモノでは決して味わうことの出来ない快感。もっと飛ばしたい、心の底の衝動を抑えるように信治は少しだけ速度を落とした。周りの風景は少しだけ変わっていて、もう町まですぐそこまで来ている。それを確認して信治はギアを一つ下げて周りに注意を払い始めた。

 もしかしたら道路の何も無いところで転ぶドジなヤツが現れるかもしれない。

 そう思った矢先、道路を横断しようとして転ぶ小さな人影が目に飛び込んできた。距離的にはまだ余裕がある、そう判断して信治はゆっくりとブレーキを掛けてギアを落としていく。人影がだんだんと大きくなっていく。その人影が女の子だと分かる程近付いた時には、信治はもう完全に止まっていた。
「なぁ……、どうやったら何も無いところでそんなに盛大にコケるんだ?」
 ギアをニュートラルに入れてエンジンを切ると、信治はヘルメットを脱いでバイクを降りた。周りを見回すと女の子のバッグの中身が道路の上に派手にぶちまけられている。ワンテンポ遅れて、女の子がゆっくりと起き上がった。そして彼女の『キョトン』とした目と『やっぱりな』と言いたげな信治の目が合った。
「あれ、シンちゃん? どうして……」
 女の子は目の前で起きていることを理解しようと必死に頭を回転させる。だが彼女の頭は彼女が思ったほど動いてはいなかった。信治は彼女が怪我はしていないことを確認すると、派手にぶちまけられたバッグの中身を拾い始めた。それを見て彼女も慌ててしゃがみ込み散らばったモノを拾い始める。
 二人の間を満たす無言の空間。
 二人とも俯いて散らばったモノを拾い続ける。
「あれ、このスケッチブック……」
 信治が最後に拾ったのは、どこかで見覚えのある少し古めの青いスケッチブック。それを彼女は大事そうにバッグの中へ入れた。
「……雫、そのスケッチブックって」
「あの時シンちゃんがくれたスケッチブックだよ」
 雫と呼ばれた女の子は笑みをこぼし、信治は呆れたように頭を抑えた。雫にはその信治の表情の意味は理解出来なかっただろう。確かにそのスケッチブックは信治が雫に渡したモノだった、だけど……。
「そんなの大事に取っとくモンじゃ無いだろ」
 思わず信治の本音が漏れた。何か高級なモノを大切にされるならまだしも、数百円程度のスケッチブックを大切にされてるとは思っていなかった。雫がそういう子だと、信治はすっかりと忘れていたようだ。
「だって、折角シンちゃんがくれたのに……」
 雫のほんの僅かな表情の変化を、信治は見逃せなかった。少しだけバツが悪そうに海の方へと目を泳がせる。遊びまわっているちびっ子達の姿が目に入ってきた。水着も着ないで服のまま、波打ち際で水を掛け合っている。そんな姿が子供の頃の自分達の姿と重なる。何もかもが変わらないと信じていた頃の姿。このまま大きくなって、大人になって歳を取って……。今思えば大げさかもしれないが、それが不変だと信じて疑わなかった。それが崩れたあの日、こうして会うことは二度と出来なくなると思った。
「……ねぇ、シンちゃん。ウチまで送ってよ」
 不意に耳へと入った言葉に、信治の思考は反応出来なかった。間抜な声を出して雫の方を振り返と、雫は笑顔で信治の相棒を指差していた。雫は信治の間抜けな声も表情も気にしてなかった。
「コレ、シンちゃんのバイクでしょ? 後ろに乗せてよ」
 雫はそう言って信治にバッグを渡して、子供のように目を輝かせて信治を見た。この目の輝きは昔と変わらない。あやふやな記憶に確かなモノを見つけて、信治は少しだけホッとした。
「しょうがないな、その代わりちゃんとヘルメット被れよ」
 雫にフルフェイスのヘルメットを渡して、信治はバイクに吊るしていた半キャップを頭に乗せた。雫は入り口が少しきつめになっているヘルメットに頭が入らずに悪戦苦闘していた。
「……シンちゃん。このヘルメットやだ、被りにくいよ。そっちの方がいい」
「バカ、そっちの方が安全なんだよ。大人しくそれを被れ」
 間髪入れずにそう言って、信治は再びエンジンを回す。雫は苦戦しながらもどうにか頭をヘルメットに入れた。ヘルメットを被るのに慣れていないのか、それともただ単に被るのが下手なのだろう。雫はヘルメットで押さえつけられた前髪が目にかかり、何度もシールドを上げて髪を左右に分けようとする。
「一度脱いで前髪は横か後ろにしてから被りなおせ、その方が邪魔にならねぇぞ。」
 雫は助言通り素直に一度ヘルメットを脱いで被りなおした。今度は上手く被れたようで、シールド越しに周囲を見回した。しかしシールドを上げて訴えるような視線を信治のほうに向けた。
「……シンちゃん、このヘルメット熱いよ」
 信治は黙ってシールドを下げてヘルメットの通気口を空けた。丁度ヘルメットで死角になっているせいだろう、雫は信治が自分の頭へと手を伸ばした後に何をしたか分からなかった。マンガで表現するなら『頭上に?マークを大量に浮かべている』ような、何が起きたのかサッパリ理解出来ていない顔をしていた。走り始めればすぐに涼しくなる、そう言って信治はゴーグルを着けた。早く乗れ、手のひらでシートを叩いて雫にそう促す。雫はうれしそうに後ろへと回り込んだ。
「結構おっきいんだね」
 少し苦労しながらシートに横座りになって、雫が素直な感想を漏らした。信治はそんな雫を見て気付かれない程度に眉を動かした。別に雫の態度や言葉に機嫌を悪くしたとか、そんなコトでは無かった。問題はその座り方だった。
「……なんだその腑抜けた座り方は? ちゃんとシートを跨げ」
 信治がそう言うと雫は少しだけ俯いた。ヘルメットのシールド越しに困惑した表情が見える。だがどんな理由があってもそれは譲れなかった。自分の運転がそこまで上手くないと、信治は良い意味で理解していた。だからこそ危険を極力回避する努力を惜しまない。
「だって……」
「だって、何だよ」
 雫は黙ったまま片手でミニスカートの裾を押さえた。その仕草を見た信治は慌てて前を向いた。まさか自分の頬が赤くなっているなんて、信治は想像したくもなかった。
「お前のスカートの中なんて誰も覗かねぇんだから、さっさと跨ぎ直せ」
 再びぶっきらぼうな言葉を投げると、雫もまた頬を赤く染めた。雫は真赤になりながら一度シートを降りて跨ぎなおし、海の方を見ながら少しためらいがちに信治の身体に腕を絡めた。一瞬、鼓動が高鳴る。
「……出すぞ、振り落とされるなよ」
 前を向いたまま少し乱暴にギアをローに入れて、いつも以上に震えながらクラッチを繋いだ。
 バイクはいつもよりゆっくりと、走り始めた。



―END―




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