真夏の夜のワンシーン
倉橋沙織
遠くで夏祭りの笛の音が聞こえた。
「千絵!」
落ち着きのない私のお尻を軽くはたいて、母が私の後ろに座る。
「早くしなさい、智美ちゃんを待たせているんでしょう?」
そして口うるさく言いながら、ゆかたの帯を結びなおしてくれた。
「ん…」
「あ、ちょっと痛かった?」
「…大丈夫」
母が結ってくれた髪と浴衣。
お風呂上がりの石鹸の匂い。
町だけでなく、我が家もどことなく楽しい空気が蔓延している。
「じゃ、いってくるよ」
「あまり遅くならないようにね」
私は嘘をついていた。
今まで一緒に夏祭りを楽しんでいた智美と一緒に。
自分たちそれぞれの親に嘘をついた。
智美はついこの間できた大学生の彼氏とお祭りを回るらしい。
私は同級生の彼氏と、今年の夏祭りを楽しむ。
中学三年という時期が、何となく私をブルーにさせる。
受験のために何もかも我慢しなければならない。
せめて今日だけは、思い切り遊びたかった。
ホントは、智美と一緒に遊びたかった。
川岸で花火の上がる音が聞こえた。
耳の奥底から突き上げてくる轟音と、私全体を照らし出す七色の光。
そしてそれらは、私の周りをすぐに暗やみにしてしまう。
だけど、すぐにまた生まれてくる。
「…よっ」
笑顔で近づいてくる、クラスメートの彼氏。
「待った?」
「ん、大丈夫」
「ごめんね、準備が遅くなっちゃって」
「いいよ、それより、すごく似合ってるね…」
「…何が?」
「浴衣」
「そっか、元がいいもん」
「なるほど」
笑う。
手を繋いで神社の参道を歩くと、参道の周りには露店が建ち並んでいる。
毎年のことだけれど、この雰囲気が何となく好き。
たこ焼き、たいやき、お好み焼き、金魚すくいにソースせんべい…。
「何で露店って、食べ物屋がおおいんだろうね?」
「んー、アタシみたいに色気がない娘が多いからじゃない?」
「そっか、胸ゆれないもんなー」
「失礼ね、体育の時間ではちゃんと揺れますよーだ」
「へぇ、今度じっくり見てみよう」
「エロ…」
目があって笑う。
「お、あったった」
「何が?」
「コレを探していたんだよ」
そういうと彼は私の手を引っ張った。
「おやっさん、二つちょうだい、大盛りでね!」
「おぉ、坊主、今年も来やがったな…おや、隅に置けねぇなぁ」
露店のおじさんは私を見て、ほほえんだ。
私も微笑み返しながら、会釈をする。
「俺、ブルーハワイ、千絵は?」
「いちご、かな?」
かき氷。何でかき氷なんだろう?
「あ、お金…」
「いいよ、おごり」
「いいの?」
「うん」
露店のおじさんが彼氏と楽しそうに話している。
学校でも明るい彼だけれど、その雰囲気とは違う。
学校よりも、何となくうきうきしている。
心から楽しんでいるようだった。
「千絵、どうぞ」
「ありがとう」
真っ白な大地に真っ赤ないちごシロップ。
かき氷が好きだ。もちろん、他の食べ物も好きだけれど、夏祭りではかき氷は必ず食べた。
「どして?」
「ん、何が?」
「何でかき氷なの?」
「ん、あぁ…嫌い、だった?」
「大好きだけど…」
「良かった、嫌いなのかと思った」
「よく好きなもの、分かってるなって」
「んー、偶然だよ」
「そっか」
「ゆかたって暑そうだなって思って」
「そっか」
「それに、首筋に汗かいてたから」
一瞬、ドキリとした。
そうか、彼の位置からだと、私を上から見られることになるんだな。
そう思った瞬間、身体中の体温が一気に上昇した気になる。
「…美味しいね」
照れ隠しに発した言葉は、他愛のない言葉。
「ん、美味しいね」
夏祭りの笛の音をかいくぐって、神社に柏手を打つ。
順路に従って神社の裏手に回される。
祭囃子も多少遠くなって、木が生い茂る裏手の坂道を下っていくと、辺りの雰囲気ががらっと変わる。
暗やみが訪れ、ふたりとも無言になった。
「帰ろうか…」
「うん…」
坂道をおりる。
どこからか同級生に見られているかもしれなかったが、もう何となく関係なかった。
「今日はありがとうね」
「こちらこそ、かき氷までおごってもらっちゃって…」
「いいって、ホントはもっとおごってあげたかったんだけれど」
「…ありがとう」
私は不意に彼の胸に抱きかかえられていた。
私ではなく、彼が引き寄せた。
上目遣いに彼を見ると、緊張している様子。
もしかして…。
彼の唇が近づいてきた。
「…ん」
こんな私を見て、母はなんて言うのだろう。
彼の唇は、甘かった。
きっとここから女になる。
長い長い旅が始まるのだろうと感じていた。