夏の思い出
松浦 由香



 随分と久し振りに浴びたような太陽の下。私は日傘を指して歩いていた。
 その昔歩き慣れた道を―。

 わだかまりを残してあの人は逝った。あまりにも突然すぎて、文句を言うどころではなかった。

 ずっと前から、悪かったんですって

 その言葉どおり、箱に入ったあの人は少しやつれていた。似合わない死に化粧。私ならもう少しあなたに似合うオレンジを入れてあげるのに。

 すすり泣く声。偲ぶ会話。誰もあの人の悪口は言わない。いい人だったからね。本当に。

 何で、こんなに切ないんだろう。私は

 よくここの田んぼに入り込んでは靴を片方突っ込んだまま帰って起こられたっけ。
 トンボを取るにはちょうどいい吾亦紅が生えた水路。
 一瞬暑さを忘れる大きな木の陰。
 麦藁帽子の匂い。
 走ってどきどきしながら学校のプールへ急いだっけ。
 水しぶきと、帰ってから食べた生温いスイカ。でもやたらとおいしかった。
 昼寝の茣蓙。蚊取り線香の匂い。
 打ち水されて涼しくなった夕方。
 そうめんのみかん。
 暗くなって声がかかる「花火やろう」。
 あなたの笑顔―。

 でも今は、大きなマンション。
 コンクリが打ち込まれ、かすかに音がするだけの水路。
 あの木も、麦藁帽子も、茣蓙も、蚊取り線香もなくて、
 学校の前は素通り、夏休みの学校のプールからは声さえ聞こえない。
 スイカは冷えすぎてておいしくなくて、
 そうめんよりもうな重がでてきた。嫌いじゃないけど……。
 花火もなくて、あなたの笑顔は写真でしか見えない。
 もう動かない。

 私の手の中にあるものは、もう思い出にしかならなくて、もう、掴むことは出来ない。
 あの田んぼのように上塗りされ、消えていった匂いのように風に運ばれ、動かせなくなっていくだけ。
 私は掌を見た。
 年取って少し指紋が増えたんじゃないかという気がする。
 あの人とのわだかまりはなんだったのかしら?
 きっと、私のわがままね。
 いつもそうだった。私がわがままを言って、あなたを困らせる。
 でもあなたはいつも笑顔だった。
 なのに、なぜあのときだけ笑顔で許してくれなかったのだろう。
 私がここを出て行くこと、私が成長すること、私が未来に向けて飛び立つこと。

 でも今なら、少しだけ解る。
 そうね、あなたも私が好きだった。側に居て、ずっとずっと子供で居て欲しかったのね。
 大人になれなくてよくて、好きな人なんか連れて来なくてよかったのよね。
 あなたは、寂しかったのね。
 今頃知って、それを声にさえ出さないのは、まだ私にはわだかまりがあるのかしら?
 意固地。頑固。よく言われたけど、今は自分でもそう思う。
 偏屈。わがまま。本当にそうだと思う。

 私は空に手を伸ばす。

 掴める?
 そこに居るあなたになら私の手が掴めますか?
 私はあなたに触れることも、あなたにわがままを言うことも出来ないけれど、
 あなたは私に触れることが出来るのかしら?

 私は目を閉じて、深く息を吸った。

 まだ、あった―。

 耳を覆いつくすせみ時雨。
 水路の流れも目を閉じれば小川のせせらぎ、
 熱く熱せられたアスファルトの匂い。
 遠くから聞こえる車の音。

 …………

 私はまっすぐ空を仰ぐ。
 太陽をいっぱい胸に受けて―。




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