ハウン先生怪異行
南方南
ノベルフェスタ121 「皐月賞」


 誰かに呼ばれたような気がした。
 わたしは、小さな文机から顔を上げ、そっと耳を澄ました。
 とうに夜半を過ぎている。年に一度の焼津神社の大祭の余韻も、さすがに、この時間までは残っていない。一日町を賑わした威勢の良い若い衆達も、今は高鼾に違いない。波の音や、松林の葉擦れ、蛙(かわず)の鳴き声が、遠く近くに聞こえるだけだ。
 空耳かと思い、わたしは再び文机に顔を近付けた。
 なぜか寝付くことが出来なかったので、蚊帳から這い出し、今日見聞きした祭事の様子などを帳面(ノート)に鉛筆でメモ書きしていたところだった。
 机上の小さな洋灯(ランプ)の明かりを頼りに、辛うじて見えてる右目を帳面にこすりつけるようにして文字を記そうとした時、再び微かな声が耳に届いた。
「ハウン先生……」
 わたしのことをそう呼ぶのは、節(せつ)サンを始めごく親しい者だけだった。
 この国は言霊の国だ。近頃はそういう風潮も大分廃れつつあるようだが、元来この国では真(まこと)の名前は無闇に語ってはならないものとされていた。だからわたしも、本当の名は近しい者以外には使わないようにしている。
 この国で、わたしはすっかり「へるん先生」であり、「八雲サン」だった。
 節サンですら、二人きりの時以外はわたしのことを「パパさん」又は「へるんさん」と呼び、決して諱(いみな)は使わなかった。
 わたしのことをハウンと呼ぶのは、ここ焼津では、節サンを除けばもう一人しかいない。
 思わずほころぶ顔を抑えながら、襖一枚隔てた隣の部屋で子供等に添い寝している節サンに気付かれないように、わたしはそっと立ち上がった。
 開けっ放しになっている窓に近寄る。気配を殺し、猫のように静かに歩くのは子供の頃から得意だった。
 潮の臭いを含む夜気が肌に心地よい。
 わたしが夏ごとに焼津へ居を移すのは避暑の為というよりは、東京の人の波から逃げ出し、ここ焼津の海の波に身を浸す為だった。
 焼津の夏は東京よりもむしろ暑い。が、東京のように埃っぽく淀んだ粘っこい暑さではなく、くっきりと澄んだ、潔いまでの暑さだった。
 その清廉とさえ言っていい熱は、漁師町であるここの住人にも染み込んでいる。
 焼津の海は素晴らしかった。荒々しく豊かだ。それ以上に人々の心意気が素晴らしかった。
 わたしが滞在中居を貸りている魚屋の山口乙吉(おときち)など、その代表格のような人物で、まるで神様のような――耶蘇(ヤソ)の神ではなく、この国の至る所に坐(い)まして民を守っている神様達のひとりを思わせるような――心根の実に気持ちの良い御仁だった。
 彼等の存在は、東京で嫌でも応でも擦り減らされるわたしの神経を心地よく揉みほぐしてくれた。
 二階の窓からは残念ながら海は見えない。
 海岸通りを挟んで建つ民家の軒に視界を遮られている。だが、潮の香りと、波の音が、直ぐ先に、世界へ向かって広がる大海が厳然と存在することを伝えてくる。
 しばし、心の奥に潜む原初の魂に訴えかけてくるような、その音と香りに身を浸していると、もう一度囁くような声で名前を呼ばれた。
 見下ろすと、闇の中に、こちらを見上げる人影があった。
「惣吉(そうきち)ですね?」
 小声で訊ねると影は頷いた。
 待っているようにと手で合図してから、わたしは部屋を横切り、そっと襖を開け、廊下に出た。きしむ階段をゆっくりと、つま先立ちで降りる。
 草履を履いて、勝手口から外に出た。
「今夜はどこへ連れて行ってくださりますか?」
 子供のような興奮がわたしを捉えている。惣吉は、まだどことなく幼さを残す顔には不似合いな、悟りを啓いた聖者のような静かな笑みを浮かべた。
「神々が殺された場所、などいかがですか? 乙女の神が殺され、その屍(しかばね)から五穀が生え、この土地に豊饒をもたらした、そういう場所があるんですよ」
 神の死が大地に豊饒をもたらす―― 農耕文化特有のものなのだろう。ヨーロッパにはない神話のタイプだ。
「そこには、何があるでしょうか?」
「殺された乙女の、恨み、かもしれませんよ」
 悪戯っぽい目でわたしを見る。
 この手の話にわたしが抗(あらが)えないのを知っているのだ。
「連れて行ってください」
 わたしが頼むと、惣吉は小さく頷き、背を見せて歩き出した。
「ちょっと待ってください。明かりがあるのがよいと思います」
 惣吉は振り向いて、小さく笑んだ。
「月が出てますよ」
 なるほど天空には十三夜の月が輝き、周囲の景色に陰影を刻んでいる。
「それとも、手を繋いで差し上げましょうか?」
「いいえ、それ、いりません」
 憮然として答えると、
「では、参りましょう、ハウン先生」
 と、にっこり笑って、再び歩き出した。
 わたしは、その姿を見失わないように、慌てて後を追った。


     *


 幼い二人の男の子の寝顔を見ながら、節は、良人(おっと)が出て行く気配を感じ、蒲団の中で小さな溜息を吐(つ)いた。
 三人目を宿す大きなお腹をそっと撫でたのは、むしろ自分を宥(なだ)める為だった。
 魅入られてしまった良人を止める術(すべ)のないことを知っていた。ただ無事の帰還を願うより他にない。
 節は手を合わせて祈った。
「ぱとろなす様、ぱとろなす様。どうかあの人をお守りください……」
 節の目には見えなかったが、小さな光る虫のようなものが、節の祈りを聞いてどこからともなく現れた。
 光る虫はするりと襖をすり抜けると、ハウンが通った後をそっくりそのまま辿り始めた。


     *


 惣吉は、この辺りの網元の次男坊で、数えで十九歳になるはずだった。幼い頃から学問に秀でており、小学校長の推挙もあり師範学校へ通っていた。親はそれなりの出世を息子に期待していたようだ。
 しかし、当の惣吉はといえば、わたしと同じように不思議な話に心惹かれる性質(たち)で、神話や古老の昔語りに強い興味を覚えていたようだ。わたしと惣吉との付き合いも、初めて焼津を訪れた年、この辺りの土地の昔語りを知ってる者はいないかと、乙吉に訊ねたところ、ならば惣吉が一番だと紹介してくれたのが始まりだった。当時、まだ十六歳の惣吉だったが、神話やら古謡やらの他、魑魅魍魎、妖怪変化などへの造詣も深く、彼の語りはわたしを飽きさせることがなかった。
 わたしが夏ごとに焼津を訪れた理由の半分は、惣吉の話を聞きたかったからだと言っていい。
 わたしが、日本人すら捨て去ろうとしている日本の良さに気付くのは、異国生まれのせいかもしれない。余所者の目で見るからこそ、見えてくるものであり、見えてくる美しさなのかもしれない。
 日本の美しさを、固有の文化を、そのかけがえのない宝を、わたしは心底守りたいと思っている。
 そして、そう強く思えば思うほど、もし、自分がこの国に生まれ、この国の空気を肌で感じ育ってきたならば、今以上にこの国を理解し、その美しさの本質を、より明確に知れたのではないかと残念に思うことがしばしばあった。
 惣吉は、わたしが日本人として生まれ育ったならば、こうだったかもしれないわたし自身と言ってよかった。彼の日本に対する愛情はわたしと何ら変わることがない。この国の持つ、本当の魂を、彼は理解し、愛している。
 だから、歳は遙かに若くても、彼はわたしの貴重なアドバイザーたり得た。この世で数少ない対等に語り合える友だった。

「同様の話は記紀にも出てきます。古事記には、速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に殺された大宜都比売命(オホゲツヒメノミコト)の体から稲、粟、小豆、麦、大豆が成ったと書かれていますし、書記には月夜見尊(ツクヨミノミコト)が保食神(ウケモチノカミ)を殺す話として描かれています―― ああ、須佐之男命は先生と縁の深い神様でしたよね」
 惣吉はそう言って、彼独特のアルカイックな笑みを浮かべた。
――八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る その八重垣を
 わたしの日本名、小泉八雲の「八雲」はスサノヲが詠んだこの歌にちなんでいる。
 わたしは節サンと出会った松江を思い出した。古(いにしえ)の神々の国・出雲――
 二人で行った大社思い出す。鳥居を見上げながら、この国には、西洋では耶蘇の神に駆逐され失われてしまった古の神々が確かに息づいているのだと感じた。仕事は不運続きだったが、このまま日本に骨を埋めてもいいと思ったのは、節サンと、出雲の神々に出会ったからだ。
 スサノヲは高天原を追われ、オオクニヌシは自らが治める葦原中国(あしはらのなかつくに)をアマテラスオオミカミの子孫に譲り渡し出雲の大社へとその居を遷(うつ)された。
 出雲に関わる神々には、故地を奪われ、安住の地を得られぬ流離(りゅうり)の宿命(さだめ)の哀しさが付きまとっている。それはどこか、わたしの人生と重なり、わたしの胸に感傷的(センチメンタル)な共感と懐かしさとを湧き起こさせた。
「今日、焼津神社のお祭りありました。焼津神社、倭建命(ヤマトタケルノミコト)祀る神社ですね。これから行く所、タケルと何か関連があるでしょうか?」
 わたしは惣吉に訊ねた。
 ヤマトタケルも出雲に関連のある神の一人であり、やはり流離の人だった。
 景行天皇の皇子であったヤマトタケルは、父である天皇に西国平定を命じられる。九州に赴きクマソタケルを倒したヤマトタケルは、帰路、出雲により、そこの首長であるイヅモタケルをも倒している。その後、復命するが、父天皇に更に東国への遠征を命じられる。
 ヤマトタケルは、東征の途上、伊勢に寄り、叔母のヤマトヒメから草那芸剣(クサナギノツルギ)と火打ち石を授けられる。草那芸剣は、スサノヲが出雲でヤマタノヲロチを退治した際、ヲロチの尾から取り出し、アマテラスに献上したという神剣だ。
 そして、ここ焼津で、国造(くにのみやつこ)の謀(はかりごと)により、野原で火攻めに遭ったヤマトタケルは、草那芸剣で草を刈り、火打ち石で向火(むかいび)を起こすことによって窮地を脱する。
 出雲、熊本、東京、そして、焼津。
 わたしは、知らず知らずのうちにヤマトタケルの伝承地を転々としてきた。
 そのせいもあり、ヤマトタケルもまた、わたしの中で近しくも懐かしい神として生きている。
「残念ながら倭建命とは関連ありません」
 惣吉の言葉に落胆する。わたしは、ここ焼津で、タケルゆかりの何かに出会えることを密かに心待ちにしていたのだ。それをもたらしてくれる者がいるとすれば惣吉以外あり得なかった。
「焼津神社の祭礼が、八月十日という日に行われる本当の理由を、もう誰も覚えていないようですが、これから見に行く神々に由来するようです。記紀に語られる神々の他にも、この国には多くの神々がいました。そのまま忘れ去られたり、記紀で有名な神々にすり替えられたりして、歴史の彼方に葬り去られてしまった神々が。そうした名もない神々の中には何らかの形で痕跡が残っているものもあります。場所が保たれていたり、別の形で語り継がれていたりして。これから見にゆくのも、そうした神々のひとつです」
「名もない神々――」
 その言葉の持つ哀しみが、じわりとわたしの心を締め付ける。
 名を尊ぶこの国で、名を失うということは、存在しなくなるということだ。もともと存在しなかったものとして扱われる悲哀と、それでも尚痕跡を留めるほどの執念とも妄執とも言える力に、ひりひりするような痛みを感じる。
「土地の者にすら忘れ去られた神々が至る処に居るのです。そういう国なのですよ。この日本は」
 惣吉もまたわたしと同じような痛みを感じているのか、憂いた瞳を伏せると、口を閉ざし道を急いだ。わたしも黙って後を追う。
 潮風から作物を守る為に植えられた松林を抜け、延々と続く田圃をひたすら歩いていく。
 満々と湛えられた水が月光にチラチラと反射し、青い稲がサワサワと揺れている。わたしには農業の知識はないので、ここらの田の育ち具合がいいのか悪いのか判断出来ないが、素人目にも貧弱に見える青い稲を見ながら、元気に育ち豊作となるようにと祈らずにはいられない。農民の笑顔こそが国の基盤だ。
 どこまでも続くかと思えた田圃の真ん中に、ふいに小高い丘が現れた。
 かれこれ一時間以上歩いていると思う。波の音は遙か遠ざかり、潮の臭いもさすがにここまでは届かない。
 焼津には、広大な青田の海原に浮かぶ小島のような丘が四つほどある。
 古墳のようにも見えるその丘は、乙吉の話では、ヤマトタケルの継子を葬った場所だそうだ。手と足と胴と首とを別々に切り離して埋めた。そのため、誰もそこには足を踏み入れないようにしているのだという。
 今見ている目の前の丘は、四つの丘の中で一番大きなもののようだった。
 体をバラバラにして埋められたという継子が、どうしてそのような憂き目に遭うことになったのか、詳しい話は伝えられていないようだった。切り離して埋めるというのは、豊饒神の話と関連があるようにも思える。惣吉が言うところの名もない豊饒神の話を、ここ熱田で最もポピュラーな神であるヤマトタケルと結びつることによって生まれた話なのだろうか?
 水田の真ん中に、なるほど、豊饒神ほど相応しい神はいない。
 惣吉について丘を登り切ると、そこには、どこまでも続いているかのように見える草の海が広がっていた。
「あそこへ行きますよ」
 惣吉が指差したのは数十メートル先に生える一本の木だった。何の木かはわからなかったが、草原の中にあって、どっしりと枝を広げている。木の根本に何か大きな獣がうずくまっているように見えて、どきりとした。
「あの石の陰で待ちます」
 言われてそれが、大きな石であることに気付いた。
 惣吉が、胸ほどの高さの草を分けて歩き出す。
 わたしも直ぐ後を追ったが、進路を塞ぐ草を払おうとした手に痛みが走った。
 生えているのはススキだった。その鋭利な葉がわたしの手を切り血が滲む。
 剣を逆さに植えたような葉の連なりに、わたしは一瞬ひるんだ。
 こんな中を歩くハメになると知っていたならば、浴衣に草履などでは来なかったものを。
「気を付けてくださいね」
 今更ながら惣吉が言う。
 その穏やかな笑みが恨めしい。だが、今更引き返す気にはなれない。まして、この世の不思議を見ることが出来る数少ないチャンスであると思えば尚更だ。
 わたしは苦笑いし、浴衣の袖で手を覆い、直接触れないように気を付けながらススキの原をかき分けていった。
 惣吉は、ススキの葉の切れ味など、まったく意に介さぬ様子でぐんぐん進んでいく。
 顔をひっかかれ、足を取られて、ともすれば転びそうになりながら、わたしは必至で惣吉の後を追った。
 目指す木の根本に着いた時には、すっかり汗だくになっていた。
 庇ったつもりでいながら、手や脛や顔のあちこちに擦り傷が出来て、ひりひりと痛んだ。
 ススキの葉で切った傷は小さくてもどういうわけか痛みが強い。
「しばらくここで待ちましょう」
 まったく無傷の惣吉は、にこやかに言うと、牛がうずくまっているような形の石の陰に隠れるようにして座った。
 わたしもそれに倣う。
 何とも知れなかった木は、近くに寄って見ると幹の形から桜であることがわかった。今は葉が生い茂っている何の変哲もない木でしかないが、春の姿は格別に違いない。たった一本空に向かって花びらを撒く姿を思い浮かべ、その気高さに感動すら覚える。乙吉によれば、ここは禁忌の場所だ。花見の時期と言えども人が訪れたりすることはないに違いない。人知れず咲き、人知れず散っていく、その侘びしさが胸に迫る。
「桜はお好きですか?」
 惣吉が枝を見上げて言った。
「桜、好きです。日本の心、籠もっています」
「“サ”は“稲”、“クラ”は神が降りる場所である“坐(くら)”から来てるとも言われています。稲の神様が降りてきて、春、田の準備をする合図となる木という意味だそうです」
「豊饒の神、ですか?」
 惣吉は枝から下ろした視線を、わたしに向けた。
「豊饒の神は散らなくてはならない…… 可哀想だとは思いませんか?」
「でも、散る、新しい命生まれる。循環。輪廻。日本にあります。無駄ありません」
「そうでしょうか……」
 惣吉は項垂れ、そのまま黙りこんでしまった。
 憂愁を刻む顔は、話しかけるのも憚られた。わたしは、惣吉から視線を逸らし、桜の枝を見上げると、その木の春秋に思いを馳せた。
 心が空想に飛ぶと時間すら忘れてしまうのがわたしの癖だった。それでよく節サンを呆れさせた。「パパさん、サッパーの時間は、こちらへ戻ってきてください」夕食の時間を案内されても気付かぬままのわたしを、節サンはよくそう言って窘(たしな)めた。
 節サンという人は、わたしにとって何ものにも代え難いベターハーフだ。
 彼女は、ともすればこの世界ではない場所へと浮遊してしまうわたしの心を、いつもこちらの世界へと引き戻してくれる。
 節サンがいなければ、わたしは今頃どこか別の世界へ行ったきり、もうこちらへは戻っていなかったかもしれない。

「先生、ハウン先生……!」
 惣吉に袖を引かれ、我に返る。
 目の前に広がっていた桜の花びらが舞い散る空想世界が消え、現実の夜の帳に閉ざされた草原が戻ってくる。
 どれくらい時間が経ったのだろう。見上げると、月が大分西に傾いていた。闇はますます深く、風は無く、虫の声も消え、広大なススキの海原は何かを待ち望むかのようにしんと静まりかえっていた。
「この後は、何が起こっても、絶対に口を利かないでください」
 惣吉は緊張しているのか、穏和な笑みは消え、厳しい顔つきになっていた。
 わたしは黙って頷いた。
「始まります……」
 惣吉の囁くような言葉が終わらないうちに、何か小さな光がふわふわと顔の横を通り過ぎた。
 蛍のようだが、蛍の季節ではない。
(鬼火……?)
 声には出さず、口だけを動かして惣吉に問えば、指を口に当てて首を振り、その指で石の向こうのススキヶ原を指差した。
 そちらへ目をやると、無数の小さな光の粒がどこからともなく湧いてきて、一つ所に集まってゆくところだった。
 惣吉が、石の上に登る。わたしもそれに倣った。
 桜の枝に掴まり、葉叢に身を隠す。
 高みからはススキヶ原の様子がよく見て取れた。
 わたしたちがいる石から三十メートルほど離れた場所に光の粒が集まっていた。
 光の粒は巨大な集団となって、ゆっくりと渦巻いていた。渦の下だけススキが倒れてゆき、やがて、踏みならされたような小さな広場が出来上がる。
 すると、光の粒は、今度は幾つかの塊に別れて回転しだした。光の渦は伸びたり縮んだりしながら、それぞれが、人の姿になっていった。
 神話の時代を思わせる装束の男達が、勾玉のネックレスを幾重にも巻いた巫女と思われる白い衣に身を包む一人の乙女を取り囲んでいた。
 乙女は後ろ手に縛られ、男達の真ん中で跪かされている。
 男達の中で、特に立派な装飾品を身につけた祭主と思われる人物が、青銅の剣を掲げながら何かを唱えだした。その言葉は、日本語のようでありながら、一つも聞き取ることが出来なかった。神に捧げる為の特別な言葉なのかもしれない。
 自分が古代の儀式を垣間見ているのだとわかった。
 これは、現実ではなく、遠い昔、ここで行われたものの影。条件が整った時にだけこの世にしみ出てくる過去の夢だ。
 祭主の長い詠唱がようやく終わろうとしているらしい。
 一つの言葉を、周囲の男達も唱和する。
 数度同じ言葉が繰り返された後、長く伸ばされた最後の音が野原に消えていく。と、男達が、乙女を押さえつけた。
 剣が頭上に振り上げられる。
 そこでわたしは、今更ながら、ここへ連れてくる前に惣吉が言った言葉を思い出した。
――乙女の神が殺され……
 ならば、これは、神殺しの現場なのか?
 しかし、目の前にいるのは神などではなく、明らかに人間の娘だった。
 娘は、己の運命を悲しむように、首を振った。
 その顔がこちらへ向けられた。
 娘の瞳には深い絶望があった。
 わたしの胸はキリリと痛んだ。
 彼女にも、父があり母があり、兄弟姉妹がいて、友がいて、立った歩いたと祝福された幼年期があり、兄弟姉妹と喧嘩し笑い合った子供時代があり、恋の悩みを友と語り合った青春があったはずではなかったか。
 それらを全て打ち砕く、残酷な運命――
 かくもか弱き者に対して、一縷の同情を寄せることもなく、無情にも剣を振り上げる男をわたしは憎んだ。
 幼弱なものを犠牲にするくらいならば、大人であり力ある男達こそが、自らの血を捧げるべきであろう。
 振り上げられていた剣が、娘の首目掛けて今まさに振り下ろされようとしていた。そのあまりの理不尽さに、わたしの血が怒りに滾る。最早静観などしていられなかった。
「Stop it !」
 石の上に立ち上がり、大声で叫んでいた。
「I'll cut off your head !」
 怒りを覚えた時、つい口走ってしまう口癖。
 もし、今、愛用の大型拳銃を持っていたなら、迷わず発砲していただろう。昔、テネシー州の路上で仔猫の目玉を叩き潰している男を、我慢ならずに撃った時のように。
「先生……!」
 小声で袖を引っ張る惣吉に、自分の失態に気が付いた。
 一瞬、全てが凍り付き、時が止まったように感じた。
 男達の目が、はっきりとわたしを捉えていた。怒りの籠もった目で何かを口々に叫ぶ。
「先生、逃げましょう……」
 惣吉に引っ張られて、身を隠すように石の陰に滑り降りたものの、わたしは彼の提案を拒否した。
「あの娘、助けます」
 惣吉はやれやれという顔で首を振った。
 逃げることこそが賢い選択なのかもしれない。
 しかし、か弱き者を放置して逃げたら、わたしはこの先、いかなる厚顔をもって、帝大の学生等の前で教師として立っていられるのか、父として一雄や巌を教え導くことが出来るというのか。
「惣吉、あなた、逃げるよろし。わたし、このまま逃げるの好ましくありません」
 勝算があったわけではない。まさに蛮勇。狂気の沙汰と笑われても仕方ない行為であることは自分でも十分承知していた。
 男達がこちらへ向かって、生い茂る草をかき分けながら走ってくる。
 わたしは腰を屈め、ススキの中に身を隠すようにして移動した。
 風が吹き、草原全体が波打つ。
 気ままに吹く風によって、あちらでザワザワ、こちらでザワザワと揺れるススキに、男達はわたしの居場所を見失ったようだ。
 わたしは気配を殺し、そっとススキの間を縫って進む。
 鋭利な葉は、わたしの手に傷を増やしてくれたが、今は痛みを気にしている余裕すらなかった。
 突然、直ぐ右横の葉がこちらへ倒れてきた。男の一人が、大股で葉をかき分けながら歩いていくのが垣間見えた。
 わたしは姿勢を更に低くし、それをやり過ごした。
 あの乙女がいたはずの方向へ、少しずつ近付く。
 やがて、ススキをならして広場のようにした場所に出た。
 広場の真ん中に、あの乙女が後ろ手に縛られたまま、力なく横たわっている。
 わたしは乙女に近付くと、そっと肩に手を触れた。乙女は目を開けわたしを見ると小さな悲鳴を上げた。
 その口を慌てて押さえる。
 「しっ」と口に人差し指を当てる。
 古代の娘に、このジェスチャーが通じたのかどうかわからなかったが、口を塞いだ手を離しても、娘はじっとわたしを見詰めるだけで、声は出さなかった。
「あなた、助けます」
 わたしは囁くと、娘の腕を縛った荒縄をなんとか解いた。
「逃げましょう」
 乙女の手を引いて立ち上がった。
 わたしを探し回っていた男達が、わたしと娘の姿に気付いた。こちらへ向かってくる。
 わたしは乙女の手を握ったまま走った。
 ススキヶ原を走るのは困難だったが、とにかく、この丘から離れようとそれだけを考えた。
 しかし、走っても走っても、延々と草原が続いている。
 これほどまでに広い丘ではなかったはずだ。いくら何でもおかしいと気付いた時には、わたしはもう逃れられない罠に完全に捕らえられていた。
 乙女がわたしの腕に両手を絡めてきた。
 見ると、その手は、肉が落ち、細い骨になっている。
 驚いて振りほどこうとしたが、しっかりと絡みついて離れない。
「汝、聖なる時を穢すものよ。汝が血をもて、穢れを祓わん」
 乙女の顔も骸骨と化していた。剥き出しの歯がわたしに迫り、頭骨にわずかに残った長い髪が、わたしの顔をなめるように這う。
「Oh my God…… !」
 思わず漏れたわたしの呟きは、骸骨の嗤いにかき消された。
「さあ、この男の血を、地に捧げよ!」
 乙女の骸骨が高らかに叫ぶと、いつの間にか周囲を取り囲んでいた男達の骸骨が、わたしの両手両足を捉える。
 そのまま、担ぐように宙を運ばれ、広場に連れてこられると、地面に仰向けに張り付けられた。
 掟を破って声を発してしまったわたしは、儀式を妨げた代償として、不履行に終わった儀式を完結させるべく、生贄の代替をせねばならなくなってしまったらしい。
 祭主の成れの果てと思われる骸骨が、剣を手に、あの意味不明の言葉で詠唱を始める。
 逃れようともがくのだが、他の骸骨達にしっかりと押さえつけられた手足はびくともしない。
 擦れた手首と足首が痛む。その痛みが、これが夢であれば良いのにという思いを打ち砕く。
 祭主の言葉に他の骸骨達が唱和し、長く音を引いて祈りが終わった。
 そして、ついに剣が振り上げられる。
 わたしは節サンと子供たちのことを思った。何時かは先に逝かねばならぬ身だとはわかっていたが、それが今だとは信じたく無かった。
 月光に、振り上げられた剣が光る。
 それは、確かな存在感をもってそこにあった。
 あの剣は、間違いなくわたしの首を跳ね飛ばすに違いない。
 死の恐怖が迫る。
「節サン…… あなたのもとに戻りたい…… タスケテ……」
 恥も外聞もなく、祈る。心の底から願う。
 願いも虚しく、高々と上げられた剣は無情にも振り下ろされた―― と、思った瞬間、顔面に迫っていた剣に何かが当たり、剣は粉々に砕け散った。
 目の前を浮遊する、小さな光る虫のようなもの。
 以前にも、それを見たことがあった。
「守護霊(Patronus)……!」
「蕃神(あだしかみ)が!」
 剣を失った祭主は、怒りも露わに光る精霊を掴み取ると、握りつぶした。祭主の手から煙が上がり、指の骨が溶ける。
 祭主は忌々しげに顔を歪めると、手を開いた。小さな羽根がヒラヒラと落ちていった。光は消え、単なる羽虫の死骸のようにしか見えなかった。
 微かに生じた希望は、一瞬で潰(つい)えた。
 祭主の腕が伸びてきて、わたしの首を掴んだ。
 四肢は相変わらず押さえ込まれており、どんなに身を捩って逃れようとしても、まったく動くことが出来ない。
 頸骨を折ろうと、首に掛かった指に力がこもる。
 今度こそ、もうお終いなのだと思ったところ、突然、熱いものにでも触ったかのように、祭主の手が離れた。
「お前、懐に、何を隠している……!?」
 言われてわたしは、自分の胸へ目をやった。
 祭主の手が、浴衣の襟を掴んで左右に大きく開いた。
 以前、節サンから貰った何かの青銅器の欠片が、革紐を通して首から提げてあった。
 それを見た途端、手足を押さえつけていた骸骨達が悲鳴を上げて飛び退く。
 わたしは起きあがり、革紐を外して、青銅器を手に取った。
 これをくれた時、「お守り」だと言って笑った節サンの顔が思い浮かび、泣きたい気持ちになった。
 青銅器は、わたしの手の中で光を発し、一本の剣に姿を変えた。
 その剣で、祭主に斬りかかる。
 剣は、何の抵抗もなく骸骨の体をすり抜けた。
 祭主も驚いた様子だったが、どうやらそれで、恐れるに足りないと判断したようだ。再び押さえ込もうと、仲間に合図して、わたしを取り囲んだ。
 直ぐに飛びかかって来なかったのは、それでも、少しはこの剣のことを警戒している為らしい。
 わたしは、剣を構えたものの、途方に暮れていた。どうすればこの窮地を脱することが出来るというのだろう。
 太陽さえ昇れば、冥界の住人はその住処へと還っていく。しかし、それまでこの亡者達の動きを封じておく手段はなさそうだ。
 わたしを取り囲む骸骨達の輪がじわじわと縮んできた。
「先生、ここは焼津ですよ」
 ふいに惣吉の声がした。
 声の方を見ると、骸骨の輪の外から、暢気な笑顔をこちらへ向けていた。
「逃げなかったのですか?」
 とうにわたしを見捨てて逃げたと思っていたのに。たとえそうであっても、わたしは彼を恨もうとは思わなかった。
「逃げる意味がありませんから」
 惣吉は笑みを深くする。実際、骸骨達の目には惣吉が見えていないし、声も聞こえていないようだった。惣吉はわたしと違って、自分の身が安全なことを知っていたようだ。
「焼津。当たり前です。それが、どうかしましたか?」
 惣吉の泰然とした様子に苛立ちを感じ、知らず知らずに声が荒くなり、そのことで自己嫌悪が募る。
 惣吉の所為ではないのだ。ついさっきまでの感情はどこへやら、惣吉に恨みを抱きそうになり、これは自分が招いた災いなのだと、自身に言い聞かせねばならない始末だった。
「焼津で、土地神からの危難を救ってくれるのは、草那芸剣です」
 惣吉は、こちらの波立つ心などまったく気付かぬ様子で、穏やかに言葉を返してきた。
「たとえ神様の剣でも、切れなければ、意味、ありませんね」
「クサナギノツルギ…… すなわち、The Sword Cut down Grass…… 名は体を表すですよ」
「Cut down Grass……?」
 一面のススキヶ原。
 わたしは、それが何の役に立つのかわからぬまま、周囲のススキを手にした剣で薙ぎ払った。
 切られたススキの葉は宙を飛び、ほんのりと幽界の光を纏いながら、鋭い青銅の剣に姿を変えた。
 それを見て、ギョッとしたように、骸骨達が後退る。
 剣は、クルクルと鮮やかに宙を舞い、次々と骸骨達に向かっていった。
 わたしは、夢中で周囲の草を薙ぎ続けた。
 次々と生まれる無数の剣が、逃げまどう骸骨達に突き刺さってゆく。
 わずかな隙間も無く全身に剣を生やした骸骨達は悲痛な叫び声と共に姿を消した。
 骸骨達が消えた向こうに、乙女が立っていた。
 肉が付き、元の美しい姿に戻っている。
 哀しみを宿した目でわたしを真っ直ぐに見詰め、両手を大きく広げて、訴えてくる。
「妾を助けて……」
「殺しなさい」
 惣吉が、冷たい声で言う。
「それ、出来ません。助けて、言ってます」
「殺すことが彼女を助けることです。あれは神です。豊饒の神。殺されて、五穀を実らせることでその使命を果たせるのです」
「悪くない人殺す。罪です」
「あれは人ではない」
 乙女が近付いてきた。
 伸ばした手をわたしの首に巻き付ける。
「妾と……」
 美しかった容貌が、瞬時に骸骨に変化する。
「共に、贄(ニエ)となれ!」
 大きく開かれた口が喉元を噛みきろうと襲ってくる。
 わたしは噛まれまいと身を捩り、剣を振るった。
 ススキの葉が飛び、新たな剣となって乙女の骸骨に突き刺さる。
 数本の剣を受けても、骸骨は、わたしを離そうとしなかった。
 再び、もがきながらも、闇雲に剣を振るう。
 飛び散った葉が剣となり更に骸骨を貫いた。
 乙女の骸骨は、ようやくわたしから手を離した。
 わたしは、周囲の草を思いっきり薙ぎ払った。
 無数の剣が生まれ、骸骨を差し貫いてゆく。
 余す処なく剣を受けて、骸骨は絶叫した。
 瞬間、その姿が乙女に戻る。
 血を流しながら乙女は満足そうに微笑んだ。
 その姿が、崩れるように消えた。
 宙に浮いていた剣が、葉に戻り、パラパラと地面に落ちていく。手の中の剣も、元の青銅器の欠片に戻っていた。
 危難を脱したが、わたしの心は晴れなかった。
「わたし、気持ち、哀しいです」
「先生はあのまま、代理のイケニエとして死にたかったのですか?」
 わたしは首を横に振った。
「死ぬ、嫌です。でも、わたし、殺すもっと嫌です」
「先生はさっきおっしゃったじゃないですか。散る、新しい命生まれる。循環。輪廻。無駄はないのだと―― ほら、見てください……」
 目を上げると、乙女が死んだ場所から、種々の作物がものすごい勢いで生え始めていた。
 それは瞬く間に、丘全体に広がり、周囲の水田にまで波及していく。
 瞬時の幻想だった。
 世界が、丸ごと豊かな実りに覆い尽くされたと思った瞬間、それは消え去り、元の闇に包まれた草原だけが残っていた。
「今のは何でしょう?」
「豊饒神の力です」
 惣吉は微笑んだ。
「わたしやったこと、何だったのでしょう。殺す。悪いこと違いましたか?」
「最初に言ったでしょう。あれは人ではなく神だと。大昔に殺された神です。殺されるその時であったなら、もしかしたら救うことも出来たかもしれませんが、今はそれも叶いません。人々の願いが、神話となって、ここで繰り返し再生されてるに過ぎません。神は毎年死んでは再生し続ける。殺さなくては生まれない…… 稲や麦や大豆は、実りを終えると枯れていきますが、また次の年には、新たな実りが生まれるのと同様に、豊饒の神は次の生の為に、死に続けなくてはならないのです」
「それ、哀しくありませんか?」
「そうでしょうか? だって人も、死ぬ為に生まれてくるじゃありませんか」
「いいえ。人、生まれる、生きる為です」
「何を残して死ぬか。生きるってことはそういうことじゃありませんか?」
 惣吉の目は哀しみに満ちていた。彼の無念を想像し、わたしの心も暗く沈む。
「確かにそうかもしれません…… わたし、死んだら、何残せるでしょうか……」
 憂鬱がわたしを包み込む。自分の人生を振り返り、寂しさが湧き起こる。
「先生はすでに多くのものを残して来られたじゃありませんか」
「わたし、でも、まだ死ぬ、少し早い思います。やりたいこと、残っている」
「やりたいことをやって死ねたら幸せでしょうね」
「惣吉のやりたいこと、何でしたか?」
「さあ」
 惣吉は寂しそうに目を伏せた。
「もう、帰りましょう。じき夜が明けてしまいます」
 わたしは頷き、惣吉の後に付いて、元来た道を戻った。

「これ、本当に草那芸剣、思いますか?」
 胸に提げた青銅器の欠片を掲げて訊ねると、惣吉は首を振った。
「何か力のある物のようですが、本物ではないでしょう。ただ、場所と、場面とに応じて、見合った力を引き出したとのだと思います」
 そうかもしれない。三種の神器である本物の草那芸剣は、二位の尼に抱かれた幼い安徳天皇と共に壇ノ浦の海の底にあるはずだった。
「先生だったからこそ、不思議な力も発揮出来たのでしょう」
 惣吉は嬉しそうに言った。
「一ツ目は神の力に通ずるといいます。先生の隻眼は、聖痕(スティグマ)かもしれませんよ。天目一箇神(アミノマヒトツノカミ)は一ツ目の鍛冶神ですが、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)――つまり、草那芸剣を作った神様だといいますしね。その神の力が先生に宿っているならば、あの剣が草那芸剣であったことも納得がいくんじゃありませんか?」
「いいえ、わたし神様、違います。神様なりたいと思いません。わたしの力、違います。きっと、これくれた、節サン、わたしを守ってくれたと信じます」
 確かにわたしには何か不思議な力が備わっている。
 若い頃事故で左眼を失明してから、右目も徐々に視力が衰えてきていた。神戸にいた頃はほとんど失明寸前だった。幸い良い医者と休養のお陰で辛うじて視力を保つことが出来たが、かなり不自由な目であることは確かだった。原稿を書くにもすりつけるようにしなくては見えないし、愛する子供達の顔を見るにも片眼鏡が必要だ。
 そんな風に、この世のものはほとんど見えていない目のくせに、この世ならざるものはよく見える。太陽の光よりも月の光。人間も、その姿よりも魂の方がよく見える。
 しかし、わたしの力は「見ること」だけだ。わたしはいつでも観察者であり、記録者だ。それ以外の力は何も持っていない。
 見ること、考えること、そして、書くことだけが、わたしのこの世に留まる理由だった。それを支えてくれるのがこの右目だ。
 その右目が、ふと違和感を覚えた。
 その正体を探ろうと、周囲を見回して、わたしはあることに気付いた。
「タンボの稲、来た時よりも、ずっと元気。伸びてます……」
「これが、豊饒の神の恵みですよ」
 豊作を約束するように、生き生きと天に向かって伸びる稲を見て、わたしは複雑な心境になった。
「チャイナの歴史家、司馬遷の言葉、わたし、考えます。“天道は是か非か”…… 善くなき行為が産んだ恵み、それがどんなに素晴らしく見えても、わたし、素直に享受出来ません。これ褒めたら、あの娘イケニエにした男達の行為、認めるなります。わたし、それ嫌です。どうして悪行の上に善が実るの、ありえますか? この目で見せられても、わたし、それ認めたくありません。誰かの犠牲の上の幸せ、間違い信じます。惣吉、さっき言いました。人、死ぬ為生まれてくる。わたし、あれから考えました。桜は咲き誇った後、自然に散ります。米や麦も実った後、力使い切って自然に枯れます。でも、イケニエ、自然、ありません。命が一番輝いている時、無理やりそれ奪います。自然、違う、美しくない。正しくないです」
「この実りを否定しないでください。これを否定されたら、あの娘が生きた意味、死んだ意味が全部消えてしまいます。この世に何一つ残すことが出来なかったことになってしまう。その死が無駄死にになってしまう。彼女の生をも否定することになってしまう。せめて、こんな形であっても、役に立ったのだと思わせてやってください……」
 惣吉は唇を噛むと俯いた。
「惣吉、あなた、もしかして……」
 最後まで聞かずに、惣吉は、わたしの言葉を拒むように背を向けて歩き出した。
 わたしも、質問を飲み込んで、彼の後を追った。

 松林を抜け、乙吉の家が見えた頃には、東の空がうっすらと明るんでいた。
「先生は、もう、夜歩きは懲り懲りですか?」
 惣吉が寂しそうに言う。
 わたしは「ノー」と首を振った。
「不思議、好きです。これだけはやめられそう、ないです」
 笑いかけると、惣吉の顔にも今までにない明るい笑みが零れた。
「では、これで」
 惣吉は丁寧にお辞儀をすると、わたしに背を向けた。
「また、連れて行ってください。約束です」
 惣吉は肩越しに振り向き微笑んだ。
 再び歩き出した背中が、朝日に溶けて消えてゆく。
「惣吉ですか?」
 背後から愛しくも懐かしい声がした。
 ほんの一晩会わなかっただけなのに、もうずいぶん長いこと離ればなれになっていたような心地がした。
「あなた、惣吉、姿見えましたか?」
 振り向いて訊ねると、節サンは、小さく首を振った。
「わたしにはそんな力はございません。ただ、ハウンさんが、東京からこちらへ来た日、惣吉を祀る祠(ほこら)に熱心にお参りなさっておいででしたから……」
「節サン、惣吉死んだ理由、皆、事故だ言います。乙吉もよく教えてくれません。事故だと、それだけ。節サン、惣吉、殺された、思いますか? さっき、昔に殺された神、見ました。イケニエで、人柱でした。惣吉はアレを見せて、わたしに何か伝えたかった、思いますが、わたしの考え違うでしょうか? この国、人が神様なります。力のある者、祟られたら困る者、皆を救おうとした者、皆神様なりますね。人は、己の利益、いつだって優先です。利益の為に犠牲出す。そのくせ、犠牲になったものを畏れて祀る哀しい人達です。惣吉、どうして祀られますか? 何かの犠牲、なった違いますか? わたしには、そう思われて仕方ありません」
「さあ? わたしには何も。惣吉は何も言っていなかったのですか?」
「訊こうと思いましたが、出来ませんでした。惣吉、訊くこと望んでありません」
「ならば、ハウンさんには知って欲しくないのでしょう」
「そうでしょうか? 本当のことを調べて欲しい、思ってるのかもしれないと、わたし考えましたが……」
「あなたがなさることではございませんでしょう?」
 節サンは不安そうに目を伏せた。
 わたしが関わることを怖がっているようだ。だから、これ以上、この話をするのはやめにした。
 節サンに感謝の言葉を伝えたかったが、夜中の出来事を話せば、死ぬほど驚くことだろう。だからその話も口にするのはやめておく。その代わり、精一杯の感謝と、ありったけの愛を込めて、節サンを抱き締め、結い上げた髪にそっと口付けをした。


     *


「もう、今夜はお出掛けにならないでくださいませ」
 節は良人の胸に顔を埋め、その温かさを確かめながら、切実な願いを口にした。節の考えは良人とは違っていた。
 亡霊は哀しいからこそ現れる。亡霊の哀しみは三つだ。「憎悪」か「孤独」か、もしくは「未練」。そして、それは、この世の人が抱える哀しみと同じだった。
 惣吉は、自分の住処に、共に話せる相手として、ハウンを連れて行きたいと思っているのだろうと節は思う。このまま惣吉と会うことが続けば、いつかあちらの世界に引き込まれてしまうに違いない。
 しかし、ハウンは、節の願いに、はっきりとした返事を避けた。
「亡霊の後をついて行かれたら、そのうち、芳一のように耳を取られてしまいますよ……」
 節がそう言うと、良人は抱擁を解き、節の顔を覗き込んだ。
「それ、何の話ですか? コワイ話ですか?」
 子供のように、期待に瞳を輝かせている。
 こういう時の良人の顔が、節はたまらなく好きだった。この人を失いたくないと、心の底から思う。
「こういうお話は、お天道様の下では憚られます。陽が沈み、ロウソクの火の前で、語るべき話でございますもの」
「構いません、わたし、今、その話、聞きたいです」
「いけません」
 ダダをこねる子供のような良人を手で制して、節はきっぱりと言った。
「今夜、床にお入りになる前にこそ、お話いたしましょう。平家の亡霊と哀れな琵琶法師のお話にございます」
「アア、夜が待ち遠しいです。節サン、それまでわたし、何してたらいいでしょうか?」
「一雄と海にいらしたらよろしいでしょう? でも、その前に少しお休みください。昨夜はまるで寝ていらっしゃらないのでしょう?」
「大人しく寝ます。一雄と海にも行きましょう。ですから、きっとですよ。その、平家の亡霊の話、わたしに、してください」
 節は良人と指切りをした。
 節は感じていた。この人はいつかそう遠くない日に、ここではない別の世界へ旅立ってしまう人だということを。
 だが、出来るならばその日を少しでも延ばしたいと願っていた。
 だから、節は、夜な夜な良人に物語る。
 千夜一夜物語のシェヘラザードが、己の命をこの世に引き留めておく為に寝物語をしたのとは反対に、良人の命をこの世に引き留めておこうと、新しい話を仕入れてきては、それを求めて止まない良人に語り聞かせるのだった。
 
 その後も毎年、ハウンの一家は焼津を訪れた。
 そのたびに、良人が惣吉と会っているのを節は知っていた。が、彼女にそれを止める術はなかった。
 そして、四年後の九月。別れは唐突に訪れた。
 東京の自宅で、心臓の発作を起こし、ハウンはあっけなくこの世を去った。
 その死に顔には、満足の笑みが浮かんでいた。
 節は、松江で、ハウンが仔猫を拾ってきた時のことを思い出した。
 悪童らの悪戯で湖に入れられたずぶぬれの猫を、懐に大切そうに温めながら戻ってきたのだ。
 猫を綺麗に洗って乾かしてやった後、コレクションにしていた鈴の中から小さな金の鈴を選んで首に付けてやりながら、ハウンはやっぱりこんな笑みを浮かべていた。
 小泉八雲、享年五十四歳――
 良人の遺骸を納めた棺の前で、節は、溜息と共に小さな声で呟いた。
「いつか、こうなることはわかっておりました。あなたは、いつでも自分が助けるしかないと思った者に対しては、親切すぎるくらい親切な人でしたから……」



以下の書籍及びWEBサイトを参考にさせていただきました。

『ヘルンとセツの玉手箱〜小泉八雲とその妻の物語〜』藤森きぬえ/文渓堂
『小泉八雲』小泉節子・小泉一雄/恒文社
小泉八雲略年譜(http://anny.kinjo-u.ac.jp/~nakata/Nakata/Data/Tsusin/Hern/Hernchro.htm)
小泉八雲資料室(http://www.so-net.ne.jp/storygate/story/yakumo/)
日本神話の御殿(http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/index.htm)

特に恒文社の『小泉八雲』からはセリフをいくつか引用させていただいております。
なお、この物語はフィクションであり、物語の展開上、事実に基づかない記載がいくつかあることをご了承ください。
ええ、そうです。この日、節サンと次男は焼津ではなく東京の自宅にいるんですよ。あわわ。(^^;;;


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