ドラゴンバラード 〜Twin Tails〜
紫雲 正宗


1、空における痴漢撃退法
 ミケネスアルゴの街はエイリル王国の時代から続く歴史のある街だ。
 また、一年じゅう温暖な気候を持ち、多くの島々が点在する温かい海に面しているため、現在では海水浴客なども訪れる観光の名所となっている。
 街の北東、望海の丘の上にはフェルディナンド候の元住んでいた古城。街の中心には千年もの間この街の風景を眺め続けてきたフォルテュナ大聖堂。郊外に少 し足を伸ばせば紀元前の遺跡群。
 市街に目を向ければ、伝統的にほとんどすべての建物が青瓦と白い壁に統一されていて、中世期の町並みをそのまま今に残している。海岸線に続く白い砂浜は 多くの海水浴客で賑わい、港からは島々を繋ぐ連絡船や遊覧用の飛行艇が出ていた。
 そんな街の中心部にある、比較的新しく建てられた大きな建物。
 ロータリーに面した広い玄関の脇には『ミケネスアルゴ観光協会』の掛け看板があった。
 重厚なドアを押し開けて入ると、中は思いのほか広いホールになっている。手前にはいくつもの待合椅子が並び、多くの客が椅子に腰掛けて順番を待つ姿が見 受けられる。その先には横長のテーブルが置かれいくつもの受付カウンターが設置されていて、その中では観光協会の職員が利用客の数限りなく寄せられる要望 に応えるために奮戦していた。夏のシーズンともなると毎日のようにこの光景が繰り返されるようになる。
 待合椅子の右手のスペースには、これまた横長の棚が設置され、その中にたくさんの観光冊子やパンフレットが置かれていた。古代遺跡などの観光スポットを 扱ったものや海岸沿いのホテルを一通り掲載しているもの、遊覧飛行船の案内や、中にはすぐ近くのレストランや百貨店のものまで紛れ込んでいた。
 そんな一画に、白い紙の上に2・3色ばかりを使って実にそっけなく、ほんの数行の文が書かれだだけのチラシが、まるで売れ残った地方新聞のごとく山のよ うに置かれていた。
 そこにはこう書かれている。
「タクシーのご用命はぜひ、我々の“ツインテイル社”まで。海に浮かぶ島々へ、郊外の古代遺跡群へ、どこへなりともお客様をお連れいたします(運賃は一 律、640ルリィとなっています)。なお、いまならこのチラシを持っていくだけで10%オフとなる期間キャンペーンを行っています。ぜひ、ご利用くださ い!  TEL088054‐2‐3688」



 それは、中央大聖堂前の黄昏の広場でのこと。
 ベルナルディーナの鞍に横向きに座りながら、片手に地方紙を持ちつつ、昼食のサンドイッチを頬張っている最中のことだった。
「あのぉ、すいませぇん。あたしたち、エヴィーア島まで行きたいんですけど、乗せてってもらえます?」
 妙に甘ったるい声に顔を上げると、そこにはカップルと思しき男女二人が立っていた。
――今日のお昼は、これで終了か。
 心の中で1人ぼやきながら、シルヴィアは少し待ってくれるように手で制し、昼食の最後のひとかけらを一気に口の中に入れて、ロクに噛まずに飲み込んだ。
 読んでいた地方紙はカーキ色の麻ジャケットの下、背中のサスペンダーに挟み込み、後ろまわしにしていた会社指定のカスケット帽を被り直す。
 左胸にいつも携えている無線機に手を伸ばし、
「黄昏の広場、一騎」
 それだけを手短に伝える。すると、ほどなくして無線機の向こう側から『了解!』の声が返ってきた。
 そこで初めてシルヴィアは昼休み明け最初の客人へ向き直る。
 なるべく自然な笑顔を作るよう心掛けながら、
「すいませんが、私どものタクシーは一騎につきお客様お1人というのが決まりになっておりまして、すぐにもう一騎をご用意いたしますのでしばらくの間お待 ちいただけますでしょうか?」
 この仕事を始めてからもう何度言ったか知れない常套句はだいぶ手馴れたものだった。
 後は客次第。
 これで待てないといえばそれまでだし、待ってもらえるなら目的地までキチンとお届けする。それがルールだ。
 そこで、仮に待てないとなったときでも無闇に引きとめようとすることは避けること。
 もし、ほんとうにその客が急いでいて待てないということであれば、そこで引きとめようとするのは相手にとっては迷惑以外のなにものでもなく、心証的にあ まりよくない。
 さらに言うなら、その引きとめようとしている間に、もしかすれば次の客がついている可能性もあるわけで、ここで粘ることは決して得策ではないのだ。
 それは、彼女の勤めるツインテイル社のマニュアルにもしっかりと記されている。
 ……ただ、中にはひねくれた客というのもいて、
「べつに一騎いりゃ充分だろ? 客二人乗せたんじゃダメなんか?」
 口を開いたのは、甘ったるい声の彼女の後ろで――なにがおかしいのか、ずっと薄ら笑いを浮かべながらタバコをふかしていた彼氏の方だった。ボサボサの髪 型が鳥の巣を連想させる。
 それに対して、シルヴィアはいつもどおりの表情を心掛けながら背中越しに自分のパートナーを指し示し、
「大変申し訳ありませんが、そのような規則になっておりまして。残念ながら二人ご一緒にというのは出来ないんです」
 そのシルヴィアの説明にあわせるようにベルナルディーナが、身体は伏せたままひとつ小さく羽ばたいて見せた。その背中には騎手用の鞍と、その後ろに乗客 が座る座席がひとつあるだけ。その座席も、ほんとうに小さくシンプルでとても一人以上が乗れるようなものではない。
 しかし、それでも鳥の巣ヘアの彼氏は乗客席の後ろの荷台をあごで指しながら、
「いいじゃんかよ。ひとりが荷台に乗っかりゃいいんじゃねぇの? そおすりゃ、二人乗せて飛べっだろ?」
「そういわれましても、やはり危険ですし。それに“飛竜航行法”でも『ドラゴンタクシーの乗客は1名以上を乗せてはならない』と定められておりますので」
「んなの大丈夫だって。バイクの二人乗りだって交通法で禁止されてんのにみんなやってんでしょ? バレなきゃオッケー!」
「いや、そう言われましても……」
 そりゃ、あんたはいいだろうけどこっちは生活かかってんだかんね! そんなことやってもし見つかったら免許取り消されるのよ、そうなったらあんた責任取 れんの!? あたしの再就職先探してくれるわけ?
 顔で笑って心で毒づいて。
 お客様は神さまだといったような考えでもって、こういう無茶を通そうとする客がたびたびいて、そのたびにシルヴィアは辟易する。
 『そんなことで毎回気疲れしてちゃこの仕事はやってけねぇぞ』とは社長によく言われるが、こればかりは仕方がない。
 なおも食いついてくる鳥の巣彼氏にいいかげん嫌気が差してきたころ、
「お待たせいたしましたー! 今回は私どもツインテイル社をご指名いただきありがとうございまーす! お客さま2名様、空の旅へとご案内ー!」
 陽気な声を上げながら1匹のドラゴンが降りてきた。
 同僚のフランコとそのパートナーのアルドーだった。その1人と1匹の姿を目にしてシルヴィアは救われた気持ちになる。
「それでは、エヴィーア島まで行きたいと思いますので、どうぞお1人ずつ後ろの座席にお乗りになってください」
 こうなってしまえば後はこっちのもの。強引に乗っけて空に上がってしまえば文句のひとつも出るまい。もしこの期に及んでもごねる様ならこちらから乗車拒 否したって構わない。
 お客様には真心を持って対応のこと、とは社訓の第一訓に掲げられた文句だけれども、営業妨害まがいのことまでされて黙っているほどお人好しに徹する必要 もないだろう。
「どーぞお好きなほうへ」
「わぁい。あたしこっちに乗るぅ」
 促がされて早々とアルドーの方へと乗り込んだ彼女の姿を見て、それでもまだなにか不満なのか、チッとひとつ舌打ちをしてから鳥の巣彼氏もようやくベルナ ルディーナの背中に納まった。
「ではでは、座席に着きましたらしっかりとシートベルトをしてください。ちなみに、ベルトはセルフサービスとなっておりますので、もしゆるゆるのままにし て飛んでいる最中に落っこちちゃったりなんかしても当方ではいっさい責任はおえまっせーん。ご注意くださーい」
 聾唖のフランコに代わりアルドーが冗談混じりに注意事項を述べる。アルドーがしゃべりに徹しフランコは騎乗に専念するというこのスタイルはこのふたり特 有のものだ。ちなみに、ベルナルディーナの方は話す事はできるが極度の人見知りのため仕事の最中にしゃべる事はほとんどない。
 人見知りをするドラゴンというのも滅多にお目にかかれるものではないだろうけれど、とにかくその分はシルヴィアが補うことになる。この仕事ではなにより パートナーシップというヤツが大事なのだ。
 客を乗せ、シートベルトを確認し終えて、ベルナルディーナとアルドーの2頭はいよいよ空を目指さんと天を仰ぐ。
 空は快晴、風もなく穏やかで、青空散歩をするには申し分のない天気だ。広場の真ん中に設けられた、全体を黄色くペイントされている信号機は青を点灯させ ていた。それはつまり、黄昏の広場上空を通過予定の飛行艇や他のドラゴンがいないことを示していた。
 それを確認し、シルヴィアは満面の営業スマイルで告げる。
「事故に繋がりかねませんので上昇を終えるまでは座席にしっかりと掴まり、舌を噛まないよう注意してください。それでは出発いたします!」
 黄昏の広場から2匹のドラゴンが大空へと飛び立っていった。



 空に上がってしまえばすこしは大人しくなるかと思ったが、大間違いだった。
 しかも、
「それにしても、きみ可愛いねぇ。シルヴィアちゃんていうのかぁ」
「まさか、こんな可愛い子がタクシードライバーなんてね。もったいないなぁ〜」
「君なら、タクシーなんかよかよっぽど稼げるとこあんじゃない? いや、ぜったいすぐに客付くって。……あ、なんだったら紹介するよ、オレそっちに知り合 いけっこーいるからさ」
 こともあろうにシルヴィアを口説き落としに掛かってきたのだ。それも、彼女のいる目の前で。
 もっとも、その彼女の方はアルドーとのおしゃべりに夢中だし、ならんで飛んでいるとはいえ、吹く風の音であちらの会話は聞こえないし、おそらくこちらの 会話も向こうには届いていないだろう。
 しかもそれだけじゃない。
 こちらが後ろを向けないことをいい事に、男はシルヴィアの身体を触るようになってきたのだ。
 始めは肩に軽く触れる程度のものだったのが、そのうちに腕や腰、さらにはその下の方にまで手が回されるようになる。その動作のすべてが肩を触ることから 入るので、遠めにはふつうに肩を叩いているだけにしか見えない。
 こんの腐れ男、ほんっと今すぐ全力で殴りたぃ! っていうか、このまま海に突き落としてやろうか!?
 なおも、ああだこうだと如何わしい話にもっていこうとする鳥の巣頭に、そのたびに「はぁ」とか「まぁ」とか「いや、それはちょっと」と適当に流し続け、 ちょっとずつ身体を動かすようにして伸ばされる手を交わそうとしてきたが、それにも限度がある。
 顔はまだ何とか笑顔を止めていたが、頭の血管はすでに煮え立ち湯気さえ出てきそうな勢いだった。
 口の端が引き攣り始め、手綱を握り締めた手はあまりに強く握りすぎて白くなっている。
 もうこれ以上、我慢できない。
 こんど手を伸ばしてきたら、肘鉄の一発も食らわしてやる! そう心に決め、身体に神経を集中させて、
「やぁやぁ、お兄さんのほうはどうですかい? 快適な空の旅を楽しんでいただけてますかね?」
 突然、真上から声が降ってきた。
 見上げると、どうもさっきから暗いと思っていたら、右斜め上の太陽の光を遮る位置にアルドーの姿が来ていた。
 同じ速度で飛行を続けながら、アルドーはほんの一瞬、まわりには気づかれないようにシルヴィアに目配せをした。
 どうやら、鳥の巣頭のしていたことに気付いてくれたらしい。
 ――助かった。
 シルヴィアはひとり胸を撫で下ろした。
 たとえ相手に非があっても、その客に暴力を振るったとなればオオゴトである。しかし、いまの自分はそんなことを顧みる事もなく昂然とこのいかれた客に手 を上げていたことだろう。よくよく冷静になってから顧みるに、それはとても恐ろしいことだった。
 それがまだ、地上においてのことならたいしたことはないだろう。でも、いま自分たちが居る場所は空の上なのだ。
 ほんのちょっとした軽率な行動が、相手の命を奪ってしまうことにもなりかねない。
 そうなってしまったら、冗談ではすまないのだ。
 ――アルドー、ありがと。助かったわ。
 シルヴィアは、いまだ心配そうにこちらを覗きこんでいるアルドーに、もう大丈夫だからと視線を送った。
「あ、あぁ、いやサイコーだね、うん。噂には聞いてたけどさぁ、こんな気持ちいいもんとはね! アハハハハッ」
 鳥の巣頭の声がみょうに上擦っている。自分のセクハラ行為を見られたんじゃあるまいかと恐れている様子が見え見えだった。
 そんなセクハラ男の様子を目にして、アルドーは再びシルヴィアに目配せ。今度は、いたずらっぽくウィンクしてきた。
 それを目にして、シルヴィアの顔に獰猛な笑みが浮かぶ。
 ――あれをやろうって魂胆ね。
 アルドー、流石にわかってるじゃない! の意味を込めて、シルヴィアは後ろのセクハラ男に気付かれないようお腹の前で小さく親指を立てて見せた。
 作戦決行!
 まずはアルドーがバリバリのセールストークで男に鎌をかける。
「いやぁ、それにしてもお客さん、運がいいっすよ! なんてったって我が社の誇るアイドル。あのシルヴィア嬢の背中に乗れてるんっすからね」
「あぁ、やっぱり。オレもね、最初見たときビックリしたんだよ。いやぁ、こんな可愛い子がタクシードライバーなんかやってるもんなんだなってよ」
「やぁね、アイドルだなんて恥ずかしい。お客さんもそんな褒めすぎですって。気にしないでくださいよ、彼ってほんとオーバーだから」
 二人から発せられた褒め言葉に照れたような仕草をしてみせるが、あまりの三文芝居にシルヴィアは自分でもあきれて笑えてしまう。
 それでもなおも、アルドーは鳥の巣男に向かってシルヴィアのことを自慢し続ける。
「でもね、こちらにおわせるシルヴィア嬢はルックスだけじゃないんすよ! ドラゴンの騎乗テクニックだって抜群! もうこの歳にして右に出るものはいな いっていわれてるくらいなんすよ!」
「またぁ、そんな大げさなんだからぁ」
「んもぅ、なに謙遜しちゃってんすか。なんてったって、彼女ね。年に一度開かれてるドラゴンレースの現チャンピオンなんすよ! どうですこれ、すごいっ しょ!?」
「……へぇ、そいつはすごいや」
 ちなみに、アルドーの言う“ドラゴンレース”とはミケネスアルゴで開かれているその名の通りのイベントで、どれだけ早くうまく飛べるかを競う空を舞台に したレースだ。毎年、業種を越えてさまざまな竜使い(ドラグノーツ)が参加し、その腕を競っている大会である。――と、ここまでは事実だ。
 問題はその先で、シルヴィアがこの大会に参加していることはしているのだが現チャンピオンというのは真っ赤な嘘だった。シルヴィアの腕は確かなのは事実 だが、この二年は結果7位と4位に終わっている。
 だが、いまはそれが真実かどうかなんてことはどうでもいいことで、現チャンピオンという単語は男を釣るための餌でしかない。
 まるっきり信じきっているという様子ではないが、それなりに頷いて見せている鳥の巣頭にアルドーがさらに畳み掛ける。
「でしょでしょ!? ……で、どうです旦那? もしよかったらこの機会に現チャンピオンの飛行ってやつを体感して見ちゃいかがっすか? これね、滅多にで きない体験っすよ!」
 おそらく、このひと言では掛からない。現に、男も少し逃げ腰になっている。しかし、それはすでに予見していたこと。
 本当のひっかけは次のひと言なのだ。
 シルヴィアがやけに大仰にのたまうひと言。
「えぇー、難しいんじゃないかしら? あのスピードには、“男の人”でもきっと耐えられないわよ?」
 この「男の人でも」というのがポイントなのだ。なかでもシルヴィアは“男の人”をえらく誇張して話した。バカな男はこういった言葉を聞くと「こんな一言 聞いて引っ込んでたんじゃ男が廃る」と思うものらしい。彼女の目の前でカッコ付けたいなんて思うヤツだと特に。
 現にバカな男のご多分に漏れていなさそうな鳥の巣頭はシルヴィアのそのひと言で急に腰を据え、腕組みをしながらこう応えた。
「いやぁ、そんなにすごいものならぜひ体験してみたいっすねぇ。いったいどれほどのものなのか」
 はぁーい、バカ男一名様ご案内〜♪ シルヴィアとアルドーの、どうにも堪えきれない笑みが交錯した。
 しかし、実際ここまで見事にハマる相手も珍しい。普通なら、もうあと一押し二押しくらいが必要なものなのだが。
「……じゃあ、ちょっとだけ、やってみますか? 言っておきますけど、失神しちゃったりしても知りませんからね」
 もうこれ異常ないというくらいの営業スマイルで、言葉尻にハートマークすら見えてきそうなくらいの冗談っぽさで言われて怖気づく男はまずいない。
 鳥の巣頭は、カッコつけながら堂々と言い放った。
「いつでもいいっすよ!」
 もしこれで、何事もなく乗り切ったら、さっきのオレの誘い請けてくれるんじゃね?
 そんな思惑見え見えな、ニヒルな笑みを前にして、
 ――この男、生かしてかえさねぇ。
 シルヴィアの心に、なにか得体の知れない悪魔が宿ってしまったようだったと、後にアルドーはそのときの様子を語っている。
「それじゃあ、サクサクッといってもらいましょう!」
 アルドーの掛け声と同時に、シルヴィアはカスケット帽に引っ掛けたままのゴーグルを掛け、臨戦態勢に。手綱を引き締め、身体をベルナルディーナに押し付 けるくらいに屈め、そして――、
「希代の天才竜使い。シルヴィア嬢のアクロバティック飛行に!」
「テイク、オーーーフ!」
「ひゃっほ    おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………………………ッ」
 身体を反転させてからいきなりの直角降下に入ったベルナルディーナ。その背中のセクハラ男の歓声は一瞬にして絶叫へと変わり、竜の姿は一瞬のうちに豆粒 ほどの大きさになっていた。



 10分後、エヴィーア島に無事に着いたシルヴィア一行だったが、鳥の巣頭はベルナルディーナの背中で完全に伸び切ってしまい、軽く失禁していたという。
 

 

 2、雨々慕情
 ミケネスアルゴの街はエイリル王国の時代から続く歴史のある街だ。
 また、一年じゅう温暖な気候を持ち、多くの島々が点在する温かい海に面しているため、現在では海水浴客なども訪れる観光の名所となっている。
 一年を通して、あまり雨の降らない土地でもある。とはいえ、まったく降らないわけでもなくて。
「……さすがに、暇ね」
 ほぼ2ヶ月ぶりくらいの雨は音を立てて振る、本格的な雨となった。
 こんな天気も珍しい。
 普段だと、この辺の雨は海から上がってくる湿った空気のために濃い霧のような非常に細かい霧雨になることが多く、今日のように粒が見えるほどの雨という のは滅多にないことだった。
 もっとも、ドラゴンタクシーにとっては霧だろと粒だろうと霙だろうと大差はなく、こんな日は呆れるくらいに客足が遠のいてしまう。
 シルヴィアも朝からサンライズアベニューで客待ちをしていたが、いまだにひとりも客が来ていない。
 最初のうちはそれでも、きっちり騎手鞍の上で雨に打たれながらも客を待っていたのだがいまではすっかり仕事意欲も失せ、雨避けの幌を張った客席の中へと もぐりこんでしまっている。
「……あー、どうでもいいけど、このコートなんだってこんなに蒸すのかしら?」
 ついさっき脱いだばかりのレインコートを軽く見やり、服の中にまで染み入った熱気を逃がそうと襟首辺りをつまんでパタパタとしている。
 すると、外からこんな声が聞こえてきた。
「シルヴィア、ちゃんと外で待ってないと。もし、お客さんが来ても行っちゃうよ?」
「えー、だってこれ着て外にいるとすごい蒸すんだもの。すごい、汗びしょびしょよ。どっちにしろ濡れちゃって、全然雨具の意味ないんだから」
「それでも、仕事なんだし……」
「そりゃあ、お客さんが来ればちゃんとするわよ。でも実際のとこ、全然客の来る様な様子もないでしょ?」
「それは、確かにそうだけど」
 幌を打つ雨の音。ビニール張りの窓には雨が行く筋も流れ、ただでさえ見づらい外の景色が余計見づらくなっている。
 その雨に歪んだ風景を見ているだけでも、人気のなさが分かる。平日の、まだシーズンが始まる前だと、まあだいたいこんなものなのだ。
 昔は――といっても、ほんの2・3年前のことだが――それでも、こんな雨の中でも懸命に客探しに走り回っていた時期もあった。しかし、こういう天気の日 にはどれだけ飛び回ってみてもそれに見合うだけの結果はついて来ないことを知り、やがて諦めることを知る。
 雨には勝てない。それが、シルヴィアの出した結論だった。
 しかし、真面目な性格のベルナルディーナにはそのシルヴィアの考えがどうにも納得できないらしい。
「ねぇ、ほんとにいいの? これじゃあ、今日一日、ひとりもお客さん来ないよ?」
「まあ、それでも仕方ない、かな? たぶん、ほかのみんなも変わらないと思うよ」
「でもさ、もうちょっと人通りのあるところに移動してみるとかしてみた方がいいんじゃない?」
「えー、めんどくさーい」
「……もーう、あとで社長に怒られても知らないからね」
 そう言って、それっきりベルナルディーナは黙ってしまう。呆れたような怒ったような、フンッという鼻息がひとつ聞こえてきた。
 しばらくの間、沈黙が流れる。
 時間だけが静かに流れていく。あいかわらず外は雨で、幌を叩く音は小さな妖精たちが拍手をしているようにも聞こえるし、川のせせらぎを聞いているように も思えた。
 欠伸をひとつ。こうなにもすることがないと、やけに眠くなってしまう。
 ポケットから懐中時計を取り出して確認すると、時間はまだ午前11時をまわったばかりだった。
「……さすがに、暇ね」
 今日これで何回使ったか知れないセリフが再び口を突いて出てしまう。しかし、実際に暇で暇で仕方がない。
 これで、忙しいときなら無線機からあっちいけ、こっちに飛べとひっきりなしに指示が送られてくるのだが、今日はそれもない。
 会社の一番奥にあるデスク、無線機の前で社長が肘を突いて眠そうな目をしている姿が容易に想像できた。
 ――そういえば。
 雨に濡れる風景を見ながら、シルヴィアはふと思い出す。
「ねぇ、ベルナルディーナ。わたしたち、前にここで、同じような雨の日に、なんか不思議な感じの男の子を乗せた記憶ない?」
 しかし、それに対するベルナルディーナの反応は、
「べつに」
 実にそっけないものだった。
 もしかしたら、怒っているのだろうか? わたしの不真面目な態度にベルナルディーナは腹を立てているのかもしれない。
「……もしかして、なんか怒ってる?」
「? なんで?」
「いや、なんかちょっと不機嫌っぽいから……」
「べつに、そんなことないけど」
「……なら、いいけど」
「……で? その不思議な感じの男の子がどうしたの?」
「――なんだっけ? 忘れた」
「…………」
 なにか、とても大切なことを思い出したような気もするが、まったくどうでもいいことのようにも思う。単に、いつか見た夢を思い出していただけなのかもし れないし、いつか実際に体験したことだった気もする。
 ――まあ、いいか。
 よほど大切なことなら、またいつか思い出すだろう。そう思い直し、あまり気にしないことにした。
 またしばらくの沈黙があたりを包む。
 先ほどまで身体を包んでいた蒸し蒸しした感じはどうにか拭えたが、今度は服が張り付いてどうにも居心地がよくない。
 ――あー、早く帰ってお風呂にでも入りたい。
 再び取り出す懐中時計。
 時間は、さっきからまだ30分も経っていなかった。
「ねえ?」
「……なに?」
「こうなったらさ、いっそのことばっくれようか?」
「…………」
「……なんて、冗談だよ冗談」
「……もう」
「――あー、にしても暇ねえ」
 雨は止まない。
 結局、その日1日、ベルナルディーナのため息もシルヴィアの愚痴も止むことはなかった。



 3、マダム・ローザの事情
 ミケネスアルゴの街はエイリル王国の時代から続く歴史のある街だ。
 また、一年じゅう温暖な気候を持ち、多くの島々が点在する温かい海に面しているため、現在では海水浴客なども訪れる観光の名所となっている。
 ……とはいっても、当然のごとく街中を闊歩している人間がすべて観光客であるわけはなく、ドラゴンタクシーの利用客も半数は地元住民になる。
 で、そんな半数を占める地元利用客の中には、「この客には気をつけろ!」と数多いるタクシードライバーから警戒されている、所謂ブラックリスト入りを果 たした客が何人かいて、その筆頭に挙げられる人物にマダム・ローザというご婦人がいた。
 齢60才を超えているだろうと目されるこのご婦人。多くはティンヴァリー駅近くで姿を見掛けるが、時には南海岸通りや暁の広場、聖テレーザ大病院前や一 度などはカジノアリーナなどで目撃されていて、その神出鬼没ぶりはタクシードライバーたちの間では脅威となっている。
 このおばあさん。話してみると非常に温和で物腰は柔らかくいつも人懐っこいくらいの笑顔でとてもいいおばあさんである。と、そこまで聞くとなんでそんな いいおばあさんがブラックリスト入りなのかと訝られるかもしれないが、問題なのはこのマダム・ローザに掴まると1日中引きずり回されるハメになるというこ となのだ。
 ふつう客から告げられる行き先は一ヶ所と相場が決まっているが、彼女の場合その行き先が四ヶ所五ヶ所に及ぶ。その複数告げられた行き先にまわり、彼女が 用事を済ませるのを待ち再び次の目的地へと向かうということを繰り返すのだ。
 さらに言うと、どういうわけかマダム・ローザはいく先々でドライバーに同行を求めてくるのだ。一番不思議なのが食事への誘い。彼女は「わたしが払うか ら、ぜひご一緒していただけないかしら?」と言ってドライバーと昼食を共にするということがよくあった。またその物腰が気品に溢れたもので、ドライバーた ちも断りきることができずついつい同席してしまう。
 そんな調子で、途中で逃げることもままならず、結局一日中彼女に付き合ってしまうことになる。それで貰えるのは規定で定められている一律料金の640ル リィだけ。「それだけじゃ悪いから」といって毎回チップを渡してくれるのだが、それではとても追いつかない。
 なにもそこまで付き合う必要もないんじゃないか? と思われるだろうが、なかなかそうもいかないのが現状である。もしヘタに「乗車拒否をされた」などと いうクレームがタクシーギルドに挙げられたら営業停止や場合によっては首が飛ぶこともありえるのだ。
 そこで、タクシードライバーたちはこのマダム・ローザをできるだけ避けようとする。いや、それはもうすでにタクシー会社間での争いにまで発展していた。
 『マダムRがタクシー乗り場に現る!』の報がどこかから上げられると、連絡無線や電話を使って会社間のマダム・ローザの緊急対策会議――というか、擦り 付け合いが始まる。一方、現場では何事もないかのように装っているが、皆がみな耳をそばだて視線だけを送って互いの様子を窺っている。マダムのご接待とい う大役が自分の下に来ないようにと神に祈りを捧げ胸元で十字を切る、のはさすがにやりすぎな気もするが。
 駅前広場に入ってくる道の先、行き交う人々の波の中にマダム・ローザの姿を認め、みなの間に緊張が走る。早々とほかの客をキャッチした者は救われたよう な勝ち誇ったような笑みを浮かべ、あとに残されるものは飛び立つ同業者に羨望の眼差しを向ける。
 いったい誰の元に大役が舞い込むのか、現場は秘かにざわめき浮き足立ち、マダムの姿がいよいよ大きく見えるようになってきて、
 その審判はついに下された。
『シルヴィア。すまんが、いってくれ』
 その無線を漏れ聞いて、まわりにいた数人の同僚が会心の笑みを浮かべる中、シルヴィアはひとり茫然自失の面持ちで、
「……またぁ。社長ったら、ジョーダンがウマいんだからぁ」
『…………』
「――あい。いってきますです」
 急に重くなった身体を引きずるようにして、シルヴィアはベルナルディーナと共に客待ちをしているドラゴンの列の先頭へと移動した。



 できるだけ早く帰って来いよ。
 マダム・ローザを乗せる前に無線からはそんな囁きが漏れ聞こえて来たが、無理言わないで欲しいとシルヴィアは思う。早く帰れるかどうかは完全にマダムの スケジュール次第じゃないか。
 ちなみに、本日のマダムのデートコースは掛かりつけの医者での定期診察、その次に手紙を出すためと貯金を下ろすために郵便局へ、昼食を摂った後、メルカ ド市場でのショッピング、最後に趣味の美術鑑賞のため美術館めぐりというコースだった。
 ――あー、もー今日は完全に残業だぁ。
 街上空をゆっくりと流しながら、頭上を流れ行くちぎれ雲を仰ぎつつ、背中のマダムに聞かれぬようシルヴィアは静かにため息を漏らした。
 北の外れのティンヴァリー駅を飛び立ってから、まずはマダム掛かりつけの町医者先生の医院まで。
 直線距離ならだいたい10km足らずの飛行距離だが、その直線上にカプリティーノ旧市街保護区がありその上空1km以下は飛行禁止空域になっているた め、いったん南に下ってから西に折れるという進路を取る必要があった。ちょうど、フォルテュナ大聖堂を経由する形になる。
 このあたりだとだいぶ海辺からは離れているため、街の雰囲気は観光地からはいくぶんずれて商業地といった感じを受ける。空から見下ろす街の風景は変わら ず青瓦と白壁とで統一されたものなのだが、なんというか少し華やかさというものが海岸沿いと比べると削がれているようなのだ。街ゆく人々の流れも、少しせ せこましい。
 はるか遠く、南の方に目を向けると軒を連ねる建物の向こう側、太陽の光を反射して輝くメーリア海をかすかに望むことができた。米粒のような小さな点が海 上に浮かび上がっていくのは遊覧飛行船の姿だろうか。
「シルヴィアさん、でよろしいのかしら?」
「はいっ?」
 唐突に声を掛けられて、シルヴィアは内心ドキッとした。完全に青空散歩の気分になってしまっていて後ろをまったく意識していなかったと言うのもあるし、 なにより仕事中に名前を呼ばれることなど初めてのことだったからだ。
 おそらく、マダムは後部座席に取り付けられている騎手のネームプレートで“シルヴィア”の名を確認したのだろうけれど、いままでマダムに名を呼ばれたこ となどなかったし、あまりに突然のことでなぜ自分の名前を知っているのだろう? とネームプレートの存在に気付くにも時間を要するほどだった。
 そんなシルヴィアの戸惑いになど毛頭気付いた様子もなく、マダム・ローザはいつもと変わらぬ様子で話し続ける。
「あなた、いま歳はおいくつかしら?」
「え? つい先日、18歳の誕生日を迎えたばかりですけれど……」
「まあ、すてきじゃない。またひとつ大人のレディーになったのね。とても、すばらしいことだわ」
「えっ、そんな。あ、ありがとうございます」
 妙にこそばゆかった。思い返してみても、自分が産まれた日をこれほど手放しの言葉で祝ってもらったことなどあっただろうか? 残念ながらそのような記憶 がシルヴィアにはなかった。
 マダム・ローザはなおも続ける。
「こうやって、あなたに乗せてもらって飛ぶのはもう3回目くらいかしらね?」
「……わたしのこと、憶えて下さっていたんですか?」
「ええ、もちろん。あなただけじゃないわよ。一度でも乗せてもらっていればきっと顔は憶えているわ。……なにしろ、わたしにとっては可愛い後輩たちですか らね」
「え、……後輩って?」
「あぁ、実はわたしもね、昔はドラゴンの背に跨ってお客様を運ぶ仕事をしていたのよ」
「! そうだったんですか!?」
 驚いた。そんなのまるで初耳だった。
 これだけ有名なマダムだから誰かに話していれば、どこかしらからこの話は漏れ聞こえてきてもいいはず。しかし、実際に耳にしたのは初めてのことだった。
 ということは、昔はタクシードライバーだったという話自体をするのも私が初めてなのだろうか?
「それでね、ついつい昔を思い出してしまって。みなさんの優しさに甘えて1日中振り回すようなことをしてしまって、ほんとうに申し訳ないことだとは思って るのだけれど」
「……いえ、決してそんなことは」
 言いかけた言葉はあまりにとってつけたようなセリフで、シルヴィアはおもわず口を噤んでしまった。しかし、それではとってつけた感をよけいに助長してし まったことに気付き、居た堪れずに思わず俯く。
 そんなシルヴィアを目の前にして、マダム・ローズは抑えるような笑いをくすくすと口元から漏らして、
「いいのよ、気にしなくて。私がみなから敬遠されていることには、もう気付いているから」
「じゃあ、どうして……」
「それとも、どうして敬遠されていると気付いていてそれを咎めないの、かしら? どうして敬遠されていると気付いていてやめないの、かしら?」
 言い辛くなって途中で切ってしまったシルヴィアの言葉の続きを、彼女はなんの突っかかりもなく平然と口にした。
「マダム。言いづらいことも結構ズバズバと言うんですね」
「あら? もしかして、ますます軽蔑されちゃったかしら?」
「いいえ、すてきです。かえって尊敬してしまいます。わたしは、どちらかというとそういうの、遠慮してしまうほうですから」
「そう? わたしは、これでもまだ遠慮深いつもりよ」
 ふたりの間に笑いが起きる。マダムはいつものお淑やかな表情だけの笑みではなく、実に子供っぽく無邪気に声をあげ、シルヴィアもつられるようにして顔が ほころばせた。
 ひとしきり笑顔もおさまってから、マダムはまたいつものような落ち着いた物腰に戻り、ひとめぐり、考えをめぐらせるようにしながら、
「なぜそれを咎めないのかと言えば、もちろん自分が悪いって事を分かっているからなのだけれど。そうねぇ、なぜそれをやめようとしないのかと言えば、誰か と過ごす時間を欲しいと思う心を、抑え切れなくなってしまったから、かしらね」
「誰かと過ごす時間?」
 背中越しに振り向いた時、彼女の瞳が少し寂しそうに憂いを表わすように細められたのを見てシルヴィアは息を呑んだ。
 ひどく寂しそうな、それでいてとてもうつくしい眼差し。節目がちに向けられた視線の先に彼女が見ているのは忘れられない大切な思い出か、それとも拭いき れない辛い過去だろうか。その姿は、高嶺にひとり寂しく咲く一輪の山百合を連想させた。
 なにか見てはいけないものを見てしまったんじゃないだろうか? ふいにそんな焦燥に駆られてシルヴィアは慌てて向き直る。
「なんと言えばいいのかしら。やはり歳を重ねると、人は弱さを身につけてしまうのかしら。自分はもっと強い人間だと思っていたのだけれど、ひとりでいるこ とに心は耐えられなかったみたい」
 あいかわらず、マダム・ローザの声はいつもよりも張りを欠く、なにかの詩を朗読するようなたどたどしい呟きとして聞かれる。
 マダムは言う。ひとりでいることに耐えられなかったのだと。だからこそ、誰かといる時間をもっと得たいと思って、自信が一番馴れ親しんだドラゴンタク シーという職につく者に声を掛けたのだと。
「…………」
 マダム・ローザはこの街で働くタクシードライバーたちの天敵である。
 なんて、思量に欠けた考えだったのだろう。
 自身すでに2度も彼女を客人として相手したと言うのに、たとえ相手の私生活に深く立ち入ってはいけないという訓告があったにしても、彼女の話す他愛もな い世間話を聞くともなく聞き流し、なぜ彼女がこれほどまでにドラゴンタクシーに拘るのか、なぜ自ら昼食代を出してまでドライバーなどと食事をしているの か、なにひとつ考えることをせずなにひとつ彼女の事を見ようともしないで、ただただ彼女のことを迷惑な客としてばかり扱っていた。
 なんて、思慮に欠けた行動だったのだろう。
「実を言うとね、私、産まれはここではなくてミハイリスなの。普通の家庭で豊かではなかったけれど不自由するようなこともなかったわね。けれど、生活して いくために勉強をして、免許を取って。タクシードライバーとして働いたのもそこ。初めてのお客さんは、そうねぇ、たしかまだ16歳だったかしら? そのま ま、その街で結婚して、子供を生んで」
 そこでひとつ、深くため息をつく。なにをどう話せばいいのか、ゆっくりと言葉を選ぶように、
 出てきた言葉は、重かった。
「……1度目の戦争で夫を亡くし、2度目の戦争で息子も連れて行かれてしまった。ふたりの後を追うようにして両親まで逝ってしまって、私は天涯孤独の身に なった。思えば、私の孤独はあの時から続いているのかもしれないわね。……幸せだった頃の思い出からも、残されてしまった辛い現実からも逃げるようにして この街に越してきたのだけれど、ひとりぼっちがよけいに身についてしまったみたい。やっぱりダメね、歳をとるって」
 マダムの様子がどうしても気になり、シルヴィアは再び背中越しに様子を窺う。
 瞬間。いまどこにいてなにをしているのか、完全に自分を見失ってしまうほどの驚きに襲われていた。
 そこにいたのは、腰の曲がりかけた白髪の老婦人などではない。豊かな黒髪、精巧な顔立ち、真珠のように煌いているかのような白い肌の、成熟しきった大人 の淑女。
 潤んだ大きな瞳は、いまは悲しみと憂いに細められていて、まるで昨日のことを思い出すように自らの半生を振り返っている。
 そこにいたのは昔の、若かりし頃のマダム・ローゼ。その瞬間、彼女の姿を目に捉えて、時間の流れが止まってしまったかのような錯覚に捉われていた。
 なにも聞こえない。なにも感じない。自分の身体がそこにあるのかどうかさえ疑わしい。ただ、目が、自分の目だけがそこにいる憂う貴婦人を捉えていた。
 ――なんて。なんてきれいな人なんだろう。
 ――でも、
 ――なんて、寂しそうな瞳をしているの?
 美しくも儚く散る花のような、精巧なガラス細工のような美しさ。いますぐ手を差し伸べて、救い上げなければそのまま壊れてしまいそう。
 流れのない時間の中で、シルヴィアは無意識にその美しい貴婦人に手を差し伸べようとして、
「シルヴィア、このまま直進してしまっていいの?」
「へっ?」
 ベルナルディーナの問い掛けで我に返る。いつのまにか、中継地点のフォルテュナ大聖堂がすぐ目の前に迫っていた。
 あわてて方向指示用のロッドを右方向に指し出し、前後上下左右の確認を素早くしてから右旋回。フォルテュナ大聖堂と黄昏の広場とを斜め下に見ながら進路 を西へと向ける。
「……ベルナルディーナ、ありがとう。ごめん、ぼーっとしてて」
「うん」
 シルヴィアは自分の不注意を恥じ、素直にベルナルディーナに詫びた。
 それでも、慌てた急旋回も気付かれぬようスムーズにやったつもりでいたのだが、
「あら、ごめんなさいね。もしかして、わたしのおしゃべりが邪魔してしまったかしら?」
 マダム・ローザの少し心配そうな声が背中に掛かる。
 さすがに元・同業者とあって見抜かれてしまったようだった。
「いいえ、とんでもないです! どうぞ、お気になさらずにマダム」
「そう? そう言っていただけると嬉しいわ」
 もしかしたら、急な旋回で話の腰を折ってしまったんじゃないだろうか? シルヴィアはむしろそちらの方を心配し、気分を害したんじゃないかとマダム・ ローザの様子を窺った。
 しかし、彼女は特に機嫌を悪くしたような様子もなく、いつも通りの温和な笑顔をこちらに向けていて、
「…………」
 そこにいたのは、若干薄くなった白髪の、時の長さを感じさせる皴をその顔に刻んだ、少し腰の曲がりかけの、いつものマダム・ローザだった。
 再び伏し目がちに、マダム・ローザは静かに話し始める。
「――もとから、人間が不器用にできていたせいね。新しい土地に来て、さしてあたらしいお友達ができるわけでもなかった。それとも、すべてを振り切って、 いちから新しく生きようとするには、歳を取りすぎていたのかもしれないわね。それで、どうしても人恋しくなってみなさんに迷惑を掛けてしまった。でも、そ れももう、終わりにしましょう。これ以上、みなさんに迷惑を掛け続けるわけにもいかないでしょう」
「……そう、ですね」
 マダム・ローズがしていたことも、その理由もよくわかる。もし、自分が同じ立場だったら。家族を亡くし、寄る辺もなく、すべてから逃れるようにしてたど り着いた新しい街で、話し相手もなくひとり静かに暮らす、そんな生活。きっと耐えられない。
 マダム・ローザも、耐えられなかったのだろう。
 でも、だからといってそれを容認するわけには行かない。仕事はあくまで仕事であって、慈善事業であってはならない。
 どれほどの事情があっても、それを変える事はできない。すべてのことを明るみに出しても、マダム・ローザの回遊をよろこんで引き受けるようなところは、 ないだろう。
 しかし、
「……あの。もしよければ」
「? なにかしら?」
「もし、マダムさえよければ、今度私と会いませんか!? その、マダムの寂しさをどれだけ癒せるか、自信はないけれど。でも、もし私なんかでよければ私、 今度の休みの日にマダムに会いに行きます」
 それはシルヴィアの口から自然にあふれていた言葉だった。
 そうだ。仕事でないならどれだけ会っていたって誰からも文句はない。
「……それは、とても嬉しいけれど、でもいいの? 私のようなおばあちゃん相手じゃ、あなたが退屈してしまうんじゃ」
「そんなことないですよ。それに、こう見えて私、結構おじいちゃんおばあちゃんからの評判はいいんです。……そうだ! 機会が合えば今度、お友達を紹介し ますよ! お節介にならなければ。――とにかく、今度の休みの日に会いに行きますから」
「……でも」
「私自身が、知りたいんです。マダムのことを、もっと。……それとも、やっぱりわたしなんかじゃダメですか? ダメ、なのかな……」
「…………」
 沈黙が、ふたりの間に降りてきた。
 言った言葉に嘘はない。それでも、勢い任せに口を突いて出た言葉をどう処理すればいいいのか、わからない。
 あるいは、それを見透かされているのかもしれない。もしかしたら、本気にはされていないのかもしれない。シルヴィアの心に不安がよぎる。
 それでも、
「――そんなことないわ。やっぱり思ったとおり、ううん、あなたは思っていた以上にすてきな人だった。ありがとう」
 背後から延びてきた皴のある暖かい手は、シルヴィアの顔をそっと包んで、
 その頬に、慈しみの口付けを……。



 数日後、街中の青空市場で、私服姿でおそらくは非番のシルヴィアとタクシードライバーの間で話題のマダム・ローズが談笑しながら並んで歩く姿が目撃され ている。
 その姿は、まるで本物の孫とおばあちゃんのようだったという。


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