SCS
紫雲 正宗
1、
カムイと二人、『台風来たら、今年こそこのウチ飛ばされそうじゃない?』とかよく話していた、コンクリの壁にあちこちヒビの入っているオンボロアパート。ちょうどいまも台風何号だかが接近中らしく、外では横殴りの雨が降っていて、しまりのない換気扇のフタがバタバタと音を立てている。
――いっそのこと、吹き飛んでしまえばいい。このボロアパートも、楽しかった思い出も、あの頃見ていた未来も。……世界そのものが、きれいに吹き飛ばされてなくなってしまえばいい。
風呂に浸かりながら、止むことなく聞こえる換気扇の音に漠然とそんなことを考えてしまう。
家賃5万円とちょいの2Kの部屋は、家具や荷物をつめこむと二人で棲むにはすこし狭くて、でもひとりで過ごすにはあまりに広すぎる。たった一人分の熱量が失われただけでこの部屋の風景はとたんに寒々しいものに変わってしまい、急に世界の果ての荒野にひとり取り残されたような気すらしてくる。
だから、わたしは逃げるようにして風呂場に駆け込み、少し熱めのお湯を満たして浴槽に浸かった。
ボロアパート同様の古めかしいタイル張りの壁とシンクの湯船。この浴室もふたりで入るには狭くて、湯船に入るにもひとりだけなら窮屈な思いをしなくて済んで、でもカムイと身体を折り重ねるようにして入ったときに背中に感じられた温もりや安心感は、もうどこにもない。
「…………」
茹で上がるような熱い湯に顔半分まで深く浸かり、わたしは無意識のうちに自分の股のあいだに指を滑らせていた。
大人になったら誰にでも生えると言われていて、でもどうしてもそんなこと信じられなくて、ある頃から自分の部分にもホントに生え始めた縮れた毛の群生に、いまよりよっぽど世間知らずでおバカだった当初のわたしはひどくビックリしたものだった。
けれど、いまはその黒い群生はどこにもない。
わたしが自らの手で剃り落としてしまったから。
前にも一度だけ、尋常じゃなく蒸し暑い夏の頃にどうにもむしむしするのがガマンできなくて、ムダ毛処理の際にいっしょに剃ってしまったことがあった。たしか大学2年の頃で、そのときにはもうすでにカムイとは付き合い始めていて、ある夜にそのことを知ったカムイはなぜだかひどく動揺していた。
『ちょ、なにこれ? ナル、おまえ、ないじゃん!? つるっぱげじゃん!?』
『……ああ、これ? なんかすっごーくむしむしするから剃っちゃった』
『いや“剃っちゃった”って……。フツー、剃らんでしょ?』
『えー、そうなの? そんなもん? アリナシで言うと、どっちかっていうとナシですか? ナシですか?』
『いや、べつに。自分的には全然アリだけど。むしろどんとこいって感じだけど』
でも、剃るとよけー濃くなるっつーからやめといたほうがいいよ。ベットの上、胡坐を掻いたままわたしを見上げるカムイの笑みはいつもみたく静かに優しいものだった。
――ん。じゃ、やめる。ベットの上、膝立ちのままわたしはカムイの髪をくしゃくしゃっとかき回した。
どうしてだろう。
ふいに思い出していたのはそんなとりとめのない、まだお互いに自分たちが若いということをあえて認識する必要すらないくらいに若かったころの記憶。
いや、いまだって世間から見ればまだじゅうぶんに若者で青二才の部類にカテゴライズされるのだろうし、OLかぶれの契約社員1年生なわたしとめでたく大学7年目のカムイの二人じゃ社会から向けられる視線はニートやフリーターといった人種に向けられているのと大差はなくて、それでも自分たちの思い描いた明るい未来を素直に信じられる純粋さだとかなにもかもを突き抜けて前に進める気がした根拠のない自信だとか、若さというものに裏打ちされた底知れない力なんていまのわたしたちからはもう湧き出してくることはなくなってしまっている。
そんなことをいまから遠い昔のことのように思い出すのに、それがたった4年前のことだなんて。
「……そうか。まだ4年しか経ってないんだ」
もう4年。まだ4年。
それは人によってそれぞれ感じ方が違うのだろう。けれど、時間は誰にも平等に、残酷なまでに着々と進んでいく。4年という歳月はたぶん、いろんなものが変貌するのに充分な時間だろう。現にわたしたちも、わたしたちのまわりの環境も、一見なにも変わっていないように見えていろいろなところで変化している。
いつまでも子供じゃいられない。あのころのまま楽しい思い出と共に生きることは誰にもできない。ならせめて、これからわたしたちが歩もうとする道筋を少しでも良い方向に向けられればと思う。あのころに思い描いていた大女優だとか大物政治家なんてバカみたいに大きく輝いていた夢のような未来予想図なんかじゃなくて、願うのはほんの些細な――それでも喜びや愉しみを感じるのに充分な小さな小さな幸せ、ただそれだけなのに……。
「…………カムイ」
浴槽の栓を引き抜く。だんだんと水が引けていく。排水溝の付近に渦が巻きはじめる。
わたしの身体が溶けて、このまま流れ出る水とともにどこかに消えてしまえればどんなにか楽だろうか。でも、浴槽のお湯がぜんぶ捌けてしまってもわたしはそこに残された。
のぼせた身体を引きずるように、ゆっくりと浴槽から立ち上がる。
身体も拭かず顔や首筋にぺったりとくっついた髪もそのままに、床が濡れてしまうことも気に留めることなくそのままの姿で浴室を出た。
浴室を出てすぐ正面に3帖のキッチン、左手に4.5帖の和室とその奥に6帖の洋間。
それがわたしとカムイの住まう世界。それが、わたしが一人残された世界。
和室のど真ん中に折りたたみの小さなテーブルが出しっぱなしにされていて、ここ2日間の食事に使った皿やコンビニの弁当の空の容器なんかが片付けられずにそのまま放置されていた。
散らかされたテーブルの横を通り洋間へ。入ってすぐの右手に小さなソファー、その対面にテレビやらゲーム機やらCDラックやらの一群。テレビ横にある、カムイがバイト先でもらってきたという、なんだかよくわからない羊のマスコット人形。カムイはこの人形に“羊太郎”なんてミもフタもない名前をつけていたっけか。その羊太郎の後ろには洗濯機がようやく納まるくらいの狭いバルコニー。窓から見える外の景色は相変わらずの荒れ模様で、普段の見なれた街とはちがう、どこか別の世界を覗き見ているような気がした。
洋間の左手側の奥、テレビの一群とはちょうど反対側にあたる場所にベットがある。
そして、その上ではいま井内果夢衣(いうちかむい)――カムイが眠り続けていた。
灯かりをつけることもせず、わたしはカムイの眠るベットの横に立つ。掛けてある布団をめくり、そのまま彼の隣へ横になった。めくるとき、わざと大げさに半分くらいまでめくりあげたのに、彼が起きる気配はまるでなかった。
しばらくのあいだ、布団の中でもぞもぞと姿勢を入れ替える。いつもならこれくらいのことでも目を覚ましていただろうに、カムイが目を覚ますような気配は一向にない。
「ねえ、カムイ……」
布団の中をまさぐり眠れる王子様の手を取って、そのまま、自分のほうへと引き寄せた。カムイの手が触れる、その先にあるのは不安と失意、そしてそれらを押しのけようと魂の底から全霊をもって掛ける希望。
――カムイ、起きて!
「……また、剃っちゃった。濃くなるから止めときなって、カムイには言われたけど、やっぱりむしむししたから」
そんなのウソだ。季節はもう秋も間近の台風シーズン。日中の気温も30℃を超えることはなくなって汗をかくような陽気はとうに過ぎていた。ただ、お互いに若いことを意識する必要すらないくらい若かったいつかの夜のように、驚きあわててカムイが眼を覚ますんじゃないかなんてどうしようもないくらい頭の悪いことを思いついて、だけどそれ以外の手立てなんてもうなにひとつなくて、なにひとつ浮かんでこなくて、わたしの股の間に触れるカムイの手に反応はなにひとつない。
あいかわらず、カムイは起きない。
「……カムイ」
もうやけになって、手の甲をつねってみた。あざが残るかもなんて気にもとめず、喉の奥にわきあがってきた涙の気配を押し殺し、力の限りにつねってみた。それでもカムイは起きない。
「…………カムイ」
脇をくすぐる。耳たぶをひっぱる。頬をなでる。涙の気配が強まっていく。
なにも変わらない。なにひとつ反応はない。寝息はちゃんと聞こえているのに、耳を当てれば胸の鼓動はちゃんとするのに、
「……イヤだよ。カムイ、起きてよ」
気づけば、わたしの涙がシーツを濡らしていた。
『うぉーい!? もしかしてナル、泣いてんの!?』
基本的に涙もろいわたしは月9のドラマなんかで時折泣いちゃったりして、そのたびにカムイにからかわれた。わたしが『うるさいな!』とか『いいでしょ、べつに!』とか言って頬を膨らませ、カムイはけらけら笑いながらもさりげなくティッシュ箱をよこすんだ。
なのに、カムイは、死んだように眠るだけ。ただ、寝ているだけなんて、
「……悲しいよぉ。寂しいよぉ。かぁむいぃ、もどってきてぇ」
返事はない。
その夜、わたしはただ彼の肩に顔を埋めて一晩中泣き明かすしかなかった。
翌朝、台風が去ったのを見計らってやってきた、彼の両親に連れられてカムイは実家近くの病院へと搬送されていった。
あんたみたいな娘(コ)と一緒にいたからこの子はヘンな病気に掛かっちまったんだ。
去り際に、カムイのお母さんから言われたそのひと言はなによりも深くわたしの胸に突き刺さった。
2、
最近、謎の病が流行っているのだという。
なぜその病気に掛かるのか、どのようにして発病するのか、感染の危険性があるのかないのかすらまったくわかっていない謎の病気。現在全世界で10万人、日本国内では8000人くらいがこの病に掛かっていると言われていて、その罹患者は徐々に増え続けているという。
ある日突然、眠りから覚めなくなる病気。本来なら睡眠時にはレム睡眠とノンレム睡眠という深浅の波が周期的にあるものが、患者の脳波を調べたところこの病に掛かるとノンレム睡眠、つまりは深い眠りに落ちたまま覚醒しなくなっていることがわかった。
ナルコレプシーなどの睡眠障害をもつ患者に投与されるモダフィニルやメチルフェニデートなどもこの病には効果がなく、治療法はいっさい見つかっていない。
その流行り病に付けられた名前は、後天性不覚醒症候群(プロファンドリィスリープシンドローム)あるいは“眠り姫病”。
それが、カムイに宣告された病名だった。
※
ヤマトはそこそこナイスガイだと思う。
でも、ヤマトはちょっと抜けている。
いつもマルボロのジッポでカッコつけているけれど、吸っているのはショッポだったりする。理由を聞けば「カネがねえ」と即答するけれど、だったら愛車のダットサントラックの改造をやめたらどうなのかといつも思う。
将来の夢は「佐藤青果店のヴェガス支店を出すことだ!」と豪語して止まないビックな夢の語り手だけれど、ウォーターメロンというメロンの品種があるというカムイの嘘を真に受けてしまうのは英語力が云々以前に、青果店の跡取りとしていかがなものだろう。
けれど、不良青年むき出しな容貌とは裏腹に根は優しくてマジメで、彼自身は結局、大学3年の秋ごろに中退してしまったけれど、めでたく大学7年生なカムイよりよっぽど建設的な人生を送ってるヤツだと思う。いや、もしかしたらわたしたちの仲間内では一番かもしれない。
それが佐藤大和(さとうやまと)という男のだいたいの人となりである。
そんなヤマトはわたしが大学を卒業してからも付き合いのある数少ない男友達のうちの一人だった。「ちょっと売れ残っちまってさぁ、食えなくはねぇからまあ食ってくれや」といって時たま置いていくもろもろの野菜にはホントに助かっている。大学の頃、餓死寸前の食糧難に陥ったときに彼のダットサンの音が聞こえてきたときなどはヤマトが神様に見えた。
そして、あの時も。
カムイは日ごろから小説を書いている。
小説といってもべつにカムイは大学7年生のかたわらで作家業を営んでいるというわけではない。将来は印税生活で食っていくんだとヤマトに負けず劣らずの夢を語ってはいるが、いまはまだ同人誌に寄稿するアマチュア作家の身である。
ごくたまにだけれど、休みの前の日から夜通しで小説の執筆にあたったときカムイは昼過ぎても起きないことがあった。
その日は午後の3時を過ぎても4時になってもカムイは起きなかった。それでも、「ずいぶんとよく寝てるわね」と少し訝しく思いはしてもわたしはカムイをそのまま寝かせておくことにした。
そこにちょうど、いつものように鮮度切れ近しの野菜を抱えてヤマトが現われたのだ。
「うぃ〜す。また売れ残りもって来たでぇ」
「ありゃあ、いつも悪いッスねぇ。すまにゃいねいぃ」
「ははは、いいってことよ」
わたしが拝み倒すくらいの低姿勢で野菜入りの袋を受け取ると、ヤマトは“青果屋さんは歯が命”と言わんばかりの笑顔を返してきた。
「あーそうだ。ヤマト、よかったら夕飯いっしょに食べてかない?」
「お、マジ? いいんか、ご馳走になっちゃって?」
「もち!」
「んんじゃ、エンリョなく。……ところであの小説バカは? まさか、バイトか?」
「んー? 奥でまだ寝てるよ」
「あぁ!? っていま何時だよ? ――ったく、また完徹でもしたんか?」
靴を脱いで上がりながらヤマトは呆れた顔をしていた。
「たぶんねー。でもいいかげんその小説バカ起こしといて」
夕食の支度を始めながらわたしは洋間の方に向かうヤマトの背中に声をかけた。
けけけ、額に肉って書いてやる。嬉々としたヤマトの声が小さく聞こえた気がしたけど放っておくことにした。
そのあとしばらく、わたしは夕食の支度に専念した――といっても、麺を茹でて出来合いのソースを絡めるだけの手抜きスパゲティだったけれど。人数分の麺を茹でてレトルトのソースを温め、あとは盛り付けるだけ。盛り付ける皿を取ろうと頭の戸棚に手を伸ばし、
「うわああああっ!」
すぐ後ろにいつの間にか立っていたヤマトに驚いてわたしは声をあげていた。しかし、ヤマトはわたし以上にビックリしたような顔をしていた。顔は青ざめ、ひどく動揺して目が泳いでいる。息は乱れ、額には嫌な感じのする汗が滲んでいた。
あきらかに、様子がおかしかった。
「……ヤマト、どしたの?」
「――――ねぇ」
「えっ? なに?」
「カムイが、カムイが……」
「ちょっと、どうしちゃったのよ? 大丈夫?」
「……カムイが、目を覚まさねぇ」
「……………………え、なに、言ってるの?」
縋るようにして、押し止めるようにして掴んだヤマトの腕は、彼の身体は小刻みに震えていた。これは冗談なんかじゃない。なにかただ事じゃないことが起きている。
“カムイが目を覚まさない”。そこから導き出される答えなんてひとつしかない。
そして、掠れる声でヤマトが続ける。
「揺すっても、叩いても、なにしても。あの小説バカ、カムイのヤツ、起きねぇ。カムイが起きねぇよ」
それが、すべての始まりになった。
嗚咽が止まらない。あとからあとから流れ出る涙は止めようもなく、抱きかかえているカムイの服を濡らしていく。運転席ではヤマトが荒々しくクラッチを蹴りこみ、苛立たしげにギアをシフトアップした。
病院からの帰り道。ヤマト自慢のダットサンは中にいてもかなりの排気音がしてうるさくちょっとした路面の起伏でも弾み、お世辞にも乗り心地が良いとは言えなかった。そんな中にあってもカムイが目を覚ます様子はなかった。
車内の空気は重い。
「カムイが、起きねぇよ」。ヤマトのその表情が冗談でないことはすぐにわかった。けれど、にわかには信じられなくて、わたしは奥の洋間に駆け込んだ。
眠れる王子様は、本当に目を覚ましてくれなかった。脇をくすぐる、耳たぶを引っ張る、頬をつねる。これをやれば絶対に起きるというポイントがカムイにはいくつかあって、さすがに5年も付き合っているとそのへんのところもひと通りおさえていた。けれど、それでも起きなかった。
上半身を起こして大きく揺さぶり、しまいには思いっきりほっぺたを引っ叩くまでやっていて、ヤマトに止められて我にかえるまで自分がしていることに気付かないようなありさまだった。
そのあとはもうグズグズで、なにをしたのかほとんど憶えていない。
ただ促がされるままカムイを車に乗せて病院に運んだ。
下った病名は聞きたくなかった。それでも、無意識のうちに手でふさいでも、指の間をすり抜けて入り込んできた。耳から脳内に忍び込んできた現実にただただ涙が溢れた。
入院させるにもベット数が足らないし症状としてはただ寝てるだけだからこのままお引取りください。担当した医者のその言葉に「てめぇ、そんなんがあるかよ! それでも医者か!?」と詰め寄るヤマトを滲む視界の先にして、どこか遠い世界の出来事のように見ていた。
『いやぁ、あれだね。せせこましい社会に生きてると人間はさぁ、ときどき人生を休まないとやっぱダメでしょ。ほら、俺ここんとこレポートとか執筆とかゲーム攻略とかゲーム攻略とかに追われまくってたしさぁ。まあ、いわゆる寝貯めってやつ? あれだよあれ』
まわりの心配なんてつゆも知らずに、そんなこと言いながらカムイは起きるんだ。
医者にちょっとばかり診察してもらって、薬かなにかちょっとしたものを処方してもらって、
『っていうか、テメーは荷台にでも乗ってれや! この車は二人乗り限定じゃ!』
『そうよまったく、心配して損したわ。なにが寝貯めよ。それなら一生寝てなさいっつーの!』
『えー、ヤダぁん。行きも3人乗ったんだから、帰りも3人ぎゅうぎゅうで行こうよ』
そんなどうしようもなくくだらないことを、ヤマトとカムイと3人で笑って話しながらウチに帰るんだ。きっと、そうなんだ。――なんて。
信じるものは救われる、なんて誰が言った? 見てよ。
「……信じたって、救われないじゃない!!」
ダットサンの狭い助手席で、眠り続けるカムイを抱きながら掠れた声で叫び、わたしは心の中でなんどもこんな運命を用意した神さまを呪った。
コンクリ2階建てのオンボロアパート。2階角部屋の2Kの部屋。
フライパンの中でソースと絡まったスパゲティも、盛り付け皿を取ろうと開けた戸棚もそのまま、部屋の明かりも付けっぱなしだった。ついさっき、カムイを二人して担ぎ出たときのまま。それなのにいまは、部屋がやけに物悲しく薄暗く感じていた。
「ホントにベッドに寝かしちまっていいのか? これじゃ、おまえが眠れないんじゃ――」
「イイ」
ヤマトがカムイを背負って洋間まで運ぶのも、ベッドに寝かす様子も、わたしはただ呆然と突っ立って見ていることしかできず、ヤマトの問い掛けにもそれだけを答えるのが精一杯だった。
本当に大丈夫か?
最後まで心配そうに声を掛けてくるヤマトに、わたしはムリに笑って、
「大丈夫だから」
そう答えた。そう答えるしかなかった。
それでもヤマトは帰ろうとせず、玄関口でなにかを言おうとして口を開きかけて躊躇い、振り返り部屋を出て行こうとして、意を決したようにもう一度だけこっちを向いて、
「……信じようぜ。そこのバカが夢の世界から帰ってくるのを」
その声は、隠しようもなく、涙に滲んだ声だった。
3、
信じようぜ。
涙に滲んだヤマトの声を思い出す。
それも、カムイ本人が目の前にいないのではどうにもならない。
信じようぜ。
その言葉からたった2日で、カムイは両親に連れられてこの部屋を去ってしまっていた。
※
カムイが実家に帰ってからの1ヵ月、わたしは機械的に仕事に赴き事務的に仕事をこなしそれが終わればまっすぐ帰宅し部屋に籠もるという生活を続けた。ほんとは仕事になんて行きたくはなかったけれど、なにもせずにいると悪い考えがどんどん膨らんでいっていつしか押し潰されてしまいそうで、それが恐くて無理やり身体を動かしていた。
ときどきヤマトやポンちゃんや小野チンが心配して顔を見せてくれたけれど、ひとりで過ごす時間の方が圧倒的に長くて、それを紛らわすのに必死だった。
それでも、しばらくすると休みの日になにかをする気力はまるで起きなくなっていた。朝からソファーに身を預け、ロクに吸いもしないタバコに火をつけて無闇に消費し、ご飯もたいがい昼に1回食べるきり。観るともなしにテレビを流し続け、気づけばゲーム機の電源が3日間くらい付けっぱなしになっていた。
夜は特に恐ろしかった。
『もしかしたら、自分も眠ったまま起きなくなってしまうんじゃないだろうか』という恐怖も少なからずあったけれど、それよりもこの部屋でずっとひとり過ごさなければならないという事実がなによりも堪えて、ろくに眠りにつけない日がしばらく続いた。そんなときにはテレビ横の羊太郎を抱いて、子供の頃からつかっている呪文を唱えるのだった。
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が……」
そんなことが続いたある日のこと。一度だけカムイの書いた小説を読んだことがあった。押入れの中から出てきた“マイ創作箱 〜禁帯出〜”とミもフタもなく大書きされたダンボール箱から出てきた、いまどき珍しい手描きの原稿用紙の束。かなりの達筆で綴られたまだ書きかけの小説は、どっかのこましゃくれた幼稚園児が「先生は宇宙の果てにある万象の辞典(メモリーキューブ)には平和という項目がちゃんと書かれていると思う?」なんて問いかけてまわりの先生や大人たちを悩ますところから始まるちょっと難しい感じの内容で、正直わたしはおもしろいとは思えなかった。
作品のタイトルは「SCS(ソウルクライシンフォニー)」となっていた。
――そういえば、カムイってときどき小難しいこと言うことがあったよね。
なんか、その小難しい言葉たちを掻き集めてむりやりひとつに纏め上げたような、そんな作品だった。
けれど、書きかけの章の最後は主人公のこんなセリフで締められていた。
万有引力の法則って知ってるか? その名の通り『万物は引き合う力を有す』っていう法則さ。つまりはリンゴが地面に落ちるとき、地球がリンゴを引っ張るだけでなく微弱ながらリンゴも地球を引っ張ってるってことになるな。そしてそれはリンゴと地球だけが持ってるものじゃない。そのへんに転がってる石ころにも、あそこでカーカーうるさく泣いてるカラスにも、そこで日向ぼっこしてる野良猫にも、アリにもミジンコにも、空気中に舞ってる細かいホコリにだってある。もちろん、人間にも。そうやって、この世のすべてのものは引き合い繋がりあってるのさ。大事なのはその繋がりの中で本当に本当に大切だと思えるものはなんなのかっていうのを見極めることだ。よく、この世に不要なものなんてなにもないなんてバカな大人が言ってるけどありゃウソだ。少なくとも、オレにとって不必要なものなんてそれこそ五万とあるさ。躾とかいって暴力しか振るわない親だとか、その女が何色のパンツを履いているかってことしか頭にないアホな大学教授とか、口先ばっかでちっとも生活を豊かにしてくれない無能な政治家とか、核兵器とかな。なぁに、難しく考える必要なんかねぇよ。要は自分が心から好きだと思えたものを好きだと口にしていえる勇気を持つことさ。夢でも趣味でも好きな女でもいい。そうやって本当に大切なもの、大事なものを見つけてそれを護って人生送れたらサイコーじゃね?
そんな、物語の主人公に語らせた言葉はカムイ自身の独白のようにも読めて、
「…………だったら、あんたの大切なもの、しっかり護りなさいよ。いつまでも、夢見てんじゃないわよ」
おもわず想いが口からこぼれた。だけど、
――それとも、カムイにとって大切なものって……。
わたしは、その範疇には含まれていなかったのだろうか。カムイにとってわたしは――千種成美(ちぐさなるみ)という人間は取るに足りない存在だったのだろうか。
なにもせずにいると悪い考えがどんどん膨らんでいってわたしの精神を食い荒らしていく。
いっそのことすべてを食い尽くされて空っぽになってしまえればいいのに、意地悪な悪魔は最後のひとかけらだけを残して去っていく。わたしは脱け殻になりきれず、いつの間にかたくさんの涙でシミを作った原稿用紙を胸に抱き、身体をかがめ額を床に押しつけながら、堪えきれず嗚咽を漏らしていた。
次の日、わたしは会社を無断欠勤した。
※
ユキ姐とはヤマトと同様、大学時代からの付き合いで、わたしと同学年ではあったのだけれど二浪の末の大学進学なのでわたしたちの中では彼女がいちばん年上になる。4人姉弟の長女で面倒見がよく、本人は当初嫌がっていたけれどみんなから必然と「姐さん」と呼ばれるようになった。ただちょっと酒癖が悪い一面があり、彼女から東北弁訛りが出てきたら要注意だ。人間台風襲来の予兆だと思って間違いない。
卒業後はそのまま大学院へと進み、いまも学問の徒として一心に勉学に打ち込んでいる、と思いきや本人に言わせれば「なにか目的があって院に上がったわけじゃないし、ただなんとなく、このまま社会に出てOLやって生きていくのもどうかなって思ったってだけだから、実質わたしも大学6年生よ」ということらしい。
ユキ姐からの久しぶりの電話はお昼のお誘いだった。いいかげん泣いてばかりもヘコんでばかりもいられないので「気分転換にでもなれば」とその誘いを受けた。お互いビンボー金なしなので大学近くのファミレスに自然と足が向いてしまう。
「うわぁ、このへんに来るのって久しぶりだなぁ。結構変わるもんだねぇ」
「……あーそっか。なにか用事がなけりゃ、ナルはもうこの辺に来ることなんてないもんね」
駅前で待ち合わせてから並木通りを二人並んで歩き出す。毎日のように通っていたのに今となっては懐かしい風景に変わってしまい、ついついあたりをきょろきょろと見回してしまう。
「ナル、なんだかまるで“おのぼりさん”みたいよ」
ユキ姐に言われてはじめて気づき、ちょっと恥ずかしかった。
いろいろのものが変わっていく街の中にあって、そのころのわたしたちのたまり場だったファミレスは変わらぬ姿でそこにあった。
イタリアンレストラン「ジョルジュ」。24時間営業で、リーズナブルな値段と小洒落た雰囲気が人気の、学生御用達の代名詞的なファミレスである。
ここにくると大概みんな食べたいものは決まっていて、いくらもしないうちに注文を頼んでいた。
「ごゆっくりどうぞ」という学生風のウェイターを見送ってユキ姐がこぼした「若いっていいわね」なんて言葉にちょっと笑ってしまう。
「それにしてもユキ姐、久しぶりだよねぇ。……っていうか最近釣れなぁーーい。」
「ごめんごめん。こう見えてもちゃんと大学院生やってるから、レポートとかねホント忙しくって」
「もう! このあたしと学校のレポートとどっちが大事なのかしら!」
「レポート」
「即答ッ!? しかも棄てられた!?」
「はははははっ、もうナルもあいかわらずねぇ」
お昼を一緒に食べるなんて約束だったけれど、昼食なんて実際にはどうでもよくて、要はこうしておしゃべりができれば喫茶店でも大学の空き教室でもどこでもいいのだった。
大学に通っていたあの頃は、それがあたりまえのような日々だったのに。卒業してそれぞれの道を歩き始めると滅多に会うこともできなくなって、それが普通の事なのだけれど考えてみればずいぶんと寂しい話だ。
「それよかそっちはどう? エセOLさんも結構忙しいんじゃない?」
「いやぁ、全然ッスよ。完全にデスクワークだしやることあんまないし給料安いし部長は疑惑の頭頂部だし」
「疑惑の頭頂部? なにそれ?」
「あきらかにそれ、作り物の髪の毛が乗っかってないですか!? みたいな」
「ああ、なるほど。そういう親父に限って性格も捻てるのよねぇ」
「そうそう! その通りなのッ! あのエロがっぱほんといつかセクハラで訴えてやろうかってみんなが言ってるくらい下品な言葉連発なんだから」
そんなとりとめもない話をしているうちに注文していた料理が運ばれてきた。わたしがカルボナーラ。ユキ姐はミートドリア。おいしそうな匂いが鼻腔をくすぐる。
『いっただっきまーす』
この歳になったら、女は色気より食い気だ。なんて誰かが言っていた気がするけれど、あながち否定できないのがなんとも寂しい。
それでも二人とも話のほうに気が取られてなかなか箸が、というかフォークが進まなかった。
熱々のドリアを冷ましながらひとくち口に運びながら、
「……で、どう? 仕事は続けていけそう?」
それに対してわたしは、パスタをフォークにくるくる巻きながら応える。
「どおかなぁ。……正直、ほんとにこの仕事が自分にあってるのかどうか、まだよくわかってない状態、かな」
くるくる巻いていた手が止まる。思い出さなくてもいいようなもの、思い出したくないものというのは往々にしていちばん嫌なタイミングで思い出してしまうものだ。
「……っていうか、実は今日無断欠勤、ダス」
「いっ!? それ、ほんと?」
「うん」
巻き取った分のパスタを口に入れる。安さが売りのファミレスのカルボナーラだけれど、味は申し分のないものだ。けれど、あのころ食べていたものに比べてなにかが欠けている。そんな気がしてならなかった。
「1年目から無断欠勤なんて、まあ何年勤めてたってダメだけど、それってかなり心象悪くするでしょ? もし、辞めるつもりがあるなら別だけど、このまま本雇いになるのを目指してんだったらあんまりよくないわよ」
「うん、そう。そうだよね。それは、わかってるんだけど。……今日は、どうしてもダメだった」
なるべく冷静に。平気だよってふつうに笑えるように。心を落ち着かせて。
なんて、出来ないことはするものじゃない。
気付けばまた、視界は滲んでぼやけ始めている。喉の奥の引き攣るような涙の痛みは、いつまでたっても慣れないものだ。
「…………ナル?」
「ごめん、……ユキ姐、ごめん」
わたしは小さな頃から泣き虫だった。それは自覚しているし、そのことでまわりのみんなからはちょっとからかわれたり、すこし呆れられたりして来た。でもそんなの、人よりほんのちょっと涙腺がゆるいだけだと思ってきたし、わざとやっているわけでもないんだから「猫かむりだ」なんて言われたって気にすることなんかなかった。
でも、いったいわたしはこんなにも涙もろい性格だったのだろうか。
この先社会に出れば、人間が強くなって泣き虫だって少しはよくなるわよ。なんて、よく言えたものだと思う。
実際には、わたしは弱くなるばかりだ。
「バカだねあんた。いつまでそうやって溜め込んでおくつもりなのよ。そういうのはね、いっぺんに吐き出すに限るのよ」
ふいに感じた温もりにきつく閉じていた目を開けば、いつのまにかユキ姐は私の隣にいて、静かにわたしの頭に手を置いた。
そのままゆっくり身体ごと引き寄せられて、わたしはユキ姐に寄りかかるようにその身を預けた。
「だいたいの事はヤマトから聞いたわ。ほんとうはもっと早くに会えてればよかったんだけど。でも、久しぶりに顔をあわせてみて『なんだ、結構平然としてるじゃない』なんて思って、その矢先にこれだもの」
預けた身は温もりに包まれる。こんな時にユキ姐は底なしに優しくなれる人だ。だからみんなは彼女のことを「姐さん」といって実の姉のように慕うんだ。大学の時分にだっていろいろな面でずいぶんと助けられたと思う。
けど、いまはダメだ。
これ以上、頼っちゃいけない。
これ以上頼ったら、わたしはまた弱い人間になってしまう。
もっと、人間を強く持たなくちゃ。
わたしはユキ姐に抱かれた胸の中で涙を拭い、
「大丈夫。大丈夫だから」
言いながら身体を起こそうとして、
「だぁめ」
ユキ姐に肩を抑えられ、ふたたび身を預ける形になる。
ただし今度はすこし仰向けの状態になった。ユキ姐の組んだ足のその上に膝枕の状態で横になり、ユキ姐はわたしの前髪をさっと掻きあげて、コツンと軽くデコピンを見舞ってきた。
「痛っ」
思いのほか痛くてわたしは額を押さえ、そこにスッとユキ姐の顔が迫り、
「強がるんじゃないの」
そのつぶやくような小さな声は、それでもわたしの中に温もりと共に深く広く広がった。
「人間はもともと弱い存在なんだから、こういうときにはとくに強がっちゃだめ。だって、5年も付き添った彼氏が死んじゃった、みたいになったんでしょ? それが悲しくないはずないもの。辛くないはずがない。それをみんな自分ひとりで抱え込もうなんて無理しちゃだめよ。人間はそこまで強くできていないんだから。いい? そうやってね、強がって悲しみとか苦しみとか吐き出さずにいたら」
そこで一呼吸入れてから、ユキ姐はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべながら、
「身体に黒いものがどんどん溜まってって、そのうち太るわよ」
「…………うん」
「ほら、久しぶりに泣き虫ナル全開にしてみな」
「…………うぅ」
「っていうか、泣け。ほーらほら、泣け泣けー」
「…………ぅ」
うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ
そこが昔行きつけのチープなファミレスなんて、しかもお昼時でいちばん人でごった返している時間帯だなんて気にする余地なんて微塵も欠片もなかった。
ただただわたしは、この一ヶ月で知らず知らず身体に溜め込んできたものすべてを慟哭と共に吐き出し続けた。
4、
1年から4年までの共通のゼミ。1年のときに受けてもいいし4年まで後回しにしてもいいけれど、卒業するには必ずとらなければならない必須の講座。その前期課程の修了を祝ってとか銘打った合同コンパの席。
わたしはまだ1年生で、どうにか右と左はわかるようにはなってきたけれど、まだまだキャンパスライフを心行くまで楽しむまでには少し遠くて、合コンのなんたるかもわかってるのかわかってないのかといった状態で、うながされるままに席に付きあれよあれよという間に会ははじまりながされるままに乾杯をして、『わたし、このテンションにはついていけないかも』と早々に敗北感を味わっていた。
ただ、そんな中にあっても、偶然となりになった人のことは、なぜだか妙に気になっていた。
背格好はふつうだし服装もどちらかといえば地味で、ちょっと冴えない感じ。でもなぜかわたしはその人に引き寄せられていて、
「は、はじめまして。わたし1年日本史学科の千種成美って言います。あ、あの、よろしく」
乾杯を終えて早々に声をかけた。するとその人は、大仰に掛けていたメガネを外し、右手でピースしながらもなぜかちょっと厳つい顔つきをしながら、
「ういっす。2年文芸学科の井内果夢衣でぇーす。12月産まれのへびつかい座。趣味は読書とゲームと惰眠を貪ること。好物は甘味全般だけれどもやっぱりなんといっても萌m――」
「いよぅっす! オレは2年政経学科の佐藤大和。夢はでっかくヴェガス制覇! よろしくぅ」
後ろから不良青年むきだしな人に背中に圧し掛かられて身体を窮屈に折り曲げても、その人は右手のピースを崩さなかった。
それがカムイとヤマトとの最初の出会いだった。
※
結局、昨日は丸1日ユキ姐を引き摺りまわす形になってしまった。
昼間のファミレスで垂れ流すだけ垂れ流し冷めてしまった昼食をそそくさと済ませたあと『今日はトコトン付き合っちゃうわよ』というユキ姐とふたり、カラオケにゲーセンに居酒屋のフルコースを巡った。あげく、
『ユキ姐、大好きぃ。愛してるーーっう!』
『あー、はいはい。わかったわかったから、そんな大声出さない!』
かなりのペースで煽ったアルコールに最後には腰も立たなくなり、背負われて家路に付く有様だった。
無論、そのせいだろう。
ほんとうに何年ぶりかの二日酔いに頭が割れそうに痛い。このぶんだと今日も会社には行けそうにない。あとで休むための言い訳と昨日の無断欠勤の言い訳も考えなければ。
「うげ、気持ち悪ぃ」
昨日のファミレスで吐き出したものとはちがうものを吐きそうだった。
胸の奥にひろがるこの酸っぱさはいったいなんだろうか。あまり想像したくなかった。
とりあえず、水を飲むためにキッチンへ。
ベッドからもぞもぞと這い出し、フラフラとした足取りでようやくキッチンまで辿りついた。シンクの前に置かれたマグカップを取り、なみなみと水を注いで一気に飲み干す。
喉の奥のほうまで上がってきていた酸っぱいものの気配がいくらか引いて楽になった。
もういっぱいだけ水を飲んで、マグを元の場所に戻す。
「…………」
戻そうとして、そこにあったもうひとつの同じ形のマグカップに目が行き、手が止まる。
いうまでもなくお揃いでかったカムイ愛用のマグだ。
普段なら、そこにあるのが当たり前で、それを使う人間がいるのが自然なことで、特に意識することもないから見落としてしまっているもの。
そういえば、ここのところコンビニや出来あいの弁当ばかりでろくにシンクの前に立っていなかったけれど、こうしてみるとカムイとお揃いで買ったものは結構あることに気付かされる。
それらのものを目の当たりにして、もうさすがに流しつくして涙は出てこなかったけれど、いまはそこしれない空虚感がある。
いったい、どうしてこんなものを抱えるようになってしまったのだろう? その答えは明白なようでいて、全体像が大きすぎてなかなか見通せない。
ここ半年ほど、ちょっとした小競り合いがたびたびあった。それはほんとうに些細なことで、カムイが料理当番をすっぽかしたり、わたしが頼まれていた風呂焚きを忘れてしまったりといったことが原因だった。
そういう些細なことが別れの原因になったりするのよ。そんなふうに、会社の人間に脅されることもしばしばだった。
『あー、もーぉなんだってあたしはぁ、カムイなんか好きになっちゃったのかーなぁーっ?』
昨晩、ユキ姐に背負われて、たしかそんなことまで叫んでいたような気もする。
はじめてカムイと会った日のことをよく憶えている。思えばはじめから、わたしの目はカムイの方を向いていた気がする。けれど、なぜそこまで惹きつけられたのか、いまとなってはもうわからない。
「ほんとに、なんで好きになっちゃったんだろ」
それでも、この喪失感はうそじゃない。
流した涙が嘘なハズはなかった。
「……さて、と。どうしようかな」
いつまでも感傷に浸っているわけにもいかない。
あのバカが帰ってくることを信じるしかない。
ヤマトがいつか言っていた言葉が、いまはわたしの胸の中にも確かに灯っている。
いまだに眠り姫病の治療法は見つかってはおらず、不覚醒状態から回復したという事例もないらしい。それでも、信じて待つしかないんだ。
だから、いまはわたしの道を少しでも前に歩もう。そのためにはまずしなければならないことは、
「……とりあえず、部屋の掃除かな」
見渡せば、ここのところの荒れた生活っぷりがよくあわられている。
服は脱ぎっぱなし、ゴミは散らかりっぱなし、いろいろな荷物が出しっぱなしの状態で、それこそゴミ屋敷予備軍みたいなありさまになっていた。
そんななか、目に止まる“マイ創作箱 〜禁帯出〜”。
中にはいまどき珍しい手書きの原稿の束があって、なんだか難解な言葉をむりやり纏め上げたような作品が書きかけのまま残っている。
ふと、あることを思い立つ。
箱の中の書きかけの作品。けれど、その先を書く人間はいまここにはいない。
「いないけど、代わりにわたしが書く?」
なんだか誰に聞いているのかなにに対して話かけているのかわからない中途半端に漏れたその声は、それでもわたしを不思議と突き動かしていた。
一昨日の夜に読んだばかりの作品を再び手に取る。
作品名は「SCS(ソウルクライシンフォニー)」。なんだか、一昨日よりも原稿の束は重く感じた。
「…………」
果たして本当に書けるだろうか? 書けたとして、いったいいつ完成するだろう?
でも、なんとなく、なんとなくだけれど、これを完成させた時にはカムイがひょっこりと帰ってきてくれるような気がした。
涼しい風が部屋を抜けていき、秋の気配を感じさせる。
わたしはその風に目を細めながら、
「よっし、やるぞー」
原稿の束を手に、大きく伸びをしていた。
-END-