あまやどり
楡崎 瞬
「ついてねえな…」
週末の夜だというのに、突然の激しい雨。
しかもその雨の影響で、途中の川が警戒水位を超えてしまったため、途中の駅で立ち往生したあげく、復旧のめどが立っていないため車庫に入るという措置。
プラットホームに人が溢れ、会社帰りの脂ぎったサラリーマン達が、やりどころのない駅員に怒号を浴びせる。
そしてしばらくは僕もその中の一人だった。
まだ若いであろう駅員は、困惑した顔をして乗客達に謝罪するも、きっと心の中では『なんで俺が』と思っているに違いない。彼にとってもこの雨は不運だった。
後続電車も次々と運休を決め込んで、電車で帰宅することは、叶わぬささやかな夢となった。風呂にも入りたかったし、週末だったから酒だって飲みたい。ホームページの更新もしたかったし、妻に内緒でエッチなビデオをレンタルする密やかな楽しみさえ奪われた。
改札口を抜けてからも、阿鼻叫喚。まさに地獄絵図。
途中駅とはいえ、比較的繁華街が整備されている町だったから、普段ならタクシーも多いのに、今は一台のタクシーさえいやしない。駅員に文句を言っている間に、頭の良い人間は車を確保するための行列に黙々と並んでいたのだ。
「そりゃ、そうだよな…」
本当に憂鬱に真っ暗な空を見上げると、瞳の中にまで激しく打ち付けてきそうな土砂降りの雨が、自分を襲ってくるような気がした。
冷静になって考えてみれば、電車が動かないのだからタクシーに切り換える。そうすれば飽和状態になって、タクシー乗り場にそれぞれが行列を作ることも簡単に想定できた。
怒りに身を任せて無駄な時間を費やしたことを後悔したところで、後の祭りだと言うことは分かっていたが、自分の馬鹿さ加減に沸々と怒りがこみ上げてきた。
「参ったね、こりゃ…」
傘なんて持ち合わせていなかった。予報ではこんな集中的に雨が降るなんて言っていなかったし、ましては自分の帰宅するルート上で激しく降るなんて全くの想定外だ。
それに、僕は傘が嫌いだ。サラリーマンにとって長傘は邪魔以外の何者でもない。おりたたみ傘という便利なものもあるが、あれは使用後に鞄の中に入れられないから、結局は同じ。手に持つと言うこと自体が邪魔なのだ。
怒りを静めるべく、僕は懐からたばこを一本取り出して、駅舎の屋根ギリギリの位置に移動して吹かしはじめた。腕時計はすでに午前一時少し前を指している。
苦笑しながらタクシー行列の人数をざっと数えてみると、ゆうに二百人は超えている。そしてタクシーは十分に一台やってくれば良い方だ。
「タクシーの運ちゃんたちは、きっとほくそ笑んでるんだろうな…」
こういう雨の場合、やっぱり長距離の客が多くなると聞いたことがある。結果、その乗り場の回転率が下がって、いつまでたっても乗り場に戻れないだけでなく、途中流しているところでも捕まってしまい、自分のテリトリー外で客を捕まえられる確率も高いのだという。
「こりゃ、いつまで待っても戻ってこないな…」
懐からさらに取り出した携帯灰皿に、もう根本まで吸ってしまった煙草を入れてふたをする。そして即座にもう一本取り出して、火を付けた。
喫煙の場所と時間を会社で決められてしまったせいで、連続に二本吸う癖が着いてしまっていた。机で吹かすことができていた環境では、決してこんなことはなかった。喫煙者にとって、この世の中は息苦しい社会に変貌しつつある。もっとも、この場所でこうやって吹かしていること自体が、もしかしたらすでに『この町では禁止された行為』なのかもしれなかったが、今だけは許して欲しい、そんな心境だった。
周りを見渡すと、携帯電話でしきりにメールしたり電話する人間がいっぱいいた。自宅で待っている妻に車で迎えにくるように頼む中年男性。彼氏にいけそうもないことを伝える若い女性。誰にメールしているのか分からないけれど、困惑した顔でひっきりなしにやりとりをしている若い男性や、ポータブルゲーム機でひたすら遊んでいる小太りの男性…。
「ま、俺も同類かな…」
二本目の煙草を吸い終えたところで、もう一度空を見上げる。
雨はまだまだ止みそうになかった。
ポケットからまた煙草を取り出そうとしたとき、僕の視界に一人の女性が飛び込んできた。その女性は自宅のある最寄り駅で、毎朝同じ扉に乗る若い女性だった。腕時計と空を見比べながら、ひとつ、大きなため息をついていた。
今時の若い女性っぽく、細い躰に小さい胸。化粧は薄く、いつも扉に突っ伏して立ったまま寝ている人物。たまに膝がカクンと落ちることもあって、その度に隣にいることが多い僕の胸に頭をぶつけてくる、そんな女性。どうやら彼女もこの夕立に遭遇して困惑している一人のようだった。
彼女に視線を向けつつ、またもや煙草に火を付ける。
大きく息を吸い込んで、曇天に向かって勢いよくはき出した。
立ち上る煙が大きな雨粒に吸い込まれていく。
そして彼女の方にまた視線を戻すと、慌てて彼女も視線をタクシー乗り場の方へ戻した。
明らかに彼女も僕を認識している。そう思った瞬間に、何やら気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。そして下を向く。僕はどこまで立っても庶民だった。
見られているという意識が、僕を慌てさせる。
先ほどの二本よりも煙草を吸うペースが早くて、肺にどんどん煙が注入されていく。そして反対に脳はどんどん働きを弱めるのだろう。
それでも、僕の瞳はそれこそ十秒ないし五秒に一回の割合で彼女の姿をとらえることとをやめない。こういう状況で知人に会うとこんな風になるのか、なんて冷静に思ったのは何回かお互いの視線が交差したときのことだった。
きっと、向こうもそうなのだろう、勝手に思う。
心の中で逆説する。もしかしたら僕の視線に耐えられないのだろうか。『嫌なヤツに逢った』とか思っているのではなかろうか。
確かに、女性から見れば僕の視線は耐え難いのかもしれない。
彼女の顔を見る。
いつも思うけれど僕好みには違いない。
彼女の胸を見る。
僕はかなり小ぶりな胸が好きだ。控えめでとても良い。
彼女の腰を見る。
細くて妻とは比べものにならない。
彼女の下半身を見る。
膝下を露出したパンツは、妻にはない色気を醸し出している…。
「あー、もう…」
何を馬鹿なことを考えているんだろう、自分が怖い。これじゃあその辺にいる変質者予備軍と同じじゃないか。それとも僕がオヤジ化したということなのだろうか。
いずれにしても僕は庶民だった。
振り払おうと思えば思うほど、そういう思いは強くなり、視線はそれまで以上に彼女に釘付けになってしまう。
「いっそ、声でもかけてしまおうか…」
僕は勇気を持って彼女の方へと一歩踏み出す決意をした。
心は爆発寸前、葛藤のオンパレード。
彼女に話しかけて、何が起こるというのか。
彼女は僕に話しかけられて迷惑ではないのか。
彼女は僕のことをどう思っているのか…。
第一、 彼女になんて声をかけるんだ!?
それでも僕は歩み出そうとすることをやめない。
ゆっくりと一歩一歩、着実に彼女に近づいていこうとしている。
生唾を飲む。彼女の視線が僕をとらえた。僕が近づこうとしていることも、きっと認識しているに違いない。
高鳴る鼓動の中、僕はもう一度再確認する。
彼女へのアプローチはこうだ。
僕の中で確定したストーリーが描かれる。
「雨、すごいですね…」
さりげなく話しかけるのがポイント。もっとも、今の段階で不自然だと言うことは、心の奥にしまっておくことにした。
形はどうあれ、まずは一歩踏みだそう。もしかしたら、第二の人生のきっかけになっちゃうかもしれない。
そしてタクシーを待っていても来ないだろうことを告げる。
途方に暮れる彼女に、優しく提案するのだ。
「始発まで、カラオケにでも行きませんか?」
場合により、ファミレスもしくは居酒屋だっていい。この町ならいくらでもあるだろう。
僕は慌てて財布の中身を確認する。一万円ちょっとと、カードが一枚。
これだけあれば余裕でおごってあげられるし、いざとなれば、カード決済だ。
まずは、名も知らぬ彼女との交流が必要だ。それからの関係は、また別途構築すればよい。毎朝一緒なんだ、チャンスはいつだって存在する。
「いくぞぉ…」
気合注入、空を見上げる。
曇天の空が、バラ色に見えた。繁華街のネオンのおかげかもしれない。
不意に懐で何かが震えだした。
「あ…」
胸ポケットにしまった携帯電話が鳴動している。慌てて取り出すと、モニタには『自宅』の文字。
「も、もしもし…?」
こんな時間まで妻が起きているとは思えなかったが、果たして声の主は妻だった。
『電車泊まってるみたいだけれど、大丈夫?』
いつになく優しい。
「大丈夫、でも、帰れそうもないからファミレスでも行って時間潰して、始発で帰るよ」
『私が車を運転できればいいのだけれどね…』
「いや、おまえに運転されることの方が怖いから、気にしなくていいよ」
『たしかに、ペーパードライバーだもんね、ごめんね』
「こっちこそ、心配かけてゴメン」
『仕事なんだから、仕方ないでしょ?』
心がチクリと痛む。
『じゃあ、私は寝るけれど何かあったら連絡してね』
「うん、わかった」
『おやすみなさい』
「うん、おやすみ…」
携帯電話の通話を切ると、懐から煙草を取り出した。
雨はまだまだ止みそうになかった。
名も知らぬ彼女の方を見る。
果たして、彼女は車に乗ろうとしていた。迎えに来た人物は、見たことのない若い男。
彼女の口元が『ごめんね』と言っていたように見える。
もちろん、僕に向けられた言葉ではない。
自分自身で失笑。
何を思い描いていたんだろう、彼氏がいることくらい当然だろうに。
僕は持っていた煙草にすかさず火を付け、もうできるだけ見ないようにつとめようとした。でも、僕の視線はそれることなく、むしろ彼女を凝視していた。
彼女は助手席に乗り込むと、シートベルトを締めて頷いた。
そして、若い男と一緒に土砂降りの夜の町に消えていこうとする瞬間、僕とまた視線があった。
僕は空を見上げた。
雨はまだまだ降り止みそうにない。
煙草が妙に美味しかった。
きっとそれは、彼女と交錯した視線によるものだろう。
最後の交錯で、彼女が僕に笑いかけてくれていたような気がした。
「恋、かも…」
それが妄想だと分かっていたとしても。
何となく心が温かくなった。
そして煙草の煙は、大きな雨粒にかき消されながら上昇していった。
そして僕は、限りなく庶民で。
オヤジと言われる世代になったことをはじめて、実感した。