Girls Keep Secrets
橘 夏水



1.
 約束の時間に間に合うといいのだけれど、と煉瓦の敷き詰められた図書館までの小道を駆けながら、モモは時計塔の文字を睨み、寮長の顔を思い浮かべた。部屋を出るのに時間をとられた原因。女の癖に掃除の仕方が雑すぎるとか、なんとか。ああ、頭に来る。
 学院の中心にある塔の上部につけられた時計は、この学院のどこに居ても、正確な時刻を知ることが出来るように建てられている。大戦前、旧時代の古き良き名残りだと、マダム・チヨコがよく話してくれる通りに、一時も遅れることはない。
 モモとその妹のアカネが揃って、トーキョーの名門私学と名高いゲオルギウス学院へ転入して来たとき、マダム・チヨコはこの時計塔の話をしてくれた。ゲオルギウス学院設立当初から現存する、数少ない建築物だということも。何しろこの学院自体の歴史は相当古い。そんなことを微笑み、手ずから紅茶を淹れながら(アカネはコーヒーが苦手だった)話してくれるマダム・チヨコは、この学院の理事長を務めていた。それでいて、物腰は柔らかで、生徒ひとりひとりをちゃんと覚えていてくれる。理事長と呼ぶのは、ごくわずかな教職員に限られていて、生徒たちは皆、彼女をマダム・チヨコと呼んでいた。若い頃は女優を志したこともあるというその顔は、たとえ白髪であったとしても、決して老いを感じさせない。いつまでも少女のようなあどけなさを残しているのだった。
 図書館へと続く道の両脇は、桜並木になっている。一月も半ばを過ぎた今、変わらず雪は積もったままだけれど、春のこの場所はそれはそれは素晴らしかった。去年の四月に初めてここを歩いたときは、目の前を薄紅の嵐が襲って、思わず隣を歩いていたリサの腕をつかんでしまったくらいだ。リサがこの嵐に飲み込まれて消えてしまう――そんなイメージがモモのなかに浮かんだから、なんて理由はリサには話さなかったけれど。
 リサ=カルヴァートは、モモがゲオルギウス学院に転入したときに、同じ寮の同じ部屋、つまり相部屋だった女の子だ。寮生活に不慣れなモモの世話を焼いてくれたリサと、のんびり屋のモモとは、不思議と気が合って、たちまちに仲良くなった。学年があがって、部屋が別になっても、その仲は変わらない。マイペースのモモにとって、しっかり者のリサに頼るところは大きい。現に今日も、そうだった。
 リサとの約束は、図書館の前で二時。ぎりぎりだろうか。リサは時間にうるさい。きっちり定時にその場に居なければ機嫌が悪くなるのだ。それは当然と思うけれど、リサにレポートをつきあってもらうという手前、言いだした自分から遅刻するというのは憚られる。それがたとえ、寮長のイズミから掃除の仕方に注意を受けて、挙げ句やり直しをさせられたなんていうことであっても。
 モモは駆ける足に力を込めた。幸い、舗道の雪はあらかた溶けてなくなっているし、距離はあとわずかだ。全速力で走れば、5分もせずに着くだろう。大きく息を吸い込んだそのとき、声をかけられた。「モモ?」
「チヒロ!」
 前のめりになりかけたモモを、道端から突然顔を覗かせたチヒロの腕が支えた。「大丈夫か?」
「……な、なんとか。ありがと」
 チヒロから離れたモモは、その顔を覗く。そして、やっぱりきれいだなと思う。長い黒髪を高めに結び、切れ長の涼しげな目をしたこの少女は、モモの今のルームメイトだった。スポーツに秀でた少女で、試合や練習を見に来るファンが居るほどの人気者だ。寮で同室になったというだけで、みんなに羨ましがられるほどの。だが、そんなチヒロにもひとつ、風変わりなところがあった。時折ひとりでどこかへふらふらと出かけてしまう。今日もそうだ。祝日で休みだというのに、朝から制服を着ていなくなってしまった。てっきり所属しているバスケ部の練習か何かと思ったが、この様子だとそうではないらしい。
 チヒロはチヒロで、モモの様子を頭からつま先までじっくりと眺め、ぽつりと呟いた。「……今日は休日だと思ったが。何をそんなに急いでいる?」
「図書館でリサと約束があって……チヒロこそ、どうしたの。今朝はすぐにいなくなっちゃうし、昼にも戻らないし」
「ただの散歩だ」
 しれっとした顔で答えたチヒロは、モモから手を離し、再びぽつりと訊ねる。「時間。確か、図書館まで行くと言わなかったか」
 モモは指摘されてはっとする。慌てふためきながら時計塔へ首を向けると、もうすぐ二時を告げる鐘が鳴り響かんとしているところだった。
「あー……」
「すまない、私が急に声をかけたからだ。私も同行しよう」
 すっかりしょげかえったモモを見かねてか、チヒロは自分もついて行くと申し出た。断ろうとしたのだが、リサの機嫌をモモの力だけで直すのは不可能に近い。リサときたら、旧家のお嬢様育ちのくせに地に足をしっかりつけていて、甘えたところが何一つない。リサが怒るのは、リサ自身に非があることではないから、余計に。ただ、そんなリサも普通の十七歳の女の子で、普段はつき合いやすい子なのだ。そして、当然というか、チヒロのファンでもある。もっとも、男子であれ女子であれ、チヒロを嫌いという生徒は皆無に近いかったけれど。
 ゲオルギウス学院の生徒数は決して少なくはない。むしろ、この広大な敷地に見合うだけの人数が、しかも優れた英才教育の学校として知られているからには、それ相応の生徒が集まる。リサにしたって、成績は悪くはないし、音楽の才能もある。チヒロも同様だ。ここに入った生徒には、それなりに入学を許されるに足るものがあるのだが、モモ自身、自分にそれがあるのかとえば、それはかなり怪しい。
 妹のアカネの世話のためにここへ来た――それが、モモの転入した理由だった。もともと、モモはウエノにある公立高校に通っていた。ゲオルギウス学院とは比べるべくもない偏差値の高校だ。だが、アカネがゲオルギウスの入試に合格したのをきっかけに、モモも同じく通うようにと無理矢理、去年の三月上旬に、編入試験を受けさせられたのだ。編入試験は当然相当に難易度の高い問題ばかりで、ろくに準備もしていなかったモモは、唸りながらもとりあえず字を書いて紙を埋めたのだった。絶対に落ちたと思ったところへ届いたのは、まさかの合格通知。モモは不合格同様に薄いその通知を見て、呆然としたのだ。
 そのことを、モモは入学の挨拶に行ったとき、マダム・チヨコに訴えたのだが、彼女はただ、にこやかに笑っているだけだった。そして言ったのだ。この学院は、ただのエリートを育てるだけの学校ではありませんよ、と。
 アカネがこの学院へ通うことを選んだのは、アカネ自身が優秀な生徒――学問に秀でていた、という理由のほかに、もうひとつあった。決して他人には言えない理由だ。
 アカネには家族を悩ませる、ある能力があった。現代において失われつつある魔力、それとは全く異なる、それでいて無関係ではない、異能の力。異能が報告されるようになったのは、大戦後のことだ。研究は魔力ほどに進まず、具体例はないに等しい。それでいて、魔力以上に扱いが難しい。ときに、正常な社会生活が営めなくなることも、珍しくはないのだ。自らの持つ能力を理解し、自身で制御できるようになること、それが異能者―異能を有する者―自身の心身の安全へつながるのだが、異能者としての覚醒時期の多くは先天性、幼い子供に理解しろというのは無理に近い。そして一度、「異能者」というレッテルを貼られた人間の辿る行く末というのは、ほぼ決まっている。国への奉仕者として、一生を捧げる、それだけだ。国の再建のために尽力する。過去の大戦に敗れ、疲弊したこの国の活路は、もはやそういう類で見いだしていくしかなかった。
 モモの妹・アカネは、今年で十五になるというのに痩せていて、しかも分厚い眼鏡が手放せないときている。性格は至って穏やかで、すこし鈍いくらいだ。天然、と呼ばれるアカネだったが、そのせいで、小学校時代はいじめられることも多々あった。ふさいで口をきかないことも珍しくはなく、よく部屋にこもっていたりしたのだが、ここへ来てからはそういったこともない。自分のペースでのんびりと生活している。
 そんな目立たないアカネが、異能者だとは誰も知らない。もっともアカネの能力は、まだ微々たるものだ。専門的な教育機関で訓練を積めば、それなりになるものなのかもしれなかったが、それを誰も、本人ですら望んではいなかった。アカネ自身、今の能力は天から授かったものだとかたく信じている。だから、元あるものは元のままに、能力を高めるようとするものではないと、ナチュラリストの考えを頑なに信じているアカネを、モモは頼もしく思っていた。アカネは、ただ異能者として庇護されるようなやわな女の子ではないのだ。だからこそその力も、「聞く力」が与えられたのだろう。
 アカネの耳には、人ではないものの「声」が響く。幼いころはそれこそ、四六時中、こそこそと囁かれたり、怒鳴られたり、泣き叫ぶ断末魔の声だったりが聞こえてきたらしい。注意しなくても、それはたとえば、日常身の回りに平然とある音のように耳へ流れ込んでくるのだという。だから、幼いころのアカネはひどく扱いにくい子供だった。突然泣いたかと思えば笑い、落ち込み……だが、ある頃から、その声をきちんと聞き分けることができるようになった。何がその声を発しているのか。そして何を求めているのか、ひやかしか、そうでないか。まるでスイッチを切り替えるように、アカネは意識して声を無視する術も覚えた。そうなってからのアカネは、元来の性格を取り戻していったようにモモは思っていた。アカネと散歩をしていると、声を聞いたアカネがさまざまなことをモモに教えてくれた。花が咲く頃合いだとか、明日は雨が降りそうだとか、そんな他愛ないことだけだったら、両親もモモも、異能者だって普通に暮らしていけると安堵していた。けれど、アカネの耳にある日とんでもない「声」が聞こえたのだ。

――我を求めよ。我を救え。我を求めよ。我を救え。

 今までに聞いたこともない声だった。腹に響くような、低い声。それでいて威厳のある、服従以外の答えを許さない声だ。それまで聞いたことのないこの声に、アカネは再びおかしくなった。その声は日増しに強くなっていき、そしてある朝、アカネは途方に暮れたような顔でこう言った。
 声が、ゲオルギウスへ来いと命令している、と。
 その声を聞いてから、アカネは縛られたように部屋から出られなくなっていた。部屋にこもり続けて、ろくに眠っていないようなやつれた顔のアカネは、そう言うと、行かせてくれと懇願したのだ。
 アカネの成績なら、有名私学にも受かることは目に見えていたけれど、両親は反対していた。声に導かれるままに、アカネの身にも何か大変なことが起きるのではないかと。それでも、声に逆らうことが出来ないのも明らかだった。その声は、たったの数日でアカネの身をやつれさせたのだ。このまま続けば、アカネは死んでしまう――それで両親は、アカネをゲオルギウスへ入れることを決意したのだ。
 ゲオルギウス学院というべらぼうに学費のかかる私学に、二人を入学させることは大変な負担だった。
しかもあの厄介な「声」が、アカネの身をどうするのか、見当もつかない。
 だが、もし危険なことが起きても、ゲオルギウス学院には、魔術を教える先生も居る。それに、もしかしたら「声」から遠ざかって、勉学に専念することが出来るかもしれない。両親の願いはまさにそれだった。アカネが平穏無事に、異能者ではなく、アカネとして暮らせるようになること。勿論モモもそれを願っていた。アカネの力にかかりきりになる両親やすぐに寝込むアカネが憎いと思ったことが、ないわけではない。ただ、ここまで事態が進んでしまうと、逆に自分がそれを持ちたいと願うことが、如何に不相応な願いか、わからないほどモモは愚かでもなかった。
 力を得るということは、平常を失うということだ。
 失ったものが得たものと同じくらい、もしかしたら失って二度と手に出来ない分だけ、大きく感じるかもしれない。それも一生。得た力は消えることがないのだ。
 自分ならどうしただろう、とモモは思う。自分なら失った平常を嘆いて、やっぱりかつてのアカネのように塞いだ日々を過ごすのだろう。いつ役人が来てもおかしくない状況で、まともに暮らせるわけがない。アカネのように、聞こえた声の話をする、そんなことすら難しい。
 ここへ来て、アカネが人並みに普通の生活を送れていることは、好ましいことだった。あれほどアカネと家族を悩ませ続けた「声」の影も、今は見られなかった。来たばかりの頃は、モモの姿を探してばかりいたアカネも、今では自分のクラブ活動に忙しい。姉妹であっても、一日に顔を合わすのは一度きり、ということも珍しくない。だが、それでいいのだとモモは思っている。それぞれがうまくこの学院にとけ込んで、学生生活を送って、モモが先に卒業して、アカネが卒業して――それからのことは、そのとき、考えればいい。
 だが、実際自分の卒業が目前に迫ってくると、それは途端に無責任のことのようにも思えてくるのだ。現に目の前のチヒロは、バスケ部の花形プレイヤーであると同時に語学に秀でており、大学推薦も間違いないと言われている。今のモモの学力では、推薦が厳しいのは重々承知だ。それでも、課されたものはきちんとこなしていくしかないのだ。凡人に出来ることは、たゆまぬ努力、それだけなのだから。
 おろおろしているモモの手を引いたチヒロは、振り返ることもなく前を歩いていく。モモはルームメイトのこの少女に関して、名前以外の何も知らない。同室である以上、朝起きて夜眠るまでを同じくしているのだが、必要最低限の会話しか交わした覚えがない。話しかけたことにはきちんと的確に答えるし、朝はモモよりも早い。だが、どこか人を遠ざけている感が否めないのだ。
 だから、こうしてチヒロがついて来てくれることに、モモは途惑いを隠せなかった。
 リサは案の定、図書館の入り口の前で腕を組んで立っていた。来ているラビット・ファーのジャケットは、ついこの間エビスの古着屋で一緒に選んだものだった。ピンク色のそれは、リサの色白な顔によく似合う。下に着ているワンピースも、旧時代によく流行ったラインのデザインだ。ここ数年、旧時代回顧流行りで、こんな柄もあちこちで目に付くようになった。
 しかしその程度を褒めようとしたところで、リサのご機嫌は治るわけがない。リサの眉がきりりと上がった。モモは思わず首をすくめる。すくめつつ、ちらりと図書館の壁面に備え付けられた時計を見た。ああ、きっかり十五分の遅刻だ。
「遅い!」
「うわわわわ、ごっごめん!」
「だーれーの、レポートよ!」
「す、すみませんっ」
 火に油をそそぐようなモモの応対に、ため息をつきつつチヒロが口をはさむ。「リサ、それくらいで。私も悪いんだ。急いでいたモモを呼び止めてしまったんだから」
 チヒロに心底すまなそうな顔でそう言われると、リサは手のひらを返したような笑みを浮かべた。チヒロの不思議なところは、相手に絶対に不快を与えない雰囲気だ。チヒロ自身、常に誰かと行動をともにするようなタイプでは決してないのに、変わり者だとも言われない。そうさせない雰囲気を彼女自身が持っているのだ。
 そして、そんな彼女は愛されていた。事実として老若男女を問わず、彼女から話し掛けられて頬を染めたり、嬉しそうな素振りをしたり、そんな反応を見せない人間はいない。モモは同室というせいか、もう彼女の魅力には免疫が出来上がっているのかもしれない。チヒロを前にしても、リサのようにはならない。
「チヒロもモモのレポートを手伝うの?」
「……いや、私は私で図書館に用があっただけ。希望していた本が届いたらしいから」
 なんだ、とリサが落胆を露にする。モモも、ただ単に自分をかばうためについて来たのではないとわかって、ほっとする。時折チヒロからは、誰も寄せ付けたくない雰囲気を感じるのだ。むしろ、モモのチヒロに対する印象はずっと変わらない。誰にも近寄って欲しくない、頑なな防御壁。これを崩そうとする相手には、きっとチヒロは容赦しないのだろう――だから、チヒロとはリサといるときのように馴れ馴れしく振舞えない、何かがある。
「チヒロ、今度の試合はいつあるの? あたしきっと応援に行くわ」
 モモのことなどすっかり頭から消えてしまったように、リサはチヒロを促して図書館へ入っていく。チヒロもそんな会話に応じながら、ちらりとモモを振り返った。その口元に微かに浮かんだ笑みは、モモに対する親愛にも見えたのだけれど――なぜだろう、やはりモモはチヒロに対して、怖い、という念をぬぐいきれなかった。
――ほら、私の言った通りになっただろう。
 そんなチヒロの声が聞こえてきそうだ。午後の日差しのなか、モモはそんな思いをかき消すために首を振り、二人を追った。




2.
 モモのレポートが終わったのは、食堂の賑わいも終わりにさしかかろうという頃だった。リサも空腹を堪え、辛抱強くつきあってくれたのだが、同時にずいぶんにと恨まれた。何しろモモが課題提出前日までほったらかしにしておいたレポートは、ロタールという年明けになってやってきた教師――課題に厳しいとわずか一週間で知れ渡ったほどだ――のものだったのだ。それまで、クレイルという高齢の、似たような堅物教師が教えていたもの一切を彼が引き継いだのだが、その厳しさはクレイル以上だった。同じ授業を取っていたリサも、モモの楽天家ぶりにあきれ返っていた。リサですら作るのに三日は要したレポートだ。モモがこのわずかな時間で、しかもひとりで何とかできるはずもなく、かといってリサとまったく同じものを提出すれば、ロタールの手によって授業名簿から名前を消されるのは間違いない。彼の授業が始まって、もうすでに三人、履修登録した生徒の名前が消されている。今の時期、泣くに泣けない事態だ。単位が綱渡りで進級が危ぶまれるモモがそんなことになったら、留年は確実だ。それだけは避けねばならない。だから余計力も入るし、粘りもする。
 人もまばらな食堂で食事を終え、せめてものお詫びにとモモが閉まりかかった購買でリサの好きなフロッグ・チョコをおごって、二人して食べ、部屋に戻って来たのは九時をまわった頃だった。消灯まであと三時間しかない。せっかくの休日だったのに、朝の掃除からケチのつきはじめだった。イズミめ、とモモにしては珍しくむかむかとしていたところへ、廊下の反対側からその本人が歩いてきた。あの坊主頭と、立派な体躯。見間違えるはずがない。だが、同時にモモはあっと声を出しそうになった。そのイズミが連れている小柄な女の子、気後れして俯きながら歩いている分厚い眼鏡をかけた女の子は、妹のアカネだった。
「モモ、探したぞ。どこをほっつき歩いてんだ」
「誰かさんのお陰でリサとの約束には遅れるし、ごはんも食べ損ねるとこだったわ。で、何よ。どうしてあんたがアカネを連れてるのよ」
「姉を訪ねて来た妹を、時間外だからといってむげに返すわけにも行かないだろう」
 意外なところで親切心を見せるイズミが、心外だと言わんばかりにモモを睨む。イズミはモモと同学年で同じクラスなのだが、どうも相性が悪い。おまけに履修のクラスもところどころかぶっていて、こうした応酬はいつものことだ。しかしそんな事情を知るはずのないアカネは、自分のせいではないかと居心地悪そうに小さくなっている。
 ゲオルギウス学院学生寮は、三つの居住棟によって出来ている。在籍する学年によって居住棟は分けられ、都合八年生にあたるアカネは、メリテネと呼ばれる棟で暮らしていた。モモやリサ、チヒロが住んでいるのはリュッダ。低学年の子供と教職員の住まう棟はアスカロンという一番大きな棟だ。それぞれに寮長とそれを補佐する生徒がついているのだが、イズミはその寮長たちを総括する立場にある。いわば三つの寮を管理する寮長であり、監督者なのだ。
「十時にモモの部屋へ迎えに来るから、それまでに用事を済ませてくれ。メリテネ棟まで送り届ける。あっちの寮長にも伝えておくが」
「すみません、イズミ先輩」
 アカネはイズミに深々と頭を下げる。モモは、二人を見届けて満足そうにきびすを返したイズミが廊下の奥へ消えるのを確認すると、アカネに詰め寄った。「一体どうしたの、こんな時間に」
 すると、アカネは今にも泣き出しそうな顔で不満を漏らす。「昼間も一度来たのよ。そしたらお姉ちゃん出かけたって……ずっと探してたのに!」
「とりあえず、あたしの部屋に行こう。ほら、泣かないの!」
 モモはアカネの手を引き、廊下を歩き出した。食堂からそれぞれの居室につながる廊下には、あちこちから話し声が響く。寮の消灯は、名目上十時。それ以降は、各自の部屋から出てはいけないことになっている。
 アカネを連れてモモが自室に戻ると、チヒロが既に戻って来ていた。私服に着替えて、ベッドの上で雑誌を読んでいたチヒロは、顔を上げるとモモとアカネを交互に見た。「そういえば、妹が同じ学院に居るってきいていた」
「アカネと申します。チヒロ……先輩ですよね。この間のバスケの試合、拝見しました」
「そう。バスケが好き?」
「いえ、友達に連れられて……ルールもよく、わからないんです。わたしはそういうのに慣れていなくて」
「ゆっくりしていったらいい。モモ、私は談話室へ行くよ」
 チヒロが気を利かせて席を外してくれた。モモはアカネを座らせると、作りおきしてあるアイスティーを淹れた。毎朝モモが作りおいているのだが、チヒロはほとんど手をつけないため、まだ優に二人分は残っている。暖房の十分にきいたなかで飲む冷たいものは、また格別だ。
 グラスに注いだ琥珀色のアイスティーを置くと、モモはアカネを促した。「ほら、早く。用があるって何なの」
「……ロタール先生のことで」
 アカネはもじもじとそう言うと、出されたアイスティーをこくりと飲む。そしてにわかに頬をほころばせた。「おいしい。お姉ちゃんの紅茶の味がする。懐かしいな」
 家に居た頃、働いている両親に代わって家のこと一切を任せられていたのはモモだった。帰りの遅い、共働きの父と母が戻るまでに、学校帰りに買い物をする。アカネを連れて行くこともあった。もっともアカネは家にこもりがちで、食事すら満足に摂らないことも多かった。そっとしておいてやるのが一番だと、両親もモモも、アカネの部屋に無理に入るようなことはしなかった。その代わり、甘いものの大好きなアカネのために母親はよくパイを焼いた。オーブンから香ばしいにおいが漂ってくると、そろそろとアカネが居間に顔を覗かせるからだ。そして、とっておきの紅茶をモモが入れる。
 モモの淹れた紅茶は、アカネにとっては家ですごした頃の一番いい思い出なのだ。たとえそんなによくない質の茶葉であっても、モモが淹れたというだけで、アカネには心が安らぐものらしい。
 しみじみとアイスティーを飲むアカネを見ながら、モモはロタールの相貌を脳裏に描く。魔術師とはにわかに信じられないような、日に焼けた精悍な顔立ちをした中年男だ。俳優の誰それに似ているという話も耳にする。外見はそうは見えないのに、内面は実に魔術師らしく学院に居る間は黒いローブをまとい、銀の懐中時計を忙しくなくぱかぱかと触りながら授業をする。それでいて彼の授業、古代幻想生物学は必修ではないにせよ、面白いと評判が良かった。ただし、授業の厳しさもかなり有名だ。
 八年生のアカネは、逆に必修科目の古代魔術史を習っているらしい。
「ロタールのことで?」
「魔合成研究会って…以前、クレイル先生が主宰していた研究会があるでしょ。今はロタール先生が引き継いでいるんだけど……お姉ちゃん、知らない?」
 魔合成とは、魔法と魔法とを合成させて、効果を高める方法のひとつだ。現代では、古来より伝わる単独で強力な魔法を扱える者はいない。そこで、単体の魔法と魔法とを組み合わせて効果を倍増させる方法が、さまざまに考え出された。クレイルが存命の頃には、単に授業の延長線上程度の扱いで、実際の実験までは行うこともなかったのだが、どうも今は違うらしい。
 ロタールが研究しているのは、比較的新しい「ルクス式魔合成」と呼ばれるもので、相反する魔法の反発を利用するというものだった。新しい魔法をつくりあげる、といった方が正しいかもしれない。
「もしかして、あんた、誘われでもしたの?」
「うん……この間小テストの返却があったときにさりげなく、訊かれたの。魔合成に興味はないかって」
「リサもその研究会、入ってるよ。何だか難しいことやってるみたいだけど」 
 研究会にリサが入ったのは、ロタールが就任して間もなくのことだった。それまでは試験などなかった研究会だったが、ロタールが主宰となってからは宗旨変えをしたらしい。その入会の試験にも合格して、毎週水曜の会合に嬉々として参加している。今日、図書館でレポートを作りながら、リサが得意そうに話してくれたのだ。リサのには、大戦に参加した魔術師の祖父が居た。今はもう亡いその祖父から、常々、カルヴァート家の魔力を絶えさせてはいけないと教わっていたリサは、魔術に強い関心を持っていた。自分にそれほどの魔力がないのも悩みで、だからこそ、少ない魔力で大きな成果を得られる魔合成に興味を持ったのだろう。そして、ロタールにも。いまひとつつかめないロタールという人物を、モモはあまり好ましいとは思わないのだが、どうもリサは違うらしい。今日も話ながら、ロタールが如何に素晴らしいかをとくとくと語ってくれた。おそらくモモのレポートを手伝ってくれたのも、ロタールに関係しているからだと薄々感じたが、モモは黙っていた。こういうときのリサには、逆らわないに限る。
 しかし、アカネも勧誘を受けたとは。確かに学年は問わずの研究会らしいが、中等部で習う魔法には限度がある。
「アカネはどうしたいの?」
「うん、迷ってる……確かに興味がないわけじゃないけど、怖いよ」
「怖い?」
「うん。あのね、お姉ちゃんには言ってなかったけど――」
「時間だよ、モモ。外でイズミが待ってる」
 ノックと共にチヒロが入ってきた。アカネは慌てて立ち上がると、チヒロにお辞儀をして出て行った。
「ゆっくり話せた?」
 アカネの残したアイスティーを流しへ戻していると、ふいにチヒロが訊ねてきた。チヒロからそんなことを言い出すのが珍しくて、モモはつい、片づけを忘れてしまった。そして、ロタールの研究会の話をする。妹が勧誘を受けて、どうすべきか相談に来たのだと。
「ロタール……」
 チヒロが途端に表情を曇らせた。何か思い出すように逡巡したあと、チヒロはぽそりと呟いた。「勧誘なら、私も受けた。興味がないので断ったけど」
「チヒロも?」
「誰それ構わず声をかけているんじゃないのか? もっとも、断ったら憤怒の形相で迫って来たけれどね。私は魔法には興味ないし、使うつもりもないって答えたら、今度は軽蔑の眼差しで履修を消されたよ」
「チヒロ、それでどうしたの?」
 まさか、後期も佳境に入って、履修登録者名簿から消えた生徒のうちのひとりが、このチヒロだったとは。
「どうもしない。もともと必修科目であるわけでもないから、学務課に事情を話して別の科目の履修登録をしただけだ。ああ、それと……」
 そこで一端言葉を句切ると、チヒロは手に持っていた薄い水色の封筒をモモへ差し出した。「そういえば、ポストにこれが入っていた」
 見覚えのある封筒――品のいい水色に、百合の花があしらわれたデザインのそれは、確かマダム・チヨコ愛用のレターセットだった。
『リュッダ棟305号室 李=ミュラー・ヨシノ様 並びに千尋=メスナー様』――つまり、この封筒はふたりに宛てられたものなのだ。
「開けてもいい?」
 机からペーパーナイフを取り出したチヒロが訊いた。だが、モモは見慣れたその封筒が何であるのか、既に感づいていた。あいまいに頷くと、チヒロは右手をすっと動かした。
 中から出てきたのは、白いカードだった。水色の百合がうっすらと印刷されたカードに記されたタイプ文字をチヒロが読み上げる。
「聡明なる二人の令嬢に、親愛の情としてささやかなお茶会にお招き致したく存じます。ご都合が宜しければ、週末の土曜日、午後八時にアスカロン棟離れ、ワィステリア・ハウスへお越しくださいませ。同夜は、モモ嬢の妹君もお招きしていることをつけ加えておきます……ふうん、お茶会。モモはどうする、行く?」
「え、行かないの、チヒロ」
 ワィステリア・ハウスとは、マダム・チヨコの自宅のことだ。藤棚のある小さな家。そこでマダム・チヨコは気まぐれにお茶会を開く。たびたびそのお茶会に招かれたことのあるモモは、あの封筒を見るたびに気が重くなるのだ。他の生徒より多く届くあの招待状、それも妹と一緒に招かれるそれは、アカネの異能を気にかけてのことなのだろうかと。そうは思っても、マダム・チヨコの誘いを断るという考え自体が頭にないモモには、チヒロの気のない問いに、さらに問いを重ねてしまう。「マダム・チヨコのお茶会だよ? チヒロ、行かないの?」
 逆にチヒロは、そんなモモの反応に意外そうに眉を上げた。マダム・チヨコのお遊びにつきあうつもりなんて、端からないのだ。
「興味ない。誘われても行った事がないんだ」
「じゃあ、行こう? あたしも行くし、アカネも行くよ」
 モモがそういうと、チヒロは暫く考え込んだあと、仕方ないという風に頷いた。「モモが行くなら」
「じゃあ、決まりね。着ていくものは何でもいいと思うの。制服でなくても。そんなにかしこまったものじゃないし。土曜日は、チヒロは何か予定がある?」
「午後から部活の練習があるだけだ。夕食の時間には十分間に合う」
「それじゃあ、あたしが返事を書くね」
 モモはそう言うと、チヒロの手からマダム・チヨコのカードと封筒を受け取った。モモは手紙を書くのが好きだった。ここではなかなか可愛いレターセットを手に入れるのは難しかったけれど、気に入った便せんに文字を綴るのは楽しい。まぁ、それがたとえ、儀礼上マダム・チヨコへあててのものであったとしても。
 嬉々として机に向かうモモへ苦笑しながら、チヒロは自分のベッドに腰かけた。モモのああいうところはすごく好きなのだ。自分がふつうの女の子なのだと錯覚しそうになるくらい。
 だが、チヒロの頭からは、ロタールの研究会のことがなかなか消えなかった。
 クリスマス休暇が終わって着任した古代幻生物を専門とする教師、ロタール=アッヒェンバッハ。前任だった教師が老齢だったせいもあってか年末に亡くなり、急遽代替えとしてやって来たらしいが、前任の教師同様、古代幻生物の研究者というものは、堅物で変わり者だ。だが、特に彼を悪く言う生徒も教師も見あたらない。ただ、その授業の厳しさから、学務課の職員からだけは、敵視されてはいるらしいが。
 もう二週間もすれば始まる後期試験のことすら、おそらくは忘れて手紙を書くことに没頭しているモモの邪魔をしないように、チヒロは読んでいた雑誌を再び開いた。退屈な時間を、まぎらわせるために。



3.
 後期の長い試験期間がやっと終われば、もう中庭は梅の香りで一杯になっていた。結果はさておき、モモはうきうきした気分で、リサと待ち合わせている第九校舎のカフェテリアに居た。暫くは閑散としていたここも、今日ばかりは大にぎわいだ。試験終了と同時に、三月の生徒会主催ガーデンパーティの日時も発表されたし、卒業していく生徒たちのプロムもある。これからは楽しいことばかりが続くのだ。誰もがうきうきとしていて、早速ドレスのカタログを開いている女生徒たちの輪をあちこちで見かけるくらいだ。
 同時に、三月はリサの誕生月でもある。リサとモモは密かに『真夜中のお茶会』を開くつもりでいた。寮に長く居れば、それなりに楽しみを見つけなければいけない。『真夜中のお茶会』はそのひとつだ。口うるさい寮長連中や先生に見つからないように、集まる部屋にお菓子を隠しておく。気の合う友達だけを招いて、みんなが寝静まっているなかをこっそりと抜け出す、あの緊張感といったら! 試験があけて、やっとそういったことを実行に移せるのだ。ケーキはあらかじめ、予約しておいた。リサの大好きなチョコレートのケーキ。もとはスフレが美味しいと評判のお店だ。当日受け取りに行って、その場で、注文してから作るあつあつのスフレを食べて帰る魂胆だ。これが、モモからリサへのひとつめのバースディ・プレゼント。あつあつのスフレが小さくならないうちに、甘くないクリームをかけて頂くそれに、きっとリサは満足してくれるだろう。このお店は以前通っていたウエノの高校の友達が教えてくれたのだ。いつだったか一緒に行って、そのとき食べたリンゴとカルヴァドス酒のスフレがあんまりにも美味しくて、たっぷり待っただけに、早く食べなくてはいけないのが惜しいくらいだったのだけれど、結局あっという間に食べてしまった。それくらい美味しいスフレだ。
 そして、その帰りに他の買い物も済ませるつもりだった。他には何を用意したらいいだろう。フルーツの缶詰も欲しい。それでパンチを作ってもいいし、そのまま食べてもいい。プレーンのスコーンを別の子に頼んで焼いて貰って、もしくはカフェテリアからこっそりとくすねて、クロテッドクリームの美味しいのを買ってきてもいい。こてこてに塗って、さすがに夜にあたためて匂いがこもると大変だから、そのままで。でもお茶は温かいのを用意しよう。モモのとっておきの紅茶を淹れる。ジャムやハチミツも用意して、バゲットもすこしだけ置いて、そのジャムやハチミツ、さらにはオイル・サーディンなんかを載せて食べてもいい。ルートビアも用意しよう……モモの頭のなかで、かつて何度か招かれた『真夜中のお茶会』の場面が思い浮かぶ。そのどれより、楽しいものにしよう。モモはそう決めていた。
 約束の時間より三十分くらいした頃だった。リサが約束の時間に遅れて来るなんて、今までなかったことだ。待つのが苦にならないモモも、さすがに何かあったのかと心配しかけた頃、ようやくリサが現れた。
 そういえば、最後の試験はロタールの古代幻生物史だった。モモは先に出来た者から退出の言葉に引かれて、ろくに見直しもせずに出て来たのだが、リサは違ったらしい。とっくに試験は終わった時刻だが、遅刻した理由を訊ねると、リサはやや息の上がった声でこう言った。
「モモ、ごめんね。あたし、『真夜中のお茶会』が出来そうにないの」
 突然のリサの発言に、モモは返す言葉もない。飲みかけのもう冷めてしまったミルクティーも、喉を潤してうまい言葉を吐き出させてはくれない。
 楽しみにしていたモモは、そのまま、驚きと悲嘆に暮れた顔をする。だってそうだ、祝ってもらうのも楽しいけれど、大切な友達であるリサの誕生日を誰より祝ってあげたかったのだ。あんな楽しい祝い方を、モモはここへ来るまで知らなかった。親友のリサを祝うパーティとして、一番相応しいと、モモはずっと思っていたのだから。
「だって……前から決めてたのに。大丈夫だよ、見つかったりなんてしないもの」
 するとリサは頬をより赤らめながらこうつけ足した。「違うの、モモ。驚かないでね。あたし、『エレメンツ』になるの」
「『エレメンツ』……に?」
 「エレメンツ」というのは、魔術師の種類のひとつだ。ある意味では、異能者に近い存在でもある。かつて竜をはじめとする様々な幻生物が世界に存在していた頃、彼らの力を扱う魔術師が存在していたらしいが、それはひとつの異能でもあるのだ。人間以外の者と意思疎通のできる力、そして相手を使役するに足る魔力――「エレメンツ」は、四元素であるところの、風火水土の四つの精霊を操ることの出来る者を指す。異能がよほど秀でていれば別だが、ふつうは異能と魔力との双方がなければ、「エレメンツ」にはなれない。逆にいえば、異能者であれば、「エレメンツ」になれる可能性は高いのだ。たとえば、アカネのように。声が聞けるのであれば、その声に従い、もしくは頼みを聞いて、力を借りることだって、理論の上では可能だ。
 今もって「エレメンツ」と認められている者の多くは、そういった異能者であり、特別の訓練を積み、そして元素の精霊との契約の儀式を経て、その力を持つ。その儀式をリサが行うというのに、モモは目を丸くして息を飲む。正気の沙汰とは思えない。
 だが、リサは嬉々として語り続ける。誇らしそうに、うっとりと。
「そう。誕生日の夜にね。ロタール先生が、儀式を行ってくださるというの。合魔法のひとつでね、異能を開花させる方法があるんですって! わたしと火は相性がいいらしいから、たぶん『焔使い』になれると思うの」
「そんな……リサ、本気なの?」
「ええ、本気。大丈夫よ、先輩たちのなかにも成功したひとが幾人か居るんですもの。しかもね、能力を選べるかもしれないの。なんて幸せなのかしら。女の子には、わりと異能者が多くいるというけれど、あたしはちっともそういうのがなくって……でも、もう落ち込まなくて済むんだわ」
 だから、ごめんね――そう明るく言うリサを、モモは信じられなかった。どうしてあの力が欲しいなどと言えるのだろう。アカネがそのために失ってしまったものを、リサを何一つ知らない。リサは自分が失うものについて、何も考えていないのだ。気付いてすら、いないのかもしれない。
 だからつい、モモにしては滅多になく声を荒げてしまった。「だめ、リサ! 儀式なんてやめてよ」
「モモはあたしが『エレメンツ』になるのが嫌なの? どうして? ……だって、あなたの妹は異能者なんでしょ」
 リサの口から平然と言われた言葉に、モモの思考が止まった。誰にも秘密のはずだ。マダム・チヨコと、モモとそれからアカネ。この三人しか知らないことを、どうしてリサが、それも当然のことのように口にするのだろう。だから、それを問う声もかすれてしまった。「――どうして、それを」
「異能者は異能者を感知するんですって。知らなかった? ロタール先生に教わったの。素質を見込んで研究会に誘ったのに、断られたってがっかりしていたわ。モモからも言ってあげて。研究会はちっとも危なくなんかないし、むしろ自分の能力を高めることのできる場なのよ。加わらないなんて馬鹿げているわ」
「アカネは、自分の能力を高めるつもりなんてない。前にその相談を持ちかけられたときも、あたしはきっぱり、断るべきだって言った。おかしいよ、そんなの。自然にのままにしておけばいいのに」
 するとリサは、くすりと嗤うように問いかけた。「あなたたちナチュラリスト? NDNA? それとも棄民思想? 異能者には責任があるわ。そうでしょう? その力を殺して生きるなんて、考えられない」
 臆病者を見るかの如く、リサはモモを見ている。それは、確かにそうだ。特別な力を持てば、国は全力をあげて保護する。だがそれは、平穏な幸せと引き替えにという意味も併せ持つ。棄民――国に背を向けられる存在。
 ただ、普通に生きたい――そう願うことが、そんなに大それたものなのだろうか。モモは返す言葉もなく、うつむいた。ただ、普通に生きること。それを願っても願っても、アカネの耳に聞こえてくる「声」は、一生途絶えることがない。
「持っている人には持たない人の気持ちなんて、わからないわよ」
 リサは冷たく言い放つと、席を立った。「モモなら、喜んでくれると思ってた。あたしがどんなに、魔術師に憧れているか、モモはわかってくれてると思ったのに。妹が異能者で、自分はそうじゃないなんて――わたしだって、家族のなかでたったひとり、魔力が弱くて、占いだってまともに出来ない。そんなあたしの疎外感を、モモならきっと――」
 リサは最後まで言わずに、くるりと背を向けると、カフェテリアを後にする。その背中に、くっきりと見える拒絶の怒りに、モモはかける言葉もなかった。これから、『真夜中のお茶会』に必要なものを買いに行くつもりだった。あつあつのスフレをリサにごちそうしてあげるつもりだった。パーティの準備をするのも、主役のリサに似合うプレゼントのティアラを作ったのも、何もかもがぺしゃんこだ。
 でも、そんなことより、リサが「エレメンツ」になるのだというそのことが、モモにはひどくショックだった。投げつけられた言葉も。臆病なナチュラリスト。NDNA。棄民思想。
――持っている人には持たない人の気持ちなんて、わからないわよ。
 何度も何度も、その言葉がぐるぐるとまわり続ける。
 どれくらいぼんやりしていただろうか。カフェテリアのざわめきが止んで、やっと席から立ち上がったモモは、のろのろと自分の部屋へ帰った。どうやって帰ったのかも、覚えていない。すれ違う誰かと交わした言葉も、イズミのやかましい口調も、耳からは遠くなっていた。
 部屋に戻っても、食事をする気分でなかったモモは、ベッドで横になっていた。日が落ちてもずっとそのまま。
 何時間くらい経ったのだろう。ドアの開く軋んだ音とともに、部屋の照明がついた。チヒロが戻って来たのだ。元気のないモモの様子に驚いた顔のチヒロが、荷物を投げ置き、モモのベッドへと駆け寄った。
「モモ、どうかした? 具合でも悪いなら、保健室に連れて行くけど」
 俯せになったモモの耳元で、チヒロが優しく声をかけた。その優しさがいつになく、自然で――思わずモモは、涙をこぼしていた。
「はっきり言わないとわからないよ。どこか痛い?」
「違う、違うの」
 しゃくりあげながら、モモはチヒロに抱きついていた。チヒロは黙ってモモの背中を撫でながら、モモが話し始めるのを待っていた。
 その待ってくれる優しさが、モモにはこたえた。チヒロに対して少なからず抱いていた違和感もぬぐいさるほどに。
 ゆっくりとすこしずつ、チヒロに受け止められながら、モモはリサのことを話した。
 そして……言うまいと思っていた妹のことを。
 チヒロは黙って相づちを打ちながら聞いてくれた。辛抱強く。そしてただ一言、端的に訊ねた。「儀式は明日、どこでするの」
「……たぶん、第九校舎の実験室。いつも研究会で使っている部屋だと思う」
 鼻をかみながら、モモは答えた。「でも、どうして?」
 するとチヒロは不敵に微笑んだ。「邪魔しに行くんだよ。モモはリサに『エレメンツ』になって欲しくないんだろう? 私も同じだよ。だいたい、そんなことができるわけがない」
 できるわけがない、というところで強く頷いたチヒロを、それでもモモは信じていた。自分の考えは、正しいのだと。


 真夜中の十二時――本来なら、寮を抜けて、いつも利用している第九校舎のカフェテリアからお皿やフォークを失敬するはずだった。場所は、同じ第九校舎の二階。
 学校の先生にも、二種類ほどタイプがある。生徒の多少の悪戯には目をつぶってくれるタイプと、規律を盾に徹底的に封じ込めようとするタイプと。第九校舎の二階、一番奥にあるその小さな教室は、『真夜中のお茶会』に理解ある先生の管理する部屋だった。ゲオルギウス学院の卒業生で、自身も真夜中に騒いだクチだったというその先生は、高等科のなかでも、いやもしかしたら全学年を含めても、一番生徒に近いかもしれなかった。せっかく鍵を借りたのに、明日になって、楽しかったですという顔も出来ない。くせのある黒髪でにやりと笑って「楽しかったか?」と問いかけてくるあの顔に、返す言葉もないのだ。いつもだったら、昨日の余り物ですけれど、と言って余ったお菓子をこっそり渡すことで何もなかったことにしてくれる、実にいい先生だ。ただ、教えている数学は難しくて、モモにはお手上げなのだけれど。
 しかし、チヒロがそばについていてくれて、本当に良かったとモモは思った。あのままだったら、ケーキを頼んだお店に連絡をすることも(明日取りに伺います、と電話してくれたのはチヒロだ)、パーティの中止を伝えて歩くのも忘れていたに違いない。外へ出る前に、寮のあちこちへ、今夜のお茶会の中止を告げていくのは、何ともいえずさびしくつらい作業だった。途中で幾度、めげそうになったか知れない。けれども、傍らにチヒロが居てくれたおかげで乗り切ることが出来たのだ。そばに居てくれる頼もしさもある。それともうひとつ、チヒロの不思議な魅力だ。楽しみにしていたのに、と恨めしそうに口にした子も、チヒロのとりなしであっさりと機嫌をなおしてくれるのだ。
 そしてアカネは――寮の外でモモとチヒロを待っていた。きちんとコートを羽織って靴を履いて、持っていたジンジャークッキーが無駄になったことも、これから二人がどこへ行こうとしているのかも、すべて知っていた。それでも、アカネは行くと言ったのだ。頑固に行くのだと言い張るアカネに、チヒロもついに折れて、三人はこっそりと寮を抜け出した。門限を死守するのがつとめと信じて疑わないイズミのことだ、この時間まで外に居てもおかしくない。その上、『真夜中のお茶会』なるものを撲滅すべきだと信じてやまないお堅い人種だ。見つかったらどう言い訳をしても、ペナルティとして寮の掃除を一ヶ月、などと平気で言いそうで怖い。
 寮の通用口から、寮の正門までのアプローチに、それらしき人影は居ない。チヒロが先に出て、あたりを覗うと、タイサンボクの木陰に身を隠している二人を招いた。どうも、厄介な人物は今日のつとめを終えていたようだった。
 ふいに見上げた夜空に、アカネが吐息をつく。「きれい。今夜は満月だったのね」
「儀式にはうってつけの日、というわけだ」
 吐き捨てるようにチヒロが言う。モモはその言葉に身を固くする。儀式。満月の夜は、精霊の降りる夜。魔力の強まる夜だ。
 急がなければ、と顔をひきしめると、チヒロがくすりと笑った。「そんなに気負わなくてもいい。普通でいいんだよ、モモ」
 そう言われて、モモは拍子抜けしたようにチヒロを見た。だが、そう言うチヒロの顔はちっとも、緩んではいないのだ。むしろ、いつも喜怒哀楽を表に出さないチヒロの顔に、生気が帯びている。そんなチヒロが、ふいに歩みを止めて二人に切り出した。
「何が起こっても、何を見ても、誰にも話さない――そう約束してくれるなら、わたしは二人を守るから」
 生真面目な顔でチヒロに言われて、モモもアカネも互いを見ながら頷いていた。儀式の邪魔をするのは、危険なことだ。それをチヒロが請け負ってくれる、ということなのだろか。あれほど魔法に興味がないと言っていたチヒロなのに。それより、魔術師の行う儀式を食い止める方法があるのだろうか。
 さまざまに考えながらも、足だけは素直に動いていく。早く、リサが儀式を行う場所へと。
 寮を出てしまうと、あとは駆け足だった。第九校舎へ向かう一番の近道は、中央棟へと続く長い廊下を行くのがいちばんだったが、さすがにこの時間では、渡り廊下からの入り口も閉められている。そこで中庭を抜けていくことにした。誰も居ない、けれど風で木々の枝がこすれあい、ささやくあの場所は、夜はたいそう不気味だ。アカネがぎゅっとモモの手を握るだけでは足らずに、しがみついて来る。うまく動けないので離れて、と言おうとすると、アカネの顔は真っ青だった。眼鏡までがたがたと奮わせている。
「どうしたの、アカネ、アカネ?」
「……聞こえる、の。お姉ちゃん、あの校舎に炎がいっぱい来てる。すごく怒ってる。こんな場所に呼び出してとか、ろくでもないとか――それにつられて」
 そこで言葉を句切ったアカネは、遠くに見える時計塔へ振り向いた。「あれもすごく興奮してる。やだ、怖い」
「あれ……?」
 訝しげに訊ねたチヒロに、アカネは言った。「よくわからないけど……あの、傷のあたりから、いつも声がするの。炎が大好きだから、興奮してる。ずっとざわざわしてる」
 アカネはあいている手で耳を抑えながら、眉をしかめる。よほどの声が聞こえてくるのだろう。
 時計についたライトのお陰で、今もきちんと時間を読むことができる。その塔の部分に刻みつけられた、深い傷。幾たびもの修復工事を経てなお残るそれは、一節では竜の爪痕だとも噂されているが、真意のほどは定かでない。
 チヒロは同じように時計塔を見つめながら、呟いた。
「声、ねぇ……それだけ聞こえてくるなら、急いだ方がいい。アカネは平気? 無理しないで、寮で待ってても――」
 そう言い掛けたチヒロに、アカネは大きく首を振った。「平気です、行きます」
「頼もしいね、モモの妹は」
 チヒロはモモにひやかすようにそう言うと、歩き始めた。時折吹き込む暖かな風と、満月。今夜、お茶会が出来ていたなら、きっと散歩にも出ていただろう。満月を眺めて、詩のひとつでも浮かんでいたかもしれない。
 ポケットに入れたままのティアラに指があたる。渡しそびれて、そのままコートのポケットに入れたままだった。今夜の主役にふさわしいティアラを、モモは不器用なりに一生懸命作ったのだ。ハートのかたちをした小さなものだったけれど、それなりに可愛く出来て、きっと色の明るいリサの髪に似合うと思ったのだ。
 それをつけてくれる本人は、今ここに居なくても。


 第九校舎に着くと、リサが話していた通り、三階にある実験用教室から灯りが漏れているのにすぐ気がついた。音を立てないように階段を上る。階段のすぐ手前にある中ぐらい、六十人は収容できる広さの実験室だ。
 ドアにつけられた覗き窓からなかを覗うと、机や椅子がすべて除かれた教室の中央にリサが立っているのが見えた。床に描かれた魔法陣と、その傍らに立つロタール。幸いこちらに気がついた様子はない。
 ゆっくりとドアノブをまわして、ほんの少しの隙間を作る。なかから、音がもれて来た。そして、熱気が。
 ロタールは儀式用の白いローブを纏い、いつも首にさげている懐中時計を握りしめ、呪文を唱えていた。一際高く声を上げると同時に、魔法陣の中央に立つリサの全身を、朱色の焔が取り囲む。リサはその焔のなか、苦悶の表情で立ち続ける。だが、やがて焔はひとつ消え、ふたつ消え、すべてがリサの内に留まるかのように消えていくと、リサは膝からがっくりと姿勢を崩した。それが、儀式の終わりだった。
「……素晴らしい。どうかね、『エレメンツ』になった気分は」
「……あつ、い……」
 今すぐ駆け寄ろうとするモモをチヒロが止めた。首を振る。まだここから様子を見ていろというつもりらしい。
 モモは言葉に従い、窓硝子に額をつける。ふらふらなリサが気にかかる。発熱しているかのように、上気した頬も。
「では、ひとつ、力を解放してみたまえ」
「は……い」
 リサは頷くと、自分の両手をまじまじと見つめ、そのまま外へ向けた。すると、派手な音を立てて、魔法陣の周囲が一斉に火を噴きあげた。それを見た瞬間、リサの顔が、何ともいえない喜びに満ちる。「嘘……先生、あたし『焔使い』になれたんですね! 夢みたい……」
「今はこの魔法陣がなければ扱うことが出来ないだろうが、なに、すぐに慣れる」
 そのやりとりを聞いていたチヒロのこぶしがぎゅっと力強く握られた。すっと立ち上がったチヒロは、ドアを大きく開き、つかつかと教室へ入っていく。慌ててモモとアカネも後を追う。アカネはモモの後ろにぴったりとくっついて、怖い、と呟いた。正直、モモだってリサのあの力は怖い。焔が上がった瞬間に、何ともいえない恐怖がモモを襲ったのだ。食われてしまうかのような恐怖が。アカネの異能はああいったものではなかった。怖いと思うこともない。だから余計に、そんなまがまがしさを持つリサの力が、そしてそんなものを身につけたリサが心配だった。
「モモ……! それにチヒロまで……」
 急に教室へ入ってきた二人に、リサは驚きを隠せない。ロタールもまた、不快そうに二人をじろりと睨めつける。「何の用だね。ご覧の通り、我々は立て込んでいるんだが」
「誕生日おめでとう、リサ。遅かったみたいだけど」
 チヒロはそう言いながら、ゆっくりと魔法陣の文字を見つめていた。「ふぅん……やっぱり。間違いない。お前、『再生の旅団』の首領だろう」
 チヒロの言葉に、ロタールは下げていた懐中時計を震えた手で握りしめる。だが、チヒロは逃がさないとばかりに、魔法陣を顎で示す。モモも教科書では見たこともない、魔法陣だ。複雑な図と文字の羅列されたそれを、どうしてチヒロは知っているのだろう。
「この魔法陣、見覚えがある。今年の夏に壊滅させられた組織だったと思うが。定番通り、ドラゴンの復興を掲げて、やりすぎた殺人集団。ただひとつ、毛色が違ったのは、首領が魔術師だったということかな。なかなかいい懐中時計を持っているとは思っていたが……『時を刻むもの』が魔力を補っていたというわけか。成るほどね」
「ケルベロスか……。何処にでも現れる野良犬め!」
 呻くように、ロタールが呟いた。
 モモもアカネもリサも、その名称に聞き覚えはなかった。だが、唯一チヒロだけが、何事でもないというような風に微笑んでいる。どんな罵倒にも慣れているのか、それとも、罵倒を罵倒とも受け取っていないのか。
 過去の大戦に破れたこの国は、長く連合国の統治下にあった。自治を取り戻したのは、それほど昔のことではない。長く統治されていた間に、国家としての機能は錆びてしまった。どんな有事にでも対処できていた優れた機能は奪われ、それでも残ったのが、この通称「ケルベロス」と呼ばれる特務機関だった。有事に際してのスペシャリスト集団。国家の裏の仕事一切を引き受ける、首相直結の組織だ。軍部・内閣調査室・警察、このすべての力を合わせた組織は、三つの頭を持つ地獄の番犬の名に相応しかった。決して表に出ることはなくても。
 チヒロが口を開いた。
「その狗を甘く見て、破防法で壊滅させられた似非宗教家が、こんなところで何をしている。お前の可愛い信者たちは、お前の帰りを待っているよ」
「国家の狗が……薄汚い権力者に飼われた狗が……」
 ロタールは顔を真っ赤にしていた。よほど過去に何かあったのだろう。そしてそれは、ロタールがただの教師ではないことの肯定だった。チヒロの言うとおり、殺人集団の首領として官の手により裁きを受ける――実際、今の世の中ではそんなニュースは目新しいものでもなくて、モモの記憶にもないのだが。
 だが、そんなことよりモモはチヒロの方が気になった。いつもと違う。今まで隠していたものを剥き出しにして、相手を丸ごと飲み込むかのような気迫を感じるのだ。これは、モモの知っているチヒロではない。
 ロタールの言う通り、ケルベロスのチヒロだ。
「……邪魔だから、殺したんだろう?」
 チヒロの言葉に、ロタールの眉がぴくりと反応する。それを楽しむかのように、チヒロは続けた。「仲間から仕入れた情報だ。お前が以前から、この学院に興味を示していたってね。お前らみたいなのの相手を長くしていると、行動も大方読めるようになるんだ。でもまさか、こんな形で遭遇するとは思わなかったけどね。どういう経緯でこの学院に潜入したのかも、おおよそ察しがつく」
 ふいにアカネの手が不安そうにモモの腕に触れた。アカネもまた、チヒロが今まで見知ったチヒロとは全く別人のように変わったのを肌で感じていた。二人は顔を見合わせ、それでも止めるすべなくチヒロの背中と、対峙するロタール、そして青い顔のまま立ちすくむリサとを見守っていた。下手に動けない、それを許さない張りつめた空気があった。
「竜を崇める、復活を願う……何の為かは知らないが、結局欲しいのはその魔力なんだろう? この学院に残された竜の爪痕、それだけを頼りにお前らはここを目指すんだ。まるで山に登るかのように。だが、そのために血を流す、人を殺める、そういう手合いにわたしたちは容赦しない。少なくとも、わたしはね、そういうお前らが虫唾が走るほど、大嫌いなんだ」
 チヒロはそう言い捨てると、急に声の調子を和らげた。「特にお前みたいなのはね。卑劣な手だ。老齢の魔術師に取り入って、殺しておいて学院の後釜に座る。うまくいったつもりだろうが、いささか目立ちすぎだ」
 魔術師殺しは重罪だ。大戦以前を生きた受勲魔術師ともなれば、その罪はさらに重い。彼らは敗戦を契機に口を閉ざし、魔力も殆ど外へは出さなくなった。それでも、国は戦った彼らを保護しつづけたのだ。
 変わって統治下で生まれた「自称魔術師」と差別するかのように。戦い、傷ついた兵士を棄民と扱っても、魔術師だけはそうしなかった。それほど、魔力というのは貴重で希有なものなのだ。
「黙れ、牝犬が!」
 激昂したロタールは、握りしめていた懐中時計を開くと、早口で呪文をまくしたてた。その途端、チヒロの体が、浮かび上がり、教室の壁に叩きつけられた。入ってすぐ、教壇ごと壁へと叩きつけられたチヒロは、防ぎきれなかったのか、すぐには動かない。
 それを見たモモとアカネは、一斉に身を固くする。攻撃の意志を持つロタールの目。その目には、モモやアカネなど眼中にはないようだった。それでも、今まで人間のあんな目を見たことがない。怒りに満ちた目だ。ほの暗い怒りをぶつけるかのように、ロタールは髪を振り乱して、壁にもたれたチヒロへ自らの罪を自白する。
「そうだ、殺してやった! あんなおいぼれ、さっさと死ねばいい。何が『受勲魔術師』だ。我々と何の違いがある。魔力に秀でていても、所詮はあの程度だ。この国の魔術レベルを落としているのはああいった連中なのだと、何故誰も気がつかない! だから竜が必要なのだ。それが、この国のためだ。どうだ、否定も出来まい。ここの生徒たちを焔として、復活させる――簡単に『エレメンツ』になれると言えば、復活させるための焔も容易く集まる。こいつらは餌だ。竜のための餌だ。お前だってそれを知ってここへ来たんだろう!?」
「……嘘。嘘でしょ」
 リサの顔色がどんどん悪くなる。今まで信じてきた人物の素性が、犯罪者だったと知った今、彼女の心の中は疑念でいっぱいだった。
 モモは、今にも倒れそうなリサに問いかけた。どうしても知りたかったことを。
「リサ、どうして? どうしてそんなに力が欲しいの?」
「――モモ、あなたは欲しくはないの? 妹のように、人とは違った力が欲しいとは思わないの?」
「あたしは要らない。あたしはいちばん近くでアカネを見てきたんだもの。アカネがどれだけ、なければ感じずに済んだ苦しみを抱えてきたか、助けることも出来ずにずっと見ていた。だから、あたしは望まない」
「身の程を知った発言だね」
 その声と共に、チヒロがゆっくりと起きあがった。ジーンズを払い、首を左右に傾ける。肉体的には大した損傷を受け手はいないようだ。何事もなかったかのような顔で一歩前へ出ると、落ち着いた口調で言った。「お前たちは本物の異能者を見たことがないだろう。鍛えられた異能者をね」
 そう言ったチヒロの目が、その美しい青色を失っていく。代わりに、溢れるばかりに輝きを増す。青から金色へと変わる瞳。その瞳へ誘い込むかのように、開け放たれたドアから吹き込んだ風で、チヒロのひとつに結った黒髪がつややかに流れる――リサは恍惚のため息をついた。
 チヒロが静かに訊ねた。「どう、もう力が出ないだろう。そこのお前もだ、ロタール」
「『魅了』、か――」
 苦しげに呻きながら呟いたロタールに、チヒロは満足げな笑みを浮かべる。背筋が凍るほどに美しいのに、何故だろう、モモには恐怖しかわかなかった。今はロタールより、リサより、チヒロが怖い。
「ご愁傷様。わたしの力に耐えられた人間は居ないよ。たとえ目を盗まれた者であっても、わたしの魅了は心にまで侵入する。どうする、抵抗しないのならここで止めてやる」
「リサ! 力を使え。焔をあの女にぶつけてやれ!」
 だが、リサは返事もしない。もはやリサの心に、チヒロ以外の声は届かないのだ。心の自由を束縛する――それが、魅了の力だった。
「困った馬鹿が居たものだ」
 チヒロはため息をつくと、目を見開いた。それと同時に、ロタールは喉元を抑え始めた。藻掻き苦しむ姿を見ながら、冷ややかにチヒロは言う。「言ったはずだよ、私の魅了は心にまでも侵入すると。どう、心を支配された気分は。体がいうことをきかないだろう。追い出そうとしても無駄だよ。心を支配された人間は、わたしの意のままに動かせるんだ」
 チヒロは右手の指を鳴らした。すると今度はロタールの腕が、本来なら曲がらない方向へ音を立てて曲がった。悲鳴をあげたのも構わず、もう一度チヒロは指を鳴らす。さらに反対の腕もまた、あり得ない方向へ派手な音をたてて曲がった。肩を床になすりつけて、ロタールが激痛をこらえ、チヒロへ呪いの言葉を吐く。だが、魔力を補う術を失ったロタールの呪いは、チヒロに届くはずもなかった。
 チヒロは抑揚のない声で言った。「支配されて睨む気概があるとは、さすがだ。テロリストの親玉とでもいったところか……だが、気に入らない」
 チヒロがふたたび指を鳴らすと、今度は足の感覚がなくなった。そのままもう一本の足も使い物にならなくしようとしているチヒロを見かねて、モモが止めた。「やめて、それ以上したら――」
 するとチヒロは冷ややかにモモを見た。「それ以上したら、何だと言うんだ? この男が人殺しであると知ってもかばうのか」
「かばうんじゃない、チヒロ、違うの!」
「何が違う。お前らはいつもそうだ――国に守ってもらいながら、自分が汚れるのは嫌だという。異能者であることを隠そうとする。だから、こういう馬鹿がつけあがるんだ」
「それでも、あたしはアカネを人殺しにさせたくない!」
 その言葉にチヒロの目がきゅっと細まった。そうだ、チヒロはモモがアカネにさせたくなかった、「人殺し」そのものなのだ。どういう事情でそうなったのかはわからない。だが、この年齢でここまで自分の能力を高めたということは、相当幼い頃から訓練を受けているという証拠だ。
「……好きでなったわけじゃない」
 チヒロはそう呟きながら、ロタールの手に指先で印を結んでいく。捕縛の呪。チヒロは一部の隙もなくその呪を完成させると、今度はリサへ向き直った。既に魅了から解けたリサは、しやがんだまま身動きも出来ずにいた。ひとりサウナのなかにでも居るかのように、顔を真っ赤にして汗をぽたぽたとたらすリサを見て、哀れむようにチヒロが言った。「こいつが何を言って瞞したのかは知らないが、お前は望んだ力を得た。だが、もう気がついているんだろう――体のなかがおかしいのを。不完全に得た力はいずれ身を滅ぼす。四元素の力は、容易に身につけることは出来ても、意のままに操ることが難しい。意志持つ精霊を己の身の内に飼うなんざ、私にも出来ない。私の力はそこまで及ばない」
「リサ……」
 モモが近寄ろうとすると、リサはその手をはね除けた。「来ないで」
「リサ、リサがどうなってもわたしは友達だよ」
「来ないで。燃やしたくない。もうだめなの、わかるのよ」
「お姉ちゃん、だめ。リサのなかの焔が怒ってる。外に出たいって叫んでる――だめ!」
 アカネがか細い悲鳴をあげたのと、チヒロがモモの手を強く引き寄せたのと。
 リサが涙を流した顔を見たのが、最期だった。
「リサ!」
 リサの体がみるみるうちに炎に包まれていく。精霊がはけ口を求めて、自らの宿主を焼き殺したのだ。自由を得るために。
 目の前に蘇るのは、桜の花びらに覆われていくリサの姿だ。あれは、暗示だったのだ――気がつくのが遅すぎた。
 アカネのことも忘れて、チヒロに強く引かれる体をよじりながら、それでもモモはリサへ向かって手をのばしていた。
 そして、名前を呼んでいた。もう二度と呼ぶこともなくなる、親友の名前を。




4.
「――魔法や異能が何もかも解決してくれる。いまの自分が、どれだけ幸せなのかは、本人にはわからないものだから、自分では解決できないことを、魔法や異能にすがってしまう……この世界の脆い部分ね。依存して、転嫁する。この学院という特殊な場所がそうさせているのかもしれないけれど、外の世界では、自分で解決できないことなんて、もっとあるでしょうに」
 内容とは裏腹に、マダム・チヨコはゆったりとした口調でそう言った。疲れた、というのでもない。いつも穏やかな笑みを絶やさない彼女の見せる、厭世的な言葉が珍しくて、ついモモは顔をあげた。
 モモとアカネはこの日揃って、マダム・チヨコの自宅であるワィステリア・ハウスを訪れていた。気まぐれで開かれている理事長主催のお茶会は、彼女の自宅でというのが決まりだった。アスカロン棟の離れにある戸建ての住宅が、彼女の生活の場だ。決して広くはない家だが、シックな家具で統一されたそこは、居心地の良い場所だった。安らぎに満ちている。マダム・チヨコの人柄の滲み出る空間だった。
 座るとゆったりと体の沈むソファに身をゆだねて、モモはマダムの言葉を待つ。
 あれから一週間。リサの死は、ゆっくりと学院に広まって、そして、消えた。
 ロタールが実は犯罪者で、リサはその犠牲となって、二人は精霊に焼き殺された――そんな嘘みたいな事実は、誰も信じなかっだたろう。マダム・チヨコは、不幸な事故が起きたのだと、みんなの前で話した。魔術の合成に失敗し、そして、ロタールとリサが犠牲になった。その方が誰もが信じる話だった。ロタールが研究会を主催していたのは誰もが知っている。入会する生徒の選別もしていたことも、リサ自身、入会出来たことを誇らしげに話していた事実も、その話の信憑性を高めていた。
 結局そういうものだ。囲まれた生活のなかで、死は長く語るものではない。疑心にかられても、それを回避していく術を誰もが身に付けているのだ。
 マダムは口を閉ざしたままのモモとアカネを交互に見ながら話を続ける。
「不思議ね。ついこのあいだ、あなたがたとチヒロを招いたとき、似たような話をしたのに」
 後期試験の前にこのワィステリア・ハウスに招かれた日が、懐かしく脳裏に蘇った。チヒロがお菓子を食べる姿。マダム・チヨコお手製のキャラメルシフォンケーキに、幸せそうな笑みを浮かべていたこと。そのあとお土産にともらったクッキーだって美味しかった。いつになくリラックスしたチヒロを見て、やっぱりいつも見ているチヒロと違うのは、気負っているものがあるせいなのだと思い込んでいたのだけれど――。
 違った。あのとき見たチヒロが、ほんとうのチヒロなのだ。おそらくは。
「優秀な生徒をひとり、そして教師をひとり……失ってしまったことは非常に悔やまれるけれど、人の心の在り方は、教えられるものではないから。あなた方だけでも、無事で何よりでした」
 あのとき、真っ先にあの場所へ駆けつけてくれたのは、モモにパーティの部屋の鍵を貸してくれた先生だった。翌日、事情を訊かれたときも、ロタールの素性についても何も、チヒロは語らなかった。モモも同じだ。
 けれど、マダム・チヨコにだけは隠しておけなかった。こうして呼ばれたお茶の席では、すらすらと舌がなめらかになる。チヒロの異能についてだけ、話さなかったことを不思議に思うくらいだ。
 だが、全ての事情を聞いた後ですら、マダム・チヨコはロタールを犯罪者とは言わない。良き教師だったと言う。
 モモはスカートの裾をぎゅっとにぎりながら、訊ねた。ロタールが悪い。あいつさえいなければ、リサは死なずに済んだ――モモはずっとそう思っていた。たぶんこれからもそう思うだろう。チヒロに対してだって、少なからず抱いているのだ。チヒロなら、もっと早くリサを助けてあげられたのに、と。
「マダムは、真実を伏せておくつもりですか? ロタール先生が実は、その――」
「罪を犯した者だとしても、ね。この学院で起きた全てのことは、わたくしの胸の内にしまっておきます。わたくしが必要だと判断したら、官の手を借ります。今回はそうはしません。それが良いか悪いかは、後の人達が決めればいい。たとえ断罪されようとも、わたしはそうするつもりです。リサの死の真実が隠されてしまうようで、あなたは嫌なのね」
「……だって、悪いことをしたのに、裁かれないなんて」
「彼は十分に裁かれたでしょう。業火に焼かれて。モモ、憎しみは憎しみを呼びます。リサのご両親のかなしみを憎しみに変えたい? そうやって生きていくことの辛さを、あなたなら、わかるでしょう?」
 マダム・チヨコは静かにそう問いかける。そして、モモは直感した。このひとは、チヒロのことも知っているのだ。チヒロが何者なのかも。
 おそるおそる、アカネが口を開いた。あれ以来、再びアカネはふさぎがちになった。あんな事件が起きた後だ。やたらとさまざまな声が聞こえて仕方ないのかもしれない。実のところ、ここへ来るまで、アカネとはあの事件の夜以来、会っていなかった。会えなかった、という方が正しいのかもしれない。アカネは部屋にこもったままだったし、モモはモモで、会うのを避けていた。自分のなかで一通り整理がつくまで、何も手につかなかったのだ。
 アカネはせき止めていた感情を吐き出すように言った。
「わたしは、どうしたらいいんですか……この聞こえる声に、応えられるだけの力を持たないと、いけないんでしょうか……?」
 そんなアカネの問いかけにも、マダム・チヨコはかぶりを振るだけだ。「ご自分でお決めなさい。どちらにしても、止まってはいけません。前へ進みなさい。間違っていても、前へ。そして心のままに」


 ワィステリア・ハウスからの帰り、珍しくアカネが遠回りをしたいと言った。中庭まで遠回りをして、寮に帰りたいと言うのだ。モモはそれに同意した。アカネと会うのは久しぶりだったし、部屋に戻ったところで、チヒロと嫌でも顔を合わせてしまう。あれからモモは、まともにチヒロと話をすることができなかった。口を開いたら、リサを救ってくれなかったチヒロへの怒りも、ぶつけてしまいそうだったのだ。
 ワィステリア・ハウスから、なだらかに続く傾斜の坂道は、中庭へと続く。三つの寮のある場所は、学院の敷地のなかでもやや高い場所にある。寮から眺める学院の敷地は、どこまでも果てなく見えるのだけれど、それでも見えるトーキョウタワーの灯に、夜はほっとするのだ。ここは確かにトーキョーで、決して閉ざされた異世界ではないのだと、実感できる。
 古いトチノキが見えてくると、それが中庭の目印だ。白い、ろうそくをたてたような花を咲かせるこの樹木は、この学院のなかでもよく見かける種類だった。正門からの並木もこのトチノキだ。イチョウやシラカシ、ユリノキ、クスノキにヤマモモ、ウメ、ハナミズキ……この学院の樹木の種類はいくつもあるが、桜の木だけは、あの図書館までの道にしか植えられていない。あの幻を見た、桜並木。
 中庭のベンチに腰かけて、アカネがぼんやりと言った。「心のままにって、マダムは仰ったけど、それがいちばん難しいと思わない、お姉ちゃん」
 試験もあけて、少しずつ春めいたきたこの中庭には、生徒も数多い。ガーデンパーティの打合せは思しき腕章をつけた生徒会の役員も見かけるし、普通に午後のお喋りを楽しむ女の子たちも居る。その何もかもが、ひどく遠い存在に思える。いっときは近づくことが出来たと思えた場所なのに。今はとても遠い存在に思えてしまう。
 寂しさを感じながら、モモは頷いた。心のままに進むことが、どれだけの苦難の道になるか、おそらくマダムは知っていて、それでもあえて伝えたのだ。
「……アカネは、今のままでいいよ」
 ぽつりと言ったモモに、アカネが不思議そうに首を傾げる。「お姉ちゃん?」
「臆病なナチュラリスト。世間から見たらそうかもしれない。でも、アカネには無理をして欲しくない。無理をしてまで、誰かを助けても、あたしもおとうさんもおかあさんも、幸せじゃないよ。かえって不幸だもの。アカネの辛いのを、想像するのは、かなしい」
「お姉ちゃん、わたしね、出来ることはやっていこうと思うんだ。今までずっとこの力嫌いだったけど、でも、助けてくれたよ。わたしが応えたら、声の主はわたしの大事なひとを助けてくれる。勿論、無理はしないよ。出来ること、ひとつひとつ。それで、少なくとも見える範囲が拡がっていけばそれでいいよ」
 チヒロ先輩を見て、思ったんだ、とアカネはつけ足した。「あのひとはすごい。声が教えてくれた。あれだけ異能を使いこなせるのは、並大抵の努力じゃ足りないって。でもあのひとは、自分のなかに、ひとつの大きな木があるから、耐えていられるんだって。このタブノキみたいなおっきな木があるんだって。わたしのなかにも、きっとできるよ」
 そうだよね、と自分に納得させるように言うアカネを、モモは黙って見ていた。アカネがこれからどうなっていくのか、それはアカネが決めたらいいことだ。それでも、アカネが辛かったり、苦しかったりしているときには、同じように辛くて悲しいのだと、わかって欲しかった。
「アカネ、チヒロみたいになりたいの?」
「ううん。そうじゃないよ。うまく言えないけど、わたしはやっぱり、お姉ちゃんと居たい」
 そう言って微笑むアカネにやっと安堵して、モモは小さな妹を抱きしめた。


 部屋に戻ると、チヒロが荷造りをしていた。大きな箱に次々と本や衣類を入れていく。その手際のよさに見とれていると、チヒロが気配を察してか、顔を上げた。「お帰り」
 リサとロタールの件があってから、モモはチヒロを避けていた。リサに対しての怒りをぶつけてしまうこと、それともうひとつ。怖かったのだ。国の特務機関の人間、しかもそのために高度な訓練を受けた―――アカネが忌避した道を歩んだのが、チヒロなのだ。
 チヒロ自身、それをなんとなく感じているのか、モモのそんな態度にも何も言わなかった。そもそもチヒロは自分から積極的に話し掛けたりするようなタイプではない。だからか、モモは自室に戻るのが重たくなってきていた。寮の部屋変えは、進学判定の下される三月末まで行われない。チヒロと相部屋で居る日々は、そう幾日も残されていたわけではなかったけれど、かといってそれまでずっと、この空気ですごすのは、いくら鈍感なモモであっても耐えられるものではなかった。
 だから、チヒロが再び荷物の詰め込みを始めたのを見ても、ぼんやりと何故だろうとしか思えなかった。そんなモモの疑問に答えるかのように、チヒロが振り向きもせずに言った。「留学が早まったんだ。来週にはここを出て行くよ」
 チヒロの留学の話は以前聞いたことがある。語学堪能なチヒロは、卒業後連合国側へ留学する予定だった。どこ、という国までは決まっていなかったが。
 もしかして早まったのはあの事件があったからだろうか――そんなモモの思いが顔に出ていたのだろう。チヒロは振り返り、しげしげと言葉を失ったままのモモを見た。そして、気にすることはない、と口を開く。「そんな顔しなくていい。わたしの留学も表向きの理由だけだ」
「チヒロは……いつから、こんなことをしているの?
 口を開いたら出てくるのは怒りだけだと思っていたモモは、静かにそんなことを訊いていた。そしてチヒロも動かす手を休めずに、何事もないように答える。「チヒロ、と名乗るようになってからだよ。私には、もともと名前がなかった。それでも、異能があったお陰で生きてこれた。国に恩義を感じてるよ、十分すぎるくらいに。だから、今の仕事を躊躇ったことはない。ひとところに居られないことも、お前が失いたくないと思う平穏な生活も――私はもともと、感じたことがないから」
「……チヒロ。あたしは、チヒロが居なくなって、悲しい」
 モモは自分が失いたくないと思いつづけている、その生活すら送ったことがないというチヒロを哀れに思った。どれだけの苦労があったのか、逆にモモには想像がつかない。ただ、チヒロは自分の力に、それだけの重みを感じている。それだけは確かだった。この国に暮らす人の安全を守る、その大義をチヒロは見失うことはないのだろう。それが、彼女を暴走させずに居る。
 自然と手を差し出したモモに、チヒロは不思議そうな顔をしたが、やおら立ち上がると、モモを抱きしめた。思えばチヒロの怒った顔や毅然とした様子は見たことがあっても、意を突かれた今のような表情は、見たことがなかった。
 初めて実感する、素のチヒロ。そして長い腕が自分の体を包み込んでいる。あまりのことに言葉が出ないモモの耳元で、チヒロが囁いた。
「ひとつだけ教えてあげるよ。気がついていないだろうけれど……モモにも、異能の力がある。無自覚なままでいるだけだ。その証拠に私の魅了がモモには効かなかった」
「……うそ」
 慣れたのだとばかり思っていた。でも違うのだと、チヒロは言う。
「私の力が効かない相手が居ることは知っていた。『不惑の眼』……自分が魔法を扱えないのと同時に、一切の魔法が効かない異能者。特に何が出来るというわけではないから、本当に珍しいらしいけれど」
「あたしのことも……知ってて……?」
「心配要らない。国家に仇名す敵でなければ、『狗』は何もしない。約束する」
 ゆっくりと体を離したチヒロは、再び荷造りに戻る。いつもの見慣れたチヒロだ。モモは手持ちぶさたにその様子を眺めながら、ベッドに腰かける。
 ふいに思い出したように、チヒロがその手を止めた。「そういえば」
「なに?」
「アカネに感謝しないとね。思いがけずいいことを教えて貰ったんだ」
「いいこと?」
「ああ。だから私も、見返りにアカネのことも、モモのことも、上には話さないでおくことにした。この学院で生活する分には、気をつけていれば大丈夫だ」
 チヒロはそれだけ言うと、今度こそ口を閉ざして、荷造りを続ける。

――塔から聞こえる声が、わたしを呼んでたの。

 アカネはさっきそう言っていた。あの塔に残る強い思念のようなものが、絶え間なくひとを呼んでいるのだという。絶え間なくひとを呼んでは、それきり。それをもうずっと長い間続けているらしい。だからあの塔の傷は消えることがないのだと、アカネは言い切った。
 もしかしたら、それはチヒロの居る機関にとって何か重要な手がかりなのかもしれない――そう思っても、もはやモモには、チヒロを止める術はない。
 モモは無言で隣に座った。傍らに積み上がった本を段ボールに入れる。チヒロは何も言わないままだ。
「……あたし、は」
 モモはつかんだ本を離さずに呟いた。呻くような低い声だ。自分が異能者だとわかったからでもない、この胸からこみあげてくるのは、チヒロに対する想いだ。
「チヒロと、ともだちになりたかった。あたしにチヒロの力が効かないのなら、あたしはチヒロをチヒロとして、見ることが出来たのに――」
 怖いと思っていた。実は何を考えているのかもわからなくて、近づきがたいと警戒し続けていた。
「ごめん。ごめんね、チヒロ」
 チヒロは何も言わなかった。背を向けたまま、手を動かしている。けれども震えるその肩越しに、確かにモモは見たのだ。
 春に、図書館へと続く道でリサに見たような幻を。チヒロがいつか、黒い何かと戦う姿を。そして、倒れ傷つく姿も。
 チヒロはそのとき微笑むだろう――解放された笑みを浮かべて目を閉じるその姿に、モモはただ、静かに泣いた。
 チヒロに残されている道が、それしかないことがわかったのだ。
「死なないで、チヒロ」
 無駄だと思いながら、モモは口にしていた。死なないで。でも、きっとチヒロはどこかで何かと戦って死ぬ。
 返事なく止まったチヒロの手を見ながら、モモは、泣いていた。救えないことはあるのだ。力を望まないのは、同時に誰かを救えないこと。失いたくないものがあるのに、得なければまた失うものもあるのだ。
「死なないで、チヒロ」
 もう一度モモは口にして、居たたまれずに部屋を出た。かなしみが胸を突き破っていく。そのまま、寮の外へ向かう。あの夜、通用口から出て、第九校舎へ向かったことが、もうずっと前のことに思えてくる。まだそんなに時間は経っていないのに、自分のなかで薄れていく、あの記憶。
 もうすぐ春が来る。
 春が来たら――あの、図書館へと続く桜並木を誰と一緒に歩いたらいいんだろう。あのいちばん美しい季節、あの場所。歩いたことすら、幻に思えてしまうくらい、今のモモには、つらい。
 秘密をひとつ抱えたまま、ゲオルギウス学院に春がやって来る。時計塔の針が正しい時刻を刻み、中庭の花々が咲き乱れ、桜が散り始めるまで――モモはきっと自分は、不穏なまま過ごすのだろうと思った。春が憂うつになるように。
 けれども、異能は、それを許さないのだろうとも、思った。「不惑の眼」は、物事の虚実を暴く。そこに潜む者がたとえどんなに醜くとも、虚飾を剥いだそのものを、モモに見せるのだろう。
 もう渡すひとのいなくなったティアラを握りしめながら、モモはそれを、タイサンボクの根もとに埋めた。六月になったら白い花が咲くこの木の下で、そのとき自分を何を考えているのだろう――そんなことを想いながら、モモは、泣いた。
 もう流す涙のない友達と、流すことすら許されない友達、ふたりのために。
 そんなモモの頭上で、白い鳥の群れが時計塔へと向かっていく。あの深い傷跡と声を宿した時計塔へ――。
 戦いは、はじまったばかりだ。


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