「川の流れに日は早々」
橘 夏水
夜、その虫はアスファルトの上を何者からか逃れるように徘徊していた。
カオリの目は、確かにそれをとらえていた。黒光りする体には見覚えがある。
ゴキブリ。
誰もが忌み嫌うであろう虫。
――あたしみたい。
カオリの目は、つま先を横ぎろうとしているゴキブリから離れなかった。こそこそといやらしく這いまわり、それはやがて、店と店との狭い隙間へ消えていった。昼間は賑やかなコーヒーショップと、一日中はやらない画廊との間に。
貴治とは、よくこのコーヒーショップに通った。何時間いても、彼は嫌な顔をしなかった。うんざりする風でもなく、呆れた風でもなく、感嘆するかのように、ただ、「きみはよく喋るね」と言うだけで。
赤いイスと、白いテーブル。黄色い壁に飾られた、木製のオブジェ。漂うのは、コーヒーの豆を煎ったあの香り。そして、甘い甘い、ラズベリーパイのにおい。
カオリは、ここがお気に入りだった。まだ貴治と知り合う前から、よく本を持ち込んで、本が手元にないときには、頬杖をつきながらぼんやりと目の前を歩く人たちや、そのさらにむこうの道路を走るクルマを眺めて。
ひとり暮らしをする、と決めたことに、家族は大反対だった。あんたみたいなのがひとりで暮らせるわけがない、とか、夢なんかさっさと諦めなさい、とか。ひとり暮らしを強行したカオリに、当然家族からの援助なんてものはなく、生活は苦しかった。小さいときからの貯金や、アルバイトで稼いだお金でなんとか毎日を過ごしている。予備校の受講料だけは親が払ってくれたものの、それも前期のみ。後期の分は、自分で何とかしなければならない。
そんな現実があっても、あの店でぼんやりとしている分には救われたのだ。自分は確かに夢のための一歩を歩んでいるという充実感があったのだ。事実、夢への一歩どころか、ただ予備校に通って石膏とにらみ合うだけの日々であったとしても。
そして、それはもういつだったか、暑い頃だったのか寒い頃だったのか。それとも、ちょうどいい季節だったのか。そんなことは忘れてしまったけれど、貴治をここへ連れてきたのだった。彼は同じ予備校に通っていた。一つ年上だった。今年受験に失敗したら、実家に戻って家業の酒屋を継ぐのだと言っていた。実際、それも悪くないなと思っているようにも見えて、授業に真面目に出ている姿はあまり見かけなかった。いつもひとりで、ぼんやり煙草を吸ったり、本を読んだり、まるで予備校に居ることが不自然に思えるように振る舞っている貴治に、それでもカオリは惹かれたのだ。
そう、なりたかったからだろうか。自分が。家族と離れて暮らして、それは、自分の進みたい道へ行くための犠牲だったのかもしれないけれど、それはいつだって、挫けそうになる。重たすぎて重たすぎて、潰れてしまいそうになる。
――それでも、あたしはなりたかった。絵を描いて暮らしていきたかった。
握りしめる濃い鉛筆で、手が真っ黒になっても満足は出来ない。内からこみあげてくるものをすべて白い紙に描き込んでいくまでは。そして、それをだれかに見て欲しかった。賞賛の声が欲しいだけじゃない。
ここに居るのだと、知って欲しかった。
だから、カオリは絵を描きたかった。出来ればきちんと学びながら。予備校のデッサンで毎日が過ぎていっても。
今は夜。昼間とは違ってこのあたりは静まり返り、出歩く人の姿はない。一人では広すぎる道。6メートルの道路。
カオリはバイトの帰りだった。つまらないバイト、ディスカウントショップのレジ打ち係だ。今日はいつもバイト先でかけているエプロンを洗うために持っていて、そのことがよけいにカオリの気分を落ち込ませていた。ゴキブリと自分を重ねるぐらいには。
カオリの住む部屋は、この道をまっすぐに進んだ一角にあるアパートだ。このあたりは、最近になって区画整理が終わって、道幅はどこもかしこも広い。広すぎる道路に、こんな時間はカオリひとりしか歩いていない。ほんのちょっと前までは、狭い家がひしめきあっていた場所だというのに。それがまるで遠い昔のように、今は何もない。
カオリがここの住み始めたのは、まったく新しい今の姿になってからだ。それでも部屋を探してあちこちを歩き回るたびに、この整った街並みが気に入って、ここに住むことに決めた。たまに後悔するのは、その家賃の高さと、こうして時折訪れる心細さ、だろうか。
絵を描くスペース欲しさに広い部屋を借りた。家具は必要最低限しかない。どこでも売っていそうなカラーボックスと、その他オモチャみたいな家具がいくばくか。壁は砂壁で、床は畳。インテリア雑誌で見かけるような部屋とはおおよそかけ離れたものだった。絵の具やパステルの画材が部屋の奥に散らばって、本当に女の子らしさなんてものは皆無だったが、貴治はそれを何とも言わなかった。といっても、カオリが作った料理には実に素直な感想を述べてくれたが。
――まずい、だったっけ。
まずい。
確かに料理は得意じゃなかった。実家にいるときだって、母親にまかせっぱなしで、作ろうとしたことすらない。しかし今は、自分で作らなければならない。本を見て、貴治のことをすこし考えて作った料理は、しかし、けちょんけちょんにけなされた。
――よくケンカにならなかったよ。そう、ケンカにならなかったのは、ちゃんと残さず食べてくれたから。
ごちそうさま。
彼はそう言った。まずいと言った料理はきれいに皿の上から消えていた。
それから少し、料理の本を古本屋で買い占めた。だから、カオリの部屋にある本は、料理の本だけ。あとは予備校のテキストと、大好きなアーティストの画集。
――絵だけ考えたら、生きていけると思ってた。
カオリは止めていた足を前へ出した。
あたしみたい。
そう思ったのは、少なくとも、嘘ではない。隙間に隠れてしまった虫は、もうカオリの視界にないのだけれど、確かに虫はそこにいて、カオリに何事かを伝えたのだ。
貴治は何て言うのだろう。
ふいに浮かんだその名前に、また足が止まりかける。
――予備校を辞めたっていったら。
――赤チャンができたっていったら。
下腹部に熱を感じる。カオリは歩く速度を速める。肩からさげた大きなバッグの中がガサガサと揺れた。
まるでそこにあの虫がいるように、カオリへ問いかける。後悔はしないのか? それでいいのか? 間違っているんじゃないか?
お前は絵を捨てられるのか?
せせら嗤うその声に、カオリは小さく首を振る。おそらくは、後悔するのだろうし、絵は捨てられないだろう。けれど、殺したくない。
幾日も悩んだのだ。そして導き出した答えは、産むことだった。たったひとりで構わないから、自分のなかに宿る命に、外に出てきて欲しかった。そしてそれは、絵と同じくらい、愛しいのだ。
出来れば彼とそうしたかったけれど、貴治はそれを望まないことをカオリが一番よく知っていた。互いにひかれる部分が重なり合わない。カオリが貴治に憧れるように、貴治もまたカオリを意識している。自分が決して手を出せない、高い望みを叶えようと努力を惜しまない人間、なりふり構わずにつき進むだけの力がある人間に、貴治は焦がれるのだ。決して自分がそうならないことを、知っていて。
出会えたことは奇跡に近い。同時にひかれて、嘘でなく愛してると囁けたことも。
――好きだよ、貴治。
けれどもう、答えは出ている。
進む先に、彼は居ない。
居ない方がいい。噛み合わない歯車が止まって、崩されて、それだけのことだと思えばいい。そう思うのに、あれからいつだってこうして足は止まる。声は何度も訊ねてくる。
――夢を捨てられるのか?
いつまでも続く問いかけに耳を塞いで、カオリは帰り道を急いだ。6メートルの道路を横断して、アパートまでは、あとわずかだ。ふと振り返れば、いつものコーヒーショップに目が留まる。そして、気付いた。
あの場所からこの街並みを眺めていた。あのときに得られた安らぎより、今がもっとも癒されていることに。
ひとりじゃない、ひとりじゃない。
そう呟きながら、カオリは再び、歩き出す。問いに対する答えはなくても、足を止めないこと。それだけを考えながら。
夜、ひとりで。いまは。
/終