そろばんスケート部
武石大介


 旧校舎の二階の東の外れの突き当たりに、数学部の部室がある。新定理の発見を夢見て、幾多の猛者達が思案を巡らせた部室だったが、今ではかつての面影はなくなってしまった。
 黒板に張り付く巨大な三角定規はロッカーの後ろに挟まったままだし、チョークを挿める大きなコンパスも傘立に刺さったまま埃をかぶっている。数学部は昨年廃部になってしまった。最後の部員が退部してしまったからである。
 現在数学部の部室は誰も使っていない。そして旧数学部室の隣、突き当たりの一歩手前の部屋は今、そろばんスケート部が部室として使用している。


「みんな揃ったな。じゃあ今から…今日も始めよう。いつも、通り…四時半までな」
「ウース」
 部長の声に、誰かが無気力に答える。今日部室に来ている部員は七人だけだった。
「えーと。今日はまず、部長の公選をやる。まず、部長に立候補する人」
 部長は自らも手を挙げながらそう言った。他にも二人の者が手を挙げる。
「村上と…藤井。じゃあいつも通り、記名投票選挙で決める。まず、川島がいいと思う人」
 小林と桑田、室井が手を挙げる。
「村上がいいという人」
 村上だけが手を挙げた。
「じゃあ次…」
 部長がそういいかけた時、あわてて山田が手を挙げる。
「二人。次、藤井がいいと思う人」
 川島と藤井が手を挙げる。
「じゃあ、今月も部長は川島」
 部長は手を下ろしながら言った。
「次、活動報告。村上から」
「待てよ、部長」
 指名された村上が掌をかざす。
「そんなに急ぐ事ないだろ?」
「別に急いじゃいないが…」
「俺達は…くさい事を言えば、同じ時期に同じ場所に居る有象無象の中で、幸いにも知己を得た仲間同士だぜ。部活動も大事だけど、他にも話し合う事があってもいいんじゃないのか。例えば、昨日のテレビの事とか、通学路で見た変な奴の事とか」
 室井が手を挙げる。
「俺はテレビ見てねえ」
「そういう事を言ってるんじゃないんだ」
 即座に村上が言い返すのを、部長が遮って付け足す。
「もっと、仲間同士の潤滑油となるユーモアやカンバゼーションがあってもいいだろう、って事だな?」
「あ、ああ…そこまでクールに言われると、なんか居心地悪りィけど」
「よし…それじゃあ小林!昨日見たテレビを言ってくれ!」
 小林は部室の隅で話の輪に背を向けて鞄の中を整理していた。
「うわっ、俺?…昨日見たテレビか…でも俺もそんな見てないよ…えっと…えーと…えー…」
 小林は何かを口に出そうとして口ごもる。藤井がそれを咎める。
「どうしたんだよ」
「いや…別にこれと言って、何を見たって言える番組はねーよ。適当にテレビはつけてるけど、見てるわけじゃねーから」
「それにしたって、一個くらい覚えてる番組はあるだろ」
「…忍タマ」
 藤井の問いかけに、小林は照れくさそうに顔をそむけながら言った。
「忍タマかあ」「知ってる」「まだやってんの?」「え、俺も見てる」「マジ?」
 部室にどよめきが広がる。その反応が意外だった小林は、そむけていた顔を戻して言う。
「見るだろ?ニンタマ」「あー。普通に見るよ」「えー、普通かあ?いや…うちは弟が小学生だから見るけど」「そうだよな、小学生くらいの番組たよな、あれ」「見てもいいじゃん」「面白いよ」「でも話とか幼稚じゃね?なんか無理っぽかったりさ」「そうそう、こないだも…」
 ざわめきが大きくなって行く。しかし部長が一つ咳払いをすると、皆少し静かになる。
「まあ…室井は見てないらしいから」
 数人が咳払いをする。ゴホ、ゴホゴホ、という声が暫く続く。
「すまねェ」「いや、こっちこそ」
 小林が言い、室井が答える。
「じゃあ次。そうだな…高校卒業したら何する?桑田!」
「えー」
 桑田が答える前から照れ笑いをする。全員が釣られて笑う。
「そうだなぁー。やっぱりー、んー、パチンコで飯食ってー、あとハーレム作る」
 全員が一通り愛想笑いをする。部長が、愛想笑いが乾く前に言葉を繋ぐ。
「じゃあ次室井」
「えっ…まあ、まだ決まってないけど、多分就職…一応今年中に危険物取扱取るつもりだから、とりあえずガソリンスタンドでバイトかな…」
 小林が口を挿む。
「あれいいよな。時給上がるんだろ?」
「50円くらい上がるよね」「スゲー」「やるじゃん」
 皆が口々に言う。
「川島はどうすんの?高校出たら」
 藤井が尋ねる。
「ああ…俺は卒業してからの事は考えてねェ。俺はその時その時を頑張って生きようと思う」
 桑田が口を挿む。
「でも、部長勉強とか超してるじゃん。それって将来の事考えてとかじゃねーの?」
「そんなんじゃねえよ。目の前にある事を頑張ってるだけだよ」
 そのまま続くかと思われた会話は、それだけで途切れる。暫く静寂が続く。
「ああ、わりぃ」
 静寂を破ったのは部長自身だった。
「次行こうか…それじゃ今から一人ずつ、好きな奴報告。拒否権無しな」
 皆から静かなもそもそとしたブーイングが湧く。
「じゃあ俺からな。俺が好きなのは…B組の佐藤。小さいほうの」
「おー」「ヒュー」「それで?」
「クラスも隣だし、顔合わせる機会も多いんだけど」
「うんうん」
「我ながら悪くないと思うんだけど。どうだろ」
 部員達の反応は様々だった。首を振る者。笑う者。そっぽを向く者。仲間の様子を伺う者。
「付き合ったりしてるの?」
「いや」
「デートとか」
「ないな」
「よく喋るの?」
「ああ」
「どういう話?」
「なんか、こう、親しい感じで話すよ」「おおっ」「スゲー」「マジ部長新カノ?」「ヒュー」
「よう、とか、ハヨッス、とか」「…」「…」「…」「…」「それから?」
「いや、まあ、それだけだけど…」「他人ジャン!」「親しいっていわねーよ」「ハハハ」「ハハ…」
 部長は満足げに頷きながら言う。
「それじゃ次藤井」
 藤井が慌ててそっぽを向く。
「もう藤井?」「いきなりー?」「藤井が一番顔とかいいよなー」「スゲーもてそう」「チョコとかいっぱいもらったりして」
 皆がはやしたてる。藤井はむっつりと真顔で答える。
「チョコなんかもらった事ねーよ」「ウッソだー」「オイ部長も真面目に話したんだからさあ」
「マジだよ!モテた事なんか一度もねーよ!」「…イヤ、大声出さなくても…ゴメン」「藤井がモテないなら誰ならモテるんだよ」「…」「…」
 皆が静かになる。
 窓の外を、大きな入道雲か飛んでいる。開け放った窓からは、いい風がどんどん吹き込んで来て、廊下の方へ抜けながら、部員達の汗を乾かして行く。
 校庭を色の濃い影が覆い、焼けつく日向とむせ返る日陰の二つに色分けしている。
 外はとても暑い。梅雨はどこへ行ってしまったんだろう。
「あ…」
 ずっと黙っていた山田が、窓の外を指差す。そのベクトルは校庭上空を飛び越え、向こうの塀を越えた先の道路へと伸びる。
「B組の佐藤だ」
 藤井が言った。
 一緒に居るのは、同じB組の中村のようだ。ここからでは二人の顔までは見えないが、だいたい間違いない。
 全員が一瞬、佐藤と中村の顔を思い出す。
「…なんか皆、今日おかしくね?特に部長とか」
 桑田がつぶやく。
「佐藤ってさー。なんか変わったよなー。俺小学校一緒だったんだけど。なんか全然昔と違う感じ。キレイになったっていうか…」
 村上もつぶやき、続ける。
「でも俺は前の方が良かった。何か近寄りがてーの。今は」
「女みんながそうっショ」
 小林が言う。
「桑田」
 部長が口を開く。
「俺、ヘンかな」
 桑田は窓辺に歩み寄り、窓枠の下の壁を蹴り飛ばす。
「みんな気ィ抜けてるっショ」
「オーストラリア戦だよなー」「あの九分」「その前のPKだよ」「やっぱあの九分だよ…」「川口がさあ、糸が切れて」「いやあのディフェンスじゃやる気が…」
 皆が堰を切ったかのようにつぶやき出す。
「ブラジルは無理だったよなぁ」「そりゃ無理でしょ」「でも玉田が入れた時にはさ…」「でもオセーヨって感じが」「ハエーじゃん!先制だぞ」「そうじゃなくて…」
 一瞬、熱くなりかける七人。しかし、次の瞬間。全員が押し黙った。

「やめた」
「俺もやめた」
「やってられネ」
「帰ろう」
「やめやめ」

 言う者、言わざる者の違いはあったが、七人全員が立ち上がった。
「部長。俺そろばんスケート部やめる」
「その前に俺がやめる」
 村上が言い、川島が答えた。川島は続ける。
「ジーコが言ってた。足りなかったのはプロ意識だって。ワールドカップは厳しい戦いだから、プロとして自覚してれば、もっと皆が準備してたって。オーストラリアに負けたのは、それが足りなかったからだって」
 この七人は勿論日本代表でもプロでもない。にわか造りのそろばんスケート部をやめた今は、ただのサッカー部員である。
「やっぱもう一度行こう」
「そうだな、汗も引いたし」
 暑いし日本負けたし、サッカーなんかやめようと誰かが言ったのは50分前。でも友達なくすのはもったいないからこの七人で何かしようと言ったのは42分前の事である。
 そろばんスケート部を名乗る謎の非合法集団に、誰にも知られぬうちに占領されていた旧校舎数学準備室は、再び誰も知らぬうちに開放された。七人はサッカー部員に戻り、摂氏32度の校庭へ戻って行く。


http://www.juv-st.com/