「二人の約束―GOOD BADな天使と詩人/詩人SIDE―」
慧綺戦トリックS(南方南)
ダブルスカップ「ノベルフェスタ130」


「アストロツイン?」
 その話を切り出したのが誰だったか。同じクラスの女子だったことは確かだが、名前も顔も、今となっては思い出せない。
 俺は、隣に座る宮本亮平を見た。
 亮平も俺を見返した。その時の、亮平のきょとんとした顔を、今でもはっきりと覚えている。俺も多分、同じような顔をしていたに違いない。
 アストロツイン――
 聞き慣れない言葉だった。
 昼休みか、給食の時間だったと思う。
 向かい合わせに机をくっつけ合って、数人でしゃべっていた。
 進級し、クラスが変わってさほど日数が経っていなかった。亮平とは、席が隣同士だったので、少し話をするようにはなったものの、お互いまだ相手がどんな人間か探り合っている状態だった。
 とりあえず一緒にはいても、「友達」だと言い切るには、相手の事を知らなすぎる。
 なんとなくウマが合いそうな気はするが、本当に仲良く付き合えるかどうか。期待と不安がないまぜの、そんな時期。
「宮本くんと、坂田くんって、誕生日が一緒なんだよね?」
 俺達は頷いた。ついさっき知った事実。なんで誕生日が話題に昇ったのかは忘れた。
「10月10日、体育の日〜」
 他の男子が、からかうように言った。
 今から9年前、1997年。小学校5年の春だった。

 かつて、体育の日といえば10月10日。1964年の東京オリンピック開会式の日を記念して設けられた祝日だなんてことは、いまさら言う必要もない。
 最近はそうでもないが、かつては晴天の特異日だったらしい。
 それなのに、俺達が生まれた1986年10月10日は、曇りで、ほとんど太陽が見えなかったというのは、うちの父親の証言。本当かどうか、俺は知らない。
 ちなみに、ハッピーマンデーが適用されて体育の日が10月の第2月曜日となってしまったのは2000年。日付がコロコロ替わる休日は、土日の延長でしかなく、意味も曖昧になり、愛着も薄らぐ。
 俺も大人になったせいかもしれないが、「体育の日」と聞いて思い浮かべる、真っ青な空に打ち上げられる合図の花火や、なんとなく走り回りたくなるようなソワソワした気分は、すっかり消えてしまった。

「誕生日が一緒の二人はね、せんせーじゅつでは双子とみなすの。それがアストロツイン」
 切り出した女子が自慢気に説明すると、お調子者の男子が茶々を入れる。
「せんせーじゅつ? 先生が使う術かよ。必殺チョーク投げ! なんつって」
「違うよ。占星術だってば。星占い」
「うへ〜 これだから女はくだらないっていうんだ」
「あ〜 今のセクハラ発言。女をバカにしたなぁ!」
「セクハラっていうのは、こういうのだよ」
「きゃ〜っ! 何、スカートめくってるのよっ! スケベ! 変態!」
 他の奴等が勝手にぎゃあぎゃあしゃべりあっているのを、俺は黙って聞いていた。
 亮平も、騒ぎには加わらず、黙っていた。
 俺が亮平の方へちらっと視線を向けると、亮平もこちらを見て、照れたような笑いを浮かべた。
 俺達が無二の親友になったのは、その時からだ。


〈1〉

 真っ白な天井。
 俺の目に見えるのは、ただ、それだけ。
 首から下が動かない。
 下された診断は頸椎損傷。
 くだらない事故だった。
 食事も排泄も他人の世話に頼っていたが、恥ずかしいとかなんとか、そんな感覚も一緒に麻痺してしまっているらしい。
 俺は、ただ、ぼんやりと生きていた。
 いや、生きているのかどうか怪しい。
 手も足も、何一つ動かす事ができず、ただ天井を見詰めているだけの日々を「生きている」と言っていいのかどうか。
 日がな一日、天井を眺めながら、俺の頭には、亮平のことが思い浮かんでしかたなかった。
 あいつの事を思い出す理由は判っていた。
 約束したのだ。
 小学校6年最後の日。
 卒業式が終わり、校庭に並んだ保護者や下級生が作る拍手の花道を、一緒にニコニコしながら通り過ぎて、最後の最後、校門で、別れ際に俺は亮平とゆびきりをした。

 たとえどんなに離れても、はたちの誕生日には一緒に呑もうぜ――

 渋谷のハチ公前。夜7時。
 もっと気の利いた場所にすればいいだろうにと、今では笑ってしまうが、そのころ知っていた最も忘れそうもない有名な待ち合わせスポット。
 その約束のはたちの誕生日2006年10月10日まで、あと、1ヶ月。
 それなのに。
 俺は病院のベッド上に横たわり、自分で自分のケツすら拭けない体になっていた。
「亮平…… あいつ、約束を憶えているかなぁ……」
 俺は目を閉じ、思い出す。
 高校1年の夏まで、俺達はずっと親友だった。
 最高の友達だった。
 それなのに、今、あいつがどこで何をしているのか、俺はまったく知らない。


〈2〉

 同じ運命の星の下に生まれたアストロツインだというのに、俺と亮平は何もかもが違った。
 俺は幼稚園の頃からサッカーをやっていて、小学校時代は町内のサッカークラブに所属していた。
 スポーツをやり、熱血マンガが好きなわりには、俺自身の性格は、どちらかというと冷めている。
 亮平は、TVゲームが趣味で、スポーツはやらない。典型的なインドア派でありながら、やたら熱い男で、周囲を巻き込み盛り上げるのが得意だ。
 亮平は、勉強ぎらな俺と違って、成績も良かった。
 俺は、そんな亮平に憧れていたのだと思う。
 俺達は同じ中学へ進んだ。
 クラスは違ったが、俺達の友情はずっと続いた。
 亮平は部活に入らず、サッカー部で忙しい俺とは顔を合わせる機会も少なくなったが、それでも俺の部活が休みの時には二人つるんで遊びに行ったり、どちらかの家でTVゲームに興じたりした。
 頭のいい亮平が俺と同じ公立高校に入ったのは、亮平が、目指していた有名私立に落ちたせいだ。
「お前と一緒なら、まぁ、いいか……」
 本命に落ちてしばらく落ち込んでいた亮平だったが、そう言って、普段の明るさを取り戻した。
 俺達は同じクラスになり、俺も亮平もそのことに満足していた。 
 そんな俺達の仲が壊れたのは、高校に入って初めての夏休みを迎える寸前だった。

 高校生活にも慣れ、クラスの連中の性格もようやく把握出来るようになってきた頃、亮平が恋をしていることに気付いた。
 同じクラスの岩田沙紀。
 元気で明るく面倒見の良い、ちょっと目を惹く美少女だった。
 休み時間、俺と喋っているのに、急に気を逸らしてよそ見をする。
 どうしたのかと思ってそちらを見ると、視線の先には必ず沙紀がいた。
「好きなのか?」
 と聞くと、亮平は真っ赤になった。
 普段はまったく物怖じしない性格なくせに、沙紀の事となると途端に臆病になる。
 沙紀はモテる。
 何人もの男が、彼女をものにしようと挑んだが、誰一人成功した者はいないと、半ば伝説のように男子の間では語りぐさになっていた。
「お前なら、落とせるんじゃないか?」
 亮平は、男女に関係なく人望があった。頭も良く、他の男子とはちょっとちがう。
 沙紀のような女には、亮平こそが相応しい。そして、亮平ぐらいの男ならば、沙紀のような女でなくては許せない。そんな気がした。
「いや…… 俺なんかじゃ……」
 情けなく俯く亮平に、俺はなぜだか苛立つ。
 亮平は、いつでも、誰よりもぬきんでた男でいて欲しい。
 俺の、星の定めの兄弟であり、尊敬する友である、亮平には。
「ダメかどうか、試して見なけりゃわからないだろ?」
「沙紀はな、スポーツマンが好みらしい。完璧インドア派な俺は、まったくお門違いさ。きっと透真みたいなイケメンが好きなんだよ。俺みたいな不細工な男はお呼びじゃない」
「なんで、そこで俺が出てくるんだよ。俺はああいうタイプは、全然好みじゃない」
 沙紀のこととなると、途端にうわついたり落ち込んだりする亮平が、俺は気に入らなかった。そんなのはまったく亮平らしくない。
 俺は、亮平をこんな情けない男に変えてしまった沙紀が憎かった。彼女の姿を見ると、つい、冷たい視線を送ってしまうほどに。
 俺が睨み付けると、沙紀は困ったように俯く。
 そんなことが何回か続いた。
 沙紀の困った顔を見るのは快感だった。俺は意地の悪い笑みを隠しもしなかった。

 夏休みに入る数日前、どういういきさつでそういう話になったのか俺は知らないが、クラスの男女何人かで、遊びに行こうということになった。
 誘われた時、メンバーに沙紀がいることを知って、亮平と一緒に加わることを承知した。
「チャンスだぜ」
 俺は亮平に囁いたが、亮平は気のない返事をしただけだった。
 女5人に男5人。
 渋谷まで出たものの、特に目的があるわけでもなく、行き当たりばったりに歩き回る。
 ゲーセン、カラオケ、マクドナルド。
 結局、地元で遊んでいるのと大してかわりない。それでも、何となく浮き立った気分になるのは、渋谷という町に対して漠然と抱いているイメージのためか。地元を離れているという開放感のためか。
 最初は10人一緒に動いていたのだが、そのうち、自然とグループに分かれるようになり、距離があき、しまいにはバラバラにはぐれていた。団結力がないというか、それぞれわがままと言うか、気ままというか。
 後ろの者の事をまったく考えずに、早足でズンズン言ってしまうやつ。
 先に行った奴等のことなど気にせず、ちんたら喋りながらマイペースで歩くやつ。
 他の者に何も言わずに、興味を惹かれた店にふらふらと一人で入っていってしまうやつ。
 俺も最初は、一緒に来たのだから揃って行動しなくちゃいけないと思っていたが、そのうち、それもバカらしくなってしまった。

 皆、勝手にどこかへ消えてしまい、気がつくと、俺は沙紀と二人で喫茶店で向かい合わせに座っていた。
 亮平は、他の奴等を探してくると言って出ていった。
 なんで俺がこの女と二人っきりにならなきゃいけないんだ?
 本当ならば、亮平がここにいるべきだ。
 いかにも面倒見のいいあいつらしい態度でさっさと店を出て行ってしまった亮平を恨むと同時に、亮平が出て行くよりも前に気を利かせて先に出ていかなかった自分の間抜けっぷりにも腹が立った。
 俺は沙紀を冷たい眼で見た。
 沙紀は、両手をヒザに置き、俯いている。
 あまりにも彼女らしからぬ姿に、俺はちょっと戸惑った。
 俺の知っている岩田沙紀は、いつも元気でエネルギーに満ちていた。彼女のまわりにはいつでも明るい光がとりまいていた。
 こんな風に、しゅんと座っているようなイメージじゃない。
 俺の冷たい視線が彼女を萎縮させてしまっているのか?
 だとしたら済まなかったと、俺は素直に反省した。
 かつて、彼女の困った顔に快感を抱いたことも後悔する。
 自分はなんてヒドイことをしてたのだろう。
 沙紀に腹を立てていたことは確かだが、それは、彼女のせいではないわけだし……
 ふいに、俯いた彼女のまつげがものすごく長い事に気付いた。
 綺麗な子だとは思っていたが、これだけ間近に彼女を見る機会はこれまで一度もなかった。
 俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 なんだか、急に緊張してしまった。
 亮平が、うっとりとした目で語った沙紀のいいところが、次々と脳裏に浮かぶ。
 その1つ1つが本当であることを確認した俺は、急に鼓動が激しくなるのを感じた。
 亮平の気持ちがわかったような気がした。
 岩田沙紀。
 亮平が好きになるほどの女――
 不意に沙紀が顔を上げた。
 潤んだ黒目勝ちな瞳に、目が吸い寄せられる。
「透真くん……」
 沙紀の声を、俺はうっとりと聞いていた。
「なんだよ……」
 できるだけ素っ気なく答えるつもりが、声が震えた。
「えっと…… あの…… その…… あ。うん。そうそう、残念だったね、全国大会……」
「ああ」
 俺はぶっきらぼうに答えた。
 全国高校総体の出場権をかけて6月に行われた県大会で、うちの学校は二次予選に進んだものの準決勝で敗れた。全国大会へ行けるのは上位2校だけだ。
 まだ1年生の俺はレギュラーにはなっていない。そんじょそこらの2年生よりも、ずっと実力はあると自負している俺は、来年こそはと心に密かに思っている。
「来年、がんばってね。わたし、絶対応援に行くから」
 沙紀は笑顔を見せた。が、無理して作ったような笑顔だった。普段彼女が見せる開けっぴろげの笑みじゃない。
「応援に行っても…… いいよね?」
 おどおどと、不安そうな目。
 らしくない。こんな態度、沙紀らしくない。
「来たけりゃ、くればいいだろ。別に俺に断る必要なんかないさ」
 沙紀は哀しそうに目を伏せた。
 そのまま会話のはぷっつりと途絶えた。
 重い沈黙が落ちる。
 まったく、今日の沙紀は、沙紀らしくない。そのことで俺は苛ついた。調子が狂う。胸の奥が妙にわさわさしている。落ち着かない。ちくしょう。
 亮平は戻ってこない。
 亮平さえ戻ってくれば、あいつにまかせて、さっさとここから出て行くのに。
 いっそ、沙紀を一人残して立ち去ろうかとも思ったが、そこまで冷たくすることが出来なかった。
「透真くん……」
 沙紀は思い詰めたような目で俺を見た。
「なんだよ」
 俺は冷たい眼を沙紀に向けた。
 沙紀は困ったように俯いた。投げかけた言葉の続きを言おうとしない。
 もう一度顔を上げ、俺を見る。が、直ぐに視線を下に落とし、また俺を見るが、直ぐに視線を落とす。そわそわと、同じ動作を繰り返す。
 そんな沙紀の態度がことらにも伝染する。胸がざわめき、腹の奥が疼く。
「なんだよ……」
 耐えきれず、俺はもう一度訊ねた。
 沙紀は俯き、ヒザに置いた両手にぐっと力を入れた。
 再び顔を上げ、俺を真っ直ぐに見て、言う。
「わたし、透真君が好き!」
 そして、真っ赤になって俯いた。
「わたしと、付き合ってくれませんか……?」
 ようやく聞き取れるくらいの小さな声でそう言った。
 俺の心臓は爆発しそうだった。
 頭がクラクラする。
 腹の奥のもやもやとした疼きが増す。それが正体が何なのか、俺ははっきりと理解した。
 俺の頭から、亮平の事はすっかり消えていた。亮平のことだけじゃない。世界から沙紀以外の全てが消えていた。
「ああ」
 気がつくと、俺は頷いており、沙紀は彼女らしい輝くような笑顔を俺に向けていた。

 罪悪感から、俺は亮平を避けた。
 じきに夏休みになり、亮平と顔を合わせなくてもよくなったのが幸いだった。
 夏休み中、俺は誘われるままに沙紀とデートをし、亮平とは一度も連絡を取らなかった。
 留守中に一度、亮平から電話があったと家族から聞いたが、かけ直すことはしなかった。

 そして、夏休みが明けて、学校へ行って初めて、おれは亮平の家族が引っ越しをし、亮平が学校をやめたことを知った。
 亮平の連絡先は知らない。
 いや、知るのが怖かった。
 俺はあいつを裏切った。
 最後の最後にこっぴどく裏切ったのだ。
 亮平は、こんな俺を怒っているに違いない。一生許さないと心に誓っているに違いない……


〈3〉

 これは罰か……?
 と、病院の天井を見ながら、ぼんやりと思う。
 あれからずっと、俺は沙紀と付き合ってきた。
 大学が別々になっても別れなかった。
 しかし、それは、彼女への愛情からだとは言い難い。
 沙紀の事は嫌いじゃない。亮平が好きになっただけあって、沙紀はいい女だった。
 それでも、俺が彼女と付き会い続けた理由は、彼女への思いではなく、亮平への義理立てだった。
 亮平を裏切ってまで手に入れた女を裏切れば、二重に三重に亮平を裏切ることになるのではないか。
 俺にはそれが怖かった。
 俺は、沙紀を亮平から奪った上、弄んで捨てたなどと思われたくなかった。
 本気だったからこそ、亮平から奪ったのだと、自分に言い聞かせたかった。
 それでも、もし、沙紀の方から別れ話を持ち出したら、俺は、それを拒否しなかっただろう。
 沙紀が、俺から離れて行かないのは不思議だった。
 サッカーに明け暮れて、地元の三流大学にしか入れなかった俺と、努力して都内の有名大学に進んだ彼女と。
 周りから言われるまでもなく、釣り合いが取れていない事は百も承知だ。
 大学へ入ったら、途端に新しい男を作って、俺のことなど忘れてしまうだろうと思っていた。
 なのに、沙紀は、毎日何度もメールを寄越し、無い時間を無理してこじ開けては俺に会いに来た。
 サッカーの試合も毎回応援に来た。高校時代と変わらぬ笑顔で俺に声援を送ってくれた。
 しかし、俺は高校時代に彼女が期待していたような道を歩んでいない。
 付き合い始めたころ沙紀は照れた笑いを浮かべながら言った。
 わたし、Jリーガーと結婚するのが夢なの――
 サッカーから離れることこそ無かったが、Jリーグなど夢のまた夢。
 高校では、結局、先輩達と同じく県大会ベスト4までしか行けなかった。
 その成績のお陰で「公募制推薦」で入ることができた今の大学は、関東リーグにも入れず、神奈川県リーグの1部と2部を毎年行ったり来たりしてるといったレベルだ。そんな部の中で、辛うじてレギュラーでいられる。それが俺の能力の限界だった。
 俺の前には、才能の壁、現実の壁が大きく立ちはだかっていた。
 子供の頃は良かった。自分の実力も知らず、ただ、可能性だけで夢を見ることができた。
 大人になるに従って、自分の力の限界を思い知らされ、どんどん世界が狭められて行く。
 何かになれるはずだったのに、気がつけば何にもなれない自分が残されていた。
 サッカーの道で食べて行くことはできない。
 かといって、三流大学に通う俺が、沙紀と見合った大人になれるとは到底思えなかった。
 今の俺には、未来がまったく見えなくなっていた。
 沙紀との未来も、闇に閉ざされている。
 
 病院の白い天井。
 それを、ただぼんやりと見上げるしかない自分。
 俺は、こうなることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
 動けないなら、仕方ないじゃないか。
 未来に対して、どんなビジョンも抱けなかったとしても。
 誰に対しても言い訳が出来る。
 自分に対しても、言い訳が出来る。
 仕方ない――
 なんて安直で、なんて便利な言葉だろう。
 沙紀だって、俺と別れるきっかけができて、喜んでいるに違いない。
 練習試合中の事故だった。
 相手方の選手と接触し、転倒した。
 足がもつれて、変な体制で地面に激突した。首に衝撃が走った。
 しかし、まさかこんな大事になるとは思いも寄らなかった。
 本当に、何でもない、ありがちなアクシデントに過ぎなかったのだ。
 意識はしっかりとあった。立ち上がろうとして、体に力が入らないことに気付いた。
 救急車が呼ばれ、病院に運ばれた。
 ヒトの体というのは、なんてもろいものなのだろう。なんてヤワなのだろう。
 あまりにもあっけなく、悲劇というよりはむしろお笑いだ。

 あれから、沙紀は一度も見舞いに来ていない。
 唯一の取り柄――それも、プロにはほど遠いレベルでしかない取り柄とも言えない取り柄――を失った俺に、愛想を尽かしたに違いない。
 将来を当てに出来なくなって、やっと目が醒めたのだろう。俺なんかと一緒にいても、どうしようもないことに気付いたのだろう。
 それならそれで構わない。
 自分から別れ話を出す気は無かったが、彼女の方から離れてゆくのならば、それを止めるつもりは無かった。
 沙紀は、俺なんかといるより、他にいい男を見つけた方が幸せに違いない。
 沙紀の事を本気で愛してくれる男。
 亮平のように、純粋に彼女を好きになってくれる男とこそ、結ばれるべきだろう。
 俺なんかといても……
 俺なんか……
 不意に泣きたくなった。
 必死に涙を堪える。
 涙をこぼしてしまったら、自分で拭くことが出来ない。
 誰かに拭いてもらうなんて、ゴメンだ。
 そう考えてから、急に笑いたくなる。
 滑稽だ。ケツの始末をさせるのは平気で、涙を拭かせるのが嫌だなんて。
 俺は笑った。笑うと涙が零れた。
 ああ、そうだ。
 かまいやしない。
 どうだっていいじゃないか。
 こんな生きているのかどうだか、よく分からない体になって、もう、全てがどうでもいい。
 亮平を裏切り、沙紀に愛想を尽かされた俺には、もう何も残っていない。
 このまま治らなくても構わないし、死んでも一向に構わない。
 ただ――
 いや。そんな叶わぬ夢は忘れよう。
 自分には、到底出来やしないことを、夢想するのは疲れた……

「いいや、この世に不可能はないっ!」
 突然、病室のドアを開けて、何者かが闖入してきた。
「若者よ、愛の力は偉大なのだよ?」
 ベッドの周囲に張り巡らされていたカーテンを勢いよく開け、男が、俺の顔を覗き込むようにして言った。
 白いしわくちゃなYシャツに、濃いねずみ色のくたびれたスーツ。濃紺のよれよれのネクタイ。ふざけた顔をした中年男だ。
「誰……?」
「わたしは、さすらいの吟遊詩人ロマニー」
 男はニッと笑った。
 ロマニーとか名乗りながら、どこからどう見ても日本人だ。それも、しがないサラリーマンと言った感じ。
「キミを助けに来た」
 そう言って微笑んだ男の後ろから、おずおずと顔を覗かせたのは、他ならぬ沙紀だった。
 言葉にならぬ驚きに、俺はただ目を丸くする。
「透真……」
 俺は沙紀から目を逸らした。真っ直ぐに見ていたら、惨めに泣いてしまいそうな気がした。
「わたしの不肖の弟子が、彼女と同じ大学でね。人助けを趣味にしようとやっきになってるところに、彼女が餌食にされたらしい。今回の件は、残念ながら弟子には荷が勝ちすぎている。そこでわたしが特別出張サービスに来たというわけさ。ま、これも縁というやつだな。諦めなさい」
 何を諦めろというのか、よく判らない。
「さて――」
 ロマニーは、ぐいっと袖をめくって構えた。
「貴女の言葉でかけた呪いは、貴女の言葉でしか消せない。心を尽くして語りなさい。貴女の中にある真実の言葉を語ればいい。ただ、それだけだ。言葉が真実でありさえすれば、一切のものが動く。それが詩人の力。言霊の力だ」
「透真……」
 沙紀は、もう一度俺の名前を呼んだ。その一言に、俺は目を逸らし続けることができなかった。引き寄せられるように、彼女の方を見る。
「ごめんなさい……」
 沙紀が切なげな目で俺を見る。
「わたしがこうなることを望んだの……」
「え……?」
「透真ったら、わたしのことなんて、どうでもいいような態度をとるから…… わたしから離れて行来たがってるように見えて仕方無かった。だから、、いっそ、離れることが出来ないように、透真が動けなくなればいいって…… わたしが望んだ。わたしのせい。透真が動けなくなればいいなんて、わたしが願ったから、こんなことに……」
「そんな…… これは、タダの事故だ。キミのせいじゃない」
 そうだ。事故に遭ったのは、むしろ自業自得。誰かがそれを望んだせいだというのならば、それは彼女ではなく、この俺だ。それなのに、沙紀は強く首を振った。
 ポロポロと沙紀の目から涙が零れる。
「ゴメンなさいっ! 透真に元気になって欲しい。自由に歩けるようになって欲しい。今までのように、透真が走る姿が見たいっ! 透真の体を元に戻したい!」
 沙紀の言葉に体が熱くなる。動かないはずの手足に、力が不思議な力がながれてゆくのを感じる。
「動かしてごらん」
 ロマニーが言った。
 なぜだか、今なら動かせるような気がした。俺は手に力を入れようとした。上に持ち上げようと……
「動かない」
 確かに、体に力がみなぎり、動かせそうな気がする。でも、それは気のせいで、指1つ動かすことは出来なかった。
 ロマニーは「むっ」と顔をしかめた。
「キミは――」
 俺の額に手を当てて、目を覗き込んでくる。
 振り払おうにも、手は動かない。
「ああ、そうか。キミ自身がそれを望んでいたのか…… 呪いは1つじゃなかったって、わけだ。こりゃ、厄介だな……」
 ロマニーは手を離し、腕を組んで何か考えている。
「その…… 何なんだよ。呪いとか何とかって……」
 言葉の不気味さと、陳腐さと、沙紀の真剣な眼差しが相容れない。
 沙紀は本気でその呪いとやらを信じているのだろうか?
「呪いは、言葉だ」
 ロマニーが言った。
「言葉は力なんだよ。この世は言葉が動かしている」
「あんた何者なんだ?」
「詩人――すなわち、言葉を聞き、言葉を生み、言葉を紡ぎ、言葉をおさめる者なり……」
 言っていることは訳がわからなかったが、狂気じみた雰囲気はない。それでも、怪しい宗教にハマってる人みたいな断定的な物言いに、俺は警戒感を強くする。
「訳のわからない冗談に付き合う気はない。出ていってくれ」
 俺が冷たく言うと、沙紀は泣きそうな顔をした。
「そうも行かないさ。迷える子羊を見捨てるキリストはいない」
「あんた、キリストかよ?」
「生まれは1月1日だ」
「全然かんけーないじゃん☆」
「まあ、人生そんなもんだ」
 漫才にすらなりやしない。噛み合わないセリフ。頭が痛くなりそうだ。
「冗談はさておき――」
 だから、冗談にすらなってねーっつうの。面白くもなんともないから。
 頭を抱えたい所だったが、残念ながら俺は手を動かせない。体を動かすことができないことがこれほど辛いとは……

え……?

 そういえば、動けなくなってから、それを辛いと思ったことはない気がする。どこか諦めていたというか、むしろ、そういう状態を歓迎していなかったか。
 もどかしくは思っても、自分から動きたいなどと思いもしなかった。
 それがどうしてだ? こんな下らないことで、体が動かないことが辛く思えるなんて……?
 戸惑っていると、ロマニーがニヤリと笑った。まるで俺の心の中を見透かしたように。
「キミの心は嘘で塗り固められている。偽りの言葉が誠の光を打ち消し、底知れぬ闇に魂は葬り去られている。しかし、いかに闇が深くても、明けない夜はない。曙光をもたらし闇を払う、たったひとつの言葉。それは――“愛”」
 ロマニーは、沙紀の手を取り、俺の手に重ねた。
「わたしはあなた方を愛そう。なぜならあなた方は本来的に愛されるべき存在だからだ。いくら嘘でその身を鎧おうとも、己が身を真実守りきることはできない。時には、厳重な武装よりも、ちいさなの微笑みが、その身を守る盾となる。扉を閉ざすことなかれ。開かれた扉の向こうには、燦たる天地が待っている。一面の花園をわたる清風が、かいなを広げ、あなた方を包み込んでくれるのを感じるだろう。あなた方の心は今、長きくびきから解き放たれ、真の自由を得ることとなる……」
 ロマニーは目を閉じ、吟じた。

ことばはよごれ
あいはしにたえ
きぼうはくちて
あすをうしなう

おのれをまもる
いつわりのこえ
こころをにごし
あすをうしなう

おろかなこころ
きづかぬままに
ながされゆきて
あすをうしなう

やみにつつまれ
ちずをなくして
おのれにまよい
あすをうしなう

ゆめはこごえて
ときはこおりて
うごけぬままに
あすをうしなう

すべてのやみを
あさひがはらい
むすばれたてが
あすへみちびく

ひかりがあふれ
ときはきざまれ
やくそくのちに
あすはかがやく


「今悪夢は消え汝等の魂はその本源の泉を取り戻すものなり……」
 ロマニーは微笑んだ。
「さあ、二人の気持ちを合わせて願えば、どんな願いも叶う」
 沙紀の手が、俺の手をしっかりと握っている。
 しかし、感覚のない手には、その温もりを感じることはできない。
 俺を見詰める沙紀の瞳。
 彼女のことを自分がどれだけ大切に思っていたのか。彼女が自分にとってどれだけ大事な人だったのか。彼女の瞳を見詰めながら俺は思う。
 どうして俺は、いままでそのことを自分に認めようとしなかったのか。
 亮平への意地か…… 罪悪感か……
 痛切に、亮平に謝りたいと思った。
 誤魔化してきた全てを、さらけ出して、あいつに謝りたい。
 あの時、亮平への謝罪を怠ったために、俺は、素直に沙紀を愛することが出来なかった。 どんなにののしられようと、蔑まれようと、俺には沙紀が大事なのだと、だから、沙紀と俺が付き合うことを許してくれと、あいつに伝えたい。
 亮平にとっては、最早過去の出来事で、もう俺のことも沙紀の事も関係ないのかもしれないが、俺にとってはずっと、心を縛る枷となっていた。
 そのことに気付かないふりをしてやってきたが、本当の本当に沙紀を真っ直ぐに愛するためには、俺は自分の心の中のわだかまりを清算しなくちゃならない。
 そのためにも、亮平に会いたいと思った。
 なんとしてでも、歩けるようになり、約束の場所で、亮平と再会したい。
「沙紀……」
 俺は沙紀の瞳を見詰めた。
「この体が治ったら、もう一度俺とつきあってくれないか……? 今更こんなこと言っても許して貰えないかもしれないけど、俺にはお前が必要なんだ…… 一緒にいたい……」
 見開いた沙紀の目から、涙が溢れる。
「沙紀……」
 瞳を見詰めると、沙紀は頷いた。
 見つめ合ったまま、俺達は声を揃えて唱えた。
「この体が、動くように……」
 心を1つに願った。
 心の底から、そう願った。
 ふいに沙紀に握られた手の甲が熱くなる。
 沙紀の手の平の感触。
 指に力を入れてみる。
 動いた――!
 俺は、手の平を返した。
 重いものでも動かすかのように、ゆっくりとしか動かないが、それでも、俺の意志で動かすことが出来た。
 俺は、返った手で、沙紀の手を握りしめた。
 沙紀は、泣きながら俺の手を強く握り返してきた。
 俺の胸にも熱いものが込み上げてくる。
 愛おしさが胸を締め付ける。
 ロマニーが、親指を立ててウインクした。
 病室を出て行く後ろ姿に、俺は心の中で深々と頭を下げた。


〈4〉

 2006年10月10日。晴れ。
 湘南モノレールで大船へ出て、JR湘南新宿ラインに乗り換え、渋谷まで約1時間。
 約束した時間の10分前に渋谷に着いた俺は、真っ直ぐにハチ公前に向かう。
 1ヶ月のリハビリで、体は元通り動くようになっていた。足取りは軽い。
 亮平は、絶対に来ている。
 確信があった。
 俺がそう願ったから。
 思いはきっと通じているはずだ。
 あいつに会ったら、どう声をかけよう。
 どうやって謝ろう。
 途中の車内で、ずっとそればかりを考えていた。
 改札を抜け、日本一有名なわんこの像が見えてくる。
 その側に、男が一人、そわそわと、いかにも挙動不審な様子で立っている。
 亮平――
 心臓がどくんと大きく波打った。
 足が止まる。
 急に恐怖が湧き上がる。
 亮平は、俺を見てなんというだろう?
 あいつは、すっかり変わってしまっているかもしれない。
 俺が知っている、面倒見が良く、熱血の男は、もしかしたら、もういないのかもしれない。
 そのまま踵を返して、帰りたくなった。
 改札の方を振り向く。
 と、そこに意外な人物がいた。
 ロマニー……
 がんばれよというように、右手を上げて親指を突き出す。
 俺は、勇気を貰って、再び前を向く。
 真っ直ぐに、亮平の元へ歩み寄る。
 亮平は、俺に気付き、にっこりと――4年前と変わらぬ笑顔を浮かべた。
「憶えていたんだな……」
 感慨深げに呟く。
「忘れるもんか」
 俺も、亮平に向かって微笑みかける。
 亮平は満足そうに頷いた。
 俺は、真顔になる。まず、謝りたい。すべてはそれからだ。
「亮平、俺……」
 亮平は、俺の肩をバンバンと叩いた。
「まずは、呑もうや。話はそれからだ」
 笑顔が心に染みた。
「ああ、そうだな」
 チラリと振り向くと、ロマニーはどこかの美人をナンパしようとしていた。
 しかし、美女の連れであるガタイのいい青年に腕を捻りあげられる。
 ロマニーは、顔を顰めながらも、俺に向かってウインクを寄越した。
「どうした?」
 亮平が怪訝そうな顔をする。
「いや…… ちょっと…… ね」
 俺は笑って、親友の肩に手を回す。
 俺は―― いや、俺達は、前へ向かって歩き出した。

了 


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