DRAGON BUSTER 2ND
(有)紅竜



1.

―――おにいちゃん、まぶしいってどういうかんじ?
 ちらちらと落ちる木漏れ日を仰いで、エスリンが問いかけてくる。
―――そうだなぁ、なんつーか、ちかちかって感じ?
 顎を押さえて考え込むと、声を頼りにエスリンがこちらに顔を向ける。小さい頭をかしげた。
―――ちかちか?
―――ってもわかんねぇよなぁ。ムズかしいな……。
 ううんと唸って頭を抱えると、年のはなれた妹はくすくすと軽やかに笑って、華奢な腕をこちらのそれに絡めてきた。
―――……ありがとう、おにいちゃん。


            *


 五年後―――。


 羽音が追い越してゆく。
 白い翼をはばたかせ、鳥が空へのぼってゆく。
 カイは、白い羽根の軌跡を目で追った。雲ひとつない空は高く、どこまでも澄んでいた。鳥の姿はすぐに見えなくなる。
「おい早くしろよ、はじまっちまうぞ!」
 今度はいくつもの足音がカイを追い越していった。
 この街に住む少年たちだろう。靴音も高らかに、緩やかな坂道を駆け上ってゆく。他にも無数の人々が足早に、この途の先にある広場へ向かっているようだ。カイも足を速めた。
 異様な熱気が広場から道を伝って漂ってくる。大勢の人の気配。だが喧騒はない。
 ぐるりと周囲を見回すと、道の両脇に開かれた露店は無人だった。店番すらいない。無用心極まりないが、それだけ街の人間が広場に集まっているということなのだろう。
 なだらかな坂道をのぼりきったところに、その円形の広場はある。人々の憩いの場がいまや、不穏なざわめきに包まれていた。
 たくさんの人、ひと、ひと。皆険しい顔つきで広場の中央を向いている。
 幾重にも張り巡らされた人垣をへだてても見えるほど高く、一本の杭が地面に突き立てられ、頭にすっぽりと布袋を被った男が縛り付けられていた。
 灰色の服は擦り切れ、あちこちに血が滲んでいる。
「これより公開処刑を始める!」
 杭の傍に歩み出た男が声を張り上げた。白を基調とした軍服は、ブリガンディア神聖国正規軍の軍服である。
 巻かれた書状を縦に開き、朗々と響き渡る声で罪状を読み上げる。
 この男は正規軍の小隊長であったが、畏れ多くも皇帝陛下の勅命に背いた。よって、罪は血で贖われる―――と。
 鎧の音を響かせて、杭の左右に二人ずつの兵士がならぶ。
 天を衝くほどに長大な槍を、石畳に力づよく打ちつけた。
「聖なるかな!」
 書状を携えた兵士が声高に叫んだ。それとともに四本の槍が高く掲げられる。雲にさえぎられることのない太陽のひかりが、鋭い切っ先に跳ね返った。
 声にならないざわめきが広がる。
 カイはただ、朗と響き渡る聖句を聞いていた。
「神聖にして偉大なる主よ、罪深き子を赦し、御許へ迎えたまえ」
 槍を持つ兵士は、縛り上げられた男の前に立ち、一対ずつ交差させた。
「……食料もなく、怪我人と女子どもしかいない村を」
 はじめて、罪人が口を開いた。
 酷くかすれ、震えていた声はやがて、強く大きくなる。
「焼き払うなんて! 俺には出来ない! そんなことは間違っている! 陛下は―――」
「イドゥナの仔に、幸いあれ!」
「ヴォーデンはもはや、狂っている!」
 どっと鈍い音が響き渡った。
 木製の杭を伝い、赤黒い液体がじわじわと石畳に広がってゆく。
 がっくりとうなだれた罪人の首がもはや動かないのを見届け、カイは踵を返した。
 一心に広場の中央を見据えていた人垣がくずれ、ばらばらと散り始める。
「オーブのせいだ」
 雑踏のなか、いずこからかそんな呟きが聞こえてきた。
「……ドラゴンバスターさえあれば」
 カイは思わず足を止め、周囲を見回した。急に立ち止まった青年を不審そうに眺めながら、多くのひとびとが彼を追い越してゆく。
 見渡しても、声の主は見つからなかった。
 身を捩って、もう一度広場の中央を振り返る。
 布袋をはずされた男の顔は、自分とほぼ年の変わらない若者に見えた。

―――ドラゴンバスターさえあれば。

「だったらどうして」
 もはやただの肉塊となった罪人の体が、杭から引きずりおろされる。
 ばらばらにほどけてゆく人垣の波に、一本の棹のように立ち尽くし、カイは唇を噛み締めた。
「どうして、誰も探さないんだ!」


            *


 ブリガンディア神聖国は、イドゥナ聖教を国教とする宗教国家である。
 遥か昔、大陸を統一したというヴァン少年王の血筋を継ぎ、伝説の宝玉であるドラゴンオーブを至宝とする、大陸随一の軍事国家でもある。
 第十一代皇帝であるヴォーデン・ヴェルダン・ヴィーグリードは、自らを大陸の正統な継承者であると主張し、大陸を統一すべく、進軍をはじめた。
 大規模な侵攻がはじまってから既に六年。ブリガンディア神聖国は着実にその版図を広げていたが、反面着実に内側から疲弊しはじめていた。
 新たに制圧した領地からの不満もさることながら、性急ですらある進軍に、民たちも疲れきっていた。
 やがて、まことしやかにこんな噂が囁かれるようになる。

 ―――皇帝は、ドラゴンオーブに呑まれてしまったのだ。

 伝説の至宝であるドラゴンオーブは、手にしたものに強大な力を与えると言われている。それとともに、手にしたものの内にうずまく欲望を駆り立てる、とも。
 ゆえに、手にするものの心によって、聖なる秘宝にも悪魔の力にもなり得る。
 元々軍事国家であったとはいえ、侵攻をはじめた頃のブリガンディアは飛ぶ鳥もおとす勢いだった。人々はそれを神の祝福と呼び、この戦いが正統なものであると信じて疑わなかった。
 しかし、版図をひろげることよりも、戦自体に固執するようになった皇帝の異変に、人々はようやく気づき始めたのだった。
 飛ぶ鳥を落とすあの勢いも神の加護などではなく、伝説の宝玉が与えた力だとしたら。強大な魔力に、皇帝の理性が飲み込まれてしまったのだとしたら。
 すべてのつじつまが合う。

 ドラゴンオーブはなにものにも傷つけられない。手にしたものが封印を施すまでは、その力を惜しみなく与え続けるという。ドラゴンオーブを破壊できるものは、この世界でたったひとつ。

 ドラゴンバスターと呼ばれる剣だけである。


            *


「陰気な子だね。こんな無愛想な店、買い物する気にならないよ」
 吐き捨てるように言って店を出ていく老婆に、黒髪をひっつめたジュビアは何度もお辞儀を繰り返した。「すみません、またどうぞ!」
 そんな店主の妻をよそに、エデは下を向いたままだった。唇をかみしめて、さっき老婆に言われた言葉を胸のうちで繰り返していた。

――リーリャ産のチーズはそりゃあ美味しいって有名だったけど、今となっちゃあ眉唾もんだね。異端の神様を信じる村だよ? チーズひとつこしらえるのにも何かまやかしを使っていたんじゃないかって噂さ。

(リーリャのひとには何の罪もないのに…!)
 微動だにせず下を向くエデの心境を察してか、ジュビアが気にしなくていいと慰めた。何度もお辞儀を繰り返して乱れたジュビアの髪を見て、エデは余計に辛くなる。身寄りのないエデを住み込みで働かせてくれた親切なふたりに、報いることができない情けない自分。だが、こと故郷であるリーリャの名が客の口から発せられると、たちまちエデの体は強張ってしまうのだ。そして時には、さっきのように客を怒らせてしまう。
 ブリガンディアの最北に位置していた村・リーリャ。位置していた、と過去形なのは、その場所に今や村自体が存在しないからだ。地図からも消され、リーリャという名称も今では忌まれるようになってしまった。
 リーリャはブリガンディアの支配下にある村でありながら、唯一イドゥナ聖教を長年にわたって受け入れなかった村だ。村では古くから信仰される神があり、支配下に治まった当時の覚え書きに、リーリャの民の教えを改めることを強いず、とあった。長年にわたってそれは守られ、リーリャの村の人々はその恩恵として恵まれた地の利で得た、乳製品や革製品を皇帝へ献上し続けたのだ。
 それが破られるとは、夢にも思わなかった。
 現在のブリガンディア神聖国第十一代皇帝、ヴォーデン・ヴェルダン・ヴィーグリードが即位して間もなく、村へ勅使がやって来た。イドゥナ聖教への改宗を受け入れよ、という勅命書を携えた勅使に、当然村の誰もが反発した。そして、その勅使が聖都へ戻ると同時に、村をブリガンディア神聖国正規軍がまさに「侵略」して来たのだった。異端の教えを持つ村は滅びる――特例を認めず、イドゥナ聖教の正しさを伝え、皇帝の権威を広めるのに、リーリャは格好の生贄となったのだ。
 難を逃れたエデ自身、自分がリーリャの出自であることは隠していた。リーリャの生き残りだとわかれば、それはすなわち異端の者、イドゥナ聖教徒ではないと思われる危険をはらんでいたからだ。
 いまこの国でイドゥナ聖教徒でないと思われることは、死刑を宣告されたも同じだ。そのことをこのブリガンダインへ来て、身をもって知った。神の名のもとに無残な仕打ちを受ける人の姿に、いつもエデは故郷のひとびとを思い描いていたのだ。
 焼き払われた村。豊かな牧草地帯は消え去り、地表を露わにした上に横たわる屍の山――人も家畜も容赦なく何もかもが奪われてしまった。
 思い出すたび、体か動かなくなる。
「エデ、今日はあのひとも遅いし、久しぶりにうちで食事をしましょう?」
 カウンターで固まったままのエデに、ジュビアが花束を作りながら話し掛けた。下を向いたままのエデも、こくり、と頷く。ジュビアの料理は、このあたりの料理屋顔負けなのだ。
 聖都城下にある食料品店「グリース・リーブス」。こじんまりとした店だが、置いてある商品は確かなもので、客足は途絶えることがなかった。まじめな店主グリースと、それを支える妻のジュビア。ふたりで切り盛りしていた店に、エデが加わるようになってまる二年――そう、リーリャが消されてから、もう二年という月日が経つのだ。
 身の上を一切話さない自分を信用して雇ってくれた夫妻には、感謝してもし足りない。
 今ではだいぶ慣れたものの、北部訛りのあるエデの素性は、おそらく察してはいるはずだった。それでも軍へエデを突き出すことをせず、匿うように雇ってくれた裏には、彼らもまた移民であるという事実があった。ブリガンディアの侵攻により、改宗を余儀なくされ、ここで暮らしていく労苦を身に沁みて感じているからだ。
 だから、ああしてエデがまずい接客をしても、何も言わないのだ。ジュビアも今は外回りに出て不在のグリースも、エデに対してそれで叱るようなことはなかった。何も語らないエデの心情を、ふたりなりに慮ってくれているのだろう。そのやさしさは、いつもありがたいのと同時に、いつまでも甘えてはいけないとエデに思わせるのだった。


 久しぶりに訪れる夫妻の家は、変わらずあたたかいぬくもりがあった。
 小さな通りに面した、赤い屋根の家。店からすこし歩いたところにある住宅街の一角だ。夕方のこの時間ともなれば、あちこちから夕餉のにおいがただよって、にわかにエデの心を締めつける。
 かつてはもっと頻繁に、この家を訪れたものだ。だが、その好意に甘えることが怖くなった。
 リーリャから命からがらに逃げ落ちて、二年。今のこの環境に甘んじてしまうことが、エデは怖かった。あのとき感じた恐怖も憎しみも、穏やかな毎日に流されて消えてしまうのではないかと思うのだ。
 だから、親切なふたりに、身を切る思いで伝えたのだ。賄いも自分でするから構わないでくれ、と。
「エデ、さいきんはちゃんと食べているの?」
 トマトをまるごと使った、具沢山のスープを口へ運びながら、ジュビアが尋ねる。クルミの入ったパン、フィッシュチップスとソース、かぼちゃとチキンのサラダ。テーブルに並んだ料理は、どれもエデが好きなものばかりだ。
「ええ……でも、ジュビアさんの作ったものにはかなわない」
「だからうちへいらっしゃい、と言うのに。住むのは別でも、食事をするのは一緒でも構わないでしょう? 一人分を余計に作る手間なんて、大したことではないのよ」
「何でもひとりでできるようにならなきゃ」
 エデははにかむように言うと、スプーンを取った。こんな食事風景。テーブルに載った料理は違えど、あたたかな湯気のなかで家族とおしゃべりをしながらする食事――もう二度とかなわない夢であることを思い知らされる。
 それが、辛い。
「それとそうと、今日も来ていたわね、あの子」
「あの子って?」
 パンを取り、バターをぬりながらエデが鸚鵡返しに尋ねた。客に幾人かの顔見知りは出来たが、ジュビアが誰のことを言っているのか、さっぱり見当がつかなかったのだ。
 すると、ジュビアは急に頬を緩め、いたずらっぽく言った。「決まっているじゃない、あの子よ。公園のそばに住んでいると言っていた男の子。名前は、ルスランだったかしら。ほら、チョコレートの好きな」
 チョコレートとルスランという名前で、エデはとっさにジュビアの言うところの男の子の顔が浮かんだ。春先にエバート祭のチョコレートをくれた男の子だ。
 ルスラン・フロイデンタール。貴族の子息だという彼は、おおよそエデの想像していた貴族の子供らしくない振る舞いをしていた。気取ったところはひとつもなく、気さくで、話し好きで、おまけに立派な男の子なのに甘いものが大好きだった。
 エデとルスランが知り合いになったのは、とあるチョコレート菓子がきっかけだった。マルガリテ社という地方にある製菓会社のチョコレート菓子で、「マルガリテ・フラン」という。銀色の包装紙のなかに、ナッツ、ホワイト、ビター、オランジェットのチョコレート・バーがひとつずつ、そしてスタンダードなミルクチョコレートのバーがふたつ、計五つのチョコレート・バーが入っているもので、マルガリテ社といえば、受注販売しか受けない高級洋菓子の会社なのだが、これは一般向けに比較的廉価で売られている。ただ、流通しているのは北西部に限られており、聖都では販売していないのだった。
 ルスランという少年は、今年のはじめに、北西部の地方都市・ヘイムダルから聖都ブリガンダインへ移住して来たという。彼の父親の叙勲が、フロイデンタール家を聖都へ招いたのだった。
 それまで住んでいたヘイムダルで、頻繁に買っていたという「マルガリテ・フラン」が、ここでは手に入らないと知ったルスランの失意は、かなり深かったようだ。街のあちこちを歩いて、彼が最後に訪ねて来たのが「グリース・リーブス」だった。おそらく人づてに、地方のものも取り扱っていると訊いたのだろう。
「ここで、『マルガリテ・フラン』を売っていると訊いたのだけど」
 店に入ってくるなり口火を切ったルスランに、ジュビアもエデも返す言葉がなかった。聞き覚えのない名前に首を傾げたジュビアだったが、エデはその名前に心当たりがあった。何故なら彼女もまた、北部の出身であり、「マルガリテ・フラン」を味わったひとりだからだ。一般向けとはいえ、普通のお菓子より数倍は高いそれを味わったのは、数えるほどだったが、「エデ」という名前をもらったときのお祝いに食べたチョコレートの味を、忘れたことはなかったのだ。
「ここにはありません。ここでは、マルガリテ社といえば、貴族しか相手にしないもの。小さな店に製品を卸したりはしないわ」
 マルガリテ社はヘイムダルにある。もともとは高級洋菓子の会社でもあり、廉価な「マルガリテ・フラン」は地元向けの商売の儲けをあまり重視しない製品だった。それを考えると、ヘイムダルから聖都までの運搬費用を上乗せはできないし、どうしても高くなってしまう。そうなれば、この商店に置いたところで、誰も手が出ないだろう。
 すると、ルスランはびっくりしたように目を見開いた。「きみ、このお菓子を知ってるの?」
 あちこちで門前払いを受けたのだろう、急に親しみをこめた口調で話し始めた。「びっくりしたよ。ここは聖都なのに、あのお菓子すらないなんて。これならヘイムダルに居た方がずっとましだった」
「ヘイムダルなら、うちの定期便があるじゃないか。常に置くことはできないが、週に一度仕入れてくることはできる」
 黙って見ていたグリース――彼は体は大きいのだが、口数は非常に少なかった――が、伝票をめくりながら、じろりとルスランを見た。「おれは知らないが、そいつはうまいのか、エデ?」
「ええ、グリースさん。滅多に食べさせてはもらえなかったけれど、とても美味しかった。このへんで見かけるどのチョコレートより、ずっとずっと美味しいのは保証するわ」
 自分でも何を熱くなっているんだろうとエデは思った。だがそんなことをよそに、ルスランは感心したようにため息を吐く。「きみも食べたことがあるんだね。そうだよ、あのお菓子は聖都で見かけるどのチョコレートより美味しいんだ」
「じゃあ、三日後に来るといい。仕入れて来てやる」
 いとも簡単にグリースは言い、事実その通り、三日後の「グリース・リーブス」の棚には「マルガリテ・フラン」が並んでいたのだった。
 エデを連れてヘイムダルに仕入れに出かけたグリースは、その場で馴染みの大きな商店に置いてあった「マルガリテ・フラン」を、迷いもせずに仕入れの荷へ加えてしまった。製造元を介することなく、同郷の馴染みというだけで、しかも運搬費の上乗せもせずに「マルガリテ・フラン」を手に入れたのだった。ふつうの店なら、そういったことはまずできない。だが、移民には移民のルールがある。ときには商売をしていくのに有利にはたらくこともあるのだと、帰り道にぽそりとグリースがエデに話してくれた。
 結果、「マルガリテ・フラン」は、子供にも人気がついて、「グリース・リーブス」の定番商品となったのだった。
 あの日以来、ルスランといえば、律儀にこの「グリース・リーブス」を訪れては何か買い物をして帰る、という日々を送っていた。そのたびにエデに何か話し掛けたそうにするのだが、エデの仕事の邪魔をしないように気を遣っているのが見て取れる――とジュビアは話した。
「フロイデンタール子爵のご次男なんですって。お父様はブリガンディア正規軍の護衛団長。お兄様は騎士団に所属されているそうよ。ルスランも今は見習いだけれど、いずれ手続きが下り次第、国立士官学校軍に進むんですって。そうなったらエデと会えなくなるってさびしそうに話していたわよ」
「どうしてわたしと会えなくなるの?」
「どうしてって……士官学校に進むということは、いくら貴族の子であろうと、全員が寮生活をすることになるわ。知らないわけではないでしょう? 規則も厳しいし、自由とはほど遠い生活よ。距離からいっても、ここへは来れないでしょう」
「……そう」
 エデはバターを塗りおえたパンを口に運んだ。やっぱり、違う。もう味わうことのないあのバターの味に、及ばない。牛乳もバターもチーズも。乳製品と名の付くものすべてが、リーリャへの郷愁を募らせる。
 そして、復讐を奮い立たせる。
「……そういうひとじゃないと思ったのに」
 小声でそう呟いた。裏切り、ではない。ただの失望だ。貴族のなかにも、ああいった朗らかで親しみやすい、エデと同じ目線で語れる人間がいるのだと気付かせてくれたのが、ルスランだった。それがただの、エデへの好意からでも、構わなかった。
 ルスランは違うと思いたかったのだ。もしかしたら、戦ってくれるかもしれない。ルスランの目なら、いまの状況が如何におかしいか、わかるはずなのに。
 彼は士官学校へ進む――ブリガンディアの兵士になるのだという。エデの「敵」になるのだ。

――なぁ、忘れたらいけないぜお嬢さん? あんたが使える魔法は、たったの一回。しかも使いたい人間を目の前にしなきゃ、使えやしない厄介なものだ。だがね、その条件さえ飲めば、不可能何座ないスゴい魔法さ。
 でも覚えておいた方がいいぜ。あんたが見ているもの、知っているものなんて、世界に比べたらほんのちっぽけなものなんだ。俺の見てきたものの足下にも及ばないだろうよ。あんたが何をするのか、俺はゆっくり昼寝でもしながら見ててやるけど、止めたりはしないぜ。自分で決めなよ。いつ、誰に使うのか。チャンスはたったの一回こっきり、だからな。

 エデは胸にかけたペンダントをにぎりしめた。不安があると握りしめるこのペンダントには、あかるい乳白色に近い空色の石がついている。マーブル模様のそれを幾度も幾度もなぞりながら、エデは考える。
 たった一度きりの魔法を使う日のことを――皇帝へ、復讐するための算段を。



2.

 一寸先も見えない。
 空気はじっとりとしめって、肌にまとわりついてくるようだ。
 右手を壁について、まっすぐに進む。一本道だと教えられた。
 カイは何も処刑を見るためにゼイドの街へ立ち寄ったわけではない。
 フィヤラルの祠を目指し、ブリガンディア北端にある村から東へと旅を続けてきたのだ。
 この先の見えない道は、祠の地下へつづいているのだという。

 フィヤラルの祠は、イドゥナ教の聖地のひとつであり、四方をトゥオニ湖といううつくしい湖に囲まれている。
 湖の周囲には高い塀がめぐらされ、唯一の関所は、絶えず兵士が見張っている。
 特に今は敏感になっていることだろう。猫の子一匹も通さぬ構えであるに違いない。なぜならばフィヤラルの祠には、伝説の聖剣ドラゴンバスターが祀られているからだ。
 皇帝がドラゴンオーブを使っているのだとしたら、ドラゴンバスターは天敵であるのだ。長引く戦に内外からの不満も高まっている今、ドラゴンバスターを持ち出したいと願う人間は、ひとりふたりではない。
 カイもそのひとりだ。
 隠し通路があると教えてくれたのは、旅芸人の男だった。
 帝国のありかたに疑問を持つ―――早い話がヴォーデンに叛意のあるものたちが集まる酒場で、ひときわ若いカイに近づいてきたのだった。
 ドラゴンバスターが手に入るとしたらおまえはどうする、と。
 得体の知れない旅芸人の話を頭から鵜呑みにするほど、カイは無垢ではない。罠でない可能性のほうが低いはずだ。それでもカイは、トゥオニ湖のほとりにあるゼイドの街へやってきた。
 たとえ罠であったとしても、何もしないよりはマシだといえば聞こえはいいが、結局のところ。
 どうでもよくなっていたのかもしれない。

 カイはブリガンディア北端のちいさな村で生まれた。
 父と母、妹との四人家族だった。妹エスリンは生まれつき目が見えなかったが素直でやさしい娘だった。
 村の背後には鉱山があり、貴重な鉱石がとれることから、つつましいけれども穏やかな日々を送っていた。
 すべて、侵攻が始まるまでの話である。
 狭く暖かかった村には鉱脈を求めて兵士がなだれ込み、エスリンは―――連れ去られてしまった。
 生まれつき目が見えぬことは、イドゥナの寵愛の証であるという。ラインの乙女と呼ばれる、神の言葉を伝える巫女に選ばれたのだった。
 ブリガンディアはすべて、イドゥナの意思で動く。拒否権はなかった。
 居並ぶ兵士達の手前、村人達はこぞってエスリンを褒め称え、有難がった。けれども誰もが、こっそりと泣いていた。
 エスリンだけが、曇りのない笑顔だった。
 辺境の村では手に入らないようなうつくしい衣服と宝石に飾られ、エスリンは聖都ブリガンダインへと連れて行かれ、そして。
 ―――二度と戻ってはこなかった。
 ラインの乙女は、神の代理人になる。戦時は、兵士を鼓舞するために戦場にも連れてゆかれるのだという。他国の人間にとって、強力な一神教の象徴たる巫女は、目立つ存在なのだとも聞く。
 エスリンがどんな目に遭ったのか、想像するのも恐ろしかった。
 巫女はイドゥナの御許へむかえられた、という報告が届けられる頃には、掘りつくされた鉱山はすっかりと枯渇し、戦に疲れた村人達は無口で陰気になり、母は病に倒れた。
 やがて村人達は散り散りに村を離れ、カイたちも近くの町へと移り住んだが、母はまもなく帰らぬひととなった。
 父も死んでしまった。
 母を失ったあとすっかりと酒におぼれ、ある冬、酔っ払ったまま路上に転がり、そのまま二度と目覚めることがなかった。

 じっとりとしめった壁をたどりながら、光の見えぬ道の先を見据える。
 兵士が村になだれ込んできたその日から、カイの目の前は常に闇だ。この道のように。
 多くを望んだわけではなかった。
 大それた野望を抱いていたわけではなかった。
 鉱山夫として働き、気立てのいい娘を貰って、足のあまりよくなかった父に楽をさせてあげたいと、その程度の望みだったのだ。
 さまざまな職場を転々とし、時には盗みをはたらきながらひとりで暮らすようになって、もう三年になる。
 何も知らぬ十四の少年は、もはやどこにもいなかった。
 兵士の目をかいくぐって、反帝国組織に出入りをしていたこともある。摘発を受けて、半死半生で逃げ出したことも。
 服で覆い隠した体には、いくつもの傷が刻まれている。
 すべてを奪った帝国に、一矢を報いてやりたい気持ちはあるが、具体的に何をすればいいかなどわからなかった。
 高々、辺境の村生まれの小僧だ。学もない。仲間もいない。一体何をすればいいのかわからない。
 けれど、すべてを諦めてしまうわけには行かなかった。
 幼い頃の、空の輝きを尋ねた妹の笑顔ばかりを思い出す。
 遊び疲れて山から村へ駆け戻ってくると、やわらかい煙を上げている煙突。母親のひび割れた指、父のいびき。
 決して、多くを望んだわけでは、なかったのだ。
 目の前は闇で塗りつぶされている。
 どこを目指していいのかわからない。
 だからもう、どうでもよくなっていたのだ。
 耳元でささやかれた希望が罠であろうと。
 何も見えないのならば、指し示された道を歩くしかない。
 だからカイは今、どこからかしずくの音が聞こえる古い道を歩いている。

―――生きては帰れないかもしれない、それでもいいか?

 朽ち果てた井戸の場所を教えた後、旅芸人は人好きのする笑顔をふっと消して、言った。

―――生きて帰りたいところなんて、どこにもない。

 間をおかずに返されたカイの答えに、旅芸人はしばらく黙っていた。
 やがて小さくうなずいて、「そうか」と呟き、わずかに身を引いて、カイの前に道をあけた。
 そしてカイは、光のない道を歩いている。
 祠まで一本道。ことはうまく運びすぎている。危うい罠に自分から飛び込んでいるのだろうと、なんとなく思い当たってはいた。
 口元がゆるむ。
 だからなんだっていうんだ。
 引き返す? 今から? 一体どこへ?
 旅芸人に投げつけた言葉は決して虚勢などではない。
 生きて帰りたい場所など、もうどこにもないのだ。

 ひたすら足を前に運んでいると、やがて目の前がうっすらと明るくなった。
 光が見えたわけではない。白い像が道を塞いでいたのだった。
 半裸の女の像だった。
 めずらしくもない、ラインの乙女をあらわすものだ。若くうつくしい女の石像。
 胸の前でなにかを受け止めるかのように、両の掌を向かい合わせている。
 カイは、ちょうど目の前あたりにあるその華奢な両手を、更に外側から押さえ込んだ。力を込めて内側に押すと、石像の腕がゆっくりと動き、やがて乙女の両手は祈るかのように組み合わされた。
 かちりとどこかで音が聞こえた。
 乙女は―――沈み始めた。
 どういう仕組みなのか、カイにはまったくわからない。ただ、自分の背丈よりも高い石像がずるずると床に飲み込まれてゆくのを見守っていた。
 どうどうと、頭からおしつぶすような音が迫ってきた。
 乙女の頭を跨ぎこえて、カイは開かれた道の先へ足を踏み出し、よろけるように数歩進んでから、息を呑んだ。
 壁を、水が流れていた。
 どこから水を引き込んでいるものか、壁を伝って滝のように水が落ち、壁際にある溝に流れ込んでいる。
 咽喉を目いっぱい反らして天井を仰ぐが、どのぐらいの高さにあるのか見当もつかない。ある部分から闇に飲まれてしまっている。
 足元は、光っていた。
 ちょうどくるぶしのあたりを照らすように、壁に石がはめ込まれている。それがうっすらと青い光を放っているのだった。
 ―――夜光石か。
 隣国アスガルドの西部で採れるという貴重な石だ。闇の中で光る。カイは学はないが、鉱山に抱かれて育った子である、石には多少詳しい。
 一粒ひとつぶが目玉が飛び出るような値だというのに。これほどまで贅沢に使っているとは。
 金はあるところにはあるもんなんだな、と呆れた。
 広大な空間が及ぼす威圧感にも幾分か慣れ、カイはようやく周囲を見回した。
 左手奥にぼんやりと浮かび上がる長方形。どうやらそれが、この空間への正規の入り口のようだった。
 入り口のかたちに夜光石がはめこまれているらしい。扉はなく、長方形の奥は真っ暗だ。道が続いているのだろう。
 そして、”正しい入り口”から、二本の光る線が伸びている。床に転々とはめ込まれた夜光石。道しるべのような輝きを目で追って。
 部屋の中央に据えられた巨大な台座に行き着いた。
 カイの背丈の裕に三倍はある。横っ腹から眺めると、三段の階段状に積み上げられた台座の、頂点は見えない。
 しかし、これほどまでに広大な空間に、貴重な夜光石をこれでもかとちりばめ、湖から水を引き込むという工夫を凝らし。
 “それ”以外の何をあそこに置くというのか。
 フィヤラルの祠に祀られているのは、伝説の宝剣―――。
 ぞっと全身が粟立った。その答えに至った瞬間、カイは弾かれたように駆け出していた。
 正しい入り口の方へ回りこみ、夜光石が照らす二本の線の間に立ち。
 正面から、台座を見上げた。
 走ったのはほんの少しの距離だというのに、息が乱れた。口で大きく息をすると、奥歯が鳴った。体がふるえている。
 祭壇には、側面から眺めたときには見えなかった細かい階段がついていた。夜光石のラインも階段にそって高みへと続いている。
 どうどうと水が落ちる音が四方からカイを取り囲む。ほのかに光る無数の青い光がまるで、―――呼んでいるように見えた。
 一歩、足が前に出た。
 もう一歩。転がるようにまた一歩、そして。
 カイは祭壇を駆け上った。
(ドラゴンバスターが)
 手に入れば。
 皇帝を突き動かす魔石を叩き壊すことができる。
 そうすれば戦はきっと、終わる!
―――おにいちゃん、わたし大丈夫よ。
 うつくしく着飾ったエスリンが、手探りでこちらの手を探り当て、しっかりと握った感触を何故か今、思い出した。

 まろぶように最後の一段を踏み越え、カイは祭壇の高みに至った。
 全身が心臓になったかのようだ。頭の内側も激しく脈打ち、視界がゆらぐ。
 中央に台座が据えられている。子どもの寝台ほどの黒い石の板だ。
 その台座に、一本の黒い剣が突きたてられている。
 カイはおぼつかない足取りで近づいた。
 これで戦が終わる。奇跡のつるぎだ。
 じっとりと内側から吹きだす汗を感じながら、カイは柄に手をかけ、声をなくした。

 剣は台座とひとつだった。

 刺さっているのではなく、台座と剣がひとつの石から作られた彫刻。
 我が目を疑い、幾度もまばたきを繰り返す。
 まさかそんなはずはない。
 これは伝説の宝剣だ、最後の切り札だ。
 奇跡を起こし、長くつづく戦を終わらせるための……。
「やっぱり来たね。君なら来ると思っていた」
 男の声が響き渡った。
 背に刺さったその声に、カイはぎくしゃくと彫刻から手を離す。
 肩越しに振り返ると、夜光石に彩られた正規の入り口から、ひとが歩み出てくるのが見えた。
 身軽な旅装束に小型のハープを背負っている。雨風をしのぐためかしっかりと被ったフードには見覚えがあった。
「貴様……!」
 からからに渇いた咽喉からようやく絞り出す。
 カイに地下通路を教えた旅芸人だ。
 弾丸のように祭壇を駆け下り、カイは旅芸人の胸倉を掴みあげる。
「騙しやがったな!」
 ドラゴンバスターが手に入ると、そう言ったではないか。
 すると、旅芸人はすこし困ったように笑った。
「ドラゴンバスターが手に入ったとして」
 旅芸人の背後、闇に飲まれた通路の奥から、芯のある声が響いてきた。踵が石の床を打つ音が徐々に近づいてくる。
「それで本当に、戦が終わると思っているのか」
 白い影が亡霊のように浮かび上がった。
 頭からすっぽりと白いフードをかぶり、口元すらも布で覆い隠した人影が近づいてくる。
 唯一外に出ている瞳が、真紅だった。
 声からすれば女のようだが、背丈はカイよりもすこし低いぐらいで、女としては大柄に見える。
 白装束の女―――と思しき人影―――に付き従うように、女剣士が控えていた。
 傭兵のような軽装備ではあったが、黄金の髪は肩を滑り落ち、碧眼が油断なくカイを見据えている。気品と隙のなさは尋常ではない。その傍らにもう一人、こちらはいかにも傭兵といった体の男が立っている。この男もおそらく腕がたつ。
「ドラゴンバスターが一体、何の役に立つ」
 白い塊が言った。
 カイは旅芸人の胸倉を掴んだまま、赤い瞳を見据えた。
「ドラゴンバスターがあれば、オーブを壊せる、んだろ」
 それで戦が終わるのではないのか。
 白い女は笑った、ように見えた。
「無いものをどうやって壊すというんだ」
 うまく言葉を飲み込めなかった。
 全身から力が抜けて、旅芸人の胸倉を掴んでいた手がはずれる。
 無い、とは何のことだ。
「ドラゴンバスターが手に入ったとて、壊すべきものがないのなら仕様がない」
「どういう……」
「”ドラゴンオーブなど何処にも無い”と言っているのだ」
 眩暈がした。
 力いっぱい頭を殴られたような心地だった。脳みそをかき回されて、うまく考えがまとまらない。
 ドラゴンオーブがないということは、一体どういうことなんだ。
 それではつじつまが合わなくなるじゃないか。
「ドラゴンバスターもドラゴンオーブも存在しない。ただの象徴だ。台座を見ただろう、形だけ祀ってあるに過ぎない」
「百年前にはあったんだろ! 隣のアスガルドのラッセルって領地で、領主の息子が―――!」
 ドラゴンオーブを用いた内乱を、その奇跡の剣で収めたと聞く。
 存在しないなんて、おかしいじゃないか。
 存在しないんだったら、どうして。
 カイは、白装束の女に向き直った。口元に笑いが浮かんでくる。
「嘘だろ」
 意志の強い赤い瞳は、揺らがない。
「お前らグルになって俺を、騙そうとしてるんだろ。なあ!」
(ドラゴンオーブが無いなんて) 
 ふつふつと湧き上がってきた怒りを抑えきれずに、カイは白装束の女に掴みかかった。背後で剣士ふたりが得物に手をかけるのを、女は片手で制す。
「お前が祭壇で見たものがすべてだ」
 刻み付けるように、女が言った。
 その声が、何かの糸を切った。
「ふざけんなよじゃあなんで! オーブがないならなんで! ヴォーデンは戦をやめないんだ!」
 納得できない。
 オーブがあれば、まだつじつまはあうじゃないか。
 強大な魔力に魅入られてしまったと、諦めることができる。
 理解が出来ないことで苦しめられているなんて、そんなこと。
 納得できるはずないじゃないか!
「だったら俺達はなんで……」
 目のふちが熱くなる。視界がぐにゃりとゆがんだ。
「なんでこんなふうに……」
 村を蹂躙され、妹を奪われて。
 母は臥せって、父は雪の降る路上に転がって。
 自分だけではない。苦しみもがいているのは、決して自分だけではないのだ。
 こみ上げた涙がひとすじ頬を伝って落ちる。涙に引きずられるように、カイはがっくりとうなだれた。
 体が震えはじめる。いつの間にかカイは笑い出していた。
 突然、すべてのことがどうしようもなく滑稽に思えた。馬鹿馬鹿しい。
 何よりも、伝説に縋って這いずり回ってきた自分が、醜くあさましく、惨めだった。
「……殺さないのか?」
 笑いとともに零れ落ちた。
「聖域に転がり込んだんだぞ。ドラゴンバスターを手に入れようとしたってことは、立派な反逆罪だろ。あんたたち、帝国軍の兵士じゃないのかよ。……もういいよ、どうだっていい。ドラゴンバスターがないなら、もうどうしたらいいかわからない。どうしたらエスリンの仇を取れるかなんてもうわかんねぇよ!」
 咽喉が裂けるほど大声で叫び、カイは涙をふりはらうように顔を上げた。
 突き飛ばすように白い女の胸倉から手を離し、両手を広げた。
「殺せよ!」
 赤い瞳が、鈍い痛みをこらえるように眇められた。
「どうせ生きてたってしょうがな」
 左頬に衝撃を受け、カイはそのまま後方に吹っ飛んだ。
 口の中に鉄の味が広がり、殴られたらしいことに気づく。
「ガキが、簡単に死ぬとかぬかすんじゃねぇ!」
 傭兵然とした男がいつのまにか、カイと白装束の間に割って入っている。体勢からして、カイはその男に殴られたのだろう。
 口の端に滲んだ血を乱暴にぬぐい、カイは立ち上がる。刺し貫かんばかりに男を睨み据えた。
「何も知らないくせに!」
 カイは吠えて、男に殴りかかった。
「……クソガキ!」
 男の舌打ちを聞いたような気もしたが、すぐに何も分からなくなった。
 腹部に強い衝撃を受けて、呼吸が出来なくなる。目の前が真っ白になり、カイはそのまま石畳に両膝をついて、前のめりに倒れた。

「どういたしますか」
 女剣士が白装束に問うた。
 男に腹部を殴られて気絶した、青年と呼ぶにはまだすこしあどけない男を見下ろす。
「連れて戻る。どの道を選ぶかは彼の自由だが、今はひとりでも人手が欲しい。ゆっくりと説明をするにはこの場所は不向きだ。リーグ、すまないが背負ってきてもらえるか」
「……すいません、頭に血がのぼっちまって」
 カイを殴り倒した男は、気まずそうに女の赤い瞳から視線を逃がす。
 筋骨隆々とした男がしゅんと肩を落としているのをしばらく眺めてから、白い衣のすそを翻し、女は歩き出す。女剣士が影のようにその背に従った。
「城まで連れてくるのだぞ」
 叱りもしなければ慰めもしない。が、しばらく自分を見つめていた真紅の双眸が労わりの色を含んでいたことを、リーグはちゃんと分かっていた。
「お前がまさかこんなガキに目をつけるとはな」
 カイの体を肩に担ぎ上げながら、リーグは旅装束の男を眺める。
 旅芸人はかるく肩をすくめ、白装束と女剣士のあとを追った。


            *


 光がしみてくる。
 閉ざした瞼の上からくすぐるように。
 背に感じるやわらかさが心地よい。いつのまに転寝をしていたのだろう。あまり手伝いをさぼると母親が怖い。
 もう起きて、村に戻らなければ。
 やけに重い瞼をゆっくりと開く。一瞬だけ世界がすべて白く焼き尽くされた。幾度か瞬きをくりかえすうち、さまざまな輪郭がくっきりと浮かんでくる。
 村の傍にある丘に寝転んでいるつもりだったのに、見上げた先は空ではなかった。背にしているのも、背の高い草などではなく、今までお目にかかったこともないような綺麗なシーツだ。
 石造りの、高い天井。
「っ……!」
 覚醒した。
 跳ね起きた。上等なベッドのスプリングがきしむ。
 何を寝ぼけていたのだろう。フィヤラルの祠にもぐりこんだんじゃないか。
 傭兵のような男に殴られてそれから―――記憶がない。
「いって……ぇ」
 勢いよく跳ね起きた反動で、殴られた腹部が鈍く痛んだ。その痛みが、祠での出来事は夢でもなんでもないことの証だった。
 じくじくと痛む腹を押さえているうちに、口元に笑いがせりあがってきた。
 滑稽で、惨めだ。
 うまくいくはずがないと分かっているつもりで、きっと、自分が一番期待していた。
 ドラゴンバスターが手に入ること。
 劇的に、戦を終わらせるということ。
 まるで御伽噺を鵜呑みにしている子どものようではないか。
「かっこわりぃ……」
「目が覚めたね」
 扉が開き、穏やかな声が滑り込んできた。
 カイはすばやく扉を振り返る。
 頭からフードをかぶった、軽装の男が立っている。ハープこそ持っていないが、見まがいようがない。
 旅芸人の男だ。
「てめぇ……!」
 無防備に傍らに歩み寄ってきた男の胸倉を、カイは右手で掴んだ。旅芸人はされるがまま、抵抗しない。
「騙したことについては、申し開きはしない。だけど、僕は君の敵じゃない。覚悟を試す必要があったんだ」
「どの口がそんな……!」
「姫に会ってくれ」
 カイの言葉をさえぎって、芯のある声で男は言った。
 目深に被ったフードを引き摺り下ろし、初めて素顔をさらして見せた。水色の髪と瞳を持った、痩せた男だった。
 左頬から額にかけて大きな古傷が走っており、傷が目を塞いでいる。
「……姫、だって?」
「僕の口から説明するよりも、そのほうが分かりやすいはずだ。立てるかい」
 毒気を抜かれ、カイは男の胸倉から手を離す。
「僕はトールだ。君の名前を教えてくれないか」
「……カイ」
 布団を跳ね除け、床に足をおろす。やわらかい寝台で寝たのはいつぶりだろうか。熟睡の名残がまだ残っている脚は、気を抜くとふらつきそうになる。舌打ちとともに名乗った。
「ありがとう。案内するよ」
 トールはやわらかく微笑してみせた。穏やかな物腰に大きな顔の傷がひどく不似合いに見える。
「おまえを……おまえらを信用したわけじゃないからな」
 言ってしまってから、ひどく子どもじみた文句だということに気がついて、カイは唇を噛んだ。
「すぐにすべてを信じろとは言わないよ。君が目で見たものを信じればいい」
 しかしトールはカイの子どもっぽさを笑わず、生真面目な顔で扉を開いた。


 一本の廊下が延々と続いている。
 壁に沿って等間隔に甲冑がならべられ、大きな窓からは燦燦と日差しが差し込み、床にかがやきを落としている。
 どこからか、金属をぶつけ合うような音が耳に届く。それはあまりに、剣戟の音に似ている。
「ここは一体、どこなんだ?」
 半歩ほど遅れて後ろを歩きながら、カイは案内役に訊いた。
 トールは塞がれているほうの顔でわずかにカイを振り返る。
「トゥオネラ城だ」
 短い答えに息を呑んだ。
 トゥオニ湖のそばに建てられた城の名前だ。聖都とはすこし離れているが、昔からフィヤラルの祠を守るという名目の、皇族たちの静養地だった。
 そして近頃は、この城は特別な意味合いを持っている。数年前から聖都をはなれ、ここで暮らしている皇族がひとりいるのだそうだ。
 ゴシップまがいの噂は何よりもはやく知れ渡る。その噂をカイも知っていた。
「じゃあ姫って、まさか」
 意味ありげな微笑をのこし、トールは突き当たりを折れる。
 折れた道の先にひときわ大きな扉が見えた。
 飴色に光る扉を控えめにノックすると、凛と張った女の声で誰何が返ってくる。
「トールです。先日の青年をお連れしました」
「入ってくれ。トールは下がってかまわない」
「分かりました」
 トールは、観音開きの扉を片方、うすく手前に開く。戸惑うカイの肩を軽くたたき、自分は後ろに下がった。
「取って食われたりはしないよ」
 笑顔で押し出され、カイは光がこぼれてくる扉の隙間に滑り込んだ。
 こわばる脚で数歩前へ出ると、背後で扉が閉まる。慌てて振り向いてももう遅い。トールの姿は見えなくなっている。
「具合はどうだ」
 部屋の奥から声が飛んでくる。
 扉の真正面にバルコニーに続く大窓があるせいで、逆光をあびて輪郭がぼやける。カイは目をすがめ、大窓の傍に立つ人影を見極めようとした。
 まず飛び込んできたのは真紅だった。血のように赤い双眸と目が合う。
 幻想的な祠の情景が蘇った。夜光石のわずかな光だけでもしっかりと見えた紅玉をはめ込んだような瞳。
 白装束の、女。
 今日は白装束をまとっているわけではない。喪服を思わせる黒いドレスを着ている。それでも目に焼きついて離れない白は―――髪だ。
 腰に届くほどの白銀の髪が肩を伝って流れている。
「色無し姫……!」
 口走ってから、慌てて口を覆った。
「貴様!」
 部屋の隅に控えていた金髪の女剣士が気色ばむのを、白銀の女は片手で制した。
「よい」
「しかし姫様!」
「ここで無理に改めさせたとて、言い続けるものは陰で言い続けるものだ。始終監視をつけるわけにもいくまい。その呼び名を知っているということは、わたしが何者か大体察しがついているのだろう?」
 怖じた脚が自然と下がる。閉ざされた扉に背をぶつけて、カイは知らずに後退していたことに気がついた。
「……フレイヤ、姫か」
「そのとおり。わたしはフレイヤ・オド・ヴィーグリード。暴君と名高いヴォーデンの娘だ。そなたの名は教えてはもらえないのか」
「カイ・ユマラ」
 名乗る声がふるえていた。
 皇族という位に圧されたのではない。まっすぐにこちらを射すくめる瞳のあまりの強さに怖気づいたのだ。

 数年前から囁かれてきた噂の主人公は彼女だ。
 皇帝のひとり娘でありながら聖都を追われ、トゥオネラ城で暮らしている。皇族の血筋に脈々と継がれてきた黒髪を持たぬことから、色無し姫と呼ばれている。皇族の色を持たぬということは、不義の子なのではないか、と。
 噂では、父から疎まれ遠ざけられたフレイヤ姫は、泣き暮らしているばかりの深窓の姫君だ。だが、目の前に立っている彼女はどうだ。
 見つめられているだけで息ができない。
「カイ、そなたは何故ドラゴンバスターを欲しがった」
 一切のごまかしを許さない、有無を言わさぬ強い視線だった。
 威圧感から逃れようと、カイは真紅の瞳から目を逸らす。
「言っただろ、ドラゴンオーブを壊せるのは、ドラゴンバスターだけだって信じてたから……」
 御伽噺を信じていたと告白するのは恥ずかしかったが、結局はそれが真実だ。
「ヴォーデンを止めるつもりだったのか」
「戦なんてもうまっぴらだ!」
 握った拳を背後の扉にたたきつける。鈍い痛みが手の甲から全身に孤を描くように広がっていった。
「領地とか大陸統一とか、そんなことどうでもいいんだ! みんな死んだんだぞ!」
「もし、オーブも剣も存在したとして、ドラゴンバスターを手に入れて、具体的にはどうするつもりだった。ひとりで聖都へ行くつもりだったのか」
 膨れ上がった怒りに水をかけられた心地になって、カイは口をつぐむ。
 具体的なことなど何ひとつ考えていなかった。奇跡の剣が手に入ったら考えればいいと思っていた。
 何をどうすれば皇帝に近づけるかなど、分からなかった。
「ドラゴンを殺せる剣を手に入れても、何万という兵士がいなくなるわけではあるまい。たったひとりでは、聖都に入れるかどうかも―――」
「分かってるよ!」
 浅はかなのは、愚かなのは、分かっている。
 自分でも分かっていることを改めて指差し確認のように諭されるのは、つらい。
「どうすればいいかなんて分かんなかったんだ。戦を止めたくても俺一人じゃ何もできない。自棄だったんだよ、そんな剣があるかどうかなんて分かんなかったけど黙って指くわえてるなんて! そんなこと……」
「本気でヴォーデンを止めるつもりがあるか」
「え……?」
「本気で、戦を止めたいか」
 刻み付けるようにゆっくりとフレイヤが言った。
 カイは、扉から体を起こす。数歩フレイヤに歩み寄り、試すような強い瞳を見つめ返した。
「止めたい」
 フレイヤはカイを見つめ返し、頷いた。
「我々は同志をあつめている。ヴォーデン暗殺を実行に移すためだ。トールには同志あつめを手伝ってもらっている。おまえが本気で戦を止めたいというのならば、手伝ってはくれないか」
「ヴォーデン、暗殺?」
「皇族しか知らぬ抜け道を使う。警備はされているだろうが、何しろ隠し通路だからな、たかが知れている。もはや民も兵も疲弊している。皇帝が死ねば戦は終わるだろう」
 甘美な誘惑に聞こえた。ドラゴンバスターと同等の甘さを感じる。だが、大きな違和感に、カイは戸惑った。
「父親だろ……?」
 フレイヤにとって、ヴォーデンは肉親ではないのか。
 それともやはり、血のつながりなどないのか。疎まれて遠ざけられて、憎んでいるのか。
 フレイヤはしばらく、戸惑いの滲んだカイの顔を見つめていた。
「父子でともに旅をしていたとして、父が間違った道をゆこうとしたら、おまえは黙ってついてゆくのか」
「それは」
「戦は大きくなりすぎた。わたしが諌め、とまるものではない。それだけだ」
「だから親父でも殺すのかよ」
 フレイヤは、燃えるような瞳を伏せた。
「……城を見てまわるといい。この城には同志たちが多く出入りしている。すぐに答えを出せとは言わない。協力を強要するつもりもない。おまえの答えが出たら、聞かせてくれ」
「それじゃ答えに……」
「今は言えぬこともある。いずれ話そう」
「この城のこと、俺がどっかに密告するとは思わないのか」
「うぬぼれかもしれないが、我々はヴォーデンを討つのに一番近いと思っている。おまえとわたしは未だ仲間ではないが、敵は同じだ。我々がつぶれて、おまえが得をするとは思えん。憂さ晴らしや小金をもとめて密告をするような奴をトールが選ぶとも思っていない。もしそうなら、我らの見る目がなかっただけの話だ」
「むずかしい話なんて、俺にはわかんねぇよ」
 まるで逃げ出すように、カイは部屋を出た。



3.
 ルスランは、聖都の中心部にある学校へ通っている。勿論、送迎つきだ。しかし、もともとが地方都市ヘイムダルでの暮らしの長かったルスランにとって、この生活は窮屈でならなかった。地方都市とはいえ、一介の貴族の子息である以上、それ相応の扱いをされるのが当然なのだが、どうもフロイデンタール家は長く騎士の家系として王侯に仕えた性質からか、地方という気楽さからか、そのあたりは実に寛容だった。代々の地所に暮らす人にも隔てなく接することを、誰も咎めたりはしなかったのだ。むしろそれは一層の美徳とされた。
 しかし、聖都ブリガンダインでは、そんな考えは通用しなかった。
 フロイデンタール家が聖都に招かれる――それは、騎士剣を預かって以来の誉れだった。そして、執事は口を開けば、城下へ出るなとやかましく言う。もう気軽においそれとひとりで外出できる身分ではないのだ。常に誰かと共に、それも主たる風格で振舞わなければならない。すこしでも弱みを見せれば、それはたちまちつけ入られる隙となるから――と。
 学校へ迎えに来たフロイデンタール家の執事・サディードは、帰り道に何度目かになるその台詞を繰り返した。幼い頃、それこそ、ルスランの祖父の代からフロイデンタール家に仕えていたサディードは、今のルスランと同い年の頃には当時仕えていた老執事の補佐を務めていた。彼が引退した今では、家の人間はおろか、使用人の誰からも信頼されている。
 こと、末っ子のルスランを甘やかしがちになる両親に代わって、サディードが自ら進んでルスランの養育係もつとめているのだった。
 多忙な執事は、ルスランの父より十ばかり年下だったが、家のなかのことに事細かに気づく、なかなかの手腕の持ち主でもあった。
 ただ、彼は移民だった。サディードという名が示すとおり、南方の国よりブリガンディアへやって来た。いきさつは知らないが、彫りの深い顔立ちと褐色の肌は、移民である証そのものだった。それゆえか、彼は独身を貫き、仕事に身を尽くしていた。
 目下の悩みは、ルスランのことではあるのだが。、
「ご主人様も奥様も決して口にはお出しになりませんが、ルスラン様の振る舞いをとても気にかけていらっしゃいますよ。城下の者と仲良くするのは、感心致しかねます」
「でも、サディード」
 思わず唇を尖らせて反論しようと試みるルスランに、サディードは首を振ってみせた。
「でも、ではございません。お願いですから、承知して下さいませ。理屈ではございません。よろしいですか、ここでは、フロイデンタールの人間は新参者なのです。このご時世、聖都に招かれる爵位を新たに授かる貴族なぞ、稀も稀。幾多の由緒ある権力ある地方貴族を出し抜いて、どんな家の人間が来たのかと、様子を見ているのです。失態でもあろうものなら、その地位を剥ぎ取ろうと、虎視眈々、舌なめずりしているのですよ。確かにフロイデンタール家は、地方の守り手として、皇帝陛下直々に騎士の位を賜った『円卓の騎士』。由緒正しきお家柄でございます。けれど、都の貴族というものは、例外なく地方の者を小ばかに見下すものです。いくら実力があろうとも、良い心の持ち主だろうと、彼らは見下すのです。古き良きブリガンディアの時代は去りました。長く都で豪奢に暮らしてきたという事実が、彼らをそうさせるのでしょう。そして彼らは――あってはならないことですが、城下の者ですら、自分の召使い、悪く言えば奴隷と思っている。そうした者と、いくら良い家柄といえども、ここでは新参者である我々が親しくしているのを見たら、彼らは何と思うでしょう。聡明なルスラン様なら、もうお分かりでしょう? 『田舎者と奴隷が仲良くしている。卑しい者どうし、地方からのこのこ出てきたのも、何か裏があってのことに違いない』。あちこちであることないことを囁かれ、あげく窮地に立たされるのはご主人様であり、奥様なのです。そのあたり、ご理解いただけますよう――…」
「わからないよ、サディード。ぼくには。どうして街に出ることがいけないことだというの。学校に来ている子は誰だって街へ行くじゃないか。ひとりで行くやつもいる」
「けれど、おひとりで行かれる先は、ルスラン様のお出かけになるような店ではございませんでしょう?」
 サディードは冷ややかにルスランを見つめた。彼はこうした帰り、ふいといなくなるルスランに、非常に頭を痛めていたのだ。どこへ出入りしているかも、きちんと知っている。ルスランは真っ直ぐな少年だった。齢十八にしては少々子供っぽくもある。のびのびと育ったおかげで、人に疑心を抱くことがないのだ。
 それはいいことではあった。あのままヘイムダルという地方で暮らすのであれば。ただし、ここでは仇となる。
 サディードは息を吸い込み、残酷だと自覚しながら続けた。
「学校にお越しになるような家のご子息・ご息女が足を運ばれるのは、メインストリートに店を構えた、貴族がもっぱら出入りするような店です。入り口で爪の先から頭まで、じっくりと検分されて、うやうやしく扉が開かれるのを待つような店。そうした店なら、わたくしどもも何も申しません。そこへ出入りできるということは、ここの貴族だと店に覚えてもらういい機会ですから」
「下町へ行くな、というのかい?」
「なるべくなら、お控えを。まだここに来てわたくし共は日が浅いのです。目立つようなことをなさってはいけません。それに、じきにルスラン様は士官学校へ進まれ、寮へお入りになります。奥様はそれはそれは寂しく思われることでしょう」
「……」
 なにか思いつめたような顔のルスランは、馬車の小さな窓からのぞく景色を見ていた。学校のある小高い丘から、新しい家(といっても小さな城にも匹敵する広さだったが)までは、二頭引きの馬車でも三十分はかかる。長く揺られているのは苦痛だった。
 口を開かないルスランを見て、少々言い過ぎたかと思ったサディードだったが、やがて町並みから城下の賑わいが届くようになると、ルスランはぱっと顔を輝かせた。
「サディード。きみにも来てもらおう」
「ルスラン様?」
 困惑したような顔のサディードに構わず、ルスランは御者にいいつけた。「すこし寄り道をしてもらうよ。そこの角を曲がって」
 すると、御者は困ったような顔をした。
「申し訳ないんですが、道が細くてここを曲がるなんてとても…」
「ルスラン様、おやめください」
「じゃあ、ここで待っていて。この路地入ってすぐなんだ。ほら、サディード。一緒に来てくれるんだろう?」
 いつの間にそういう話の運びになったのか。頭を抱える思いで馬車から降りたサディードに、くつくつと笑いを隠しながら御者が言った。
「サディードさん、我々はどちらでお待ちしましょうか」
「……ここでは往来の邪魔だ。この通りの真中に、大きな宿がある。そこで待っていなさい」
「承知しました。お気をつけて」
 睨みつけられた御者は肩をすくめて馬に鞭を振るった。それを見届けてから、手招きをするルスランのもとへ行く。しぶしぶといったサディードに構うでもなく、ルスランは陽気に話しを続ける。
「どう、ここは。なんだか懐かしくない?」
「何がです」
 苦虫を噛み潰したような顔で返したサディードだったが、実際同じようなことを感じていた。この下町は似ているのだ、故郷のヘイムダルの市場に。
 賑やかで雑多な、悪意のないあの市場に、ふたりはよく連れ立って行った。市場に店を出す人々は皆親切だった。ルスランの顔を見て、にこにこと売り物であるはずの品物を差し出して、受け取れと言うのだった。
 フロイデンタール家の次男だと皆が知っていたのだ。そして、気さくで飾り気のないルスランは誰からも愛されていた。
 サディードはヘイムダルに居るかのように振舞うルスランに、一瞬心を奪われていた。ルスランののびのびとした姿を見ることは、久しくなかったからだ。住む環境が変わるというのは、多少なりとも苦労が要る。サディードですらそうであるものを、何故ルスランにはないと思ってしまったのか。
 叱る言葉を失ったサディードは、ルスランの後ろを歩きながら街を見た。メインストリートを一歩入っただけで、街の雰囲気はがらりと変わる。小さな店がひしめきあい、多種多様な人々が行き交う街に。彼らは決してメインストリートを歩くことはない。何故なら彼らは誰ひとり、ブリガンディアの生まれではなく、遠くはるばるやって来た移民が殆どだったからだ。時折、懐かしいサディードの故郷の言葉も聞こえてくる。
 思わず感傷にひたりかけたとき、ルスランが振り向いた。
「ここだよ、この店」
 白い壁とみどりの屋根。木の看板には「グリース・リーブス」と書かれていた。ガラス越しに、カウンターに腰掛け、鉛筆を走らせる少女と、傍らで手を動かしながら少女に何事か話し掛けている女が見えた。親子だろうか、とサディードは思ったが、それにしてはふたりは違いすぎた。女は黒髪に白い肌。エデも同じく黒髪だが、彫りの深い顔立ちをしている。目の形も鼻の高さも、ふたりに似たようなところはなかった。
 やがて女が前を向いた。通りに立つルスランに気がついたのだ。女はかたわらの少女に何事か言うと、いそいそとドアを開いた。
「いらっしゃい、今日はいかがしましょう」
 女はルスランの隣に立つサディードに気がつくと、慌てて頭を下げた。ルスランの身分を知っているからだろう。だが、かえってサディードはその態度を快く思った。
「どうぞ、お気遣いなく。わたしはサディードと申します。フロイデンタール家の執事をつとめております」
「ジュビア・グリースです。いつもお坊ちゃまにはご贔屓にして頂いておりますわ」
 言葉じりに、東部の訛りがあった。外見から察するに、彼女もまた移民なのだろう。戦禍を逃れて聖都へやって来た、幸運で不運な移民。
 サディードがそんな彼女の身の上を想像しながら店内へ目をこらすと、鉛筆を握り締めた少女がこちらを見ていた。冷たい、それでいて何か思いつめたような目。その目に青白い炎が見えたような気がして、サディードの背筋を冷たいものが走った。あの目の暗さ。年頃の少女がするものではない。見たところ、容姿はまずまず、むしろ素朴で大人しそうな目立たない少女だ。黒いおさげ髪と白い肌と。だが何かひっかかる。不自然さがある。
 少女は、サディードと視線がぶつかると、あわてて俯いてしまった。鉛筆を動かし、二度と顔を上げなかった。
「サディード、あれがエデだよ」
 ルスランはサディードの耳に囁くように言った。「話したことがあっただろう? ぼくのために『マルガリテ・フラン』を置いてくれた子だよ」
「そうですか、彼女が」
 うきうきしながら話すルスランは、あのエデという少女に好意を持っているようだった。むしろ、自分でそれに気付いているのかいないのか。
「昨日入荷しておりますよ。週に一度だけですから、取り置きしてございますよ」
「そんな畏まらないでよ、ジュビアさん。いつもみたいに呼び捨てで構わないのに」
 ルスランは笑いながら、店の中に入った。ドアにつけられた鈴が小気味よく音をたてると、カウンターに座っていた少女が顔をあげた。
「やあ、エデ。ごきげんよう。勉強ははかどっている?」
「いらっしゃい、ルスラン」
 エデは鉛筆を置くと、にっこりと笑った――ように見せた。ぎこちない笑顔だ。だが、それには触れず、ルスランはカウンターへ近づき、カウンターの上に広げられたノートをのぞき込む。並んだ単語と拙い文章。それもそのはず、エデはここではじめて、公用とされているヴァール語を習い始めたのだった。読み書きはリーリャの言葉でならできるが、公用語であるヴァール語とは、また違っていた。話す方はなんとかなっても、書く方はまだまだあやしいところが多い。
「ルスランのくれた練習帖、役に立っているわ。ありがとう」
「今度、辞書を持ってくるよ。もう使わないものがひとつあるから」
「ええ。楽しみにしてる。ところで今日は、どんなお買いものなの?」
 逆に訊ねられたルスランは、顎へ手をやり、考える素振りを見せた。その姿にサディードは苦笑する。エデに会うために来たことは、もはや明白だった。
 何か思いついたように、もっともらしくルスランが訊ねた。
「ジュビアさん、今日はどんな花が入りましたか? ソラリスはあるかな。母にお土産にしたいんだけど」
「あれはこのあたりでは珍しいからね……ちょっと待ってちょうだいね」
 エデとルスランのやりとりをあたたかく見守っていたジュビアは、にこにこと奥に入っていく。カウンターのそばにある大きな壺には、白や青、赤や橙、桃色といった花が無造作に投げ込まれていた。これを選りすぐって花束を作るのだろう。
 ジュビアが姿を消している間にも、ルスランはエデに何かと話しかけていた。学校での出来事や、家族のこと。その頃になってようやく気がついたルスランは、サディードを紹介した。
「すっかり忘れていた。ぼくの養育係をしているサディードだよ。サディード、こちらはエデ」
 やっと紹介されたサディードは、うやうやしく頭を下げた。
「サディードと申します。フロイデンタール家の執事をつとめております。以後、お見知りおきを」
「エデと申します」
 それまでカウンターのなかの椅子に座ったままだったエデは、立ち上がった。背はそれほど高くない。だが、不思議とたたずまいは静かだった。さっき感じた青白さはすっかりなりをひそめている。礼儀作法も悪くはない。これはジュビアの躾がいいということだろうが。
「エデとは変わったお名前ですね。確か、古い言葉で『純潔』という意味だったかと存じますが」
「そうです」
 エデはこくりと頷いた。その顔は誇りに満ちていた。「大切な名前です」
「すてきなご両親ですね。今もご健在でいらっしゃいますか?」
「いいえ。亡くなりました。わたしに身よりは居りません。グリースさんご夫妻のご厚意に甘えて、ここで住み込みで働いています」
「そうですか。それは失礼を」
 そんなやりとりをよそに、ジュビアが白いソラリスの花を抱えてきた。
「珍しいでしょう。あのひとが、ヘイムダルへ寄ったついでに仕入れてきたの。あんまり綺麗なんでね。さ、どれと組み合わせましょうか。それともこのままにする?」
「ひとつをエデにあげてください。残りは頂きます。それと、『マルガリテ・フラン』も」
「そんな、いただけません」
「いいから。エデの名前のこと、今日初めて知ったんだよ。ぼくにとって『純潔』というのは、この白いソラリスの花だよ」
「まぁ、羨ましいこと」
 そう言いながら、ジュビアは一輪を抜き取ると、カウンターに飾られている一輪挿しのなかへ挿した。残りを器用に包んでいく。わずか十本たらずの花束と、チョコレート菓子。ルスランの小遣いでも十分に賄える額だった。
 白いソラリスの花は、聖都ではそれほど好まれる種類ではなかった。小さな花びらがいくつも重なるようについた、小ぶりの花だ。栽培されて品種改良されてから、他の色のものも珍しくなくなったが、聖都で好まれるのは大ぶりの花だった。香りがよく、かたちも美しい百合やバラには明らかに見劣りする。
 だが、野生の白いソラリスは、ヘイムダルではとくに大切にされていた。昔からの言い伝えで、幸いの花だといわれていたからだ。争い事のない、平和な場所にしか咲かない花。
 花束と包みを受け取ったルスランは、名残惜しそうにエデに告げた。
「また明日。あ、明日はお休みだった?」
「ええ。一日お休みを頂いているけれど、何もすることがないから、きっとお店に出ていると思うわ」
「じゃあ、じゃあ、ふたりで何処かへ行かない? その、何もすることがなくて、ぼくが学校が終わる頃、時間があったら、だけど」
「……ジュビアさん」
 困ったようにエデはジュビアに助けを求めた。サディードはエデとは対照的にきらきらと目を輝かせているルスランの、肘をつつく。
「店は構わないわよ。もともとあなたは休みなのだし。それにあなた、この街にはすこしは詳しくなったでしょう。案内して差し上げたら?」
「わたしからも、お願いを。ルスラン様は聖都の地理にまだ慣れてはおりませんので」
 サディードにそう言われると、エデも頷くしかなかった。ぎこちなく頷くのを見たルスランは、じゃあまた明日と元気よく店の外に飛び出した。黙ったまま路地を曲がり、メインストリートへ出ると、ようやくルスランは大きく息を吐いた。
「……感心はいたしませんよ、わたしは」
 身分が違うことは、誰に言われなくてもわかることだった。身寄りのない移民の娘と地方出とはいえ、今はれっきとした爵位を持つ家の息子。主従の関係ならともかく、恋愛の対象と見なすのは、無理だ。
 そんなサディードの胸のうちを見透かすように、ルスランははっきりと言った。
「サディード、エデはいい子だよ」
「ルスラン様」
 マロニエ並木のメインストリートに出ると、サディードの足が止まった。これだけは言っておかなければならない。城下へ気まぐれに足を運ぶことを注意するよりも、もっと根深い――おそらく、ルスランは気づきもしていないことを。
「彼女の生い立ちを慮っておられるのですか。それとも、特別の感情をお持ちになっていらっしゃるのですか」
「……わからない。ただ、ぼくはエデに毎日会いたい。エデが笑ってくれると、嬉しいんだ」
「同情をなさって、あの店に通いつめられているのでしたら、思わしくないことですが目をつぶりましょう。ですが、彼女を愛しく思う気持ちがあるのでしたら、おやめなさい。ひとにはひとの、生きる世界がある。わたしがルスラン様に仕えて生きるように、ルスラン様がこれから士官学校で学ばれて騎士となるように、彼女にもそれがある。あの店で働くか、あの下町で同じ身の上の者と結ばれるか――おそらくそれが、彼女にとっての幸せでしょう」
「サディード、ぼくは――」
「彼女はリーリャの人間です」
 なおも言いすがるルスランをはねつけるように、サディードは口にした。重々しい言葉だった。ルスランはサディードが発した村の名に、ぴくりと体を振るわせる。知らないはずはなかった。あの「遠征」には、ルスランの兄・が加わっていたからだ。ルスランは反発するように言い返した。「どうしてそんなことが言えるんだ」
「……彼女がリーリャの人間だとわかる者は、まずこの聖都にはいないでしょうね。薄々感づく者はいるかもしれませんが。それぐらい、彼女はうまくこの聖都に馴染んでいる。ただ、彼女の名前。それがわたしにはひっかかったのですよ。『エデ』という名前が」
「名前?」
「ルスラン様は生まれてついてこのかた、イドゥナ聖教の教えを守っていらっしゃいますからご存知ではないかもしれませんが……リーリャの信仰は、ひとりの女神を讃え、その女神の娘を村に置くことで成り立っていたのですよ。その娘は、村でいちばん唄の上手な少女が選ばれ、選ばれたときから、生まれついて授かる名とは別名を名乗るようになるのです。その名が『エデ』。いわば、『エデ』とは、リーリャの歌姫の名もあるのですよ。大事な歌姫の」
「それだって憶測でしかないだろう?」
「そうですね。けれど、わたしが名前の意味を口にしたときの彼女の誇りに満ちた顔――あれは、その名が持つ特別な意味を理解しているからこそでしょう。深い意味を持つ名前を、未だに名乗っている――それがわたしには、恐ろしいのです」
「エデが、恐ろしい? どうして、あんなにいい子じゃないか」
「リーリャがどんな村だったか、ルスラン様もお忘れではございませんでしょう。イドゥナの教えに背いた罪を贖うために、村は粛清されたとききます。彼女は幸いにもそれを逃れて、ここで暮らしている。不釣合いな黒髪も、あのリーリャの生き残りだと知れれば、この店にも咎が及ぶことを考えてのことでしょう。彼女にとって、生まれも育ちも、絶対に知られてはならないことなのです。わたしを含め、移民は誰でも似たようなものですが、彼女の背負っているものはそれとくらべものにならない。それならば、へたに勘ぐられる特別な名前を捨てて、本来の名を名乗っていればいいものを、彼女はそうはしなかった――それだけの強い思い入れがあるのでしょう。それを共に背負う覚悟がおありですか。家名を捨て、騎士の道をあきらめ、いまの暮らしを失う。それだけの覚悟がなければ、軽軽しく彼女に近づこうとしないことです。さ、馬車にお乗りください」
 ふたりに気がついた御者は、馬車を通りにまわして来ていた。サディードがその扉を開くと、ルスランは黙って乗り込んだ。快活なルスランにしては珍しく神妙な顔になっている。
 すこし言葉が過ぎたかと思うサディードだったが、その考えを振り払うかのように、窓から景色を眺めた。メインストリートの賑わいから、閑静な住宅街へ。貴族の住まう一角は、道も広く整っている。そのなかでもひときわ目立つ、公園のそばの邸宅。美しい細工のガラス窓が発する光が目にも届く。
 そう、誰かが言わなければならないことだ。そしてそれは、フロイデンタール家に仕える自分のまぎれもない、仕事なのだ。
 やがて馬車は、門を抜け、噴水の湧き出るポーチの前で止まった。ヘイムダルの城より、ずっと広く、ずっと豪華なつくりになっている。だが、この城をサディードは好きにはなれないだろう、と思った。


 翌日、エデは午前中からそわそわと落ち着きがなかった。
 午後になり、今はカウンターのなかでヴァール語の単語練習をしながら、ちらちらと店の壁にかけられた古時計を気にしている。そろそろ、ルスランのやって来る時間だった。
 エデは週に一度、店の定休日のほかにも、休みをもらっていた。毎日働きづめでは可哀想だろうというグリース夫妻の親切心からだったが、エデはその日もふつうに店に出ていた。いくら夫妻が休んでいいといっても、定休日以外は常に店に姿を見せていた。
 仕入れてきた商品を棚に並べたり、配達に出たり――そのつど時計を気にして、いつもより落ち着かないエデに、ジュビアは苦笑していた。
「エデ、店のことはいいから、二階へあがってなさいな。ルスランが来たら呼ぶから」
「ち、違います、そんな、気にしているわけじゃなくて――」
「いいから。そうね、このあいだ仕立てていた、明るい青の服を着たらどう? あれはあなたにとてもよく似合うもの。あなたは色が白いし……髪も、本当ならもっと」
「いいの、ジュビアさん。わたしはこの髪が気に入っているし、服も変えないわ」
 エデは首を振ると、再び俯いて手を動かし始めた。基本の挨拶や、単文は書けても、それ以上になると難しいのだ。ヴァール語は動詞の活用も複雑で、ひとつ覚えるのにも時間がかかる。
「ごめんなさいね、エデ」
 ジュビアはエデにもう何度目かわからない謝罪の言葉を繰り返す。エデの髪は、もともと豊かな金髪だった。それを黒く染めたのは、他ならないジュビアだ。ここに居るためには、目立ってはいけない。それが、「グリース・リーブス」で働く条件だった。
 エデの長かった髪は、ジュビアの手によりばっさりと切られ、黒く染められた。二年の間にエデの髪は少しずつ伸び、以前のように結ぶことに支障ない長さになった。だが、髪を染めることだけは、怠ることができなかった。
「ジュビアさん、謝ることはないわ。わたしが望んだことですもの。それにわたし、ここに置いてもらえなかったら、きっと死んでた」
 エデはジュビアが謝るたびに同じ言葉を口にする。リーリャが侵略されて、残ったものは「エデ」という名前だけだ。その名前が示すものを、今のエデは何一つ持ち合わせてはいなかった。女神に捧げる歌も、「純潔」の証だった長い金髪の髪も、代々引き継がれてきた真っ白な衣装も。
 何一つ持ち合わせていなくても、エデはこの名前だけ、捨てることはできなかった。これだけは、自分が死ぬときまで名乗っていたいと思ったのだ。それが最後の「エデ」としてのつとめだと思っていた。
 世界からリーリャという村がひとつ消えた。そこにあった歴史も消えた。そこで暮らしていた人々のなかにしか残されていない記憶を、エデは願い叶えて死ぬまで、持ち続けるつもりだった。
 静まりかえった店のなかに、鈴の音が響いた。条件反射でふたりの声が揃った。「いらっしゃいませ」
「エデ、迎えに来たよ」
 そこに居たのは、明らかに駆けてきたとわかる様子の――息を切らせて真っ赤な顔をした――ルスランだった。今日はお付きの人間も居ない。
「いってらっしゃい、エデ」
 ジュビアに背を押されて、エデは前のめりになりながら上目遣いにルスランを見た。似ているのだ。こんな、子供っぽいところが。
 リーリャの幼馴染みに。エデの歌声が好きだと言ってくれた、あの屈託のない笑顔に。
 あの戦火のさなかでも、一番に助けに来てくれた。逃げろと叫んで、その声に押されるようにして夢中で駆けていたのだ。
 彼がどうなったのか、想像するのは容易い。リーリャの村の焼け跡にはあれから一度も訪れてはいないが、おそらく――。
「どうかした?」
 怪訝に訊ねるルスランに、エデは首を振って答えた。「いいえ、何でも」
 過去をときどき思い返すたび、エデは胸元のペンダントを強く握りしめる。魔法。そうだ、わたしにはまだ残っているものがあった。
 そうして自覚を促しながら、エデは今日まで生きてきた。名前と魔法。このふたつを拠り所にしながら。


 ルスランと連れだって聖都を歩く。それも、下町ではない、メインストリートだ。マロニエ並木の大通り。馬車が行き交い、歩く人たちはみな貴族か、商人といった裕福な人ばかりだ。
 当然、街行く人は、不思議な二人連れだと思っただろう。身なりのよい少年と、明らかに移民だとわかる風貌の少女。そんなふたりが連れだって歩けば、誰しも目を引く。
 エデが一生歩くことはないと思っていた場所だ。高くて頑丈そうな建物ばかりが建ち、窓硝子の向こうでは、下町では目にかからないような宝石やドレスといった贅沢品が置かれている。エデはまるで自分とは違う世界にため息を吐いた。
「ここを歩くのは初めて?」
 ルスランはそんな好奇の視線を意に介さない様子で、店先に並ぶ焼き菓子に目をつけながら問いかけた。通りの小脇に移動型の店が出ていた。荷馬車を改造したようなつくりのそこに、作りたての焼き菓子が所狭しと並べられていた。通りを行く人や子供が買い求めては歩きながら食べている。数が少なくなると、併設した調理台で手際よく作りたてが追加される仕組みだ。そうして追加され、粉砂糖を惜しみもなく散らした焼き菓子に、思わずエデの目が留まる。するとルスランは、エデに待つように言うと、その作りたての焼き菓子をふたつ、買い求めた。
 香ばしいきつね色をしたそれをひとつ、笑顔で差し出す。
「はい、ひとつはエデに。食べながら歩こうか?」
「どうして……」
 エデは差し出されたまだ温かいその焼き菓子を見て、ルスランに問いつめた。「どうしてこんなに親切にして下さるんですか? 辞書を下さったり、花を下さったり……」
 すると、ルスランも意外だと言わんばかりに訊ね返した。「エデはどうして、ひとから離れようとするの? なにか、嫌なことがあった?」
「……」
「ぼくは、それほど大したことをしているつもりはないよ。運良く巡り会ったきみに、できるだけのことをしているだけだ。だいたい、ぼくときみは同じブリガンディアに住む者だよ。たまたまぼくが貴族の息子で、きみが移民というだけで。でもそれにどんな違いがあるっていうのさ」
「……何でも持っている方は、いつもそう仰います。でも、生まれは偽れない」
 エデは悲しそうに目を伏せた。いつだってそうだ。この国の人間は、自分が「持つ者」であることに無自覚だ。よそから移り住んでくる人間を毛嫌いする。貴族はもとより、下町の住人にしても同じだ。だが、そのことに誰もが気がつかない。いや、気がつかないようにして、見ないふりをしている。まるでその不平等を主張する方が間違っているのだと言わんばかりに。
「貴族の方にとって、わたしと居ることがご迷惑であるように、わたしにとっても、ルスランとこうしていることが支障になるんです……貴族に取り入って妾になるのだと、陰口を言う人もいる」
「無礼な。誰がそんなことを!」
 ルスランがいきり立ったそのとき、メインストリートの方がにわかに騒がしくなった。何事かと、ふたりも人の向かう先へ足を向ける。
 聖都のメインストリートは、ただの平坦な道ではなく、途中から緩やかな勾配のある坂に変わる。舗装されたその傾斜をのぼって行くと、聖都の中心にある広場に出る。人々の憩いの場、観光の名所として人の絶えない場所だ。もっともエデにしてみれば行く必要もない場所だったが。
 ルスランが自分の手を握っていることすら忘れて、エデは目の前の光景に釘付けになった。幾重にも張り巡らされた人垣をへだてても見えるほど高い、一本の杭。そこに縛り付けられていたのは、頭からすっぽりと布袋を被った人の姿だった。布袋の下からかいま見える灰色の服には、あちこち黒い染みが浮かんでいた――おそらくは、血痕。満身創痍といった風に、体が時折大きく動く。
「これより公開処刑を始める!」
 杭の傍に歩み出た男が声を張り上げた。白を基調とした軍服は、忘れもしない、ブリガンディア神聖国正規軍の軍服だ。
 エデの手から、まだ口をつけていない焼き菓子が落ちた。だが、そこから先起こった衝撃に、ふたりともそれを忘れていた。
 広場に響き渡った鈍い音とともに、杭を伝って、赤黒い液体がじわじわと石畳に広がってゆく。それと同じくして、人垣がくずれていく。ばらばらと散っていく人と人の合間から、赤い色が鮮明にエデの目に飛び込んできた。
 足下に落ちた焼き菓子を、無惨にも誰かの足が踏みつける。その乾いた音で、エデは我に返った。
 手だけはずっと、ルスランとつないだままだった。そのことに今更気がついて、慌てて手を離した。ルスランもやや頬を赤らめながらも、青ざめた顔をしていた。同じようにショックだったのだ。
 ルスランにとって、目の前で人が死ぬのを見るのは、初めての出来事だった。
 ふたりは無言のまま、広場を後にした。メインストリートから離れたことにエデが気がついたのは、馴染みのある袋小路に出たときだった。
 先に口を開いたのは、ルスランだった。
「エデ、平気かい? ごめんね、あんな場所に行くべきじゃなかった」
「……何故、謝るの? あなたは悪くないでしょう」
 平然を装いながら、エデの心は憎しみではちきれそうになっていた。いつも抑えている怒りが、首をもたげて胸一杯に広がっていく。
 魔物に、出会ったときのように。
「――ああやって、あなたも」
「エデ?」
 顔をのぞき込むようにして見つめるルスランへ、エデは思い切り不快を示しながら、言った。「こうやってあなたもひとを殺すの? 聖句を唱えて、正しさを主張して、あのときのように」
「エデ、違う、ぼくは――」
「軍に入るのですってね。おめでとう。いっぱいいっぱいひとを殺したらいい! ヴォールデンのために!」
「エデ、落ち着いて」
「わたしの村を滅ぼしたように、あなたもいつか、どこかの村を滅ぼすのよ。でも、それで済むと思わないで。たったひとりになっても、恨みは消えない。ずっとあなたは憎まれつづけるの。誰にでも愛されるあなたでも、それが届かない、永遠にあなたを嫌う誰かがいるの――わたしが、そうだったように」
 一気に怒りを吐き出したエデは、大きく息を吸い込むと、さらに続けた。
「わたしは、この国が嫌い。ヴォールデンが嫌い。わたしの村を滅ぼした。絶対に赦さない」
 エデは毅然とした口調で言い切った。
 失ったものがあるのだ。永遠に戻らないものが。あの懐かしい村での日々は、二度とこの手に返っては来ない。
 エデは喉にぐっと力を込めた。失った歌声。代わりに得たのは、ただ一度だけ使えるという古代の魔法だった。
 使うときを間違ってはいけない。チャンスはただ、一度きりなのだ。
 ようやく平静を取り戻したエデは、涼しい口調で告げた。「さよなら、ルスラン」
「待ってくれ、エデ。ぼくが軍に志願したのは――」
 ルスランの言葉を、エデは背中で聞いていた。だが、聞き入るつもりはなかった。
 生きる世界が違いすぎる。
 彼は皇帝に仕える身であり、エデは皇帝を倒す志を捨てない。線が交わるのは、戦うときだけだ。だがそのときですら、自分は躊躇いもしないだろうと思っていた。
 あのとき感じた、憎しみ、かなしみ……絶望。それを知ってなお追いすがろうとするのなら、容赦はしないつもりだった。
――たとえ、すこしの好意があったとしても。
「……さよなら、ルスラン」
 エデはもう一度呟くと、店へ戻る道を急いだ。石畳を勢いよく靴底で叩く。間もなく夕飯時。店が一番混雑する時間だった。



4.

「僕は宮廷楽師だったんだ」
 トールは、中庭を見下ろせるバルコニーにカイをいざなった。
 広い中庭には十字に組み合わされた木がいくつも、鎧を着せられて立っている。先程から聞こえていた剣戟の音は、どうやらここから聞こえてきていたようだった。
 石でつくられたバルコニーのへりに手をかけて、トールは中庭を見下ろす。トールと並んだカイは、自分とさほど年が変わらぬ青年が屈強な男と剣を交えている姿を発見した。
「……あいつ」
 青年が振り下ろした剣をたやすく受け止めてはじき返したのは、祠でカイを殴りつけた男だった。
「彼にもあとで会うといい」
 カイの渋い横顔に、トールは微笑した。
「宮廷楽師って言えば、皇帝のお気に入りじゃねぇのかよ」
 カイを殴りつけた男、リーグと呼ばれていたか。太刀筋は迷いがなく見事なものだ。忌々しいながら目が逸らせない。
「なんで反乱軍になんか」
 皇女が反乱軍を指揮するなど、カイには信じられない。何か巨大で巧妙な罠が足元に仕掛けられているのではないかとつい、勘繰りたくもなる。
「僕の左目は生まれついて金色でね」
 カイは中庭から隣に立つ男に視線をうつす。
「珍しがられて楽団に買われた」
 湖を渡ってきたどこか湿っぽい風が、しずかにふたりの間を抜けた。
「だけど珍しいのは色だけじゃなくてね、僕にはその人間の未来が視えるんだ」
 カイは目をしばたいた。トールの言葉を噛み砕いてから、身構える。
「馬鹿にしてんのか」
「信じる信じないは君の自由だ。占いのようなものだと思えばいい」
 真摯なまなざしを返され、カイはそれ以上言い募ることが出来なかった。
「未来だけではなく、過去が視えることもある。だけど、能力というには甚だ不確かなものだよ。視たいと思ったときに視えるものではないからね」
「じゃあその左目は……」
 トールは自嘲気味に口元をゆがめる。
「皇帝陛下にやられたのさ」
 楽師らしい細い指先で、傷の上をなぞる。
「陛下には、僕に視られたくないものがあるらしい」
「じゃあ、目を潰された復讐か?」
「それもないことはないけど、実はそんなに困っているわけじゃないんだ。元々そんなに視力はなかったからね。それに僕は別に視力で何かを視ていたわけじゃない。もちろんそれに気づいたのは目を潰されてからだけど」
「どういうことだよ」
 回りくどい話運びに、カイはだんだん辟易してきた。元々短気な性格なのだ。
「今でも僕には視える。人の、過去や未来が」
 トールは意味ありげな視線をカイに向けた。透き通るようなたったひとつ残された瞳が、急に妖しい光を帯びているように見え、カイは息を呑んだ。
 同じいきものなのか、自信がなくなった。
「だったらあんたは」
 身構え、一歩退く。
「俺の過去を見て、祠に誘ったのか」
 貧しい村を。陰気な鉱山夫たちを。着飾った妹の姿を。
 復讐心に付け込んで、湿った地下道を歩かせたというのか。
 トールは改まったようにカイに向き直り、ゆっくりと首を横に振った。
「君が出入りしていた酒場の主人から君の噂を聞いたんだ。僕達は、過去で仲間を選ぶわけじゃない。それだけは誤解しないでほしい。傷を舐めあうために集まったわけではないんだ」
 穏やかな物腰を崩さないトールにしては、強い語調だった。理不尽なわがままを言ったわけではないはずなのに、何故か居心地が悪くなる。真正面から挑んでくるトールの隻眼から、カイは目を逸らした。
「君から視えたものは」
 トールはうつむくカイの肩に手を乗せた。
「大きな二本の木が生えているうつくしい丘だ」
 瞳が見開かれるのを、止める術はなかった。戸惑いを隠せぬまま、カイはトールを見つめる。
「僕に視える過去は、その人物が一番気にかけている何かなんだと思う。君がどんな道筋をたどってきたのかは分からない。視えたのは、その丘だけだ」
 視界が曇った。カイは驚いて、慌てて片手で眼を覆う。
 村の傍にあった丘には、二本の大きな木が青々と枝を伸ばしていたものだった。その話は、誰にもした覚えがない。
「僕の能力はそれほど万能のものではない。それでも姫は僕の目を買ってくれているんだ。人を見る目を、ね」
「人を見る、目」
「昔から、芸と占い以外で誰かに求められたことなんてなかった。僕は姫にかしずいているわけじゃない。必要だと言われることがうれしいんだね、きっと。子どもと同じだ」
 口の端をゆがめ、トールは自嘲気味に笑った。
「そんなところで日向ぼっこでもしてるのかー?」
 下方から大声が飛んできて、ふたりの会話をさえぎった。
 並んで中庭を見下ろすと、バルコニーの真下に逞しい男の姿がある。カイは思わず身構えた。殴られた左頬がまだ、鈍い痛みを覚えている。
「訓練はもう終わりか?」
 身を乗り出して、トールが問う。男は玉の汗をかいていた。
「腹が減ったから今日は仕舞いだ」
 いかつい顔立ちの割には、男は随分と人懐こく笑う。すっかりと訓練場に改造された中庭を振り返って、引き上げるぞと声を張り上げた。中庭の中央では、先程まで彼と剣を交えていた青年が大の字になって転がっている。
 のろのろと立ち上がる青年を眺めたあとで、ようやくリーグはカイに気がついた。
 目が合って、カイは動揺する。顔がこわばるのが自分でも分かった。リーグもその青年が誰か分かったのか、わずかに目を瞠った。
「あん時は悪かったな!」
 ただ固まっているカイに、下方から大声が飛んでくる。
 先制攻撃で謝られてはどうしようもない。ふいと顔を背けるのも子どもがすることだ。
 かといって、痛い目に遭ったことを何事もなかったかのように振る舞えるほど、大人でもなかった。
「俺も、動揺してたし……」
 リーグから視線を逃がし、ようやくぼそぼそと呟いた。
 不器用な返答をする青年をまぶしそうに見上げ、リーグは後方にもう一度声をかける。早くしろたるんでるぞ。あとは何も言わず、城内に引き上げていった。
「フレイヤ姫は」
 バルコニーの縁に手をかけ、カイは遠くを見た。茂る森の向こう側に、うつくしい湖が広がっているはずだ。傾きかけた太陽が、橙のひかりで辺りを包みはじめている。
「なんで父親を殺そうとしてるんだ?」
 王侯貴族のことなどカイにはわからない。カイにとって家族とは、すべてを許すもの、互いを守るものだった。
 確かに、誤った道を行こうとするのならば止めもするだろうが、あんなにも淡々と他人に話せるものだろうか。
「俺はもう戦争なんて真っ平だ。ずっと、止めたいって思ってきた。だけど何をしたらいいのか分かんなかったんだ。レジスタンスだっていう噂の組織にいくつも出入りしたけど、軍の宿舎に放火するぐらいで、大した活動なんてしてなかった。皆分かんないんだよ、どうしたらいいのかなんて」
 石造りのバルコニーを握る手に、力が入る。
「でも何もしないでいることも出来なかった。黙ってるのは死んでるのと同じだ。……期待してる自分もいるんだ。ここにいて、もしかしたら今までどうすればいいか分かんなかったものが形になるかもしれないって。でももう、誰かに裏切られるのも誰かを裏切るのも、知らないうちに何かの道具に使われるのも嫌なんだ」
 数年前。まだ田舎を出て間もない頃。反戦の熱に燃えて、カイはとあるレジスタンス組織に出入りしていた。
 今になって考えてみれば、組織といってもちいさなものだった。しかし世間知らずな少年にとっては、自分や世界を変えてくれるかもしれないという期待と、自分も反戦のために戦っているのだという誇らしさを満たしてくれるものに違いなかった。
 組織のねぐらである酒場で下働きを始めて数ヶ月、身なりのいい老紳士がカイに近づいてきた。
 彼はカイに一通の書簡を携えてきて、自らはさる貴族の執事であると名乗った。
 主は現在の戦況にたいそう心を痛めている。立場上おおっぴらに君たちを擁護するわけにはいかないが、心はひとつである。自ら書かれた書簡に、詳しく主の心境はつづってあるから、是非読んでもらいたい、と。
 そして執事はカイに金を渡した。軍資金にしてくれ、と言うのである。
 金は金、綺麗もきたないもない。いぶかしみながらも、カイはその金を受け取った。執事との金の受け渡しは、数回に渡った。
 執事の態度は一貫して丁寧で、そのたびに熱意のこもった達筆の書簡を携えてきていた。
 何でもその貴族は王族にも連なる血筋で、それゆえにおおっぴらに反戦を唱えるわけにも行かず、かといって現状を看過は出来ない。執事を酒場に出入りさせるのも疑われるというのである。
 君はまだ子どもとはいえ賢い。是非今の現状をわたしにも教えて欲しい。手紙には繰り返し、そう綴られていた。まるで貴族から施しを受けているように見られるかもしれないが、是非理想のため耐えてくれ、と。
 酒場が焼き払われたのは、数週間後のことだった。
 皇帝に叛意をもつものどもの溜まり場であるとして、火をかけられたのである。
 カイの手には、金だけが残された。
 酔っていたのだ。自分が革命の戦士だと思い込んでいた。
 今になって考えてみれば、おかしな部分もたくさんあった。それだというのに気がつかなかったのは、見ようとしていなかったからだ。
 一体何をしていいのか分からない。そんな不安から目を逸らしたかっただけなのだ。
 カイは金を溝に捨て、その町を出た。
「僕らは君に物証を見せられるわけじゃない。たとえ見せられたとしても、それが信じるに値するかどうかは君が決めることだろうし」
 すこし強くなってきた風に目を細め、トールは踵を返した。
「ありのままの僕らを見てもらうしかない。もうすぐ夕食の時間だ、食堂へ案内するよ」



5.

「一応”あの方”と俺たちは、関わりがねぇことになってる」
 美しく整備された石畳を踏んで、カイとリーグは並んで歩いている。
 数週間に一度、必要物資を聖都に買い出しにくるのである。
 トゥオネラ城は、聖都から馬車で一日ほど離れている。大体のものはゼイドで手に入るが、聖都ブリガンダインには近隣では手に入らないものがたくさんある。大々的に仕入れを行うと人目につくということもあるので、仕入れは食料品や雑貨、武器防具などを別々な日に別々な人間が、数組に分かれて仕入れに出かけるという徹底ぶりだ。
 しかし、妥当な方針であるともいえる。トゥオネラ城と―――フレイヤ姫と反乱組織のつながりは、絶対に気取られてはならないものだからだ。
 伝え聞いた話によれば、姫はすっかり世俗を嫌ってしまい、めったに城を出ることもせず、気に入った楽師や芸人を呼び寄せては城内に住まわせているという。変わり者で享楽的であるというのがもっぱらの噂だった。しかしその噂も、あえて流させているのだという。
 傭兵まがいの男どもを大勢城に招きいれている、などという噂は決して立ててはならないのだった。
「あんたが楽師や芸人だっていうのは無理がある気がするけど」
 城に身を寄せて、いつのまにか一月近くが経った。未だにカイは自分の身の振り方を決めかねて、しかしただ飯を食らうのも気が引けて、雑用係を買って出ている。
 リーグの人柄は、生活を共にするうちに自ずと知れた。
 豪快という二文字がこれほど似合う男もいるまい。
 実直で公平、腕もたつ。あの城で中心的存在であるのもうなずける。
 だがカイは左頬に受けた拳の恨みをなんとなく引きずってしまい、素直になれずにいる。
「口の減らねぇガキだぜ、まったく」
 リーグは苦笑してさらりと受け流す。あくまで大人の対応をする彼を見て、本当に祠で自分を殴った人物なのかと時折いぶかしみたくもなる。
 あの日自分に掴みかかってきた男は、憤怒を瞳に燃やしていた。
 年の割にはいくつも修羅場をくぐってきたカイが、思わずすくみあがるほどの激情だった。だから、平素から荒くれ者なのかとずっと警戒していたのだが。
「こっちをおまえに任せる。用事が済んだら広場で合流だ」
「ちょっと待てよ、俺聖都はほとんど知らない……」
「聖都はひとが多いんだ。聞けば教えてくれるさ。それに簡単な地図も描いてある」
 問答無用でカイにメモを握らせ、リーグはさっさと歩き出しいる。
「ああ、そうだそうだ」
 大股ですこし歩いてから、呆然自失のカイを振り返る。
「一番下のヤツな、ご主人様の好物だからな。忘れると怒られるぜ」
 にやにやと口元に嫌味な笑みを浮かべて、リーグはカイの手元を指差した。
 カイは慌ててメモの最後に目を落とす。「マルガリテ・フラン」と書かれているが、一体なんの名前なのか、カイには見当もつかない。
「これって何……ってあれ?」
 メモから顔を上げると、既に男の姿はない。うまく巻かれたのかもしれない。
 こうやって、リーグは好んでカイをからかうのである。きゃんきゃんと犬のようによく食いつくので楽しいのかもしれないが、からかわれている側はたまったものではない。
 だから素直に相手を認める気になれないのだ。
「……やってらんねぇ」
 舌打ちひとつであきらめて、カイは簡素な地図を頼りに歩き出した。


            *


 扉を押し開くと、ベルの音が店内に響き渡った。
 最後に訪れた店は、首をめぐらせば見渡せるようなこぢんまりしたものだった。
 わっと湧き出した何かに、思わずカイは足を止める。
 なつかしさだった。
 こぢんまりしているとはいっても、聖都にある食料品店だ。カイが見て育ったような雑貨屋とは比べ物にならないぐらい洗練されている。店主の趣味がうかがえるというものだ。
 何処と似ているというわけではない。店にただよう雰囲気が、なぜか郷愁をさそうのだ。
 包み込むようなあたたかさがある。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの内側から細い声が迎えた。扉を押し開いたきり固まっていた自分にようやく気がついて、カイは店内に足を踏み入れる。
「ここに、マルガリテ・フランがあるって聞いたんだけど」
 カウンターの内側には細身の少女がいる。愛らしい顔立ちだが、表情はどこかこわばっていた。
 少女はちいさく頷いて、カウンターの中を移動する。
 カウンターの傍の、めだつ場所に置かれている菓子を示した。
 遠くから眺めるだけで甘い芳香に満たされる心地がする。どうやらチョコレート菓子のようだ。
 カイは吹き出しそうになるのをなんとかこらえた。あれほどまでに高圧的なふるまいをする姫の好物がチョコレート菓子だなんて。意外な一面を発見したような気がしたのだ。かわいらしいではないか。
 何とか笑いをこらえた顔が奇妙に歪んでいたのか、カウンターの向こうで店番の少女が怪訝そうに小首をかしげる。
 ゆるんでいた表情を、ちいさな咳払いとともにあらためた。
「おいくつですか」
 鈴をころがすような声で、少女がごくごく当たり前の問いかけをしてくる。しかし、それは難問だった。はたしていくつ買っていったものか。
 金の心配をしているわけではない。軍資金は多すぎるほどだ。
 すくなく買っていっても不興を買いそうだが、かといって多く買っていくのも気が引ける。女心はとてつもなく難しいのだ。
 件の菓子を目の前にして、カイは神妙な面持ちで悩んだ。
 ちいさく吹き出す声で、カイは我に返った。声を追うように顔を上げると、少女がこらえ切れない様子で笑っている。
「ごめんなさい、でも、あんまり真剣だから」
 思わず目のふちに浮かんだ涙をぬぐいながら、少女は詫びた。
 はじめは憮然としたカイだが、少女の邪気のない笑顔に苦笑して肩をすくめた。
「あんまりこういうの買ったことがないからさ、分かんないんだ」
 正直に白状した。
「ひ……、いや、ご主人が好きらしいんだけど」
 姫と言いかけて、慌てて飲み込む。少女は別に気にするそぶりもせずに頷いた。
「女のひとにあんまりたくさん買ってくのもアレかなって思ってさ」
 柄にもなく細かいことに気を揉んでいるカイに、店番の少女は甲斐甲斐しく世話を焼いた。日持ちの話や材料、甘さについて。
 気づけばカイの手には、おそらく適量と思われる菓子の包みがあり、会計も済んでいた。
「これで多分大丈夫だと思います」
 一仕事終えた少女は、カウンターの内側で微笑んでいる。

―――だいじょうぶ。

 ふと。
 包容力のある微笑に、なにかが重なった。
 どこか抜けている兄を、時にはっとするような大人の顔をして諭した、あの笑顔だ。
「どうかしました?」
 急に息を呑んだカイを、少女は不思議そうに見つめる。
 言葉が見つからないカイを救うように、背後でドアが開いた。
 軽快なベルの音が鳴り響く。
「あ、いらっしゃいませ」
「色々ありがとう」
 少女の視線があらたな客にそれたのを見計らって、早口に言って踵をかえした。
 背中に注がれる視線を感じたが、振り返らずに店を出た。どっと押し寄せる雑踏に戸惑いながら、いまさらながらに店を仰いだ。「グリース・リーブス」。それが店の名前らしい。
 せわしなく行き交うひとびとをぼんやりと眺めながら、カイは自分がずいぶんと動揺していることに気がついた。
 どうして突然、彼女に妹の面影を見たのだろう。
 エスリンが生きていたら、ちょうどあのぐらいの年頃かもしれない。けれど、今まで同じような年頃の少女を見ても、妹を思い出すことはなかった。
 店の前で立ち止まっているカイを怪訝そうに眺め、初老の婦人がグリース・リーブスのドアを押し開く。
 ちりんと響くベルの音と、客を迎える少女の声。
 高く、芯のある、声。
(ああ)
 美しい声のせいだ。
 エスリンも、村一番歌のうまかった母から譲り受けた、高く通る声の持ち主だった。
 ぴんと、張り詰めた弦を弾いたときのような、まっすぐ通る声。
 だから急に―――。
「こんなところにいたのか!」
 荒々しい足音と唸るような声が、カイを現実に引きずり戻した。相手を確かめるよりも早く、腕を掴まれる。握りつぶすような握力に、思わず眉根が寄った。
「何するんだよ」
「いいから来い」
 リーグはカイの二の腕を鷲づかみにし、引きずるようにして歩き出した。
 いつも浮かべているような調子のいい笑顔が掻き消えた、こわばった横顔に、カイはそれ以上抗わなかった。
 リーグは、門の外に停めてあった馬車までカイを引きずると、幌を捲り上げて荷台に押し込んだ。
「どうしたんだよ」
 押し込められるまま荷台に乗り上げてから、カイはようやく声を潜めて訊いた。
「おまえは先に城に戻れ」
 カイに次いで荷台に乗り込んだリーグは、自分の荷物をそのあたりに下ろすと、何やらあたりをひっくり返している。やがて彼が隠してあった剣をつかみ出したのを見て、カイは息を呑んだ。
「何が……」
「情報収集させてた奴が捕まった。買出しに連れてきた奴らは皆先に返したんだ。あとはおまえだけだ」
「待てよ! 馬車全部返しておまえ、どうするつもりなんだよ!」
「声がでけぇんだよ!」
 大きな掌がカイの口元を覆う。
 噛み付かんばかりの勢いで、碧眼がぐっと間近に迫った。
「俺はな、仲間を見捨てやしねぇんだ。大儀のためにいらねぇ枝葉を切るようじゃ、帝国がやってることと変わらねぇ。意固地だって思われてもいいんだ。俺はそう決めてる」
 青い瞳に、あの日の激情を見た。
 フィヤラルの祠で自分を殴り飛ばした男の目だった。
 滾るような、怒りの色。
「俺も行く」
「おまえは駄目だ」
 菓子の入った包みを起き、自分の荷の中から短刀を引きずり出すカイの手を上から押さえつけ、リーグは唸るように言った。
「……簡単に死ぬなんて言うなって、俺をぶん殴ったのはこの腕だろ」
 自分を押さえつける屈強な腕。忌々しげにその腕を睨んでから、カイは挑むように顔を上げた。
「馬車全部返して、あんたひとりで何処に行くって言うんだ。腕が立つのは知ってるけどさ、俺には死にに行くとしか思えないんだよ!」
 ふつふつと煮えたぎる怒りを感じていた。急激に腹の底から咽喉もとまでせりあがってきた激情だった。
 理不尽だ。
 あの日。死んでやる殺せと自棄になった自分を殴り飛ばした腕ではないのか。その腕を持つ人間が今度は、ひとりで敵陣へ飛び込んで行こうとしているなんて。
 筋が通らない。納得できるものか。
 この男はそんな自棄を起こすような男ではないと思っていたのに。
 裏切られた気がした。
「仲間を見捨てないってのは立派だよ。けどさ、それで皆死んだら仕方ないだろ。別に殴りこみに行くわけじゃない、連れて逃げるんだよな?」
 男の双眸に煮えたぎっていた激情が、水をかけられたように消えた。
 あっけに取られたように瞠られた瞳がやがて、何かまぶしいものを見つめるように細められた。
 ぐっと上から押さえ込んでいた腕の力を抜いて、カイを解放する。
 そして、その右手をカイの頭に乱暴に乗せた。
「すぐ戻る。ここで待っててくれ」
 リーグの声はカイの頭上を越え、御者台へ飛んだ。
「何か顔を隠すもん、持ってこい」
 不服そうに口を捻じ曲げているカイの額をはたいて、リーグは荷台を降りた。



6.

 エバート祭は下町、特に移民が多く住まう地区では格別のお祭りだった。「イドゥナの聖人」のひとりである彼は、移民にも多く慕われていたのだ。人に好かれ、常に人への感謝を持つ――その教えは、この祭日に受け継がれている。
 春の訪れにさきがけてやってくるこの祭日は、日ごろ親しいひとへ感謝の気持ちをお菓子に添えて伝えるという慣わしがあった。
 このエバート祭が近づくと、下町のどこもが賑やかになる。メインストリートより雑多な飾りが町のあちこちに飾られ、「グリース・リーブス」も例外なく忙しさに見舞われる。何しろ「マルガリテ・フラン」への注文が殺到するのだ。聖都で唯一扱っている店というだけでなく、他の店で扱っていない珍しいものも、グリースはどこからか仕入れてくるのだ。奇っ怪なカエルのかたちをしたチョコレートだの、食べるのが惜しいような繊細な鳥や花を象ったキャンディーだのと。またジュビアもこの祭日には腕によりをかけてお菓子を大量に作るのだ。ケーキやクッキーをこしらえては、それをきれいに包んで店に置けば、たちまちなくなる。ときには注文を受けたものをエデが届けることもあった。
 その日も、エデは外へ出ていた。注文分のクッキーを届け終わって、腕にさげた籠はようやく空になった。あちこちを歩き回ってはいたが、行く先々でねぎらいの言葉を受けたせいか、疲労はそれほどでもない。
 「グリース・リーブス」では、頼まれればお客の自宅まで買った商品を届けるという配達サービスを行っていた。もっぱら運び役をつとめているのは店主でもあるグリースだったが、こまごまとした日用品やかさばらない程度の食品はエデが届けていた。お世辞にも治安がいいとは言いにくい下町で、しかも少女がひとりで出歩くのはあまり誉められたことではなかったが、それでもエデは配達を止めようとはしなかった。すこしでもグリース夫妻の役に立ちたかったのだ。
 そして、街に慣れたかった。店のなかに閉じこもっているだけではわからない、外の情報を知りたかったのだ。店にやって来る人の大半は移民で、彼らの話題はもっぱら国政に関して、住みにくくなるといった程度のことでしかない。どんどん働き口が減って、どんどん物価が高くなる――そういったことを実際に外に出て感じなければ、とエデは思っていた。どんな些細なことでも逃さずに。そうすれば、いつか糸口が見つかるかもしれないのだ。
 皇帝と対峙するための。
 最近、このあたりでも「ドラゴンバスター」と呼ばれるレジスタンスの活動が耳に入ってくるようになった。ありとあらゆる場所で、ブリガンディア正規軍の行動を次々に邪魔しながら、鮮やかに消えていく――いつからか、「ドラゴンバスター」と呼ばれるようになった由来を、エデは知らなかった。
 ただ、彼らの存在を歯がゆく思っていた。
 彼らと志は同じだった。皇帝を倒す。だが、それはエデのなかでは、誰かの助けを得て果たすことではなかった。集団ではなく、個人で。誰の助けも借りずに――そのために、エデである証を捨てたのだ。
 彼らに先んじられてしまっては、意味がなくなってしまう。
 焦燥にさいなまれながらも、エデには自分でどう動くべきなのか、わからずにいた。自分に良くしてくれたあの夫妻に迷惑をかけることなく、それでいてすんなりと王宮にでも忍び込めるような機会が、いまのエデにおいそれと降ってくるはずもなかった。
 どうしたら、どうしたら――。
 口元に手をあてて考え事に夢中になっていると、目の前が暗くなった。誰かに道を遮られたのだと気がついたときには、もう、遅かった。エデが顔を上げるより早く、がっちりと腕をつかまれ、狭い路地に引きずり込まれる。悲鳴をあげようにも、口元を厚い手でふさがれて、くぐもった声しか出せない。 それでも暴れていると、相手も焦れたのか、壁に体ごと叩きつけられた。痛みに呻きながらやっと見えた相手は、見覚えのある顔だった。そうだ、「グリース・リーブス」のはす向かいにある仕立屋の主人・ウルバーノだった。まるい体格に見合う温厚な人柄を、近所に住む誰もが好ましく思っていた。その人物が、泣きそうな顔でエデを見ていた。
「悪いな、あんたに恨みはないんだ」
 心底済まないと思っている口調で、ウルバーノはそう言うと、エデの顔の前に裁縫用のハサミを突き出した。よく手入れの行き届いた鋭い切っ先が、エデから抗う力を奪っていく。
「『ラインの乙女』なんてもんに選ばれたら、うちのリアは生きて帰れない。だったらいっそ、この手で『ラインの乙女』を作り出して――」
 ウルバーノの手が震えているのがわかった。事情はよく飲み込めなかったが、ウルバーノが本気でエデを傷つけようとしているのは確かだった。殺される――そう思って目をつぶったとき、金属が地面に落ちる音が耳に入った。
 薄く目を開くと、ウルバーノが手にしていたハサミが地面に落ちていた。狭い路地に、もうひとり。 ルスランと似たような背格好の少年だった。頭巾を被っていて顔はわからなかったが、そこから覗く眼光は鋭く、ウルバーノに向けられていた。持っていた短刀をかざしながら、少年は告げた。
「何をしている。早くその子から手を放せ」
 口調は有無を言わさぬ強いものだった。ウルバーノはエデと少年とを交互に見比べた。思わず後ずさったエデだったが、それが遅れた。男の手がエデの首元へとのびてきたのだ。太い指がエデの首元に食い込む。息が詰まるその瞬間、ウルバーノが叫んだ。
「お前がなればいいんだ。『エデ』なんだろう? 『ラインの乙女』と何が違うっていうんだ! 邪教の巫女があれには相応しいじゃないか!」
 自分の名を汚された気がして、一瞬にしてエデのなかにウルバーノに対する怒りが湧いた。この場で死ぬなら、この男を八つ裂きに裂いてから死ぬ――そう思ったとき、ウルバーノの指から力が抜けた。
代わりにエデの髪が数本、空を舞う。
 少年が持っていた短刀を壁に向かって投げつけたのだ。動きの止まったウルバーノに向かって、短刀を拾い上げた少年はもう一度言った。
「その子から手を放せ。関係ないだろう」
 だが、ウルバーノは自国語で何事かわめいて、その少年へ体当たりを喰らわすと、一目散にその場から立ち去って行った。
 一気に緊張がとけたエデは、自然とその場に座り込んだ。さっきまでは怒りで我を忘れていたが、やがてぶるぶると体に震えが走った。
「……ってぇ」
 ぶつかった拍子に頭巾が落ち、少年は身を屈めてそれを拾った。そして、エデへ手を差し出す。「立てるか?」
 見上げた顔に、エデはどこか見覚えがあった。確か、この少年は――。
「カイ、何してる早く来い!」
 男の怒声が響いた。名を呼ばれた少年は慌てて頭巾を被ると、路地を飛び出して行った。
 残されたエデは、やがてよろよろと立ち上がり、落ちたままのハサミを広い、持っていた籠に入れた。ウルバーノに返すつもりだった。
 今は不思議とウルバーノに対しての怒りが波のように引いていた。ただ、彼はしきりに「ラインの乙女」という言葉を繰り返していた。

――『エデ』なんだろう? 『ラインの乙女』と何が違うっていうんだ! 邪教の巫女があれには相応しいじゃないか!

 「ラインの乙女」とは、何者なのだろう。イドゥナ聖教と関わりがあるものであることは間違いがなさそうだった。だが、「エデ」のように唄を捧げる者なのだろうか。名前を捨てないと決めた時点でうすうす素性が知られることも覚悟はしていたが、やはり面と向かって言われるのは堪えた。
 吐息をつきながら、エデは空を仰いだ。いつのまにか、空はきれいな夕焼けに染まっていた。一体何処をどう歩いたのか、メインストリートの喧噪が聞こえる場所まで来ていた。
 いつも以上にひとが多い。だが、明らかに世界の違う向こう行くのも憚られて、エデはぼんやりと立ち止まっていた。
 すると大きな歓声と共に、ひとがメインストリートに溢れてきた。姿かたちはさまざまだ。明らかに移民だとわかるような風体の輩も、おそらくは広場の方からどっと押し寄せてくる。
 そのなかのひとりに、ドン、と勢いよくぶつかられて、エデは転んだ。人々が口々に「ドラゴンバスター」「やっぱり現れた」と言うのが、頭上から降ってくる。
「ご気分でも悪いのですか?」
 しゃがんだままのエデの目に、つやつやとした革靴が飛び込んできた。身なりのきちんとした相手は、エデの腕をつかんで立たせると、落ちていた籠をさしだした。
「無理もありませんね、あんなものを――」
 そこで、相手は言葉をさえぎった。次にその口から出たのは、エデの名だった。「エデ?」
 名を呼ばれて顔を上げると、そこにはフロイデンタール家の執事・サディードが立っていた。片手に白い花を持っている。ソラリスの花だ。もしかしたら、「グリース・リーブス」に寄ったのだろうか。
 その声なき問いに答えるかのように、サディードが口を開いた。
「さきほどお店の方にお邪魔したのです。白いソラリスは、聖都ではなかなか見かけないもので――あなたのお店なら、あると思ったのです。お陰でわたしの用も済みました。要らぬ騒ぎにも巻き込まれてしまいましたがね」
 苦笑しながらそう言ったサディードは、全身を黒い服で包んでいた。背の高い彼が着ると、それは実によく似合っていた。このメインストリートに立っても、いくらの見劣りもしない。
 確か、ルスランと別れたのは、まだ寒くなる前だった。それから間もなく、ルスランは全寮制の国立士官学校へ進んでしまった。そこから何度か手紙が届いたのだが、エデはすべて、封をしたまま机にしまっていた。封を開く勇気もなければ、捨てる勇気もまた、なかったのだ。
「お変わりはありませんか?」
 サディードはエデのエプロンについた埃を払いながら尋ねた。思いがけず助けてもらった相手に、エデはふたたび身を強張らせた。
「ルスランは……元気にしていますか?」
 すると、意外そうな顔でサディードは片眉を持ち上げた。そして静かに首を振った。
「いいえ。レオン様――ルスラン様のお兄様にあたる方がお亡くなりになりまして。ルスラン様とお年は離れておいででしたが、たいへん仲の良いご兄弟でございました」
「亡くなったって――」
 エデは机のなかにしまったままの封筒が、脳裏に浮かんだ。あのなかのどれかに、そのことについて書かれていたかもしれないのに。
「レオン様は、騎士団のおひとりでございました。優秀なお方で、士官学校をお出になってから、すぐに正騎士となられて――近々、ご婚約をなさるはずでした。わたくしどもも、それは楽しみにしていたのですよ。それがこのようなことになって……遠征地での、名誉ある戦死との報せですが、ご遺体も戻らず……奥様はあまりのお嘆きからか、ずっと伏せっておいでです。今日この花を求めましたのも、奥様のお心がすこしでも和らげばと思ったのですが――……」
 サディードは抱えていた白い花束に視線を移した。確かルスランの故郷・ヘイムダルで咲くという花。その花を一輪、「エデ」の名前に相応しいとルスランがくれたのは、そんなに遠いことではなかったはずだ。
 サディードは何も言わないエデを気遣ってか、明るい調子で言った。
「申し訳ありません、お引き留めしてしまいましたね。お店までお送りしましょう。すぐに暗くなりますし、あんなことがあった後です。何かあったら大変ですから」
「そんな。慣れてますから。それに、あんなことって――」
 すると、サディードはあたりを伺いながら小声で囁いた。「ドラゴンバスター、ですよ。彼らが捕まった仲間を救うために現れたのです。広場に白昼堂々と。大立ち回りをして、ね」
「ドラゴンバスター」
 そういえば、さっき転んだときも、行き交う人々の口にその名前が上っていた。
「最近、活発に動き回っているレジスタンスですね。正規軍でも躍起になって取り締まりを強化しているようですが、神出鬼没でなかなか捕まえることができない――やっと仲間のひとりを捕まえたのにも関わらず、逃してしまったのですから。まだこのあたりに彼らがうろついているかもしれません。あなたひとりで歩くのは危険ですよ。わたしがルスラン様に叱られてしまいます。さ、参りましょう」
 サディードに促されて、エデはその背にぽつりと訊ねた。「……ルスランは、今も士官学校に?」
 背の高いサディードは、エデの歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれていた。振り向きながらこくりと頷いてみせる。
「エバート祭がはじまる頃にご卒業されますよ。こちらに一時お戻りになるかと思われます。またすぐに騎士団の任務にお着きになるのでしょうけれど」
 騎士。
 その言葉にエデの胸が締め付けられる。ブリガンディアの兵となる。容赦なくひとを傷つける、恐ろしい存在。
 あの、ルスランが。
「……騎士になるということは、そんなに偉いことなんですか? どこか遠いところで戦って死んでも、家族のもとに帰れないだなんて」
「――ルスラン様も、直前までお悩みになっていらっしゃいました。行くべきか、留まるべきか。あのルスラン様が、それこそ寝食をお忘れになるほどに。けれど、ご決心なすったのです。決して人を殺すためではなく、人を守るために、騎士になるのだと仰って」
 その言葉に、エデは不快感を露わにした表情でサディードを見た。
「詭弁だわ、そんなの」
「ええ、わたしもそう思います。所詮ひととひとは、分かり合うことなど出来ないのです。力と力ではっきりと優劣を決めねば、気が済まない。ルスラン様の抱いておられる理想は、いつかこのような現実に砕けてしまうかもしれません……けれど、わたしはルスラン様を信じておりますよ。ひととひとは分かり合えない、けれども、いつかは分かり合えるときが来るのだと信じさせてくれる――ルスラン様は、そんなお方ですから」
 ご存知でしょう、とサディードは言う。だが、エデは答えられなかった。まっすぐと前を向くと、狭い路地に備え付けられたランタンがぽつぽつと火を灯し、薄闇の向こうに「グリース・リーブス」が見えてきていた。もうすぐそこだ。夜の帳が落ちる寸前まで開いている店は、稀だった。店じまいをしたところは、ランタンに火を灯す。それがここの約束事だった。だが、仕立屋のランタンにだけは、火が灯されていなかった。店のなかはとっくに暗い。咄嗟にエデのなかで、さっきの出来事が蘇る。ウルバーノはあの後どうしただろう。
 エデは立ち止まると、サディードへ深々と頭を下げた。やはり、ひとりで帰るのは心許なかった。とくにこの仕立屋の前をひとりでと居る勇気はなかったに違いない。
「ありがとうございます。送っていただけて助かりました」
「では、ひとつ頼まれてはいただけませんか」
 サディードは背筋を正したまま、目つきを悪戯っぽく緩ませた。こういう表情をしたサディードは、外見よりはるかに若々しく見える。実際、グリースよりいくらか年上なのだろうが、
「エバート祭の日、ルスラン様が屋敷にお戻りになります。大好きな『マルガリテ・フラン』をひとつ、届けてくださいませんか。ええ、時間はいつでも構いません。出来れば、あなたの直筆のカードを添えていただけるとありがたいのですが」
「……わたし、まだヴァール語がうまく書けないんです。それでもよければ」
「構いません。きっとルスラン様もお喜びになります」
 サディードは微笑みながら頷き、片手をあげて路地の向こう、メインストリートへ歩いていった。その背を見送り、エデは店に入ろうとした。ジュビアは帰りの遅いエデを心配しているだろう。昼間のように明かりを灯して。
 ドアに手を掛ける。小気味よく鳴った鈴の音とともにエデを迎えたのは、泣いているウルバーノの妻・カーラとそれを慰めるジュビアだった。
「お帰りなさい、エデ。さ、奥さん。そろそろご主人も戻って来るだろうし、何より娘さんが可哀相よ」
「あの子のそばに居るのが辛いのよ!」
 カーラはハンカチを握りしめながら、カウンターを強く叩いた。「あの子が『ラインの乙女』だなんて――改宗なんかするんじゃなかった。そしたらあの子はもっと長生き出来たかもしれないのに。ああ、あたしのせいだ。聖都へ行こうなんて思いついたあたしたちが間違ってたんだわ」
「そんなことないわ。イドゥナの教えを守ったから、いまのあなたがあるんじゃないの。責めてはいけないわ。この国ではそうしなければ生きていけないのだから」
「だったら、リアを返してよ! どうしてあんなにいい子が、『ラインの乙女』なの。目が見えなくても、一生懸命あたしたちを気遣って。今朝だってそうよ。震えていたけど、宣告を静かに受け入れてこう言うのよ。『おかあさん、わたしやっと、役に立てるわ』って。そんな馬鹿なことってある?」
 可哀相なあたしのリア。
 カーラはがっくりと肩を落としたまま、店を出て行った。そのときちらりとエデと目があった。エデもリアのことは知っている。エデと似たような背格好の、盲目の少女だ。カーラ譲りの金髪の少女で、仕立屋の窓際に座って、手を器用に動かしてウルバーノの手伝いをしている姿をよく見かけていた。
 ジュビアはカーラを見送ってから、店のランタンに火を灯した。閉店という印だ。やや疲れたような顔で、ため息を吐く。
「遅かったのね。何かあったのかと心配したわ。広場では何かあったようだし、もしかしてあなたがそんなもめ事に巻き込まれたのではないかと思って」
「ごめんなさい。でも、サディードさんに送っていただいたから大丈夫よ」
 するとジュビアは安心した顔になった。
「ソラリスの花を買いにいらしたわ。あなたのこと、心配していた。ルスランも大変そうね……こんなとき、あの子の笑顔が近くにあれば、お母様も立ち直るんでしょうけど」
「……ね、ジュビアさん。『ラインの乙女』って、なに?」
 するとジュビアの顔色が変わった。
「あなたは気にしなくていいの。さ、すこし片づけて、家で食事にしましょう。あのひとも待ってるわ」
「ね、教えて。カーラさんは泣いていたわ。リアが『ラインの乙女』に選ばれたって、それはどういうことなの?」
「……『ラインの乙女』というのはね、エデ。神様の言葉を伝える巫女のようなものよ。生まれつき盲目であることは、世の中の穢れを見ずに済む、イドゥナに愛されている証だといってね――神の代理人として、戦場へ連れて行かれることもあるの。戦場の兵士達を鼓舞するために、ときに、命を落とすこともあるわ。エバート祭の終日に、リアはここを離れて、王宮の神殿に入るの。皇帝陛下から『ラインの乙女』として、洗礼を受けるためにね。そして、何処かの戦場へ連れて行かれるのよ」
「リアが?」
「今朝、新たな乙女として召し出されることが決まったようなの。カーラさんは取り乱して……ご主人のウルバーノさんもどこかに居なくなってしまうし。大変だったわ」
「そう……」
 まさかその居なくなったウルバーノがエデを狙っていたとは、口には出来なかった。そう、だからあのとき、ウルバーノはエデを狙ったのだ。エデの素性を知り、リアの身代わりにしようとしたのだ。決して殺すのではなく。
 その意図を知って青ざめたエデの肩を、ジュビアが撫でた。
「気にすることはないわ。それを断る術はないのだもの。逃れられない――リアには可哀相だけれど、誰も代わりにはなれないわ」
 ジュビアはもふたたび重々しいため息を吐く。本当はこんな言い方もしたくはないのだろう。だが、拒んだところでどうにもならないのは目に見えていた。誰もが同情しながら、心のなかでは助かったと安堵しているのだ。
 エデはリアのことを考えていた。
 盲目の少女。だがそれを気にしてふさぐでもなく、この界隈でも評判のいい少女だ。悪く言う者はいない。
 自分とは対極にいるような少女――そして、ある決意をかためつつあった。


 翌朝目覚めたエデは、配達用に使っている籠のなかに、裁縫用のハサミが入ったままだったことに気がついた。ウルバーノが使っている、大きくて重いハサミだ。早く返そうと思ったのだが、あの夜とうとう、ウルバーノの店のランタンは灯らなかった。しんと静まりかえって、ひとが居る気配すらない。今朝も、店を開けてもいい頃合いなのに扉は閉まったままだ。
 店の前できびすを返し、午前中の配達を済ませてしまおうと思ったとき、背後でカーテンを引く音と窓が開く音がした。
 振り返ると、窓辺に立っていたのは金髪の少女――リアだった。彼女はじっとエデの居る方向を凝視していた。見えぬ目で気配を察していたのかもしれない。
「おはようございます。今日はいいお天気ですね」
 にこやかに話しかけたリアに、エデは途惑いながらも返事をした。「おはよう、リア」
「エデ? まあ、どうしたの、こんなに早く。わかった、また届け物ね」
「ええ。お祭りが近いから、いろんなところから注文を頂くの。ね、リア。ウルバーノさんはどうしたの? 姿が見えないようだけど」
 するとリアは悲しげなくぐもった声で答えた。「寝ているわ。昨日遅く、お酒をたくさん飲んで帰ってきたの。そんなにつよくもないのに……きっと、あたしが『ラインの乙女』に選ばれたことがショックだったんだわ」
「あなたは……そうじゃないの?」
 妙に悟ったようなリアに、エデは訊ねた。すると落ち着き払ったなかに悲しげなものを漂わせながら、リアは答えた。
「この国に住むめしいた女は、誰しも覚悟はしているもの……世の中の見にくいものを見ずに済む恩恵を返すときがきた。ただ、それだけよ」
 リアの言葉に、エデは返す言葉もない。それを察してか、リアは訝しむように首を傾げた。「どうかしたの、エデ。うちに何か用があるんじゃないの?」
「いいの。まだ配達の途中だから、午後に寄るわ」
「そう。待ってるわね」
 リアの微笑みに、エデの心は締め付けられる。エデは急いで、その場を去った。始めは急ぎ足で、次第に足は速まり、エデはいつしか夢中で駆けだしていた。
 リアのうつくしい心に打たれていた。
 以前は自分もああだったのだ。無心だった。けれど今は違う。憎しみに理性が壊れてしまった。夜毎に、すこしずつ、自分が自分でなくなるような気がする。復讐という言葉に、何もかも乗っ取られてしまいそうになる。
 殉教者のような、澄んだ心には、もう戻れない。
 二度と歌えないのと同じだ。
 今更ながら、自分の失ったものの大きさに気がついて、エデは震えていた。配達の途中であることも忘れて、下町の往来で立ち尽くしているエデを、周囲の不審そうに見る。
 エバート祭のにぎわいに乗じてか、通りのあちこちに露店が並んでいた。色とりどりのテントが並ぶなかを、誰かとすれ違いざまにぶつかる。それでもエデは呆然としたままだった。
 何度目かぶつかって、エデは道のわきに倒れ込んだ。両手をついて立ち上がり、痛みに顔をしかめながらも、今更ながらあわてて荷物を確かめる。幸い籠のなかに入っているものは無傷だ。ほっと胸をなでおろしたエデに、声が降ってきた。
「お嬢ちゃん」
 それは、目の前にある紫色の小さなテントからだった。そのなかから、真っ青なローブをまとった女が顔を覗かせていた。耳に幾重にもつけた金の輪がしゃらしゃらと涼しい音をたてる。
 長い睫がゆっくりとしばたいた。
「寄っていかないかい?」
 周囲のテントより、ひとまわり、ふたまわりも小さなそれに座っていたのは、目鼻立ちのはっきりとした女だった。ジュビアと同じような年にも見えたが、それよりもっと若くも見える。不思議な雰囲気を持つ女だった。頭からすっぽりとかぶったローブで髪の色はわからないが、黒曜石のような瞳には、えもいわぬ静謐が――湖のような、包み込まれる静けさがある。
 女はエデを上から下までじっくりと見定めると、右手を差し出した。腕に巻かれたアクセサリーもまた、金だ。細い金の輪が二重三重にもつけられていた。薬指と中指にはめられた指輪も、金。
 女は改めて微笑むと、自らを名乗った。
「あたしの名前は、マリカ・アシャラ。ここいらじゃ凄腕で通ってる占い師だよ」
「占い師?」
 胡散臭そうな表情のエデに、女は胸を張って答えた。
「そう。あんたの顔に変わった相が出ているから気になってね。なに、お代は要らないよ。あたしがあんたに興味があるのさ。さ、ここへお座り」
 女は手招きしてテントへとエデを誘う。エデは迷いながら、意を決してなかへ進んだ。占いを信じるような質ではなかったが、「変わった相」と言われたのがひっかかったのだ。
 ちいさなテントのなかは、ふわりと甘い香りがした。花の香り。そう、ジャスミンだろうか。
「さ、ここへ座って。その顔をあたしによおく、見せてごらん――あんたの過去も未来も視てあげるからさ」
 女はそう言いながら、両手でエデの頬を挟んだ。途端に目の色がうっすらと白くなる。黒かった瞳の色はたちまちに失せ、それと同時に、嵐のような、抗いようのない恐怖がエデを襲った。先ほどまでの心地よい静けさは皆無だった。襲いかかる、荒々しいものがエデを丸飲みにしようとしている。
 怖い、と思ったが、それより先に女が呻いた。
「ああ……ひどい……」
 何が見えたというのだろう。エデは思わず身を引きそうになった。が、女の手がエデを離さない。
「……契約をしたの。そう……よっぽど思い詰めていたんだね、あんたは」
「離して」
 エデは大きく身をよじった。女の手から逃れると、思い切り女を睨みつけた。しかし、占い師だと名乗る女は動じる様子もなかった。
「全部視たよ。あんたの背負っているもの、全部ね」
「……信じない」
「信じなさい」
 女はぴしゃりと言うと、エデの瞳を真っ直ぐに捉えた。
「ひとを信じなさい。逃れようとしてはだめだ。自分の背負っているものの大きさから逃れたくて、ひとりになろうとするのはお止し。助けようとする手はいつだってある。あんたが拒まなければいつだって」
「そんなもの、何処にもない。もう、わたしはひとりだもの」
「今までにも居ただろう? 同じさ」
 女はさばさばした口調で言うと、かたわらに置いてあった煙管をくわえた。ゆらゆらと煙を吐き出し、なおも言う。「現に今も。あんたは迷ってる。違うかい? 信じようとしたくて、でも怖くて焦っている。憎しみの火を消したくないんだ。本当はもっと静かになりたいのに。あんたの名前の誇りが、それを赦さないんだね。哀れな子だよ」
「あなたに哀れんで欲しくない。わたしはわたしのしたいようにしているもの」
「唄を捨てて、かい。なら結構なことだよ。ついでにもうひとつ教えてやるよ。あんたのしようとしていることは、余計なことだよ。運命を変えようとすることだ。運命ってのは、受け入れるもの。けどね、ときには抗うことが必要なときもある。すごくエネルギーがいるけどね」
 女はエデに透明な小瓶をちらりと見せた。細い口の華奢な瓶に、液体が入っているのがわかる。思わずエデが手をのばそうとすると、女は意地悪くさっとそれを背後に隠した。
「おそらくあんたがこれからしようとしていることに、この薬が必要になるだろう。ほんの僅かな時間、目が見えなくなる秘薬さ。だけど、今はあげないよ。覚悟が出来たらおいで。運命を変える覚悟がね。ラルウァと契約したときより、もっともっと強い覚悟が必要だよ。何しろあいつとの契約はまだ成立しちゃいない。けど、あんたがこれからしようとしてることは、待ったなしなんだよ――そうさ、自分が死ぬことを自覚するぐらいの」
 女は涼しい顔で微笑みながら、手を払った。行け、というしぐさだ。エデは腰を上げ、テントから出た。すぐには動く気になれなかった。
 すべてを見透かされていた。誰にも明かしたことがないのだ、契約した魔物の名前も。何を契約したのかも。
 だが、その大事に抱えてきたすべてを言い当てられたのだった。暴かれたという方が正しいかもしれない。エデは放心したまま、歩きはじめた。
 明後日に控えた祭の準備は、もう大詰めに入っていた。移民の多く住むここでは、イドゥナの聖節を祝うというより、単なるイベントとして楽しみにする向きが多いのだが、メインストリートの方はまるきり異なっていた。いつも以上に念入りに掃除された通りは、並木にもきらびやかな飾りがつけられ、祝いの浮かれた雰囲気がそこかしこに漂っている。
 ジュビアや行く先々で訊いた話では、このメインストリートを祭の終日、「ラインの乙女」たちが輿に乗って通るのだという。神殿へ向かうまでの長い道のりを運ばれる乙女。そして、神官長をつとめる皇帝じきじきに、洗礼を受ける――。
 そのときがチャンスだと、エデは思っていた。もし、エデが万に一つ皇帝に近づくことができるとすれば、それは「ラインの乙女」になること以外にはないのだ。
 エデは占い師の言葉を反芻しながら、一歩歩くごとに言葉の重みに押しつぶされそうになっていた。けれど、もう進む以外の道はないのだ。


 ウルバーノの店が開いたのは、午後も遅くなってからだった。その日に頼まれていた分の配達と仕事を終えたエデは、ジュビアに断って、仕立屋を訪れた。今朝返せなかったハサミを返すためだった。
 茶色のドアを開けると、響いたベルに、窓際に座っていたリアが顔をあげた。笑顔で「いらっしゃいませ」と応対する。
「わたしよ、エデ」
「まあ。ごめんなさいね。もし何か頼みたいものがあるのなら、置いていってくれるかしら。あいにく父はあまり――繕い物程度ならわたしが出来るのだけど」
 リアは椅子からゆっくりと立ち上がると、店の真ん中に置かれた大きなテーブルをつたいながら、カウンターに立った。
 エデはそれを助けながら、リアの手を握って言った。
「リア、ウルバーノさんとお話がしたいの。呼んでくれる?」
「でも、父は――」
「お願い」
 エデの口調に、断りきれないものを感じたのだろう。リアは仕方なしにカウンターのベルを鳴らした。何度か響くベルに、奥の方からどすどすと、不機嫌な顔のウルバーノが現れた。
「リア、客なんか――」
 ウルバーノはエデを見て目を剥いた。エデは静かに、ハサミをカウンターの上に置いた。
「これをお届けに。それと、お願いがあって」
「リア、部屋に戻ってなさい」
「お父さん?」
「いいから、早く!」
 自然と大きく、強張るウルバーノの声に、奥からカーラも顔を覗かせた。「ちょっと、何事なの」
「いいえ、リアにも聞いてほしいの。『ラインの乙女』を、わたしに変わってください」
 それは、あまりにも唐突な申し出だった。エデは胸の前でこぶしを握りながら、真っ直ぐにウルバーノを、そしてカーラを見た。
 突拍子もないその申し出に、その場に居た誰もが言葉を失っていた。先に口を開いたのは、カーラだった。
「あんた、何を――」
「『ラインの乙女』のこと、ジュビアさんから聞きました。わたしはもともと金髪だし、リアと背格好もそっくりです。あとは、わたしの目が見えなくなればいいだけ――リアとわたしが入れ替わっても、誰も気がつかないわ。乙女は揃って、盲目で金髪の少女と決まっているのでしょう? きっとうまくいくわ」
 エデの言葉に、ウルバーノは喉を絞るように呟いた。「あんた……欺けというのか、神官を」
 リアも父親の言葉に頷きながら、エデの腕をつかみ、揺さぶる。
「無理よ、エデ。第一、そのためにあなたは……不自由なく見える目を失ってもいいというの? もしわたしを哀れんでいるなら、そんな哀れみは無用よ。わたしは、やっと役に立つことができたとほっとしているんだもの――目が見えなくて、迷惑ばかりかけているわたしが、やっと誰かのために何かできるのよ」
 エデは違うの、と首を横に振る。左腕をつかむリアの手に自分の右手を重ねて、言った。
「ご存知の通り、わたしはリーリャの生き残りです」
 エデの告白に、再びその場にいた三人が息を呑む。リーリャという名前は、移民のなかでも禁句に近い。無惨に焼き払われ、その歴史も名前も奪われた見せしめの村――その生き残りがいるらしいという噂は聞いたことがあるが、それがまさか、この少女だったとは。
 エデは毅然とした口調で続ける。
「わたしは、復讐をしたいのです。そのためには、どうしても王宮に入り込む必要があります。『ラインの乙女』は、王宮にある神殿へ入ることが出来るのだと聞きました。だとしたら、わたしにとってこれほどの機会はないんです」
「……そのために、光を失っても構わないと言うの? それに、神殿に入ったからって、復讐の機会があるわけじゃないのよ?」
「それでも、このままここで暮らし続けるより、はるかに機会が増えるでしょう?」
 エデにそう言われて、リアは手を離した。この少女が言っていることは、ひとかけらも嘘のない、本気なのだ。
 本気であの暴君を討とうとしている、それも、たつたひとりで。
「ええ。毎日わたしが触れるものは、故郷の人々には永遠に触れられないもの――いないひとたちをずっと思い出してばかりの日々は、辛い。かといって、忘れられないの。だったら――賭けたい」
 それが、エデを名乗りつづける理由でもあるのだ。女神の娘でありながら、誰ひとり守ることはできなかった。もちろん、「エデ」に何か特異な能力が授けられるわけではない。ただ、唄だけが、彼女に与えられたものだった。
 それも奪われて、けれど、黙って安穏と暮らしていくには重過ぎる過去。
「――わかった」
「お父さん!」
 リアが非難の声をあげたが、ウルバーノはなだめるように諭すように言った。
「お前だってわかってるだろう。『ラインの乙女』が生きて家族のもとに帰れることがないのを――お前はおれの大事な娘だ。目が見えなかろうと、関係ない。その娘の無事を親が願って、それはわがままか? 現に……昨日、おれはエデを襲ったよ。リアの身代わりにしてやろうと思った」
「お父さん――」
「軽蔑するだろう? だがエデはこうして来てくれた。大事なおれのハサミを返しに。だったら、危険は承知で、エデの言うとおりにしたい。聖都でなくとも、家族がひとつの場所で暮らせるんなら、そうしたいんだ」
 ウルバーノは懇願するようにリアを見た。
「……わたしは、一生エデに感謝し続けるわ。そして、後悔し続けるんでしょうね」
 リアは俯いたまま呟いた。
「たとえその理由が何であろうと、わたしを助けるために身代わりになってくれるひとが居たことを、忘れないわ。だから、エデ」
 リアの手がふらふらと虚空をさまよった。やがてリアはエデの手をつかまえると、ぎゅっと力をこめて握りながら、言った。
「必ず生きて帰って。無事に戻って、声を聞かせてね」
「ええ、必ず。わたしこそ、あなたたちに迷惑をかけてしまう。ここに、居られなくなってしまうかもしれないし、もし、入れ替わっていることがわかったら――」
「あんたが気にすることはない。それはこっちでうまくやる。大事な娘が奪われて、誰が正気で居られるというんだね。店を閉めて地方へ、そうだな、うんと離れた場所へ行っても何の不自然もないだろう」
 ウルバーノはそう言うと、エデの両手を握りしめた。
「ありがとう。あんたには感謝している。感謝してもし足りないくらいだ」
 エデは複雑な心境で、その力強さにうなだれていた。感謝されるようなことではないのだ。成功する確率は半分にも満たないだろう。盲目だと偽って神殿に入っても、もし、エデの素性が知られてしまったら、たちまちこの家族は引き裂かれる。それだけではない。もしかしたら、グリース夫妻にだって、迷惑がかかるかもしれないのだ。
 それほどの危険を冒してまでも、自分のわがままをエデは通さずにいられなかった。もうこんな機会は二度とない。
 唇を噛んだそのとき、心のなかで久しぶりにあの声が響いた。

――よぉ。久しぶりだな、エデ。

(ラルウァ)

 エデに森のなかで契約をもちかけた魔物だった。正しくはクァールという種類の魔物らしい。黒豹に似た生き物だったが、長い髭を威厳たっぷりにゆらゆらと揺らしている。金色の目が闇で光るのを見たときには、エデはもうおしまいだと思ったものだ。

――かっはっは。やっぱりお前と契約して良かったよ。存分に楽しい。お前が自分の都合で動くのを見ているのは、下手な芝居よりよっぽど愉快だよ。それもそろそろ終わりそうだけどな。
 忘れるなよ。お前が使える魔法は、そりゃあ何だってできるスゴい魔法だ。不可能はなにもない。だけど、使えばお前はたちまち歌声を失う。いまのきれいなきれいな声を失って、一生涯自分で効くのも恐ろしいような声になっちまう。それこそ、口を開くのも恐ろしいような、誰もが卒倒するような、誰もお前のそばに居られなくなるような。
  待ってるぜ。早くそのきれいな声を、おれにくれよ?

 憎たらしい捨てぜりふを残して、魔物――ラルウァの声が途絶えた。
 契約を交わしてから、ラルウァはたびたびこうして心へ声を届かせる。エデがいつまで経っても魔法を使わないことを気にしているのだ。
 確かにラルウァに言われたとおりだった。傲慢に自分の都合ばかり、押し通してきた。でもねそれももうすぐ終わる。もうすぐ、解放される。
 皇帝相手に、復讐を遂げたら、なにもかも。



 話で訊いていた住所を頼りに、エデはフロイデンタール家を訪れていた。エバート祭を明日に控えて、ざわざわと昂揚しつつあるメインストリートをひたすら歩いて、歩いて、エデの足では小一時間もかかる、高級住宅街。中心部にある公園のあちこちに見られる小城のひとつ。それが、ルスランの住むフロイデンタール家のものだった。窓にはめこまれたガラス細工が、陽光に照らされてうつくしい。そしてその光が、エデの前に進むのを阻むのだった。

――エデ、会いたい。
 
 あれからエデは、机にしまったままだったルスランからの便りを開いてみた。サディードに店まで送り届けてもらった日だ。いろんなことが一度に起きて、気分が落ち着かず、寝つけなかったせいもある。
 ベッドに入りながら、月に何通も送られてきたその手紙を、エデは届いた日ごとに順番に目を通していった。片手にペーパーナイフを持ち、蝋封のなされた古めかしい手紙から、おそらくはエデのために簡易な文章で書いたものと思われるルスランの丁寧な文字が目に飛び込んでくる。筆記も綴りがよくわかるように、ひとつひとつがとにかく丁寧に。蝋燭の灯でたどたどしく文字を追いながら、ときに辞書をひいて、エデはゆっくりと読んでいった。
 近況を知らせるものがほとんどだったが、それは日を経るごとに過酷なものへ変わっていく。仲間のひとりが訓練中に死んだ、と書かれて以降、それは顕著になった。気遣ってくれていた字も荒れ、まるでエデにあてているのではなく、自分に言い聞かせるかのような文面がえんえんと続いていく。
 最後の手紙を開いたとき、エデはぞっとしてね思わず目を背けた。そこに書かれていたのは、最初の頃のような整った文字ではなかった。
 たったひとこと――会いたい、エデ。
 インクのしみが目立つその一枚の便せんが、さいごに届いた便りだった。エデは手にした便せんを急いで封筒に押し込むと、床一面に広がったルスランからの手紙を眺めて呆然とした。
 彼が変わってしまった――予感でも何でもない、それは確信に変わっていた。
 そのせいか、どうしても足が前へ進まない。サディードと約束したカードも、「マルガリテ・フラン」も用意したのに。
 ルスランが戻って来ているとは限らない。早く呼び鈴を鳴らして、カードと品物を渡して戻りたかった。何より、明日はエデにとって大切な日なのだ。その準備をしなければならない。
 でも、もし、ルスランが居たら――変わってしまった彼を、見たくはなかった。エデが知っているのは、お菓子が好きで、人に好かれて、明るい、そんな少年だ。別れたときにひどい言葉を投げつけてしまったけれど、本心で敵にはしたくないと思っていた。
 けれど、彼が本当に変わってしまったのだとしたら、エデは彼とも戦わなくてはならなくなる。欺いて、傷つけて。
 今まで以上に。
 フロイデンタール家の立派な門の前に立ちながら、エデは苦悶していた。なかなか指が呼び鈴を鳴らせない。
「ようこそお出でくださいました」
 エデが顔をあげると、長身のサディードが通用門の向こうに立っていた。門を開くと、エデの抱えていた包みを受け取った。包みに添えられたカードを見て、サディードは微笑んだ。
「……約束を果たしてくださったのですね」
「ヴァール語は上手ではありませんけれど」
 恥ずかしそうにエデは答えた。まだまだヴァール語に自信はなかった。うまい言葉も選べなかった。だが、サディードはその真意を汲んでくれている。
「ルスラン様は昨夜お戻りになられました。お疲れのご様子で、まだお休みですが――どうなさいます、お会いになりますか?」
 気のせいかやつれた表情のサディードは、エデに訊ねた。エデは不思議に思った。どうしてそんなことをわざわざ訊くのだろう。サディードはルスランにエデを会わせたかったのではないのだろうか。今ではまるで、それを避けているかのようにも思える。
 わずかな沈黙。サディードは首を頭を振る。
「申し訳ありません。折角お呼びしたのに。いえ、むしろお会いにならない方が――」
「なにが、あったの?」
 思わず問いかける声が震えていた。だが、背後から若い女の使用人がこちら駆けて来た。「サディード様、サディード様。早くお越しを」
 サディードがため息を吐く。「今行く」
「ねぇ、一体なにが」
「エデ」
 通用門を開き、エデを敷地のなかへ招き入れると、サディードは思い詰めたような顔で言った。
「ルスラン様は、以前とはすこし、ご様子が違います。言葉と態度に気をつけて――折を見て、わたしがあなたをお送りします。いいですね」
 エデはおそるおそる、舗道の先に見える屋敷を見上げた。小城だ。噴水のあるポーチ、緑に溢れた庭。開かれた両開きの重たそうなドアからは、螺旋を描く階段が見えた。
「参りましょう。ルスラン様がお待ちです」
 階段を前に踏みとどまるエデの背を、サディードが促す。だが、それより先に上から軽快な音が響いてきた。
「サディード! サディードは何処だ」
 明るい栗色の髪を振り乱してやって来たのは、ルスランだった。すこしの間見ないだけだったのに、ルスランの身長は以前よりずっとのびていた。少年の面影はもうそこにはない。
「こちらに、ルスラン様」
「エデ」
 ルスランの目が留まった。エデは思わず弾かれたように身を固くした。ルスランは階段を駆け下りると、あっという間にエデの前に立った。
「会いたかった、エデ」
「ルスラン、あの、わた――」
 言葉を継ぐよりもはやく、エデはルスランの腕のなかにいた。首元にルスランの吐息とうわごとのように自分の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。「エデ、エデ――会いたかった、エデ」
「ルスラン様」
 たしなめるようにサディードがルスランの肩に手をおき、ふたりを離れさせた。エデはすっかり驚いていた。自分の身に何が起こったのか、うまく把握が出来ない。サディードの背後に隠れた。
 ルスランはなおもエデのそばに寄ろうとする。それに抗うことができなかった。
「エデ、時間はあるんだろう? きみにたくさん、お土産があるんだ。ドレスに靴に――きっときみは見違えるよ。そのへんの貴族の女より、ずっとずっときみのほうが綺麗だ。ああ、エデ、ほんとうに会いたかった」
「ルスラン、わたしまだ配達が残っているの。知っているでしょう。この時期はとても忙しくて」
 おずおずと申し出たエデだったが、ルスランの手は離れなかった。
「平気だよ。ほんのすこしでいいんだ。部屋で話をするぐらい、構わないだろう? ぼくはとても、きみに会いたかった。本当だよ、どれだけこのときを待ち望んだか――」
 ルスランは手を引き、庭へとエデを連れ出した。背後からサディードがついてくる。それをもどかしそうにルスランは横目で見ている。
「あいつ、ぼくを監視しているんだ」
「え?」
「――きみを、妻に迎えたいと言ったんだ」
 エデの足が止まった。いま、ルスランは何て言ったのだ。
 だが、ルスランは動じることはなかった。背の丈ほどもある植栽の葉をいじりながら、何てことはなさそうに話を続ける。
「いま言った通りだよ。エデ、ぼくはきみが好きだ。きみは、ぼくのことが嫌い?」
「待って、ルスラン。あなたは、貴族で……わたしはただの移民なのよ。あなた言ってることがわかってて?」
「そんな身分なんてどうでもいい。生まれで差別される世界なんて間違っている。きみもそう思うだろう? だったらぼくらが結ばれて、どう生まれても幸せになる権利はあるのだと教えてやればいいんだ。違う?」
 そのために、血を吐くような努力をしたんだ。
 ルスランはそう呟くと、握っていた葉をぎゅっと握りしめた。「きみのために、変わった。ぼくのいまの地位を知ったらきみはきっと驚くよ。卒業して、中隊長を任された。同期のなかでは一番の出世だ。卒業すれば自動的に小隊長を任されるけれど、ぼくはそのひとつ上だ。じきにレオン兄さんの位に追いつくよ。そうすれば、もう誰も何も言えない。ぼくは、古くさい貴族連中とは違う。着飾って言いなりになるような女は嫌なんだ。きみが――」
「お兄さんが亡くなったって、訊いたわ。わたし、何も知らなくて……ごめんなさい、お悔やみも遅くなってしまったわ」
 話を変えようとエデが口にした兄の名に、ルスランの顔色が変わった。侮蔑の表情だ。エデは胸がしめつけられるようだった。以前のルスランなら、こんな表情は絶対にしなかった。
「エデ、きみにだから教えるよ。リーリャ殲滅作戦を指揮したのは、レオン兄さんだ。そのときに連隊長を任されていたよ。きみの村が焼け落ちていく、その手先だったんだ。どう、それなら悲しくもないだろう?」
「……どうして、亡くなったの?」
 エデは自分の体が強ばっていることに気がついた。唇を噛み、じわり、じわりと抑えきれない憎しみが広がる。それは、ルスランの兄・レオンに対してではない。
 ルスランに対してだった。
「ああ、南部の戦場でね。ドラゴンバスターとかいう連中にやられたんだ。あんなレジスタンス相手に殺されるなんて――兄さんは、愚かだ。むざむざやられて、彼らの名を上げるなんてね。おかげでぼくの卒業後の進路も危うくなった。もっとも、ぼくは兄さんのようにはならない」
「忘れたの、ルスラン。わたしはあなたの敵なのよ。わたしだって、あなたを殺せる。ただ、そうしないだけ」
「それは、エデがぼくのことを愛していて、そうしたくないだけだよ。大丈夫。きみの復讐はぼくが手伝うよ。皇帝の力なんて、実際今は名もなき影のようなものなんだ。人前に現れない皇帝を誰が敬うというんだい? 戦にしてもそうだ。政にも手を抜き、軍事会議にも参加しない。噂では病に伏せっているともいう。遅かれ早かれ、きみの復讐は果たされる」
 話にならない。エデはきびすを返して、遠くでこちらを伺っているサディードの方へ歩いていった。彼の言ったとおりだった。以前のルスランではない。自分の話ばかりで、相手のことが全く見えていない。
 おそらくエデのことも、見えてはいないのだ。
「……あなた、変わったわ」
 留めようと手を伸ばしたルスランに、エデは冷たく言い放った。「以前のあなたじゃない。わたしの知っているルスランじゃない」
「ぼくはぼくだよ、エデ」
 ルスランがゆっくりとエデに近づく。エデの顎に指が触れた。背筋を走る悪寒に、咄嗟に顔を背けようとしたエデだったが――遅かった。
 ルスランの唇が重なった。舌がエデの唇をそろりと舐める。見開いたエデの両目に、薄く笑うルスランが映った。
 殺意が湧く。だが、それより早く体が動いた。エデの右手が、勢いよくルスランの頬を叩いた。
「馬鹿にしないで」
 もう振り向きたくもなかった。ただ、悔しさだけが胸にあった。ルスランのあの顔。女はこうすれば言いなりになるとでも言うような――そういう女は嫌いだと言いながら、そういう扱いをするようになってしまった彼の好きにさせてしまった悔しさ。
 サディードは何事も言わず、いたわるようにエデを馬車に乗せた。舗道をがたがたと走る最中も、エデは一言も発しなかった。
 キスされた瞬間に、ラルウァの名を呼ばなかったことだけが幸いだった。もしあの名を呼んでいたら、これから先の大事をなすことはできなかったはずだ。
「申し訳ありません。やはり、お会いにならない方が良かった」
 サディードは深々と頭を下げた。だが、エデは無言だった。
「旦那様も奥様も――困惑しておいでなのです。レオン様の葬儀にも参列なさらず、どうしたも