砂漠の頭
ゆり
――渋谷のバーで飲んでいた女性ふたりのうちひとりが突然倒れ、その後病院に搬送されましたが依然意識不明の重体です。診察の結果急性アルコール中毒で倒れたわけではないことだけは明らかになっているものの、原因は不明のままです。このようにして倒れる成人が増えていることから、国民の中には新種の伝染病ではないかという疑いが広がっています――
朝の慌しい時間帯に、四角い箱の中から流れっぱなしになっているニュースの破片が食パンをかじっている私の耳にちらりとざらつきを残して頭の中に吸収されてくる。私は溜息をついて、これからパートにでかける準備のための厚化粧をしている母に言った。
「最近増えてるね、こういうの」
「え、なにが?」
母は厚化粧に夢中でニュースなど耳に入っていなかったらしい。私だって、この関連のニュースでなければ右から左へと全部、キャスターの喋る言葉は無駄に空気中に気化していくだけだ。興味を持つわけでもないのに、何故か我が家では毎朝決められたルールのようにニュース番組をかけている。そのルールを破った人間は誰もいない。
「意識不明の重体になる人が増えてるねって話。こないだも新宿であったよね。今月に入って何人目だっけ」
「さあ、いちいち数えてないけど」
母は興味を示さないらしい。私だって、自分に無関係のテレビの先の出来事になんて、ほとんど感心を示さない。感心があるのは、無関係じゃないからだ。
私はパンを食べ終えると学校用の鞄を背負い、化粧に熱心な母の方を向いて言った。
「じゃあね。いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
母はつけっぱなしのテレビも私のことも見ずに、声と掌だけで私を見送った。そんな軽いやり取りはもう常套になっているけれど、その軽さこそ家族という感じがして、私には心地がいい。
だから適度な笑顔で外にでた。外は相変わらずまぶしい朝で、水色のシャツを着た私の制服姿は夏の太陽といかにもマッチしていただろう。
夏休みに入ってから久しぶりの活動日だと言うのに、エアコンのない部室にはやる気のなさが身体中から溢れている部員しかいなかった。まあ元々、この文芸部にやる気のある人間が入部するなんて奇跡に近いことなんだけど。
無言で蒸し暑い教室に入ると、髪の毛が真っ黒なくせにいつも目だけは大きく輝いている小動物みたいな後輩がいつも通り懐いてきた。
「先輩、おっはようございます!」
「うん、おはよう。で、今日はなんかするわけ? それともいつも通りの雑談でオッケーなわけ?」
うーん、と首を傾げるとさらさらのおかっぱに近い髪が揺れ動いて、蛍光灯の明かりを反射して目と同じように輝いた。
「先生からはなにも言われてないんですけどお」
「うん、じゃあ絶対なにもしないね。そもそも文芸部のくせにパソコン室でやらないところがおかしいよね。暑すぎだっての」
「まあ、部誌発行とかの時期にならなきゃ誰もなにも書きませんしねえ」
「裏では書いてんのかもしんないけどね。菜摘ちゃんみたいに」
にや、っと嫌な感じの笑顔で後輩に笑いかける。この部活の中で、まともに文章を書いているのなんてこのおかっぱ頭の元気っ子だけだろう。他の部員は暗くて私なんかとはまともに喋らないからわかんないし、そもそもこの部活はヒマ潰しの雑談と顧問からの差し入れ目当ての部活なのだ。あとは部活に属していますよ、という大義名分のみ。
「先輩だって、書いてるんじゃないんですか? 去年の部誌見せてもらいましたけど、すっごくよかったです」
「お世辞は止めときな。私お世辞でつけあがれる程単純じゃないからさ」
「本当ですってば!」
菜摘ちゃんの言葉をかわすように笑いながら、適当なところに鞄をおいた。中身は飲物とお弁当ぐらいしか入っていない。なにしろ、ここはヒマ潰しの場所だから。
さらっと菜摘ちゃんのお世辞を交わしたつもりだったのに、菜摘ちゃんは真剣な顔でまだ喰らいついてきた。
「私、先輩の小説読んでここに入ろうって思ったんです。先輩と仲良くなりたいって思ったからここにいるんですよー!」
「私なんかと喋ってると友達減るよ」
「減らせません。だって、先輩の小説おもしろかったですから!」
会話が噛み合わないのは、この子が天然だからなんだと思う。でも事実、私なんかとつるんでいれば友達は恐れ多くて近づけないだろう。なにしろ、私としては理由はよくわからないけど、後輩にも同級生にも怖がられている。別に悪いことのひとつもしていない――とは言い切れないけど、学校内で悪いコトをしていると言ったら髪が脱色しすぎて明るいことと、無闇に空けまくったピアスぐらいだ。一応校則で禁止されているから結構な率で教師陣からお説教をもらうけど、私は基本的に気にしない。
「あのお話、最初に読んだ時からずっと忘れられないんです。しかもなんかあの設定って、いまの時代にすごく合ってるっていうか、真実味があるっていうか……」
菜摘ちゃんはまだ必死にお世辞を続けるみたいだ。あの小説に関しての感想その他諸々はなにくわぬ顔でいつも交わしている。だけど今回は、菜摘ちゃんの言った真実味≠ニいう言葉に、惹かれた。
真実味、ねえ。まあ私が作った話じゃないから、誉めるべきは私ではないんだけど。
「ねえ、菜摘ちゃん」
「え、はい?」
必死にお世辞で私を口説こうとしていた菜摘ちゃんは唐突に声をかけられて、返事は上擦った。そこらへんがまだ幼さを感じさせてくれて可愛い。
「あの話、そんなに気に入った?」
「そりゃもちろん!」
即答で返って来る。
黒板の上の時計を見ると、まだ十時にもなってない。どうせヒマ潰しなのだから――私は、菜摘ちゃんの必死さと可愛さに負ける形で、白状することにした。
菜摘ちゃんなら信じてくれそうな気がしたのと、あとは、私の得意な気まぐれだろう。
まあ座りな、と言いながら私は自分の隣の席を指差した。菜摘ちゃんは従順にその椅子に座る。
「あの話さ、実は続きがあるっていうか。正直にバラすと、本当にあった話なの」
軽快に、私は喋り始めた。目の前には菜摘ちゃんの驚愕する可愛い顔がある。
朝からあんなニュースを見た所為だろうか。それとも、最近やけにアレに関する報道が増えている所為だろうか。
それとも、現実味が増してきて、私でも自分自身に嘘と偽ることができないとわかってきているからなのだろうか。
この日、私は蒸し暑い中、心が急きたてるように無性に誰かに話したくなってしまったのだ。
今この日本で起きている事件の、裏側を。
「信じてくれるかな」
めずらしく苦笑する私。それでも、その後には菜摘ちゃんの興味津々と言った風な笑顔が待ち構えていた。
「もちろんです! 聞かせてください、その話」
私は菜摘ちゃんに静かに笑いかけ、昔語りを始めた――
*
私はその時、気づくと迷子になっていた。その当時はそんなことはしょっちゅうあって、しかもどうして迷子になったのか、どうしてその場所にたどり着いたのか、ということがいつもわからないのだ。私はその現象に慣れていた。物心つく頃から、というと平凡だけれど、記憶の底の自分はすでに見知らぬところで迷子になっている。
私はまだ小学四年生だった。その日は丸襟の白いシャツに苺の刺繍がちらばっている服と、赤いプリーツスカートを履いていた。私はそんな少女趣味な服を持っている覚えが全くなかった。
ああ、まただ。また変なところに来ちゃった。そう思いながら、私は見知らぬ場所を歩いた。いつもは大抵知らない街なり公園なりだったのに大して、その日は初めて、森という場所で迷子になった。黒に近い緑が生い茂っていて暗い。土の匂いも、なんだか鼻につく。まるでおばけ屋敷みたい、と思った。お化け屋敷のおばけなんて偽者だということは、生まれた時から知っていたけど。
土はコンクリートのように固くはなくて、なんだか歩きやすい。だから、よく知らない場所なのに私はどんどん進んだ。恐怖心などどこにもない。だって、どこを見渡しても何も見えないから。あるのは木と土だけで、遠くに太陽の光がまばらにちらつくのに足元まで届かない。だけど、怖くない。
私が迷子になる場所にはいつだって、私以外の誰もいない。小学四年生という年齢を考えれば普通ならばそれこそが恐怖の対象なのだろうが、私にとっては安堵の塊のようなものだったのだ。
私が恐れるものはここにはいない安堵感。
私はいつも通りに迷子を楽しんでいた。迷子になる時だけは平和なのだ。他に誰も存在しない。その安堵感は平和で、心から純粋に生きることを楽しめる。
なのに――その森は、いつもの迷子の場所とは違っていたのだ。
私以外が物音を発するはずもない世界の木陰から、急に足音と茂る木を避けるような人的音がして私は驚いて立ち止まった。そこにあるはずのないものが、ある。
私は叫びだしそうになって、その声を喉の中で壊した。
「あんた、そこでなにしてるの」
叫び声をあげなかったのは、その声が鼓膜に響いたからだ。響いた。そう、確かに響いたのだ。それは本当に、声だった。
「ま、迷子」
私以外の人間がいるはずがないという自負があったためか、私はどもりながらも答えた。恐怖が一瞬にして再び安堵に変わった所為で戸惑いが生じる。
森の中は暗い。太陽は地面まで届かない。だから、その人の姿が見えるまで、私は立ち止まったまま声の主が近づいて来てくれるまでの数秒の間お利巧な人形さんのようにじっとしていた。
木陰からでてきたのは、女の人だった。肩までの赤茶色い髪に、さらに真っ赤なカチューシャが似合う。地面まで光は届かないのに、偶然なのかなんなのか、彼女の耳の軟骨部分につけていたダイヤモンドみたいなガラス玉のピアス――だと思う――が光る。
「迷子って、あんたどっから来たの」
「お姉さんは、どこから来たの?」
お姉さんは全身真っ黒だった。まるでお葬式のような格好だ。黒いノースリーブに長い長い黒いスカート。横に切れ目が入っていて、チャイナドレスみたい。
お姉さんは私の質問に答えようとして口を開いたけど、すぐにそれを取りやめたのがわかった。口をぎゅっと結び直したからだ。
「いま質問してるのはあたし。行儀悪いなあ。さあ、あんたどっから来たのか言いなさい」
きつい口調に溜息までつかれると、なんだか怒られているような気分になる。学校の先生に怒られた時のことを思い出してしまって、目と鼻が熱くなった。泣きそうになったから俯いた。
「……わかんないの」
――なんで陽子ちゃんはみんなと仲良くできないの? 先生はグループを作りなさいって言ったのよ。ひとりで立ってなさいなんて言ってないのよ。
本当にわからないから、そう答えるしかなかった。でもこの後きっとお姉さんは私を怒るに決まってる。学校の先生はいつもそうだからだ。どうして、どうしてばかり聞いてくるけど、私には何もわからない。
わかるのは私が普通の子とは違うんだっていうことだけなのに。
怒られると思って俯いていたのに、お姉さんは夏の小川みたいな涼しい声で「そう、まあそうだろうね。わかんなくて当たり前だわ。あんたちゃんと色のある服着てるものね」
私は驚いて顔をあげた。お姉さんが気づいて、地面を見ていたらしい視線を私に合わせる。
「なに?」
聞かれて、困る。なんて答えたら良いんだろう。怒ってもいない相手には、なんて言えばいいのか私にはわからない。だって先生はいつも怒っていて、お母さんはいつも私のことなんて見ないから。
急に泣きたくなった。急に不安が頭から降ってきた。なんでだろう、いつもは迷子になることが楽しいのに。なんでか、どうしようもなくこの場所にいるのが悲しくなってしまった。なんで自分がこんなところにいるのかわからなくて、泣きそうになる。でも泣いたりしたらいけない。泣いたりしたら怒られる。泣いたりしたらまた、また、変なやつらが私の頭の中に声を忍ばせてきてしまう。私以外の何かに私をとられてしまう。
ここはいつもの迷子の場所じゃない。だって、私以外に人がいる。
いつも通りじゃないとことがものすごく怖くなってきた。
泣いたらいけないと思ったから、精一杯目に溢れてくる涙を顔に零さないようにがんばる。俯いたら涙が落ちてしまうから俯けない。
知らない場所で、知らない人に出会って、そんな人にまで嫌われるのは怖い。いつもなら悲しいだけなのに、今日はひたすらに怖かった。
「あーもう、泣かないの」
面倒くさそうに言いながら、苦い笑い方をしてお姉さんはしゃがんで私と目線を合わせた。苦くても、笑ってる。どうして?
「あたしは華那っていう名前で、お化けとか幽霊じゃないし、ちゃんと人間だから。ね、だから泣かないでよ。あんたのこといじめたりとかしないからさ、ね」
「お姉さん、お化けのこと、信じてくれるの?」
驚いて一瞬だけ不安も恐怖もなにもかもなくなった。だって今この人からは、お化けでも幽霊でもないって言葉がでたんだ。私が変なこと言う前に、そう言ってくれた! みんなが気味悪がって、先生は怒って、お母さんは無視するのに、お姉さんは笑いかけてくれてる。よく見れば苦い笑顔じゃなくて、困った笑顔だった。
「お姉さんじゃなくて、華那って呼んでよ。お姉さんとか呼ばれなれてないし。で、はい。あたしが名前言ったんだから、次はあんたの番だよ」
「え?」
「え、じゃなくて、名前なんていうの」
お姉さん――かなちゃん(かなさん、と呼ぶよりも、この人にはかなちゃん、の方が似合っている気がする)は私のことを指さして、今度は困ってないきれいな笑顔でそう聞いた。
何故だか私は、自分でも不思議なぐらい必死になって答えていた。
「春日陽子。陽子っていうの」
「そう、陽子ちゃんね。いまいくつ?」
「お姉さんは?」
「だから、先に答えなさいって。答えたら教えてあげるから」
「十歳! 四年生になったばっかりだけど、四月生まれだからもう十歳なんだよ!」
私は聞かれもしないのに、余計なことまで答えた。かなちゃんには、全て話したくなった。全てを理解してくれるような気がしたからだ。
「なんだ、もっとガキかと思ったのに。あたしはね、十八。本当なら高校生やってる年だよ」
一瞬、かなちゃんは年を誤魔化しているのかと思った。十八歳にしては大人っぽいと思ったのだ。でもたぶんそれは、服の所為だと思う。赤いカチューシャをさした顔だけ見れば、確かに高校生の人たちとそんなに変わらない。
「さあてと、自己紹介が終わったので」とかなちゃんは言い、立ち上がりながら後ろを見た。長くない髪の毛の先が風と遊ぶように揺れる。綺麗な色、と思っていたら、かなちゃんは急に私に向き直って、唐突に私の手を掴んだ。
私はその突然の動きにもびっくりしたけど、かなちゃんの手が暖かいことにほっとしたりもしていて、そんな隙があったから、私は危うく死ぬところだった。
かなちゃんが私の腕を力任せに引っ張る。私は転びそうになってかなちゃんの細い腕に抱きとめられた。
びっくりして後ろを見たら、私がいた場所に咲いていた花も草も消えて、すぐ近くにあった木はホームランバーを横からかじったみたいに、欠けていた。
「なに――」
「陽子! 走るよ!」
かなちゃんは私の手を掴んだまま引っ張って走り出した。すごく早い。森の中で、木も草もたくさんあって邪魔なのに、かなちゃんの走り方は草や木の方がかなちゃんを避けているのかと思うぐらいスムーズに走る。その後をついていくだけの私は校庭よりも走りやすい土の道をかなちゃんに置いてかれないように必死に走りながら、さっきのえぐれた木が目のすぐ近くでちらついていた。
あれは一体なんだったんだろう? なんの音も、なんの声も、誰の気配もしなかったのに、かなちゃんだけは気づいていたみたい。もし私があのままあそこに突っ立っていたら、どうなっていたのだろう。
かなちゃんの足は長くて、一歩一歩が大きくて、私は今までの人生のなかで一番早く走ったと思う。
たくさんたくさん走って私も疲れてしまって、足もそろそろ痛くなって動かなくなりそうになった頃、空気を思いっきり吸って吐いてをくり返している私に合わせるように、ゆっくりと立ち止まった。
かなちゃんが振り返る。かなちゃんも肩ごと息をしている。
それでも私たちふたりとも、汗なんか一滴もかいていないし暑くもなかった。
「うん、ここまで来れば、平気だな。あいつもついてきてないみたいだし」
「あいつ、って、だれ」
「え?」
かなちゃんに手を握られたままの私はその場に座ることもできず、とにかくたくさんの空気を吸っては吐いてをくり返していた。かなちゃんも肩ごと息をしているけど、私ほどつらそうじゃない。手をつないでいない方の手は腰に当てられている。
「あ、ごめんね。とりあえず座ろうか。疲れたっしょ」
言って、少し先に明らかに誰かが置いたと思える横長の石の上まで歩いて座った。隣に手を置いて、私を目で呼ぶ。「ここはあたしの隠れ家みたいなもんだから、そう簡単に見つからないから安心しな」私はかなちゃんに呼ばれるがままその隣にちょこんと、少し遠慮気味に座った。
何から聞けばいいのかわからなくて、それでもさっきと同じ質問をくり返す勇気はなかった。かなちゃんは答えたくないから答えないのだと思ったから。それでも、違っていたらしい。
「うーん、陽子はなにも知らないんだよね?」
「なにが?」
かなちゃんは優しく笑って、「やっぱりそっか」と言う。私に優しい笑顔が向けられるなんて初めてで戸惑って、だけどすごく嬉しい。びっくりするぐらい心があったくなる。
「陽子は、うーん。なんていうのかな。いいや単刀直入に聞くよ。傷ついたらごめん。あんた死んだ覚えない?」
「死んだ覚え?」
「うん、例えば病気で入院してたとか、事故にあったとか、誰かに殺されたとか」
かなちゃんは最後の言葉もさらっと、なんでもないことのように言った。顔までも涼しい。
「ううん、ないよ。私、いつもなの。いつも知らないうちにどっかに迷っちゃってて……でも、いつもは私以外誰もいないの」
かなちゃんには思い当たるところがあったらしい。正面に向かってやっぱりね、わかったと言って、頬杖を付きながらこっちに向き直って聞いた。
「幽霊見えるでしょう?」
かなちゃんはみんな、さらっと言う。先生もお母さんも学校のみんなも誰もが口に出しにくいことをさらっと、本当に当たり前のように言う。私はこんなことを聞かれたのは初めてで、嬉しかった。
「なんでわかったの!?」
私はたぶん、顔中に喜びが浮かんでいたと思う。
「まあ、おいおい話してあげる。ちょっとややこしい話だから順番に話していかなきゃ混乱するだろうからね」
そう言って、頬杖のついていない方の手がすっと私の目の前に伸びた。私は反射的に身体が竦んでしまう。だって――私の目の前に手がだされた時はいつも、ぶたれる時しかないから。
なのにかなちゃんの手は私に強い衝撃を与えることもなく、静かに私の頭にのせて、なでた。撫でられたのだ、私は。
「いままで、つらかったでしょ。こんなにガキんちょなのに。よくがんばったね。よく、生きてたね」
優しい声が何を意味したのか、一瞬では理解できなかった。何を言っているのかよくわからなかった。少しの間私は固まって、かなちゃんの優しい顔を見つめたまま、意味がわかった頃には自制なんてしようもないすごい勢いで、心臓が痛くなって涙がぼろぼろほっぺたに零れていた。
声もでてしまう。かなちゃんの言葉が、私の重くて重くて、地面に沈みこんでしまいそうな程に重たかった気持ちをやわらかくほどいて軽くしてくれたみたいだ。今まで誰もわかってくれなかったことを認めてくれて、私のことをわかってくれた喜びが重たかったすべての過去に羽をつけたように鍵をかけた心の中から飛んでいく。痛みと一緒に身体中に流れてくる。その痛みが心臓あたりに集中して痛くて、だけど私は嬉しくて泣いていた。
かなちゃんは涙のレンズ越しに揺らめきながら、笑顔でいてくれているのがわかった。お母さんも見せてくれたことのない笑顔だ。この相手がかなちゃんではなくてお母さんや先生だったら、私はどれぐらい解放された気分になるだろう。どれぐらい楽になるんだろう。かなちゃんよりもきっともっと嬉しくてたまらないに違いない。そう思ったら悲しさが生まれてきて、慌ててその考えを消し去った。ありえないことだ。
かなちゃんが私の心を引き出してくれて、軽くしてくれる。私はかなちゃんのことを全然知らないのに、それだけで信じたくなった。しがみつきたくなる。私にはかなちゃんしかいないような気がしてならなくなる。
「かなちゃん……」
「ん?」
涙はまだ止まらない。だから、かなちゃんの顔はまだ揺らいで見える。だけど優しく首をかしげたのだけはわかった。
「かなちゃん、ここ、どこなの? どこ? なんで私、いつも迷子になっちゃうの? かなちゃんも私と一緒なの?」
一緒なのかと聞きながら、さっきのえぐれた木の絵が頭の中に戻ってきた。
あいつ、と言ったかなちゃん。私のことをわかってくれているかなちゃん。暖かい手を持っているかなちゃん。優しい笑顔をくれるかなちゃん。
だけど、かなちゃんは一体、なに?
かなちゃんは私の質問に表情を固くした。まずいことを聞いたのかもしれない。かなちゃんの答えを待つ緊張で、私の涙は止まりかなちゃんがはっきりと見えてきた。
かなちゃんは目線だけ下に向けて、私の頭の上にのせていてくれた手をもとの場所に戻してしまった。
「ごめんね」
一言。たったの一言だけど、それだけでわかった。一度にいくつも投げた質問の中のひとつに対する答えがそれなのだと、私はわかってしまった。
「あたしは、陽子とは違う。陽子みたいに綺麗じゃないから」
私はこの時かなちゃんの言葉をうまく理解していなかった。かなちゃんの言いたかった本当の意味を理解せず、ただ言葉をそのままの意味で受け止めただけで、この時の私には疑問しか残らなかった。その疑問はこの不思議な時間が終わりを告げて、私がもう少し大人になった時、私が迷子にならなくなった時、やっと理解することになる。すべてに手が届かなくなった時、手遅れになってからやっと、理解することになるとは私は思いもしていなかった。
「かなちゃん、すごく綺麗なのに? 私なんか全然綺麗じゃないよ。かなちゃん、すっごく綺麗だよ?」
かなちゃんは私の返答には何も言わないまま、悲しい笑顔で頭を撫でた。それだけだった。動物の音も風の音も聞こえない森の中で、時間の静かさが身体中に響く。私はかなちゃんのその笑顔に疑問を持ったままだったけど、何も聞くことはできなかった。かなちゃんの笑顔がそれ以上の質問を拒んでいるような気がして、聞けなかった。
聞けないままかなちゃんはすっと手を戻し、また正面に向き直って話を切断したまま次会話の流れをもとあったレールの上に乗せ直した。
「ここはね、陽子がわかるにはちょっと難しいかもしれない話かもしれないけど、とりあえず一言で言うなら始末所≠チてところかな」
「始末所……?」
なにの、と思ったけど言葉にはでない。かなちゃんはさっきみたいな優しい色はもう心の奥にしまいこんでしまったらしく、最初みたいに涼しい声で淡々と説明していく。
「そう、始末所。人間を始末するところなの。陽子はまだわからないかもしれないけど、世の中には馬鹿な人間もいてね、夢もやりたいことも生きる理由も、そういうこと一切考えないで生きてる馬鹿がいるの。生きる気のない人間って感じかな。真面目に仕事をする気もなくて、心から楽しいと思うことも何もしない。周りと一緒のことしてればなんとなく安心だから遊んだり仕事したりしてて、死ぬ理由もないから生きてるだけの人間。そういうのを始末するところなんだよ。そいつらはね、全員白い服を着てるの。形は別々だよ。でもね、漂白剤にかけたみたいに真っ白な服を着て歩いてるの。きっともとの世界で着てた服なんだろうね。ターゲットに選ばれたら霊体だけこっちに引っこ抜かれる。殺す時にわかりやすいように、色を抜く。逆にあたし達は真っ黒な服を着てるの。わかりやすいようにね。関係ないけど」
一度に言われて、私は全部を理解することはできなかった。ただ頭に染み込んできたのは、ここが人間を殺す場所なのだ、ということだけだった。
殺される。よくわからなかったけど、私はここで殺されてしまうのかと思った。恐いと思ったけど、死ぬことよりも幽霊になることが私には恐かった。あんな、気味の悪いなにかにはなりたくない。殺されるとわかったのに、幽霊になりたくないという気持ちだけで、不思議と死ぬことを恐いとは思わなかった。ただ、悲しいとは思う。かなちゃんが私を理解してくれているのは私がかなちゃんに殺される人間だからなのだ。さっきの優しいかなちゃんは、それじゃあ何のためだったんだろう。生きていることを誉めてくれたこと、つらかったと言ってくれた優しさは一体、何のためだったんだろう。
急に虚しさが襲ってきた。かなちゃんも、お母さんや先生と同じように私なんかはいらないのだとわかったからだ。
「でもね」頭の整理をしている途中にさらにかなちゃんの言葉が重なる。
「陽子を殺すための場所なんかじゃないよ。陽子は殺されない。殺しちゃいけない。早くもとの世界に帰してあげるから安心しな」
「だって、ここは始末所なんでしょ? 私は邪魔だから、気持ち悪いから、みんなと違うから、殺されるんでしょ?」
一言一言押し出す度に喉が泣きたいと訴えたが、私はそれを必死に我慢する。
「違うよ、陽子は違うの。だっていまも目が潤んでる。さっきも泣いた。まだあんたは乾いてないから、殺さないよ。殺すべきじゃないの」そこで顔を私に向けて、また優しい色を見せてくれた。「陽子は死ななくていいんだよ」
「よくわからない、かなちゃんの言ってること、わかんないよ。泣いたら死ななくていいの? 乾いてないってなに?」
「砂漠の頭」
私の疑問を遮るようなきつい口調で、かなちゃんが言った。私は初めて聞く言葉だった。
「砂漠の頭……?」
ふ、っとかなちゃんの笑顔にまた悲しさが現れた。今回は悲しさの他に、悔しいとか、許せないとか、そういう色も私には見えた気がする。
「ここに来る人間の頭はみーんな砂漠化してるの。死ぬ理由もない。でも生きる理由もない。まるで人形だよ。死ぬ間際でも泣きもしない。あっちの世界の戻ろうなんて考えもない。どっちにしろつまんないから殺していいよって、そう言って死んでいったやつは何人もいるよ」
かなちゃんは笑顔を消して、さらりと、死んでいった人間は何人もいる、と言った。かなちゃんはその様子を見たのだ。かなちゃんが……人を殺すところなんて、想像できない。
そういえば、と思った。さっきかなちゃんは「もとの世界に帰してあげる」と言った。ここが私が生きている場所とは違うなら、どこだっていうんだろう?
「かなちゃん」
「なに?」
「ここ、どこなの?」
かなちゃんは、どこって聞かれると難しいなあ、と独り言のように言って、しばらく考えた後に簡単な言葉が返ってきた。
「異世界」
異世界だっていうのは、さっきのかなちゃんの説明でわかっていた。それ以上のことを聞きたい。
「ここはなんなの?」
またしてもかなちゃんは同じように、なに、って言われても難しいんだよなあ、と独り言を言う。
「うーん。なんなんだろ。よくわかんないけど。生身の人間はひとりもいなくて、霊体だけが動いてる世界で、始末人は全員無期懲役くらった犯罪者。ここを作ったのは政府だよ。わかる? お国が作った場所なわけ」
「え?」
「なに?」
私が驚いた声をあげても、かなちゃんは何に驚いたのかわからないようだ。
「かなちゃん、無期懲役って」
「そうだよ、あたしは犯罪者。警察に逮捕されちゃったわけ。あたしのこと恐い?」
かなちゃんはまた笑って聞いた。笑っているけど、全然優しくも楽しそうでもない。何かを馬鹿にしているような色を含んだ、冷たい笑顔だった。私のことを突き放そうとする表情だ。
でも、私は突き放されたにも関わらず、なんだか悲しくなった。その冷たい笑顔が、すごく悲しく見えた。なんでなのか、よくわからない。よくわからないけど、まるでかなちゃんは孤独で寂しがっているように見えたのだ。
私はほとんど反射的に「恐くないよ、好きだよ」と返していた。
かなちゃんは驚いて、冷たい笑顔を捨てた。時間をかけてしっかりじっくり驚いた後、かなちゃんは上機嫌に声をだして笑い出した。
「私、なにかへんなこと言っちゃった?」
「ううん、ありがと。陽子はやっぱ早く戻らなきゃね」
やっぱ、とつけた理由がわからないけど、かなちゃんが笑ってくれたので、嬉しかった。かなちゃんが何をして捕まったのかはわからないけど、きっとかなちゃんが悪いんじゃない。しょうがないことだったんだろう。だってかなちゃんはあんなに優しい色を持っているのに、犯罪者になんかなれるわけがない。
私はかなちゃんが笑ってくれたので、次の疑問にうつることにした。
「ねえ、霊体ってことは、かなちゃんも私もやっぱり幽霊なの? おばけと一緒なの?」
最初の時にかなちゃんは幽霊でもおばけでもないと言ったけど、霊体なのなら幽霊なのだろう。私は自分についてあまり知識がない。普通の子とは違うこと、普通の子では見えないものが見えること、そしてそれが幽霊と呼ばれるものだということだけしかわからない。
「あー、そうじゃないそうじゃない。なんていうんだっけ。そうだよ、生霊ってやつ。身体は陽子のあたしも、ここに来る人間はみんな生きてるよ。植物状態だけど」
「私も、植物状態なの?」
突然不安になった。いつも、迷子にはなっても唐突に迷子の道は消えて目が覚める。私はいつも迷子の状態が消えてしまうのが悲しいのに、どうしてか植物状態、という言葉は恐かった。
「陽子は違うだろうね。あたしや、砂漠の頭したやつらとは違うからね。寝てるんじゃない? 幽体離脱とか、そういうのに近いんだと思うよ。あたしだってそこらへんはよく知らされてないから本当かどうかはわかんないけどね」
ほっとするのと同時に、かなちゃんとは違うのが悲しくなった。かなちゃんは私を認めてくれるのに、違う。
「陽子?」
かなちゃんが黙り込んだ私に気がついて、説明口調をやめて顔を覗き込んできた。それでも私は返事をすることができなかった。この、椅子のような石だって、かなちゃんがここに置いたに決まってる。かなちゃんがここで生きている証に私は座っている。私は、ここでは生きていられない。かなちゃんとは一緒に生きていられない。
「陽子、どうしたの――」
「かなちゃんは」
かなちゃんは、一体なんなの? 何者なの?
私はかなちゃんの方に向き直り、涙でかすかに滲んだ目でかなちゃんを見つめた。
「かなちゃんは、どうしてここにいるの?」
自分でも何が聞きたいのかよくわからなかった。だってさっき、かなちゃんは自分は犯罪者なんだ、って言った。だからここにいるのはわかる。でも、どうしても納得できない。
かなちゃんの顔が曇った。開いた口を結んだ。
「どうしてって、さっきも言ったでしょ。犯罪者だからだよ」
「そうじゃないよ。かなちゃんはここにいたいの? ここで、人を殺したいの? だからかなちゃんはここにいるの? かなちゃんは人が殺したくてここにいるの!?」
そう、何よりも納得できないのはかなちゃんが自らここにいるとはどうしても思えなかったことだ。かなちゃんがここにいるのは、あまりにも不自然だ。ここのことを説明する時、かなちゃんはまるでロボットみたいに決まったセリフを吐き出しているみたいに見える。何かを隠したくてロボットになっているみたいな、何かを諦めてロボットになってしまったみたいな、そんな悲しくて冷たい声で言うんだ。
私の質問に、かなちゃんは黙った。私が恐くなるぐらいの目で一瞬私を睨みつけた後、また自分の足の方へ目を向けてしまった。
本当に静かだった。私かかなちゃんのどちらかが喋らなければ何の音もしない。森の声は聞こえない。木の声もしない。生き物の声が全く、しない。
迷子になった時の街よりも何もいない場所のような気がした。
しばらく黙って、静けさに私の身体ごとコーティングされてしまった頃、かなちゃんは怒った声で言った。「好きで人殺しなんかしてないよ」
「じゃあなんで!? なんでかなちゃんはこんなところにいるの? かなちゃんこそ、帰った方がいいのに!」
「じゃあどうしろって言うのさ!」
私の大声より遥かに大きくて、悲しい叫び声がかなちゃんの口から飛び出して私は驚いた。
「あたし達は全員無期懲役なんだよ。何があったって刑務所からでられない。死ぬまでずっとだよ? 死ぬまで、あんな暗くて狭くて、嫌な場所で生きていなきゃいけないんだよ。名前だって、あそこじゃないんだよ。数字で呼ばれるの。陽子みたいに名前でなんか呼んでくれない。 そんなの耐えられないんだよ! 陽子は、あの生き地獄を知らないからそんなことが言えるんだよ!」
「かなちゃん……」
ごめんなさい、そう言おうとして、かなちゃんは鋭い声でその先を遮った。
「百人殺せば抜け出せるの」
冷たい声だった。それが、余計に悲しかった。かなちゃんは何も見ていない。見てるようで、土も、自分の足も、何も見ていない。
初めてかなちゃん本人が、目の前にいる人間を恐ろしいと思った。
かなちゃんが私を振り返る。冷たい目のまま、その氷の破片みたいな視線が痛い。
「ここで百人殺せばね、あたしは地獄から抜け出せるの。その意味の大きさがあんたにはわかんないでしょう? ここでは味方なんか誰もいない。みんな地獄から抜け出したくて必死だからね。白いターゲットしか殺しちゃいけないルールなんてみんな無視。殺し合いだよ。例え色のある服を着ていても、殺せばカウンターに人数が刻まれるから誰であろうと関係ない。さっき襲ってきたやつもあたしとおんなじ。無期懲役の罪人。ほら、これでね」
そう言ってかなちゃんはチャイナドレスのような切れ目の入ったスカートをたくしあげて、太ももを見せる。そこには、マンガやテレビでしか見たことがない真っ黒な拳銃がささっていた。
「殺すの。ナイフもあるよ」
今度は逆の太ももを見せてくれる。そこには、拳銃と同じ形式でナイフが茶色い筒ごとささっている。白い足に、ふたつの武器の濃い色はよく映えた。
おもむろにかなちゃんはそのナイフを取り出す。茶色い筒を太ももに残して、銀色の刃がでてきた。オモチャと同じぐらいの手軽さでそれを動かし、私の喉に、持ってきた。私は動けなかった。
「ここで陽子を殺せば、私は脱出に一人分近づける。陽子は悪いことなんてしてないよ。他のやつらだってそうだ。本当に悪いことをしてるのはあたしら。黒い服を着た人間の方が悪いの。でもね、そんなの関係ない。誰だって早く地獄から逃げたいから」
喉に触れるか触れないかの場所にあったナイフを少しだけ私の方へ動かす。冷たい感触が喉の一点に集中している。
恐くて動けないのに、涙だけは勝手に流れてきた。恐いからじゃない。胸が、痛かった。冷たい口調で説明するかなちゃんが悲しくてつらそうで、涙が止まらない。
私が泣いたことでかなちゃんは我にかえったのだろうか。冷たい目をはっとさせて、慌ててナイフをしまう。その最中にちいさな声で、ごめん、と謝った。
私はしゃくりあげたままそれを聞いている。
悲しかった。きっとかなちゃんは、恐くて、それで泣いていると思っているだろう。でも違う。私の心はただかなちゃんへの悲しみに満たされている。かなちゃんがその冷たい声の裏に隠している悲しみが私の心の中に雪崩れ込んでくるみたいだ。悲しさが止まらない。かなちゃんのことが悲しくて、止まらない。たまらない。
かなちゃんはひっそりと窺うように私を見て、さっきみたいに優しく、頭を撫でた。目だけは伏せている。
「ごめんね、陽子。ごめん。陽子のことを殺したいなんて思ってないよ。ごめんね」
その声に余計に心臓が痛くなるけど、がんばってそれをこらえようとする。涙は止まらなくても、しゃくりあげるのを必死でこらえようとがんばった。
「かな、ちゃんは」
しゃくりあげるのはやっぱりうまく止められない。だけど、止まるのを待っていてはだめだと思った。今言うべき言葉がある。
かなちゃんは宥める優しい声で、なに? と聞いてきた。
意を決して、言葉を放った。
「かなちゃんは、一体なにをして捕まったの?」
頭に乗ったかなちゃんの手が緊張で固くなるのがわかった。言葉と同時に顔をあげて見上げたかなちゃんの目が見開くのがわかった。
無期懲役になるほどのことを、かなちゃんがしたようには見えなかった。こんなに優しいのに、悲しんでいるのに、そんな人が罪を犯すこと自体信じられない。だけどかなちゃんは実際に無期懲役になってずっと苦しめられているから悲しいんだ。だったら、一体かなちゃんは何をしたの?
さらっと、髪をなでつけるようにしてかなちゃんの手が滑り落ちた。
「つまんないことだよ」ふいっと顔を背けてしまう。「母親に殺されそうになって、殺しただけ。それだけだよ」
現実味がなかった。信じる理由が見えない。見当たらない。かなちゃんの言葉は冷たくて、また私を突き放そうとしてる。私はそれでも必死で喰らいついた。
「本当にかなちゃんが殺したの?」
「だから言ってるでしょ。あんたはあたしのこと勝手に優しいお姉さんって勘違いしてるみたいだけど、あたしは陽子が思ってるような人間じゃないよ。殺したんだよ。自分の母親を」言って、掌を見つめる。「この手で」
「でも、殺されそうになったなら、しょうがないことじゃないの? いくら殺しちゃったからって、無期懲役になるほど重い罪なの?」
「あの人はあたしのこと恨んでたからね。最初から殺されるってわかってたんじゃない? 一年分の日記があの人の机から見つかったんだよ」
どんな、と聞く前にかなちゃんが答えた。
「一年分、あたしがあいつに暴力をふるったって嘘の日記が残されてた。父親もあたしが殺して庭に埋めたって書いてあった。あたしがあの人を脅迫したって書いてあったんだよ。馬鹿みたいに、一年分。父さんのことだってあいつが殺したくせにね。実際のあたしは十八じゃないよ。二十二。十八っていうのは、父親が殺された年だよ。近所には蒸発したって言ってたらしいけど」
かなちゃんはそう言いながら、父親ってフレーズをできる限り乾いた声で言おうとしているのがわかった。変なアクセントがついている。私は誰からも遠ざけれるくせして、そういう人間の感情の部分には敏感なのだ。
「たぶんあたしがあいつに殺されてても、父さんと同じように庭に埋めておしまいにするつもりだったんだろうね。あの人、随分前から狂ってたから」
ひどすぎる、と思い、言葉もでなかった。唖然とした。それなら、かなちゃんは何も悪くないのにお母さんに罪を期せられただけだ。
随分前、とはどれぐらい前なのか、聞こうと思っても聞けなかった。お母さんには、無視されるだけでつらいのに。悲しいのに。かなちゃんは最後の最後にお母さんに裏切られたんだ。かなちゃんは一番、それがつらいんだと思う。ずっとかなちゃんの心の奥に隠してある悲しみは、お母さんへの気持ちなんじゃないだろうか。
「かなちゃん……お母さんの日記は嘘だって、言わなかったの?」
聞いたら、かなちゃんは笑えてない声で笑った。
「言ったよ。言ったけど誰が信じてくれる? 地元の不良とつるんでる娘と、旦那に逃げられても娘を養ってる母親と、どっちを信じる? 日記だってあるのに」
「私はかなちゃんのこと信じる」
だって、どうして誰もかなちゃんが悲しんでいることに気がつかなかったんだろう。日記がなんだっていうんだろう。こんなにもかなちゃんの悲しみはわかりやすいのに。
「かなちゃんの悲しい気持ち、わかるもん。かなちゃんが本当のこと言ってるって、誰だってわかるよ」
かなちゃんは私の言葉に目尻を下げて、情けない笑顔をくれた。優しい笑顔。こんな笑顔ができる人間を、どうして疑わなくちゃいけないんだろう。
「陽子はもう、帰ろうか。ここにいたら危ないよ」
そう言って立ち上がった。私も同じように立ち上がって、だけど素直にはいとは頷かない。
「ねえかなちゃん」
「なに?」
優しい声だ。きつい口調だけど、優しさが入ってる。私にはわかる。
思い切ってかなちゃんの顔を見上げて聞いた。
「帰るってどうやって?」
私には魂胆があった。もし、出入りできるのが私だけじゃないなら――
「出口探すに決まってるでしょ。そっか、どうやって迷子になったのかわかんないんだっけ。ここにはたくさん出入り口があるよ。あたしたちしか見えない出入り口だけど。そこから砂漠の頭した人間が入ってくるから、知っておかないと始末しにくいからね」
「それなら、かなちゃんも一緒に帰ろう?」
突然の私の言い分に、かなちゃんは驚いて目を見張った。何を言ったのかよくわからなかったのかもしれない。私がそんなことを言い出すとは全く想像もしていなかったのだろうと思う。充分に驚いた後に、かなちゃんは諦めたような笑顔で笑った。
私はその笑顔を、この場所に居続けることへの諦めだと思った。それが、私がまだ幼くて、とても甘い子供だったという証だ。この時気づければよかったのにとも思うけれど、この時に気づいたって、物事はそんなに、優しい事情じゃなかった。たとえこの場所が、私自身が、現実離れの存在であっても、現実の厳しさはどこにいても平等に私たちを追いかけてきていたのだ。
私はこの笑顔の意味を、のちに知り、後悔することになる。
*
私はそこで空腹感に負けて昔語りを区切った。
「ちょっと休憩。おなかすいちゃった。ごはんにしない? もう十一時半だし」
「え、でも先輩」
「なに?」
「続きが気になります」
菜摘ちゃんは正直だ。語り手の私のことなどお構いもなく続きをねだる。そこが彼女の可愛らしいところでもあるけれど、私はおなかがすいたのだ。
「だめ。おなかすいた」
「その、先輩はじゃあ、霊能力者だってことですか? 幽霊が見えるんですか?」
菜摘ちゃんはまだ話を続けようとする。私は鞄の中から弁当箱を取り出しながら、あの時の手の痛みと絶対的な絶望感の中に引きづりこまれながら、できるだけ笑顔で答えた。
「昔は、ね」
菜摘ちゃんはさらに質問を重ねたい顔をしながら、それでも諦めたらしい。今の私の表情にきっと、なんらかの壁を感じ取ったのだろうと思う。聞いてはいけないという、動物的な勘とでも言うのか。それともこれは人間的な勘だろうか。
私の身体は弁当を包んでいるバンダナに手をかけているのに、心はあの頃に戻ったまま、帰って来ない。私はいつまでも、あの場所に残してきた後悔と、かなちゃんのことを思いつづけているままだ。世界は変わっても根本は何も変わらないまま。
「菜摘ちゃん、アイス食べたくない? 買いに行こうよ」
黙っているのが嫌なだけでただなんとなく言っただけの言葉なのに、言ってから本当にアイスが食べたくなった。この教室は暑い。夏で、クーラーがなければ当たり前の暑さだ。汗が薄手のブラウスに染み込みそうなのがわかる。
あの場所では、走っても汗なんかかかなかったのにな。そのくせ泣く時に目頭も鼻も熱くなるんだからよくよく考えてみれば不思議な場所だ。
菜摘ちゃんは私の気まぐれな提案に元気よく賛成の意を表明した。提案者の私より先にバッグを掴んで教室から出ようとする。ドアに手をかけて私のことを笑顔で待っている。まるで犬みたいだ。
廊下にでても気温は変わらなく、廊下に取り付けられた窓から外を眺め見ても風など全くないらしい。暑苦しいぐらいに熱された太陽がこれまた暑苦しい濃い白の入道雲とかくれんぼをしている。夏の定番の風景だ。けれど私は、あの時名前もわからないあの場所へ行って、この後悔を胸に抱えるまでは記憶のある頃からずっと、こんな景色を見たことがなかったのだ。見れなかったのだ。いつでも、人間じゃない何かが私のレンズには映りこんで逃げることはなかった。触られる時もあったし、声が聞こえた時もある。声は毎回必ず、音叉のように頭の中に響く。頭蓋骨に反響して跳ね返る。そのぐらつきに、私はいつも耐えていた。
誰も気がついてくれないことが悲しかったし、信じてくれないのも悲しかった。それでもやっぱり一番悲しかったのは、教師もクラスメイトも、母親ですら私の理解者ではなかったということだ。
「先輩?」
菜摘ちゃんが立ち止まる私を不思議そうに振り返る。
「なんでもないよ」
そう言って自然に笑い、踵が履き潰されている上履きで廊下にぺたぺたと音と立たせながら歩いていく。菜摘ちゃんはさっきの私の警告のような表情をしっかりと受け取って、それ以上は過去のことを聞こうとはしなかった。どの先生が気に入らないだの、クラスメイトのくだらない話だのをし始めた。
今でも私は、綺麗なのだろうか。かなちゃんが言ったように。かなちゃんは心が綺麗だと言ったのだ。そして犯罪を犯した自分は汚れていると思っていたのだと思う。でもそれは、違うんじゃないだろうか。あんなに悲しい気持ちを持てるのに、汚れてはいないと思う。私は無垢で何も知らないガキだっただけだ。それが綺麗と言うのなら、私だっていまはもう綺麗じゃない。
窓越しに見た風景となんら変わらない暑苦しさが外にはある。
「暑いなあ。うちわとか欲しいですよね」
「そうだね、すっごい暑い。むかつくね、これだけ暑いと」
「これでコンビニが遠かったら先輩いまにもキレそう」
「まさか。そんな馬鹿じゃないよ」
そう言い返しつつも、どうかな、と思った。確かにキレてそうだ。派手に暴れるわけでもなく静かに愚痴をこぼしながら、このガードレールの内側を歩きそうだと思った。
コンビニは高校のすぐ近くにある。と言ってもすぐ隣にあるわけじゃない。都心なら、コンビニなどどこにでも散らばっているのだ。
「先輩ってバイトしてるんですか?」
「なに急に。してるけど?」
「いや、なんか先輩って、バイトとか似合わなさそうだから」
隣を歩く菜摘ちゃんの、私より少し低い頭を小突いてあげた。
「だって先輩、協調性ないんですもん」
「こら、言ったね? 先輩に対して」
「だって本当のことですー!」
そう言い逃げして走りながらコンビニの中に入ってしまった。
協調性、か。確かに私には協調性はない。だからと言って世渡りが下手なわけでもない。もちろん教師にぐだぐだ注意は受けるけれど、それだってつまりは甘えの現れなのだ。学生でなくなったら髪の毛も染め直そうと思っているし、自分の立場をよく理解しているからこそ校則に反抗したりもできるのである。注意はぐだぐだと受けるが、それなりに教師には好かれてもいる。友達がいないと言えば、それはしょうがないことのように思う。小学四年生になって突然自分にまとわりついてきた鎖を外されて、友達を作れる状況になったと言えども、十歳から自分で自分を教育し直すなんて私にはできなかった。鎖を外すのが遅すぎたのだ。それでも私は私なりに、ひねくれながら自由に生きている。そんな私に菜摘ちゃんのような明るい子が懐いていることが不思議な事態だ。菜摘ちゃんが私に寄せる想いが本当に憧れだけなのか、友情なのか、それすら今の私にはわからない。かなちゃんと出会うまでは、俗言う幽霊達に追いまわされていた頃は、そんな人の感情なんてすぐにわかったのに。あの頃の私は人の、言葉にださない感情に敏感だった。だからこそかなちゃんを見ていて悲しくなったのだ。かなちゃんが閉じ込めてしまった悲しみが伝播したのだと思う。感受性豊かと言えば聞こえが良い。
菜摘ちゃんがアイスの詰まった冷たい大きな箱の前で悩んでいた。私は悩む間もなく適当にアイスを選んで取り出した。菜摘ちゃんが「待ってください、先輩早い!」なんて言っている。私は笑いながらその抗議をスルーしてレジに向かった。
今の私は、あの頃の自分と見比べれば上辺は充実した生活を送っていて、何も不幸の種がない人間に見えるだろう。
けれど、胸にいつまでも重く残るこの気持ちを、あの時の残骸を抱えたままの今の私と、昔のひとりぼっちの自分。一体どちらの道で生きてくればよかったのか、未だに私は判断をつけられないでいる。
*
かなちゃんの笑顔が私の意見を聞き入れてくれて浮かんだものだと思うと、私は嬉しくて嬉しくて仕方なくなった。かなちゃんの手をひいて勝手に走り出そうとする。その一歩目を地面に着く前に、かなちゃんのもう片方の腕でもって後ろにひっくりかえされた。おかげで大きな衝撃と一緒に尻餅をついた。
「あ、ごめんね」
言って、かなちゃんは手を差し出して私を起こしてくれた。転んだことが恥ずかしくて、私は何も言えない。「いや、あのね、勝手にここをうろついたら危ないから。さっき見せた拳銃恐いんだから。銃弾なんか入ってないくせに狙った場所だけえぐられて消えちゃうんだよ。言ったでしょ? あんたは殺されそうになってるんだって」
殺されそうになっているのは私だけじゃなくてかなちゃんも一緒だ、と思ったけど、言うのはやめておいた。恥の上塗りをする気がした。だってかなちゃんは武器を持っていて自分の身を守れるけど、私には何もない。
「ほら、行こう」
手をつないだまま、かなちゃんが前に立って歩きだす。私はただその後ろをくっついていくだけの形になった。
何歩、どれぐらい歩いただろう。かなちゃんはさっき走ったのと同じように、木や草の方が避けているように、優雅に歩いた。その後ろを辿っていくだけなら私は何にもぶつからない。きっと、私だけで歩いたら色々な切り傷を作ってしまうだろう。
それが、かなちゃんがここに慣れている証拠なのだと思った。
「ねえ、かなちゃん」
「ん? なに」
しばらく話すこともなく歩いていた所為で、自分の突然の声はいやに木々達に染み渡る。
「かなちゃんは、どれぐらいここにいるの……?」
「さあ、わかんない」
さっぱりと涼やかに答えた。私が言葉を続けられないでいると、かなちゃんは私の方を振り返って仕方なさそうに笑った。私はそれぐらい情けない顔をしていたらしい。
「なんでわかんないかって言ったらね、ここには時間がないの。あたしも年とらないし、おなかもすかないし、何より夜が来ないから」
「夜が来ない?」
不思議だった。こんなに現実と同じように造られた世界なのに、夜が来ない? 太陽だってちゃんとあるのに?
「なんでかは知らないけどね。太陽はいつでも真上にある。気温もよくわからない。寒いと思ったこともない。暑いと思ったこともないな、そういえば。だからあたしがもうどんぐらいここにいるのか、全然わかんないの」
そう告げる笑顔は少し悲しそうだった。そういえば、私が迷子になる場所もいつも曇っていて、どんなに歩き回っても時間がわからない。時計がどこにも見つからないだけなのかもしれないけど。だとするならあの場所も異世界なのかもしれない。
また、静かになった。かなちゃんが喋らなくて、私も喋らない。聞きたいことはある。でも、勇気がでない。これ以上かなちゃんの悲しい顔を見たくなかったから。
足早に歩くかなちゃんに合わせて早歩きで後をついていく。何も音がしない。さっきみたいに襲われることもない。かなちゃんは黒ずくめで、暗い森に消えてしまいそうな気がした。赤いカチューシャと髪の毛だけを残して、私の手を引くかなちゃんの手すら、消えてしまいそうな気がした。何か話さないと。かなちゃんをここに繋ぎ止めないと。
だけどかなちゃんを傷つけない言葉なんて見つからなくて、それなのにかなちゃんが消えてしまいそうなことの方が恐くて、とうとう私は口に出した。
「かなちゃんは、いままで何人殺したの……?」
かなちゃんはこっちを振り向きもせず、返事もしない。ただ黙って歩く。まるで聞こえなかったみたいに。
ああ、やっぱり聞くんじゃなかった、と反省した矢先だった。かなちゃんができるだけちいさな声で、森の中に消えてしまえばいいと思ったのかもしれない。私が聞こえなければいいと思ったのかもしれない。でも、森は静かすぎた。
「三人」
それ以降は私も何も聞かなかったし、かなちゃんも何も喋らなかった。
かなちゃんが三人も殺した。なんでだろう。刑務所からでたいなら、私を殺せばよかったのに。かなちゃんは私を殺さなかった。じゃあなんで、三人も殺しているんだろう。かなちゃんは外に出たくても、まるで最初からそれを諦めているみたいなのに。どうしてかなちゃんは、殺すんだろう。
私には信じられなかった。
「はい、ここ」
言って、急にかなちゃんは何もないところで立ち止まった。振り返りながら私に目線を合わせるために中腰になる。
「ここ、出入り口だから。陽子とはお別れ。バイバイ」
優しい笑顔だった。
笑顔で、そう言った。バイバイ、って。
「なんで!?」
聞き返した私の声は、木も草も少し遠い場所で、空気中に溶けてしまう。かなちゃんにちゃんと届かない。
かなちゃんはさっきの、諦めた笑顔を作った。諦めた。
「だって、かなちゃん、一緒に帰ろうって私言ったよね!?」
かなちゃんは優しく、綺麗な細い指と掌で私の頭を撫でた。それが答えなんだと思った。
かなちゃんが諦めたのはここに居続けることじゃない。私と一緒に行くことを、諦めたんだ。
理由がわからなかった。
「なんでかなちゃん、なんで? かなちゃんも一緒に帰ろうよ。一緒に行こうよ!」
駄々をこねる子供だ。泣きながら駄々をこねる私に、かなちゃんは手を引っ込めて立ち上がってしまう。遠ざかってしまう。
「かなちゃん!」
かなちゃんの服を引っ張る。その手にかなちゃんの手がそっと重なった。近くなった。
そして何も言わないで私の手を取り、かなちゃんから引き剥がした。
「かなちゃん!」
「陽子はいい子だね。そのままでいてよ。絶対に砂漠化しないで。もうここに来ないで。あたしはあんたを殺したくない」
私の目を見るかなちゃんの目は真剣だった。真剣に、言っていた。冗談でもなんでもなかった。何も隠していない、本音。本当に私とここでさよならする気でいる。
また私はひとりぼっちになってしまうの?
かなちゃんは私の顔から目を逸らして、前を向いて太ももからナイフを取り出した。何もない空気の場所をさっと切る。流れるような動きだった。綺麗だった。ナイフを自在に動かすかなちゃんは、本当に、綺麗で美しかった。少しきつくつり上がった目にナイフの光が反射する。
かなちゃんの切った空中が突然歪んだ。何が起きたのかわからないまま、その歪みは周りの空気を吸収するように固くなっていって、やがて空気しかなかった場所に透明な壁が生まれた。透明なのに見えるのはおかしいかもしれないけど、私には確かに見える。後ろが透けて見えるけど、その後ろは何か、歪んだままだ。違う色の液体を混ぜ合わせたようにゆっくりと動きつづけている。涙のレンズに似ていると思った。
私は何も言えないまま、泣きながらかなちゃんを見上げる。私のその視線に気がついてかなちゃんも私を見た。悲しそうに笑っている。諦めている。
かなちゃんは私と一緒には来ない。
理由はわからないけど、それだけ、はっきりと、それだけは事実なんだとわかった。その事実が心臓に圧力をかけたみたいに苦しい。苦しさは喉に上がって、さらにその上にある目まであがってきては涙に変わっていく。それなのに苦しさは全然軽くならない。
「かなちゃん、なんで?」
震える声で、鼻水が垂れてくるのも構わず聞いた。かなちゃんはもう私に触れようとしない。頭を撫でてくれない。手を引いてくれない。
「このカチューシャだけ、色が違う理由教えてなかったよね」言いながら自分の頭に手をかける。でもカチューシャはずれなかった。「これはね、とれないの。あたしさ、前にここを抜け出そうとしたヤツを見たんだ。そいつは緑色の腕輪してた。これはカウンターなんだ。何人殺したのか、これでお国のお偉いさんたちに伝わる。それと同時に、監視カメラみたいなものなの。これはここにいる限りずっと取れない。これがある限り、あたしたちは外には逃げ出せない」
外にでたらどうなるのか、聞きたいのに聞けなかった。かなちゃんの笑顔が恐い。その笑顔に、私とかなちゃんの、絶対的な壁を見つけたような気がした。かなちゃんは笑い、私は泣いている。
「逃げ出そうとしたやつはね、ここに入った瞬間に消えたよ。苦しそうな声だった。あたしだって逃げ出そうと思ったけど、それ以来ここから逃げ出そうと思うのはやめたよ。どっちにしろ死ぬんだ。なんであたしがここに来たのか、最後だから教えてあげる」
教えてくれないでいいと思った。最後なんて嫌だと思った。かなちゃんは初めて私を理解してくれた人なのに。優しくて悲しい心を持った、素敵な人なのに。
どうしてここでさよならしなくちゃいけないんだろう。私はここを出たら、もうかなちゃんとは会えない。現実には味方がいない。かなちゃんがいなければ寂しすぎるのに。
「あたしはここに来て、逃げようと思ったんだ。でも無理だった。どんな理由があってもあたしは人殺しなんだって思い知らされた。でもさ、やっぱり進んで殺す気にはなれないね。始末人に殺されそうになって殺し返しただけ。母親を殺した要領でやればいいんだから簡単だよ。あとは他の奴らが殺すのを見てただけ。吐き気がするよ、毎回。それでもあたしはここから逃げられない。それを実感しただけだった」
「かなちゃん」
泣きながらかなちゃんを呼ぶと、かなちゃん錆び付いたような表情を変えて、私に笑いかけた。悲しみでいっぱいな笑顔で笑いかけた。
笑いかけた後は素早かった。私自身、何をされたのかよくわからなかったぐらいだ。
かなちゃんは私の右手を取り上げ、手にしたままだったナイフで手の甲をさっと切った。鋭い痛みが腕を伝って頭の方にまで流れてくる。手の甲に引かれた一本の線は見る見る間に赤い色を生み出し、重力に逆らわずに流れていく。そしてその赤い地が地面に落ちた時、わけもわからなくなった私の背中を強く押した。
背中の衝撃と手の甲の痛みに頭が捕らわれる。
振り向いた先で、かなちゃんは微笑んでいた。初めて、かなちゃんの微笑んだ顔を見た。優しくて、お母さんみたいな笑顔。ああ、かなちゃんが私のお母さんだったなら、きっと私もかなちゃんも幸せでいられただろうに。
「陽子の魂の欠片はこっちで死んだことになるから、あんたはもうこっちに呼ばれることはないよ。それと、たぶんその血は陽子の能力そのものだと思うから。勝手にごめんね。陽子はもうおばけを見ることはないよ。恐い思いもしない。普通の子として、生きな」
「かなちゃん!」
かなちゃんの微笑みが崩れる。私は、掃除機に吸い取られるように、身体の端っこから感覚がなくなって、後ろに飛ばされていくのがわかった。かなちゃんが遠のいていく。
「もう、こっちには来れないはずだから。ありがとうね陽子」そして手を、胸の前でちいさく振った。「バイバイ」
「やだ! やだよかなちゃん! かなちゃん――」
私は声ごと全部、何かわからないものに吸い取られていった。かなちゃんを見ていた目すら、吸い取られた。
*
アイスもお弁当も食べ終え、再開した昔語りも終え、菜摘ちゃんは呆気にとられたようだった。
「それ、で、えっと。先輩はここにいるんだから無事に帰って来れたんですよね。うん。でも、えっと」
混乱気味な菜摘ちゃんを身ながら、自嘲気味に私は聞いた。「信じられない?」
「いえ! ただ、えっと。先輩はどこにいたんですか?」
「近所の神社にいたよ。階段で眠ってたところを神主さんが発見したらしくてね。それまで無関心だった母も捜索願を出して必死に探してたらしいよ。目を覚ましたら、母親が急に私のこと抱きしめた。それが嬉しかったけど、起きたにさ、なにも見えなかったんだ」
「え、それって視力がなくなったってことですか?」
菜摘ちゃんの素っ頓狂な問いかけに笑った。
「違う違う、幽霊が見えなくなってたの。それが夢じゃなかったって証拠になるのかな。シンデレラのガラスの靴みたいだよね。手の甲も痛かったし、ああ夢じゃなかったんだ、本当に起きたことだったんだって思ったら、悲しくなったよ」
かなちゃんと分かれてから、かなちゃんに手を切られてから、私は幽霊を見ることも声を聞くこともなくなり、みんなから無視されたり気味悪がられることもなくなった。だけど、あの時、目が覚めた時に母親に抱きしめられた瞬間、嬉しさと悲しさで心の中は混ざり合ってしまっていて自分でも感情のよくわからない涙が止まらなかった。
かなちゃんの顔は今でも思い出せる。傷のない手の甲を見る度に、あの赤い血を思い出す。
かなちゃんは私の救世主だった。だけれど私は、あの時かなちゃんを余計に悲しませてしまったんじゃないかと後悔しているのだ。私が一緒に帰ろうなどと言わなければ、かなちゃんは何も言わずに私を送り出せたんじゃないかと。
「でもそのかなさんも、先輩も、そのとき出会えてよかったですね」
菜摘ちゃんの言葉が理解しがたくてキャッチし損ねた私は、疑問全開の顔で菜摘ちゃんを見返していたと思う。なぜなら菜摘ちゃんが異様に驚いた顔をしたからだ。
「だって、そうじゃないですか? かなさんはありがとうって言って、先輩は気味悪がられることもなくなったんでしょう? 殺される側と殺す側しかいない場所に先輩みたいな無関係の人が行ったおかげで、かなさんもちょっと明るくなれたんじゃないかと思いますよ。少なくとも絶望ばっかりだった世界に希望の種がちょこんと紛れ込んだんですから」
ね? そう思いません? そう菜摘ちゃんは笑いながら、私に訴えてくる。
そんな風に考えたことは一度もなかった。かなちゃんにとって私が希望の種かもしれないなんて、考えたこともない。
「それに、先輩がそこに行って帰って来なければ私と先輩が出会うこともなかったんだって思うと嬉しいです」
菜摘ちゃんは本当に嬉しそうに笑ってそう言った。私もつられて笑う。菜摘ちゃんは底抜けに明るいと思っていたけど、ここまで明るいとは思わなかった。私の意表をついてくる。
「菜摘ちゃんには参るねえ。降参だよ」
「はい? なにがですか?」
「わかんないんならわかんなくていいよ」
どういう意味ですか! 菜摘ちゃんがくらいついてくる。本当に犬だ。可愛らしい、明るい犬だ。
突然教室前方のドアが勢いよく開いた。私を含め教室にいる全員がそっちに注目する。
入ってきたのは顧問だった。黒くて艶のいい、しかも量の多い髪を一本に後ろで結わいている。前髪も後ろへ流していて、色気がない。細身の顧問はストライプの薄い水色のシャツに白い七分丈のパンツを履いていた。
時計の針はもう昼の一時を過ぎている。集合時間は十時だったはずだ。
「ちょっと、遅いよ明子サン」
顧問の名前をそのまま呼んで文句をつける。
「春日、いい加減先生ってつけなさいよ。いくら学年一位とってるからってあたしは甘くないからね」
はいはい、と流そうとしたところを菜摘ちゃんの声に混ぜ返された。
「うそ! 先輩って一位だったんですか!?」
「あれ、菜摘知らないの? 有名だよ。ねえ、春日」
返事はしない。こういう事態になることがわかっているから必死に隠していたのに。そっぽを向いて無視した。
「先輩ひどおい、なんで教えてくれなかったんですか!」
「あーもううるさいなあ。こうやってうるさくなるから言わなかったの!」
「はい、じゃあ今日はそろそろ解散にしようか」
明子サンは来て早々に部活をお開きにした。何をしに来たのかよくわからない。
「給料泥棒」
不満をぶつける。
「うるさい、こっちだって色々用事があるんだっての」
「それより先輩、今度勉強教えてください!」
「はいはい、気が向いたらね」
またもや菜摘ちゃんのひどおい、が聞こえたけど無視した。疲れる。人に物を教えるのは好きじゃないのだ。特に私は気まぐれだし。
私は鞄を持って教室のドアに向かう。やっぱり犬のように菜摘ちゃんが尻尾をふってついてくる。
今ごろ、かなちゃんはどうしているのだろう。あのニュースが続く限り、かなちゃんはあの場所に居続けるしかないんだろうか。
私はもうあの場所へ行けない。かなちゃんがどうしているかなんて、想像するしかないけれど。それでも、菜摘ちゃんが言ったように、かなちゃんにとって私が絶望の中に落ちてきた希望の種だとしたら――。
かなちゃんを少しでも元気に、明るくさせてあげることができたのだとしたら、嬉しいと思う。
私は人間以外何も見えない外の景色を見ながら、不思議を笑っていた。
END