短すぎる恋の果て
ゆり


 

愛する人に会いたいと思うことの、何がいけないの。
ねえ、教えてくれます?
教えて、納得させてよ。
わからないの。
だって、純粋に会いたいんだもの。
会うことのなにが、いけないことだって言うの?





        *




このあいだ――と言っても、ずっとずっと前。私が生まれるずっとずっと前。その、ずっとずっと前に起きた戦争の所為で、私は国の重要文化財だ。少なくとも、重宝されている。
守られている。
なぜかと言えば簡単だ。私が、純粋なる人間だから。
機械を身体のどこにも必要としない、完全な、普通の人間だからだ。
普通の人間なのに。普通の人間というだけで、まるで貴族のように扱われてしまう。私はそのことを誇りになんて、これっぽっちも思っていない。母や父は私とは考えが違うらしいけれど。
戦争が起こって、この国は負けた。もともと世界的にも技術は進んでいた国なのだ。だから、こうなったのは当たり前なのかもしれないし、負けたことは当たり前じゃないのかもしれない。
どちらにせよこのちいさな国は負けて、そして、機械化が始まった。
みんながみんな身体を負傷した。どこからしらを失う結果になった。それだけで、事は終わらない。なにしろここは私達の国だから。技術だけは進んでいた、バカな国だから。
身体の一部を失った人々は身体に偽者の、機械の身体を身に付けるようになって、身体を失わなかった人間は重宝された。
defective「不完全」な生命と、
completeness「完全」な生命。
まるでその間には、貴族と愚民のような、厚い厚い壁ができあがってしまった。
身体の一部が不足しているからなんだと言うのだ。
身体が全部あるからと言って偉そうに振舞える家族を、私はあまり好きではない。
しかも不思議なことに、身体の一部を失った人々の間に生まれる子供も皆、どこかしらが欠けて生まれてくるのだ。
必然的にdefectiveにされる赤子。繰り返される音叉。
終わらない、くだらないcompleteness達の振る舞い。


こうして、私達の文化には機械が馴染んでしまった。
だからこそだろう。
defectiveではないのにcompletenessな存在。
completenessでありながら、使用される存在。
robotが生まれてしまった。
――機械人形。
精巧に作られたソレは、まるで人目ではわからないほど、人間だった。




      *



朝の眩しさを身体中に感じながら、目を細めてすぅっと開いた。時計を見ると、まだ朝の六時。やわらかな眩しさで自然と目が覚めるのは日常だ。
私は寝る前とほとんど変わらない、整えられたベッドから降りる。机の上にいつの間にか置かれている水差しを手に取り、同じく隣に置いてある揃えのコップに零すように水を入れた。寝起きは穏やかじゃない。もちろん、こんな乱暴な仕草はお母様の前でもお父様の前でもできやしない。
だって私はお嬢様なんだもの。
ベッドシーツと同じく真っ白でさらさらとしたネグリジェを脱ぎ捨てて、水と同じようにいつのまにか箪笥の上に用意されている洋服に着替えた。スカートはクリーム色でふわふわとしている。春の象徴の色。上は、見るからに高級そうな丸襟のシャツにグレイのカーディガンだった。糊付けされたシャツは着心地が良すぎて逆に気持ちが悪いと思う。私はちいさな頃から、この高級感が好きじゃない。
姿見に全身を映し出して、髪がはねていることに気がついた。このままでリビングになど顔を出そうものなら、お母様に何を言われるか。
私はドアの近くまで歩いていき(この部屋は無駄に広い)、内線の電話を取った。電子音が一回鳴り、すぐにメイドが出る。
「ちょっと髪の毛を直したいから、寝癖直しでもなんでもいいから持ってきてちょうだい」
かしこまりました、なんていう決まりきった言葉と、3人いるメイド全て同じ声の中の誰かが応答した。
見た目も同じ。名前も同じ。それにメイド達3人が違和感を持たないのは、彼女達が皆ロボットだからだ。
私はありきたりの朝にため息をつく暇を惜しんで洗面所に向かう。メイドのノックが聞こえる前に顔を洗わないと。
この国には機械化が馴染みに馴染んでいる。そもそも、C国との戦争で我が国が負けた所為だ。その頃の写真も映像も、技術の進んでいたこの国としては不思議なことに残っていない。それも最後の日――負けた日、国中が大火に焼かれて全て燃え尽きた所為、だとか。真偽の程は定かじゃない。だって私は生まれる予定すら立っていない頃だもの。
とにかく大事なことは負けたことじゃない。負けたことは、本当のところ私にとってはどうでもいい。ただ、負けたその日、この国が大きな被害を被ったこと。多くの人々が身体の一部なり全身なりを失ったこと。中には数は少ないけれど、無傷で生き残った人間もいたこと。
私の先祖が無傷で生き残ってしまったこと。
曾お爺様と曾お婆様がどうして無傷で生き残ってしまったのか。私は憎しみにも近い感情を抱いている。
身体を失った人々は身体の一部を機械化して生き残ることになった。曾お爺様、曾お婆様達はそのまま生き延びた。
たったそれだけの違いで、機械化していない人間は重宝扱いだ。国からとんでもない額のお金を受け取っている。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいと言えば、機械化されてしまった人間の子供も必ず身体のどこかしらが欠けていることだ。
私は中等学校に入った頃から、そのことをお兄様に申し上げている。お母様にもお父様にも言えない。言ったらなんと言われるか。
お兄様は私がそう申し上げる度に、困ったような、哀れむような顔で私を宥める。私はその表情が嫌いではなかったから、度々お兄様にその不満をぶつけた。
顔を洗い終えてふわふわとしたタオルで拭いていると、古い木のドアに硬い何かが当たる音がした。メイドだ。
「ガーネお嬢様。失礼してもよろしいでしょうか」
「いいわ、入りなさい」
ガチャリと音がして、いつも変わらぬ姿の、やけに顔色の白いメイドが入ってきた。
「寝癖と申されましたのでブルームランド社の……」
「説明はいいから早く直して。わたし、お腹がすいてるのよ」
姿見の前に設置してある、細工の施された綺麗な椅子に腰掛けてメイドの手を待つ。メイドは畏まりながら、「失礼します」と耳タコになった枕詞を置いてから作業を始めた。


リビングに侵入していくと、朝食の嬉しい匂いと彫刻のように姿勢正しい初老の二人が早くも食事をしていた。
「おはようございます、お父様、お母様」
「おはようガーネ。今日は遅かったね」
「ええ、ちょっと髪の手入れをしていましたの」
お父様はやわらかな顔で、けれどもいつ見ても美しい姿勢で朝食を口に運んでいた。
お母様はすました顔で紅茶を飲んでいる。
私は大きなテーブルの、いつもの決まりきった座席の椅子を引きながら、いつもの光景に欠けているところを指摘した。
「あら、今日はお兄様はいらっしゃいませんの?」
「テールは今日、朝早く出かけて行きましたよ。さあ、ガーネも早く朝食を済ましてしまいなさい。今日はロジオさんのところへ行くのですから」
私は何も言わずに、それを了承した。気が進まない。だって、ロジオおばさんと言ったら、いつも私に高級な洋服やら宝石やらをくださってしまって、その場では笑顔でお礼を言っているくせに車の中に戻ったらお礼に何を贈ればいいのか悩むお母様のご不満を聞かなくてはならないんだもの。ロジオおばさんは決して悪い人ではないのだけど。
「そういえば、ロジオさん、使いの者を雇ったらしいな」
「あら、ロジオさんももう老年かしら」
そんな父母の言葉を、私は聞くともなく流していた。この後劇的なことが起きるキーが会話に入り込んでいると知っていたら、私はもっと心の準備をして行けたのに。




        *




気乗りがしないまま、私は運転手に導かれるまま丸い、卵のような車に乗り込んだ。銀色に光る車体は高級車の証。その証が私は気に入らなくて、このまあるい車も大嫌い。
見かけに反して広い車内で隣り合っているお母様と私は、運転手はただの道具と見なすように無視して話をし始めた。
「ねえお母様。今日は一体なんのご用事なんですの?」
聞くと、お母様は疲れた息を吐き出した。「定例のお茶会です。またロジオおばさんの長い話を延々と聞かされるのかと思うと、今から疲れるわ」
「そんなこと仰らないで。きっとすぐに終わりますわ」
私は心にもないフォローをする。
「ならいいのですけれどね」
お母様は相変わらず、行く前から疲れている。私もその疲れが伝染してきそうで、慌てて外の景色に目をやった。
どこの家も同じような家。昔女学校で習った歴史の教科書にある王族の屋敷を、規模をちいさくして復元したような、細工の凝った家がずらりと等間隔に並んでいる。庭はどこも綺麗に手入れがされていて、同じ花が並んでいる家は見つからない。戦後さらに進歩を遂げた我が国の技術によってどの品種も一年中咲いていることができる。乾季も雨季も無視して咲き続ける花達が、私は気味が悪くてあまり好めない。山にでも行って季節ごとに咲いては枯れていく花を眺めて暮らした方がまだ人間らしいのではないかと、ついついcompletenessとして生きてきた私は思ってしまう。完璧なんて、完全なんて、なんてつまらない生き方かしら。
景色を眺めている間にロジオおばさんの家に着いた。運転手が滑らかに車を止めて、自動で開いたドアからお母様に続いて私も外に出る。ロジオおばさんは旦那様に先立たれてからずっとお一人で、このあたりでは一番立派な家に住んでいる。このあたりで一番立派、という ところがすごいところ。何故って、ここら辺一帯はcompletenessしか住めないのですもの。
技術が進んでいるくせに昔風にこだわった鐘をドアにこつんこつんと打ち付けて、ロジオおばさんに来訪を告げた。
数秒も待たないでドアが音もなくゆっくりと開く。
顔をのぞかせたのは、ロジオおばさんではなかった。
「お待ちしておりました。リーズ・トワイライネ様とガーネ・トワイライネ様ですね」
「そうです」
お母様は凛とした声で仰った。それなのに、私は返事のひとつもできなかった。
そういえば今朝方、お父様とお母様が仰っていたではないか。ロジオおばさんが使いの者を雇ったと。それなのにどうして、私は心の準備をしてこなかったのかしら。
海の底の、冷たい水のように澄んだ綺麗で低い声。ゆで卵を剥いたばかりのような肌は赤子のようにすべらかで、赤子よりも大人の色をしていた。顔の中に浮き立つ宝石のような薔薇色の瞳。そして何よりも、室内の明かりでも光り輝くさらりとした髪の色に、私は全てを奪われたような気がした。声はもちろん時間も、私の隙も、心さえも。
なんて美しいのかしら。
私が硬直している間に母は豪華な玄関へとあがりこんでいる。不審な目で見られて急いで私もロジオおばさんの家へとあがりこんだ。
使いの者だなんて言うから、てっきりメイドだと思っていたのに。男の方だったなんて、反則だわ。心の準備が全然できていなかったのに。
私は心の中で文句を言いながら、先導していく彼の後姿を見る。服装は確かに執事の服だ。それなのにどうして、あんなに後姿まで美しいのだろう。大きな肩が、お父様のそれとは全く違っていて心臓が勝手に踊ってしまう。
熱のあるような表情でもしていたのだろうか。
「ガーネ、あなた大丈夫?」
振り返ったお母様にそんなことを聞かれてしまった。
「いいえ、なんでもありません。何故?」
平静を装って答えたつもりだった。少なくとも声は上ずっていなかった。それなのに、自分の後ろで繰り広げられた会話を気にしたのか、彼が振り返ってしまった。
美しい薔薇の色が私を見る。赤いのに、ほんのりと優しい色。
ああ、彼が振り返らないでくれれば、私は平静でいられたのに。
「具合が優れないのですか? それでしたら――」
「いいえ! 大丈夫です、大丈夫ですわ。心配なさらないで」
彼の心配の言葉を遮って、私はがらにもなく大きな声で取り乱してしまった。
ああ、しまった、と思いながら、心の中で言い訳もした。
だって私、女学校でずっと育ってきたんだもの。男性と言ったらお兄様とお父様しかまともに見たことがないのに、急に、こんな男性と会ってしまうなんて。どうしたらいいのかわからなくて当然じゃないの。
「ガーネ、あなた本当に大丈夫なの? なんだか調子がおかしいですよ」
「ええ、ええお母様。大丈夫ですわ。心配なさらないで」
お母様に元気な笑顔を作って見せるだけで、精一杯だった。
私の心臓は生まれて初めて踊ったのである。そんな時にどうすればいいかなんて、学校じゃ教えてくれなかったわ。
ああ、調子が狂う。
また長い廊下を歩きだして、来なければよかったと思いながら、彼の後姿を見るたびに心の舞踏は勢いを増してしまう。
これが、一目惚れというものなのかしら。
そう思いながら歩いて、ロジオおばさんのいる部屋にたどり着いた。そこでお茶会をした時こそ本当に私は、来なければよかったと思った。もう私の心は名前も知らない彼に心を奪われて、取り戻すなんてできないのに。
彼が、彼が――defectiveなら、まだよかったのに。


いつものお茶会で私は、硝子でできたマーガレットをいただいて喜んでいるところだった。本当に良くできていて美しい。
さっき注がれたばかりのロジオおばさんがブレンドしたというハーブティーもなかなかに美味しい。これでお母様のご機嫌がよろしければ、今日は本当に文句がないくらい良い日だと思っていたところだった。
お母様が突然切り出した。
「そういえば、ロジオさん。あの使いの者はなんて仰るの?」
ロジオさんはパーマでふわふわになったグレーの髪を揺らしながら、優しく微笑んで答えた。本人はとても好い人なのである。
「ああ、トレルのことかしら? 金髪の、赤い目の男の子でしょう」
「ええ。あんなdefectiveどこでお知り合いになったの? モデルか何か?」
「いいえ、特注よ」
さらりと、優しい微笑みのままロジオおばさんは答えた。お母様は納得していたようでも、私はロジオおばさんの返答の意味がよく飲み込めなかった。だから、聞いた。たぶん納得したくなかったのだと思う。どうしてその¢I択肢が私の中に生まれていなかったのか、それは、私の心を彼に奪われてしまったから。
生きている人だと、思っていたから。例えdefectiveだとしても。
「特注って仰いますと?」
ロジオおばさんも、お母様でさえ不思議な顔をして私を見た。私はわけがわからなくて、同じ不思議な顔をしてみせた。
「特注で、作ってもらったのよ、業者に。美しい執事のrobotが欲しいって。トレルという名前はわたくしがつけたの。可愛らしいでしょう?」
「robotですって?」
思わず聞き返してしまった。ロジオおばさんの顔とお母様の顔が一瞬にして歪むのがわかった。
だからわかった。
そう、彼はロボットなのだと、わかった。
「あ、すみません。変な質問をしてしまいました。あまりにもよくできているから、まるで人間のように思ってしまいましたの」
そう言うとロジオさんはにっこりと、満足そうに笑った。
慌てて取り繕っただけの言葉なのに。
よくできているから、だなんて。
人間のよう、だなんて。
私は、そんなことを言いたくなかった。言いたくなかったけれど、私は人間なのだ。completenessとして生まれたのだ。
間違いはあっては許されない。
だけど、奪われたこの気持ちは、一体どうしたらいいと言うの?
私は静かにハーブティーをいただいているふりをしながら、頭の中は真っ暗だった。
頭の中の私は暗い場所にいて、心の中には誰もいない。
頭の中で、誰かが泣いていた。
気づかないふりはできなかった。


私はrobotに恋をしてしまった――。




     *




 生まれて初めての感覚に戸惑いながら、現実にも戸惑っていた。心がない。心が奪われてしまった。お母様とロジオおばさんの会話も、聞いているようで内容は全然把握できていない。頭が冷静じゃないわ。これでも女学校では頭の良い方だったのに。
「ガーネさん、そんなにそれが気に入った?」
 ロジオおばさんが急に私を名指しした。私はなんのことだかわからず、思わず不適当な返答を返してしまった。
「え?」
「あらあら、ガーネさん、今日はなんだか気がお留守よ。その硝子細工のことをずっと見つめているから」
 ロジオおばさんはもう六十歳に近い。お年を召した方の笑顔は、こんなにも優しいものなのかしら。生きている間に生まれる優しさ全てをお顔に凝縮したような、そんな笑顔だった。この言葉をお母様が仰ったら、きっと私には皮肉にしか聞こえなかっただろう。
「すみません」
 気を留守にしていたのは確かだ。隣に座るお母様が私をひっそりと睨むのが目の端に見えた。
「いいのよ、謝ることじゃあないわ。わたくしは気に入ってもらえたのならそれだけで嬉しいのよ」
 ロジオおばさんの微笑みに、私も情けないながらも笑顔を返した。本当に、ロジオおばさんは好いお人なのだ。この後、車でお母様のご不満を聞くことさえなければ、私は週に一回だけじゃなく毎日でも来たいところだ。
「私の家には、薔薇の花しか植えていないものですから。マーガレットのお花って元気で、可愛らしいものなのですね」
「その硝子細工は輸入品だけれど、国産のマーガレットならすぐそこにあるわよ。一株持って帰る?」
「いえ、そんなお構いなく」
 私がはい、と返事をする前にお母様が断ってしまった。「ロジオさんのお庭を荒らすだなんてできませんわ」
 嘘だわ、とすぐにわかった。お礼の品を何にしたらいいのか、ロジオおばさんのお話を聞いている今でさえ、きっとお母様の頭はそのことで一杯なんだもの。
「荒らすだなんて。この家はわたくしひとりだし、花たちだってきっと色々なひとに見てもらった方が嬉しいわよ。ガーネさんはお花がお好きでしょう?」
 ロジオおばさんはお母様を無視なさるようにして、私に仰ってくれた。私は嬉しかった。マーガレットを頂いたら、私の駄々広い部屋に飾ろう。きっと綺麗だ。
「はい、好きです。ロジオおばさんのお庭にはいつもたくさんのお花が咲いていて、羨ましいですわ。心が安らぎます」
「よかった。ならいまトレルに用意されるからお話でもして待っていましょう」
 お母様のご不満のお気持ちを直接目線でぶつけられたのがわかったけれど、それよりも私はロジオおばさんの口から発せられた名前に大袈裟に驚いて、ちいさな、だけれど私にはとても大きな決断をした。
「あの」
「なにかしら?」
 ロジオおばさんが優しく聞き返してくださる。反面、お母様の牽制の目が痛く突き刺さったのを無視した。たまには反抗したって、いいじゃないの。
「私もご一緒してよろしいですか? その、お花を鉢に植えなおす作業のことなんですけれど」
「ガーネ。少しはお控えなさい。ここはロジオさんのお家なのよ」
「リーズさん、わたくしは構いませんのよ。ガーネさんが花が好きなことは昔から知っておりますから。じゃあトレルと一緒に行ってらっしゃいな。土に触るのもいいことだわ」
「ありがとうございます」
 高揚する気持ちを抑えて、なるべく丁寧にお礼を述べた。また、静かにしていたはずの心臓が躍り始める。頭はお母様の牽制の目のように冷たく私を止めるのに、踊る心臓は止められない。
 ロジオさんはテーブルの横にぶら下がっていた、これまた硝子でできた鐘をちりんと鳴らした。どうやら、それだけでトレルさんを呼ぶことができるらしい。
「もしかしてロジオさんはご自分でお庭の整理を?」
「ええ、ひとりでいると暇ですし、庭師に頼むよりも自分の好きなようにできるから意外と楽しいものですよ」
 お母様とロジオさんの会話を聞きながら、私はじっとトレルさんが来るのを待った。あの光を放つような金髪に薔薇色の瞳。あの瞳に私の心は奪われたのだ。いま、私の心の中には誰もいない。私がいない。けれどきっと、トレルさんの近くにいられたなら、私は心を取り戻すだろう。そして心臓は鮮やかに踊るのだ。
 ちりんとした鐘の余韻が終わる前に、すっと流れるように開いたままの入り口からトレルさんが入ってきた。口許には笑みを浮かべている。
 心臓の舞踏会が止まらない。
「お呼びでしょうか、ロジオ様」
 低くて冷たくて澄んだ水の声が、さらに心臓を躍らせるのに、まるでその声は肌に馴染むようだと思った。これが本当にrobot?
「ええ、ちょっとこのお嬢さんと一緒に、庭のマーガレットを一株鉢に植えなおしてちょうだい。わたくしからのプレゼントなの」
 皺の浮かぶ優しい笑顔に、私はお礼の気持ちをこめて笑顔を送った。マーガレットのお礼だけじゃない。
「ガーネ様へのプレゼントですか?」
「そうよ。植木鉢はガーネさんが選んでいいわ。温室にたくさん置いてあるから。トレル、場所はわかるわね?」
「はい、わかります」
「そう。それじゃあ行ってらっしゃいな、ガーネさん」
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼します、ロジオおばさん、お母様」
 頭を下げて、トレルさんのいる入り口へと向かった。背中に優しい視線と、残されて苛立つお母様の痛い視線を感じた。気にしない。
 私が入り口に辿り着くと、トレルさんは優しく、美しく笑んだ。「よろしくお願いします。こちらです」
 ああ誰か、この心臓の踊りを止めてくれないと、私、死んでしまうかもしれない。


 ロジオおばさんの邸宅はとにかく広い。お茶会を開くお部屋を出て、庭に出て、それだけでも充分に歩いたのに温室までさらに歩く。だけれど、庭を歩くのは楽しかった。色とりどりの花が私を迎えてくれる。私の家のように薔薇一種類で何色もの色をかもし出すのではなく、たくさんの種類の花の匂いが混じって居心地が良い。薔薇の苑の前で思わず私は立ち止まった。
「どうしたのですか?」
 トレルさんはすぐに気づいて振り返る。もうこの頃には私の心臓はスローステップな踊りに変化していて、私は「いいえ」と答えながら微笑むことができた。
「この薔薇。赤いけれど、真っ赤じゃなくてもっとやわらかい色をしているのね。まるで貴方の瞳と同じ色だと思って」
「私の瞳と?」
 少し先を歩いていたトレルが、戻って私の隣に来る。スローステップだった心臓はまたもとの激しい踊りに戻ってしまった。隣に、人の温度を感じるのだもの。
 私は薔薇のひとつを指差して、トレルさんに見せた。まだ完全に開いているわけではない。色もまだ完全色ではなくて、そこがやわらかいと思った。ピンクではない。これから赤く赤く、強い色に染まっていく前の優しい色。
「ガーネ様には、私の瞳の色はこんなにも綺麗に映るのですか?」
「あら。トレルさんはご自分で気づいてらっしゃらないの? こんなにも綺麗なのに。髪だって、太陽に透けるとプラチナのように輝いていてよ」
 笑いかけると、トレルさんは思いもよらない行動にでた。「失礼します」と低い声を風になびかせて、私の、肩よりもうんと長い髪の毛を掬うようにさらったのだ。
「な、なにを」
「私の髪より、ガーネ様の方がお美しいです。白い肌に、この黒髪はよく合っています。素敵ですね」
 にっこりと、その薔薇色の瞳を覗かせる目を細めて私に笑いかけた。
 いいえ、素敵なのは貴方の方だわ。
 私は心だけじゃなく、声も奪われて、誉められた時に言わなければいけないお決まりのお礼の言葉も口にできなかった。
「あ」
 と、笑顔を崩して、トレルさんは何かに気がついたらしい。私の髪をさらったまま、また私には理由のわからない美しい笑みを浮かべた。
「今度は、なに?」
「ガーネ様は不思議ですね。黒いだけじゃなくて、ほのかに赤い。そういえば、ガーネットという宝石がありましたね。ちょうどこのような感じの、綺麗な赤だったと記憶しています」
 私は言葉も出なかった。髪を誉められたことなんて初めてだった。女学校ではいつもけなされていた。黒くて赤い。まるで、黒髪が血をかぶったようだと言われ続けてきた。Completenessに黒髪は珍しい。赤毛や茶色はたくさんいるし、もちろんトレルさんのように金色の髪を持つ人もいる。大半のcompletenessの髪は色素が薄い色で、黒髪なんて珍しいのだった。ましてや黒は、悪魔の象徴の色。赤は血の象徴の色。宝石の例えを用いるだなんて、お兄様でも、言ってくれやしなかった。家族は誰も私の髪の色に触れたことはない。だって家族はみんな、お父さまもお母様もお兄様も、赤毛なんですもの。私だけ、黒い髪で生まれてしまった。
 私は奪われた心が突然自分の場所に戻ってきたのがわかった。気持ちが膨らんで膨らんで、私にはもう手におえない大きさ。雨雲が抱えきれなくなった水を溢れるように地上にもたらすのと同じように、私も、抱えきれなくなった気持ちが涙になって溢れた。
「ガーネ様? すみません、変なことを申してしまいまして」
「いいえ、違うの。違うのよ。私は嬉しいの」
 嬉し涙というものの存在は知っていた。知っていたけれど、体験したことがなかった。そうか、嬉し涙というものは、貯蓄し続けた悲しみの上に嬉しさが舞い落ちて、そして涙が決壊するのだわ。
 私は指で涙を拭う。いくら拭っても拭っても、涙が止まらない。いま、きっと私は、いつにも増して可愛くない顔をしているに違いない。泣き止まない私に、トレルさんが戸惑っているのがわかった。わかっても、涙が止まらない。だから言った。可愛くない顔でも、きちんと前を向いて、トレルさんの目を見て。
「ありがとう」
 トレルさんが困った顔をする。
「私はただ、ガーネ様を泣かせてしまっただけです。ありがとうなどとは」
「いいえ、私は嬉しいの。嬉しくて涙がでてしまったの。だから、ありがとう。貴方のおかげだわ」
「私は何も」
 トレルはそう言って、でも結局私の涙は止まらなかった。それはきっと、傍目に見ても私とトレルさんが釣り合わないことがわかっているからだろう。容姿もそうだけど、何よりも――どんなに認めたくなくても、彼は、robotなのだわ。それを頭の隅っこで、恋をしていない私が理解してしまっている。
「ガーネ様」
 沈黙に堪えきれなくなったのか、トレルさんが口を開いた。緊張気味の声。それでも、耳に届くその声が嬉しい。
「何かしら」
「私はどうすればよろしいのでしょう?」
 彼は本当に困惑しているみたいだった。きっと、目の前で誰かに泣かれた時のことなど教わっていないに違いない。私だって、心を奪われて、心臓が踊った時はどうしたらいいのかなんて、教わらなかったもの。
 私は涙を指ですっと横に流して、思い切ったことを言った。どうして私の口からそんな言葉が言えたのかは、すごく疑問。
「じゃあ、様付けはよして。いいえ、ずっとじゃないの。ロジオおばさんや、お母様がいるときは様を付けて呼んでちょうだい。でも、ふたりだけでいるときは、ガーネと、そのまま呼んで」
「でも私は」
 ――執事robotです。
「その先は言わないで」
 わかってしまったから、遮った。
「私は貴方が好きです。だから、ふたりでいるときは何も言わないで。私にとって貴方は、人間よ」




      *




――defectiveではないのにcompletenessな存在。
completenessでありながら、使用される存在。
robotが生まれてしまった。
――機械人形。
精巧に作られたソレは、まるで人目ではわからないほど、人間だった。


 そう、だから、精巧に作られたrobotは、人の心すら、理解した。




      *




 私はロジオおばさんの家に行くことを、週に一度だけでなく、何日も訪れた。多い日は毎日。ロジオおばさんには全てを話した。ロジオおばさんとは遠い血縁なのに、私が幼い頃からとても良くしてくれていて、私は孫のように可愛がられていた。ロジオおばさんには子供がいない所為もあるのだろう。私に甘いとわかっていたからこそ言えたのだと思う。
 私たちは愛し合ってしまった。Robotにも人と同じ、心があるのだ。うちのメイドたちにはないけれど、人間に似せようとすればする程人間に近づく。違うのは、皮膚を隔てた、その内部だけ。私はそう思っている。
 案の定ロジオおばさんは、私が打ち明けた話に苦い顔をした。その苦い顔は私への心配だった。それでもね、ガーネさん。あなたはcompletenessなのよ、と言った。私はそれでもめげなかった。本気なのだと。愛し合ってしまったのだと。全てを、告げた。
「その恋の果てに何が待っていても、貴女は耐えることができる?」
「ええ、大丈夫です。耐えられます」
 ロジオおばさんはひとつ溜息を吐いて、私がここに通うことを許してくださった。私がトレルと愛し合うことも、黙認してくださると仰った。
 この恋の果てに何が待っているか?
 それはきっと、見えている。だけどまだいまは、想像したくもなかった。温室で生まれて初めてのキスをした。やわらかくて、吐息まで伝わってきた。彼はどこから見ても人間だった。抱きしめてくれる時の温度さえ、人肌。身体もやわらかくて、robotのような硬さなんて微塵も感じなかった。
「ねえトレル?」
 一緒に温室で花を愛でている時に、トレルに優しい口調で話し掛けた。もう初めて会ってから、心を奪われてから、一ヶ月も経っている。すでにトレルからは敬語は抜けきっていた。
「なに、ガーネ」
 海の底のような、穏やかな声。私はいつもこの声が好き。
「ねえトレル、トレルは愛するっていうことを、きちんとわかる?」
「きちんと?」
「私はね、まだよくわからないの。でも、トレルと一緒にいられたら、それだけで私、しあわせなのよ。嬉しいの」
 そう言うとトレルは何も言わずに私を引き寄せて、抱きしめて、さらにはキスをした。もう何度目のキスだろう。優しいキスは、温室に広がる甘い花の匂いに似ている気がした。
「僕も、幸せだ。ガーネが笑うと嬉しいし、ガーネを見ると、幸せになる」
 愛してるなんて言葉は一度も言い合ったことがなかった。ロジオおばさんには愛し合っていると伝えたけれど、実際、愛するという行為がよくわからなかった。それでも私たちは幸せだから、きっと愛し合っているのだと思う。一緒に時間を共有するだけで、私たちは幸せだった。私の前で、彼は人間だった。私の想い人だった。
 ただ、一緒に寝る時。彼の腕に頭を乗せた時。その時だけは、少し寂しかった。
 脈の音がしない。胸は上下していても、かすかな心臓の動きがない。胸に耳を当てても心臓の動く音がしない。――私にはあるものが、彼にはない。
Completenessであって、 defectiveな物。曖昧だけれど、それがrobotの定義。それを実感すると、少し寂しくて、この恋の果てを想った。




      *




 いつものようにトレルと会ってから帰宅すると、リビングにはお父様もお母様も、お兄様までもが顔を揃えていた。まだお食事の時間ではないし、それに、三人とも顔が厳しい。背中をすうっと誰かに指でなぞられたように、気味の悪い予感がした。
「ガーネ、座りなさい」
 お父様の言われるがままに座る。お父様とお母様に睨まれて、お兄様は、何もないテーブルをただ眺めているだけだった。
「一体、なんなのでしょうか、これは」
「話があります」
 お母様の厳しい声が聞こえた。さっきの嫌な予感はあたったのだなと、早くもわかってしまった。
「最近あなた、よくロジオさんの家に出入りしているようですね」
「それが、何か? ロジオおばさんのお話はおもしろいですし、参考になりますわ。いつものお茶会です」
「それにしては日が多すぎる」
 お父様の厳しいお声。ああ、こうして責められることは、私の頭の中の誰かが知っていた。きっと、心を奪われたその時から。
「ロジオおばさんとはお友達になりましたの。お友達とお茶会をして、何かいけないことがございまして?」
 怯まずにお父様を睨んだ。お父様は彫刻のように固くて、お苦しそうなお顔をなさっている。お母様も眉を顰めて、嫌なお顔。
「いけないのはそこではない。他にあるだろう。どうしてこんなことになったんだ」
「言っている意味がわかりません」
 きっぱりと言うと、今日初めて、お兄様のお声を聞いた。
「まどろっこしいよみんな。お父様もお母様も、ガーネ、おまえも逃げるな。もうバレているんだ」そう言って、哀れむようにため息をつく。「単刀直入に言おう。Robotなんかと恋愛するなんて馬鹿げている。Completenessとしての自覚を少しは持て。僕たちは相談して決めたよ。おまえがあのrobotを諦めるまで、外には出さない」
「なんてことを言うの!」
 思わず叫んでしまった。だって、お兄様が言うrobotという言葉には、軽蔑の色が混じっていたから。お父様もお母様も、私を諌めるように睨んだ。私は生まれて初めて、両親を睨み返した。
「わかっていないようだから言ってやろう。おまえはcompletenessで、おまえが恋をしているのは人間じゃない。機械だ。Robotなんだよ。Completenessは完璧でなくてはならない。それがこの国に生まれ、completenessとして生まれたおまえの使命だ」
「恋は自由だわ!」
 お父様に反論する。こんな、二十歳になって初めて反論するだなんて、思いもしなかった。
 人間じゃないからと言って、どうして会ってはいけないの。どうして恋をしてはいけないの。
「私たちにそこまでの自由はありません。自由と引き換えに、この豪華な暮らしを手に入れているの。あなたがそこまで馬鹿だったなんて知りませんでした」
 冷たい。空気も声も視線も、すべて冷たい。
「馬鹿なのはそっちだわ!」
「親に向かってなんてことを言うんだ!」
「お父様、あまり怒ると話がずれる。今日は話し合いのはずだ」
 お兄様の宥める声がいやに静かで、腹立たしかった。掌をいくら握っても握っても、怒りが逃げていかない。この部屋は苦しくて、窒息しそうだ。
 トレル。トレル。どうか会いにきて。貴方の優しい腕の中で、私は安らぎたい。
 会いたい気持ちで一杯になって、泣きそうになった。だけど泣けない。私の心はトレルが持っているから。トレルがいないと、私は泣くことすらできない。
 お兄様の言葉で、誰も喋らなくなった。お兄様が私を理解してくれないなんてことが有り得てしまったことも悲しい。いつも、私を批判することなんてなかったのに。
 私は家族の中で唯一、お兄様だけ、家族だと思っていたのに。お兄様なら私の気持ちの全てを理解してくれていると思っていたのに。いつもいつも、お話を聞いてくれていたあのお兄様は、どこに行ってしまったのかしら。
「とにかく」
 お兄様が口を開いた。呆れた声。お兄様の口からは、絶対に聞きたくない声。
「ガーネ、おまえはしばらく外出するな。つまりは、あのrobotと会うな」
「robotだなんて言わないで」
 お兄様の声に切り込みを入れるように鋭い声で言った。
「どうしてだい? あいつがrobotなのは本当のことだろう」
「私にとって、トレル――彼は、ひとりの、立派な人間だわ」
 お父様が激昂したのがわかった。
「おまえはまだそんなことを! どうしてわからないんだ!? おまえはcompletenessなんだとさっきから言っているだろう!」
 お父様の赤いお顔が目にちらつく。私は俯いて、簡単に言葉を吐いた。
「私は前々からcompletenessなんて馬鹿馬鹿しいと思っておりました。欠陥がないからと言って偉そうに生きていられる。まるでプライドがないと思います。会うことすら認めてくれないのでしたら私は、この身体を切り取って、機械にしてもらいます。Completenessではなくなります」
「それは無理だよ」
 静かな、お兄様の声が聞こえた。思わずお兄様の顔を見た。困ったような、哀れむような、いつものあの顔だった。
「どうして」
「そういう決まりがあるからさ。僕たちは一生このまま生きて、健康な子供を産むしかないんだよ。それが、戦争があったことを後世まで残す一番簡単な手段なんだ」
 お父様の怒鳴り声が聞こえた。お兄様のお言葉を覆そうと懸命になるお母様の声も聞こえた気がする。私はお兄様の言葉に愕然として、言葉もでなかった。
 戦争があったことを後世まで残す手段ですって?
 私は呆然としたまま、お兄様を責めるお父様もお母様も無視して、急いで席を立った。
「ガーネ!?」
 すぐに気づかれてお兄様の私を呼ぶ声がしたけれど、止まらない。ドアに一番近い席に座っていたことと、リビングが玄関に近いことが幸いだった。私は銀色の車体のドアに指を押し当てて、指紋で無理矢理開けさせる。簡単に開いたドアにするりと滑り込んでロックをかけた。もうこの中には誰も入り込めない。ロックをかけた直後にお兄様の手が硝子窓にぶつかるのが見えた。止めようとなさっている。だけれど、もう遅いの。
 私はいつも見ていた運転手の真似をして車を発進させた。免許は持っていないけれど、毎日のように運転する様子を見ていたら馬鹿でもわかってしまうわ。
 お兄様の手が離れた。窓の外から私の名前を呼ぶ声がした。でも、それは私がいま欲しい声じゃない。
 トレル、トレル。会いたい。トレルの声で、私の名前を囁いて。優しい時間を、私にちょうだい。
 熱心に願いながら、それでも熱を帯びた目は涙を流さなかった。




            *



 私はかなりの強引な運転でロジオおばさんの家にたどり着くと、すぐドアに駆け寄ってベルを鳴らした。
「トレル! トレル!」
 数秒もしないでトレルがドアを開けた。
「どうしたのガーネ」
 トレルが姿を現した瞬間に、私はトレルに抱きついた。温度を感じる。トレルに預けた私の心がもとの位置に戻ってきて、私に涙を流させた。
 涙に気がついたトレルが慌てた。
「ガーネ!? どうしたの。あの車、君が?」
 こくりと頷く。声がでなかった。トレルはいつもの低い声で私に言葉をくれる。私はこの人を、こんなに早く手放したくない。いつか来るとわかっていた終焉がこんなにも早く訪れるなんて、願っていない。
 トレルの胸の中で泣いていると、廊下から、静かにやってくる足音が聞こえた。ロジオおばさんだ。顔を上げて、ロジオおばさんを見た。ロジオおばさんも悲しい色を顔に映していた。
「思っていたより、早かったのね」
 ロジオおばさんは全てを了承しているようだった。
「ガーネさん、貴女は最初に言ったわね。この恋の果てになにが待っていても、耐えられると」
「それでも、こんなに早い終わりは、予想もしていませんでした。こんなに早いだなんて、どうやって心の準備をすれば」
「心の準備は最初からしなくてはいけなかったのよ。わたくしは、最初から、トレルを失う準備をしていたわ。悲しいけれど」
「どうしてロジオおばさんまでもがトレルを失わなければいけないのですか?」
 そう聞いた時、ロジオおばさんは悲しい顔をして、視線を背中の方に移した。
 ああ、そういうカラクリだったのか。ロジオおばさんの後ろに立っている何人もの制服に身を包んだ警官を見て、ようやくわかった。
 私は国から守られている。国はcompletenessを失うわけにはいけない。国の宝だ。国の――戦争があった、証だ。だから守られている。
 トレルは誰からも守られない。
「ガーネ……」
 トレルは私を抱きしめて、私の欲しかった声で、私の名前を呼んだ。それなのにもう手遅れだなんて。
「あんまりだわ」
 胸の中で一言呟いた。後ろから車のちいさな音がする。お父様たちが追いついて来たのだわ。もう、おしまいなのだわ。早い終焉。
「ごめんね、ガーネ」
 頭の上から、私の好きな声が降ってくる。その言葉に驚いて私は顔をあげた。
「トレルは、知っていたの? この……」
 終わりを、と続くはずの声がでてこない。それでもトレルには伝わってしまった。トレルは初めて出会った時と変わらない美しい顔で、悲しく微笑んだ。
「ロジオ様から。君と最初のキスを交わした翌日に、教えられたよ。僕の終わり方を」
「そんな!」
 ひどい。ひどい。どうしてみんな、黙っていたの。どうしてみんな、こんな悲しい終わり方を作ろうとするの。どうして。
 私は幸せだった。トレルが好きだった。トレルと居ると、何も喋らなくても嬉しかった。トレルも幸せだったはずだ。それなのに。
 どうして、愛する人と会ってはいけないの。どうして恋に落ちてはいけないの!
 トレルは私の髪を撫でた。後ろにお父様たちの気配がする。お父様たちのことなんて、いまは考えたくなかった。いまは、いまだけは。トレルだけが誉めてくれた、ガーネットと同じ色だと誉めてくれたこの髪をトレルが撫でている間だけは、何もかも忘れたい。この温かさに包まれていたい。
 そう、このトレルの胸にいくら耳を押し付けても、心音がしなくたって。
 私は彼に恋をしているのだから。
「さあ、ガーネ」
 トレルが撫でつける手を止めて、私を引き剥がした。私はトレルを見つめたけれど、トレルは私の願いを叶えてくれることはなく、その言葉の続きを言ってしまった。
「もう、終わりだよ。さようならだ」
 トレルから離れると、気づけば遠くにいたはずの、真っ黒い制服に身を包んだ警察官たちはロジオおばさんよりも近くに来ていて、手には鉄砲を持っていた。警察官の制服はまるで喪服のようだ。
 トレルが私を引き剥がし、引き剥がされた私は後ろからさらにトレルから離されそうに鳴った。お兄様の手がかかったのだ。
 私はありったけの力でそれに抵抗して、トレルにしがみついた。
「トレル!」
 呼んで、最後の、最期の、口付けをした。いつもお庭や温室でするように甘い匂いのしないキス。それでも、どこまでも優しかった。果てがないほど、優しいキスだった。
 私はお兄様の手を振り払ったままトレルにできるだけ笑いかけようとした。できなかった。トレルが悲しい顔で笑っているから。同じ顔になってしまうから。
 だから、私は、トレルを追い越して警察官に近づいた。
「ガーネ、待て!」
 お兄様が叫ぶ。
「来ないで」
 静かに言って、警察官に笑いかけた。ロジオおばさんがいつも私にしてくれるような、とてもとても優しい笑顔の真似をして。その笑顔なら、拳銃を渡してくれると思った。
「それ、渡してくれるかしら」
 警察官は表情を少しも変えないどころか、頑なに構えた拳銃を離そうとしない。私はかがみこんで、拳銃が喉にあたるようにした。指はトリガーに。
「渡してくれないなら、私がここで死ぬわ。それでも?」
 私はcompleteness。国に守られる存在。
 警察はあっさりと拳銃を明け渡した。その警察は他の警察に怒鳴られたようだけど、私には関係ない。
「ガーネ」
「こんな時でも、海の底のような、穏やかな声で私を呼ぶのね」
 私も、トレルも、ふたりして同じ顔を作ったと思う。悲しいのに、無理矢理に笑う。
 私はトレルに近づき直して、トレルに抱きついた。拳銃を手にしたまま。
 とても静かだった。誰も喋らないし、トレルの胸は、鼓動が聞こえない。知らない間に涙が流れていた。溢れて溢れて、それでも私は、拳銃を手放さなかった。
「トレル、さようならね。いままでありがとう。私、とても幸せだったわ」
「僕も幸せだった。ガーネがロジオ様の知り合いでよかった。出会えてよかったよ。こんな僕に幸せを与えてくれてありがとう」
 最後まで優しいトレル。トレル。優しくしないでくれたら、私はどんなに楽に、貴方とさよならできるか、貴方知っている?
 トレルの後ろで固まっているらしいお父様とお母様に冷たい視線をぶつけながら、腕を伸ばしてトレルの眉間に銃口をあてる。拳銃は冷たくて、重たい。
「お父様、お母様。これがあなたがたが望んだ結末なのでしょう?」
 そう言って、驚きと恐怖に歪む両親の顔を見た後に、トレルに微笑みかけた。
「トレル。私きっと、貴方を愛していたわ。だから、私に殺させてくれる?」
「僕もガーネを愛していたよ。君に殺されることが、一番幸せな終わり方だ」
 ふたり微笑んで、そして私は、重い引き金を、引こうとした。後戻りはできなくなったその瞬間を狙っていたのかもしれない。トレルは一瞬の隙をついて、言った。
「幸せに生きて」
 トレルの語尾と、銃声が重なった。




        *




 早すぎる恋の果てに私は泣いた。トレルを失って、心は私の中に戻ってきた。もう奪われることもない。トレルの最期の声に私は頭が狂いそうになって、結果、死にぞこなった。お兄様に止められてしまった。
 そしていま、私は、真っ白な病院服着て真っ白な部屋の中にいる。まるで収容所ね。
 私の部屋と同様に広すぎる病室のドアをあけて、するりと人影が入ってきた。
「……お兄様」
「どう。少しは落ち着いたかい?」
 お兄様は私を気遣って、お父様とお母様を面会謝絶にしてくださった。それは幸運だったけど、嬉しいとも、なんとも思えなかった。
 私はお兄様になんの返事もよこさずに窓の外を見る。青空が明るい。あの青空と同じ色の空の下、私とトレルは静かに、幼稚な恋のようだけれど確かに愛し合っていたのに。
 もうトレルはいない。彼がrobotで、私がcompletenessだったから。
 お兄様は設置された椅子に腰掛けて、私を見ていた。私はお兄様を見ずに、窓の外に目を向けたまま口を開いた。
「ねえお兄様。私、間違ったことをしたのかしら。全然そんな気になれないのだけど」
「ガーネは、間違っていなかったよ。人間として正しかった。おかしいのはこの国さ」
 さらっと、お兄様は言ってのけてしまえる。それなのにcompletenessとして生きていられる。私には理解のできない人だと思った。
「お兄様はいま、恋をなさっているの?」
 NOという答えを期待していたのに、お兄様はこれも簡単に答えてしまった。「してるよ」
 お兄様は、恋をしている。私は初めての恋を、一ヶ月で失ってしまった。
 自嘲の笑みが零れてしまう。もう、自分を嘲笑うしかできない。
「お兄様は幸せなのね」
「そうでもないよ。相手はdefectiveだからね」
 あまりにも簡単に言ってしまうものだから、私は耳を疑った。
「defectiveですって?」
「そうだよ、悪いかい?」
 お兄様は自然に笑った。そうか、幸せなのだ。いま、お兄様は幸せなのだ。お兄様にはまだ終わりが来ていないから。それでもお兄様の笑顔がどこか寂しげだったのはきっと、お兄様もその恋の果てを知っているからなのだ。知っていたから、私の恋に反対したのだ。
 私が黙り込んでいると、お兄様は秘密だよ、と人差し指と唇に立てた。まるで小さい頃のようで、私は久しぶりに笑った気がした。
「さあ、ガーネ。落ち着いた?」
「ええ、少し」
「じゃあこの国の本当のことを教えてあげよう」
 私は思わず目を見開いてしまった。本当のこと? まだ、私の知らない何かがこの国にはあると言うの?
「本当のこと、というのは?」
「そのままさ。みんなが知らないことを、ガーネに教えてあげるよ」
 そう意味深に笑って、お兄様は物語を聞かせるように喋り始めた。
「この国にはdefectiveとcompletenessが存在しているだろう? そして、defectiveの子供はdefectiveのまま、completenessの子供はcompletenessのまま生まれてくるのは知っているね?」
「ええ、知っていますわ」
「じゃあその影でどんな裏工作がされているかは、知らないだろう?」
「裏工作?」
 一体、なんの話だろう。
「ああ、裏工作さ。Defectiveの子供だって、誰もが同じdefectiveとして生まれてくることに疑問を持ったことはあるだろう?」
「ええ。昔から、その疑問はお兄様にぶつけておりましたもの」
「その答えを教えてあげるよ」
 お兄様は静かに、残酷に笑っているように、私には思えた。何かよくない予感がする。聞いてはいけない何かを聞いてしまうような――
「defectiveの子供はね、生まれた直後にどこかしらを切断されるんだ」
 何を言われたのか、その言葉がどういう意味なのか、理解するのに時間が必要だった。一瞬は理解できたのだろう。身体中に鳥肌が立ったから。その一瞬後にはその意味を、忘れ去ろうと頭の中の私が努力したに違いない。
 私は理解し直して、身体中を得体の知れない何か気持ち悪いもので撫でられたような気分になった。
「切断、と仰いましたの?」
「そうだよ。切断する場所は親が決める。妊娠してすぐにね。そして、生まれた赤子は手なり足なり、内臓なりを切り取られて、人工の物を容れられる」
「そんな、そんなの――」
「残酷だと思うかい?」
 お兄様は笑った。情けない笑顔で、笑った。顔がもう答えていた。これはしょうがないことなのだと。しょうがないのだと、諦めた顔で、笑っていた。
 私は泣きたくなった。悲しかった。この国に生まれた全ての人が、悲しかった。すべての運命が、使命が、悲しかった。どうしてこの国はこんなにも不自由に生きなければいけないのだろう。もっと、もっとたくさんの幸せが世界には満ちているはずなのに。
 私はとうとう耐え切れなくなって、涙をぽろぽろと流した。トレルに預けた心は、今度は悲しみで飽和状態を越えてしまった。悲しい涙がベッドのまっさらなシーツに染みを作る。目を両手で覆って泣いた。
「それ、も。すべて、すべてが、戦争を忘れないためなの?」
「そうだよ」
 見えないお兄様の声は、とてもとても寂しそうだった。きっと叶わぬ恋の相手のことを想っていたのだと想う。
 変わらない運命。生まれながらに課せられる、先祖達の罪。悲しみが終わらない。
「……お兄様」
 しばらく涙を流して、心の中がやっと雨雲からただの雲に戻った頃、目を覆う両手をどけてお兄様を見た。
「なんだい?」
 お兄様も悲しい顔をしている。この国の人はみんな、悲しい運命だ。
「私、これからどうしたらいいのか、わかりませんわ」
 心だけが行き場をなくして路頭に迷っている。どこに行ったらいいのか、どう人生を歩んでいけばいいのか、もうわからない。悲しみの中で、どうやって生きたらいいの。
「トレルが言っていただろう。最期に。幸せに生きて、と。おまえは幸せに生きたらいいんだよ」
 私は驚いた。あの声はすべて銃声に掻き消されて、他の人には聞こえなかったものだとばかり思っていた。
「お兄様は、あの言葉が聞こえたの?」
「近くにいたからね」
 幸せに、生きて、だなんて。この悲しい国で、どうやって幸せに生きられるのだろう。
「お兄様、私、幸せに生きられる自信がもう、ありません」
「ないなら作ればいいさ」
 お兄様はなんでも簡単に仰る。私はさらに悲しくなった。
「どうやって?」
 方法が、わからない。
「それは僕にもわからないよ。この世界は悲しい。だけど悲しい世界で、ガーネは一時だけど、幸せだっただろう? 同じさ。悲しみの中にも幸せは生み出すことができる。おまえの幸せが、トレルの幸せだよ」
 トレルの幸せ。トレルは、私が幸せになることを願って、死んだ。それでも私はまだ、幸せになる方法がわからない。トレルのような人とこれからめぐり会えるなんて、考えられない。
「おまえはまだ若いからね、まだまだ、先があるさ」
「ねえお兄様」
「なんだい?」
「トレルは。トレルは、どうなってしまったの?」
 私はトレルを殺した後のトレルを知らない。葬式もなかったから。トレルを殺してすぐに、私は警察に保護されて、病院で安定剤を打たれて眠りについていた。
 お兄様はめずらしく黙って、窓からさわやかな風が吹いた時に同時に、風に流れてしまいそうに寂しい声で仰った。
「壊れて、廃棄処分場に運ばれたよ」
「壊れただなんて言わないで」
 彼は壊れたのではない。彼は、彼は、私にとって人間だった。Defectiveであってcompletenessな存在であったとしても、私にとって彼は、私の想い人だったのだ。
「私にとってトレルは、どこまでも人間だったわ。壊れただなんて、言わないで」
 悲しいのに、泣けなかった。トレル、トレル。会いたいのに、もう叶わない。たったの一ヶ月で終わってしまった恋。ああトレル。私はどうやって幸せになったらいいのか、わからないわ。
 お兄様は私を諌めようとはせずに、私の望みどおりに言い直してくださった。
「トレルは、死んだよ。彼は死んだ」
 トレルは死んだ。その言葉を私以外の声で聞いた途端に、悲しみで心が溢れた。また、涙が流れた。
 短すぎる恋の果ては、こんなにも、悲しい。何もかもが早すぎた。私はいつか、みんなと同じように、トレルをrobotだと割り切って幸せに生きるのだろうか。
 そんな人生は、私にはまだ早すぎると思った。私はまだ、トレルを愛している。
 私が殺してしまった、トレルのことを。





END



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