教室のふたつの日常
ゆり
僕はじいっとただひとりの女の子を見つめていた。授業中も彼女の頭を見つめているし、休み時間なんかは、友達の言葉なんて耳に入れない勢いで彼女のことばかり見つめている。自然と目線が勝手に彼女を追ってしまう習性でもついてしまったのか、僕は無理矢理目線をもぎとられでもしない限り彼女を見つめていた。僕はそれだけで幸せだった。
彼女が僕の視線にいくら気づかなくても、僕が彼女の世界に干渉することはとても難しいとわかっていても、きっとそれが、僕には一生達成することができないことだと僕がわかっていても。それでも僕は幸せを感じている。ささやかな、満たされることのない幸せ。悲しみを伴なった幸せはでも、確かに、幸せだと思うんだ。
そんな僕を、友達は散歩に出かけたのに歩こうとしない犬をリードで引っ張るかのように、告白を勧めてきた。だけど僕は停滞することを守った。僕が動き出してしまえば、彼女の世界に一時的に干渉できたとしても、それはきっとマイナスの価値しかないから。そうなればいまのささやかな幸せだって失われる。告白を断ったクラスメイトに毎日監視されるかのように見つめられ続けたら気持ち悪いってことぐらい僕でもわかる。
彼女は例えるなら、言葉を百メートル先まで伝えようと必死になって大声をあげながら生活し、その百メートル先の相手との間にいる人間への騒音公害などまるで気にもとめない。聞いた限りでは傍若無人な振る舞いにも思えるのに、彼女を知る人間の大多数の印象は傍若無人なんて単語を思い浮かべる余地すらないに決まっている。逆に、その清清しさを褒め称えるかもしれない。僕ならそうする。褒め称える機会が、どこにも見当たらないけど。彼女の騒音公害は、傍目から見れば騒音でも、彼女の関係者からすれば騒音なんかじゃないのだ。そんな生活を彼女は溌剌とした笑顔で、時に翳りながら、僕の見る限りずっと続けている。大声で百メートル先の相手に必死に言葉を叫ぶ姿はいつでもダイヤモンドダストのように煌いていて、だからこそ誰も文句を言う気が起きない。それが彼女の魅力だから。
僕はと言えば、十メートル先の相手に言葉を伝えるのが精一杯というところだ。その十メートルの間にいる人々の多くは声をあげる僕を壊れて邪魔くさいラジカセのように思うだろう。そんな考えが先行して、僕は大きな声をだせないまま、中学三年のこの年まで生きてきた。僕の世界は小さい。大きく見積もっても半径十メートルしかないのだ。彼女のように、半径百メートルで、しかも取り囲む人間のほとんどが笑顔だなんて、そんな世界ではない。
だからこそ憧れているのだろうけど。
僕はこうして彼女を見つめるだけの身分でしかいられない。そう信じて疑わなかったし、僕が彼女の世界に入り込むには、僕の世界は狭すぎて手を伸ばしても彼女には届かない。それが事実だと思っていた。本当にそれが事実だったのに。
彼女はいつものように教室の黒板の前のあたりで友達と休み時間を満喫し、笑顔を時間の中にばら撒くように笑っているわけではなく、日直として黒板消しを持ち、つい数分前まで行われていた数学の授業の軌跡を抹殺しにかかっている。けれども背が届かないのか、一番上の方は背伸びをしながらだった。その間にも教室の中を振り返り、声をあげてノートを取っている途中の人はいないかを確認しながらの作業。授業の後半に書かれた数式達だけを残して、前半部分を消し終えた彼女は笑いながらノートを取る人間を急かしつつ、それも終わると、彼女は再び黒板を消しにかかる。
僕はどうしてか、席を立った。
「どうした?」
友達の疑問の声があがる。休み時間に上の空なのはいつものことだけど、席を立ったのは初めてだ。トイレを除いて。
「ちょっと」
僕が答えるあたりで僕がどこに向かっているのか気づいたのだろう。前を向いたままだった視線を少し後ろに逸らせば、真夏の日差しを浴びながら窓際の僕の席付近で会話をしていたはずの友達ふたりは示し合わせたように含みのある笑い顔でテレパシーを送りあっていた。とうとう動いたぞ、とでも送っていたのかな。
僕は自分の行動が不思議だった。どうしてだろうと思いながら視線は動くことなく彼女を捉えつづけているし、僕の足は命令もしていないのに前へと進んでいる。つまりは、黒板の天辺に懸命に背伸びをして消そうと努力している、僕よりも消しゴム三つ分ぐらい小さな彼女を手伝おうとして――彼女の世界に干渉しようとして、僕の足は進行しているのだ。
信じられない。だけど足は停滞しない。動悸がする。半径十メートルしかないこの僕が、半径百メートルの彼女の世界に干渉するって? 一体どう思われるだろう。友達でもないクラスメイトが、しかもこんな僕みたいな男子がいきなり彼女の世界に侵入して、彼女は嫌な顔ひとつしないでいてくれる保証なんてない。むしろ僕は、嫌な顔をされる方が当たり前だと、そう、わかっている。わかっているのに。
どこかで期待をしている自分がいる。チョークと共に置かれているもうひとつの黒板消しを手にとって、彼女の手の届かない位置を消す僕にダイヤモンドダストと同じぐらい輝く笑顔を、僕にもくれるんじゃないかって。ありがとうと言ってその笑顔をくれて、僕は彼女の世界にマイナスの価値ではなくプラスの価値として干渉することができるんじゃないか、って。
僕の足は歩みを続ける。止まろうとは思わなかった。彼女をひっそりと見つめつづける、満たされない幸せにもう嫌気がさしていたのかもしれない。いや、その幸せと表裏一体の悲しみが幸せを上回って僕の心の中に落ち着いてしまったのかもしれない。僕はその悲しみをなんとかして除去しようと、僕のちいさな世界から何十歩も何百歩も遠く離れた地点まで世界を広げようとしているのだ。
僕は歩みを止めるつもりはなかった。後悔をするつもりもなかった。
だけど僕は止まった。再び停滞した。僕の世界は半径十メートルを越えることはなかった。
僕は悲しみを除去することもできず、ただ目の前の事実を静かに受け入れて不自然に来た道を戻った。半径十メートルの世界へ。
僕が彼女から視線を外して見た世界には、剛毛の髪を立てた男子と猫毛をそのまま切っただけの男子が、つまり僕の友達が、一瞬前に見た笑顔とは違う顔で笑っていた。励ますような感じの。ああ、そっか、そうだ、まだ一瞬前の出来事なんだ。僕が世界を変えようとして、未然に終わったのは。
幸せは大きくならないまま、現実を受け入れた心がさらに悲しみの度合いを増やしただけの、些末な出来事は一瞬前に起きて、一瞬で終わった。僕の中で自己完結しただけで、終わってしまった。
僕は自分の席について、ただ一言、ただいま、と述べた。彼らふたりの表情を見る限りそれだけで充分だと思う。
「成長したじゃんか」
その言葉だけが、僕に降りかかった。成長? 僕の世界は変わっていないのに。ちいさいままなのに。
それでもどこかしら悲しみが薄れたような、悲しみの上に何かバンドエイドでも貼ってもらったような気分になった。
僕はいつものようにまた視線を彼女に戻す。黒板の前で煌きながら笑顔でいる彼女と、クラスメイトならみんなが知っている、学年でもほとんどが知っている事実がそこにあった。
彼女は彼女の彼氏に微笑みながら、自分では届かない所を彼氏に消してもらっていた。
END