ふたつの穴
ゆり



 氷が融けてコーヒーの上に膜を作っていた。インスタントコーヒーにポットからお湯を注いで、冷たくする為に氷を何個かぶち込んだんだから二層になってしまうのはしょうがない。あたしは寄りかかってるベッドの上を振り返って、さっき渡したコーヒーも同じ結果になっていることを確認した。ベッドの頭の方に置いてあるランプが、暗い部屋をオレンジ色に照らしながら、そのついでにコップも照らしている。コップに口をつけてみると、氷は熱湯に負けて生ぬるい。
「ねえ、浩人」
 インスタントコーヒーの不透明な暗い茶色を眺めながら、ベッドの上にいる男を呼んでみた。
「んー」
 気の抜けた返事が返ってくる。絶対、浩人はこのコーヒーを一口も飲まないで捨てるに違いない。
「眠い?」
「いや別に?」
「それ、作り直してこようか」
「いいよ」
 断られたので、無言で態勢を変えて、ベッドの上で頬杖を付きながら片腕を投げ出して浩人の顔をじっと見てみた。トランクス姿の男は、白地にオレンジの光が反射して夕日色になった壁にもたれて、ペットを見るみたいに素っ気なくなに、と聞いてきた。
「それ、飲まないでしょ」改めて生ぬるいコーヒーの入ったコップを指差す。
「まあね」溜息のようにそう言って、予備動作なしにゆっくりと立ち上がった。
 何も言わないでベッドを降りて、開けっ放しのドアの向こうに消えていきそうになる。
「どこ行くの?」
 どこかで日焼けしてきたらしい背中に尋ねてみた。その背中は止まって、傷んだ茶色の頭がこっちを向く。目はほら、眠そうじゃん。
「おまえに任せるとまたこうなりそうだから、紅茶淹れてくるよ」
「うん、それは正しいと思う。ちょっと失礼だけど」
 いってらっしゃーい、と頬杖を付きながら手を振って部屋から追い出した。浩人は冷たい。冷たいけど、この部屋も、浩人も、一緒にいて疲れない。居心地がいい。あたしはたぶん浩人の彼女で、浩人はあたしの彼氏なんだろうけど、あたしが浩人の傍にいるのはそういう単純な理由。
 ところで、浩人はトランクス一枚で寒くないのかな。キャミソールと短パンのあたしは、この部屋はクーラー効きすぎて寒いんだけど。
 いつでも綺麗に片付いている部屋の中、クーラーのリモコンを探してぐるぐる目を泳がせてから、しまったと思った。浩人に、あったかい紅茶頼めばよかった。


         *


 学校に向かうバス停のところで、ヒーコに会った。ヒーコは名前じゃない。ピーコの真似をさせると中途半端に似てるからヒーコなのだ。見た目はダメージジーンズに白いタンクトップなだけの一般市民姿。
「おはよー。亜美眠そうだね、昨日もバイト?」
「残念ハズレ。昨日は浩人ん家で映画見てたよ。徹夜で」
 昨日は返却日が今日の映画が三本も溜まってしまっていて、見ないで返すのももったいないからひとりで全部見た。どれもつまんなかった。
「うわ、色気ないなあ。映画見るくらいなら寝ればよかったのに」
「浩人は寝てたけどね」
「浩人さん休みなのに、夜寝ちゃっていいの?」
「いいんじゃないのー? あの人二日間は普通に起きてられるし」
「亜美は授業中寝ないとバイトできないよね」
「あたしのことはどうでもいいの」
 ヒーコのおでこを叩いた。ぺちん、とかいう乾いた音がでた。
「痛い! 手加減してよ。お客減るよ?」
「ヒーコのおでこいい音でるね」
 お客が減る、と言われた腹いせに何発も叩いてあげた。いつでも元気なヒーコのおでこは本人と同じに元気な音がでるらしい。あたしのおでこの音はさぞかし情けないだろうな。
 あたしは夜のお仕事、つまりキャバクラでバイトしてる。お金が欲しいからだ。浩人はバーで働いている。だからあたし達はまともなデートなんてしたことがない。あたしは浩人の家が気に入ってるし、浩人も家の方が気楽みたいだから、別に困ることはない。
 何度も何度もヒーコのおでこを叩いていたら、いい加減にしてよ、と言われて手を払いのけられた。
「いいじゃん、減るもんじゃないんだし」
「おでこ減ったら困るよ」
 じゃれ合っている間にバスが来た。あたしたちの前にも何人も並んでるのに、いつの間にかヒーコの後ろにも何人も並んでる。
 バスが止まって、空気の抜ける音と一緒にドアが開いた。バスに強制収容されるみたいに学生たちが乗り込んでいく。別に強制じゃないんだから、何人か歩いていけばいいのに。あたしは嫌だけど。
「バスのなか暑そう。今日も最悪だわ」
 呟くとヒーコが笑った。
「大学生に囲まれるのは最悪で、オヤジたちに囲まれるのは最悪じゃないんだ」
「だって大学生に囲まれてもお金もらえないじゃん」
 流されるがまま、嫌々バスに乗り込む。
「浩人さんもよくこんなのと付き合ってるよねー。普通キャバやってる彼女なんていやじゃないのかな」
 バスステップの下からヒーコが言う。
「さあ。浩人も変わってるからいいんじゃないの?」
「そういう問題?」
 ヒーコの甲高い笑い声が続いた。
 バスに詰め込まれて、なんとか掴まれるところを探す。運良く、今日は手すりにありつけた。まだ全員乗り込んだわけでもないのに熱気がこもっている。サウナ状態。満員電車と同じぐらい密度が高い。信じられない。
 そういえば、と思った。
「ああ、浩人、昨日も変なこと言ってたかも」
 ぽつりと窓の外を見ながら口にする。ヒーコが反応した。「変なこと?」
「なんか、パンドラの箱なんだってさ」
「なにそれ? 話が見えないんだけど――って痛!」
 ヒーコが誰かに足を踏まれたらしい。うざいんだけど、謝れっての、とか地が出てる。
 あたしは怒るヒーコから目を逸らして、詰め込まれたバスに苛々しながら、ドラえもんが欲しいと思った。どこでもドアで大学まで連れて行って欲しい。


      *


 浩人が紅茶を淹れに行っている間、とうとう我慢ができなくなってあたしは部屋の中をうろついてリモコンを探すことにした。まずベッドの上を探した。浩人が使った後にそのまま置いたのかもしれない。でもなかった。ランプのところにもない。次はテレビの上を見てみたけどこれもダメ。浩人は潔癖症なのか、部屋が綺麗すぎるぐらいに片付いているから、すぐに見つかると思ったんだけど。
 CDラックも見てみたけど見つからない。まさかね、とは思いつつ、他に思い当たる場所がないから次は青い引出しに手をかけて、
「やめときな」
 足音もなく浩人が戻ってきていてびっくりした。
 振り返るとマグカップを持って、ドアのところに立った浩人は笑顔だった。何かを置き去りにしてきたような、そういう悟った、寂しい笑顔。
 寂しそうな。
「なんで?」
「それはパンドラの箱だからだよ」
 くだらないことを笑い散らかすように言ってベッドに腰掛けた。スプリングの軋む音が鳴る。
「パンドラ?」
 あたしは青い引出しから手をどかして、浩人の目を見て聞いた。
「そう、パンドラの箱さ。俺と別れたくなったらあければいい」
 浩人はあたしの目を見ないで、紅茶を見ていた。
 引き出しの前から移動して、ベッドに背中をあてて崩れるように座り込む。浩人の顔が上に見えた。
「なにが入ってるの」
「俺と別れたい?」
 やっと、浩人と目が合う。その目が虚ろなのがよくわかって、でも、それもいつものことだなあと思った。そんなことを考えていて返答が遅れた。思い出したように首を横に振ってみると笑われた。
「なんで笑ってんの?」
「いや、別に?」
 部屋の中は暗い。ランプは後ろ手にあるから、浩人の顔が影に隠れる。あたしは笑う浩人を見るのを止めて改めて部屋を見渡してみた。たくさんあるのに、何もないような部屋。綺麗に片付きすぎててまるで男の部屋という気がしない。質素すぎる部屋。何もないけれど居心地のいい部屋。感情の色が少しもない部屋。
 あたしも浩人も、この部屋と同じ。この部屋と心が同じだから、同じ種類の物に紛れて、ここは居心地がいい。
 ベッドに寄りかかって座っていて、クーラーの風が冷たく肌に当たってからやっと本来の目的を思い出した。
「ねえ浩人、リモコンどこ?」
「ん? ああ、どこだっけ」
 浩人は立ち上がってきょろきょろし、諦めてマグカップをテレビの上に置いて部屋の中を歩き始めた。テレビの上には何も置いていないから気がつかなかったけど、灰色の塗装の上に白い埃が溜まってる。
 あたしはフローリングの溝に爪を挟んだりして遊んでいた。埃発見。
「どこに置いたか覚えてないの?」
「いつも忘れるんだよな。リモコン以外はこの部屋のもの動かさないから」
「早くしてね、寒いから」
 浩人は今度はベッドを探すことにしたらしい。スプリングのぎしぎし軋む音がうるさくなる。この部屋はいつも静かだから音が目立つ。
 あたしは浩人の隙を狙って、テレビの上にあるマグカップを持った。まだ湯気が立っている。
「あ、勝手に飲むなよ」
 無視して口をつけた。ノンシュガーのストレートティーは、ありきたりな紅茶の匂いがした。
 あたしはパンドラの箱についてもう何も聞かなかった。頭の中では気になっているけど、何も聞かなかった。
 それは浩人と別れたくないからじゃない。浩人と別れたら別れたで、それは別にいい。ただ、パンドラの箱を開けたら、浩人は傷つくと思った。あたしも。ふたりとも。何が入っているのかなんてわからない。何が入っていても、きっと、結論は変わらない。
 あの箱は、開けてしまったら、あたしも浩人も、必ず傷つくんだ。
 浩人の目がそう言っていた。


  2


 上野の居酒屋に来ていた。学校の飲みがあると誘われて、給料日の後だったし、ヒーコも行くって言うから来てみた。飲み会にはよく顔を出すからあたしは学校の中で結構有名だ。夜のお仕事の女として。
 今日もあたしに投げかけられる質問のほとんどがキャバクラについてだった。
「時給いくらくらいなの?」
 トイレに行って帰ってきたら席がなくなっていたので空いてる席に座った瞬間に隣にいた女の子に聞かれた。誰だっけ、この子。この質問にもうんざりするほど答えている。
 目の前に置いてあった、誰かの飲みかけのビールを手に取りながら答えてあげる。社交性はある方だから。
「そんなに高くないよ。二千円ぐらい。同伴だともっと高いけど」
「上村さんってお酒強いんでしょ? キャバ嬢だもんねえ」
 まあねー、と答えて笑っておいた。人工的に黒くて長い髪は、絶対にエクステ。何が楽しいのかその子は笑った。
 目だけを動かして顔は動かさないで、ヒーコを探す。ヒーコは三つくっつけたテーブルの、あたしから一番遠い端の席にいる。まわりに空席が見当たらない。
 つまんないかも。このメンツ。
 今日のメンツは知らないヒトが多かった。しかも酔うのが早い。酔って盛り上がるのはいいけど、酔うのは少数でいい。全員が全員酔ったらそれは楽しいかもしれないけど、酔えないあたしは最終的に面倒を見なくちゃいけないし、お会計とか、酔ってるからこそ気前のいいヤツもいるのに出さないヤツもでてくる。しかも今日のメンツ、会話のレベル低くて盛り上がらない。勝手に盛り上がってて、みたいな。男もいい感じのヤツいないし。優等生が多い。
 あたしがなんで飲み会に参加することが多いかって言えば、簡単に言えば男漁り。もうちょっと堅実に言えば出会い。今日は収穫なし、と。
 女の子のさらに隣にいた男が――こいつも没。前髪が長すぎるし、目が可愛すぎてオカマちゃんだ。細すぎるし――話し掛けてきた。顔赤いよ、坊ちゃん。
「上村さんって彼氏いんの?」
「いないよ」
 ヒーコがいたら即座にツッコミが入る返答だ。
「えー、もしかして別れたばっか?」
「まさかあ。もうずっといないよお」
 男が望んでいるみたいなのでぶりっ子して答えてみる。ていうか、なんでこの男はあたしのこと知ってるんだろう。あたしが名前を覚えなさすぎるのかな? そういえば見たことはあるかもしれない。まあ、あたしは有名だから、知られていても当たり前なんだけどね。
 彼はめちゃくちゃびっくりした風に装った。最初からそう思ってたんでしょ。顔合わせた瞬間にあんたがあたしの左手見たの、わかってるよ。
「上村さん可愛いのにもったいなくね?」
「うん知ってる、よく言われますから」
 見え見えのお世辞は正直飽きてる。こうやって回避するのが一番良い。ノリで回避するのは楽だ。仕事としてはダメなんだけどね。彼があたしの言葉に笑った隙に、テーブルの上でまだ残っていた肉じゃがに箸を伸ばした。ちょうど、彼とは反対側にいたらしい女の子がトイレか何かに消えていく。隣の空席が感覚的に肌寒い。
 彼が黙った隙にさっきの女の子がまた話し掛けてきた。標的を斜め前の人からあたしに変えたらしい。最近のドラマの話になった。亀梨くんが好きなんだってさ。あたし、ジャニーズには興味ない、とは言わないでおいた。これも職業病かな、キャバクラをやるようになってからマイナスになるようなことは言わなくなっていた。
 仕切りで閉ざされた、うちの学校のスペースの入り口に誰かが暖簾をわけて登場したらしい。入り口の人間が声をかけてる。あたしもつられて目をやって、来なきゃよかったyと思った。
 なんで来るのよ。心の中で文句を言う。もちろん届かないのは当たり前。こんな時に限って、なんで隣は空いてるのかなあ。
 溜息をついて覗くようにちらっと見て、あいつと目が合った。爽やかな作り笑顔を向けられた。
 野崎秀平は笑顔を貼り付けたまま、爽やかに、迷うこともなくあたしの方へやって来る。少しは迷ってもいいよ。あたし困らないから。
 今日は収穫なし、どころかマイナスだ。
「久しぶり」
 秀平が言う。あたしは顔を反対方向に向けて答えてあげた。「久しぶり」
「冷たいなあ。なに、俺のこと嫌い?」
「さっさとここから立ち去りたいぐらいに」
「まだ一杯目だろ? 急ぐことないよ、このあとたぶんカラオケだし」
 言ってすぐ、店員を呼んでビールを頼んだ。ついでにあたしもスクリュードライバーを注文する。どうせ割勘、飲まなきゃ損する。
「上村さんと野崎くんって友達だったの?」
 隣の女の子が聞いてくる。否定しかけた言葉を秀平に遮られた。
「そう、俺こいつの元彼。在原さん一昨日ぶりー」
「一昨日ぶり野崎くん。ていうか、へえ、知らなかったあ」
 この子は在原さんと言うのね。黒髪エクステ。覚えておこう。
 あたしは相変わらず秀平を見ないまま在原さんの方だけを見て喋る。
「言ってないからね。だって付き合ってたのは高校の時だけだし」
「それでも一応付き合ってたじゃん」秀平が言う。
「一応、ね。一応」強調して返してあげる。
 在原さんがあたしに耳打ちした。
「でもさすが上村さんって感じ。やっぱ美人はかっこいい人と付き合うんだね」
「見た目だけ、見た目だけ」
「なんの話?」
 にこやかに顔ごと話に割り込んでくる。
「勝手に話に入ってこないでよ」
「野崎くんがかっこいいって話」
 別に正直に言わなくてもいいのに、と思う。このエクステをつけた計算高そうな女の子は秀平のことを好評価しているけど、どういうつながりなんだろう。
 秀平は、たしかに見た目はそれなりにかっこいいかもしれない。顔は整っている方だし、服装だってダサくない。今日は薄いピンクのシャツの下に灰色のタンクトップを忍ばせて、首にはゴツめなネックレスをしている。シルバーかな。
 在原さんと秀平が楽しそうに音楽の話をし始めた。好きなインディーズのバンドが一緒らしい。ちょうどいい、どこか空いている席はないかと探してみたけど、ヒーコの近くはもちろんどこも空いていない。ああついてない。しょうがないので携帯を取り出してメール画面にして、短く文を打った。送信画面にはいかない。
 そのまま、秀平の顔面に突き出した。
「なに?」
「声に出さずに読みなさい」
 メールにはこう書いた。単刀直入、「変なこと言ったらキレるから」それだけ。メールを送信しないのは、秀平のアドレスを知らないからだ。
 秀平は読み終わったのか、少し黙ってあたしの頭に手を置いた。
「なに、なに?」在原さんが聞く。
 秀平はまるで営業のサラリーマンかと思うような決まりきったさわやか作り笑いで誤魔化した。誤魔化されたついでか、あ、と一言の後、携帯を取り出してアドレス交換をねだってきた。あたしと秀平ふたりに対して聞いてくるけど、たぶんあたしの方は社交辞令だろう。余念がないね。
「いいよ、ちょっと待って」
 あたしは携帯の画面をプロフィール画面に切り替える。秀平も笑顔で携帯を取り出していた。
 秀平は在原さんに近づくために、さりげなくまた、あたしの頭に手をおいた。にらんでやると、秀平は笑っただけだった。
 この笑顔が嫌い。たくさんのことを思い出すから。
 酔えない体質が、この時ばかりは憎いと思った。


          *


 酔ってない委員長タイプに会計を任せて、外に出る。今日は確か七杯は飲んだような気がする。あとは飲めなくなった在原さんの処理をしたりで、それ以上は飲んでいない。在原さんのだって飲んで欲しいと酔っ払って言った相手は秀平だったけど、秀平は見かけによらずお酒に弱いのをあたしは知っているから、こっそりと飲んであげたのだ。
 お店の外に出ると、やけに空が暗く見える。ネオンの光が人工的すぎて、その光が溢れている飲み屋街には酔いが冷めるような夜風は通らない。まだ十人以上いた半数も出てきていないし、酔いつぶれていた人も結構いたから、会計にはもう少し時間がかかるだろう。あたしはみんなから逃げるように距離を置いて、バッグから取り出したタバコに火を点けた。ずっと吸いたいのを我慢していた。学校のメンツには、キャバクラ以上のマイナスなイメージは与えたくない。影で何を言われてもいいけど、目の前で何か言われたり、態度で表されると面倒だから、それだけの理由だけど。
 百円ライターで火を点けて、吸い込む。メンソールの爽快感が喉を通り過ぎて気持ちいい。名残惜しそうに吐き出すと、白い煙はすぐに風に流されていった。
 ふと、誰かが群れからはぐれて歩いてくるのが目の端に映った。慌ててタバコを身体の影に隠してみんなの方を見ると、秀平が近づいて来ていた。無視してまた口にタバコを咥えた。
「酔い冷まし?」
「誰かが来た所為で気分が悪いからね」
「俺の所為かよ」
 あまり人には見せない、情けない笑い方をした秀平が隣にいた。この笑顔は、似ても似つかないから、何も思い出さないから、割と好きだ。
 あたしもサービスに少し笑ってあげた。
「あんまり、タバコ吸ってるの知られたくないんだよね」
「なんで? 未成年じゃないんだし、しかもおまえ高校の時から吸ってるじゃん」
「高校の時噂されて、勝手に悪いイメージつけられてからあんまり仲良くない人の前じゃ吸わなくなったんだよ」
 高校の話をしていたら、メンソールの煙が喉を刺激する度に、瞬間的に記憶が沸いてくる。懐かしい匂いの記憶。愛しくて、手放したくなくて、大嫌いな悲しい記憶の群れ。
 気分が悪くなってタバコを地面に投げ捨てた。
「俺はじゃあ、仲良いの?」
 タバコをミュールの底で踏み消して、方向転換、みんなに向かって足を出す。あたしが秀平を抜いてから、一緒に秀平も歩きだしたのが見えた。
「偶然だよ、ただの」
 店の前にはもうほとんどの人が出てきていた。ヒーコもいる。どこのカラオケに行くかを話合っているらしい。
「あのさ」
 斜め後ろから秀平の声が降ってくる。
「なに?」
 ガードなしで、無防備に聞き返してしまった。無防備の身体に躊躇いを持った秀平の言葉が攻撃としてぶつかってきた。
「まだ好きなの?」
 あたしは黙って歩くのを止めない。耳にはみんなの雑多な話し声が響く。頭をかき混ぜるような声に脳みそが揺れるようだった。
 みんなの輪に辿り着く少し手前で、やっとあたしは答えた。「好きじゃないよ」
 嘘をついた。秀平は何も言わなかった。
 だからあたしは、秀平に会いたくなかった。秀平はあたしのことを、きっと見抜く。高校の時からいくら変わったって、変わりきらない部分を、秀平はきっと見抜く。
 その日は珍しく吐いた。


              *


 次の日も、二日酔いの身体に関係なく朝はやってきて、ズル休みをくり返すあたしはこれしきのことで休めない。だるい身体を引きずって学校まで登校してきた。二年生なのに一限なんて取るんじゃなかった。
 昨日は誤算だった。まさか秀平が来るとは思わなかった。来るとわかっていたら行かなかった。学校で秀平を見かけた時はいつでも素早く逃げているから、声をかけられることは稀だったのに。まあ、声をかけられても無視して逃げるけど。女子トイレとかに。
 昨日はヒーコに随分迷惑をかけたから、今日はお礼に何かしら奢らないといけないな。考えながら、学校について即効で自動販売機に向かう。水分を取らないと。今日もバイトがある。
 あたしはお酒に強い。ヒーコも知っているから、カラオケの最中抜け出して吐いた時には驚かれた。でも、吐いたのは二度目じゃない。二度目どころか数え切れないほど吐いている。それを、大学で知り合ったヒーコは知らないのだ。驚くのも当たり前。
 記憶の逆流を防ぐために騒いで歌って、あたしの前には五分おきぐらいにグラスが空になっていった。カラオケのお酒は、お店と違って安物の中の安物だから悪酔いしやすい。でも、意識がまどろみやすい。まどろみやすい代わりに吐きやすい。
 自動販売機でポカリスウェットを買って、一気に飲み干してトイレに向かった。授業開始まであと少しある。今日はヒーコは一緒の授業じゃないからヒマだ。今日も寝て、夜に備えよう。


 二回目に吐く為にトイレに向かう時は、ギリギリまで我慢してヒーコが歌っている時を狙った。迷惑をかけたくなかったし、醜態は見せたくない。そのおかげで、吐いてトイレを出たところに秀平が待っていた。
「珍しいんだろ、おまえが吐くのって」
「誰の所為だと思ってんの?」
言うと、秀平はかすかに笑った。腹が立つ。「笑わないでよ。その顔が一番嫌いなんだから」
「誰かに似るから?」
 あたしの目線よりも上にある目が、あたしを見下ろす。その目は真摯だった。秀平が、あたしの所為でたくさん傷ついたのを知っているからだろうか。その目はどこから見ても、ぼろぼろにしか見えない。
 あたしは秀平の目を見ていられなくて目を逸らした。何も答えないで歩きだす。後ろから声が追いかけてくる。
「もう飲むなよ」
「関係ないでしょ」
「関係あるだろ」
 振り向いて、秀平を睨む。秀平の顔は少しも笑っていなくて、少し怒っているように見えた。あたしも怒ってる。だけど秀平の方がきっともっと、怒ってもいい立場なのに。
 心配なんて、そんな優しさをあたしにかけてあげるような、そんな立場にはいないでしょ、あんたは。
 あたしは立ち止まったまま、顔に表情を浮かべないで聞いた。
「あたしのこと、憎んでいないの?」
 その問いに秀平は声を出して笑った。何がおかしいのだろう? 疑問に思っている間に、笑う声の合間に「憎むわけないだろ」という秀平の声が聞こえた。
「どうして?」
「だって、別れた時も言ったけど、どんな理由があっても俺はおまえのこと、好きだったから、一緒にいたんだよ」
 秀平の笑顔。その笑顔は、あたしが一番、もう見たくない笑顔。この笑顔の所為で、あたしは秀平をたくさん傷つけてしまったのに。
 あたしは秀平から身体ごと目を逸らしてみんなのいる部屋に向かう。暗い照明が目に優しくて寂しい。
「みんな、全部」後ろを見ないで声を出す。秀平の足音がついてくる。「過去のことだよ」
 流れてくる音楽と漏れ出したカラオケの音に、声なんか掻き消えてしまえばいいと思った。
「本当に過去なの?」
 立ち止まる。後ろの足音も立ち止まった。振り返る。秀平の目とあたしの目があった。
「過去だよ」
 吐き捨てるように、いや、全部吐き捨てたくて、言葉を吐いた。


 授業中、暇すぎて死にそうだったからヒーコにメールを送った。ヒーコも、カラオケが終わる頃には充分に酔ってたから、今日は来ないかもしれない。予想は的中して、メールの返事が来ることもなく、ヒーコも来ることもなく、いつの間にか今日のあたしの受けるべき授業は終了した。
 学校を出てバスを待つ。お昼はまだなのに、その間に缶ジュースを三本も飲み干したおかげでアルコールは身体から抜けた。今日のバイトも絶好調でできそうだ。それでも念のために、バスの待ち時間の間に学校の目の前にあるコンビニでペットボトルのお茶を一本買った。
 今日はどうしようかな。ご飯はまだ食べてないけど、食欲がない。バイトは九時からだからまだ時間はたっぷりある。ヒーコはどうやら今日は完全に沈没しているみたいだし――用もないしきっと寝ているだろうけど、浩人の家に邪魔をしに行こう。学校からは、あたしの家よりも五駅分だけ近い。
 混んでいないバスに乗り込んで、一応メールを打っておいた。合鍵も持っているけど。
 浩人はやっぱり寝ていた。チャイムを鳴らしても出てこない。しょうがなく、キーケースから合鍵を取り出して勝手に開けて入っていった。浩人の家は一人暮らしのくせに二DKで意外と広い。物置と化している部屋ではなく、キッチンの先の浩人の部屋のドアを開けて、昼間なのに薄暗い室内に侵入した。浩人が布団もかけずにクーラー全開で寝ている。いつも思うけど、トランクス一枚で寒くないのかな。
「浩人」
 一応呼んでみる。当たり前だけど返事がなかった。寝息とクーラーの音だけが静かに響く。あたしは床にバッグを降ろして、あたしの指定席であるベッドの下に座った。それでも気がつかないで寝ている。
 どうしてあたしは来たのかな、と考えてみる。世間体としては彼氏彼女だけど、恋なんかしていないし、もちろん愛してなんかいない。だけどここは心地良い。よく考えてみれば、浩人があたしといる理由が見つからなかった。
 あたしと浩人は三ヶ月前に出会った。浩人の働いているバーにヒーコと一緒に行った時に知り合って、それから何回か通う内に仲良くなって、たまたまひとりで行った時にそのままお持ち帰りされた。それからずっと、なんとなく一緒にいる。浩人から好きだという言葉なんて聞いたことがなかったし、あたしも言ったことがない。
 浩人と会うまでは、浮気の相手ばかりしていた。彼氏は作っていない。高三の時に秀平と別れてからは誰とも付き合っていなかった。大学の誰かと寝たのは二人しかいない。変な噂が流れて大学に居づらくなるのは嫌だった。でも、大学じゃない人間と寝た回数なら数えるのも面倒なくらい、成り行きで寝ている。ほとんどがナンパ相手とだったから、名前だって本当の名前なのかもわからない相手とばかり。援交に走ろうとした時期もあったけどさすがにそれはヒーコに止められた。キャバクラのバイトをし始めたのは大学に入ってからだ。遊ぶのにはお金がかかる。
 そういえば、それからかもしれない。家族と顔を合わせる回数が減ったのは。キャバクラのバイトをしていることを知っているのか知っていないのか、誰とも口を聞かないからわからない。そう、誰とも、口を聞かないから。会わないから。
 ぼーっとしていると、浩人が寝言を言った。歯切れが悪すぎて何を言っているのか聞き取れない。
「浩人?」
 膝たちになって浩人の顔を眺めてみた。綺麗な顔。浩人と秀平の顔は、全く別のタイプだ。浩人はいかにも遊び人の顔で、大人だけど、秀平は爽やかさだけが目立つような顔をしている。
「浩人」
 瞳の色を見てみたくて声をかけてみる。「浩人」
 ゆっくりと目が開いていく。焦点が合っていないみたいな目だけど、色だけはしっかりと見えた。と言っても暗いから、目の色も暗い。まるで硝子。
「……あれ、亜美?」
 とろんとした声が耳に触る。あたしは笑って浩人のおでこを撫でた。
「おはよ、浩人」
「なんでいるの?」
「学校終わって、来ちゃった」
 寝起きの浩人は口調が甘い。ゆっくりとしていて、優しい。あたしは寝起きの浩人が割りと好きなんだと思う。
 浩人は起き上がって、髪をかきあげて口をあけたまま止まっていた。まだ完璧に起きたわけではないみたい。
「あー、いま何時?」
「まだ一時。ごめんね、起こしちゃって」
「ん、いいよ。ああ、それより冷蔵庫からコーヒー取ってきてくんない? ペットボトルに入ってるから」
「わかった」
 返事ひとつでリビングに向かう。リビングも広い。一人暮らしだからテーブルは二人ぐらいしか座れない程小さくて、あたしはまだこのテーブルでご飯を食べたことはないし、何かを作ったこともない。と言っても、作れる物なんてスクランブルエッグくらいなんだけど。
 冷蔵庫からまだ未開封のコーヒーを取り出して閉める。中にはビールとコーヒーのペットが何本かしか見当たらなかった。こんなに広いキッチンなのに自炊はしないらしい。
 部屋に戻ると、浩人は起き上がってあの、青い引出しの前にいた。手をかけないでただ見つめているだけ。
 あの中には、何があるのかな。どんな災厄が入ってるんだろう。
 気になったけど、開ける気は起きなかった。浩人の目はあまりにも真剣すぎてあたしの声はきっと届かないだろう。目は引き出しだけを見つめていて、あたしなんか、まるで存在していないみたい。認識すらされてないみたい。当たり前か。浩人にはあたしなんて必要ないから。
「浩人」
 浩人の孤独な空気をばっさり切り裂くようにして呼んだ。あたしに関心を向けて欲しかった。
 浩人はやっとそこで、ドアのところで止まっているあたしに気がついたみたい。笑わないで、眠い目であたしを見た。「あ、あんがと」
「どういたしまして。今日は仕事何時から?」
「五時に行かなきゃいけないからよかったよ。起こしてもらえて」
「まだ一時だけど?」
 笑う。浩人も笑う。
「んじゃ、何か食い物でも買いに行くか。腹減った」
「あたしも」
 ペットボトルを渡してベッドに座る。浩人も座った。ふたり分の重さでベッドが沈む。
 ペットボトルを開けて浩人が口をつける。一気に半分ぐらい飲み干すの横顔をあたしは見ていた。かっこいいとは思う。そして、秀平には似ていないと思う。だからこそ付き合っているのに、まだ酔いが残っているのかな。秀平の笑顔なのか誰の笑顔なのかよくわからない顔が目の前にちらついて、あたしの視界は現実じゃなくて記憶の中身を見ている。
 動く喉を見ながらぼうっとしている間に、浩人があたしの視線に気がついたらしい。呑み終わってあたしの顔を見た。
「そういえばおまえ今日学校は?」
「行ったよ。もう終わった」
 あっそ、とだけ言って蓋を閉めたペットボトルを後ろに放り投げる。その勢いで立ち上がった。浩人の体重がベッドの上から消えて、ベッドの沈みが浅くなる。
 浩人はドアの右手側にあるクローゼットまで歩いていって服を探し始める。その背中から質問された。
「おまえなに食べたい?」
「うん、なんでもいいや」
 言いながら、スプリングの軋む音を聞きつつ立ち上がる。浩人の筋肉のついた背中に一直線。部屋全部が冷え切っていて、床も冷たい。足の裏が寒い。
「俺もなんでもいいんだけど」
 クローゼットの中身を見ながら考えているらしい背中にゆっくり手を伸ばして、そのまま手を伸ばしつづけて抱きついた。
 浩人が黙った。何もしていないのに浩人に抱きついたのなんて、初めてかもしれない。
「……どうした?」
「なんとなく」
 そう、本当になんとなく、浩人に抱きついてみた。喋っていても、キスをしていても、何をしていたって心の深いところではどうせあたしなんか見ていない浩人の背中は冷たいのかと思って抱きついてみただけなんだけど、浩人もやっぱり当たり前に人間だった。冷たくない。トランクス一枚で寝てたくせに。
 浩人がそれ以上何も言わなかったからあたしも何も言わないで温度に浸ったりしてみた。女の子に抱きつかれた時みたいな、甘いような柑橘系のような匂いがしない。無臭でもない。男なんてみんな同じような匂いがする。秀平だって同じ匂いだった。汗の匂いと、疲れたような逞しいような、よくわからない匂い。もしかしたら筋肉の匂いかもしれない。
 だけどあの人だけはあの人の匂いがした。
「ねえ、ちょっと。服取れないんだけど?」
「邪魔?」
 顔をくっつけたまま聞く。浩人は答えないで、手を剥がした。ああ、やっぱり優しくないの。ちょっと心の隅っこで拗ねてみたら、距離を変えないで浩人が振り返って、今度は浩人が抱きしめてくれた。浩人は優しく笑っている。クールなんだか関心が薄いのか、いつも感情の薄い浩人の感情のある笑顔は珍しい。
「なに、甘えたいの?」
 頷いてあげる。別に甘えたいわけじゃなかった。浩人の背中が寂しそうだったから、冷たいのかなって思っただけだから。
 頷いたからか、浩人があたしの頭にあごを乗せる。「おまえ可愛いなあ」
 きっと浩人は笑っている。
 でもその笑顔はどうせ、あたしへのプレゼントじゃないくせに。


           *


 結局、買い物へは浩人が行って、あたしは留守番ということになった。二日酔いのことを言ったら休んでいていいと言われたから。でも学校でとことん寝てしまったので、手帳を取り出してスケジュール帳に日記でも書くことにした。と言っても、何か書くようなことがあるほど、あたしの人生楽しくない。
 あたしの手帳は白地に寒色系のドッド柄。もう五年、半分ぐらいは意地になって使いつづけている。あたしもバカだなあと思った。この手帳には写真入れも入っている。機能的ではあるのだ。その中に入っている写真は三年前のもの。色褪せないまま、ずっとしまいこんである。そんなことしたって無駄なのに、もう会うことだってないだろうに。
 音のない部屋、綺麗に片付けられた部屋、何もない部屋。シンプルで簡潔で寂しい空気が流れている。なのに、パンドラの箱はある。
 本当にあたしの心の中と同じ構造だと思った。あたしの中にもパンドラの箱はある。だから誰も好きにならない。本気でなんて好きにならない。浩人のことだって、きっと好きじゃない。
 溜息をついた。何も書くことがない。あたしはバッグにしまうのも面倒で、テレビの上に置いた。
 この引出しの中には何が入っているのかな。エアコンのリモコン? まさか。なんだろう。
 開けちゃいけない、と言われると逆に気になってしまう。ましてやそれがパンドラの箱だなんて笑える。パンドラの箱じゃなくてパンドラの引き出しじゃん。なんか、そう言うと間抜けだ。
 あたしは立ち上がって引き出しに触れる。たしか開けようとしたのは一番上だ。この一番上に、何かが入っている。なんなのかな。
 背中から好奇心が溢れるぐらいに沸いてくる。好奇心が腕を動かす。引き出しの上をなぞって、指に埃がついた。鳥肌が立つほどの好奇心は、どんな理由があって沸いてくるんだろう。どうしてあたしは、こんなにこの引出しを開けたいんだろう。衝動が抑えきれない。苛々するほど、腕に力が入る。開けちゃいけない気持ちと開けたい好奇心が戦っている。
 何が入っているの?
 別に別れたいわけでも、別れたくないわけでもない。
 いま、部屋はとても静かで、呼吸の音なんて一人分しか聞こえない。あたしの呼吸の音とエアコンの音だけ。あとは空気の音が耳を満たすだけ。身体中に好奇心が巡って動いて、止まらない。
 いま、浩人は、いない。
 腕が動いて引き出しを開け始める。耳はドアが開かないか、それだけに集中して、目は引き出しから離れない。
 思い切って一気に開けてみた。
 中はからっぽだった。




       3

 あたしは唖然としてしまって、これがどうしてパンドラの箱なのかばっかり考えていて、ドアが開く音で慌てて引き出しを閉めた。ベッドに横になって今まで寝ていたように装おうと決める。
 浩人がドアを開いて中に入ってきた音を聞いて、眠そうに目を開いて顔を上げた。
「ただいま」
「……おかえり。なに買ってきたの?」
「冷やし中華」
 コンビニの袋をベッドに置いて浩人も座る。あたしも起き上がって隣であひる座りをする。
「食べよ、おなかすいた」
「おまえなにしてた?」
 聞かれて少し心臓の動きが変になったけど、表情は変えないで「寝てた」とだけ答える。
 あたしは浩人が買ってきた伸びきった冷やし中華を食べ始める。美味しくない。
 結局、あの、パンドラの箱ならパンドラの引き出しは何だったんだろう。何も入ってなかった。埃すらなくて、何もなかった。災厄のひとつも見当たらなかった。
 どういうことだろう。考えながら麺をすする
「あ、今日はあの物置入るなよ」
 唐突に浩人が言った。今日は、と言われても最初にお持ち帰りされた時だって入ったことはない。
「なんで?」
「いや、すごい散らかってるから。そうだよ今日は早めに起きて片付けようと思ってたんだ」
「じゃあ手伝うよ」
 冷やし中華に入っているササミを食べながら言うと浩人は慌てた。どうもひどすぎるから見られたくないんだって言うけど。
 まあいいや。どっちにしたって、居心地の良いこの部屋以外に用はないから。
 あたしは冷やし中華を食べて、浩人のDVDラックから適当に映画を選んで見ていた。浩人はと言うと、本を読んでいた。あたしは活字なんか苦手。読んでも意味がよくわからないし、何が楽しいのかわからない。マンガみたいに絵じゃないからすごく疲れる。
 そのうち浩人が仕事に行く時間になって、あたしもしょうがないから家に帰った。


 ドアに手をかけても開かない。バッグの中を漁ってしばらくしてやっと出てきた鍵を差し込んで開ける。
「ただいま」
 一応言ってみる。いつもは返事がないのに、珍しく返事が返ってきた。廊下を直進してリビングに入る。いつも、お母さんはパートでいないはずなんだけど。
「珍しいね、クビにでもなった?」
 テーブルに座ってテレビを見ている母親がいた。珍しいのは家にいることだけじゃなくて、外行きの格好をして化粧までしている。
「今日は休みだったから、友達と出かけてたのよ」
「お母さん友達なんていたんだ」
「失礼ね」
 お母さんはあたしを見ないでテレビを見ていた。当たり前のように食事の支度なんてしていない。父親は帰ってくるのが遅すぎで、いつも適当に何かしら買ってきて食べているらしい。バイトから帰るとたまにコンビニ弁当の残骸と缶ビールの残骸がテーブルに置いてある。
 あたしは散らかす人間が誰もいないおかげでそれなりに綺麗なリビングを見渡してから、聞いてみた。ダメ元。
「――お兄ちゃんは?」
 さあ、どこ行ってるのかしらね、それが母親の返答。あたしは興味をなくして何も言わずに部屋に戻った。
 これがあたしの家だ。母親は子供たちが高校を卒業してからはほとんどほったらかしで、お金だって困っているわけでもないくせに、家にこもって暇をするのが嫌だからパートに行く。お母さんが台所に立ったところなんて見たことがない。
 あたしは箪笥を開けて、バイト用のドレスみたいなワンピースを取り出す。派手すぎて普段じゃ着れない。服はキャバクラの武器。化粧は仮面。
 今日の客は、若い人が来ると良いと思った。それなら学校を休んで、アフターまで付いて行ってあげるのに。
 毎日がつまらない。お金のためにオヤジとか、いかにも女にモテなさそうな男に囲まれて愛想笑いをする。それ自体が嫌なわけじゃない。ただなんとなく、毎日がつまらないと思った。家に居てもいいことなんてひとつもない。誰もあたしを見ない。
 秀平は違っていたな、と思い出した。秀平はあたしのことをちゃんと見て、認識して、誰かの代わりにすることもなく好きになってくれた。でもあたしは裏切った。秀平のことは嫌いじゃないけど、秀平以上に好きな人がいた。
 今でも好きだ。だけど叶わない。叶うはずがない。
 そう思うと、心臓に切り傷ができたみたいに痛くなってくる。気持ちが傷みに変わって、溢れた気持ちは目から零れる。
 ああ、情けない。
 泣きながらそう思った。情けないなあ。
 バッグから手帳を取り出そうと思って、浩人の家に置いてきてしまったことを思い出した。まあいいや。浩人だってきっと気づかないだろう。
 ストッパーを一度無くしてしまうと、記憶はいくらでも逆流してくる。ああ嫌だな。思い出したくないのに、いつでも記憶の中に笑顔はある。あの人の匂いもある。一緒にご飯を食べたこと、嫉妬したこと。
 あの人が初めてうちに彼女を連れてきたことを思い出した。あたしの方が絶対に綺麗なのに、美人なのに、どうして選ばれなかったんだろう。どうしてあたしはあたしに生まれたんだろう。あたしにさえ生まれなければ、きっと選ばれてた。あんな、バランスの悪い顔した、背が低くて足も短くて太い女なんかに、奪われることはなかったのに。
 もう一度笑いかけてくれたらそれでいい。今ならもう、それだけで満足できる。
 キスしたいなんて、愛して欲しいなんて、あたしの物にしたいなんて、絶対に思わない。
 もう人生の全てがつまらない。あたしはきっともう、あの人にとっては過去なのだ。あたしにとってはまだ現在なのに。まだ好きなのに。
 一度も愛されなかった。だから、罪を犯した。あたしの物にならないなら死んでしまえばいいのにとまで思ったことさえある。あの人の彼女っていう身分にある女を殺したいをさえ思った。あの人からの愛情を受けるなんて許せない。だけど結局あたしにそんな度胸はなくて、あたしはずっと悲しかった。
 秀平は最初からわかっていただろうか。時々、一緒にいる時に突然泣き出すあたしの莉由をわかっていたのかな。秀平が笑うたびに、微妙にあの人とは違うことが悲しくて、秀平はあの人じゃないことが辛かった。そんなこと全てが、まだ、過去じゃない。
 あの人にとっては過去だろう。どんな種類の愛情さえもう受けられないだろうな。
 自分が惨めだと思った。涙でスカートが濡れる。泣いたら目が腫れてバイトに支障がでるかもしれない。
 そんなこともどうでもよかった。愛してくれないなら、人生はどこまでもつまらない。何もない。あたしには何も、もう、ない。
 浩人はどうしてあたしと付き合っているんだろう。きっと浩人だって気づいてるくせに。あたしが浩人のことを好きなわけじゃないことぐらい。なのにどうして?
 浩人が初めてあたしをお持ち帰りした時、浩人は何を考えて、どうしたくて、あたしと付き合ったんだろう。
 秀平と別れてからずっと誰とも付き合わなかったあたしが浩人と付き合うことになった理由は簡単だ。最初にキスをされた時にわかった。
 浩人もあたしと同じで、もう手に入らない誰かのことがずっと好きなままなんだろうってわかったから。だって、キスが手慣れてて甘くなかった。
 あたしがするキスと同じだったから。
 涙を拭ってドレスをたたむ。たたんで、バイト用のバッグにしまった。
 みんな死んじゃえばいいのにな。七夕でもないのに、軽い気持ちで、そう願ってみた。




        4

 今日もまた始発に乗って帰らないと。そう思いながらロッカールームでほったらかしにしてた携帯を見たら、着信が一件とメールが一件あった。浩人だ。会いたいらしい。今から? と思ったけど、あたしは家に帰って寂しい空気を吸うより、あの居心地の良い部屋に行く方がよかった。
 浩人の家に行くと、浩人はワイシャツを着て、下は黒のスラックスをはいていた。仕事着のままなんだと思う。部屋の明りはランプだけ、っていうのが主流らしい。オレンジ色の光に横顔だけ照らされてる。
「どうしたの? 今日会ったばっかりなのに」
 ドアのところで、バッグに手をかけたまま聞いてみる。浩人はベッドでタバコを吸っている。部屋はいつも通り寒い。半そでは寒い。浩人だって半そでなのに。
 浩人は馬鹿にするみたいに空気を吐いて笑った。
「俺らって付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「うーん、だって珍しいじゃん、浩人から呼び出すのは」
「俺だって寂しくなる時はあるんだよ」
 そう言ってタバコを灰皿に押し付けて、あたしを見た。目が猫みたいに光る。そのまま両手を広げた。「おいで」
 優しい声。だけどどこか弄んでるような、エアコンに吸い取られて消えてしまいそうな優しさだと思った。浩人の腕の中はきっと暖かいんだろう。そして、寂しいんだ。
 あたしは少し微笑んで、バッグを床に投げる。そのまま浩人の胸にダイブした。
「なにかあったの?」
「ちょっとね、感傷にでも浸ってみようかと」
「なにそれ」
 笑った。感傷だなんて、浩人には――似合いすぎていて、笑える。
 あたしは向きを変えて、浩人に後ろから抱きすくめられる形になる。浩人はエアコンの効きすぎた部屋でも寒くないらしい。あたしの方が断然身体はちいさいのに、浩人は小動物みたいに熱い。でもきっと兎なんかじゃない。だって浩人は、寂しさで死ぬことはないだろうから。兎だったらとっくに死んでる。
 あたし達は無言でお互いの温度に融け合った。温度は溶け合って二倍になって、寂しさまで増える。
「ねえ浩人?」
「んー?」
「パンドラの箱ってどういう意味?」
「災厄の詰まった箱」
 ストレートにそのままの意味だけ返してきたので笑った。「そうじゃなくて、あの、引き出し」
「なに、もう別れたくなった?」
 聞かれて、少し黙る。言おうか、言わないで黙ってるか。でも他に聞き方がわからなくて、嘘をつかないで正直に話すことにした。
「あのさ、ごめんね? あたしさ」
「ああ、開けたの?」
 あたしの言葉を浩人が引き継いだ。声が尖っていなくて冷たくもないから、思わず浩人の顔を見た。浩人に表情はなかった。純粋な疑問系。
「怒らないの?」
 聞くと浩人は笑う。
「別に禁止したわけじゃないよ。で、別れたくなったんならなんで今日来た?」
 浩人は笑っている。慣れた笑い方。悲しそうにもしない。きっと浩人はあたしがいなくなっても、悲しむことなんてない。
「なにも入ってなかったよ」
 浩人は笑顔を止めない。不思議な表情だった。顔の半分だけオレンジ色に染まって、半分はほとんど影に染まっている。その笑顔はどこまでも、果てがないほど寂しそうなのに、慣れすぎている。慣れすぎて、その笑顔はどこも笑ってない。作り笑顔じゃないのに笑っていない。笑顔なのに笑顔じゃない。
 浩人はあたしを抱きしめるのを止めた。「じゃあ、もう一回開けてみなよ。答えがでる」
「どうして?」
「なにが?」
 少しも痛くないらしい。その聞き返す声は、別れることをなんとも思っていない。
 あたしは浩人に衝動的にキスをした。浩人が驚いた。
「……なに?」
 唇を離した時、目をつぶる暇もなかったらしい浩人は虚ろな目であたしを見て聞いた。
「なんとなく」
 答えてベッドから飛び降りる。そのまま引き出しに手をかけて、開けようか、開けないままにしようか迷った。別れるのなんてなんとも思わない。痛くもない。この部屋を失ったって、別にいい。
 なのにどうして迷うのかな。
 あたしは自分に反発するように、ゆっくり引き出しを開け始める。何かが入ってる。空白じゃない。見えるのは埃じゃない。プラスチック?
 音がなかった。浩人の呼吸の音は聞こえない。浩人はどんな表情でいるだろう。
 引き出しを半分ぐらいまで開けて、あたしは反射神経全開で引き出しから飛退いた。声すらも出なかった。息が一瞬壊れて止まった。心臓が激しく動く。心臓の動きがあたしに伝わってきて身体が震えているみたい。
「あはは、驚いた?」
 浩人の声が後ろから聞こえる。なにを笑っているの? あたしは浩人を振り向く。浩人は変わらない、虚ろな目で、表情のない笑顔のまま。
 その顔を見てわかった。あたしが引き出しを開けるかどうかを迷った理由が。
 浩人は寂しい人だ。寂しい、色のない顔で笑う。その寂しさが磁石みたいにあたしを引き寄せる。あたしはきっと砂鉄なんだ。だから強力な磁石に吸い寄せられる。
 浩人は笑うから、その笑顔が、無表情なあたしよりずっと寂しい。慣れてしまったその笑顔はきっと、過去を思い出してお酒を飲みすぎて吐くことなんて、絶対にしない。いや、きっともう吐いた後なんだ。悲しみも寂しさも全部慣れすぎて、もう、嘆いても自分以外にとっては過去にしかならないことを知ったから、嘆いても無駄だとわかってしまったから何もしない。ただ、何もない生活を送るだけ。自分にとっての現在は絶対的に過去になってしまっているんだと実感しているから、もう何も抗わないんだ。
「浩人、これって」
「蛇だよ。気味悪いだろ。昨日は物置に置いてあったんだよ。いつもはその引き出しの上に置いてあるんだけどさ。おまえが来る時だけそこに隠してんだよ」
「そんな当たり前のこと聞きたいんじゃない」
 引き出しの中には、とぐろを巻いた、細い蛇がいた。どれぐらいの長さだろう。テレビでよく見る蛇よりも全然ちいさい。初めてこんなにちいさい蛇なんか見た。もう一度、引き出しを覗き込む。とぐろを巻いた蛇があたしを見た。目が合った。真っ黒な目、引きつった口。鱗がちいさくランプの光に反射して光る。おなかが蛍光の緑色みたいな、変な色をしているグレーの蛇だった。新聞紙を敷いた上にとぐろを巻いて、動かない。
 別に蛇は平気だ。蛙も平気だ。でもまさか、そんなものが引き出しの中に入ってるなんて思いもしなかった。生き物が入ってるなんて反則だ。
 背中越しに浩人が話し始める。
「それはアマミタカチホっていう、沖縄の蛇だよ。ミミズ食うんだよ。でもさ、蛇って意外と飼うの楽なんだな。もっと大変なのかと思ってたけど、放っておいても平気だし」
「そんなこと、あたし聞いてないよ」
 浩人を睨む。浩人は平気な顔をして、説明していた。傷つきすぎてもう、新しい傷を作る隙もない顔。口だけ笑っている。笑う、形をしている。
 心から笑ってなんかないくせに。
「じゃあ、なにが聞きたい?」
「これ、浩人のものじゃないでしょ」
 あたしは浩人を睨みつづける。なんでかすごく悲しい。胸は苦しくないのに、涙が流れる前兆はないのに、泣きたくなる。浩人の顔が悲しい。浩人が悲しい。
 浩人はあたしの目に、諦めたように溜息をついてベッドから降りてくる。そのままあたしの隣に立って引き出しをしめた。あたしはずっと浩人を見ている。
「忘れ形見なんだよ」
「忘れ形見?」
 聞き返すと浩人は少し笑った。初めて、表情が着色された笑顔だった。悲しみが印刷された笑顔。
 浩人は引き出しから離れてベッドに座る。手を後ろに伸ばしてタバコを取って、口に咥えて火を点ける。ライターの音が場違いに響いた。
 煙を空気に散らす。
「五年前に死んだ彼女が、変な趣味しててさ。蛇飼ってたんだよ。高かったんだって自慢してたな。俺、蛇とか好きじゃないから嫌だったんだけど。でもそいつのことは好きだったんだよね。結婚の約束もしてたな。でも、交通事故で死んじゃったよ」
 あまりにも簡単に喋る。痛みの伴なわない独白は、聞いてるあたしの方が痛い。
「それで、引き取ったの?」
「そうだよ」
 平然とタバコを吸う浩人は、遠い親戚が死んだような軽い口調。表情も痛くない。
 それでもわかる。浩人はその人のことが忘れられないんだ。五年経っても、嘆くことが無意味なんだと実感しても、それでもずっと、好きなまま、過去になんてできないんだ。
 好きな人を失うつらさは、どれぐらい痛いんだろう。どれぐらい、浩人は泣いたんだろう。あたしには想像できない。あたしはあの人からの愛は失っても、あの人はまだ生きてるから。
「まだ、好きなんだね。その人のこと」
 あたしはやっと、それだけ言えた。何も言わないより、浩人の沈黙の方が痛い。浩人はそれに頷くかと思ったら、全然違う言葉を吐いた。
「でもおまえだって同罪だろ?」
 一瞬、自分の足場が消えたみたいな衝撃に襲われた。蛇を見つけた時よりももっと、息が壊れる。何? どうして?
 どうして知ってるの。
 あたしが動揺したことがおもしろいのか、浩人は笑って種明かしをした。
「おまえの手帳見たんだよ」
 そこで、やっと思い出した。手帳の中の写真。テレビの上を見ると、あたしのドッド柄の手帳はそこにあった。
 あたしの思い出。あたしの大切な人の写真。
「……見たの?」
 少し冷静になってきて、呼吸が修復されてきて聞く。浩人はあたしの質問には答えなかった。
「俺も趣味悪いとは思うけど、おまえも趣味悪いね。男の裸の写真大事にしてるなんてさ」
 はっきりそう言われると恥ずかしくて、悲しくなる。あたしはテレビの上から手帳を奪うように取り戻して、浩人の隣に座る。また、スプリングが軋んだ。
「お兄ちゃんなの」
「は?」
 聞かれもしないのに言い始めた。
「お兄ちゃんなの、あれ。あの人、あたしのお兄ちゃんなの」
「もしかして、腹違い?」
 腹違い、なんて言葉が少しおもしろくて声も出さずに笑った。「違うよ、本物」
 浩人が黙る。あたしは言葉を続けた。
「あたし、ずっとお兄ちゃんのことが好きだったんだよね。血が繋がってても好きだった。好きになっちゃいけなかったんだって気がついたのは結構早かったよ。小学校入った時にはわかってた。それでも好きなままだったの。初めてお兄ちゃんが彼女を家に連れてきた時は、あたし、壊れるぐらい嫉妬して悲しかった」そしてあたしは、罪を犯した。「だから、その日、お兄ちゃんのこと酔わせて無理矢理寝たの」
 お兄ちゃんはあたしと違って真面目で、勉強も運動もなんでもできた。三歳年上のお兄ちゃんはあたしの憧れで、ヒーローで、時々落ち込む姿はどうしようもなく愛しかった。ちいさい頃はずっとあたしのものだった。大人に近づいていくほどに距離が大きくなって、お兄ちゃんが始めて彼女を連れてきた時は、とうとう捨てられたんだなって思った。
 だから奪った。一晩だけでもあたしのものになればいいと思った。
 それ以来、お兄ちゃんと顔を合わせていない。あたしも合わせなくなった。顔を見るのが辛かった。どうしたってあたしのものにはならない。
 秀平と別れたのはその時。秀平は笑うとお兄ちゃんととてもよく似ていたから、二回も捨てられるのは嫌だった。嫌だったから自分から捨てただけ。一緒にいるのは耐えられないことだった。
 寝た後、酔いすぎたお兄ちゃんは寝てしまって、その時に撮った写真を今でも持っている。安らかな寝顔。一晩だけでも、あたしのものになってくれた瞬間。
 あたしはあの時寝たことを後悔している。無理矢理奪わなければ、兄妹としての愛情さえ失うことはなかった。だけど優越感を抱いてもいる自分が、すごく嫌い。
 一晩だけでも、他の女から奪ったことに、優越感があるのは、どうしたって否定できない。
 それから自分なんかどうでもよくなって、世界はつまんなくなった。何もなくなった。心の中に空洞ができて、からっぽになった。地獄へ直結する穴があたしの中に生まれてしまった。浩人も穴が空いてる。きっと浩人自身気づいてる。あの虚ろな目は、穴が空いている証拠。誰も埋められない穴が空いてる証拠。地獄へ続く穴なのかは知らない。でも、どこまでも深い穴が浩人にもあるのは事実だ。
 この蛇が浩人の穴の証拠品。
 浩人は何も言わないで、二本目のタバコに火を点ける。パッケージを見て、初めて、浩人が吸っているのはマルメンなんだと気がついた。煙がエアコンに吸い込まれていく。あたしもタバコが吸いたくなって、床に捨てたバッグからクールを取り出した。火をつけようと思ったら、浩人が火を差し出してきた。
 一口吸って、肺に貯めてから吐き出す。悲しみとか、あたしの中の醜い物とか、全部一緒に吐き出せたらいいのに。そうじゃなかったら、あの深い穴を、煙で満たしてくれればいいのに。そうしたら何か変わる気がする。きっと気のせいだけど。
 そう思ったら、心臓のあたりがまた痛みだす。一生ふさがらない罪の傷が痛む。痛くて、痛みは溢れてやっぱり涙になった。
「ねえ浩人」
 声をかける。膿んだ傷口が痛い。いつ、この傷はかさぶたになるんだろう。浩人みたいに、平気な顔で昔話をできるようになるだろう。
「あたし、浩人と、別れたくないな」
「なんで?」
 浩人の顔を見る。浩人はあたしを見ないで、吐き出した煙の行方を見つめていた。あたしは何も言わない。
「俺はおまえのこと、本気で好きになったりしないよ?」
 それでもいい。あたしだって、お兄ちゃんを好きになったように、狂ったようには好きになんてならないと思う。一生誰も、本気で愛せない。
 本気で誰も愛せないからこそ一緒にいたい。同じ穴を持っている人。だけど、あたしよりもずっと悲しい顔で笑う人。どうして、本気で誰も愛せないから一緒にいたいと思う理由は、自分でもわからない。ただ、浩人と別れるのは痛いことだと思った。
 あたしは何も言わない。言わない代わりに、涙も拭かずに浩人の肩に手を置いて、浩人があたしを見たのと同時にキスをした。強く浩人に唇をつけたら悲しみは消えるのかな。
 涙の味がした。





END


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