魔術師の帰還
神月蒼


 1
 ――ホリが、死んだって。いま。

 ちぃ先輩が呆然とした顔で私を見ていた。
 先輩の言った意味がわからなくて、私はただ彼を見つめ返した。

 え、いまなんて?




 ***




 私たちの働いている会社はちょっと変わっている。企業名をYSリサーチ社、表向きは名前どおりの調査会社で、裏家業は占い相談とオカルト調査。通称、事務所。
 実際に持ち込まれてくる調査は六割が心霊相談かオカルト調査で、残りの四割がふつうの調査と占い相談、というような形だ。どこが裏なんだ、と思うこともあるが、所長の意向でなるべく普通の会社を装っている。
 私、芳賀みちるはこの会社に三年前に就職した。所長の家族であるちぃ先輩に、占い師としての腕を見込まれてのことだった。
 「死んだって、ホリが?」
 ホリ。佐々岡聖一。
 私と同期入社した二十四歳。ちょっと小太りののんびり屋で、いつもにこにこしている好青年。今年の秋、二十五歳になったら後輩の大塚紗李と結婚することが決まっていた。
 「いま、バイクで事故って、死んだって。一緒にいた宗哉のほうは、無事みたいだが」
 「車で行かなかったんだ、あの二人」
 死んだ、と言われた意味を理解できないまま、私は言い返した。
 「さっき、電話、あったよな。一時間くらい前」
 ちぃ先輩はまだ子機を手放せないでいる。もう電話はとうに切れているのに。
 「ええと、七時ちょうどくらいに」
 夜の八時半。ほんの一時間半前に、私はホリからの電話を受け取っていた。
 これから相棒とそろって帰社しますよ、といつもどおりのんびりした声で彼は言って、私ははい気をつけて、と電話を切った。
 「……あのばか」
 口から漏れたのは罵倒で。こんなときに、と自分でも思ったけど、先輩は頷いた。
 「うん、ばかだなぁ」
 「…………。」
 「…………。」
 気をつけろと、あれほど。
 特に、最近みんなホリには気をつけていたはずだったのに。
 ちぃ先輩の手から子機をもぎ取って、充電器に戻した。先輩の指はずいぶん固くなっていて、剥ぎ取るのに苦労したけど、そうしないといつまでも離さないような気がした。
 「二人のこと、迎えに行くんでしょ?」
 「宗哉だけ」
 「ホリは?」
 「……ご両親がいらっしゃるそうだ。」
 「あ、そっか。そうですよね……」
 ご両親がいらっしゃる。当然の事実に少し驚いてしまった。ホリが長男ということは名前から予想がついていた。だけど、彼は家族のことを何も話そうとしなかったから、私は彼の家族のことは何も知らない。
 「あいつは折り合いが悪くて家を出たんだ。ここにいる人間で、家族とうまくいってるやつなんていない。おまえが知らなくても無理はない」
 ちぃ先輩がぽつりと言った。
 そうだった。
 この事務所は、なぜか家族とうまくいっていない人間ばかりが揃っている。
 ちぃ先輩と所長の兄弟は、母の依存を断ち切るために二人で家を出て、この会社を立ち上げた。
父親との面会は会っても、母親とは面会はおろか、電話、文書の類もすべてストップしている。本人たちにマザコンの気は見えないが、母親がおかしい人というのはわかる。事務所に押しかけてきたところを、宗哉と必死になって追い返したのは他でもない私だ。
 宗哉といえば、彼も境遇に難ありだった。
北海道の実家から逃げるように東京に出てきて、今の所長――先輩のお兄さんに拾われた。それが五年ほど前で、それきり実家とは縁を切ってしまったので、緊急連絡先はすべてこの事務所になっているとか。
あまり詳しい話を聞いたことはないが、一度だけ酔っ払って話してくれたことがある。
 妹を殺してしまったから、自分は幸せになってはいけないのだ、と。
 私も。
 あまり、家族とうまくいっていない一人だ。家族はおろか、学校やバイト先で他人とうまく付き合えた試しがない。ごくわずかな友人と、たまに会う趣味の仲間と、そしてこの事務所と。自分の世界を限定することで、ようやく生きていることができる。
 でも、いま大切な一人を失ったかもしれない。
 ぼんやりした頭の奥が、熱を持ったように疼いた。







 夜半過ぎ、連絡を受けた病院に到着した。
 緊急病院といえど、この時間は静かだ。緊急外来の玄関に掲げられた黄色の電灯だけが、そうとわかる唯一の目印だ。
 インタフォンを押して来意を告げると、暗い階段の奥に白衣の影が見えた。
 「すみません、連絡をいただきました遊佐と申しますが……」
 ちぃ先輩のスーツのしわを見ながら、考えていた。
 影。
 黄色い電灯に照らされて浮き上がった、私たちの影。
 いつでも付いてくるし、それが当然のはずのもの。
 あいつは、影が怖いんですよ。
 いつだったか、ホリが言った。だから、おれはあいつの影を消してやりたいです。
 微笑を絶やさないホリが、あの時笑っていなかった。
 そんなことを思い出して。
 同時に、宗哉の奇妙な警告も思い出した。
 ―――影が薄いぞ。気をつけろ。
 「影が薄い」は、存在が薄いの意味。そんなこと、誰だって知っている。
 だけど、宗哉の「影が薄い」は意味が違う。文字通り、影がぼやけて見える。
どんな晴天の日で、私たちの眼にくっきりはっきり見えている影でも、宗哉の目には薄灰色の膜のようにしか見えないことがある。そんな時、彼は決まって言う。
 影が薄いぞ。気をつけろ。
 言われた人間は、影が元に戻るまで気をつけなければいけない。なぜなら、影の薄さは命が危険に晒されている証拠だから。
 「みちる、行くぞ」
 先輩に呼ばれて我に返った。少し、ぼんやりしていたようだ。
 避難用パネルの緑色の明かり。光源のろくにない廊下で、三人分の足音だけが妙に耳につく。
 「鏑木さんなんですけど、このまましばらく入院されたほうがいいんじゃないかと思いましてね。」
 見たところ四十代半ばの医師が言う。髭と体型だけ見ると、山男のような人だ。
 「じゅ、重症なんですか!?」
 「いえ、怪我は擦過傷と軽度の打撲程度です。ただ……」
 医師は言いにくそうに額を拭った。空調が効いているから、涼しいくらいなのに。
 「ただ?」
 先輩の声が恐ろしく硬い。視線を少し上げてみると、表情もかなり強張っていた。
 ああ、そうか。ずっと前を見つめていたから、自分の目線よりも上にある先輩の表情には目が行かなかった。
 先輩は、連絡が来たときからずっと、宗哉を心配していた。私と違って、ホリの死をもう、受け止めていたんだ。
 「精神的にショックが大きかったようです。車が突っ込んできたのはもう不運としか言いようがありませんけど、目の前で一緒だった方が轢かれるのを見ていたようでして。しばらく精神的なケアが必要かと」
 「……え?」
 やや間があった。
 医師は私たちの返事が無いのをどう取ったのか、そのまま話し続ける。
 「警察の方がいま鏑木さんと話をしているんですが、上司の方にも説明があると思いますよ。」
 ケーサツ?
 「えっと……突っ込んできたって、どういうことでしょう?」
 黙ってしまった先輩を差し置いて、医師に尋ねる。
電話ではバイクに乗っていて事故に遭ったと、それしか伝えられていない。
 事故だから警察が来るのは当然だと思う。それは私にもわかる。でも、先の医師の説明はなにか違った気がした。
 「わたしにもよくわからんのです。患者さんが取り乱していて、話がきちんとできなかったんですよ。」
 「取り乱して……?」
 宗哉が取り乱すなんて、想像ができない。私の中の宗哉はいつも静かで、いっそ冷淡と言っても良いくらいだ。口数も少なく、黙って遠くを見ていることのほうが多い。淡々とした口調で、冷めた目で、来るもの去るものすべてを受け入れるような人だ。
 ただ、と医師は続けた。
 「車がね、突っ込んできたって言うんですよ。たしかに患者さんの怪我は、バイクでこけてできたものじゃないですよ。」
 先輩の腕が小刻みに震えていた。先輩の腕を取って、自分も震えていることを知った。
 寒い、とか。そういうわけではないのだけど。
 身体の芯から込み上げてくる震えを止められなくて。
 私はそっと、先輩の腕に手を絡めた。







 長すぎる一晩が過ぎ、私は宗哉のアパートに入院の準備をしに来ていた。結局、昨夜は宗哉にもホリの遺体にも面会できないまま、朝になってこの部屋に来た。
六畳の和室と、小さな台所。
 散らかった部屋の中に、家主である宗哉が買ってきた物はほとんどない。
 CDラック、扇風機、テレビ。キッチンの調理道具も、洒落た六個セットの酒器も、色とりどりの皿も、全部私たちが勝手に持ちこんできた物ばかり。
本人が元々持っていたものなんて、せんべい布団一組と湯飲みがひとつ。収納ケース一つ分の衣類。それだけだ。
 収納ケースに手をかけて思い出す。このボックスひとつにしたって、紗李が買ってこなきゃこの部屋にはなかったのだ。
 宗哉の部屋は何もない。知り合った当初は、本当に布団しかない部屋だった。こんな部屋で生活していけるのかと思ったら、理由があった。
 宗哉には放浪癖があったのだ。いや、放浪癖というよりも失踪癖と言ったほうがしっくり来るかもしれない。
初めて宗哉がいなくなった時は、それはもう大騒ぎだった。彼を連れてきた所長だけが平然としていて、後になって彼が帰ってきてから、あの悪癖のことを知らされて。
ついつい上司である現所長をぶん殴ってしまった。……思い出したくない過去の恥だ。
 だけど、その時思い知った。
 宗哉はここに住み着くつもりはない、ということを。
 彼は、どこにも居付かない。居付こうとしない。
 部屋に何も置かないのは、そこに自分が帰らなくなったとき、処分がしやすいように。
 いつか帰ってこない日が来ても、どうにでもなるように。
 青少年らしい物欲も色欲も無く、世捨て人のように日々を過ごすだけ。
「いっそのことホームレスになれば」と言ったら、「それも良いな」と無表情に返されて困ったこともあった。
 二年前、ホリが宗哉の部屋に転がり込んだ事件があった。一人暮らしのアパートで隣家が火を出して、燃やされてしまって行き場がないとか言って。
 でも、本当はそれが言い訳に過ぎなかったことを私は知っている。
 ホリは、宗哉がいなくなることを心配していた。たぶん、昨日死ぬまで、ずっと。
 パジャマ代わりのジャージ上下、歯ブラシ、入院に必要そうなものを一通り風呂敷に包む。支度に時間はかからない。何しろ、この部屋には週に一度の割合で通っていたから。
 「彼女でもないのに場所が全部わかっちゃうってのも、考えもんだよねぇ……」
 「なんだ、彼女じゃなかったのか」
 風呂敷を包む手が止まった。顔を上げると、いつの間に来たのか玄関にちぃ先輩がいた。
 出張中の所長に連絡するために、一度事務所に戻ったのに。もう連絡がついたのか。
 ……彼女じゃなかったのか、とはどういう意味だろう。憮然としながら聞いてみる。
 「いつ来たんですか。あと、どういう意味ですか。」
 「おまえと宗哉、デキてんのかと思ってた。」
 「冗談にしちゃタチ悪くないすか?」
 「悪い。でも、本気で思ってた。」
 真剣な顔で返されるとこちらも困る。何を言って良いのかわからない。
 先輩は何も言わず、部屋に入ってきて敷きっぱなしの布団の上にあぐらをかいた。そのままぐるりと部屋を見回し、一番近くに置いてあったカードケースのような物に手をかけた。
 「ああ、これだ。おまえ、これ使えるか?」
 差し出されたそれは、タロットカードだった。
 「使えるかって、私はタロット専門の占い師なんすけど。」
 「占具には相性ってモンがある。これは宗哉の持ち物だが、宗哉には使えない。」
 「使えない?」
 「それが相性ってことだ。」
 カードケースの蓋を開ける。枚数が随分少ないと思ったら、二十二枚しかない大アルカナのカードしか入っていなかった。
 「あいつ、ホリの影が見えないって言ってたのにな」
 一週間前の月曜日。出勤してきたホリを見て、宗哉が真っ青になった。
 ―――おまえ、影、ないぞ。
 「あいつ、影が怖かったんだ。物心ついてからずっと付いてまわる厄介な力だ。怯えて、逃げてきたんだ。」
 影が薄いぞ、ではなく。
 影が、無い。
 それってどういうことなんだろう。先週からずっと、考えていた。
 タロットカードをめくる。
 運命、愚者、節制、月、塔……。古びたカードの色合いはとても美しく、私の手にはもったいないような重みがあった。
 「小さい頃、妹の影が見えなくなったんだと。」
 先輩がカードをシャッフルする。彼は占いをしないけれど、シャッフルは上手だ。
 「妹って、殺したって言った、あの?」
 ひとしきりシャッフルしたカードを渡されて、自然に私の手が動き出した。
 もう一度シャッフルし、手元にまとめる。毎日やっていることだから、考えていなくても手が勝手に動く。
 「影が見えない、と親に言ったそうだ。親は笑い飛ばした。でも、」
 一枚目のカードを開く。
 審判。現在の状況。
 いずれ通らなければならなかった道。
 「妹は、その直後に死んだ。」
 二枚目のカードを開く。
 運命。
 ……宗哉の、現在をあらわす。
この事故が、ホリの死が、運命だったと。
そういう意味だ。
 言葉が喉で堰き止められ、自分の喘ぐような呼吸が耳元で聞こえた。
 三枚目。
 月。
 当人の意識は、深く深く落ちている。
 立ち上がれなくなる、一歩手前。
 「……もしかして」
 聞かなくても、わかる。
 親は、きっと宗哉を不気味に思ったことだろう。妹の死を予言した、とんでもない子供。
 「その後も似たようなことが何度かあったらしい。あいつはすっかり疫病神扱いで、家を十五で出た。」
 四枚目。世界。
 彼の望み。……意味が読み取れない。
 カードを捲るのが、だんだん怖くなってきた。
 私は占い師だ。
 いま、自分の手が勝手に占っていることが、なにを意味しているのか。
 わからないと言ったら、嘘になってしまう。
 宗哉のことを占えと、そういう意味で。
 この人は、私にこのカードを渡したのだ。
 「影が見えないって、今回もあいつは言ったよな。あの時、あいつ真っ青だったな。」
 そう。
 あの時の宗哉の顔は、いつもの彼の顔じゃなかった。
 影が薄いぞ、と警告を出すときの彼の顔は何度も見てきたけど、もっと淡々としていて、あるがままの事実をただ伝えているだけだった。
 影が無い、と言ったときの彼の表情は。
 「俺、あいつがあのまま、またどっか行っちまうんじゃないかと思ってた。でも、あいつは逆にこの一週間、休まずに出勤してたんだぜ。どう思う?」
 五枚目のカードが捲られた。もう、私の意志とは関係なく、カードは開かれている。
 吊るされ人。
 宗哉の過去。
 妹の死を予言して、疫病神になった彼。家を出て、YSリサーチに身を置いた彼。
 「……守ろうと、した?」
 喉が渇いた。
 考えたこともなかった。
 一週間、影の見えない友人のそばにいて。
 宗哉が、何を考えているか。
 いままで彼が影の警告を出してきたのは、なぜか。
 六枚目。

 「タワー……」

 雷が天高くそびえた塔に落ちる。神の気分に浸って下界を見下ろしていた王たちは、地上に真っ逆さま。そんな絵が描かれている、見た目にも明らかに悪いカード。
 六番の位置が示すのは、これから起こる事柄。
 そして、このカードが出たら私たちは抗えない。「運命」に告ぐ絶対的なもので、抵抗するにはそれこそ「運」しかない。
 「ホリがあの予言をどう感じていたか、もうわからないけど」
 まだ、私は。
 ホリが死んだ事実を、いまいちつかめていない。
 なのに、カードが私に現実を突きつける。
 ホリが死んだのは運命で、宗哉はそれを受け入れなくてはいけない。でも、受け入れることができない。受け入れることができなければ、彼はどうする?
 カードが示す。
 耐えて、苦しみながら生きてきた人が、翳っていく月の下に蹲っている。
 もう受け入れたくない、と。
 七枚目のカードを捲りたくなかった。
 辞めてもいい、と先輩が言い出すのを、待っていた。
 「たぶん、宗哉のために受け入れたよ。……カードを捲れ。」
 命令された瞬間、私は眼を瞑っていた。
 私は占い師だ。
 占いのすべてが本物だと、事実だと、真実だと、信じているわけじゃない。そこまでオカルトに染まった覚えはないけど、今、このカードは正しいと直感が告げていた。
 七枚目を捲った。呼吸が止まりそうだった。

 「…………おい、こりゃどういう意味だ」

 「……は?」

 先輩が間の抜けた声を出した。拍子抜け、とでも言うような、脱力した声を。
 おそるおそる目を開ける。
 七枚目のカードは、魔術師だった。
 「ま、マジシャン?」
 魔術師の意図するところは、始まり。そして、可能性。
 「七枚目、ってなんだったっけ」
 「先輩、タロット勉強してませんでしたっけ」
 「だって、意味わかんねえだろ!予想外だぞ、逆ならともかく正位置なんて!」
 本人の立ち位置。
 彼の気持ちや境遇を一切無視した、純粋な立場を示す。それが、七番目。
 タロットには、正しい位置と逆の位置がある。どの方向を向くかによって、意味はかなり変わってくる。
 この場所に、魔術師の正位置のカードが出た。
 占いはただ、事実しか表わさない。私にタロットを教えてくれた人――所長は、常々そう言い続けていた。
 カードのすべてを信じてはいけない。カードはただ、事実を告げるのみ。
 散らかった部屋をあらためて見回す。
 魔術師。
 枕元に置いたままだった、相性の合わないタロットカード。
 座った場所から狭い台所が見える。
 ふと、思い出したことがあった。
 宗哉と、ホリと、私と、紗李。
 仕事終わりに渋る宗哉を押し切って、この部屋に押しかけて来た時のことだ。
 ビールとコンビニの惣菜を抱えて、三人でなだれ込んだ。
 『あれえ、この部屋レンジない?っていうか、布団しかないんだね。どうやって生活してるの?』
 『そんなもん、必要ないし関係ない。佐々岡がいると部屋が狭くなる。とっとと帰れ。』
 『あ、オレが太ってるって言いたいの?』
 『……べつにそこまでは言わないけど』
 『でも、小太りくらいまでは行ってるよねー!ねえ、ところで佐々岡君の呼び方決めようよ!あだ名あったほうが楽しいでしょ!』
 『紗李、おまえ年上に対してその呼び方……』
 『いいじゃん、宗哉だって佐々岡君より年下でしょ!?』
 『佐々で良いんじゃないの?』
 『ダメ!みちるの単純すぎ!』
 『いいよお、あだ名なんて。慣れてないし』
 ホリが「ホリ」になった日だ。佐々岡聖一、聖の一文字はホーリーだから、ホリ。
 紙コップで酒を飲みながらホーリーと呟いたのは宗哉で、『じゃ、ホリ!』と勝手に決定したのは紗李だった。
 光と影のような、二人だった。
 ホリは陽だまりのような人だった。いつものんびりしていて、暖かくて。ぼんやりしすぎているところもあったけど、逆にそこは宗哉がカバーしていた。
 愛想のない宗哉と一緒にいると凹凸合わさってちょうど良いから、宗哉が依頼人に会わないといけない時は、必ずホリがフォロー役として付いていった。
 物が増えた部屋。私たちが勝手に持ち込んで、いつも渋い顔をしていた宗哉。
 だけど、捨てなかった。いつも渋い顔をしていて、それなのに私たちの持ち込んだ物を絶対に宗哉は捨てなかった。
 生活に必要な物もあったけど、必要じゃない物だってたくさんあったはずなのに。
 一人じゃ絶対につけないテレビ、一人じゃ使わない大きな皿。
 一人じゃ遊べない、トランプや花札。オセロ、ウノ。
 いらないなら、本当に邪魔だったなら、彼なら捨てられた。きっと、迷わずに。
 「八枚目は?」
 先輩が尋ねた。
 私は八枚目に手を伸ばす。宗哉を取り巻く、いわば私たちのいるこの環境。
 カードに手をかけて、一旦手を止めた。
 ちぃ先輩を見上げると、彼は挑むように私を見つめ返してきた。
 「ホリが言ったこと、覚えていますか?」
 「どれのことだ。たくさんあるぞ」
 そんなこと言いながら、たぶんこの人はわかっているんだ。
 「宗哉は影が怖いんだ。だから――」
 玄関から音がした。
 私たちは、同時にそちらを見た。
 「……影を、消してやりたいんだ?」
 三日ぶりに見る所長が、ネクタイを緩めながら靴を脱ぎ捨てた。
 めずらしく髭を剃っていない。急いで帰ってきたことがわかる。
 「さっき、病院に直接行った。宗哉が消えたぞ。」
 「え!?」
 私たちはそろってカードを見た。
 「六枚目が塔、か。なるほど、そりゃ心配にもなるな。」
 所長は私の占いを見て、一人で頷いている。占った私がわからなくても、この人は意味がわかるらしい。
 「みちる、おまえこの意味ちゃんと読めたか?」
 「は、半分くらいは。でも、ワールドとマジシャンの意味がわからなくて……」
 「そうか。とりあえず、続けろ。」
 再びカードを捲る。八枚目。
 「テンパランス。悪いカードじゃないな。」
 節制の正位置。
 私たちのいる環境は、彼にとって決して悪い場所ではないのだ。
 「みちる、どう思う?」
 所長はわざと私に尋ねている。
 正直に答えるしかないことを、私は知っている。
 九枚目を捲りながら、私は答え方を探す。なるべく、正しい答えに近いものを。
 「スター……。宗哉は、ここに帰ってきます。」
 星の逆位置。望み叶わず、絶望している。
 守りたかったものを守れなかった。
ホリの命と、未来を守れなかったことに絶望している。
 「なぜ?」
 「……自殺、しに。」
 十枚目。
 結論が、出る。

 「デス。……逆位置。」

 死神のカードは、悪いカードだと思い込んでいる人がよくいるものだけど。
 たしかに絵柄は不気味だと思う。白骨化した馬に乗って、大鎌を振り上げた骸骨の騎士。地面には死んだ人の骸が横たわり、痩せこけた老人と子供が平伏している。
 だけど。
 死神の後ろでうっすらと顔を出す、太陽。
 暗闇の中に一筋の光を差し込むその存在を、死神は許している。
 怖くない、悪くない。
 私は、このカードが嫌いではない。

 「宗哉は、帰ってきます。私がここにいる。」

 最後の電話で、ホリは言った。
 『これから相棒と、そろって帰社しますよー。二人ともちゃんと待っててくださいね。』
 楽しそうに、いつもと変わらない様子で。
 私は、彼の死に様を見ていない。まだホリが死んだことをわかっていない、と言われてしまえば、それまでかもしれないけど。
 「帰ってくるって、約束したから。帰ってくるんです。」
 影が怖いと言いながら、影を失ったホリから離れなかった宗哉。
 自分の不幸を予言した宗哉を、怖がらなかったホリ。
 捨てようと思えば捨てられた、たくさんの思い出のある物たち。
 すべてが、物語っている。
 宗哉が帰りたい場所は、ここしかないのだと。
 「兄貴。」
 突然先輩が居住まいを正した。何事かと思いきや、改まって兄を見上げる。
 「俺もここにいる。ホリは、二人で待ってろって言ったんだ。」
 電話の声、聞こえていたのか。
 今さら思った。そうか、ホリの声はでかいから、いつも外に漏れてたっけ。
 「いけませんか、所長。」
 所長は無言だった。
 窓にかかった灰色のカーテンを引く。朝の八時を迎えた外の景色は、一階の北向きという場所柄か、あまり陽も射さず薄暗いままだった。
 どんなに晴れた日でも、太陽の光があまり入らない。
 そんなところが逆に気に入ったのだ、と宗哉は言っていた。
 「あれっ?」
 先輩が妙な声を出して、私は彼の視線を追った。
 窓辺のわずかなでっぱりに、隠すように置かれた青い宝石箱。
 男の一人暮らしの部屋にこんな物があるなんて。
 「どっかで見たことあるぞ」
 「そう、ですね。……なんだろう、けっこう最近だ」
 どこで見たのか、思い出せない。
 頭を悩ませていると、所長が呟いた。
 「おまえら、二人とも事務所帰れ。あいつはこの部屋には帰ってこねぇよ。」
 嫌とは言わせない響きがあった。
 「みちるの占いは当たるんだから、答えは出てるんだよ。あいつは自殺しないし、ここにも帰っちゃ来ない。おまえらの読みが下手なんだ。」
 ばかだなぁ、おまえら。
 そんなだから、ホリに心配されるんだよ。
 所長はそう言って、眉を寄せたまま笑っていた。
 無理やり笑っているその顔を見ていられなくて、私たちは追い出されるように宗哉のアパートを出るしかなかった。






 ホリの夢を見た。
 いつもどおり、にこにこしながら出勤してくる。だけど、そこにホリのデスクはもうない。
 『うん、知ってるよ。おれ、もう死んじゃったしね。』
 なんだよ、死んじゃったとか言って、そこにいるじゃん。本当は生きてるんでしょ?
 『ううん、みちる。おれはもう、そこには帰れないんだよ。あの時、宗哉の顔見てわかったんだ。あ、おれもう終わるんだーって』
 ばか、何言ってんのよ!終わるとか言わないでよ!
 『ダメだよ。そんなこと言ってたら、おれいつまで経ってもあがれないよ。宗哉と早く話がしたいんだ。だから、早くあがらせてくれよ。』
 あがるって、所長がよく使う「浄化する」とかってこと?
 『うん。おれ、事故で死んだけど、前もって死ぬこと知ってたからさぁ。早くきれいになれそうなんだ。これは宗哉のおかげだよ。普通だったら、あんな死に方で早く上がれるわけないもんね。』
 車が突っ込んできて、轢かれたというよりも、押しつぶされたような。なのに、笑っているこの男。
 ひっぱたいてやろうかと思った。本気で。
 でも、手が上がらなかった。
 『勘弁してよ、紗李にさんざん怒られた直後なんだからさぁ。』
 あ、思い出した。私は叫ぶ。
 青い宝石箱、あれはホリと紗李が婚約した記念に買ったものだ。
 あんた、なんであんな大切なものを宗哉の部屋に置きっ放しにしてるの。
 怒鳴ってやると、彼は太っちょな体を申し訳なさそうに竦めた。
 『大切なものだから、置きっ放しにしておけば宗哉が探してくれると思ってさ。……紗李には、怒られたけど。』
 紗李。そういえば、ホリが死んでから一度も会っていない。あの子は大丈夫だろうか。
 『みちるってば、優しいね。』
 ……何を言うのか。
 婚約者に死なれて、紗李が一番可哀想だと思う。
 『あのね、人が死んで一番二番なんて、悲しみに順番は付けられないよ。おれが言うのも、変だけどね。』
 まったくだ、死んだ当人が言うのはおかしい。
 ……だけど、正しいんだろうか。わからない。
 『でも、そうだな。親とか親戚よりも、宗哉のほうが、紗李のほうが、皆のほうが、きっとおれが死んだことを、悲しんでくれているよ。』
 初めて。
 ホリの、悲しそうな顔を見た。
 『もっと、生きたかったけど。でもね、寿命だったんだ。わかるんだよ。』
 占いが出した「運命」という結果。
 あれを、百パーセント信じられるなんて私は思っていない。
 だけど、本人にそんなことを言われたらどうしようもなくなってしまう。こんなに悔しいのに。
 ねえ、運命なんてないって私の占いの師匠……所長は言ったんだよ。
 『嘘だよ。所長はウソツキだもん、あの人は優しい嘘はいくらでもつくよ。』
 百パーセントの占いなんてどこにもない。
 だけど、過去だけは変えられない。一人がいなくなった、事実は。
 ホリは悲しそうに、だけどやっぱり、笑っていた。
 『みちる、君の占いは全部当たってるんだよ。』

 目が覚めたら、昼過ぎで。
 私は事務所の仮眠室にいて、デスクルームに行ったら先輩がいた。
 ホリは、どこにもいなかった。夢の中ではなくなっていた机が、普通にまだあった。
 「ホリの、夢を見ました。」
 「……おまえもか。」
 「寿命だった、と」
 「……おまえもか。」
 ばかだなぁ、と先輩が呟いた。
 その声が所長にそっくりで、朝の所長の後姿を、一瞬思い浮かべたりした。
 「わざわざ、夢枕で挨拶なんてな。一人だけならまだしも、こりゃ紗李のところにも行ってんな。」
 笑っているみたいに肩が震えていた。
 私は声を出さないようにするのに精一杯で、先輩の様子をそれ以上見ていられなかった。
 「二人とも、何泣いてんの?」
 不機嫌な声がして、慌てて二人とも目を拭う。
 紗李だった。
 いつもは耳の下で二つに結っている髪を、うなじの辺りで丸めている。黒いワンピースを着ていてひどく大人びた風情だったから、一瞬彼女だと気がつかなかった。
 「泣くなって言われたのは、あたしだけ?」
 あ、と先輩が呻いた。
 どうやら、ホリは本当に紗李のところにも行っていたらしい。
 「宗哉が帰ってくるから、二人はここにいて。あたし、あの人の葬式に乗り込んでくるから。」
 「乗り込むっておまえ……」
 物騒な発言に顔を顰める。だが、紗李は真っ赤に腫れた目でまっすぐ私たちを見据えた。
 「密葬なんだって。友達とかいないし、親族だけでやるから来るなって言われたの。でも、あたしはホリの……聖一の妻だから式に出るのは当然よ。」
 毅然とした態度で彼女は言い切った。妻、と。
 左手の薬指に作ったばかりの指輪が光っている。もう片方は、あの青い箱の中だろうか。

 「聖一の家族はあたしたちなのよ。……おかえりって、言ってあげて。」

 あたし、「達」。
 家族のように、そんな風に、私たちは過ごしていたのだろうか。
 もし、紗李の言葉が本当なら、私たちは取り戻せるのだろうか。
 紗李が出て行ってしばらくしてから、時計を見た。もう三時間くらい過ぎたかと思いきや、時計を見たらまだ二時半で。
 ほんの一時間も経っていないことに、驚いた。
 かしゃん。
 どこかで音がした。
 まっすぐ、廊下の奥。玄関のほうで。
 はあ、と荒い呼吸が聞こえた。返事のような。
 私たちは我先にと廊下に飛び出した。照明の付いていない玄関に、座り込んだ人影。
 
 「宗哉……?」

 電気をつける。オレンジ色の照明が、宗哉のぼろぼろの身体を照らし出した。
少し長めの髪が顔を覆って表情を隠していたけど、私たちにはわかった。彼の表情が。
 「……なんで、二人ともちゃんといるんだよ。ばかやろう」
 いきなり罵倒されたのに、ものすごく嬉しかった。
 帰ってきてくれた。
 それが、嬉しくて。
 「宗哉。」
 先輩が呼んで、やっと彼は顔を上げた。左の頬から顎にかけて、大きな擦り剥けと青あざができていた。
 「おかえり。」
 口元が歪んで、声が出てこない。そんな彼が、愛しかった。
 逃げても良かった。私たちが持ち込んだ物を、捨てても良かったように。
 だけど、それをしなかったのは。
 影が見えなくても、ホリの傍を離れなかったのは。
 「……おかえり、宗哉。」
 ただいま、と。
 小さな声で、宗哉は言った。
 魔術師。影で人の未来を読み、運命に抗おうと戦ったこの人に、カードは再生と無限の可能性を示した。
 私たちの影が薄れても、消えても、どうかその恐怖にこの人が負けないように。
 もう一度、この人が影と戦えるように。

 わからなかったカードの意味が、ようやく飲み込めた気がした。
 私たちに帰れと言った所長は、私が出した占いの結果を正しく読み取ったのだろうか。
 宗哉の帰れる場所は、あのアパートではなかった。あのアパートは、帰りたい場所であっても、帰っておいでという人はいなかった。
 でも、この事務所には。
 ―――これから相棒とそろって帰社しますよ。二人とも、ちゃんと待っててくださいね。
 おかえり、と言ってくれる場所がほしかった。
 宗哉も、きっと、ホリも。
 だから、私たちは。


 『おかえり。』


――― 終 ―――


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