十六夜明けのその先へ
奏位星華


 週末の金曜日の夜、華やかなネオン街を行き交う人々の中、私は猛ダッシュで自分の会社へ向かっていた。

 会社を出て、待ち合わせていた友人と一緒に飲んで別れた直後、駅に向かう途中で鞄の中から携帯電話を出そうとしたら……ない。
 職場からの移動中だけでなく、飲んでいた店では一度も鞄から出した覚えがなかったので、もしあるとしたら職場の自分の机しかない。
 早く取りにいかないと終電に間に合わない、と一気に酔いが吹っ飛んだ私は、急いで人通りの多い道を走り続けた。

 暗い歩道を抜け、ビルの中に入り通用口の窓に向けて社員証を見せた後、エレベーターに乗ってボタンを押した。
「はぁ〜……」
 大きく息を吐いて、切れ切れの呼吸を整える。
 チン、という音と共にエレベーターのドアが開くと、廊下に出て小走りで一番奥にある職場にたどり着いた。
 薄暗い廊下の端、磨りガラスで出来たドアの向こうがほのかに明るい。
(―あれ?こんな時間にまだ誰かいる??)
 音を立てないようにドアを開けて中に入ると、部屋の一番左側の窓際のデスクに人影がある。
(確かあそこは、宮野(みやの)主任の席――……)
 私は音を立てないように室内を歩き、彼のデスクの近くまできた。
 ノートパソコンの液晶画面がまだ電源が入っている状態で、そこで小さく寝息を立てて机にうつ伏せになっている主任がいた。
 私はおそるおそる彼に声をかけようとした―――が。

 その寝顔が視界に入ったとき、ふと主任の肩に触れようとしていた右手がピタリ、と止まった。

 
 ……きれい。
 机の上で両腕を組み、そこに頭を横向きにうずめている。疲れきった顔の小さく開いた口から、かすかに息を発して眠っているのを見て、私は普段の彼の全く違う部分を垣間見たような気がした。

 部下に対してはたまに手厳しい所もあるが、そうでない時は優しく明るくふるまっている――……。自分にとっての主任はそういう印象が強かった。
 主任の顔を暫く見つめていると、わたしはハッと我に帰り、本来の目的を忘れそうになっていた。
 自分の机がある方へと振り返ると、まとめて重ねていた書類のすぐ隣りに携帯が置かれていた。慎重にゆっくりと歩いて机に行き、携帯に手を伸ばしたその時。
  
「……うーん……」

 背後から聞こえた主任の寝言に思わずびくっと背筋が伸び、慌てて振り返ると彼はそのまままた眠りはじめた。


(もーう、驚かさないでよー……)
 

 ところが。
 手にした携帯の蓋の液晶に出ていた時刻を見た瞬間、私は室内に響き渡るくらいの大声を発してしまった。
「あーーーーー!!」
 その声に主任がバッと顔を上げて席を立ち、こちらに振り返ってきたので、私は彼に背を向け、携帯を手にうつむいてしまった。
「おい、どうした……って河原(かはら)さん?!」
「す、すみません、忘れ物取りに来たんです……」
(どうしよう、終電行ってしまった……)
 慌てふためいている私に対して、主任はふう、と大きく息をついた。
「なんだ、驚かすなよ〜……」
 再び席についてパソコンに向かい始めた主任を見て、私はおそるおそる彼に話しかけた。
「……まだ、仕事終わらないんですか?」
「ああ、このデータもう少ししたらまとめ終わるんだけど」
「そ、そうなんですか」

 私がそう言った後に、部屋中に流れた気まずい沈黙。
 パソコンのキーをカタカタと打つ主任と、彼の後ろに立ちっぱなしの私。どうしようと何度かぐるぐると頭の中で回ったあげく、ようやくひらめいたのが。 

「あ、あの、私ちょっと飲み物作ってきますね!」
 私はばたばたと彼の元を離れて部屋を出て、すぐ隣にある湯沸室へと駆け込んだ。



「な、なにやってんだろ……」
 狭い湯沸室の中で、わたしは火をかけたやかんに目を向けていた。
 とはいえ、そのまま会社を出たとしても電車はないし、タクシーに乗ろうとしてもさっきの飲みで使ったので、途中までしか乗れないし……。
 そうこうしているうちにお湯が沸いたので、わたしはお茶を入れて仕事場に戻った。

「……お茶を淹れたんですけど、飲みますか?」
「ありがとう、いただくよ」
 主任の机に湯のみを置いて、私はすぐ後ろの机の椅子に腰掛けた。
「それにしてもどうしたの?さっきは大声出して慌ててたけど……」
「すみません……携帯の時間みたら、終電行っちゃった後だったんです」
 私は主任にそう答えると、彼も小さく微笑ってからこう返してきた。
「僕も電車がもうないから、今夜はここに泊まって、明日朝家に帰ろうかと」
 主任も私とは乗る電車は違うけど、あちらも終電はもう出た後だったそう。
「それと河原さん」
「はい?」
「勤務時間じゃないから、『主任』って呼ばなくていいよ」
「あ……わかりました」
 彼にそう言われて首を縦に振った後、ふと縦長の四角形に切り取られた小さな空間―ガラス製の写真立てが、私の視界に飛び込んできた。
 それは自分と同じ位の年齢の女性が映った写真が入っていた。その横には、淡いクリーム色の八重咲きのガーベラを生けた一輪挿しが置かれていた。
「どうしたの?」
 主任にいきなり声をかけられたので、私は慌てて尋ねてみた。
「この写真の女の人、しゅ……じゃなくて、宮野さんの彼女さんですか?」 
 その質問に対して、彼はそう、と頷いた。
「二年前に亡くなったんだ。交通事故でね」
 空になった湯のみを机に置いた主任は写真立てに手を置き、フレームの中の彼女をじっと見つめていた。その時の彼の細く切れ長な瞳が、私にはとてもつらく、悲しそうに見えた。
「それじゃあ、宮野さんは今一人なんですか?」
 私がそう尋ねると、彼は黙って首を縦に振った後にこう打ち明けた。
 
 宮野さんがうちの部署の主任としてここに来たのは一年半前。その前は地方の支社に赴任していて、その時に先述の彼女と知り合って付き合っていた。
 今から二年前のある日、彼が本社に出張で出かけた時、その帰りに彼女が迎えに行く途中で、駅前の交差点の横断歩道で車にはねられ、そのまま帰らぬ人となった。
 彼が事故のことを知ったのは最寄の駅に着いてからのことで、すぐさま搬送先の病院に向かったのだけど間に合わず、すでに冷たくなっていた彼女と再会した時は、全身の力が一気に抜けたと、話してくれた。


 真夜中の夜空から窓ガラスを経て、淡い十六夜の月の光が私と宮野さんが座る机に射し込んでくる。グレーのスーツを纏った彼の身体が青白く照らされているのを、私はしばらくぼんやりと見とれてしまっていた。
 それは大切なものを喪失ってしまった悲しみを秘め、なおかつ今でも彼女への想いを抱いているようで―……。

「――河原さん、大丈夫?」

 宮野さんに声をかけられ、私はフッと視界が一瞬だけぐらつくと、とっさに口に当てた右手の甲に、温かいものがしみこんできた。

「い、いえ……急になんでかわからないけど、涙が出てきちゃって」
「僕がきみにつらいことを話したせいだね、ごめん」
 そう言って彼はわたしに、ハンカチをそっと手渡してくれた。
「はい、これ使って」
「……ありがとうございます」
 返すのは後でいいから、と宮野さんは再びパソコンのキーを打ち始めると、私は借りたハンカチで涙を拭いた。
「すごく、つらかったんですね……彼女さんのこと」
「そうだね……彼女を失った時、そのショックで暫く何も手につかなかった。それで僕は彼女のことを忘れるために、本社への転勤願いを出してこの部署に来たんだ」
 宮野さんが作業をしながら私にぽつぽつと話を続けた。
「もしかしてそれって……過去から逃げるようにして、ですか?」
「それもあるけど、本社に戻っていろいろと気づいたこともあった」
「……今も、その人のこと、好きなんですか?」
 私が目をしばたかせてから彼に尋ねると、こう返してくれた。
「うん。いままでもそうだったし、これからも」
 微かに憂いを帯びた笑みを浮かべた宮野さんを見て、急に心の中がスッと軽くなった。
「そうですか……」
 よかった、と私がお盆を手に椅子から立ち上がろうとしたその時、疲れと眠気が同時にどっと押し寄せ、徐々に瞼と体が重たくなった。
「――河原さん?!」
 彼の驚きの声の後に、ふわっと柔らかい感覚が全身を包みこみ―その後意識が暗転した。


 翌朝。
 私の身体は仕事場の端にあるソファーの上にあった。
 壁掛け時計の時刻を見ると朝六時を指していて、目を擦りながら体を起こして室内を見渡していると、コーヒーが入ったカップを手にした宮野さんが中に入ってきた。
「あ。河原さんおはよう」
「おはようございます」
 毛布をたたんでソファーの端っこに置いていると、彼はコーヒーを飲みながら心配そうな顔をこちらに向けていた。
「昨夜きみが急に倒れて、その後ここに運んだんだ。ちゃんと眠れたか心配だったんだけど」
「大丈夫です、それより主任の方が……」
「僕は隣の別室で休んだよ。それに泊り込みは慣れてるから平気だし」
 忙しい時は週末しか自宅に帰れないこともあるから、と宮野さんは苦笑いして、残りのコーヒーを飲み干した。

「そろそろここを出ようか」
「はい」
 私は机に戻って鞄と携帯を手にすると、宮野さんと一緒に職場を後にし、近くにあるお粥専門の店で、軽い朝食を摂った後に駅へと向かった。
 彼が何日も会社に泊り込む時は、時々この店でご飯を食べることがあるんだとか。
 
 人の行き交いが少ないオフィス街の歩道を二人並んで歩く。
「朝早く会社から家に帰るって初めて」
「今日は土曜日だから尚更だな」
 私の横を歩いている宮野さんの横顔は、すごく優しい笑みを浮かべていた。自分よりもずっと背が高く、まっすぐ前を進んでいるその姿にも、また別の一面があったこと―それを知った私は、彼のことをまた少し好きになれた、と思う。


 それから数分後。
 電車の車内で宮野さんが私に尋ねてきた。
「……ところで河原さん、一つ聞きたいんだけど」
「なんですか?」
「どうして僕と一緒の電車に乗ってるわけ?」
 そう聞かれた瞬間、私はしまった、と思わず額に手を当てた。
 彼と一緒に駅に着き、そのまま改札口を抜けた後、一緒に同じ電車に乗ってしまったらしい。
「なんで私ボケてるんだもうー!!」
 馬鹿すぎる、と自責している私の肩を、宮野さんがポン、と叩いた。
「まあまあ、次の駅で降りて戻るってのもあるけど……もしよければ、今日は土曜で休みだし、このまま一緒にどこか行きます?」
 突然の彼からの提案に私は驚き、暫くどうしようかと悩んだあげく。
「……いいんですか?」
「もちろん」
 彼の返答を聞いた私は、こくりと頷いてから、電車の窓の向こうを見つめた。
 
 はるか遠くの朝空に、少しだけ欠けた白い月が西の山の向こうに消えていく。それを見届けた後、私は宮野さんと顔を見合わせ、一緒に笑い合った。
 



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