I.D

如月冴子



1.

 琥珀は王女から賜った剣を握りなおした。
 足元にたわむれていた風が、腰まで届く長い髪を巻き上げる。体を駆け上がり、腕を伝って、剣の周りをめぐる。
 冴えた銀の刀身が、緑色に輝いた。
 身を低く構えた狼のような獣が、鋭い牙を剥いて唸る。
 ひゅっと風を裂いて、琥珀の後方から矢が飛んだ。容赦なく獣の足元を狙う。
 俊敏な獣はもちろん、矢の気配を察知して飛びのいている。
「琥珀!」
 矢の出所から尖った声が叫んだ。琥珀は今一度剣の柄を握りなおし、体勢の崩れた獣にすばやく踏み込んだ。
「たぁッ!」
 体勢を立て直してこちらに飛びかかってくる獣を、斜めに切り下ろす。
 ざっくりと獣の体は二つの裂けた。切断面は薄い緑色に輝き、そこから無数の泡のような細かい光となって、獣の体ははじけた。
 はらはらと天に昇ってゆく光の粒を見上げ、琥珀は剣を鞘に戻した。
「お見事でした」
 やわらかい草を踏む足音が後方から近づいて、琥珀に並んだ。
「ありがとう、ウルク」
 傍らに立つ人影を見上げると、穏やかな微笑が返される。深緑の髪はこまかく三つ編みにされて背へ流れている。尖った耳と弓の腕がエルフの証だった。
「おーい、琥珀!」
 足元にただひとつ残された獣の牙を拾い上げるのと、遠くから声がかけられるのは同時だった。
「やっぱり。久しぶりだな! ウルクも一緒か」
 駆け寄ってきたのは若い男だった。少し長めの黒髪は伸びるがままにされているようで、所々で長さが違っている。頑丈だが軽い革の鎧を身につけ、剣を帯びている。
「ジャック。久しぶり」
「ここにいるってことはやっぱりお前たちもアレか。世界樹に行くところなのか?」
 まだ子供っぽさが残ったさわやかな顔でジャックは笑った。彼とは以前、一緒に旅をしたことがある。
「お前もってことは、そっちもね」
「当たり前だ。こんな大きなイベントは珍しいじゃないか。古代魔法の継承だぜ? 俺は魔法はからきしだけど、いい仕事とか見つかるかもしれないし。ウルクはあれだろ? 魔法を貰うつもりなんだろ?」
「まあ、そんなところです」
 屈託のないジャックの様子に、ウルクは微笑を返して弓を背に戻す。
「だったら目的地は一緒だ。一緒に行こうぜ」
 こちらの返事も聞かずに、ジャックは街道を目指して歩き出す。マイペースな剣士の様子に、取り残された二人は顔を見合わせ、小さく吹き出した。


            *


 目の奥が鈍く痛む。
 閉ざした瞼の上を押さえた。奇妙な模様がいくつも、闇の中をぐるぐると回っている。
 椅子の背もたれに重みを預けて大きく沿った。目を閉じていても、天井の蛍光灯の青白い光はまぶしい。
 うっすらと目を開く。ちらちら、ちらちら。視界の端で何かがひかっている。
 ベッドの上に投げ出した携帯電話が、一定の周期で点滅していた。
 点滅と言うにはほのかな、蛍のようなひかりかただ。
 着信かメールがあって、それでも放置しているとああいう弱弱しい自己主張をする。
 もう二日、折りたたまれたその機械を開いてはいなかった。何度震えて、何度ひかっただろう。
 別にかまいやしないのだ。今は正月休みなのだから。特別な用事があるわけでもない。
 ゆるやかな明滅をくりかえして、すぐに電池を消耗して、なにものも受け付けなくなる。
 どれだけ待っても、一番欲しい色はひからないだろう。
 だから、かまいやしない。



2.

「どこまで水飲みにいってたんだよ」
 街の外壁にもたれていたジャックがからかうように言った。
 中央に世界樹を戴くアリスタの街は大きい。街の上に蓋をするかのように枝を茂らせた大樹は圧巻で、その根元から街は円周状に広がっている。
 アリスタは深い森の只中にある。円形の街をぐるりと囲む外壁を一歩出ると、そこは野生の生き物の領域だった。
「ごめん、ちょっと休憩してきたんだ」
 少し彼を待たせたかもしれない。琥珀は素直に詫びた。
「いいさ、俺も酒場に寄ってきたところだから」
 ジャックは外壁から体を起こす。
「まだ儀式には時間があるしな」
「ウルクは?」
 見目麗しいエルフの姿が見えない。
「野暮用だって。樹の下で待ち合わせようとか言ってたけど、行くか?」
 促され、琥珀も世界樹へ続くメインストリートを歩き出す。以前もこの街には訪れたことがあるが、比べ物にならないほど、人が多い。
「よう琥珀、久しぶりだな。お前も世界樹か?」
「あら、最近はこのあたりにいたのね」
 雑踏からいくつも声がかけられる。少し後ろをついて歩くジャックが、頭の後ろで手を組み合わせて、感心した。
「ほんとお前、有名人だな」
「そうでもない。キャリアが長いだけだよ」
「まあそうだろうけど。でもキャリア長くて強くたって、性格悪いやつらなんて山ほどいるしさ」
 お前は付き合いやすいよ、とジャックが言った。
「ああ見えてきた。いつ見てもでっけえよなあ」
 立ち止まったジャックは、額に右手をかざして天を仰いだ。
 天蓋のように街を覆う枝にはみっしりと葉が茂っている。濃厚な緑もあれば、葉脈が透けて見えそうな薄い黄緑もある。永く継がれてきたいのちと、今も途切れぬ呼吸を体現しているようだ。豊穣の証でもあるだろう。まるで宝石のようにきらきらと、葉の間から光が漏れてきていた。
「遅かったじゃないですか」
 人ごみの中から、細身ながらしっかりと均等の取れた体躯が近づいてくる。
「ああうん、俺は酒場に寄ってたし、琥珀は休憩中だったんだってさ」
「まあイベントにはまだ時間がありますしね。何かいい依頼は見つかりましたか」
「いくつかはな。さすが人がいっぱい集まってるだけあるよ」
 ジャックは朗らかに笑った。
「ところで俺、詳しく知らないんだけどさ。イベントってどこでやるんだ?」
 線の細い端正な顔立ちをやわらかく崩して、ウルクは苦笑する。
「知らずに来たんですか? 樹の下に祭壇がつくられているはずですよ」
 たおやかな指を伸ばして、ウルクは人々の向かう先を指差した。もはや巨大な幹しか見えぬ世界樹の方向だった。


            *


 全てを知って、ほしくなどない。
 醜いどろっとした胸のうちや、過去のあやまち。
 あがいてもどうしようもなかった結末。
 知っていて、見なかったふりをして何事もなく笑顔を向けられるのは、辛い。
 笑い返すことなんて出来ない。少なくとも、今は。
 わたしのことを誰も知らない場所に行けたらいい。
 そこでなら新しい自分になれる。わたしの足跡を知らない人たちの前でなら、どんな仮面だってかぶれる。
 いいひとのふりをして、やさしく出来る。
 簡単に逃げていけるなら、泣いたりしないんだけど。

 なんでもするよ、と言ったのは嘘ではなかった。努力もした。
 どんなことをしてもだめだよ、とほどかれた手のひらがある。その冷たさに打ちのめされている。
 頑張れば必ず報われると、きらきらした笑顔で笑う人々がいる。
 だったらどうしてわたしは一人なのだろう。



3.

「ごめん」
 祭壇が見える位置まで近づいたところで、急にウルクが立ち止まった。
 倣って立ち止まる二人を振り返る。
「娘が熱を出しちまったんで、これから夜間診療の病院に連れて行かなきゃならなくなったんだ。悪いけど先に落ちるよ」
 先程までの慇懃な口調ではなかった。
「えええ、まじで? たいへんじゃない」
 ジャックが素っ頓狂な声を上げる。
 “ヘッドギア”から聞こえてくる声は、甲高い少女のものだ。
「ほんと、悪い。琥珀も誰か別のパートナー見つけてくれていいからさ!」
 言うが早いか、ウルクの体はうっすらと”透けて”、光のつぶとなって消えてしまった。
「お大事にねー! あ、間に合わなかったかな?」
 ぴょん、と跳ねてジャックは手を振った。若者の剣士にあるまじき、かわいらしい所作だった。
「んん、あたしもいくつか依頼貰ったし、今日は落ちようかな。別にイベント見てても魔法もらえるわけじゃないし。最近夜更かししすぎだって父親がうるさくってさ」
 ジャックは乱暴に頭を掻いた。
「余計なお世話だけど、琥珀もちゃんと休みなよ。最近ログインしっぱなしじゃない?」


            *


《最近ログインしっぱなしじゃない?》
 愛らしい少女の声が、鼻から上をすっぽりと覆うヘッドギアから伝わってくる。
「うん、そうだね」
 口元まで伸びたインカムマイクに答えた。声が震えないようにこらえた。
《あ、やばい。おやじが起きてきた! じゃあね、また暇があったら組んでね!》
 ジャックの体がぱあっと輝き、無数の光となって霧散した。
 キィボードから指をはがし、頭部を覆うヘッドギアに添えた。
 いささか乱暴に取り外す。途端に、体の周囲に広がっていた3Dグラフィックが消える。
 いつもの味気ない自分の部屋にいた。
 ベッドの上ではまだ、携帯電話が蛍のようにひかっている。

 ローラーのついた椅子を引いて立ち上がる。
 長時間座りっぱなしだった体は硬直して、動くたびに鈍い痛みを伝えてくる。
 決して脱ぎ捨てられない、自分の体なのだ。今まで歩いてきた軌跡をすべて背負っている。
 ネットの中では自由だ。
 年齢も経歴も、昨日何を食べたかも、誰かとつないだ手を離したって。
 自分の好きな性別で、容姿で、生きていける。
 望めば簡単に仕事に就くことだってできる。
 どこへだって行ける。
 いいや、結局どこへも行けないんだ。
 さようならと挨拶をしてヘッドギアをはずせば、いつも同じ椅子に座っている。
 努力すればするだけ強くもなれる。費やした時間が数値で報われるのは、とても楽で心地よかった。
 ある数値に達したら、より高いステップに行ける。
 望むままの自分に。

 現実世界に生きるきみは、今までつないだ手のひらを解いて言った。
 どれだけ努力をしても、どれだけ美しく磨いてくれても、やっぱりもう二度とあなたと手はつなげない。
 願い続ければ夢はいつか叶う。努力はいつか報われると、きらきらしい瞳で笑う人々もいる。
 そんなわけない。

 携帯電話を拾い上げて、ひらく。
 画面には、数件の着信とメールを知らせる文字。
 メルマガと、他愛のないメール、同僚からの着信。
 あとは。
 携帯を手にしたまま、狭い部屋を横切った。玄関の扉を押し開けると、いつもとは違う重みがあった。
 ドアノブに何かが引っかかっている。
 白っぽいありふれたビニール袋だった。
『いつもお世話になってるお礼だよ! 近くで餅つき大会があったのだ』
 開いたままの液晶画面には、そう記されている。
 ビニール袋をノブから取り外して、扉を閉める。
 透明なプラスチックのケースの中に、丸められた餅がふたつ、おさまっていた。
 靴箱の上に、開いたままの携帯電話を置いた。
 ビニール袋から引きずり出した手のひらにようやく収まるぐらいの餅は、大分乾いている。おもては固くなっていた。
 どれぐらいノブに引っかかったままだったのだろう。そういえば今日は一日外に出なかった。
 ひとつ掴んで、かぶりついた。
 朝食を食べたきりだった。
 ぼろっと右目からしずくが落ちた。
 望む自分のままでいられるあの場所では、空腹すら満たせない。
 生きてゆけない。
 努力が数値で見えなくても、どんなに想っても叶わなくても、電子の海のなかでは、生きてなんか行けない。
 大福餅を嚥下した咽喉から、嗚咽があふれた。
 誰かに会いたいと思った。
 あのひとにはもう会えなくても。



【了】


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