ヒロイン
松浦由香
主人公になるのは決まって何かしらの特徴がある。美人だけど仕事が出来る人か、可愛くてどじでまるで仕事が出来ないか。
その中間にいる平凡で普通な人は、普通に大人になって普通な人と手っ取り早く結婚するものなのだ。
それだと「決まっている」のに……
林 実花はコピー機の前でため息を落とした。
―あと30部―
十分ほど前からかかりっきりのコピーがまだ終わらない。
美人で仕事のできる先輩と、仕事が出来ないくせに世渡りの巧い後輩。その間で恋人もいない中堅である実花は日がな一日をこのコピー機の前で過ごしているようだった。
ときどき上司にミスをいびられ、仕事をこなしても当たり前で褒美の言葉もなく、手柄は美人先輩に向けられる。何のとりえもない「平均値」に居る彼女。
ここまで平凡なのだから、結婚ぐらいさっさと出来るはずだと決めてかかっていたのに。
何を間違っていたのだろう。学生の頃は勉学に励み、だからと言ってトップクラスではない。短大を卒業し、就職氷河期と言われながらもそつなくこの会社に入社し、十年。無遅刻無欠席でやってきてなおまだ幸せだとは言いがたい。
貯金額が年齢に応じて増えていくのは、遊びを知らないからだ。飲み会に行っても二次会に誘われないほどの無存在。会社での恋愛など期待できず、だからと言って他で見つけられるほど出歩きもしない。みんな何処で出会っているのだろう?
―そもそも?―
恋人は絶対的に必要なのか? ということで堂々巡りが起きる。寂しい現実に逆切れしても、一人よりは遥かに良いし、やはり恋人は欲しい。誰かに頼って生きていく安心感が欲しい。
―私は一人で生きていけそうなタイプ?―
世間体を気にして可愛く装ってみても、三十路前ではただ痛々しいだけのようだ。
ため息が漏れる。
「ちょっと、いいかな?」
声の主はこの会社の専務であり、社長辞任―あと数ヵ月後らしい―のあと副社長となって新社長をバックアップする竹中 伸久だ。
涼しげな人で女子社員にことのほか人気がある。仕事は素早くこなし、誰にでも厳しい。
「知っての通りだが中途採用者がこの部署にも派遣される。その中に新社長である望月氏が混じっている事は噂になっているだろうが、若、いや、新社長はその身を公開せず現場を体験したいと言っている。誰が誰だという詮索やひいきなく遣って欲しいという要望だ。ただし……何処の部署に行くかは本人のその日の気分らしいので、私にもわからん」
まったく面倒な事を、というような顔を一瞬だけした。
ひそひそという声がする中でコピー機の音だけがする。
伸久がちらりと実花の方を見たが何も言わずに出て行った。
程なくして五人の若者が現われた。
スーツ姿が三人と、いかにもバイトらしくラフな格好が二人。いい加減な格好だ。と思いながら実花はコピー機の方へと向き直った。
「これ、十分で四十部」
コピー機に無造作に置かれた書類。
―十分?―
「どうした、いやか?」
実花が顔を上げると、いつだったか飲み会でやたらと近づいてきて太ももを擦ってきた万年係長だ。断固としてそれを拒否した報復が二週間のコピー係か。
実花が口を開こうとしたとき、
「無理っすよ、コピーが一枚に印刷する速度は最新機種のカラーが24.2枚/分。モノクロで、45枚/分。それ一部が通し番号でいくならば30枚強。それを四十部。1800枚。カラーで75分。モノクロで40分。でもこの機種は二世代も前、それを十分でするなんて、あんた「馬鹿」? それともよほどの機械音痴かのどっちかだね」
フード付きのトレーナーを来た「少年」は声を立てて笑った。
「それとも、彼女に愛人にでもならないかって誘って振られた?」
甲高い音がして実花の手が彼の頬を引っ叩いていた。
「セクハラとして訴えない代わりだからね、大人を、からかわない、方が、良いわよ。それから、係長、十分で、これを四十部欲しければ、向こうのコピー機を、三台掛け持ちで、……自分で動かしてください」
実花は出来上がった書類を整えるとそれを指示した男性社員の席に持っていく。
体が震えている。啖呵を切ったのは初めてだったし、人を引っ叩いたのも初めてだ。
実花はコピー機に戻り新しいコピーをとる。
少年は係長の方を見てニヤニヤと笑う。係長はそそくさと書類を持って向こうへ行った。
「力在り過ぎ」
「そんな所に居るからでしょ、バイトなら他の人の指示をもらって、」
「へぇい。あ、俺、鈴木 隆也」
隆也は片手を上げて向こうへ行った。
実花はため息を落とす。
会社の食堂は代わり映えがなくOLたちの姿はない。小遣い制のサラリーマンたちが細々としたランチを食べにくるので酷く空気が濁っている気がする。
実花はA定食を頼み机に座った。
「此処いい?」
顔を上げれば隆也がにこやかに笑って盆を置いた。
「向こうにだって、」
「だって、おじさんばかりじゃつまんないしさぁ」
そう言って手を合わせると箸を動かし始めた。
味噌汁の椀を手にして、実花は隆也を見る。
「何?」
「仕事するんだったら、そんな私服じゃなくてもう少しましな格好してきたら?」
「変? 誰も言わなかったけど」
「みんな、誰が新社長か解らないからよ」
「新社長?」
「この中途採用者の中に次期社長が潜り込んでるんですって、潜り込んで不要部署を潰しにかかるとか、不正支出の出所を押さえるとか、」
「何、それ、スパイ映画か何か?」
「そんなところじゃない? 私には関係ないけど」
「何で?」
「何でって、」
「もし俺がその次期社長だったら、ちょいと色仕掛けとかしない?」
実花は隆也を呆れたように見返す。
「貴方の思考回路にはそういう嫌らしさしかない訳?」
「そう? 健全な意見じゃん。もしかすっと、もう居るかもよ、ほら」
隆也が指差す方を見れば見たことのない人、だが多分今日入った中途採用者に人が集まっている。スーツを着た美形から人が少なくなっている。
「俺に居ないのは、」
「その格好の所為よ」
「あ、やっぱりぃ?」
隆也は笑いながら玉子焼きを頬張った。
「明日には弁当合戦とかあるんだろうねぇ」
「そうね」
「実花さんもする?」
実花が眉をひそめるのを隆也は手を振り、
「それ、それ実花って読むでしょ?」
隆也が指差している財布などを入れたポーチに刺繍した「実花」の文字。
実花はそれを膝に隠し茶碗に向けて顔を下げた。
実花の仕事はコピー取りとお茶汲み。そして普通業務。パソコンの画面に絶えず入力していく文字。多分、この時間を割いてまでコピーを取りに行ったり、自分には不必要なお茶を汲む時間を省けば毎日残業もしなくて済むはずだ。
居残れば必ず、残業するの? 手当て、出せないぞ。と釘を刺される。
―じゃぁ、自分でして。あたしの邪魔はしないで―
その言葉を何度も言いかけては消えていった。
それを隆也はなんの悪びれる事も無く言った。そもそも自分の仕事なのだから当たり前なのだが、どうしても、上司だからとか、男性社員は女性社員よりも忙しいんだ的な妙な考えの所為でOLたちは損をしている。自分の仕事をやらせてもらえずに残ってすれば不機嫌な顔をされるのじゃあ、やはり此処で一生を終えるのは難しいのかもしれない。
所詮、女は結婚までの腰掛けで仕事を選んでいる。なんてまだ思っている人が多すぎるのだろう。
―いかん―
妙な反骨心や精神は邪道だ。そんなものが在ったらますますお局道まっしぐらになる。結婚して、平穏な家庭を気付くというささやかな夢から遠ざかる。それだけは持ってはいけないのだ。
それでも、やはり無碍にコピーやお茶を要求してくる人にはそういう気が起こらないでもない。
でも、今日は隆也のお陰なのか声がかからない。
四時五十分。
実花は背伸びをして時計を見た。あまりの時間に驚いた。
声がかからず集中していれば明後日までで構わない資料の打ち込みすら終わっている。しっかり仕事が出来ている。しかも終業前に。
―凄い……―
言ってみる価値は在るのだが、コピー機の前でエラー音をならして右往左往している係長を見ればやはり助けに行ってしまう。
立ち上がった実花よりも先に隆也が近づき、
「だめじゃないですか、女子にばかり任せてると後で痛い目に遭いますよ。よく言われません? 家でも。俺の父親なんか何も出来ないから母親が居なかったら風呂にすら入れないんですよ。そんなんだから母親は気が抜けなくてヒステリックになってとうとう家出。熟年離婚調停の真っ只中。そんなことに成りたくなければ出来るだけ自分でしなきゃ。今からやってないと、俺の父親みたいに、すねて駄々こねて水風呂入る馬鹿を見ますよ」
隆也はそう言って笑いながら親切丁寧にコピー機の紙の補充、インク交換、紙詰まりの方法などを教えた。
不器用な係長が何とかコピー機を動かし、満足そうに隆也と笑っている姿は微笑ましい。
終業のベルが鳴り、何年ぶりかで規定出社できそうで実花も嬉しい。
「新社長のお陰だな」
誰かの声に聞き耳が向く。
「あの(中途採用者)の中に居る新社長にゴマするお陰であのお局ですら機嫌よく笑ってるし、俺らにも優しい。確かに内部調査されてるようで嫌だけど、あの女子の態度は見てて面白いほどだよな」
確かに、全女子社員が中途採用者に優しく接し、他の社員にも、誰だか解らない新社長の手前優しさと笑顔を振りまいている。確かに奇妙な情景だ。
「あ、実花さん一緒に帰りましょ」
「何で?」
隆也は実花に微笑み、カバンを袈裟懸けに掛けた。学生気分のままの隆也に呆れながらも、
「私は電車だから」
と言いながら駅まで、駅に着けばホームまで、ホームに付けば到着駅までなどなどずるずると付いてきて家の前。
「普通の家」
「あのねぇ」
「いや、マンションとかかなぁと思ってたんで、」
「一人暮らししてると?」
「いい年だし、……すんません」
実花はため息を落とし駅の方に指差した。
「あっちに歩けば駅よ。じゃ、送ってくれてありがとう」
隆也は首をすくめた。
実花は家に入る。
今には両親と弟、そして見知らぬ女性が居た。
「お帰り、あ、えっと、」
「あ、ねぇちゃん、俺結婚する」
弟の突然の告白に返事すら出来ず、その家族会議に参加した。
弟は大学を卒業し、就職する事を嫌ってアルバイトをしている。大学まで行ってアルバイト? なんて無駄な融資だったか。と嘆きたい両親の気持ちが解る実花にとっても、どうにかならないものかと心配していた弟だ。
その弟がどう見てもまだ二十歳そこそこの彼女を連れてきた。
「しかも、妊娠三ヶ月」
そういった弟の妙な誇りにさらに唖然となる。
「あんた、仕事は?」
「え?」
実花の言葉に思い出したかのように両親が頷く。今まで忘れていたのか、そんな大事な事を? と思いながらも弟を見た。
弟は天井を仰ぎ、
「そうだなぁ、何とか、なるかな?」
と軽く答えた。
「馬鹿……、食費、切り詰めても一日一人五百円として二人で千円。月に三万。ミルク一缶千円ぐらいとして一週間前後、で四千円。おむつ代一個千円を一週間、四千円。光熱費で二万、家賃がいくらで、あんたの浪費の元であるその服代を加算したりして、せいぜい、10万以上は要るのに、あんたのつまらないと言っていたバイト代はいくらよ? それで結婚して、彼女を幸せに出来るなんてご都合主義というか、天然馬鹿と言うか、姉として情けないわよ」
急に現実的な金額がでてきた事もあり弟は眉をひそめるばかりだった。
「つまりあんたが、死んでも嫌だと言っていた定職に付かなきゃ、子供は愚か奥さんでさえ養ってあげられないのよ。そんなことも解らずに居たわけ? つくづく馬鹿」
実花の言葉に弟もだんだんと現実味を帯びてきたのか、「子供が出来たからさぁ」とか言う辺り一辺倒な責任文句から、重大だと言う事を感じてきたようだ。
弟が彼女を見る。その態度がまた、「じゃぁ、結婚は辞める?」のような目をした。気がした。
実花が弟の頭にこぶしを落とす。
「イテ、何するんだよ」
「欲しくても望んでも出来ない人も居るのに、せっかく授かった命を無駄にするより、お前がしっかりすると言う道を選びなさい。お前が死ぬ気で働いて、面倒見ると言う安心感がなけりゃ、おまえは一生結婚も出来なきゃ、生きていく事さえ出来ないよ。今は親が働いてもいるけど、そのうち定年、老後、介護になってあんたどうするわけ? あたしに抱っこにおんぶなんかしてごらん、放り出すからね。どうするの、働く? そんな最低限の事も出来ずに、動物的行為で結婚しますなんてあんたの頭はサル以下よ」
姉にこっぴどく罵られ、普段なら機嫌悪くなって逃げ出す弟も、流石に身に沁みて自分の情けなさを痛感しているようで、反論さえ出来なかった。
「お父さんところ確かアルバイトかなんか募集してたよね? そこで工務の下積みをして、正社員になって頑張ったら? お父さんに似て手先は器用なんだし、」
沈黙が流れる。
弟は小さく頷き、「お願いします」と父親に言った。
「じゃぁ、家はお金が出来るまでここに居たら? あたしが出るわ」
実花の言葉に弟が実花を見る。
「金があるなら貸せよ。という顔をするな。あたしに借金を作ればそれだけ返さなきゃいけない。無駄金でしょ? ここに居て家賃分をためていけばいずれ出たらいい。この子だって若くって不安だろうけど、お母さんがいる分独りじゃなくて安心するだろうし、第一、ここにいれば嫌でも仕事サボれないでしょ」
実花の言うとおりだ。サボるには、此処は不適切な場所だ。
しかしそれを受諾しなくてはいけない自分の境遇に弟は頷いた。
「私も、早いうちにアパート見つけるから」
実花はそう言って二人に微笑んだ。
翌日。会社は案の定の騒ぎだった。
弁当の山を手にした中途社員たちが出社してくる。
その中で隆也は手ぶらだった。
「あら、貴方は無し?」
「どうも、実花さんの言うとおり、この服の所為で既に脱落。昨日私服だった奴もスーツ着てきてほらもらってる。俺だけ」
「じゃぁ、スーツ着て来れば?」
「持ってないし、」
実花は呆れながら首を傾げ仕事の用意を始めた。
途中社員たちの仕事はまちまちだ。それも、新社長候補度に比例している。だから隆也の仕事は雑用ばかりだが、やる気を見せたり、眼鏡をかけたり、ちょっといい男の仕事は内密な資料作成とかだったりする。
しかし、不思議な事も気付いた。
中途採用者が入社して二週間が過ぎた。まだ誰が新社長か解らない。中途採用者は一辺倒で違いますと言えとそれが契約の第一条件にされているらしく、それが本当かどうかも定かではない。警戒しながら威嚇しながらでも機嫌をとる奇妙な関係の中、隆也だけは様子が違う。
一緒にお茶を飲みながら世間話をしたり、悪口なんかも言い合っている。
「俺、あの人嫌いなんだよ」
「部長ですか?」
「部長の元カノが俺の奥さんだってこの前の飲み会で偶然解って、俺だってカミさんだって知らなかったんだけどさぁ、結構しつこくいびってきて、」
「ある意味、特異な偶然ですけどね」
「欲しくねぇよそんな偶然」
「俺ん所もうじき生まれそうなんだけど、ちょっと忙しくなりすぎてて、代わってもらえませんか? でいびられてるんだよ、まったく気分屋だよな」
と言えば、その部長も、
「嫌われるだけなんだよ管理職って、」
などと愚痴を披露している。
つまり、新社長で「ない」隆也に愚痴を言ってもどれほどのことを被る訳じゃないと思っているのだろう。
―でも、そういうときに限ってということがあるよね―
実花はそう思う。人からは素直じゃないとか、ひねくれた見方だと言われようと、どうも隆也がこの二週間経っても服装も変えずに来ている根性を考えて不思議でたまらないのだ。スーツにすればおまけ(弁当だの、職務特権だの)が付いてくるのに、一向にそれには興味がなさそうでただひたすら人とのコミュニケーションをとっているのだ。
「実花さんも行く?」
実花はキーボードを打ちながらぼんやりしていた頭を振って顔を上げた。
「何?」
「だから、歓迎会。てか、遅いんですよね、そういうのって」
「……、あぁ、中途に限らず最近の子は直ぐに辞めるから、歓迎会を開いて無駄になるケースが多いのよ。だからやらない事の方が多いの。で、一ヶ月を目処に此処まで残れば辞めないかなぁと思ったら開くのよ」
隆也が納得している横に、
「聞いてよ実花ぁ」
と同期の早苗がやってきた。
「何?」
「総務に入った子が居たでしょ?」
「総務?」
「そう、一番人気の、」
―何の人気だか―
実花が首を傾げてるのを他所に、
「殆どの人があれが新社長よって踏んでたのに、辞めたのよ、しかも無断欠勤が五日。電話してようやく捕まえたらなんていったと思う? 朝起きるの面倒なんで、辞めます。だって、あたしが作った弁当返せ!」
弁当で済んでよかったじゃないか、噂によれば新社長の恋人の座さえ目論んでいる人も居るとか、居ないとかで、夜ごと彼らは女子社員に誘われている。弁当ぐらい被害のうちじゃない。という人も居るんじゃないのだろうか。
実花はそう思いながら隆也に目を向けた。
少し考えているような目をしている。笑顔なのに目だけがやたらとここに居ないで思考を彷徨っている様な感じを受ける。
―この人がそうじゃないの?―
実花の心に、だったらおかしいわ。では無く、もしかして? と言う疑問へと変わった。あるいは、無口で、やはりそれらしく見えるまじめそうな彼か、とにかく自分には関係ない。多分、弁当合戦に関わっていないのは一人で、呑みに行こうにも賛同して行かない。もしそれがクビの理由ならばこの会社は終わりだ。
日曜日。ようやく見つけたアパートへの引越しをする。休みや暇な時間を探してこまごまと運ぶが、今日は大きなものをまとめて運ぶことになった。
乗用車で何往復かをし、二間あるアパートに引っ越してきた。
家からもそう遠くはない。静かな場所の二階。いいところだと探して思った。
一人ではこの二間は広いが、これでお手ごろ家賃なので即決した。
家族が帰り一人で迎える最初の夜。三十路までの初めての一人暮らし。寂しいと思う気持ちに泣くなど、子供過ぎては居ないが、ふと、猫や犬が居たら。と思う。
でも、猫や犬を飼えば婚期が遅れるという。絶対に飼えない。
これを機に遊びまわり、彼を作ろう! そう決めた握りこぶしを無意味に作ったその頭に隆也の姿が浮かぶ。
「何で?」
呟く言葉に返答はない。
テレビを消せばやたらと押し黙った静寂に寂しさを憶える。誰の音もせず、ひっそりとした空気が流れる。寂しい……。
翌週は仕事がしたくてうずうずしながら早々に向った。いや、正確には、会社に行けば誰かが居るからという安易な気晴らしに行くためなのだ。
だからなのか、人が話しかけることも、何もかもが笑顔で受け答えできる。不思議と煩さを感じないのだ。
「なんかいいことあったんですか?」
「何で?」
「いや、笑顔だから」
コピー待ちして目の前に立った隆也に実花は顔を上げる。
「別に、それもコピー? 取っとこうか?」
「いいです」
隆也の返事に実花は首をすくめ机に戻った。
一人暮らしの自由も、寂しさも程よく身に沁みて、味気ないカップ麺を啜る頃には、新社長お披露目会と歓迎会の話題で大盛り上がりを見せていた。
こういうイベントごとは、学生だろうと社会人だろうと変わらず好きなようだ。いや、社会人だからこそもっと好きなのかもしれない。いろんな意味でイベントごとが少ないのだから。
飲み会は社長就任の前日。さぁ、誰が社長なのだろう。この飲み会で社長だと思しき彼をゲットする事を目論む彼女たちの化粧は濃い。
「みんな、なんか凄いっすね」
隆也が一人静かに飲んでいた実花の元に串焼きを手にしてやってきた。
「そりゃ、明日になれば社長の恋人に化けてるかもしれないんだからね」
「実花さんは興味なし?」
「……そうね、あまり」
「じゃぁ、俺と付き合いません?」
「あたし、年下きらいだから」
隆也は暫く黙っていたが首をすくめてチュウハイを呑んだ。
場の盛り上がり方は例会以上だ。どんどんと酒が注文されていく。酔って何処へ連れ込む気だか、かと言って、在中社員も負けず、この気に意中の社員を落とそうと奮起している。春には大量寿退社が増えそうな勢いだ。
実花はため息をついて横を見れば、グダグダになって寝っ転がっている隆也が居た。
「何、つぶれたの?」
隆也からの返事はない。
実花は呆れながらも、二次会へ行こうとする波に逆らい隆也をタクシーに乗せる。
「家は、何処?」
と言っても返事もない。他の誰かに任せればよかったかとも思ったが、素面は居ないし、みんな口説くのに躍起になっていて一次会ごときで潰れている輩の相手は出来ないようだ。
実花はタクシーに自分の家を教え、一緒に隆也を運んでもらった。
礼を言って戸を閉める。
―パス・ケース?―
拾い上げれば隆也のものだった。
―望月 隆也……やっぱり新社長。……私よりも二つも上? あの格好で?―
実花はそれを閉じ部屋に戻る。
ベットで力なく寝ている隆也を見下ろし、冷蔵庫を開ける。
そんなに呑まないのだから無駄だと思いながらも買っておいたグレープフルーツと炭酸水を取り出し、グレープフルーツを絞り、炭酸を入れ、少々飲み易くするために蜂蜜を入れる。
「起きて、これ飲んで、……着替えたら? お酒かぶってる」
実花はそう言うと、いずれ出来るからさぁ。と言われて友達が誕生日にくれた男物のスェード上下を取り出した。
「向こう行ってるから」
そう言って隣の部屋へと行き戸を閉める。
そして隆也の免許書にあった電話へ掛ける。
「夜分にすみません、望月さんのお宅でしょうか? 私、隆也君……、新社長と今一緒の部署に居る林と言うものです。…そうです。今日の歓迎会で酷く酔われて、家が解りませんし、タクシーに乗せて帰れるか不安で今家に預かってます。……はい。直ぐに来てくださると私も嬉しいのですが、……いえ、かなり酔っていて、私が貸してあげている服を物凄い音を立てながら着替えてますから、かなり呑まれているようです」
電話は「直ぐに参ります」で切れた。
多分名簿か何かで探してくるだろう。
部屋に戻れば隆也は首にこそ服を突っ込んでいるがそのまま座っていた。
「それで諦めたか?」
空ろな目が実花を見上げる。
「気持ち悪い」
「呑んだ?」
「まだ」
「飲んで」
「まずぅ」
「酔ったときにはグレープフルーツがいいんだから、ほら腕通して、風邪引くでしょ」
だらしのない腕を袖に通しながら、
「俺、普段こんなんじゃないんだぞ」
と言った。
「そう? 普段を知りたいとも思わないけれど」
隆也の脱ぎ捨てた服をたたむ。隆也の手がその服の上に翳される。
顔を上げれば隆也の顔が直ぐそこにあった。
「お酒、臭いわよ」
「一度だけ、」
「……いや」
タイミングがいいし、物凄い迅速な行動だ。家のチャイムと戸が叩かれる。
実花は立ち上がり、玄関を開ける。
「え? 竹中さん?」
「あの阿呆は?」
「…奥です」
「お邪魔しても?」
「どうぞ」
竹中は会釈をして入り、そのあとで人の良さそうな中年が玄関に入ってきた。
「どうぞ、そこ寒いですから、お茶入れますね」
と声を掛け中に入る。
「コーヒーでいいですか?」
「いや結構、直ぐにお邪魔しますよ」
「無理でしょ、だって、その格好じゃぁ、」
実花はそう言って首をすくめ、玄関にいる中年を見ながら竹中の側にコーヒーを、そして玄関へコーヒーを持っていった。
「よくは知りませんが、平等にお茶は出すように言われて育ってますので、どうぞ」
「……、ありがとうございます。林様」
「様……結構ですよ、せめてさん付けで」
実花はそう言って微笑み中の方へと顔を向けた。
「明日はきっと大騒ぎね。彼が社長だなんて、」
「会社運営のノウハウが無いままですし、何よりも現場を見て、よりよいものにしたいということだそうです」
「それなのに、浮かれたOLたちの顛末ときたら」
「参加されなかったのですか?」
「私? あ、だめだめ、そんな積極的ならとうにこの年、彼氏ぐらい出来ているわ」
実花の言葉に中年は微笑んだ。
竹中が隆也を担いで出てきた。
中年からカップを受け取る。中年は竹中と一緒に隆也を担いで、
「ご馳走様でした。とても温まりました」
と礼を言ってでた。
「確かに暖まったよ。邪魔した」
「お構いもしませんで、お気をつけて」
ドアを閉め鍵を掛ける。
無情な音が妙に響く。
階段を下りる音。車の出て行く音。
―一人暮らしをすると、やたらと音に対して敏感になっちゃう―
さっきまで隆也が寝ていたベット。口をつけたグラス。残り香。
実花は窓を開け放つ。冷え冷えとする外気が流れ込む。
「さぁ、寝よう」
布団に横になる。
隆也の直ぐ側にある顔。吹きかけられる息。
―キスぐらい、してもよかったかしら? 子供じゃないんだし―
「そう、子供じゃない。だからこそたったそれだけに縛られるのよ」
翌日は寝不足のまま出社した。
二日酔いの顔もどこか緊張して見えるのは、今日が新社長のお披露目だからだ。
側に居ない奴の顔を思い出そうと皆がそわそわしていた時、社長が来た。の声で隆也が登場した。
いつものフランクさは無く、ぱりっと来たスーツは高級感を漂わせ、あれだけ子供じみていた顔も三十過ぎた好青年という感じに変わっている。
「一ヶ月お世話になりました。生憎と私は人の粗を探していたわけじゃない。でも現場の声を聞き改善すべき事は徹底して変えていくつもりです。特に、不必要な依存型の仕事は無駄をきたす。そもそも年だからを理由に新しいことを学ばないのはそれは上司としてあるべき姿ではない。上司だからこそ、勉強している姿を部下に見せるべきです。その姿を部下はもっと評価するべきです。パソコンすら使えないと笑っているのは、決算報告書をまとめる事も出来ないのかと叱責されるに等しい屈辱です。お互いに支えあう事こそが理想とすべき職場であると私は考えます。これからもこの会社のために尽力くださることを願います。では、仕事に戻ってください」
ご立派な演説のあと颯爽と隆也は消えた。
あれほど過熱していた弁当合戦は、それでも気に入った人だけがその後も続いたが結局どこかへと消え去った。
新社長の手腕はなかなかの高評価を与えられているようだった。
実花はそんなことなどに無頓着なので解らないが、経済ジャーナリズムなる雑誌では有望と評され何度も特集を組まれている。
ぱったり隆也は姿を見せなくなった。
だが、あの時言われた係長は積極的に機械の操作を行っている。いい傾向だ。
実花は一人スーパーの値引きシールばかりの食品を買った袋提げ歩いていた。
今日は特別いいものが無かった。カップラーメンと半額になったあまり美味しそうではないがそれだけしかなかったカツ丼ミニを下げて、文字通りとぼとぼ歩いていた。
「週末ぐらい帰ろうかな」
呟く事が増えて気がする。声に出して耳に音を入れていたいのかもしれない。
「遅いね」
実花が顔を上げれば隆也がコートの襟を引き上げて立っていた。
「どうしたんですか?」
「やっぱり、そういう口調になるよなぁ」
実花は俯く。
「それ、夕飯?」
「え? えぇ」
「じゃぁ、どっかへ行くと誘っても来ない?」
「何で、社長と?」
「酔いつぶれたときの礼」
「結構高くつきますね」
「タク代も出してくれたし、グレープフルーツのお陰で翌日まで残らなかったからね。で、どう?」
「夕飯はありますから、結構です」
「……頼みがある」
実花は首を傾げる。
「此処じゃない場所がいいんだ。寒すぎて歯がガタガタ言ってるし、部屋にあがるわけにも行かないから誘ったんだけど」
「他の人じゃだめですか?」
隆也は速攻頷いた。
実花は車に乗り込み、隆也がよく行く店という店に連れてこられた。
こじゃれた居酒屋の奥の個室だ。
料理とお酒が運ばれ、暫くは無言で食べて呑む。
「あの、頼みとは?」
「……、あの時居た奴を覚えてる?」
「竹中さん、ですか?」
「あぁ、伸久もそうだが、中年の、」
「えぇ、上がってくださいって勧めたんですけど、何か?」
「あれは僕の執事みたいなもので、松崎と言うんだけど、彼が、その」
「何か?」
「祖母に話したんだよ、」
「おばあちゃん?」
「おば、そう、おばあちゃんに」
「……なんと?」
「……素敵な人で、ああいうお嬢さんが隆也様の奥様になられることを私は願って止みません。松崎が言ったんだからね、俺じゃない」
実花は唖然と隆也を見返す。
「別に付き合ってるわけじゃなく、親切心で家に避難してくれていただけだと説明しても、家に連れて来いとか、老い先短いばばの幸せを取り上げて嬉しいのかと毎日ヒステリーに叫び散らして、今日なんか会社に殴りこんできたからね、同じ会社だと言うじゃないかって、当然食い止めて無理やり家に帰したけど、……一度でいい、ちゃんと説明はする。まったく関係ないのだと、だから、一度、ばばの機嫌取りに、」
「……でも、私なんかよりも、それこそ恋人に頼んだらいいじゃないですか」
「居たらそうしてるさ。居ないから、」
「秘書課の山村さんとか、経理の福永さんとかは?」
「松崎は君を知ってる。話を合わせてはくれるだろうが、なんせ二人の付き合いは俺なんかよりも遥かに長い、多少の言葉尻で気付く」
「でも、」
「解ってる。気が進まないのも、変な話だとも、でも、……俺も美香さんのほうがいいからさぁ」
屈託の無い笑顔。
―卑怯だわ―
実花はその笑顔から顔を背けた。
バイト君だと信じていたときの人懐っこい笑顔。あの笑顔に逢えなくなって心のどこかで寂しくなっていた。もう残っても居ない残り香を感じたくて布団の中で深呼吸している事に気付いて―不潔―と絶句したり、とにかく、姿を見せなくなってこんなに気になっているあの笑顔を向けられて言葉など出る筈が無い。
「お願い、出来る?」
実花は渋々頷いた。ように小さく頷いた。
隆也は安堵したように酒を開けた。
そういう週末は直ぐにやってくる。
隆也が車で迎えに来た。
実花は持っている中で一番豪華なものを着ていた。
「へぇ」
「馬子にも衣装でしょ」
「いや、そのオレンジがよく似合う」
オレンジの少し裾の広がったワンピース。子供過ぎたかしら? と思ったが後は何もない。こういうときは黒か、紺がよかったかしら? それとももっと地味な服? 普段着ではだめだろうし。考えれば考えただけ気分が悪くなる。
「大丈夫、凄くいい。……いいから余計に辛い」
実花が首を傾げると、隆也は首を振った。
望月邸は、それはそれは豪華だった。でも此処が別荘で、一年でも一週間も使わない場所だと聞くと少しむっとする。
汗水働いても、これだけの家も買えない庶民にとってはただただ嫌味な大きさだ。
玄関そばに車を止め戸を開ける。
見晴らしのいいリビングが広がり、ガラス張りの向こうにはプライベートビーチを望む事が出来る。
―本当に日本か、此処は?―
階段を下りれば二階に食堂とゲストルームがあると言う。
そわそわと出てきたメイド服の人たちが実花を見ている。
「お邪魔、します」
一人一人前を通るたびに恐縮して通る。
「伸久、ばばは?」
「ビーチだ」
「ったく、」
隆也はベランダに出てビーチに大声を張り上げた。
実花はその声に顔をしかめながら近づき、隆也の腕に触って、
「行った方が早いわよ、大声出してもしんどいだけよ」
と言った。
隆也はベランダから下りている階段を下りる。
隆也が振り返れば実花も同じく降りている。
「待ってたら、」
「いやぁ、あのメイドさんたちに接待受けるのは、そういうの好みじゃないし……、それに、綺麗じゃない、海」
実花は首をすくめて階段を下り、二人は祖母の方へと歩いた。
隆也が声を出す前に、実花は祖母の少し離れてしゃがみ、
「お邪魔してます。いいですね、海、独り占めって」
と微笑んだ。
「あなたが実花さん?」
「はい、でも、」
「いいの、どうせ違うの一点張りなんでしょ、あなたを見て名残惜しいと言い出す前に帰って」
「ばば、」
「そうですか、」
隆也が怒り出すのを手で止めて実花は立ち上がると、
「では、お邪魔しました」
と歩き出した。
「実花さん、」
「あ、タクシーで帰れるんで、電話、貸してください」
実花は一人で歩く。
―なぁにしに来たんだろうか―
そう思うが、もし何かの転機で隆也の側に居る事になっても、これだけの別荘を持つ家族の側に入られない。世界や価値観が違いすぎるのはやはり今後のためにも苦痛材料でしかない。
打算と計算。
年を取った女はそうやって値踏みする。自分に合った人を探すより、自分がいかに楽で得するかを考える。隆也の場合金持ちと言う大きな利点の分の損害は計り知れない。想像など出来ない。
階段を上がると竹中が立っていた。
「あの、電話お借りしていいですか?」
「なぜ?」
「帰っていいと言われたので」
「それでいいの?」
「なぜです?」
「隆也の恋人の振りでもしてれば玉の輿だという事だけど」
「率直ですよね竹中さんて、でも私自分が損する相手とは付き合いませんから」
「隆也は損をすると?」
実花は微笑み電話の受話器を持ち上げた。
「送っていく」
無理に切られて、手を引っ張られて実花は隆也と車に乗り込んだ。
無言が続く。
「すまない」
そう言ったのは家が見えてきた頃だった。
ゆうに日帰りの時間だ。辺りは薄暗くなり、隆也の車のライトも点いた。
「あんな、何の接待も無く帰すなんて思わなくて、」
「いいじゃないですか、これで無関係だと解ってもらえたのだし、」
胸が痛い。
「あ、赤になったんで此処で降ります」
ドアに手をかける。かばんを掴んでいる右手を隆也はしっかりと握ってきた。
「放して、ください」
「あと、少しだから、さ」
―余韻に浸ると、帰れなくなるのに―
実花は背もたれに体を預ける。
ただひたすら無言が続き家の前で車は止まった。
「それじゃ、」
「こんなはずじゃ、」
「いいじゃないですか、おばあちゃんは私を気に入ってくれてましたよ。ただ、私たちは何もないだけで」
実花はそう言って車から降りて頭を下げて階段を上がっていった。
翌日、昼から始まる会議に間に合うように実花はコピーを頼まれていた。
資料部数を抱えてエレベーターのボタンを上に押す。
エレベーターが止まり戸が開く。
中には隆也と美人秘書と名高い山村が乗っていた。
実花は上下ボタンを見た。
「下ですね? 私上に用があるので、すみません」
山村は事務的にボタンを押す。
戸が閉まる寸前まで隆也は実花を見ていた。実花は時計を気にしているようにそわそわしていた。
―だめね、逢っただけでこれほど鼓動が乱れちゃ―
戸が閉まったエレベーターの壁に隆也はもたれる。
「……林、実花さんですね。彼女」
隆也が山村の背中を見る。
「気をつけてくださいね、就任そうそうスキャンダルは社長の立場を危うくしますから」
扉が開くと山村はボタンを押したまま俯いた。
隆也はその横を過ぎる。
いっそ噂でもたって付き合うようにでもなれば。などと高校生(ガキ)の思考に苦笑いしか出ない。
まだ自由だった頃に言っておくべきだった。社長だと解る、バイトだと決めてかかっていたあのときに、言っておけば。後悔、先に立たず。
こつん。頭に何かが当たって実花の意識は戻った。
「どうしたぁ?」
同期の早苗は中途採用に見切りをつけそうそうに別の彼を見つけたらしく生き生きしていた。
実花と早苗は久し振りに一緒に夕飯を食べた。
小さなイタリアンレストラン。こじんまりとしていて落ち着いた感じの照明がよかった。
「それで、何を悩んでいるって?」
「それがね、」
実花は隆也とのことを、隆也だとは言わずに、気付かれない様に話した。勿論、中途採用してきた社員だとも言っていない。ただ、
「最初は年下だと思って気楽に話してたのよ。服装だって軽かったし、でも今は違う。立派な人。なんか立場逆転で、気後れしてる上に、なんだか向こうも気があるというか、」
「じゃぁ、付き合えば?」
「それがね、複雑と言うか、抵抗があるというか、」
「何で? 実花は好きなんでしょ?」
「だと思う」
早苗は煙を燻らせワインを口に含んだ。
「はっきりしないわね、好きじゃなきゃ悩む必要ないんだから好きなのよ。でもなんだってその抵抗があるかなぁ?」
「……、色々」
「何よ、」
実花は黙って早苗を見返した。
「初めて、だし。相手、お金持ち出し、それに、なんか、」
「ごめん、初めての意味が……おい、あんたいくつよ」
「いいじゃない、今まで遊びなんかしなかった結果よ」
「遊びもほどほどに必要だねぇ。化石よ、化石」
「放っておいて。遊び人は嫌いだろうけど、まったく無いのも、いやでしょ、この年じゃ……」
「かも、ね。……言えば?」
「なんて? 初めてなんですぅって? ばかばかしい」
「でも、いずれ付き合うとなったら言わなきゃいかんでしょう? 男みたいに金だしゃ処理できる場所なんか無いんだしさ」
「早苗ぇ」
「でもまぁ、遅かれ早かれ誰かに言うんなら、好きな人がいいんじゃない? その彼にとりあえずアタックしてみたらよ?」
実花は返事を濁す。
「その相手って、あたしの知ってる人?」
実花は黙ってワインに口をつける。
「知り合いかぁ。そんな奴居たかなぁ?」
「詮索しない約束でしょ」
「親友の彼氏を知らぬのは寂しいぞ」
実花は黙った。
名前を出したら、今まで言っていたことを覆すだろうか? そうしたら、自分が悩んでいる事を解ってもらえるだろうか? でも、そこが元で、自分が隆也を好きだと言いふらされるだろうか? 親友をそういう目で見ているのだろうか?
「社長……」
「はぁ? 何処に?」
早苗が辺りを見渡すが隆也の姿はない。
「居ないじゃない……、って、おい?」
「その彼よ」
早苗は黙って煙草を三本立て続けに吸った。そしてワインを二杯飲み干し、三倍目を注ぎながら、
「おっと、これはまた……」
と低く唸った。
「ああいうのがお好みだったか」
早苗はそう言って煙を吐き出し、
「確かに相手があれじゃ手を出そうにも勇気が居るわなぁ。下手に出して他に勘ぐられりゃ色仕掛けだの言われ、内緒で逆上せていたらいつの間にやら態のいい情婦ってことにもなりかねない、か」
早苗は煙草をねじ消し、暫くして重たく口を開いた。
「あたしなら、あたしなら情婦でもいいから一度は行くかな。自分の気持ちに嘘が無いなら」
実花は首を傾げた。
「ま、あんたには無理だろうけどね」
早苗はグラスを空けた。
店を出てタクシーを拾う時実花は思い出した。
「あ、資料……」
店に入るが資料は無い。
「あんた手ぶらだったわよ」
「やだ、じゃぁ、帰って、会社に取りに行くから」
早苗と別れ実花は会社に戻った。
ひっそりとした空間。昼間賑やかな場所だけに余計寂しさを感じる。夜の学校が怖いというのも、昼間の明るさが嘘のように静かだからだろう。
エレベーターのボタンを押す。箱は上階にあったようだ、静かに下りてくる音さえする。それほどに此処は静かだ。
扉が開くと中に隆也が乗っていた。
「実花、さん?」
「あ、ざ、残業ですか?」
「まぁ、そんなところ、実花さんは?」
「資料を忘れて、降りてください、上がりますから」
「一緒に行きますよ、怖いでしょ、一人じゃ」
実花は暫くして中に入った。
エレベーターが上がる。ボタンは隆也が押していた。一ヶ月だけ一緒に働いたあのフロアを目指して上る。
あと数階という途中。激しい音がしてエレベーターが止まった。中の電気も白熱灯から非常灯に変わる。
「やば、止まった」
非常連絡用の電話をコールするが守衛が応答に答えない。
「携帯」
実花はカバンを取り出し早苗に電話する。
「お願い、でて、」
だが留守電に変わるだけだ。
隆也も竹中や山村たちに連絡を入れているが、悪いときは決まって重なる。
実花はその場に座り込む。
「怖い?」
隆也が見下ろしている。
実花は頷き、体を抱きしめる。
隆也は実花の隣に腰を下ろしネクタイをずらした。
「酸素?」
「はぁ? いや、俺、ネクタイ好きじゃないから。一応会社ではしてるだけ、でもこんなときまで締めてるとしんどくて」
そう言って緩めると、上着を脱ぎそれを実花に着せ、シャツの袖をまくった。
「しんどいんだよね、スーツって」
隆也の言葉に実花は自然と笑みがこぼれる。そして失笑する。
「何?」
「安心する。あなたのその姿に安心する」
隆也は実花を引き寄せしっかりと肩を抱きしめた。
「こういう時に言う事じゃないけど、俺は実花さんが好きだ。最初から。引っ叩かれる前から。あの部署に入ってコピー機の前で立っていた実花さんを見たときから」
「私も、あなたが好き。こんな事でもなきゃ言えなかったけど、」
二人がしっかり抱き合ったときエレベータは再運行を始めた。二人は立ちあがり戸が開くのを待った。
扉の外には守衛が立っていて、血の気の失せた顔で何度も謝った。
実花が再びあの別荘へ行ったのは直ぐの事だった。
正式に付き合っているという報告をして、隆也の家にも、実花の家族にも祝福をもらった。多少、金銭面でのズレがあるが、両家は互いにいい感じだ。
物語の主人公に必要なものは、特殊な事件。私は平凡で平均で普通だが、そんな私にだって物語の主人公には成れる。誰だって、誰かのヒロインなのだ。