「日溜まりの夢」
南方南
ノベルフェスタ136 「楡崎記念」


 近頃のわたしの楽しみは、日曜日ごとの散歩だ。
 雨の日以外は、多少寒くても出掛ける。
 朝九時半ごろから化粧をして、髪を整え、歩きやすいけれども見苦しくない服に着替えて、ウォーキングシューズを履き、家から四十分ぐらいかかる小高い丘の上の公園まで歩く。背中の黒いカバンには水筒とおにぎりが入っている。
 家から丘のふもとまでの平坦な道は、少し早足で歩く。その方が健康によいのだと医者から言われたからだ。
 住宅街の中を抜ける道は静かで、綺麗に手入れされた庭を眺めるのは楽しい。門扉に飛びついて盛んに尾っぽを振る犬の頭を撫で、道を掃いてる顔なじみの奥さんに挨拶をする。大きな荷物を抱えて駅の方へ向かう中学生達とすれ違う。部活動で試合かなにかあるのだろうか。
 児童公園の角を曲がり、大通りに出る。平日は車の往来が激しく排ガスが気になる大通りも、日曜日の午前中は比較的静かで、石畳の広い歩道を、街路樹の葉が風に遊ぶ様を楽しみながら歩く。
 あまり大きな建物はなく、ビルもせいぜい四階建て。コンビニ、郵便局、ガソリンスタンド、ファミリーレストラン、クリーニング屋、レンタルビデオ店、肉屋、ブティック、ラーメン屋、金物店、そしておしゃれな喫茶店。見慣れた町並みも、よく見れば、入口に張られたポスターが、店先に置かれたプランターの花が、ショウウインドウの商品が、季節に合わせて変わってゆく。その変化の面白みに気付いたのは歩くようになってからだ。目的を持って、前だけを見て歩いている時は気付きもしなかった。世界は変化に満ちている。草も、木も、花も、季節の微妙な変化をいち早く教えてくれる。
 大通りを渡って、左に曲がる。白いラインが引かれているだけで歩道のない二車線道路は、ほとんど車も通らないし、人通りも少ない。私鉄の高架の下をくぐったあたりから、少し上り坂になる。店舗は無くなり、古い住宅が目立つ。建ち並ぶのは決して豪邸などではなく、平凡な家々なのだが、狭い敷地にびっちりと建つ最近の家と違って、ブロック塀に囲われたゆったりとした敷地に植木の緑が清々しい。
 ふと甘い香りが鼻をかすめた。立ち止まり、周囲を見回すと、二メートルほどの擁壁の上の錆びたフェンスの間から、沈丁花がのぞいていた。しばし、可憐な花の色と香りを楽しむ。春に先駆けて、日溜まりの中、甘い香りをふりまくこの花が、わたしは好きだ。
 徐々に勾配がきつくなってゆく坂をしばらく登ってから右に折れ、車の入れない細い道に入る。舗装の乱れた曲がりくねった上り坂の先は、急な階段になっている。百五十段。手すりに掴まりながら、一段一段ゆっくりと登る。この階段の上に、目指す公園がある。車でなら大通りをぐるっと迂回して、反対側から広い道を上がってくればいいが、わたしの家から徒歩で行くのには、この階段が最短コースだ。
 右手は竹林で、その向こうは斜面を利用したマンションにふさがれているが、左手は一段登るごとに視界が開けてゆく。
 住宅の屋根が陽光にきらめき、小学校の校庭で少年野球の練習をしている姿が見える。ときおり足をとめて、そんな景色を眺め、また手すりに掴まり一歩一歩階段を登る。
 てっぺんには桜の木が一本、大きく枝を広げて出迎えてくれる。よく見ると、真っ黒な枝に、しっかりと蕾の準備ができている。この蕾が花開く頃だけ、このあたりは賑やかになる。桜は、この先の公園にもたくさん植わっている。桜の花に囲まれ、海を見晴るかすこの公園は、花見の名所として有名だ。
 公園内は、広い芝生のスペースと、起伏のある森とに分かれている。芝生のスペースにはアスレチックもあり、隅には小さな売店を備えた休憩所もあり、小さな子供連れの姿が多く見られる。
 わたしは、森の中をぐるっと回る小道を行く。舗装されていない剥き出しの土の上を歩くのはなぜかほっと心がゆるぐ。緑の中を抜けてくる風は冷たいが爽やかだった。
 くぬぎ、こなら、かし、ななかまど、うめ、かえで、たいさんぼく…… 木々には、プレートが取り付けられており、名前が記されている。道の両脇には杭が打たれ、杭と杭との間を細いロープが渡され、ロープにそってずっとツツジが植わり、道から逸れては行けないようになっている。
 道は所々狭くて、向かい側から人がくると、肩をずらしてすれ違わなくてはならない。が、滅多に人とすれ違うことはない。
 わたしは、ゆっくりと上り坂を歩きながら、前方を気にする。曲がりくねった道は、せいぜい十メートルほど先までしか見えない。その範囲に人の気配はなかった。
 今日は、来ないのだろうか……
 そのまま道なりに進み、公園内でもっとも高い場所――展望広場に出る。
 そこからは、太平洋が一望できる。
 港に林立する荷上げ用のクレーン。おもちゃのように見える船。水平線。青い空。白い雲。カモメが群れている。上空で一羽悠々と輪を描いているのはトンビだろう。この風景を見るたびに「みかんの花咲く丘」のメロディーが頭をよぎり、思わず口ずさみたくなる。
 わたしは、ベンチに腰をかけ、背中のカバンから水筒を取り出した。
 周囲には誰もいない。
 今日は、来ないのだろうか……
 コップに移して温かい麦茶を飲む。
 海を見ながら、用意してきたおにぎりを頬張る。ときおり振り向いては左右に続く道を見る。一度、若いカップルがはしゃぎながら展望台に登っていたが、あとは誰も来ない。
 やはり、今日は来ないのだろうか……
 寂しく感じると同時に、いそいそと普段はしない化粧までして出てきた自分がバカに思えてくる。
 いい歳をして……
 思わず苦笑が浮かぶ。
 本当に、いい歳をして。

 それは、日曜ごとの散歩を始めて数ヶ月経った頃だった。それまでは町内を一回りし、川沿いに新しく造られた遊歩道を歩いて一つ先の駅まで行き、帰りは電車で帰ってくるなどしていたが、ふと気が向いてこの公園まで足を運んだ。
 坂道と階段がきつくて音をあげそうになったが、苦労して登ってきた末のこの景色にすっかり魅せられた。
 そして、ぜひまた来ようと決意して帰りかけた時に、あの人とすれ違ったのだ。
 犬を連れた紳士。
 すらりと背が高く、細身で、優しげな顔をしていた。
 その顔が、初恋の人によく似ていた。死んだはずの初恋の人に。
 あの人が生きていて、歳をとったらこんな感じだったんじゃないか。そう思った途端、胸が熱くなった。
 わたしは、翌週もこの公園に足を運んだ。またあの人に会えたらいいなという思いがあったからだ。
 会えなくてもかまわない。散歩は散歩だもの。あのステキな景色も見たいし。そう自分で自分に言い訳をしながら訪れた公園で、再びあの人とすれ違った。
 乙女の頃に戻ったように心臓がドキドキ波打った。
 それから毎週、わたしは、この公園に来ている。声をかけるわけでもない。ただ、すれ違うその一瞬のためだけに。
 バカみたいだと自分でも思う。
 いい歳をして。
 本当に、いい歳をして。
 こんなことはやめようと思うのだけれど、日曜日が近付くとそわそわする。
 あの人の顔を思い出し、会いたくなる。
 まるで十七歳の初恋の頃に戻ったように、わたしの心はときめいた。
 そして、今日もここへ来てしまった。
 挨拶すらするわけじゃない。
 相手はわたしのことなど、まったく気にしていないだろう。毎週顔を合わせていることすら気付いていないに違いない。
 遠くにあの人の姿が見えると、わたしは固まる。
 全身が熱くなり、かちかちになる。
 あの人が近付いてくることを強く意識する。あの人の顔をまともに見ることができない。すれ違うまで、息を詰め、顔は伏せたまま。
 通り過ぎても、しばらくは固まったまま。
 そして、振り向く。
 あの人が去ってゆく後ろ姿を遠く見送る。
 そして、次に会える瞬間を待ち遠しく思うのだ。

 そんなに好きならば、声をかければいいと思うかもしれない。
 でも、わたしにはできなかった。
 怖くて、できなかったのだ。
 あの人にも当然家庭がある。わたしの恋心がそこに入り込む余地はないだろう。声をかけ、あの人がどんな人か知ってしまえば、密かにときめくことすら許されなくなるだろう。
 このままでいい。
 初恋の人に似た、ステキな人というだけで。
 ただ、それだけでいい。
 この一瞬のときめきだけで、わたしは幸せでいられる。
 失った夢の続きを、夢見ることができる。

 食事を終えたあとも、しばらくそのまま座っていたが、やはり誰も来なかった。
 今日はやっぱり来ないのかもしれない……
 わたしは肩を落とし、水筒をカバンにしまう。
 立ち上がって歩きだそうとした時、突然、何か白いかたまりが、足もとに絡みついてきた。
 驚いて見ると赤いリードをズルズルと引きずったマルチーズだった。
 尾っぽを盛んに振って足に飛びかかってくる。
 どうやら構って欲しいらしい。
 犬好きのわたしは、嬉しくなって、身を屈めると、犬の頭を撫でた。
「どうしたの? ご主人さまとはぐれちゃったの?」
 問いかけても、犬は真っ黒な眼でわたしを見詰めるだけ。
 可愛いその顔を両手でくしゃくしゃと撫で回す。
 マルチーズは嬉しそうに眼を細めた。
 そういえば、あの人が連れていた犬も、マルチーズだっけ……
 そう思った時だった。
「すみません」
 太くて豊かな声が頭上から降ってきた。
 見上げたわたしは、心臓が止まるかと思った。
 あの人が、優しい眼でこちらを見下ろしていた。
「チヨ、だめじゃないか……」
 リードを手にとり、犬を抱き寄せ叱ったが、声も顔もちっとも怒ってはいない。むしろ嬉しそうに見えた。
「チヨ……?」
「ああ、この子の名前です」
 多分、わたしは、かなりビックリした顔で、彼の顔を食い入るように見詰めていたに違いない。
 彼は、ちょっと困った顔をして、わたしから眼を逸らした。
「あの……」
 再びわたしの方へ眼を向けた彼は、恐る恐るというように訊いてきた。
「前から気になっていたんです。こちらでよくお見かけしたので。その…… あなたは、もしかして、千代さん……? 室橋千代さん…… ではありませんか……?」
 わたしは、息をするのも忘れて彼の顔を見詰めていたようだ。息苦しさに、慌てて息を吸う。
「まさか……」
 それだけ言うのが精一杯だった。
「福井です。福井圭吾。覚えていらっしゃいませんか?」
 忘れるわけがない。わたしの初恋の人……
「だって…… あなたは死んだと……」
 圭吾さんは苦笑した。
「ハルピンで虜囚になり……」
 それだけ言ってやめた。
 穏やかだった顔が苦渋に歪む。思い出したくないのだろう。あの戦争の頃のことは。
 わたしの夫も、従軍していた頃のことはあまり口にしなかった。息子が小学校の頃、戦争体験を聞いてくるようにとの宿題を出された時も、夫は何ひとつ教えようとしなかった。
 ただ酔うと時々「俺は、親友が殺されるのを助けられなかった。俺だけ助かって、あいつを見殺しにした。米兵に殺されるならまだいい。敵兵になら。だが、あいつを殺したのは南京の民間人だ。どうして殺されなきゃならなかったんだ? 俺達は、八紘一宇、アジアのために、あいつらのために戦ってたはずじゃないか!」と喚いて荒れた。
 戦後、夫とは見合いで結婚した。夫に対して恋愛感情を抱いたことはなかったが、普段は穏やかで、よき夫であり、よき父であったあの人を、わたしは大切に思っていた。
 戦中のことはあまり話さない夫だったが、ちょうど十七歳の若者による猟奇的な事件が話題になっていた時、ニュースを見ながら言った一言が耳を離れない。
「何を大げさに言い募ってやがる。俺らだって、はたちそこそこで人を殺した。それも、一人や二人じゃあない……」
 あの時代、人には言えない多くの苦しみがあった。夫にも、わたしの兄たちにも。そして、圭吾さんにも、消し去りってしまいたいような過去があるに違いない。
 ハルピンで虜囚…… その一言にどれだけの思いが込められていることか。今生きてここにいる奇跡に胸がふさがれる。
「シベリアを生きのび、運良く帰国できたあとは、各地を転々としてきました。怖くて故郷には戻れなかった。千代さん、特にあなたに会うのが怖かった。僕は、あの戦争で変わってしまったら…… 昔の僕では無くなってしまっていたから……」
 圭吾さんは、自分の両手のひらを見詰め、キュッと下唇を噛みしめた。
「二度とここには帰らないつもりでした。でも、どうしても最期は故郷で迎えたくなりましてね。三年前に戻ってきました。狭いマンションを買って。戻ってきても、親兄弟は死に絶え、友人も今では鬼籍に入り…… まさか、あなたに会えるとは思いもよらなかった……」
 圭吾さんは小さく微笑んだ。
「今は、あなたに会えて、本当に嬉しい」
 青年の頃のようなまっすぐな瞳で言われ、顔が熱くなる。
 一瞬にして十七歳の昔に戻った。
 圭吾さんは兄の友人だった。よく我が家に遊びに来て、わたしたちは惹かれあった。
 待ってます――
 出征してゆく圭吾さんにわたしは言ったのだ。
 いつまでも待ってます――
「ごめんなさい」
 わたしは項垂れた。
「わたし、今では金井といいます」
 沈黙。
 顔を上げると、圭吾さんは哀しげに眉を寄せていた。
 眼が合うと、直ぐに優しい笑みに戻って、「座りませんか」とベンチに誘った。
 わたしたちは並んで腰をかけた。海が見える。光りが戯れる穏やかな海。
 風はなく、陽光が暖かい。
「ご主人はお元気ですか?」
「五年前、他界しました。でも、息子夫婦と孫夫婦、三世帯同居で賑やかなもんです。子供達が休みの日には、年寄りなんて邪魔者ですから、こうして散歩に出てきちゃうんですよ」
 圭吾さんは微笑んだ。
「僕も妻を亡くしましてね。娘らは北海道と福島にそれぞれ嫁いで元気にやってるみたいです。東京で一緒に暮らしていた息子夫婦がシンガポールに赴任することになったのをきっかけに、一人でここへ戻って来ました。今は、気ままな一人暮らしですよ。チヨだけが…… この犬だけが、頼もしいパートナーです」
 寂しげに震える皺の寄った骨張った手に、わたしの手をそっと重ねる。
 冷たい手から温もりが生まれる。日溜まりのような温もりが。
 終戦の年十七歳と二十二歳だったわたしたちに残された人生の時間は、あとわずかだ。ほんのわずか。ならば、最後の最後ぐらい夢を見てもいいのではないかと、わたしは思った。現実に負けない夢を。日溜まりに咲く沈丁花のように、はかなくも可憐な夢を。
 わたしは勇気を振り絞って誘った。
「よかったら、今度お茶でも飲みにいらっしゃいません? 実家のあったあの場所に家を建て直して今も住んでいるんですよ」
 圭吾さんが頷く。
 微かに沈丁花の香りがした。春を呼び覚ます甘い香りが。



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