「終末は、アナタとふたり……」
南方南
ノベルフェスタ137 「SFFチャレンジトロフィー」
今日は特別な日だ。
だから、平日だというのに、パパもママも弟の柊斗も、みんなそろって家にいる。
そのことが嬉しくって、同時にとっても哀しかった……
〈1〉
今朝は、なんとなく早く目が醒めてしまった。パパもママも同じらしく、七時前には、まだ寝ていた柊斗(しゅうと)を無理やり起こして一家そろって朝食を摂った。一家で朝食なんて、何年ぶりだろう。それぞれでかける時間が違うから、起きる時間もまちまち。パパは大手スーパーの社員。ママは介護ヘルパー。柊斗は地元の公立中学。わたしは電車で二駅先の公立高校。パパは早番なら六時、遅番なら十時まで寝てる。ママも担当先によって出勤時間が違うし、柊斗は八時半ぎりぎりに起きて朝食もそこそこに家を飛び出る。わたしは八時三分の電車に間に合うように家を出なきゃならないから、家を出るのは七時四十五分。ヘタすると、朝、顔を合わせない日が何日もあったり。それが普通で、特にどうとも思っていなかった。
家族全員がそろうのって、くすぐったいというか、照れくさいというか。なんとも不思議な感じ。
今日のママは朝から気合いが入っている。いつもはトーストとジャムと紅茶のティーバックとポットがぽんと置いてあるだけのテーブルに、鮭の塩焼き、卵焼き、豆腐とわかめのお味噌汁、ほうれん草のおひたし、御飯に、おしんこと、日本の朝食の定番が並んでいる。
朝から気合いが入っているのはママだけじゃない。わたしも珍しく手伝ったりしてみる。一緒に台所に立っていると、理想の母娘って感じ?
ママは嬉しそうに、ろくすっぽ家事を知らないわたしに、あれこれ優しく教えてくれた。ママと一緒におしゃべりしながら台所に立つのは思ってた以上に楽しい。こんなことならもっとたくさんたくさん手伝っておけばよかった……
朝御飯は、ゆっくり食べた。御飯がやけに美味しい。本当に美味しい。
後片づけは、パパと柊斗がやると言い出した。二人でわいわいやってる姿はほほえましい。
「いつもこうだったらよかったのに……」
目を細めて二人の様子を見ていたママが、寂しげに溜息をついた。
お茶を飲み、一息ついたところで、パパがビデオテープを出してきた。
「上映会のはじまり、はじまりぃ〜」
全員が見やすいようにとソファーを並べ替え、四人並んで腰をかけると、AVボードの上の三七型液晶テレビの画面に注目する。
パパがリモコンを操作する。黒い画面と雑音のあと、ちょっと古びた画像が映し出された。
病院のベッドに寝る赤ん坊。それを興味津々な顔付きで覗き込もうとする小さな女の子。でも、女の子の背丈ではベッドの中を見ることができない。あどけない顔がこちらを向く。ベッドを指さし何か言ってる少女を、男の人が抱き上げる。
「うっわぁ〜 パパ若っけぇ〜」
「本当だ! 前髪垂れてるし! おでこが広くな〜い!」
画面が移動し、ベッドの上に横になってる女の人を映し出す。長い髪を三つ編みにして、嬉しそうな笑顔をみせている。
「げえぇ〜 ママ、ほっそ〜い!」
「別人だよこれ、別人。詐欺だよね、詐欺。パパだまされちゃったんだぁ〜」
映像が切り替わる。おっぱいを飲む赤ん坊。
「ママのおっぱい、でかかったな」
パパがしみじみといい、ママにど突かれる。
「おじいちゃんったら、こんなところまで映してるんだから」
嬉しそうに文句を言うママ。
画面の中の子供はどんどん大きくなる。
寝返りをうち、ハイハイをし、掴まり立ちをし、ヨチヨチと歩き出す。
小さな弟の側には、いつも小さなわたしがいた。一緒に何かの絵本を熱心に見ている。仲良く積み木を組んでいると思ったら、途端に殴り合う。ミニカーを取り合う。黙って肩を寄せ合って、テレビアニメを夢中で見ている。そっくり同じポーズで寝ている。
「いっつもあんたたちって、同じ格好で寝てたのよね」
「これが本当のシンクロナイズド睡眠ぐ」
「ぐは〜」
「出たよぉ〜 おやじぃ〜! 面白くねぇ〜」
パパお得意のギャグは、外ではウケるのだとパパは言い張っているが、いつも家族には不評だ。
「次、いくよ」
パパがテープを入れ替える。
「運動会」の文字が書かれた垂れ幕。
ちっちゃな子供たちが走っている。
「未来(みく)ったら、ゴールじゃなくて逆に走っちゃったんだよな」
パパが笑いを堪えながら言う。
「三歳の、幼稚園の運動会ね」
ママもニヤニヤ笑っている。
走るちっちゃなわたしの足取りは、いかにもあぶなっかしい。みんなと一緒にスタートしたはずなのに、途中からUターン。正しいゴールへ導こうとする先生の手を振り切って逃げる逃げる。その迷走っぷりにわたしも家族と一緒に爆笑する。
テンポのずれたお遊戯。パパの肩車。ご機嫌なわたし。
おゆうぎ会、夏祭り。そして、卒園。
パパがテープを換えた。
再び運動会。でも、今度は大分大きな子供たちが映っている。
「そうそう、この時の柊斗ったら、どういうわけか靴下を片方しかはいてなかったのよね」
ママが苦笑し、わたしもパパも爆笑。柊斗は複雑な顔をする。
小学校の運動会。柊斗は一年生だった。どうして靴下をかたっぽしかはいていないのかは永遠の謎。一生懸命演技をしているのに、足もとがなんとも間抜け。
ビデオは続く。小学校の卒業式、家族で行ったディズニーランド、グァム旅行……
画面の中では、わたしも柊斗もパパもママも、いつも笑っている。楽しそうに笑っている。
哀しいこともあったはずなのに、残されているのは、笑顔の記録。笑顔の記憶。
「ああ、そういえば!」
ママが、何か思い出したらしく、急に立ち上がると二階へ駆け上がっていった。
しばらくして戻ってきたママは、何かを両手に一杯抱えていた。
「これ、わたしの絵!」
古びて丸まった画用紙を開くと、小学校五年の時に学校から選ばれて市の展覧会に出た作品があらわれた。
「こんなの取ってあったんだぁ……」
「こんなのもあるわよぉ〜」
ママがにこにこしながら見せたのは、幼稚園の時作った鯉のぼり。
「おおぉ〜 なつかしいぃ〜」
柊斗が叫びながら手にしたのは緑の画用紙で表紙を付けた原稿用紙。小学校の授業で書いた冒険物語だ。わたしは、それを取り上げる。
「そして、リオマは、ライオンをたおしました。そして、つぎにあらわれたのは、へびです。大きなへびを、リオマは、ぐるぐるにむすんでしまいました。そして、つぎにあらわれたのは……」
「うわ〜 声を出して読むなぁ〜」
赤い顔をして取り返そうとする柊斗の手をかわしながら、大きな声で続きを読む。
「そして、きょだいねこにふみつけられて、リオマはだいピンチです……」
「うわわぁ〜 やめろぉ〜」
ソファーの周りをグルグル追い掛けっこしながら、しつこく読む。柊斗の反応が面白くて。
「きょだいねこはよっぱらってしまいました……」
「ヤメロ! かえせっ、さもなくば、この写真を町中にばらまくぞ!」
柊斗がテーブルから取り上げて掲げた写真を見て、わたしは絶叫した。
「ぎゃあぁぁぁ〜〜〜 それだけは、やめてぇ〜 返してぇ〜」
五歳のころのコスプレ写真。おじいちゃんに買ってもらった美少女戦士の衣装を嬉しそうに着て、ばっちりポーズをとっている、超恥ずかしい写真。
「ハズいいいぃぃぃ〜」
柊斗の手から写真を奪い取り、かわりに柊斗の壮大なるファンタジー小説を返してやる。
「ったくもう」
柊斗は、ぶつぶついいながら原稿用紙を抱き締めている。緑色の表紙を見る目が、やけに嬉しそうだ。
わたしも、コスプレ写真をしっかりと胸に抱き締めた。
「本当に、あんたたちって、幾つになっても騒がしいんだから」
ママが苦笑する。
「ま、元気な証拠だ。元気が一番。なによりだよ」
パパがにこにこしながら言う。
懐かしいノート。卒業アルバム。友達が書いてくれたサイン帳。そして、あまり見たくなかったけれど、成績表。
想い出が溢れてくる。わたしの十七年間の人生の想い出が。
嫌なこともあったはずなんだけれど、あまり覚えていない。わたしって、きっと幸せなんだ。今まで思ってたよりも、ずっとずっと幸せだったんだ。
〈2〉
「お昼は、庭でバーベキューでいいのよね?」
結婚の記念アルバムを閉じて、ママが言う。パパはチラリと時計に目をやった。
「ああ、そろそろ準備をはじめるか……」
ビデオテープをしまって、パパが立ち上がる。
パパは玄関に回り、外に出て、物置からキャンプ用のテーブルを出してきて、庭に据えはじめた。柊斗がそれを手伝う。
わたしはママと台所へ行き、肉や野菜を切ってボールに入れて庭へ運ぶ。
パパと柊斗が炭をおこす。
パパが家に上がったと思ったら、ビールと、「職場でもらってきた」と言って、えらく高そうなワインのビンを、いそいそと持って出てきた。
ママがコップと、わたしと柊斗のジュースを持ってくる。
テーブルにつき、四人で乾杯。何に乾杯? もちろん、この幸せな家族に乾杯。
煙があがり、肉の焼けるにおいが漂う。
「ちょっと近所迷惑かしら?」
「構わないさ」
と、すでにビールで赤くなっているパパは無頓着。
「賑やかでいいですねぇ」
フェンス越しに、隣のご主人が、にこにこと声をかけてきた。
「ああ、吉住さん、どうです? ご一緒に?」
ビールを掲げてパパが言い、ママも、どうぞどうぞと誘う。吉住さんは、パパやママと同世代なので、我が家がここへ引っ越して来た時からずっと仲良くお付き合いをしている。子供はいなくて奥さんと二人暮らし。わたしたち姉弟のことを自分たちの子供みたいに可愛がってくれていた。
「いやあ、じゃあお言葉に甘えて」
吉住さんは、一旦家に入って、奥さんと一緒にやってきた。
「こんなもんしかありませんが、これでも、とっておきなんです」
と笑って、キャビアの缶詰と、カニ缶をテーブルに置いた。
「これはこれは」
カニ好きのパパは目を細め、職場からもらってきた高級ワインの栓を開ける。
グラスを満たし、また乾杯!
パパと吉住さんは、サッカーの話題で盛り上がっている。ママと吉住さんの奥さんは、介護の話題かと思えば、近所の犬の話、かと思えば、美味しいお店の話とか、変幻自在な会話をしている。
わたしと柊斗はひたすら食べる。パパが職場から持って帰った高級黒毛和牛。もう二度と食べられないお味。
用意した食材を食べ尽くし、飲み物も飲み尽くし、会話も途切れた。沈黙は現実を思い出させ、気分を重くさせる。
「すっかりご馳走になりました」
住吉さんが立ち上がり、パパとママに、深々と頭を下げる。
「岡田さんには、今まで大変お世話になりまた。お隣が岡田さんみたいないい人で本当に良かった。感謝しています。本当にありがとうございました」
神妙な顔付きで言う住吉さの手を、パパは、両手で握りしめた。
「それは、そっくりそのままこちらのセリフです。住吉さん、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
住吉さんの手に額をすりつけんばかりに頭を下げる。
住吉さんの奥さんと、ママも手をとりあう。ママたちは泣いて言葉もでない。ただ、コクコクと頷き合っている。
「未来ちゃんも、柊斗くんも、いろいろありがとう」
住吉さんが差し出した手を、わたしは怖くて握れなかった。横から柊斗が両手を伸ばし、ギュッと掴む。
「おじさん……」
わたしは、それだけ言って言葉が詰まった。涙が零れそうになり、ぐっと堪える。
柊斗は無言で、住吉さんの手を激しく上下に振っている。
「それでは、さようなら」
住吉さんは、奥さんと一緒に、自分たちの家に戻っていった。玄関のドアが閉まる。閉ざされた扉が世界を拒絶しているように思えて無性に寂しい。
「さて……」
パパが溜息混じりに言った。
「そろそろ部屋へ戻ろうか……」
「片付け、しなくっちゃ……」
ママが、散らかるテーブルを見て言った。
「もういいさ」
パパがちょっと投げやりに言う。
「でも……」
ママは困った顔でパパを見る。
「もういいんだよ。必要ない」
少し怒ったような顔で言うと、パパはさっさと部屋へ入ってしまった。ママは、テーブルをチラリと見て、溜息をつき、そのまま家の中へ入っていった。わたしと柊斗も、家に戻った。
リビングのソファーに、バラバラに座る。ガラスのテーブルの上には、さっき見ていたアルバムや作品がそのまま乱雑に乗っている。
でも、もう手にとってみる気にはなれなかった。
ママがお茶をいれてきた。
柊斗がテレビを付ける。
「……歌舞伎町の暴動は、その後沈静化しましたが、現場には多数の遺体が取り残されているもようです……」
チャンネルを変える。
「……所沢市の大規模火災は、その後も鎮火することなく、さらに火の手が強まって……」
今も電気が通っている。テレビも放映されている。それがなんだかとっても不思議に思えた。
「……道頓堀川に飛び込む人々はあとを絶たず……」
「消せ!」
パパが苛ついた口調で言った。
柊斗は、ムッとした顔でパパの方を見たけれど、素直にテレビを消した。
沈黙が耳に痛い。
「なんだか、現実のことだって、思えないよなぁ……」
柊斗がボソリと呟いた。テレビの中のことを言っているのか。確かに、暴動だ、火事だ、集団自殺だといわれても、自分には関わりのない遠い場所のことのようで、ピンとこない。うちの周辺では、いつもとあまり様子が変わっていない。平穏。平凡。このまま何事もなく、明日がくると言われれば、それをそのまま信じてしまいそうだ。
「明日か……」
パパが感慨深げに呟く。
「俺は、幸せだったよ」
誰にともなく言う。
「お前たちに出会えて、お前たちと家族でいられて、これ以上ないくらい幸せだった……」
パパはうつむく。
両手で顔を覆った。手のひらの下から、くぐもった声がもれた。
「ありがとう……」
ママが目を背け、涙を拭う。
柊斗が項垂れる。
わたしは、黙って立ち上がり、リビングを出ると、二階へ駆け上がった。
自分の部屋に入ると、閉めた扉に寄りかかり、声を出して泣いた。思いっきり泣いた。
涙が収まると、わたしは着ていたGパンとトレーナーを脱いだ。
クロゼットから、がんばってお小遣いを貯めて買ったレストローズの花柄ワンピースとデニムジャケットをとりだす。まだ一度も袖を通していなかったその服を着る。
姿見で確認する。あまり似合わないのは髪型のせいだろう。
ハードなワックスでつんつんに立たせてみる。うん。これならいいかも。でも、やっぱり明るい色に染めてみれば良かったかな。黒髪は重い感じがして好きじゃない。今更そんなこと思っても、もう遅いけど……
鏡を見ながら金のピアスを嵌める。ファンデーションもアイシャドウもマスカラも口紅も、コンビニで買ったチープコスメだけど、貧乏高校生だもん。我慢するしかない。
最後にもう一度鏡で全身を確認すると、誕生日に、おじいちゃんにおねだりして買ってもらったアプワイザーリッシェの白いラタンかごバックを手に部屋を出た。
「未来、でかけるの?」
リビングへ戻ると、ママが不安そうな顔を向けた。わたしは黙って頷いた。
パパは、わたしをチラリと見て、何か言おうとしたみたいだった。でも、そのまま口を閉じる。パパがあれこれ言い出さないのはありがたかった。
「そう…… いってらっしゃい」
ママは、どこへ行くのか詮索しなかった。どう言おうかと迷っていたから助かる。
「帰って……これる?」
「わからない」
わたしはありのままに答えた。
「そう……気を付けて……できたら、帰ってきてちょうだい……ね」
ママが両手を広げて、ギュッとわたしを抱き締めた。
「うん。できたら、そうする」
ママの胸の温もり。ママのにおい。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
泣きそうになったけれど、泣いたらせっかくのお化粧が崩れちゃう。わたしは、ママにとびきりの笑顔残して家を出た。
〈3〉
住宅街は静かだった。みんな家の中に籠もっているのだろう。いや、もしかしたら、すでに……
わたしは、暗くなりがちな想像を頭から締め出し、大通りへ向かって歩く。人通りがまるっきりないわけじゃなかった。普段ほどじゃないけれど、いろんな人に出くわす。
まあ、それも不思議じゃない。今日も、テレビは放映され、電気もガスも通っている。昨日までと同様に働いている人たちもいるのだ。最後の最後まで世界を支えようというオトナの使命感みたいなものを感じ、すごいなと思う。
いや、それとも、使命感なんてものじゃなくて、このままずっと変わらぬ日常が続くものだと思いたいだけなのか。世界は何一つ変わっていないと信じるフリをしているだけなのか。
犬の散歩をしてる人、荷物を手に急ぐ人。小さな子供と一緒に道でバトミントンをしている人もいた。そこだけを見ていると、確かに、何一つ変わらない日常が、このままずっと続いてくれそうに思える。
でも、児童公園に差し掛かった時、わたしは現実を目の当たりにした。
大きな木の下、ちょうどわたしの目線の高さに足がぶら下がっている。一人ではなく、数人の。木を見上げる勇気はなかった。わたしは目をそらし、大急ぎで公園を突ききった。
大通りは閑散としていた。時々思い出したように乗用車が行くだけで、信号が律儀に変化する様子が虚しい。
バス停には誰もいなかった。
わたしは、ベンチに座ってバスを待つ。来るかもしれないけれど、今日はもう来ないかもしれない。
三十分待ってもこなかったら歩こうと決める。歩いたら、どれぐらいの時間がかけるだろう。二時間? 三時間?
暗く沈みがちな気分を紛らすために、iPodのイヤホンを耳につっこむ。大好きな曲に心をあずけ、嫌なことは忘れよう。
バスの来る方角を見ていると、かわりに、タクシーが一台やってきた。この辺りでよく見るタクシー会社の黄色い車だ。
タクシーか……
バスよりもタクシーの方がずっと楽なんだけれど、財布の中身を思い浮かべ、諦める。
未練がましく目で追ってたせいだろうか。バス停にタクシーが止まった。
助手席の窓が開いていて、運転手が、身を乗り出すようにして、何か言っている。わたしは、イヤホンを外した。同時に、声が耳に飛び込んでくる。
「どこまで行くの? よかったら、送って行くよ?」
運転手は人が良さそうなおじさんだった。パパより少し若い感じ。垂れ眼ぎみの目を細めて微笑んでいる。
「今日は、さすがにバスは動いていないみたいだよ」
わたしは、道の向こうへ目をやる。確かに、バスが来る気配はまるでない。
「でも……わたし、タクシーに乗るほどお金、持ってません」
運転手さんは声を立てて笑った。
「そんなもの、いらないよ」
確かに、今更お金なんて意味ないかもしれない。でも、その言葉に、かえって警戒心がわく。
「乗って行きなよ」
運転手さんの笑顔に、害意はまったく見えない。でも、わたしは躊躇する。
運転手さんは、わたしの気持ちを察したのか、困ったように頭を掻いた。
「若い女の子に声をかけたりしたら……そりゃ、誤解されるか……ホント、そんな気はないんだけれど……」
運転手さんの言葉に嘘はなさそうだった。だいたい、何かしたいのだったら、こんなまどろっこしいことをする必要なんてないだろう。
わたしは、育った環境がわりと恵まれていたせいか、人を簡単に信じてしまうところがある。疑ったら悪いような――疑う自分の方が悪い人のような――気分になるのだ。今も、この運転手さんをほとんど信じかけている。
でも、人を簡単に信じてしまうことが必ずしも良いことでないことぐらい知っている。見知らぬ人で、理由もなく親切そうに近付いてくる人は特に。
「女房だよ」
と、運転手さんは、女の人が映る写真を差し出した。
「こんなこと言うと、照れちゃうけどね。女房が、俺の働く姿が一番好きだって言うんだ。だから、俺は最後まで働いていたい。それに、このタクシーの運転手って仕事が気に入っているんだ。親父がやっぱりタクシーの運転手でね、その姿を見て育ったから、子供のころから憧れていて、この仕事に生き甲斐を感じていた。だから死ぬまで運転手でいようと思ったんだ。それで、会社はとうに休業しているけれど、こうして一人で流してるんだ。でもね、今日はさすがに、肝心のお客のほうが……」
「さっぱり?」
「その通り」
運転手さんは、明るく笑った。
なんとなく、パパのことを思い出した。
パパも、昨日まで仕事をしていた。会社も、出来る限りの社会貢献をということで、採算も、利益も度外視して、流通経路の確保ができている限りはと、食品をはじめ、衣類、日用品の提供を続けてきた。
昨夜、最後の仕事を終えて家に帰って来たパパは、「これほど仕事に誇りと喜びを感じたことはないよ」と言っていた。
「売り上げだ、利益だとつつかれていた時は、因果な商売だと思ったものだけれど、最後まで美味しい物を買うことができて、こんなに嬉しいことはありません、ありがとうってね、おばあさんに涙ながらに手を握られたりすると、この仕事をしてて良かったなって思うんだよ。従業員もお客も、なんだか不思議な連帯感っていうか、人と人とは繋がっているんだなっていうような、温かい空気が広がっていてね。互いに互いを思いやるみたいな……人間って、捨てたもんじゃないなと……」
パパは言葉を詰まらせ、涙ぐんだ。
「俺は、あの仕事が好きだったんだな……」
「どう?」
運転手さんが、もう一度勧めてくれたので、わたしは素直に頷いた。
「お願いします」
後部座席のドアが開き、わたしは車内に体を滑り込ませた。
〈4〉
「どこまで連れて行けばいいんだい?」
「桜台までお願いします」
「OK。桜台か、そりゃ、やっぱり乗って正解だよ。歩いたらかなりの距離だ。俺がちょうど通り掛かってラッキーだったね。お嬢ちゃん、運がいい」
車は静かに走り出した。
ダッシュボードに、さっきの写真がセロテープで貼り付けてある。
「奥さんは、今、おうちに?」
「ああ……う、うん……」
運転手さんは、ちょっと困ったように言葉を詰まらせた。
「うん。そう。待ってるんだ。昨日から……」
「昨日から? ずっと家に帰ってないんですか?」
「あいつが望んだんだ……俺も、側にと思ったんだが、あいつが望んだんだ。最後まで働いてくれって……好きな仕事を貫いてくれって」
「そんなこと言っても……昨日からずっとだなんて! きっと奥さん、側にいて欲しいって思ってますよ。わたしのことなんていいですから、もう降りますから、直ぐに帰ってあげてください。うん、絶対に帰るべき!」
運転手さんは苦笑し、首を振った。
「キミのことは、ちゃんと送り届けるよ。そのあとは……そうだな。もう客もいなさそうだしね。あいつのところへ行ってもいいかもしれないな……
あいつとは十五年連れ添ったんだ。子供はいなくてね……老後は二人で日本中を俺の運転で旅しようって約束してたんだけれどね。それも叶わなくなっちゃったなぁ……」
運転手さんは寂しそうに呟いた。
ささやかな夢。世界中のささやかな夢がどれだけつぶされたことだろう。
「そういうお嬢ちゃんこそ、こんな日にどこへ行くんだい? ご両親はいないの?」
バックミラーに映る運転手さんの顔は、本気でわたしのことを心配してくれてるようだった。
「父も母も、弟も、家にいます。わたしは、どうしても会いたい人がいて……」
「恋人?」
わたしは首を振った。
「先生です。高校の担任……」
「へぇ、今時珍しいね。子弟の恩を感じるなんて」
「そんなんじゃないんです……」
ふいに、何もかも話したくなった。誰かに聞いて欲しくなった。ずっと胸に秘めていた想い。パパはもちろんママにも言えなかった気持ち。
「男の先生で、まだ二十代の後半で、とってもステキで……わたし、ずっと好きだったんです。でも、言っちゃいけなくて……伝えるわけにはいかなくて、苦しくて……でも、今日なら、この気持ちを伝えても、大丈夫じゃないかって……わがままだって、わかってるんですけれど……」
「その先生って、もしかして、妻子持ち?」
わたしは頷いた。
「ふうん。そう」
ミラー越しに運転手さんが眉を寄せるのが見えた。非難されても仕方ない。自分でもバカなことをしてるとわかってるんだもん。
「そうか……好きっていう気持ちは大切にしたいもんな……これが普通の日だったら、俺も、大人として、やめたほうがいいと説教するところだろうけれど、今日は、言えないな。お嬢ちゃんの今の気持ちを大切にしてやりたいと思う。がんばれよ」
拳を握って、親指を立ててみせる。
「で、先生の家はわかるの?」
「律儀な先生で、クラス全員に年賀状をくれるんです。それで住所はわかるし、あとはネットで地図検索して」
「その地図、持ってる?」
「これです」
「この中心点の付いているところ? なるほど。わかった、きっちり送り届けてあげるよ。でも、先生に気持ちを伝えたあとは、ちゃんと家に帰るんだよ。家族が待っているんだろ?」
肩越しに地図を返してくれる。その優しい笑みが心にしみた。
「ありがとうございます」
わたしは、運転手さんに深々と頭を下げた。
ありふれた景色の中を車は走る。よく目をこらせば、小さな破壊のあとがところどころに見えるのだけれど、街はパッと見には整然としていて、何一つ変わらない日常が続いているような錯覚におちいる。
車はやがて、閑静な住宅街に入っていった。広い道の左右に一軒家が並んでいる。
「着いたよ」
車の速度が落ちる。
「左側の、青い壁の家だな」
運転手さんが指をさした。わたしは、ハッとして、そちら側の窓を見る。
「停めないで……」
さらに速度を緩めた運転手さんに、慌てて言う。
「どうして?」
「家のまん前じゃ、ちょっと……済みません、もう少し先で、停めて貰えますか?」
運転手さんは苦笑して、スピードを上げた。
「おっと、これ以上はムリだな」
ほんの十メートルばかり行ったところで、運転手さんは慌ててブレーキをかけた。タイヤが道を擦る音が大きく響く。わたしはドキリとして首を竦めた。
恐る恐る後ろを振り返る。物音に先生が様子を見に出てきてしまったらどうしよう。家を訪ねる前に、外に出てきた先生とばったり顔を合わしてしまったら……
わたしの顔を見れば、どうしたんだと先生は聞くだろう。そうしたら、わたしはきっと本当のことを言えずに、そのまま適当な答えで誤魔化して、肝心なことを言えないまま、先生にさよならしてしまうんじゃないか。そんな気がしてしょうがない。
「ごめんよ。どこかぶつけなかった?」
運転手さんが、心配そうに振り向いた。わたしは首を振った。
「どうしたんですか?」
運転手さんが、前方を指さす。伸び上がって、フロントガラスの向こうを見ると、道が無くなっていた。いや、橋が落ちてしまっているのだ。五日前のちょっと大きな地震のせいか、それとも誰かが壊したのか。
「どうする? 先生との話が終わるまで、ここで待っていようか? 家まで送ってあげるよ」
親切に言う運転手さんに、わたしは首を振った。
「いいです。大丈夫。あとはなんとかします」
帰るつもりはなかった。先生の顔を見たら、もしくは、見れなくても、そのまま、先生の家の側にいるつもりだった。先生がわたしを受け入れてくれないのはわかっている。でも、最後は近くで、先生の存在を感じていたかった。
「そう? 大丈夫?」
運転手さんは、わたしの決意を察してか、それ以上強くは勧めなかった。
運転手さんは、本当に心配そうだ。アカの他人のわたしのことを、こんなに心配してくれるなんて、やっぱり、根っからいい人なんだなと思う。こんな人に出会えて良かった。わたしは幸せ者だ。
「大丈夫です。ありがとうございました」
「うん。そうか……がんばれよ。先生に会えるといいな」
運転手さんの笑顔に励まされて、元気と勇気が出る。
「はい。がんばります。本当の本当にありがとうございました。すっごく感謝してます。言葉にできないくらい感謝してます」
わたしがにっこりと笑いかけると、運転手さんは何故か、うつむいた。
「感謝か……最後に、そんな笑顔で、感謝するなんて言われて……俺の人生も、まんざらじゃなっかたかなって思えるよ。ありがとう」
運転手さんは、顔をあげて微笑んだ。
「キミが俺の最後のお客だ。妻に会ったら、キミのことを話すよ」
運転手さんの笑顔に、わたしはなんだか照れてしまった。
「奥さんのところへ、早く帰ってあげくださいね。絶対、絶対、待ってるはずだから。心配してるはずだから」
「わかってるよ」
運転手さんは頷いた。わたしは安心して車を降りた。
タクシーに背を向けて歩き出す。先生の家を目指して。
背後でエンジンをふかす音。そして、車が急発進する音と、続く大きな水音。
驚いて振り向くと、今そこにあったはずの黄色い車体が無くなっていた。
壊れた橋に駆け寄ると、川に沈んでゆく車の屋根が見えた。
「あ……」
今頃になって、ようやくわたしは気がついた。
「なんてバカだったんだろう……」
運転手さんに、くどく念を押した自分を、ひどく後悔した。
「運転手さん……奥さんのところに行ったんだ……」
わたしは、しばらくその場から動けなかった。
〈5〉
門扉の前にたたずんで、どれくらい時間が経っただろう。インターフォンを睨み付けたまま、わたしは動くことができない。
何度も手を上げて、ボタンを押そうと思うのだけれど、指先が痺れる。心臓が爆発しそうになる。
今更何を躊躇する必要があるというのだろう。文字通り死ぬ気でやればいいだけなのに。その勇気が出ない。いっそこのまま、ガレージの車の陰にでもうずくまって、側にいられることだけで満足すればいいんじゃないかと、思いさえした。
でも――
このままで、本当にいいの? 顔も見ないまま、それで構わないの?
わたしは、首を振る。
だめ、それじゃあだめ――
なんのためにここへ来たんだか。このまま会うのをやめてしまったら、運転手さんの応援も無駄になってしまう。
沈んで行く車の屋根が瞼に蘇る。運転手さんの優しい笑顔が蘇る。
がんばれよ――
耳に残る言葉を励みに、わたしは、目を瞑って、一気にインターフォンのボタンを押した。
「はい」
女の人の声が応えた。奥さんに違いない。
「西本先生は、いらっしゃいますか?」
声がバカみたいに震える。不審がられてしまったかもしれない。
「どちらさまですか」
奥さんの声はちょっと冷たい。
「岡田といいます。先生のクラスの、岡田未来……」
「お待ちください」
事務的な口調を残してインターフォンは切れた。
心臓がドキドキしている。足が震えている。逃げ出してしまいたい気分だったけど、両手をギュッと握りしめてこらえた。
しばらく待ったけれど、そのまま忘れ去られてしまったのか、それとも、奥さんには、女のカンでわたしが来た理由がわかってしまったのか、家の扉は固く閉ざされたまま、先生が出てくる気配はない。
涙が零れそうになった時、ようやくガチャリと小さな音がして、玄関の扉が開いた。
「お〜、本当に岡田じゃないか。どうした、こんなところまで? 俺が恋しくなったのか?」
笑いながら軽口を飛ばす先生。この無邪気な軽口が、いつもわたしをドギマギさせる。
ふわりと流したちょっと癖のある髪。童顔を誤魔化すためだか、わざと生やしているあごの無精髭。くりっとした二重の大きな目。いつも笑みを浮かべている口元。その全部が好きだった。
その笑顔を見た途端、本当に涙が零れてしまった。
「おい、どうしたんだよ、大丈夫か?」
先生は、慌てて駆け寄ってきた。
スウェットの上下に、サンダル履き。いつも学校で見るカジュアルシャツにネクタイという姿とは雰囲気がまるで違うけれど、ラフな格好をしていても、先生はやっぱりステキだった。
門扉を開けて、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「どうした? 岡田、何かあったのか?」
「先生……」
それだけ言うのが精一杯で、わたしは、両手で顔を覆って泣き出した。
「おい……岡田……ちょっと……」
いかにもうろたえたような先生の声。泣きながらも、わたしの一部は先生のそんな態度をどこか面白がっている。もっともっと先生を困らせたい気分になって、さらに泣きじゃくる。わたしは、先生の姿に安心し、すっかり甘えていた。
「どうしたの?」
玄関の方から奥さんの声がした。
「あら、女の子を泣かすなんて、啓太、あなたって、ワルねぇ」
「俺じゃないよ。何もしてないのに、岡田が急に……」
「教師が何かしてたら困るわよ」
焦りまくっている先生に、奥さんは、冷静な口調で切り返すと、わたしの顔を覗き込んだ。
「あなた、大丈夫? よかったら、中に入って休んでいかない?」
顔を上げると、心配そうな顔が見えた。その瞳は、心底わたしを心配してくれているようだった。
なんとなく、冷酷な、キツい女を想像していた。いや、それはわたしの願望だったのかもしれない。先生に相応しくない奥さん。そうだったらいいのにという願望。
実物は、同性のわたしからみてもステキな人だった。美人で、大人で、知的な雰囲気をかもしている。先生にこれ以上ないくらい相応しい。いや、先生にはもったいないくらいかもしれない。
一目で、自分なんて太刀打ちできないってことがわかった。格の違いってやつだ。わたしは子供で、しかもバカときている……
それに、奥さんの腕の中には赤ん坊がいた。確か五ヶ月だったはずだ。先生によく似た男の子。
先生は、心配そうな顔で、わたしと奥さんを交互に見ている。
先生と奥さんと赤ちゃん。
どっからどうみても仲の良い家族。今ここで、わたしは邪魔者でしかない。そのことを痛切に感じた。
赤ちゃんが無垢な笑顔をわたしに向けた。だめだよ。この笑顔は。反則だ。わたしは自分の負けを認めるしかない。どうしようもない。そう、どうしようもないんだ。ハナっから勝負にすらなっていない。わたしの完敗。
笑顔を振りまくこのちっちゃな命に、わずかな悲しみも不安も感じさせるわけにはいかない。そのためには、この子のママにも余計な心労を与えてはならない。自分のわがままで、家族の幸福に波風を立てるわけにはいなかない。絶対にいかない。
「ごめんなさい。大丈夫です……先生の顔を見たら、なんだか泣きたくなっちゃって……」
先生と奥さんはお互い顔を見合わせた。
「わたし、最後に、どうしても、先生に、お礼がいいたくて……先生はわかってないだろうけれど、わたし、先生に一杯感謝したいことがあるんです」
わたしは、先生に向かって深々と頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございました」
これは本心。先生を好きになったお陰で、学校へ行くのが楽しかった。大嫌いだった数学が少しできるようになった。先生が口癖のように言う前向きな生き方を、わたしもしてみようかと思えるようになった。その全部が、わたしの青春の財産だった。
「それだけを言うために、わざわざこんなところまで来たのか?」
先生は、呆れながらも嬉しそうだった。先生は、わたしが大好きな笑顔を浮かべてくれた。
奥さんが、もう一度上がっていかないかと誘ってくれたけれど、わたしはキッパリ断った。先生と奥さんと赤ちゃん。今は親子三人水入らずで過ごすべき時だから。
「先生に会えて、わたし、もうこれで思い残すことはありません」
最後に、わたしの気持ちのすべてを込めて伝えた。
「わたし、先生が大好きでした――」
自然と笑みが零れた。これほど、スッキリと、明るい気分で自分の気持ちを言えるとは思ってもいなかった。
先生は、わたしの言葉を生徒としての言葉と受け取ったに違いない。でも、それで構わなかった。そう捉えてくれると思って言ったセリフだ。どんな形であれ、想いを口に出せたことで、何かが吹っ切れた。
「それじゃあ、失礼します」
ぺこりと頭を下げて、背中を向ける。
なんだか無性に家族に会いたくなった。無事に帰るかどうか、わからなかったけれど、わたしは自分の家に向かって歩き出した。
大分歩いたところで、背後から呼び止める声がした。
「岡田さん、待って!」
先生の奥さんが駆けてきた。子供は先生にあずけたらしく身軽だ。
奥さんが追い掛けてくる理由が思い浮かばず、きょとんとしていると、息を切らして駆けてきた奥さんは、いきなりわたしの手をとった。
「これ、あなたに上げる」
奥さんはそう言うと、自分の左手の薬指の指輪を抜いて、わたしに握らせた。
「え……?」
わけがわからず戸惑っていると、奥さんはわたしの目を見詰めて言った。
「あなたの気持ちがわかるから……」
ドキリとする。
「わたしも女だから、ここまでわざわざ訪ねて来たあなたの気持ちがわかるから……」
「あの……わたし……」
奥さんの言葉に、自分のわがままな感情が、ものすごく恥ずかしいものに思えてきた。先生が好きだと言いながら、先生の気持ちなんてまるで考えずに飛び出してきた子供っぽさが悔やまれる。
「世の中がこんなになって、わたし、あの人が、ものすごく大事だって気付いた。これ以上ないくらい好きだってことに気付いたの。そして――変よね。こんな風に感じるのは自分でもものすごく変だって思うんだけれど、あなたが、同じようにあの人を好いてくれてるってことが嬉しかった。あの人が、誰かに好かれてる。必要とされてるってことが、嬉しかったの」
「ごめん……なさい……」
わたしが項垂れると、奥さんは、わたしをギュッと抱き締めた。
「ありがとう。あの人を好きになってくれて、ありがとう……」
奥さんの胸は温かかった。温もりが肌にしみる。心にしみる。
奥さんは、それ以上何も言わなかったけれど、不思議と心が繋がっているような気がした。
わたしが何も言わなくても、すべてわかってくれているかのようで、背中をさする手のひらが、どんな励ましよりも力強く感じられた。
わたしは、その優しさにしがみついて泣いた。先生を好きになって良かったと思った。先生の奥さんが、この人で良かったと思った。こんなバカな自分だけれど、今日まで生きてきて良かったと思った。
〈6〉
「ありがとうございました」
わたしはぺこりと頭を下げた。
道端で女が二人抱き合って泣いてる様は、もし人が見たら、そうとうおかしいものだったに違いない。でも、幸い誰も通らず、わたしたちは、思いっきり泣いた。泣くだけ泣いて、本当にスッキリとするまで泣くと、わたしは、先生の奥さんと笑顔をかわして分かれた。
時々振り向いてみる。奥さんは、わたしの姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。
人気のない住宅街を、一人とぼとぼと歩く。でも、わたしの胸の中はほんのりと明るかった。寂しいとも思わなかった。なぜなら、わたしの左の薬指には、先生の結婚指輪がはまっている。右手でそっと指輪に触れる。どこにいても、どんなに離れていても、先生と……いや、むしろ先生の奥さんと、心がずっと繋がっているような気がした。共犯者じみた、不思議な連帯感を感じていた。
「岡田! 岡田未来!」
指輪を見詰めニヤニヤして歩いていると、いきなり大声で呼ばれた。
慌てて声の方へ顔を向ける。意外な人物が立っていた。同じクラスの室井北斗だ。
「どーして、こんなところに?」
信じられず、目をパチパチ瞬く。目の迷いかと思ったりもしたが、どっからどう見ても、やっぱり室井北斗に間違いない。
北斗は自転車をこいで、スッと近寄ってきた。
短髪で浅黒い肌。バスケ部で背が高い。筋肉の付いた引き締まった体であることが、キレのある動きでわかる。いつもトレーニングウエアを着ているイメージしかないのだけれど、今日はカッターシャツにジーンズ姿だ。そんな格好も意外と似合っている。
「おまえんちへ行ったら、どこかへでかけたと言われた」
「何で、わたしんちへ?」
訳がわからない。
「お前に会いたかったから」
ドキリとするようなことを、気軽に言う。
「わたし、何か借りてたっけ?」
とりあえずとぼけてみせる。
「貸しちゃいない。盗まれた」
「わたし、あんたの物なんて何も盗んでないよ!」
ムッとして言い返すと、北斗は声を立てて笑った。
「いいよ、返してもらおうなんて思っていないから」
ますます訳がわからない。
「それにしても、何でわたしがここにいるってわかったの? 親にも行き先教えていなかったのに」
それともママはわたしがどこへ行くか気付いてたのだろうか?
「お前の親が行き先は知らないって言ってたから、ここだと思った……」
「どうして?」
まったくわけがわからなくて、きょとんと見詰めていると、北斗は目をそらして言った。
「お前、全然気付いていなかっただろう? 俺が、ずっとお前だけを見ていたってこと」
「……って、ちょっと……」
突然の言葉に戸惑う。勝手に心臓が波打つ。どうしよう。
「誤解しないでくれよ。今更どうこうしようってつもりはないから。ただ、最後にお前に伝えておきたかった。俺のわがままだ。聞かなかったフリをしてくれてもいい」
「そんなのずるくない?」
「ずるくないさ。お前だって、同じ気持ちでここへ来たんだろ?」
挑むような目で言われ、反論できない。
同じ気持ち――
そう言われると、もうどうしようもない。
北斗は、びっくりするくらい真っ直ぐな目でわたしを見詰めた。
「俺は、お前が、岡田未来がずっと好きだった」
その瞳はあまりに静かで、キレイで、透き通っていた。
わたしはおもわず目をそらす。
「ごめん……」
「謝ることないさ。俺の勝手な気持ちだから。お前の気持ちは知ってるし。俺のわがままを押しつけるつもりはない。ただ、伝えたかっただけだ……それが、お前の負担になっちまったとしたら、ゴメン。謝る」
北斗はわたしに向かって深々と頭を下げた。
「いいよ、そんなことしなくて……」
わたしは小さな声で呟いた。心臓が、飛び出してきそうなほど、ドキドキしていた。
北斗は、顔を上げたものの、わたしと目を合わせることなく、自転車を押して歩き出した。わたしも、なんとなくその隣を歩く。
「お前の両親、かなり心配してたぞ。家に帰るなら送ってくけど」
「うん……ありがと……」
北斗が自転車に跨り、荷台を指さした。正直、徒歩で帰ることを想像するだけでうんざりしていたのだ。帰りのことなんてどうでもいいと思って飛び出してきたものの、家まで正しい道をたどれる自信はなく、このまま夜を迎えなくてはならないかもしれないと思ったら、ものすごく心細かった。北斗の申し出はこの上もなくありがたかった。
「しっかり掴まってろよ」
北斗がそう言うので、ちょっとだけ躊躇ってから、腕を北斗の腰に回す。
北斗は地面を勢いよく蹴り、自転車をこぎだした。
「北斗は、このあとどうするの? 自分ちに帰るの?」
「家か……」
北斗はちょっと空を眺めるように見上げた。
「あそこに戻るつもりはない」
「どうして? 親は? 心配していないの?」
「お袋は、最後ぐらい自分の気持ちに素直に生きたいだなんてぬかして、親父を捨てて好きな男のところへ行っちゃったし、親父は親父で女房に捨てられたショックで酒浸り。ひょっとしたら、急性アルコール中毒でもう死んでるかもしれない。兄貴も荒れて、家中を壊しまくったあげく、飛び出していった。今頃、どこかで首をくくってるんじゃねぇの?」
わたしは驚いて北斗を見た。けれど、後ろ姿からは、どんな感情もうかがい知れない。平然と、他人事のように語る口調が余計に痛々しくて、おもわず涙が溢れる。わたしは、わたしの家は、なんて幸福だったのだろう。
「同情はいらないよ」
北斗は冷たく言い放った。キッパリと拒絶の言葉が、さらにわたしの胸をえぐる。
「いいじゃん、同情ぐらいさせてくれても……」
北斗の背中に、涙で濡れた顔を押しつける。
「俺さぁ……」
しばしの沈黙のあと、北斗は、暗い空気を振り払うためか、やけに明るい口調で言いかけてから、急にやめた。
「何?」
北斗はちらっと振り向き、照れたような笑みを浮かべた。
「いや……俺さ、家に帰る気はないけれど、これから、クラスの仲良かったやつの家を二、三軒回ってこようかと思ってるんだ」
「へぇ〜」
急に、友達の顔が思い浮かんだ。毎日一緒に騒いで遊んで。楽しかった学校生活が思い出される。
「いいなぁ、わたしも、カオリや、ユキや、テンコに会いたいなぁ……」
「行くか?」
北斗が明るい声で言う。
「家がわかるなら、連れてってやるよ」
「できるなら、クラスのみんなに会いたいなぁ……」
「そりゃちょっとムリだろ? 県内からきてるから、かなり広範囲だぜ」
北斗は苦笑した。
「カオリんちなら知ってる。学校の近くだったから、テンコもカオリと同じ中学だったから、わりと近くなはず。連絡とれれば行けるかな。ケータイ混んでて繋がりにくいんだよね……」
北斗は自転車をこぐスピードを上げた。
最初に訪れたのは、北斗がいつも一緒につるんでいた森本洋介の家だ。
オートロックのマンションで、インターフォンを押しても何の反応もなかった。
「田舎のばあちゃんが心配だと言っていたから、一家で戻ったのかなぁ……」
北斗はがっかりしながらも「次、行こう、次!」と元気に自転車をこぎだした。
椋木栄治の家は、小さなアパートだった。扉をノックすると、くたびれた顔のオバサンがでてきた。北斗の顔を見ると「あら、まあ!」と、途端に嬉しそうな顔になって、栄治を呼んでくれた。
栄治は、半分泣きながら北斗の来訪を喜んだ。
「ありがとな」
北斗は言った。
「いままで、ありがとう。それだけ言いたくて来た」
「俺も、ありがとな……」
栄治は、北斗の手を握って泣いた。
ありがとうって、いいことばだな。と、わたしはふたりのやりとりを見ながら、ぼんやりと思っていた。
北斗は次にカオリの家に寄ってくれた。
カオリは、げっそりとした顔をして出てきたけれど、わたしの顔を見ると笑顔を浮かべた。もともと気が弱く、悪い方へ悪い方へと考え勝ちな子だから、世の中がこんなことになって、そうとう落ち込んでいるのだろう。自殺しなかったのが不思議なくらいだ。まだ生きていてくれたことが嬉しかった。最後にこうして会えたことが嬉しかった。
「ありがとう……」
北斗の真似をしたわけじゃないけれど、わたしの口からは自然と感謝の言葉が飛び出した。
「ずっと友達でいてくれて、ありがとう」
微笑みかけると、カオリは泣いた。
テンコの家を知らないかと聞いてみたら、カオリは遊びに行ったことがあると言う。
自転車をだしてきて、案内してくれた。
ちっちゃくて可愛いテンコは、わたしとカオリに会えたことを、幼い子供みたいに飛び跳ねながら喜んでくれた。
テンコにも、ありがとうを伝えた。
カオリは、会ったときとは見違えるほど元気な顔になってわたしたちと別れ、自分の家に戻っていった。
その後、北斗の友達の、吉岡涼の家と、佐々木光輝の家へ行き、やはり、ありがとうを伝えた。
ありがとう!
そう。
伝えたかったのは、ただただ感謝の気持ち。一緒にいてくれたことへの、人生の時間の一部を一緒に過ごしてくれたことへの感謝。
光輝に別れを告げた時には、だいぶ陽が傾いていた。
「会えてよかったな……」
北斗がしみじみと言った。
不思議な満足感と、達成感が胸を占めている。
「じゃあ、お前の家まで送って行くよ」
光輝の家の前の階段を降り、自転車のところまで歩きながら北斗が行った。
「北斗はどうするの? 家に帰らないなら、このあと……」
「そうだなぁ、海でも見にゆくかなぁ……」
のんきな口調で言う。
「海? やだ! ディープインパクト見てないの?」
北斗は笑った。
「どこにいたって一緒だろ?」
「でも、わたし、海は恐いな……」
「わたし……って……おい! お前、まさか一緒に来る気じゃないよな?」
「一緒にいちゃダメ?」
「同情はいらないって言ったろ?」
「北斗はいらなくても、それがわたしの気持ちだもん。仕方ないじゃん」
「家族が待ってるだろ?」
北斗は怒ったような顔をした。
「わたしがいないと寂しがるだろうけれど、でも、パパにはママがいるし、ママにはパパがいて、柊斗にはパパとママがいる。でも、北斗には、今、他に誰もいない……から……」
北斗は無言のままだ。
「夕日が見たいな。どこか、とびっきり綺麗に見える場所ないかなぁ?」
わたしは、両手を大きく上に伸ばし、天を仰いだ。
北斗は、西の空を見上げ、何か小さく呟くと、自転車にまたがった。
「早く乗れよ」
わたしが躊躇していると、「夕日がみたいんだろ? 早くしないと間に合わねーよ」と大きな声で言った。
わたしは、北斗に笑いかけ、自転車の荷台に座る。腕を北斗の腰に回し、しっかりと掴まる。
北斗は、地面を蹴ってこぎだした。
途中、無人のコンビニで、残っていたスナック菓子と飲み物をもらってくる。
「あそこだよ」
北斗が指さしたのは、街のど真ん中に、こんもりと鎮座する山だ。
山のてっぺんにはお寺がある。
寺の石段の下で自転車を降り、延々と続くかと思われる急な階段を上る。
息を切らしながらてっぺんまで登り、振り向くと、広がる町の眺望の向こうに富士山に向かって沈んで行く夕日が見えた。
「綺麗だね……」
北斗は、眩しそうに目を細め、うなづいた。
血のように真っ赤に染まった空と、徐々に深みを増して行く紺色の空。夕日をうけて桃色に光る雲が、今まで見たどんな空よりも綺麗に思えた。
わたしたちは、寺の鐘楼に腰掛けて、沈んで行く太陽を最後の瞬間まで見守った。
残光が消え、あたりは真っ暗になる。
ケータイの液晶の明かりをたよりに、もらってきたスナック菓子を食べ、ジュースを飲んだ。
やがて、東の空がほんのりと明るくなり、真っ暗な空に、丸い天体が顔を出した。
青白く輝いた、月よりも大きく、月よりもいびつな星は、不気味な圧迫感をもって空の一角を占めている。
「死にたくないね……」
「ああ、死にたくない……」
わたしは、北斗の腕にギュッとしがみついた。北斗は首を傾け、わたしの頭に頬を押しつけた。
人々の、夢や希望や願いや祈りをまったく気にかけることなく、否応もなく、確実に――
今夜、世界は滅ぶ。
了