「雪乃丞変化」
南方南
ノベルフェスタ138 「桜花皐月賞 」


 急な土砂降りに、美鈴は恨めしげに空を仰いだ。
 土曜日。学校は半ドンだが、母の仕事はいつも通り二時までだ。迎えは期待できない。
 意を決し、五年間使い続けてすっかりくたびれた赤いランドセルを頭に乗せて、形ばかり雨を防ぎながら家に向かって駆け出した。
 ぬかるんだ砂利道を、泥水を盛大に跳ねながら駆けて行く美鈴の赤い運動靴が、ぱたりと止まる。
 黒いランドセルが水たまりに浸かっている。ばらまかれた教科書、ノート、筆箱。
 黄色い帽子のつばからポタポタ雫を垂らしながら、その惨状を呆然と見詰めている少年の姿に、美鈴は溜息をついた。
「また、いじめられたん?」
 少年は顔を上げ、美鈴を見ると、へらっと笑った。そのゆるんだ笑顔になぜか苛つく。
「だいたい、あんたもあんたや」
 美鈴は腹を立てながらも自分のランドセルを背負い直し、身を屈めると、教科書やノートを拾い上げてやった。泥だらけのまま黒いランドセルに乱暴に詰め込む。
「はい」
 美鈴が手渡すと、少年はまたしても、へらっとゆるい笑顔を見せた。
「はぁ〜」
 美鈴は盛大に溜息をつく。
 少年は、同い年とは思えないほど華奢で小柄だ。顔付きは柔らかく、動きもなよなよとして、男らしさがまるでない。いつもぼんやりと遠い目をして、人が話しかけると、へらっとふやけた笑みを返してくる。クラスの悪ガキどもがいじめるのもわかる気がする。見ているとわけもなく腹が立つのだ。
 少年が転校してきたのは二ヶ月ほど前だ。家族は旅芸人の一座で、全国を転々と巡業しているのだという。
 少年も舞台に立つらしい。そのため欠席が多く、あまりクラスに馴染まず、当然のごとく勉強も苦手で、先生の質問に対しトンチンカンな答えをしてはクラスの笑いものになっていた。
「なんか言い返したらどうなん?」
「え?」
 キョトンとした目を向けられ、美鈴はまた盛大な溜息をつく。
「やられっぱなしで悔しくないん?」
「悔しく? どうして?」
 子犬のように無垢な目を向けられ、美鈴は苛ついた。
「そんなんだから、いじめられるんやで? わかっとる?」
 少年は小首を傾げた。
 美鈴はバカバカしくなり、首を振った。
「もうええわ。気ぃつけてお帰り」
「ありがと」
 少年はランドセルを背負うと、美鈴にとぼけた笑顔を向けた。
 こういうところが、無性に腹立つねん――
「佐藤さんにも、これあげる」
 少年は、ポケットから小さな紙切れを取り出して美鈴に渡した。
「うちに? 何? これ」
「あしたの公演。見に来て」
「来てって…… え? ちょっと……」
 駆け出した少年は、顔だけ振り向いて美鈴に告げた。
「絶対来てね。本当の僕を見てよ」
 瞬間、少年の、オカマだなんだとからかわれる原因となっている長いまつげに縁取られた目や赤い唇が、大人びた冷笑めいた笑みを形作った。いつもの間抜けな笑顔とはまったく異質な微笑に、美鈴は戸惑う。
 手の中を見ると、濡れてくしゃくしゃになった芝居の切符が二枚あった。
《花吹一座公演 変幻自在・雪乃丞舞い踊る》

   *

「うわぁ、これ雪ちゃんの切符やん!」
 美鈴は、小躍りして喜ぶ母と一緒に芝居を見に行くことになった。
「雪ちゃんはスターなんよ。ファンが全国に大勢おるんやから」
 雪乃丞というのは少年の芸名だった。彼の活躍で花吹一座はちょっとしたブームになっているのだと母は言う。
 しかし、美鈴には、あのへらっと笑う雪乃丞とスターというイメージが重ならない。美鈴にとってスターというのはジュリーや秀樹やピンクレディだった。
「あんた、ええねぇ。雪ちゃんと同じクラスやなんて」
 はしゃぐ母に美鈴は呆れた。

   *

 公演会場は町の公民館だった。
 公民館の周囲には役者の名前を書いた幟が立てられ、すっかり芝居小屋の雰囲気になっていた。
 入口で切符を切っていた、ちょんまげに着流し姿の男が、親しみを込めた笑みを向けてきた。
「雪の友達だね。今日はゆっくり楽しんでいって」
 美鈴は「友達」と言われたことが、なぜだかひどく恥ずかしくて、曖昧に頷くと、逃げるように中に入った。
 板敷きの床に座布団が並べられ、既に多くの人が座っていた。圧倒的に年寄りが多い。美鈴は場違いな気がして帰りたくなったが、中に数人知ってる姿を見つけると、少し気が楽になった。
 それは、いつも雪乃丞をいじめていた男子たちだった。彼等も美鈴と同様に招待されたのだろうか。落ち着かなげに周囲をキョロキョロと見回している。
 やがて、室内が暗くなる。
 しんと静まりかえった闇の中、突然、スポットライトが舞台を照らす。
 光の輪の中に、白い着物を着た儚げな美少女が浮かび上がった。
 鼓や三味線の音が流れ出す。その華やかな曲に合わせて少女が舞いはじめる。
 優雅に華麗にしなやかに。
 広げられた金の扇が蝶のように舞い、振り袖がくるくると翻る。
 日舞になど興味もなく、何の知識も持たない美鈴だったが、その動きの美しさ、妖艶さに惹き付けられた。
 ふと、踊る少女の視線が、自分に向けられているような気がした。長いまつげに縁取られた黒目勝ちの目が細められ、冷ややかな笑みが浮かぶ。
 その笑みに見覚えがあった。
 雨に濡れた少年の、大人びた冷笑――
 はっと気がつくと、少女は舞台に両手をついて頭を下げていた。
「やっぱ、雪ちゃん、綺麗やわぁ……」
 割れるような拍手の中、母が溜息混じりに呟く。
 美鈴は改めて、舞台の上で観客の声援に応えて微笑む少女を見た。それは、間違いなく、美鈴のクラスメイトである、あの少年だった。

 踊りに芝居にコント。時に火のように激しく、時に風のように軽やかに、雪乃丞は、変幻自在にその姿を変えつつ、演目を次から次へと華麗にこなして行く。
 その姿は学校にいる時とはまるで違う。
 舞台狭しと駆け回る雪乃丞は、観客の心を手中にし、喜怒哀楽を自在にひきだしてゆく。まさに天才の成せる技だ。
 全ての演目を終え、雷鳴のような拍手に包まれて艶やかに微笑む雪乃丞。
 彼の視線が美鈴の視線と交わる。その瞬間、あの冷笑が再び唇に浮かんだ。
 違うんや――
 美鈴は悟った。「本当の僕を見て」と言った彼の真意を。
 舞台の上の雪乃丞は、世界を支配している。舞台の上で彼は王であり神だった。そんな雪乃丞にとって、悪ガキどものいじめなど何の意味も持たない。いじめた奴等など、遙か高みから傲然と見下ろし、逆に哄笑を浴びせていたのだ。ちっぽけな下らない奴等だ――と。
 同時に彼は、美鈴がいだく憐憫や同情も、冷酷な笑みできっぱりと拒否していた。
 美鈴は、雪乃丞から目をそらし、唇を噛んだ。
 雪乃丞なんてキライや。大嫌いや――
 悔しく腹立たしく、そして、哀しかった。

 翌朝、担任から、次の公演場所へ移動する為、雪乃丞が学校をやめたことを知らされた。それっきり美鈴が雪乃丞と会うことは二度となかった。

   *

 あれから三十年が経ち、今、美鈴は雪乃丞の墓の前にいる。
 俳優となった雪乃丞は、映画やテレビで活躍し、天性の演技力と美貌で一世を風靡した。
 そして、二十二歳の若さでの事故死が、彼を伝説に変えた。死後十八年が経過した今も、根強い人気を保っている。
 ファンが捧げた花束で埋まる墓石に、美鈴は持ってきた花束を加え、手を合わせた。
 閉じた瞼の裏に、雪乃丞の間の抜けた笑顔と同時に、氷のような冷笑が浮かぶ。
 美鈴は今頃になって気付いた。
 あの、相反する二つの笑顔を持つ少年に、自分は確かに恋をしていたのだと――
 気付くより前に消えてしまった初恋は、美鈴の胸に小さな痛みを刻み続ける。今も、そして、これからも。





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