「―絆― Something which links me to you.」
南方南
ノベルフェスタ140 「ミステリーカップ」
〈1〉
何故なんだ――
アンジェリカの青白い顔を見下ろしながらジャックは心の中で呟いた。
集中治療室の処置台の上に横たわるアンジェリカ。閉じた瞼。金色の長い睫毛が頬に作る影が、ジャックの目にはことさら痛々しく映る。
彼女の力になりたかった。しかし、自分の存在はかえって彼女を傷付けただけだったのかもしれない。
病院支給のマスクに長い溜め息を吐き出し、目を逸らした。逸らした視線の先には彼女の心臓の拍動を知らせるグラフがあった。
今はまだ生きている。しかし血圧は低く、拍動も弱い。
二度と目を開かないかもしれません――
それが医者の診断だった。
無呼吸状態が長く続いたため、脳に損傷がある可能性が高い――
彼女の目が開いて、緑の瞳が再び自分を見詰めることはもうないのか。そう思うと胸がキリリと痛んだ。
愛していた。
彼女もジャックの気持ちに気付いており、受け入れようと努力してくれていたのだと信じていた。
無意識にズボンの右ポケットの中を探る。そこには、アンジェリカがくれた、彼女の部屋の鍵が入っていた。
昨晩、鍵を使って彼女の部屋に入った。彼女の部屋の鍵を使うのはそれが三回目だった。そして発見した。リビングのソファーの上に横たわる彼女を。
大量の薬をアルコールと一緒に飲んでいた。昏睡状態で嘔吐し、吐瀉物が喉に詰まり呼吸が止まった。
救急車が来るまでに、卓上用の掃除機で喉に詰まった異物を吸い出し、人工呼吸を試みた。それが功を奏したのか彼女は一命を取り留めた。だが、彼女の心は戻ってこない。いや、彼女の心はとうの昔にこの世にはなかったのかもしれない。
アンジェリカとの出会いは、皮肉なまでにドラマチックだった。
彼女はレイプの被害者。ジャックは被告の弁護人。
判決は無罪。彼女の尊厳を踏みにじったのは他ならぬジャックだった。判事は、ジャックの戦略どおり、合意の上の行為だったという被告側の答弁を全面的に認めた。
判決の数日後、橋から飛び降りようとしていたアンジェリカをジャックが救ったのは偶然だ。いや、運命の悪戯というべきか。
放心状態の彼女を放っておけずに家に連れ帰った。
ジャックはさぞや彼女に恨まれていることだろうと思っていた。しかし、彼女の瞳にジャックへの憎しみは欠片もなかった。
憎しみだけではない。アンジェリカの瞳には何もなかった。一切の感情が消え去っていた。法廷で泣き崩れた、あれが、彼女が示した最後の感情だったらしい。
透明。
アンジェリカの存在を形容するにはそんな言葉がふさわしい。
無理やりつなぎ止めておかなければ今にも空気に溶けて消えてしまいそうなアンジェリカに、ジャックの心は乱された。彼女の事が頭から離れなくなった。心惹かれた。
いや、あれは愛ではなく、怖れだったのだろうか。
罪悪感――?
愛だと錯覚しただけだったのだろうか。
ジャックは、処置台の上の青白い寝顔に視線を戻した。
何故、鍵をくれた――?
アンジェリカに心の中で問いかける。
ジャックの手のひらに鍵を乗せた時、彼女の顔に一瞬だけ浮かんだ挑むような表情。あれはいったい何だったのだろう。
付き合うようになって一年が経っていた。
付き合うといっても、普通の男女のような交渉はまったくなかった。抱き締めるどころか手を触れることすらしていない。
ただ、彼女の気持ちが辛くならないようにと、少し距離をあけて寄り添う。
心を添わせ、彼女を支えたいと、そう思っていた。
アンジェリカは、ジャックが側にいることを拒まなかった。
一緒にお茶をのみ、食事をし、散歩をし、映画を観て、たわいのない話をする。
そんな積み重ねのうちに、アンジェリカは、少しずつジャックの事を受け入れてくれつつあるのだと思っていた。満面の笑みこそ見ることは出来なかったが、怯えや不安、不快、悲しみに始まって、やがて感謝や小さな微笑みなど、徐々に感情の動きを表に出るようになってきていた。
それなのに……
何故、死のうとしたんだ――?
ジャックはアンジェリカの頬に手を伸ばした。
が、触れる寸前でギュッと拳を握りしめる。
ずっと自分に課してきたいましめ。
彼女に触れてはならない――
どんなに触れたいと思ったことか。
どれほど抱き締めたいと思ったことか。
口付けし、愛を交わすことを望んでいた。
しかし、少しでも手を伸ばせば、そこには彼女の怯えた目があった。
レイプ。
アンジェリカが受けた心の傷はあまりにも深い。
ジャックは、自分の想いを抑え、耐えてきた。
彼女を追い込んだのは自分であることを知っていたから。
彼女を傷付けた男と同じものになってしまうかもしれない自分を怖れたから。
嫌なことだが、ジャックには強姦した男の気持ちがわかる。
アンジェリカは男をそそる体を持っていた。胸のふくらみも、腰のくびれも、尻のラインも、ふくらはぎから足首までの流れも、男の欲情を駆り立てるために計算し尽くされたような造形だった。ただ立っているだけで蠱惑的なのだ。それを、豊かな金色の髪と肉感的な唇と潤んだ瞳が補強する。征服欲をかき立てる。
本当に愛なのか。
それとも欲望に過ぎないのか。
アンジェリカに対する、自分の気持ちの正体が、ジャック自身にも掴めていない。
アンジェリカは、ジャックの中に潜む、危険な男の本性を鋭く嗅ぎ取っていたのかもしれない。そう考えると、彼女に対する、自分の行為のすべてが欲望に裏打ちされた穢い打算でしかなかったように思えてくる。
自分にはここにいる資格がないのかもしれない――
握りしめていた拳を開き、両手を力なく垂らす。
アンジェリカは、その全身でジャックを非難しているようにも見えた。
彼女の本心を聞きたいとジャックは切望したが、アンジェリカの眠りは深い。
「時間です」
医師に呼ばれ、ジャックは唇を噛みしめると、振り切るようにきびすを返し、集中治療室を後にした。
〈2〉
タクシーで真っ直ぐ自宅のアパートメントに戻った。
リビングの置き時計はもうじき午前八時半になろうとしていた。
昨夜は一睡もしていない。タクシーの中で少しうとうとしたせいで、頭が重く、体がだるかった。しかし、仮眠をとる時間はなかった。
ジャックはスーツの胸ポケットから携帯を取り出すと法律事務所に電話して、事務所には寄らずに直接依頼人の所へ行くと伝えた。
続けて、アンジェリカが通っていた精神科医の番号を調べて電話をする。
病院へは何度かアンジェリカを送って行ったことがある。建物の入口で別れたが、エントランスのプレートに記された病院の名前だけは記憶していた。
受付係が出たので、事情を話し、アンジェリカの担当医に会いたいと頼むと、アンジェリカとの関係を訊かれた。
「恋人」と言おうとしてためらった。そもそも、ジャックとアンジェリカの関係を何と言えばいいのだろう?
恋人というにはほど遠く、友人というのでは寂しすぎる。ボーイフレンド? しかし、そんなハイスクールの少年少女のような軽々しい関係だとは思いたくない。
「弁護士をしています」
嘘ではないが、不正確な答。
彼女を守る弁護士ではなく、彼女を追い詰めた弁護士――
他の言葉で彼女との関係を語れない。その皮肉に唇が歪む。
電話の向こうで空気が固まるのが感じられた。
弁護士と聞いて、自殺未遂に対する担当医への責任追及を頭に描いたのだろう。SSRI系の抗鬱剤には、自殺衝動を引き起こす副作用がある。それだけに、医師は投薬を慎重に行わなくてはならない。
しばらくごちゃごちゃと相談しているような気配のあと、受付係の女性は、慌てたような声で言った。
「担当のドクター・クラークは、午後からの診療なので、まだ出勤していません。診療時間終了後でしたら時間がとますが……」
ジャックは午後六時に面会を予約した。面会の理由は伝えなかった。
訴訟を起こすつもりなど、まったくなかったが、自殺を食い止められなかった精神科医への怒りはある。自分が訪ねていくまで、疑心暗鬼で心を揺らしていればいい、ザマアミロ。と、そんな暗い感情が渦巻いていた。
医師の顔を見たら、殴りつけてしまうかもしれない。しかし、アンジェリカが意識を取り戻さない以上、彼女の心を一番知っているのは担当医しかいない。医者から聞き出す以外に彼女の気持ちを推し量る材料は手に入らない。
精神科医は患者のプライバシー保護義務があるが、弁護士の立場を利用すれば少しは情報を引き出せるだろうか。淡い期待。だが、切実な期待。彼女の心の一端でも知りたい。
電話を切ると、大きく深呼吸をした。
仕事だ、ジャック――
自分に言い聞かせ、上着を脱ぎながらバスルームへ向かう。
鏡を見て、昨夜自分が泣いたのを思い出した。
アンジェリカは上向きで体を真っ直ぐに伸ばし、両手を腹の上で組んで、棺桶の中の死人のような姿で眠っていた。名前を呼んでも反応がなく、何かがおかしいと思った。
耳元で何度も名前を呼んだ。まったく反応がない。
しばらくためらったのち、肩をそっと揺すった。目を醒まさない。
頬を叩き、名を叫ぶ。何の反応もなかった。
テーブルの上にワインのボトルがあり、処方薬の薬袋、市販の解熱剤や風邪薬の紙箱、そして、それらの薬品の、中身が取り出されたプラスチック製の外包が、テーブルの上や床の上にいくつも散乱していた。
その意味するところに気が付き胃が締め付けられた。携帯を取り出し、911をプッシュしようとした。手が震え、たった三つのボタンを押すのに三度も失敗し、四回目でようやくかけることが出来た。
オペレータに状況を伝えている時アンジェリカが吐いた。上向きのまま吐いたものが口と鼻を塞ぎ、呼吸が止まる。
狂乱しかけたジャックはオペレータの叱責で何とか平静を取り戻した。電話で指示を仰ぎながらアンジェリカの蘇生を試みる。救急車の到着まで、自分ではずっと冷静に対処していたつもりだった。それなのに、気が付くと顔がぐしょぬれになっていた。
ひどい顔だ――
自分で自分を嗤う。
かつて友人に言われたことがある。
傲慢な目だ。お前は人の苦しみを知らない。いい気になっているな――
弁護士に成り立ての頃だ。実績をあげようと遮二無二なっていた。人の心の痛みなど考える余裕もなかった。のし上がることだけが頭にあった。ただでさえ冷淡に見えがちな青い瞳は、さぞかし貪欲に輝いていたことだろう。
その瞳が、今はすっかり不安の色に染まっている。いつもきちんと整えてあるブラウンの髪がひどく乱れ、はれぼったい瞼と乾いた唇と一晩分だけ伸びた髭のせいでひどくやつれて見える。
情けない自分の顔から目を逸らすと、服を脱ぎ頭からシャワーを浴びた。バシャバシャと乱暴に顔を洗う。したたる雫にアンジェリカの幻影を見る。
髭を剃り、髪を整え、何とか見られる顔になったことを確認してから、洗濯済みの服に袖を通した。
キッチンでシリアルを皿に盛り、牛乳をかけて、立ったままスプーンで口に運ぼうとした瞬間、不意に涙が零れた。涙は後から後から落ちてきて止まらない。
シリアルの皿を置き、両手をテーブルに突く。
「アンジェリカ……」
名前を口に出した途端、堰を切ったように悲しみが胸に溢れる。そのまま涙で溺れ死ぬことが出来そうだった。
限界だった。片手で顔を覆い、テーブルに突いた手で辛うじて体を支えながら嗚咽した。
どうにか気持ちを落ち着け、もう一度顔を洗うと、喉を通らぬ食事は諦めて、シリアルを流しに捨てると、ブラックのインスタントコーヒーを一気飲みする。
ネクタイを結びながら寝室へ行き、ベッドの上に広げてあった書類をカバンに詰め込み、スーツの上着を腕にかけて寝室を出ると、リビングのサイドボードの上に置いてある、仕事用のトヨタのキーを手にした。
キーを手のひらで弄びながら部屋を出る。アパートメントの階段を駆け下りながら、そういえば、プライベート用の緑のミニクーパーはアンジェリカの所に置いたままだったな、などと思う。
何かにつけ思考がアンジェリカに繋がってしまう。
アンジェリカ――
アンジェリカ――
アンジェリカ――
またもや零れそうになる涙を何とか抑えながら、ジャックは自分の心がどこか壊れてしまっていることに気付いた。それだけアンジェリカが、自分にとって大きな存在だったのだと、いまさらながら思い知らされた。
カンカンと足音が響く階段を地下駐車場まで下り、停めてある車の間をすり抜けて、排ガスで薄汚れた黄色い柱の横にある、グレイのセダンのドアを開けて乗り込んだ。エンジンをかけ、車を出す。行き先は郊外にある依頼人の家だ。
頭にこびりつく、アンジェリカの青白い顔を無理やり隅に押しやって、仕事に集中するんだ、と自分に言い聞かす。
アンジェリカの恋人になり損ねたダメ男のジャックではなく、注目の若手弁護士ジャック・キャメロンに戻らなくてはならない。気持ちを切り替えようと背筋を伸ばし、仕事の事だけに意識を向けようと試みる。だが、うまくいきそうになかった。
何故、死のうとしたのか――
今抱えている仕事の最も重要な課題は、自殺の理由の特定にあった。被害者とされる人物の死が自殺であることを、なんとしてでも証明したい。
自殺――
その単語はどうしてもアンジェリカと結びついてしまう。
彼女の顔がチラつく。心が揺れる。
彼女の自殺の理由は自分かもしれない――
認めたくなかった。が、認めるしかないのか。
ジャックは下唇を噛みしめた。
わたしが殺しました――
依頼人である老婆の声が耳に蘇る。
わたしが夫を殺したんです――
〈3〉
七十四歳になる老婆が、ハウスキーパーに付き添われて警察に自首してきたのは十日ほど前の事だった。
夫を殺しました――
警官が急行し、供述どおり、八十五歳の白人男性ウォルター・マグワイアが、自宅のリビングのソファーに座り、背もたれにもたれかかった状態で頭部を拳銃で撃ち抜かれて死んでいるのが発見された。左のこめかみから入った銃弾が右に抜けていた。
自首してきたのは日本人妻のフキコ・マグワイア。
単純な夫殺し事件だと思われた。なにしろ被疑者が自首してきている。
床には、おびただしい血液が流れ、それを拭き取ろうとした痕跡もあった。隠そうとしたが隠しきないと悟り、自首してきたのだろう。駆けつけた警官の誰もがそう思った。
しかし、捜査の結果、夫の左手に硝煙反応が見られた。銃からもウォルターの指紋が検出された。彼は左利きだった。自殺の可能性が浮上する。
拳銃を持った夫の手をとり、銃をこめかみに当て、引き金を引いた――
妻はそう主張した。それを積極的に覆すような資料はない。かといって、自殺を否定する材料もなかった。
着衣の乱れはなく、ウォルターが抵抗した形跡はない。それが本人の意思によるものか、それとも、意識を失っている状態だったのかは、調べが付いていない。
ウォルターの左手に握られた拳銃が、彼の左のこめかみに当てられた。その手の上に妻であるフキコの手が添えられていた。そこまでは確実だった。
問題は、引き金を引いたのはウォルター本人か、それともフキコか。引き金を引いたのはウォルターの意志か、フキコの意志か。
自殺か、殺人か、依願殺人か――
自殺の場合は、フキコの自殺幇助も視野に入れなくてはならない。
状況証拠だけではいずれとも言い難く、判断の分かれるところだったが、検察は終始一貫して破綻のないフキコの自白を信憑性の高いものとして起訴することに決めた。ウォルターに自殺の動機が見つからなかったことも大きな理由だ。警察による、わずか四十八時間の捜査でわかる事は、たかが知れていた。正式な判断は裁判所に任される。
逮捕の三日後に、裁判所の冒頭手続(イニシャル・アピアランス)が行われ、フキコは、自身の有罪を認めたことで被疑者から被告人となった。予備審問の日取りが決定し、フキコは保釈金を払って保釈された。
二週間後に行われることになった予備審問で、フキコに、犯行を行ったと信じるに足りる相当な理由があると認められれば、フキコは正式に起訴されることになる。その後の罪状認否手続でフキコが当初の自白どおり罪を認めてしまえば、もう裁判は行われず、そのままフキコの有罪は確定し、量刑手続に入ってしまう。
ジャックは手続きの必要上から弁護人として雇われたが、フキコには無罪を勝ち取る意志はまるでない。そのまま依頼人の意志に従って事を進めれば、何の問題もないはずだった。フキコは望みどおり殺人者として量刑を受ける。
しかし、ジャックは躊躇する。
フキコが有罪だとはどうしても思えなかった。幾人も犯罪者を見てきた者のカンだ。彼女には殺人者の殺伐とした気がまるでなかった。諦観に似た静寂があるだけだ。
以前のジャックならば、ロクな金にならない仕事と見切りを付けてフキコの望みどおりにさっさと事を運んだに違いない。彼女の無罪を証明しようとすれば、それだけ多くの時間と労力を割かねばならない。削がれる時間が増えれば、それだけ他の仕事が出来なくなる。
だが、アンジェリカと関わってしまった今のジャックには、そう簡単に割り切ることが出来なかった。
アンジェリカの裁判で被告となった男は明らかに罪を犯していた。男の言動や素行でジャックはそれを確信していた。無罪となったのは、法廷での言葉のゲームにジャックが勝ったからに他ならない。
法廷は真実を明かす場ではなく、検察と弁護人、どちらがより多くのカードを持っているか、どちらがより雄弁かを競うゲームの場だった。
それでいいのか?
一年間アンジェリカを見詰め続けたジャックは自問する。
人ひとりの人生を賭けた闘いを、弁護人や検察が言葉のゲームで収めてしまっていいものなのか。
真実さえ掴めば冤罪は防げる。真実を提示しさえすれば、先入観や人種差別による不当な重罪扱いを避けられるはずだ。そう思って目指した弁護士の道だったのに、現場に入って社会の表裏を見過ぎた。理想よりも生活を選択してしまった。裁判を、真実を求める場ではなく、利を生み出すゲームの場にしてしまった。
真実ほど強いものはない――
かつて弁護士を目指していた時の想い。若さゆえの甘さと斬り捨ててきたその熱い想いが今になって蘇る。
それに、坐して負けるのは悔しいという気持ちもあった。有能と言われてきた弁護士としてのプライド。
予備審問まであと一週間。それまでに何とか彼女の心を覆すことは出来ないものだろうか。無罪だと胸をはって言えるように出来ないものだろうか。
ジャック自身も証拠集めに奔走したが、物証は、どちらにも味方していない。
あとは自白の信憑性だ。
問題は動機だった。
ウォルターに自殺するより他ない理由がありさえすれば、フキコの自白の信憑性をつついて勝てる可能性も生まれる。いや、欲しいのは勝利じゃない。真実だ。
自白の信憑性をつつけば、フキコの気持ちを揺らすことが出来るだろうか? 真実を語るよう説得する余地が生まれるだろうか?
わたしが殺しました――
留置所での初めての接見で、フキコは、いかにも日本人らしい、感情を抑えた、抑揚の乏しいしゃべり方で、淡々と自分の罪を語った。
言葉と同じく感情の発露の乏しいのっぺりとした顔。太古の湖のような深い静けさをたたえた黒い瞳からは、何一つ読み取ることが出来なかった。
わたしが殺しました――
その言葉が、今、改めてジャックの心に重くのしかかる。
処置台の上のアンジェリカの青ざめた顔が目に浮かぶ。
俺が殺した――?
助けられなかったという思いは、深い後悔となり、自分を締め付ける。
フキコの言葉が、ジャック自身の心に重なる。
自分のせいだと認めて自分を責めれば、それで満足出来るのかもしれない。自己憐憫の湖の底で静かに朽ち果てていくことが出来るのかもしれない。
ともすればそちらに心は傾く。
しかし、自分を卑下し、自分を悪者にすることで自傷行為にも似た甘い陶酔に浸ることが、ジャックには許されない悪に思えた。
自分はそれで心地よいかもしれない。しかし、それでアンジェリカはどうなる? 彼女の気持ちは?
ジャックが知らなくてはならないのは、アンジェリカの本当の気持ちなのだと思う。
それで彼女が死ぬほど自分を恨んでいるのだと知れたならば、その時こそ罪を真摯に受けるべきだと、そう思う。死ぬまで彼女の無念を胸に刻み、幸せや喜びを瞬時も感じてはならない。そんな生き方を自分に課そう。罪を償っていつか解放されるのではなく、ずっとそのまま背負い続けよう。
逃げてはいけない――
フキコが何から逃げようとしているのかは知らない。逃げるしか道がないのかもしれない。でも、その前に真実を。ウォルターが死んだ本当の理由をあばく必要がある。
ジャックは不意に、自分がフキコに嫉妬していることに気付いた。
憎んですらいるかもしれない。
すっきりと罪を背負い込み、そのことに陶酔しているようなフキコの姿に怒りを感じている。
きれい事を並べ、自分を誤魔化し、正義面をしようとしていたが、今までの一連の思考は全部うそっぱちだ。
素直に罪を受け入れる? 背負い続ける――?
違う。
そんな綺麗な心は持ち合わせていない。
逃げたがっているのはジャックの方だ。
自分の罪を認めたくない。
逃げ切りたい。
臆病で愚かで狡くて醜い心が渦巻いている。
だから、泰然としているフキコに嫉妬している。
あばいてやりたい――
本心はそこにあるのだろう。
あの静かな顔の裏に潜んだ本当のフキコをえぐり出してやりたい――
本当に罪を犯しているのならば、そんなに淡々と自分の罪を背負い込めるわけがない。あがき、うめき、のたうち回っている本心がその裏に隠されているに違いない。俺のように。
あの静かな目をしたフキコが夫を殺したとは思えない。人を殺しておいて、あんな目をしていられるとは思えない。だから、真実をあばきたい。夫殺しなどしていないと証明したい。何故、フキコが平然と罪を背負おうとするのか、その理由が知りたい――
ジャックはハンドルを握りしめる手に力を込めた。
怖いのだ。自分の罪を認めることが。罪を背負おうなどとカッコの良いことを自分に言い聞かせながらも、逃げ出したくてたまらない。
自分の心をかき乱すアンジェリカを恨んですらいる。すべてをなかったことに出来ないかと臆病にも考えている。アンジェリカの自殺の動機が自分以外の場所にあることを望んでいる。
「畜生!」
ジャックはうめいてハンドルを叩いた。
醜い自分の心が憎かった。
揺らぎのないフキコの瞳が恨めしかった。
〈4〉
車で約一時間。郊外にある閑静な住宅地。その一角にマグワイア家はある。
約束の十時半を少し過ぎていた。庭先の煉瓦を敷いた駐車スペースにトヨタを突っ込むと、ドアを開けて車外に出た。
広い庭。丁寧に刈り込まれた芝生の左奥に、大きく掘り返された痕がある。乱雑に盛り上がる土と芝生の境目に、煉瓦や木製の柵が無造作に積まれ、花壇か何かを作っている最中のように見える。
週三回手伝いに来ているハウスキーパーの話では、この家の主人が死ぬ一週間ほど前から作り始めたという。妻のために庭中を花で埋めるのだと嬉しそうに言っていたそうだ。
掘り返された土の一角にかなり大きなコンポストが据えられている。家の落ち着いた雰囲気を台無しにしている黒い堆肥製造器は、死の前日に買ってきたものだと聞いた。裏庭にでも設置するつもりのものを、ここに放置したままウォルターは死んだということか。
妻のために庭中を花壇にしよう準備していた男。その姿からは、突然の死の理由が見えない。
ジャックは、この家の長い歴史に刻まれた傷跡のような、生々しい土の色から目を逸らし、古めかしいが手入れの行き届いた、白い二階建ての家屋へ目を転じた。二階の窓は鎧戸に閉ざされていたが、一階のリビングとおぼしき出窓は開いており、風に白いレースのカーテンがなびいていた。
死亡したウォルター・マグワイアは、第二次世界大戦に従軍し、戦争終結後退役。故郷に戻って友人と共に電化製品の販売修理会社を設立した。洗濯機、冷蔵庫、テレビ、クーラーと家電が一般家庭に浸透し、必需品となってゆくに従って事業も伸び、町の電器屋から州内に四つの家電量販店を持つまでに発展した。マグワイア夫妻には子供がいなかったので、十年ほど前に、共同経営者の息子に事業を引き継がせ、ウォルターは相談役という名目で創業者としての体面を保っていた。
この二階建ての家は、ウォルターの努力と成功と、そして、死という彼の人生のすべてを見てきたのだ。
いったい、ここで何があったんだ――?
ジャックは家が口を利けるものならば、聞き出したいという思いに駆られたが、真っ白な無機物の塊は、ただ黙ってそこにたたずむだけだった。
生き生きとした色とりどりの花が植わるプランターが左右に並ぶ煉瓦の小道を辿って、ジャックは、木製の白い玄関扉の前に立った。
呼び鈴を鳴らすと、中央に細い縦長のステンドガラスをはめ込んだ扉が、軋む音を立てて内側に開いた。
自分の胸のあたりまでしかない、ひっつめにした白い頭を見て、ジャックは相手に自分の顔が見やすいように少し腰を屈めると、遅刻の非礼を詫びた。
フキコは、精一杯見上げるようにしてジャックの顔を見た。その顔からは、どんな感情も読み取れない。
「いいえ、とんでもない。お忙しい中、わざわざお越しいただき恐縮です」
フキコは丁寧に頭を下げると、ジャックを中に招き入れた。
むせるようなにおいが鼻を突いた。庭にいた時から甘いにおいが香っていたが、室内に充満した薫りは尋常ではなかった。
サイドボードの上に香炉が置かれ、そこから煙が上がっている。窓を開けていてさえこのにおいだ。締め切っていたら息もつけないだろう。思わず鼻の付け根に皺を寄せると、フキコは、困ったような顔を見せた。
前回来た時は、保釈直後で、留守の間閉め切られていた室内にはまだ犯行の痕がしっかりと残り、死のにおいに満ちていた。
部屋に満たされた強烈な薫りは、あの不吉なにおいを消すためなのだろうか?
床に目を落とすと、艶のない古い木の床や色あせた絨毯に、赤黒いしみが所々残っているのが目に付いた。拭っても拭いきれなかったらしい死の痕跡。
香炉の側には小さなコップに花が活けられ、その奥にウォルターの写真が立てかけられている。
「あの人はクリスチャンでしたが、わたしは日本人なので、どうしても花と線香を供えないと、供養した気がしないものですから……」
フキコの瞳は、カーテンがなびく窓の外、どこか遠くに向けられていた。
ジャックは、窓の側、なるべくにおいの薄いと思われる場所に座った。
向かい合わせにソファーがある。
その足もとのしみに目が行く。
ぐったりとソファーにもたれるウォルターの姿を、つい想像してしまう。
フキコの手が、ソファーを撫でた。そのままゆっくりと、ジャックが頭に思い描いたウォルターの上に腰を下ろす。
フキコは黙ったまま、ローテーブルの上に置かれたポットを手にとると、お茶を煎れた。
「どうぞ」
差し出されたカップを手にとり、礼を言って一口すする。
さっぱりとしたグリーンティーが、口の中にまで粘り着くような、強い線香の薫りを洗い流してくれる。
ジャックは、カップをテーブルに戻すと、話を切り出した。
「先週は、必要な手続きや、あなたが有する権利についてご説明しましたが、今日は、一週間後の予備審問についてご相談しようと思って参りました」
フキコの顔を見る。老女は、静かな顔で、ジャックの背後の窓を見ていた。
いや、見ているのは、空の上の夫の姿なのかもしれない。
「相談といわれましても、裁判のことは、わたしなんぞには、まったくわかりません」
フキコは視線をジャックに向けた。その視線に断固とした意志が光る。
「どうか、先生が良いと思うようになさってください」
「あなたは有罪になることを望まれている。本当にそれで良いのですか?」
ジャックはフキコの目を見詰め返した。こちらの誠意と熱意を伝えようと、目に力を込める。フキコは拒むように目を伏せた。
「ええ。もちろんです。わたしは罪を犯したのですから……」
「本当の事を話していただけませんか」
「嘘は申しておりません」
フキコは淡々と答えた。
「本当にあなたがご主人を手にかけたのだとおっしゃる?」
「はい」
「何故です? 近隣の人々に訊いても、あなたがたは仲の良い夫婦で、ハウスキーパーの――」
「ベスです」
「ええ、ベスに訊いても、殺す動機などみあたらない、どうしても信じられないと言う。
あなたは最初、保釈にも応じようとしなかった。留置所こそがふさわしいとおっしゃって。それを覆したのは、ご主人を弔うためだ。葬儀に立ち会うためだった。それほどあなたはご主人を大切に思っていらした。それなのに、何故……?」
「それは、裁判には、わたしの動機が必要だということでしょうか?」
フキコは目を上げると、冷ややかな声で訊ねた。口元に皮肉が漂う。ジャックの質問を好奇心と見たのか。
内面に立ち入ろうとするジャックに対してフキコが示した拒絶には気付かぬ振りをして、ジャックは頷いた。
「検察は、現場の状況とあなたの自白に矛盾がないということで、あなたの自白を信憑性の高いものであるとみなしました。しかし、予備審問ではより明確な裏付けが必要になります。そこで、当然、犯行動機も問題になってきます。“殺したかったから殺した――”では、理由となりません。裏付けが弱ければ不起訴になる。検察は、今頃あなたの動機を必死に探しているはずです。保険金。あなたの交友関係。ご主人の女性問題――様々な可能性を考慮して、裏付けをとることに躍起になっていることでしょう。あなたは潔く自首された。それは、ありもしない理由であなた自身やご主人の尊厳を貶めるためではないはずです」
ジャックはフキコの表情を窺った。しかし、静かな顔には何の変化も見られない。
「勝手な憶測をあげつらい、それを罪の背景とされることをあなたはお望みですか? 検察側は小さな事実からありもしない、しかし、いかにもそれらしい動機を作り出すことだってやりかねない。あなたは、ご主人が女狂いだったなどと、そんな証言が法廷でなされることを望みますか? もし、そうでなければ、真実を。あなたの本当の動機をお話しください」
本当の動機があるものならば――
ジャックは心の中で付け加えた。
わざと夫の不名誉をチラつかせてフキコを煽った。これでフキコは沈黙するわけにはいかないだろう。
しかし、この小さな婦人に夫を殺す動機はおそらく、ない。でまかせのでっち上げならば、自然と証言に矛盾が生じる。そこを突けばボロが出る。そこから自白の信憑性を追求すれば、フキコは落ちるだろうとジャックは踏んでいた。
自分が殺したと主張したのは、熱心なカトリックだったウォルターの葬儀を教会で執り行ってもらうためか。事実、他殺扱いとなったウォルターの葬儀は教会で行われた。自殺と認定されていれば、教会は葬儀を拒否していただろう。
フキコは癌で余命を宣告されている。
夫のために――
この貞淑な婦人ならば、そうした悲壮な決意もあり得る。
夫の自殺の理由は、おそらくフキコだけが知っている。
なんとしてでも、それを聞き出したい。
「わたしは弁護人として真実が知りたい。罪は罪として、しかし、守るべきものは力の限り守りたいのです。そのためにも、本当の事を教えていただきたい」
食い入るようなジャックの視線を避けて、フキコはまた目を伏せた。固い沈黙。
「ご主人は、長年、カリフォルニアにいる日系の女性に、毎月かなりの額の送金をされていた……その事は、ご存じでしたか?」
フキコの肩がピクリと震える。
「相手の女性については、まだ調べ中ですが、ご主人との関係もおいおい判明するでしょう。検察側は、おそらくこの女性の存在を……」
不意に、フキコが顔を上げ、睨むようにジャックを見詰めた。
「契約、なのです」
「けいやく……?」
ジャックは聞き間違えたのかと思った。意味が飲み込めない。
「ええ、あの人とわたしの約束」
「ご主人を殺すことが……ですか……?」
フキコは頷いた。
「必要であるとおっしゃるのなら、お話ししましょう。少し長くなりますが構いませんか?」
フキコの瞳から、今まで見せていた、太古の湖のような静寂が消え、代わりに陰鬱な濁りが生じている。
その瞳の変化にジャックは愕然とする。
この人は、本当に夫を殺したというのだろうか――?
寸前までの「無罪」という確信がグラリと揺らいだ。
真実はどこにある――?
ジャックは大きく息を吸い、吐き出しながら告げた。
「お願いします」
フキコはカップを手にして、お茶をすすった。ためらうような沈黙がしばらく続いたあと、口を開いた。
「夫は殺人者です。わたしの母を、殺しました……」
フキコは、静かに己の過去を語りだした。
〈5〉
一九四五年というと、今から六十二年も前になりますから、お若い先生はもちろん、先生のご両親ですら生まれていらっしゃらなかったかも知れませんね。
随分古い話だと、お思いでしょうが、わたしと主人の約束を、本当にご理解いただくためには、そこから話を始めなくてはなりません。
その年の八月十五日、大きな戦争が終わったのはご存じでしょう?
そう第二次世界大戦――太平洋戦争です。わたしたちは、大東亜戦争って呼んでましたけれどね。
真珠湾やヒロシマは、先生もお聞きになったことがおありでしょう?
あら、南京虐殺やバターン死の行進もご存じなんですか。そういう事は学校で教わるんですね……
でも、東京大空襲はご存じですか? ひめゆり部隊の悲劇は? 「対馬丸」の沈没は?
勝者の歴史というやつですね。ええ、それを責めるつもりは、わたしにはありません。
日本は負けた。敗者の歴史はいつだって惨めなものだと相場が決まっていますもの――
あの戦争では多くの民間人が犠牲になりました。
ヒロシマで二十万人、ナガサキで十万人、東京大空襲で十万人。
その他にも、横浜空襲、大阪空襲、福島、愛知、兵庫、三重、岐阜、山口……さらにもっともっと、日本全土で空襲があり、合わせて十万人が犠牲になっています。
「ひめゆり部隊」というのは、沖縄の女学生たちの看護部隊です。敗戦の色が濃くなると、彼女らの部隊は解散させられ、守ってくれる者のないまま、米軍に辱められるぐらいならばと、多くの若い娘たちが自決して果てました。
「対馬丸」は沖縄からの疎開船で、多くの学童が乗っていましたが、米軍の魚雷で沈没して一四〇〇人余りが犠牲になりました。
すべて民間人。何の罪もない、女と子供と老人――それを、あなたがたアメリカは見境なく殺したんですよ。
いいえ、先生に謝罪していただこうなんて思っていません。責めるつもりもありません。
アメリカは勝った。勝者で正義ですもの。日本は負けた、敗者で悪なんです。この関係は、再び日本とアメリカが戦争をして日本が勝たない限り永遠に覆りません。もちろん、わたしはそんなことは望んでいませんけれど。日本人のほとんどが、そんなことは望んでいないでしょう。
当時、わたしが住んでいた千葉県でも、たびたび空襲がありました。
敗戦の二ヶ月ちょっと前。六月十日にも大規模な空襲がありました。
B29の編隊がシャラシャラシャラと焼夷弾を降らし――焼夷弾というのはシャラシャラシャラ、シャラシャラシャラって人をバカにしたような音を立てながら降ってくるんですよ――あたり一面が火の海になり、倒れて燃える建物の下敷きになってるおじいさんや、焼夷弾の破片を受けてお腹が破れて、出てきてしまった胎児を必死に抱き締めてる母親や、腕をなくして転げ回る人や、真っ黒焦げの小さな死体。そんなものを沢山見ながら、地面をのたうち回る人たちに救いの手を差し伸べることも出来ないまま、自分の命を保つことだけに必死で、ただひたすら走りました。
十二歳だったわたしは、母と手を繋いで火の手を避けて、他の多くの人々と一緒に海岸の方へ逃げました。しかし、逃げる後ろから今度はP51が低空で飛んできて機銃掃射を始めました。
母は、わたしを庇って弾に当たりました。
母を撃ったP51は旋回してきて、また逃げまどう人たちを的にしていた……
頭から血を流す母の、腕の下から這いずりだしたわたしは、そのP51を睨み付けました。
恨みを込めて。
憎しみを込めて。
呪いを込めて。
近付いてきた飛行機の風防が、ギラリと光り、次の瞬間、中にいる操縦士の顔がはっきりと見えました。
青い瞳、高い鼻、唇の右横にある大きな傷跡。
目が合ったと思うと、男はニヤリと嗤いました。ものすごく嫌な笑い顔。
そのまま撃たれて死んでいたかもしれないというのに、その時のわたしはまったく恐怖を感じていませんでした。感覚が麻痺していたんだと思います。
弾切れだったのか、殺戮に飽きたのか、P51は射撃することなく、わたしの頭上を通り過ぎ、空の彼方に消えてゆきました。
わたしは、あの男の顔を忘れない。母を殺した男の顔を一生忘れないだろうと思いました。
あの瞬間が、わたしの一生を決定付けたのです。
母を失ったわたしは、母の妹に引き取られました。優しい叔母でしたが、あの時代、どこの家庭も生活が楽なはずはなく、なけなしの食べ物を、三人いる従妹たちと分け合わなくてはならない暮らしの中で、わたしは、ずっと肩身の狭い思いをしていました。わたしさえいなければ、叔母は、幼い自分の子供たちに、その分多く御飯を食べさせることが出来たんですから。叔母は優しくしてくれましたが、わたしは叔母の家族の中で、間違いなく邪魔者でした。
お腹が空いて、あまりにも空きすぎて、胃薬すら、ご馳走に見えるような暮らしなんて、先生には想像も出来ないでしょうね。
そんな暮らしは終戦後二年経ってもたいして変わらず、まだ六歳だった従妹の一人は、猫いらず入れのだんごを食べて死にました。口に入れられるものなら、毒でも何でもいいから食べたかった。それくらい餓えていたんです。
そんな暮らしから、叔母の負担をちょっとでも減らそうと、わたしは中学を卒業すると直ぐ家を出て、住み込みで働くことにしました。
わたしは、お金を貯めながら、少しずつ英語の勉強をしました。アメリカに行こうと思っていたのです。
そうです。あの操縦士の顔が忘れられなかったからです。
冷たくなってゆく、母の手の感触が、どうしても忘れられなかったからです。
戦後、日本の将校は戦犯として裁かれました。わたしの父も、シンガポールでC級戦犯として銃殺されたと聞きました。
だから、わたしは期待していたんです。急に聲高に叫ばれ始めた「平和」とか「正義」という言葉を素直に信じたから。
父は確かに軍人として人を殺したのだろう。だから裁かれた。だったら、母を殺したあの男も裁かれるのが正義だろう。
アメリカは正義を遂行する国だと教えられました。だから、あの男を放置しておくはずはない――
まったく子供で、単純だったんですね。
中学を卒業する頃には、アメリカが自軍の兵士を裁くことなど絶対にないっていうことを、ちゃんと知っていましたけど……
戦勝国と敗戦国。その違いは、教科書を墨で塗りつぶした日から嫌というほど味あわされて来ましたもの。
ええ、そうです。
その通り。
誰も裁いてくれないのなら、わたしがこの手で裁こうと――あの男を捜し出して殺そうと、そう思ってわたしは、英語を習い、資金を貯めました。
お金を得るためと英語力を養うために、わたしは横須賀に移り、米軍相手のバーで下働きを始めました。米兵は気前が良く、いいお金になりました。
そういう場所で若い娘が働くということが、何を意味しているかは想像にお任せします。あの頃の事は思い出したくもありません。決して好きでやっていたわけではありません、楽しかったわけでもない……
目的を果たすためだけにわたしは生きていました。そのためには手段を選ばない。なりふり構わずやってきたのは、必ず目的を果たしてみせるという、わたしの深い決意の表れだったのだと思ってください。
そして、ついにアメリカに渡りました。
古い客船の船底にある汚らしい船室で、暑さと船酔いに耐えての長旅の末、わたしはアメリカの土を踏みました。
二十歳の夏。敗戦の日に似た、暑い暑い夏の日でした――
〈6〉
もちろん、多くの米軍兵士の中からたった一人の男を捜し出す当てなどありませんでした。
ただ、わたしは、「仇を捜す」そう思い定めることで、生きる意味を無理やり自分に与えていたんだと思います。
現実には会えるなんて思ってもいませんでした。藁山の中から一本の針を見つけ出すような、そんな奇跡が起こるとは思ってもいませんでした。
それでも、わたしは、どこか自分の憤りを、母の無念を晴らす術を求めていたのだと思います。
アメリカに着いたわたしは、レストランの厨房で働きながら、反戦団体の方々と関わるようになりました。
戦争の証人として、自分が受けた空襲の体験をちょくちょく人前で語るようになりました。
そんな事をしているうちに、わたしの体験と似た体験を持つ兵士がいるという話が人伝手に伝わってきました。
その人は、子供の前で母親らしき女性を殺したことをものすごく後悔されていて、懺悔と贖罪のために、戦争孤児救済のボランティア活動をしつつ、反戦運動にも力を入れているというのです。
わたし自身よりも、周囲の人たちが熱心に動いて、わたしは、その人と会うことになりました。
それは、わたしが望んでいた事でしたし、アメリカへ渡ってきた理由でもありましたが、わたしは正直、怖かった。そのまま、なし崩し的に、美談的に、その人を許してしまうかもしれない自分が。
だから、わたしは、母の死の瞬間を無理やり思い描きました。あの日の悲しみ、あの日の苦しみ、あの日の恨み、あの日の憎しみをもう一度胸に刻み込みました。
絶対に許さない――
深く誓って、手に入れた銃を忍ばせて、その人に会いに行きました。
背の高い金髪の男。
青い目に、高い鼻、唇の右横の大きな傷跡。
間違いなく、あの時の操縦士でした。
母を殺した男でした。
男はウォルター・マグワイアと名乗り、大きな体を縮めるようにして、あの日の謝罪をしました。
ウォルターは、わたしが銃を忍ばしていることに気付いていました。
殺して欲しい――
ウォルターはそう言いました。
いつか人は死ぬものだから、ならば、あなたの手で、あなたの気の済むように――
ためらったわけではありません。でも、直ぐに引き金を引くことが出来ませんでした。
わたしは彼に訊ねました。
どうしてあのとき、嗤ったのか――と。
戦争の罪を憎んで、反戦運動をし、ボランティアをする男と、あの日の嘲るような笑いが、どうしても重ならなかったからです。
人を虫けらのように殺しながら嗤う男――わたしの母を殺した男は、そういう男だったはずです。でも、目の前にいるウォルターは違っていた。確かに似ている。でも、別人なのではないかとわたしは思ったのです。
あれは、自分を嗤ったのです――
ウォルターは、静かな瞳で答えました。
子供から母を奪うような人間にするために、俺の母は、俺を産んだわけではないはずなのに――そう思うと自分が情けなかった。逃げまどう人々をまるで遊びか何かのように、次々と機関銃で撃ち殺しながら、それをどこか楽しんでさえいた自分に嫌気がさした。自分という存在のバカバカしさにあきれ果てた――
わたしは、あの日の操縦士がウォルターなのだとはっきりと確信したのですが、その時は、もう引き金を引けなくなっていました。
母の事を思うと無念で、涙が零れました。
仇をとない自分が悔しくて歯噛みしました。
そんなわたしにウォルターは言いました。
わたしは、あなたの手にかかって死にたい。でも、今、あなたにわたしを殺させれば、あなたは殺人者として罪に問われる。こんなに若いあなたを死刑台に立たせたくない。
どうでしょう? この人生を生き抜いて、死が近付いたとわかった時、その時こそ、あなたの手でわたしを殺してくれませんか?
この人生に、もう思い残す事がないくらい生きたあとに、最後の仕事として、あなたの母君の仇をとるというのは、悪くない話だと思いませんか――?
ウォルターは変な人でした。
いえ、そう言ったら可哀想ですね。
とことん真面目な人だったんです。バカみたいに真面目な人……
彼は、その時が来たら、ちゃんとわたしがあの人を殺すことが出来るようにと、一生わたしの側にいる、わたしと結婚すると言い出しました。
わたしには反対するような理由もなくて、あの人と一緒になりました。
殺し殺されるために一緒にいる――そんな変な夫婦は、世界中でも、わたしたちぐらいじゃないでしょうか……
そして、先月、わたしは、癌で余命三ヶ月の宣告を受けました。
時がきたね――
あの人は、そう言って静かに笑い、わたしは頷きました。
そのために生きてきたんです。
あの人は、自分の銃を取り出し、ここを撃てばいいと、言って、こめかみに当てました。
わたしは、あの人の手の上にそっと手を重ね、お別れを言い、そして、引き金を引きました。
わたしが殺しました。この手で、夫を殺したのです――
〈7〉
フキコ・マグワイアは語り終えると、小さく息を吐き、冷めたカップを手にとって、一口すすった。
ジャックにはかける言葉もなかった。過酷な時代を生き抜いた七十四歳の人生を受け止めるだけの力を、その半分の年月にも満たない平和な人生は持ち合わせていない。
毅然としているように見えたフキコの、皺に埋もれた目が、涙で濡れていることにジャックは気付いた。
「わたしは有罪です。ですから先生、わたしを助けようとなんて、なさらないでください。お願いします……」
フキコは深々と頭を下げた。
「今の話を、法廷で証言することが出来ますか?」
フキコは一瞬の戸惑いののち、頷いた。
「必要であるならば」
ジャックは息を吐き、肩の力を抜いた。
フキコの決意は固い。
実際に引き金を引いたのがウォルターかフキコか。真実を知っているのはフキコだけだ。しかし、彼女にとって、そんな事はどうでもいいのだ。
殺し、殺される――二人の固い意志が、ウォルターを殺した。フキコにとっての真実は、ただそれだけだった。
しかし、ひとつだけ腑に落ちない。
「ずっと恨んできたんですか?」
ジャックは、心に浮かんだ疑問をそのままフキコに向けた。
「それほどまでに長い間、しかも、仮にも夫となった相手を、恨み続けることが出来るものなのですか? そんな契約は反古にして、二人で生涯をまっとうするという道だって、あったはずではないのですか? 何十年もの間、二人の運命を変える気は一度も起こらなかったのですか?」
フキコの顔が微かにこわばる。
「狂気の中にいたんです。わたしの六十年間は地獄でした。他の誰にもわかりはしない。いくら言葉で説明しても、先生には理解出来ないと思います……」
キッパリと突っぱねられた。フキコは感情を閉ざしている。それ以上詮索するなと瞳が物語っていた。
フキコに無罪を主張させることは、もはや不可能だと悟った。
このあとジャックに出来る事は、せいぜい、年老いたフキコにかかる量刑を軽減させることぐらいか。
そもそもフキコの自白がある。司法取引に持ち込むのは造作もない。
一両日中にもう一度連絡をし、予備審問の戦法を説明すると告げて、ジャックはマグワイア家を辞した。
玄関を出ると、頭の中で、フキコに有利な結果を導き出すための方策をあれこれ検討しながら、煉瓦の小道を車の方へ向かう。
車のドアに手をかけたところで、胸ポケットの携帯が振動した。画面の表示を見ると、事務所のリック・ソローからだった。事務員であるリックの仕事は、依頼の受付から、弁護人の振り当て、弁護に必要な情報の収集や整理の手伝い、警察や裁判所などの関係組織への連絡や調整まで多岐に亘る。
車の屋根に片手をかけて、携帯を耳に当てる。
「キャメロンだ」
「やあ、ジャック、今どこだ」
チラリと白い建物へ目を向ける。カーテンが風になびいている。窓際にフキコの姿はなかったが、念のため声をひそめる。
「クライアントの家を出るところだ」
「ミセス・マグワイアの所か?」
「そうだ」
「丁度良いというか……その件なんだが、ちょっとばかり、ねじれたことになりそうだ」
「ねじれた……?」
言い回しに嫌なものを感じる。
「検察側の情報が、たまたま転がり込んできたんだ。あちらさん、ちょっとしたネタを手に入れたらしい」
「確かな情報か?」
「ソースはちょっと内緒だが、あちらさんに極めて近い“信頼出来る筋”とだけ言っとくよ」
「それで?」
「カリフォルニアに、トオル・オクツという男がいてね。三十七歳。妻と二人の子持ちで、小さな商店を経営している。その男が、丁度十日前から連絡が途絶え、行方不明らしい」
「それが……?」
何か問題があるのかといぶかっていると、リックは少し面白がっているような声で続けた。
「その男の母親が、半年前に亡くなっているんだが、ユキエ・オクツ……ミスタ・マグワイアが送金していた女性だとわかった」
「え……?」
「失踪届が出されたことで、トオル・オクツとミセス・マグワイアとの関係がわかった。トオルの女房が言っていたというんだ。トオルは母の従姉であるフキコ・マグワイアに会いに行ったんだ、とね」
十日前――
その日付の符合に背中に嫌なものが走る。
ジャックは眉を寄せ、その嫌な予感めいたものを振り落とすように姿勢を変えると、リックの言葉に耳を澄ました。
「トオルの女房の話では、送金はウォルター名義だったが、実際に金を送っていたのは、どうやら旦那じゃなくて、フキコの方だったらしい。旦那の金を旦那に内緒で送っていたってことかもしれん。まあ、とにかく、ミセス・マグワイアはトオルと深い関わりがあったってことだ」
その情報が意味するものを読み取ろうと、目一杯頭を回転させる。
カリフォルニアに住む女性への、送金の話を持ち出した時の、慌てて遮るようなフキコの態度を思い出し、嫌な予感が強まった。
カリフォルニアの女性への送金は三ヶ月前から途絶えているはずだった。
そして、その息子の来訪……
「そのトオルという男がフキコを訪ねたというのならば、当然フキコに彼の消息を問い合わせてるはずだな?」
「それがな、ミセス・マグワイアは、トオルは訪ねてきていないと言いはっているらしい。近隣でのトオルの目撃情報もない。
しかし、丁度その頃、そっちの町に向かうバスに乗った小柄な日本人らしき男性が目撃されている。男がどこで降りたかわからんし、証拠としては不十分だが、トオル・オクツは、捜索願いによれば、身長一六四センチ。体重は五十キロそこそこのかなりの痩せ型だ。日本人の体型が普通どれぐらいなのかは知らないが、ぴったり特徴が当てはまる男がそうそういるとも思えない」
小柄で、痩せ型……
その事実に、胃が締め付けられる。
ジャックは、車の屋根越しに、整然と刈り込まれた芝生の奥の、不似合いな土の露出と、大きなコンポストを見た。その一角だけ、空気が重く淀んでいるように見えた。
気のせいだ――
自分に言い聞かす。
そう。そんな事は、単なる空想に過ぎない。タチの悪い妄想だ――
「検察は、“トオルは訪ねてきていない”というフキコの証言を疑っている。ウォルター・マグワイアの殺害は、フキコによる単独の犯行ではなく、トオルが関わっているのではないかと睨んでるらしい。
まあ、ここからは俺の推測だが、検察側もこんなシナリオを思い描いてるんじゃないかと思う。
つまり、フキコがミスタ・マグワイアに内緒でトオルの母親名義でオクツ家に対して大金を送っていた。それがバレて、トラブった。
そのトラブルはおそらくフキコから、オクツ家宛の送金がストップした頃に起こったんだろう。
そして、今から十日前、問題が解決せず、怒ったミスタ・マグワイアがトオルを呼び出したか、もしくは、送金が途絶えたことでトオルがフキコに督促しようとしてマグワイア家を訪れた。
話し合いの最中に、トオルもしくはフキコが、ミスタ・マグワイアを殺害。
争った形跡がなかったのは、それほど不思議じゃない。たとえばフキコが話しかけてる隙に、トオルが不意を突いて銃を向ける。銃口を見せられたら、普通、抵抗なんてしやしない。まして老人だ。両手を挙げて、促されるままに大人しく座るだろう。そこを、バン! だ。
旦那の手の硝煙反応は偽装――つまり、家の中を探せば、どこかにもうひとつ弾丸が見つかるかもしれない。
しかし、偽装など鑑識の捜索で簡単に見破られるかもしれないと二人は不安になった。そこで、フキコが犯人役を買って出ることになった。老人だ。自首して、素直に自白すれば量刑だってそう過酷にはなるまい。
日本人ってヤツは、同族親族の結束が強いんだってな。旦那よりも、実家の血縁を大切にしたとしても不思議はないさ。一方は女房子供もいる働き盛り。もう一方は癌で余命三ヶ月。犠牲になるのはどちらがいいか、ってことになりゃあ、そりゃあなぁ……」
「ああ……」
曖昧な相づちを打ちながら、しかし、ジャックはまったく別のシナリオを頭に思い描いていた。
「そこまで工作しても、まだ不安で、トオルは逃亡を図ったってとこだろうな」
「なるほど……で? 他には?」
「情報はそれだけだ。推測部分が多すぎるが、送金とオクツの失踪は確かだから、何も関係ないと考える方が不自然じゃないか? 検察は、今、トオルの行方を含め、裏付けをとるのに躍起になってることだろう」
「ありがとう。とても参考になった」
ジャックは、携帯を切ると、黒いコンポストを見詰めた。
開け放たれた窓。
強い線香のにおい。
拭いきれない床のしみ。
フキコの肩の震え。
陰鬱な瞳――
頭に浮かんだ疑惑が、じわじわと確信に変わってゆく。
携帯を胸ポケットにしまいながら、芝生の庭を横切り、黒いコンポストに近付く。
死ぬ一週間前から地面を掘り返していたという。
花を植えるためだったという。
そうなのだろう。
それは本当だったのだろう。
余命を宣告された妻に、庭一面に咲き誇る花を見せてやりたかった。
それは、ウォルターの妻への思いやりから出たものだったのだろう。
フキコは花好きに違いない。
煉瓦の小道の左右に並ぶプランターはフキコが世話してるのだろう。夫の死後も確実に手入れされている。
妻に花畑をプレゼントしようとしていた男が、その途中で、フキコが言うように「時がきたね――」などと言い残して死ぬとは思えない。
ウォルターが死ななければならなかったとしたら……
床の赤黒いしみが目に浮かぶ。
木目に染み込んで、拭っても拭ってもとれなかったであろうしみ。
確かフキコは、ハウスキーパーに付き添われて自首してきたのだった。つまり、あの日は、週に三度のハウスキーパーが来る日だったわけだ。
黒いコンポストに目を落とす。
ウォルターが死の前日に買ってきたという、家の雰囲気にまるでそぐわない異物。小柄な人間なら一人入るに充分な大きさの容器。
他の場所に設置するために、とりあえずここに置いたのならば、地面の上にぽんと置いただけのはずだ。しかし、目の前のコンポストは、下部が地面の中に埋められていて、しっかりと“設置”されている。
前日に買ってきた――
ウォルターが死んだのは、その翌日の明け方五時。人が訪ねてくるような時間ではない。
トオル・オクツは、前日マグワイア家を訪ねて来たのか……? そのままマグワイア家に泊まった? そして早朝五時にミスタ・マグワイアを殺害し、フキコが自首して出る午前八時半までの間に逃亡した?
一晩中話をし、いがみ合った末の殺害?
あり得ないわけではないが、納得はいかない。そう考えるよりも、むしろ――
開け放たれたマグワイア家の窓から、あの濃厚な線香の薫りが流れ出て、庭にまで甘いにおいが漂っている。
ジャックは黒いコンポストの蓋に手をかけた。
「先生」
不意に背後で声がした。
振り向くと、青ざめた顔のフキコが立っていた。
「どうぞ、もう一度中へ……」
ジャックはコンポストの蓋にかけた手を離し、フキコのあとに続いた。
〈8〉
リビングに踏み入れると足を止め、ソファーの周囲に散らばる黒ずんだしみを、立ったまま見下ろす。
「拭き取れなかった汚れを隠すためだったんですか?」
まるでジャックの声が聞こえなかったかのように、黙ったまま夫の写真に近付いたフキコは、その前に置いてある箱から線香を一本とだし、ライターで火を付けると香炉に立てかけた。
「その線香は、クリスチャンだったウォルターのためではなく、あなたの従妹の息子であるトオルのためのものですか? ブッディストであったトオルの?」
フキコは、カーテンがなびく窓の外を見た。その視線は、間違いなく、あの黒いコンポストの方に向けられている。
「どこまで、お知りになったんです?」
「あなたは、トオル・オクツの母親宛に毎月多額の金を送っていた。三ヶ月前、その送金が途絶えた。十日前、トオル・オクツは、あなたに合うと言って家を出て、そのまま行方不明になっている……わたしが知らされたのは、そこまでです」
ジャックはフキコの後ろ姿を見詰める。
「十日前――つまり、あなたのご主人が亡くなった頃、トオル・オクツは姿を消しているわけです」
腹の上で握り合わされたフキコの手が震えている。
ジャックは窓の外を見た。
異質な黒い容器が嫌でも目に付く。
ウォルター・マグワイアは、一九〇センチはある大柄でガッチリした男だったらしい。老齢とはいえ、一六四センチ、五十キロ足らずの男を抱きかかえて運ぶくらい可能ではなかろうか。
ジャックは掘り返された土を見た。
花壇を作るために一週間前から掘られていた地面は、ある程度の深さまでは柔らかくなっていたことだろう。それでも、人ひとり埋めることが出来る深さにまでさらに掘り下げるのは、年老いた二人にはムリだったろう。
深く掘り下げるのがムリならば、どうするか?
「彼は――トオル・オクツは、あそこにいるのですか?」
すでに掘り返されて柔らかくなった土を容器に入れるのは、そう困難な作業ではなかったはずだ。
鑑識はコンポストも調べただろう。しかし、蓋を開けても、おそらく見えるのは土だけだ。フキコが自白している以上、中身を掘り返すことまで必要とはしなかったに違いない。
しばしの沈黙のあと、フキコは、深く長い溜め息を吐いた。
「先生、どうぞお座りください」
ジャックはその言葉に従って、先ほどと同じ場所に腰を下ろす。
フキコも、まったく同じ場所――ウォルター・マグワイアが死んだ、まさにその場所――に腰を下ろすと、やはり、先ほどと同じように、カップにグリーンティーを注いでジャックに勧めた。
しかし、今度は口に運ぶ気にはなれなかった。
「何故なんです……?」
質問を口にする時胸が痛んだ。本当に、どうしてなんだと、歯がゆい想いがする。
「わたしは、臆病者なのです……とてつもなく小心で……だから、すべてから逃げようとしてしまう……」
フキコは消え入りそうな声で言った。
「あの日も――母が死んだあの日も、わたしは、P51を睨み付けてなんかいやしない……逃げ出そうと、母の体の下から這い出して、戻ってきた戦闘機を見て足が竦んだ……わたしは、ただ、怯えていただけだったんです……
わたしは、怖くて日本から逃げ出した。母を殺した兵士への復讐なんて、わたしには出来っこなかった。ただ、逃げたんです。叔母の目から……」
テーブルの端で組まれたフキコの指が震えている。
「わたしは、罪悪感から、ずっと日本の叔母に送金していました。夫には、育ててもらった恩を返すためだと言い、夫はそれを信じて、多額のお金を毎月気持ちよく出してくれました。
叔母が亡くなってからは、叔母と暮らしていた従妹のゆきゑに同額を送り続けました。
もう一人の従妹は、わたしが中学を出た頃、病気で死んでいましたから。
夫を失ったゆきゑが、カリフォルニアで日本食のレストランを開いていた一人息子を頼ってこちらに渡ってきてからも、わたしはずっと送金し続けました。
お金で罪悪感が晴れることは、決してありませんでしたが、せめて、それくらいしていなければ、わたしは罪の意識に押しつぶされていたでしょう。しかし、ゆきゑも、すでに半年前に亡くなっていたことを知りました。わたしは送金する意味を失いました。そこで、お金を送るのをやめた。自分も歳をとり、もう罪の意識から解放されてもいいだろうと、甘い考えを抱いたのです。でも、神様は許してくださらなかった……」
フキコは、視線を窓の外へと飛ばした。
「トオルは、我が家を訪ねてきました。そしてわたしを脅したのです。“母から聞いた。あんたがやった事をな”――と」
フキコは口を閉ざした。
長い沈黙。
フキコの口は再び開きそうにない。だが、ここで話を終わらせるわけにはいかなかった。
「ミスタ・オクツは、あなたのどんな弱みを握っていたのです?」
ジャックの質問に、フキコは深い溜め息を吐いた。
「わたしは、ゆきゑに、口止めのために送金していたわけじゃありません。ゆきゑがあの事を知っていることすら知りませんでした。でも、ゆきゑはずっと、わたしの送金の理由を口止めのためだと思っていたようです。そして、それを息子の透に話した。
そう――わたしは、人殺しなんです。六十年前、ゆきゑの妹を殺しました……」
フキコは、組んだ両手に、額を押しつけた。肩が震えている。
「いつでも餓えていたんです。食べ物のことで頭がいっぱいでした。一人でも減れば、少しでも余計に食べられるのに。そう思いました。餓えがわたしを狂わせたのです。
でも、倒れてもがき苦しむ従妹を見て、わたしは急に激しい罪悪感におそわれました。
何て事をしてしまったんだろう――
悲嘆にくれる叔母の姿が罪悪感を倍増させました。叔母はとっても親切でした。優しかった。苦しい暮らしの中でも、わたしに嫌味のひとつも言うことがなかった。実の子と同じように可愛がってくれた。それなのに、わたしは、その叔母の大切なものを奪ってしまった――」
最後の方は声が掠れていた。
フキコは、しばらく、声を押し殺して泣いていた。
涙を拭い、再び口を開く。
「ゆきゑは、大衆食堂の裏口の脇、どぶ板の隅に仕掛けてあったネズミ取り用の毒だんごを、わたしが盗んだところを見ていたようです。その直後、妹が死に、わたしが殺したのだと直ぐに思ったそうです。どうして、それを直ぐ大人に話さなかったのか。ゆきゑの心理はわかりませんが、もしかしたら、わたしと同じように餓えていた彼女もやはり、わずかな食べ物を奪い合う相手が減ったことに微かな喜びを感じ、その喜びが本物だっただけに、罪悪感を抱いたのかも知れません。とにかく、彼女は胸に秘めたまま、死の直前に息子にもらすまで、ずっと秘密にしてきました。
透は、経営する日本食レストランの資金繰りに困っており、わたしからの送金が途絶えたことでかなり追い詰められていたようです。ゆきゑから聞いていたわたしの秘密をネタに、わたしを強請ろうと、訪ねてきました。
わたしは小心者でした。六十年間、ずっと罪を隠し、罪に怯えてきた……
でも、癌を宣告され、もう命への執着も持ちようがありません。六十年前の罪をあばくと言われても、それはそれで、かえって良いかもしれないと、本気で思いました。わたし自身に財産があれば、透にあげていたでしょう。でも、これ以上、夫にだけは迷惑をかけたくなかった。だから、透の無心はキッパリと断りました。
透はよっぽど追い詰められていたのでしょう。銃を取り出し、わたしを脅しました。そこへ夫が帰って来て……」
フキコは痛みを堪えるように胸を押さえた。大きく息を吸い、絞り出すように言った。
「もみ合いになり、銃を奪った夫は、怒りのままに透を撃ってしまいました……」
フキコは言葉を切り、苦しそうに歯の隙間から呻き声をもらした。が、直ぐにまた大きく息を吸い、話を続けた。
「しばらく二人で、呆然と、ソファーにもたれる透の死体を見下ろしていました。
夫が言いました。
“この男は今日、ここへは訪ねてきていない”
死体をどうするか散々思案した末に、夫は車を出して、あのコンポストを買ってきました。
夜になるのを待って、透を庭に運び、コンポストを上からかぶせ、土で埋めました。そうです。先生が想像なさった通り、透はあそこにいます。死後硬直の体を無理やり折り曲げた時の、バキバキという音が、いまだに耳から離れません。
透を埋めて戻ってきたわたしたちは、ソファーと床を拭きました。でも、いくら拭いても、絨毯と古い床の木目に染み込んだ赤黒い痕は消えませんでした。まるで、透の恨みがそのまま染みついてしまったように。
翌朝八時には、ベスが来て、絨毯と床に残った広範囲のしみに気付いてしまうでしょう。その時の言い訳をわたしたちは思いつきませんでした……もう、疲れ果てて、考える気力もなかったのです」
「それでご主人は自殺を……?」
フキコは頷いた。
「すべて自分が責任を負う――そう言って遺書を書き、透が死んだ場所に腰をかけて、銃をこめかみに当てました。夫は、わたしに引き金を引けと言いました。約束だ。俺を殺せ――
でも、わたしには夫を殺すことが出来ませんでした。銃を持つあの人の手に手を添えたものの、指に力を入れることが出来なかった。あの人は苦笑して自分で引き金を引いてしまいました。“サヨナラ”と日本語で言い残して……」
フキコは力なく肩を落とすと、深い溜め息を吐いた。
「その遺書はどこです?」
「燃やしました」
「どうしてです?」
つい、詰問調になってしまう。その遺書さえあれば、自殺であることを証明出来たのに……!
フキコは顔を上げて、ジャックを見詰めた。その瞳は、最初に見た、あの太古の湖のような深い静けさをたたえていた。
「先生、わたしは夫を殺しました――」
ジャックは首を振る。
「ご主人は自殺だ――と、たった今、あなたが、おっしゃったではありませんか……」
「わたしたちには他に何もなかったんです。“殺し、殺される”――それだけが、わたしたちの絆だったんです……」
フキコは唇に苦笑を滲ませた。
「あの人は、とことん真面目な人だったんですよ。結婚し、一緒に暮らしていながら、あの人は一度もわたしに触れようとしませんでした。情がうつれば、殺せなくなるだろうと言って――
わたしたちには、他に何もなかったんです。だから、わたしは、夫を殺しさなきゃいけなかった。こんな形で、わたしたちの絆を断ち切っちゃいけなかったんです。それなのに、わたしは臆病すぎて、引き金を引けなかった……でも……いいえ、だからこそ、お願いします。せめて……」
テーブルに額をこすりつけるように頭を下げるフキコに、ジャックは冷たい声で答えた。
「あなたの罪は、死体遺棄と自殺幇助……」
「どうして……?」
顔を上げ、縋るような目で見るフキコに、ジャックは静かに言った。
「ミスタ・オクツを、そのままには出来ないでしょう? 彼の事を警察に知らせなければ。しかし、それをすれば、今、あなたが語った話が必要になります。わたしは法に仕えるものとして、いや、人間として、知ってしまった以上、彼の死骸をそのまま放置することは出来ません」
フキコの顔に落胆の色が浮かぶ。失望に顔が青ざめる。
「主人が透を殺した。唯一の血縁を殺されて恨みを抱いたわたしが、夫に銃を向け、引き金を引いた……それでも、いいはずです。ねぇ、先生。違いますか? 真実など、どうでもいいじゃありませんか。あの戦争の時だって、そうでした。裁かれるものさえいればそれで良かった。父に罪があったかどうかなんて、どうでもよかったはずです。戦犯を裁いたという事実だけが必要だったんじゃないですか。世の中は、そうやって、真実なんかとは無関係のところで動いていくものじゃないですか! ほんのちょっと、先生が、わたしに罪を与えてくだされば、わたしは、あの人との絆を断ち切ることなく、人生を終えることが出来るんです!」
フキコが隠していた、仮面の下の顔を、すべてあばいたのだと思った。その必死に訴える顔を――感情を剥き出しにした顔を――見詰めながらジャックは静かに告げた。
「ご主人は、あなたを守りたかったのだと思います」
フキコは、え? という顔をして、乗り出していた体を引いた。
「本当は、ご主人はあなたに“引き金を引け”など、一言もおっしゃらなかった……
違いますか?」
何となく、そんな気がした。確証があったわけではない。しかし、妻のために庭中を花畑にしようとした男が、本当にそんな事を望んだとは思えなかった。
フキコは驚いたように両目を大きく見開いた。
「罪は全部自分が被り、あなたには、静かに人生の幕を閉じて欲しかった……それが、あなたの母を殺し、あなたの人生を歪めてしまったことへの罪滅ぼしだったのではないでしょうか?
ご主人は、トオルの殺害を隠蔽するために自殺までした。その上、たとえこの偽装があばかれ、トオルの殺害が公になったとしても、あなたには一切害が及ばないような文面で、遺書を書いておいたのではありませんか?
すべては、あなたを守るため。“あなたを守る”ことが、最初からのご主人の決意だったのではないでしょうか? だからご主人は、全身全霊をかけてあなたを守り通してきた。“殺し、殺される”ではなく、“守り、守られる”。それこそが、ご主人の愛であり、お二人の絆だったのでは……?」
フキコの目が、見る見る涙に覆われる。
「夫は、遺書に書いていました。妻は何も悪くない。妻は何も知らない。妻には関わりない。妻は何の関係もない。妻は関係ない。関係ない。関係ない。関係ない……」
フキコは両手で顔を覆い、声を上げて泣きだした。
「警察を呼びます……いいですね……?」
フキコが小さく頷くのを見て、ジャックは携帯を取り出した。
〈9〉
鑑識の捜査で、トオルの遺体が発見された。
ジャックは、ずっとフキコに付き添い、疲労しているフキコに代わって、いきさつを説明した。
フキコの身柄を警察に任せて、マグワイア家を出たのは午後二時を過ぎていた。
腹は減っていなかったが、ファストフードの店に立ち寄り、コーヒーで流し込むようにして、無理やり腹に詰め込む。
一旦家へ戻り、事務所に電話して、所長に成り行きをざっと説明したあと、携帯のアラームをセットして、仮眠をとった。
五時過ぎに起きだし、目覚ましにコーヒーを飲んでから、車を出した。
アンジェリカが行きつけの精神科は、小綺麗なオフィスビルの二階にある。
アンジェリカの担当医は、三十代半ばぐらい。短いブラウンの髪がよく似合う、思いの外魅力的な女性だった。
ジャックは、担当医に対する怒りを巧妙にかわされてしまった気がした。自分の事を男女差別主義者ではないと思っていたが、女性に対し、男を相手にするのと同じように怒りをぶちまけるようなことは、男としてやはり出来ない。
何となく、医者イコール男という頭があった。担当医への怒りは、そもそもそこに原因があったのかもしれない。
自分以上にアンジェリカを理解している男――
そんなヤツの存在は許せない。
醜い嫉妬だ。
しかし、彼女が精神のバランスを崩してしまったそもそもの原因を考えれば、男性医師にかかるはずはないと、直ぐ察しが付く。
そんな事にも頭が回っていなかった自分。
アンジェリカの事を想っていると言いながら、本当に彼女の事を理解しようとしてきたのだろうか?
自分の迂闊さ、脳天気さ、自分勝手さに、気持ちが落ち込んで行く。
暗い気分のまま、名前を名乗り、握手を交わし、名刺を渡す。
女医の表情は硬かった。おそらく、処方ミスを追求されることを怖れているのだろう。
ナンシー・クラークと名乗った女医は、しばらくじっとジャックの名刺に視線を落としていたが、肩の力を抜くと溜め息と同時に呟いた。
「ああ、ジャック! あなたが、実在していたなんて……」
「どういう意味です?」
ムッとして訪ねると、ナンシーは、真っ直ぐにジャックを見詰めて言った。
「その前に、ひとつお訊きしたわ。
アンジェリカが自殺未遂をして、ジャック・キャメロンと名乗る弁護士がわたしに会いたいと言ってきた。院長や事務方は、処方ミスで訴えるためじゃないかと戦々恐々だけれど、わたしは、彼の来訪目的は他にあるんじゃないかと思った……
ジャック、あなたは、弁護士として、ここへ来たの? それとも、アンジェリカを愛する男として?」
力強い瞳で睨まれ、彼女は嘘や誤魔化しが通用しない相手であることを知った。策を弄したり、強権的に無理やり情報を聞き出そうとしたりしても、彼女は余計口を閉ざすに違いない。
ジャックは腹をくくった。自分をさらけ出す恐怖を飲み込み、アンジェリカのためだけを考えることにした。
「彼女の恋人――として来たつもりです。でも、自信がありません。彼女が俺の事をどう見ていたのかは……」
女医の眼光が緩む。
「俺がお訊きしたいのは、彼女の自殺の理由です……つまり、俺が自殺の原因だったんじゃないかと……俺は、彼女に対して、何をどうしてあげればよかったのか……」
ナンシーは小さく頷くと、瞳に慈愛の光をたたえて言った。
「アンジェリカは、いつもあなたの事ばかりを話していたわ。弁護士で、賢くて、紳士的で、優しくて……あなたがどれだけステキな人であるか、どれほど魅力的な男性か、言葉を尽くして語ってくれた。確かに、あなたは、アンジェリカの言うように、ステキな人だわ」
目を細めて微笑むナンシーに、ジャックは赤くなる。
「でも、あまりにも完璧な男でありすぎて、わたしは、あなたの実在が信じられなかった。だいたい、ジャックなんて名前!」
ナンシーに睨まれ、ジャックは戸惑う。
「わたしは、彼女に勧めたわ。彼氏も一緒に連れてきてって。病気を治す手伝いを、是非とも一緒にしてもらいたいって。でも、アンジェリカは嫌がった。あなたに迷惑はかけられないからと。頑に拒まれて、わたしは、ジャックというのは、アンジェリカの妄想の中の人物だと思った。この世には実在しない、夢に出てくる理想の男――」
ナンシーは、手でソファーを指し示し、目で座るように合図すると、自分は事務机の端に軽く腰を乗せた。
「だって、一年も付き合っていて、手すら握らない男なんて、信じろっていう方がムリでしょう?」
ジャックはその言葉に苛立った。
「彼女は、病気だ。しかも、あなたの所に通わなくてはならないような種類の。そうなった原因は、ドクター、あなたもご存じでしょう?」
「ええ」
ナンシーは頷いた。
「でも、そのあなたの優しさが、アンジェリカを苦しめた……」
「俺が……? 彼女を苦しめた……?」
ナンシーの言葉にジャックは激しく動揺する。自分で思うのと、人に指摘されるのとではショックが違う。
ジャックは、アンジェリカを守ることだけを考えてきた。それなのに、やはり、彼女にとっては、自分の存在自体が苦しみ元凶だったのか……
やはり、そうだったのだと思い知らされ、胸が痛む。
「アンジェリカは、あなたに愛されたがっていたわ。彼女はあなたと会うたびに、いつも悩んで、傷付いていた。“わたしはジャックに愛されていないんじゃないか”“ジャックはわたしの体を穢いと思っているのかもしれない”“わたしは、やっぱりジャックに愛される資格がない”――」
ジャックは愕然とした。女医の言葉は予想外だった。アンジェリカは、ジャックの存在を怖れ、疎み、側にいることで苦痛を感じていたのではなかったのか――
「彼女は、そんな事は、一言も……」
「自分から誘うことも出来ないくらい怯えていたの。“誘ったことでジャックが離れていってしまったらどうしよう”“嫌われたらどうしよう”“二度と会ってくれなかったらどうしよう”」
ジャックはハッと気が付いた。
「アンジェリカが、部屋の鍵をくれたのは……」
ナンシーは溜め息を吐いた。
「わたしが勧めたの。鍵を渡すだけ。誘うわけじゃない。それなら出来るでしょう――って。
彼女に暗示をかけた。自信を取り戻せるように。まさか、それが裏目になるとは思わずに」
ジャックは、鍵をくれた時アンジェリカが一瞬見せた、挑むような瞳を思い出した。
あれは、なけなしの勇気だったのか。想いのすべてを瞳に込めて俺に訴えた?
鈍感な俺は、それを踏みにじってしまったのか――
「言い訳にしかならないけれど、わたしは、ジャックというのはアンジェリカの頭の中にだけいる男だと思っていた。彼女は、あなたが受け入れてくれないことで、日に日に落ち込んでいった。ほとんど限界に近かった。鍵をキーワードに、妄想の中だったとしても、彼氏とうまくいきさえすれば、彼女は自信を取り戻せるはずだった」
「俺は……」
ジャックは、助けを求めて精神科医を見た。
「どうすればいい――?」
「抱き締めてあげて」
女医は、また溜め息を吐き、寂しそうに答えた。
「もし、彼女の意識が戻ったならば。奇跡が起きたならば、彼女の存在を抱き締めてあげて……アンジェリカは、身も心も――心だけではなく、身も心も――全部ひっくるめた、彼女の命のすべてで、あなたを愛し、求めていた……」
「ドクター、俺には、彼女を愛する資格があるんだろうか……?」
結局、彼女を追い詰めたのは自分だ。そして、ついには自殺にまで追い込んでしまった。いまさら彼女を愛する資格があるとは思えなかった。
ジャックは自分の両手を見る。
彼女に死を選ばせたのは――俺だ。
不意に、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。
きずな――
フキコは言った。“殺し、殺される”それだけが、決して体を求めようとしなかった夫と自分を結ぶ絆だったのだ――と。
アンジェリカの想いは、彼女の想いと通ずるところがあったのではないか。
フキコには“殺し、殺される”という絆がはっきりと見えていてた。しかし、アンジェリカは――
アンジェリカとジャックの間には、はっきりと掴みとることの出来る絆がひとつもない。
アンジェリカには、ジャックの想いも、いつ消えてしまうとも限らない、はかない不安定なものとしか思えなかったに違いない。
気紛れで消えてゆく、いっときの親切ごっこ。
だからアンジェリカは、もっと確かな絆を求めたのか。
殺される者と、殺す者――
死ぬ者と、死に追い込んだ者――
そんな究極の絆を。自ら命を絶つことによって確かな形にしようとしたのか。
ナンシーは、机の端から体を引き離し、ジャックに近付いてきた。
俯くジャックの肩にそっと手を乗せる。
「彼女には、あなたしかいない。それ以上、どんな資格が必要?」
胸が塞がり、涙が溢れる。
アンジェリカを、思いっきり抱き締めたいと思った。
*
病院まで車を飛ばす。
アンジェリカは集中治療室を出て、病棟の個室に移されていた。
容態は安定しているという。あとは意識が戻るのを待つだけだと医者は言ったが、それがいつなのか、意識が戻る時が本当に来るのかについては、何も言わなかった。
医師の許可を得て、ジャックは面会謝絶の札がかかる部屋に入った。
酸素吸入器は外されていたが、点滴と、いくつかの電極のコードが体に繋がれていた。
青白いアンジェリカの顔を見るだけで、胸が痛くなる。
ゴメン――
心の中で精一杯の謝罪をし、アンジェリカの手にそっと触れる。
壊れ物を扱うように、そっと優しく両手で包み込む。
「アンジェリカ……」
顔を近付け、耳元で囁く。
名前を口にしたことで、感情が止めどもなく溢れ出る。
アンジェリカ、愛してる――
愛してる――
愛してる――
手に自然と力が入る。
「アンジェリカ、愛してる――!」
ジャックの言葉に、アンジェリカの瞼がピクリと動いた。
ハッとして、ジャックは、愛しい人の名を連呼した。
ゆっくりと瞼が開き、緑色の瞳が、ぼんやりとジャックの方へ向けられた。
「アンジェリカ!!」
ジャックは、想いのたけを込めて、彼女を抱き締めた。
「ジャック……?」
戸惑ったようなアンジェリカの声がした。
彼女の頬に自分の頬を押しつける。涙が自分の顔と彼女の顔を濡らす。肌と肌の温もりが解け合う。
彼女の細い両腕が、おずおずと自分の背中に回されるのを感じた。
ジャックは、この温もりを絶対に手離すものかと、心に強く誓った。
了