その瞳が見詰めるものは
南方南
ノベルフェスタ142 「帝王賞」
まとわりつく熱。
内耳に反響し、頭蓋を震わせ、思考を奪い去る蝉の大合唱。
僕は足を止め、開襟シャツの襟をつまんでパタパタと揺らし、申し訳程度の風を胸元に送った。
宇宙の暗さを映す蒼い空。濃い緑の陰影。樹木の息吹を感じさせる微風。
車一台ようやく通れる道は、所々木の根でアスファルトが盛り上がり、ひび割れからは雑草が勢いよく伸びている。
道の片側は雑木林で、シオカラトンボがツイッと現れては忙しなく羽を動かしながら再び緑の深みへと消え、トカゲが虹色の尾を光らせて下草の茂みに潜り込んでゆく。
反対側にはよく手入れされた生け垣が続いている。緑に抱かれてたたずむ家々は、どれもしっとりと古びて、郷愁に似た慕わしさと、死体が持つよそよそしさに似たものとを兼ね備えていた。
不意に風が途絶え、蝉時雨が遠ざかる。
時が停止したかのような静寂の中、前方から蹄の音と、馬のいななき、馬を駆る人の声が聞こえてきた。
艶やかな黒髪をなびかせ、真っ赤な着物姿の姫君が、美々しく飾り立てた馬を駆ってくる。その背後に狩衣の武士の一団が続く。
姫君は、凛々しくも美しい顔立ちをしていた。深窓の令嬢の青白い燐光を放つような美しさではなく、馬を駆って山野を駆ける野生児が持つ天然の美しさ。その瞳には、運命を切り開くのは己自身であることを知っている者だけが持つ力強い光が宿っている。
姫君と従者である武士の集団は、僕の体をすり抜け、背後へと消えていった。
空気が動き、光が増し、気温が一気に戻り、蝉時雨が耳を打つ。
振り向いて、騎馬の一団が去った方を見る。そこには、何の変哲もないアスファルトの道が続いているだけだった。
僕は、息を吐き出し、額の汗を拭った。
神社や仏閣、ビルの谷間にひっそりと残った稲荷社や、道の分かれ目に取り残されたすり減り傾き苔むした庚申塔、そんなものの側では、しばしば出会う現象だったが、古の時を閉じこめようと、〈開発〉や〈変化〉を締め出したこの町では、それがありとあらゆる場所で気ままに起こる。
かつて武家政権の都だったこの土地が、どうしても好きになれない。
同様に、八月という月も嫌いだった。
八月の六日、九日、十五日と、母は決まってテレビから響く鐘やサイレンの音に合わせて黙祷を捧げていた。その儀式は毎年律儀に繰り返された。
どうしてそんなことをするのかと聞けば、そういうものだという曖昧な答えしか返ってこなかった。
子供の頃からずっとそうしてきたから――
母は無邪気で単純で生真面目だった。
戦争で近親者を失っているわけでもなく、時代によって刷り込まれた反戦思想に忠実だっただけだ。
母の平和主義に罪はない。しかし、幼い頃の僕は、真摯に祈る母の隣に座って、恐怖に震えていた。
祈りの傍らには、いつだって〈彼等〉が現れる。
ボロボロの皮膚を引き摺りながら、虚ろな目で助けを求めるように手を差し伸べてくる。
腐った傷口から蛆をこぼしながら、腕のない兵士が〈ムンクの叫び〉のような顔でこちらへ迫ってくる。
葬儀や法事、彼岸やお盆も嫌いだった。
部屋の隅や、墓石の影から、祖父母や見知らぬ祖先がじっと僕を見ている。期待しているでもない。非難しているでもない。何かを訴えるでもない。見守っているというのとも違う。淡々とした瞳が不気味だった。
何故、僕にはこんな能力があるのだろう?
僕は彼等に対し、何か出来るわけではない。彼等も僕に何かを求めるわけではない。
ただ、そこにいる。それだけだ。
思うに、彼等は生きている人間の想念の集まる場所に出没する。多くの人の想念が集結する特異日、特異時に。または、誰かの強い想いが作用する一点に。そして、長い間に多くの人々の思念が積み重なった特異な場所に。
気を取り直して歩き出した。
慣れたと言えば慣れた。少なくとも、二十一歳になった今は、幼い頃のように無闇に怯えることはなくなった。気持ちの良いものではなかったが、少なくとも害はない。
その後は何事も起こらず、目指す屋敷に辿り着いた。
屋根付きの格子戸のある門をくぐり、苔むした飛び石を踏みながら行くと、立派な玄関に辿り着く。
ガラスの引き戸を開け、大きな声で来訪を告げると、奥の方からこちらへ近付く足音が聞こえ、墨絵で竹を描いた衝立の向こうに、着流し姿の三原教授の姿が見えた。
生まれてこの方怒ったことなど一度もないのではないかと思うような穏やかな風貌はいつもどおりだ。
「よく来たね。あがりなさい」
嬉しそうに言う教授に手みやげの包みを渡すと、立派な靴脱ぎ石で靴を脱いだ。昔風の段差の高い上がり框にのぼり、教授の後に付いて薄暗い廊下を奥へと進む。
「恭輔も喜んでいるだろうが、君が来てくれると、私も、とても嬉しい」
振り向き、目を細めて言う教授に、僕は曖昧な笑みで応えるしかない。
教授は廊下の突き当たりの扉を開けた。
そこは十畳の和室で、開け放たれた窓には簾が掛かり、ひんやりとした風が心地よかった。広い縁側の先には強い日差しが降り注ぐ庭が見えるが、簾を隔てた室内は、そことは隔離された別天地のようだった。蝉の声さえ、ここでは静寂を深めるためにあるようだった。
部屋の奥には立派な仏壇が据えられており、その周囲に、盆提灯やら、供え物やらが整然と並べられていた。
鴨居に、額に入った写真が並んでいる。ほとんどが着物姿の老人が映った白黒写真だったが、手前の方に真新しいカラー写真があり、そのうちの一枚からポロシャツ姿の青年が爽やかな笑顔をこちらに向けていた。
「ずっと毎月欠かさず来てくれていたものだから、今月は、命日になっても君の姿が見えなくて、寂しく思っていたんだよ。そうか、そういえば、今月はお盆だからな……」
教授は一人納得するように首を振りながら呟き、僕の手みやげを経机に載せると、蝋燭に火を点した。
線香を付け、鈴《りん》を鳴らして手を合わせると、僕に黙礼して場所を譲った。
教授と入れ替わりに、紫色の座布団に座った僕は、同じように線香を付け、鈴を鳴らし、手を合わせた。
長々と仏前に頭を垂れながら、しかし、僕は、恭輔のことを祈るどころか思い浮かべもしなかった。
あえてそうした。高校時代からの親友とはいえ、今更、幽霊に合いたいとは思わない。まして、あんな死に方をした恭輔になど。
「ありがとう」
教授は嬉しそうな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「しかし、今日で良かったよ。明日は新盆だ。親戚が大勢くるからね……」
教授は柱を見上げた。箱形の振り子時計の下に日めくりがあり、八月十四日を示していた。
部屋の隅で古びた扇風機がカタカタと回り、生温い空気をかき混ぜている。
「今晩も、この憐れな老人に付き合ってくれるかな?」
遠慮勝ちに言う教授に、僕は微笑みで応える。
「ええ」
教授はホッとしたような顔で、楽にしていなさい、と言うと、部屋を出て行った。
教授の姿が見えなくなると、僕は足を投げ出し、鴨居の写真を見上げた。
恭輔が死んだのは、十ヶ月ほど前だ。交通事故だった。運転していた車がセンターラインをオーバーし、対向車線のトレーラーに激突した。
即死だったらしい。
葬儀の折に見せて貰った遺体は、生前の面影を偲ぶことが出来ないほど、むごたらしいものだった。
恭輔には悪いが、思い出しただけで胃の腑がひっくり返りそうになるのは、どうしようもない。
額に入った写真は、そんな自分の運命など知らぬげに、にこやかに笑っている。
教授は、息子と同い年の僕がこの家を訪ねることを喜んだ。
僕に息子を重ね合わせ、僕の中に息子を夢見ている。
しかし、僕がこの家を毎月――命日のたびに訪れるのは、教授を喜ばせるためではなかった。
教授には絶対に知られてはならない理由で、僕はこの家に来る。
不意に強い日差しが陰った。三度ぐらい下がったのではないかと思えるほど、空気がひんやりとした。
気配を感じて入口を見ると、思った通り彼女がいた。
長い髪を一つに束ね、白い着物を着て立っている。
彼女はゆっくりと部屋の奥へと移動すると、僕の方を向いて音もなく座った。
彼女の黒い瞳が真っ直ぐに僕を見詰める。
僕も彼女を見詰め返した。
月に一度の逢瀬。
彼女は僕を見詰め、僕も、ただ、彼女を見詰め返す。
僕が彼女を初めて見たのは葬儀の時だった。
歳は僕より五つ程上だった。
彼女をひと目見た時から、僕の心はざわつき、熱い塊が胃の中に湧いてきた。
美人と言っていいのかどうか解らない。派手な美しさはなかったが、真っ直ぐな竹を思わすしなやかさと静けさをたたえながら、その瞳には、蛇を連想させる危うい毒々しさが閃いていた。
容姿の静寂とは裏腹に、身の内――清楚な着物に覆われた肉体の奥底には、猛々しい邪淫が潜んでいる。
その瞳に、僕は射貫かれた。
身動きが出来ないまま、彼女を見詰める。
彼女の視線が、僕の瞳を見詰め、鼻先を辿り、唇を撫でてゆく。
視線だけで、僕の体は昂ぶり、熱を持つ。
僕も、視線を彼女の肌に這わせてゆく。
彼女の額を見詰め、瞼を掠め、耳たぶをくすぐり、首筋を撫でる。
彼女の頬がほんのりと色づく。
僕の呼吸は荒くなる。
彼女の視線が、僕の首筋を辿り、胸からさらに下へと降りてゆく。
僕も、彼女の肌に視線を這わせる。下へ、下へ。僕の目は、着物を貫きその下の肌のなめらかさを夢想する。
初めてあった日も今日も、同じように、僕等は視線だけで語り合う。お互いの存在を確かめあう。犯しあう。
手を伸ばせば届きそうな近さに居ながら、彼女に触れることは出来ない。そのもどかしさが、僕を狂わせ、燃え上がらせる。毎月欠かさずここへ足を運んでしまうほどに、僕は彼女に魅入られていた。
こんな不毛な関係はやめるべきなのだが、彼女と会わずにいると胸がざわつき、心が乱れる。彼女の顔が、彼女の肌が、彼女の黒い瞳が、脳裏を占めて僕は身動きできなくなる。
そして、我慢できずにまたここへ来てしまう。彼女を見に来てしまう。彼女に会える唯一の場所であるここへ――
彼女と出会ったのが他の場所であったなら、どんなに良かっただろうかと、僕は思う。
もしかしたら、恭輔も、同じ思いを抱いたことが、あったのではないだろうか。
僕には、あいつが死んだ理由が分かるような気がする。
彼女は、どんなに足掻いても、僕や恭輔には手の届かない人だった。
彼女は教授の後妻だったから。
恭輔は、この義母と、どんな気持ちで一つ屋根の下に暮らしていたのか。
この邪淫の瞳に見詰められながら、この人を母と呼ぶなんてことは不可能だ。
「待たせたね」
教授がコップと、いかにも冷たそうなビールのビンを持って戻ってきた。
部屋の隅に座っていた彼女の姿がかき消える。
日差しが戻り、気温が一気に上昇し、僕の額から汗が噴き出る。
「暑かっただろう? 一杯やろう」
教授が差し出したコップを受け取り、栓を抜いたビンから粟立つ琥珀色の液体が注がれるのを見詰める。
コップを下に置き、ビンを受け取ると、教授のコップに注ぐ。
互いのコップの縁を軽く合わせて一気に飲み干す。
いかにも美味そうに飲み干した教授は、満足そうに溜め息を吐いた。
僕は、鴨居の額を見上げ、恭輔の写真の隣にある、彼女の写真を見詰める。
「恭輔も、良い友達を持って幸せだな……」
弱々しく微笑む教授をよそ目に、僕は、親友ではなく、その義母の写真を見詰める。
彼女は恭輔と一緒に死んだ。
僕が来ると、教授は夜中まで一緒に呑んで酔いつぶれる。
常には品性を失うことのない教授が、この時だけは、妻の名を叫び、息子をなじり、泣きながら寝入る。
今日も教授は、普段の彼からは想像も付かない狂態を見せた。わめき、怒り、涙を流した。
しまいには泣いたまま畳に寝ころび、寝息を立て始めた。
教授が眠ってしまうと、僕は、そっと部屋を抜け出した。
薄暗い廊下を行く。
廊下の左右には部屋が並んでいるが、風を通すために、いくつかの襖が開いていた。
一室は教授の書斎だ。開いた襖から中が見える。国文学の教授である彼の書斎には、壁一面本棚が設えてあり、びっしりと本に埋まっていた。棚に収まり切れない本は、畳一面所狭しと積み重ねられている。
部屋の一部に絨毯が敷かれ、その上に重厚な机が据えられている。
机の上は綺麗に整頓されているが、スタンドが点けっぱなしになっていて、光が天板を照らしていた。
その光の中に写真立てがあった。
僕は、そっと部屋に踏み入れ、机に近付いた。
教授と彼女が仲睦まじく寄り添っている写真だった。
しばらく写真を見詰めたのち、机の上に数冊積み重ねてある本の一番上を手に取ってみた。
黄ばんだ表紙に「死者の書」という文字が見えた。
僕はその本を持って書斎を出た。
書斎の隣の部屋は、襖が閉まっていたが、僕は遠慮なくそこを開けた。
八畳ほどの和室に、絨毯が敷き詰められ、ダブルベッドが据えられている。
壁際にはAVボードがあり、液晶テレビやDVDプレーヤーなどが置かれている。この部屋と、恭輔の部屋だった洋室にだけはエアコンがある。
僕は、ベッドに近付いた。
真っ白なシーツに手を這わせ、僕は胸の奥に嫉妬がチリチリと音を立てて湧き上がるのを感じた。
ここで、この場所で、教授と彼女は夫婦の営みを繰り返したのか。
生身の彼女の白い肌を抱き締め、唇を這わし、彼女のあの、邪淫の瞳にとろける……
生々しい映像が脳内を駆けめぐり、体の奥が熱くいきり立つ。
あいつは――恭輔は、いったい、どんな気持ちでこの部屋の襖を見詰めていたのだろう?
あいつの部屋は、ちょうど廊下を隔てた斜め向かいにある。
シーツにいくら指先を這わせても、彼女の温もりはどこにもない。
僕はベッドの足もとに丸まっているタオルケットを手に取ると、部屋を出た。
仏間に戻り、教授にそっとタオルケットを掛けてやる。
教授は何か呟き、寝返りを打った。
僕は、教授から少し離れた壁にもたれて座り、書斎から持って来た本を開いてみた。
『死者の書/釋迢空』
釋迢空とは、折口信夫のことだったか、などと思いながら古びた頁をめくってゆく。
あゝ耳面刀自。
甦つた語が、彼の人の記憶を、更に彈力あるものに、響き返した。
耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに來たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もつと/\長く寢て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から、覺めた今まで、一續きに、一つ事を考へつめて居るのだ。
死者の語り。死者の想い。死者の愛。
彼女の想いはいったいどこにあるのだろう?
今も、教授を愛しているのか?
共に死んだ恭輔を慕っているのか?
それとも、唯一彼女を見、彼女の存在を感じることの出来る僕を……?
彼女に会いたい。
本を閉じ、鴨居の写真を見上げ、僕は祈った。
ゆるゆると空気をかき回していた扇風機の風が感じられなくなる。
部屋の明かりが輝度を落とし、気温が三度下がったように感じられた。
振り向くと、戸口に彼女がいた。
彼女は、ゆっくりと部屋の中へ進み入り、寝こんだ教授を見下ろしながらその脇を通り過ぎると、そっと、昼間と同じ場所に座った。
僕は微笑み、彼女を見詰める。
彼女も、妖しい光が宿る瞳で、僕を見詰め返す。
教授が眉を寄せ、身じろぎした。が、目は醒まさない。
その夫のすぐ側で、僕は視線だけで彼女と語り合う。
僕のささやかな秘密。
この時だけ、僕は、僕に与えられたこのやっかいな能力を、ひどく価値あるもののように思うのだった。
そうして僕は、この不毛の逢瀬を繰り返す。身の内に燃えるたぎる煩悩の業火に僕は怯える。それでも、彼女を瞳をむさぼることをやめられない。
決して触れることの出来ない指先が凍える。宙を掻く冷たい指先は、熱を求めてさまよい、教授の頬に触れる。
肌を撫で、髪に指を絡ませれば、教授は目を閉じたまま、そっと僕の手を取り、妻の名を囁きながら唇を押し当ててくる。
生きている者の確かな熱が、僕の指先をとろかす。
教授が放つ熱を体の奥深くで意識しながら、僕は彼女を見詰め続ける。彼女も僕だけを見詰めている。
僕等は視線で互いを絡め取りながら、そのまま夜明けまで睦ぶ。
夜は長い。そして、どこまでも昏冥《くら》い。
了
引用※『死者の書』釋迢空(折口信夫)/作 青空文庫より