スクールデイドリーム
南方南
ノベルフェスタ144 「スクールステークス」


 ずるり――
 と、手から重みが逃げていった。
 残ったのはパンツとズボン。
 鈍い音がして、コンクリを敷いた地面に、あいつの姿が横たわっていた。
 剥き出しの尻を突き出して、カエルのような無様な形に足を曲げている。
 「わっ」と、俺達は笑った。
 その瞬間、笑ってしまったんだ。
 突き出した尻から、黒いものが溢れだした。
「見ろよ、あいつ……」
 誰かが指を差し、さらに笑おうとした。
 しかし、その時、俺達全員気付いてしまった。
 これはヤバいんじゃないかってことに。
 あいつはピクリとも動かなかった。
 痛いと泣くこともしなかった。
 ただそこにあるだけだった。
 俺達は黙り込んだ。
 空は青い。
 あいつの頭の直ぐ横で、花壇のコスモスが、のどかに揺れていた。
 じっとりと汗ばむ手には、あいつのズボンとパンツが残っている。
 三階の六年七組の教室から地面を見下ろし、俺は思った。

 俺が死ぬときは、絶対パンツだけは、はいていよう――

     *

「それじゃあ、君たちは、教室で赤白帽を投げて遊んでいたんだね?」
「はい、そうです」
「そのうち、帽子が、窓から外に飛び出した」
「はい。工藤が投げた帽子を、安岡がモップで打ったら、外に飛び出しました」
「下の階の廂に、帽子が乗っかった」
「そうです」
「そこで、安岡くんが、モップの柄で帽子を引っかけて取ろうとした」
「でも、取れそうにないから、じゃあ、下に落とせばいいやって……」
「そうか。なるほど。で、モップの柄が届かないので、安岡くんは、窓から身を乗り出した。一人で取ろうとしていたのかな? 君たちは見ていただけ?」
「安岡が、言いました。落ちないように俺を掴んでおけって。だから、みんなで、安岡の服を掴んでいました」
「安岡くんはかなり体格がよかったよね。何人で掴んでいたの?」
「俺と工藤、斉藤、豊上……あと、そこら辺にいたヤツ……」
「全員がしっかりと掴んでいたの?」
「あいつが、あんなに身を乗り出すなんて思わなかったから……ズボンが…… そのまま……  ずるって……   なんで……  なん、    ……ん、    ……ん、     ……」
「君たちのせいじゃない。泣かないでいい……。いや、今は泣いてもいいよ。泣きたいだけ、泣いていい……」

     *

 黒い服。
 線香の匂い。
 間抜けな木魚の音。
 坊さんの、まるで寝言のような読経。
 賑やかにかざりたてられた祭壇にある、黒いリボンがかけられた白黒写真は、薄ぼんやりとしているうえ、あいつの表情ときたら、あきらかにまぶしさに顔を顰めた瞬間だった。
 まともな写真がこれぐらいしか無かったに違いない。
 俺達は、カメラの前だと、いっつもわざと変な顔をした。口を開けてみたり、白目を剥いてみたり、舌を出してみたり、口を片側に歪めてみたり、鼻に指を突っ込んでみたり。
 まともな写真なんてひとつもない。
 この薄ぼけた写真はマシな方だったのだろう。こんな写真でもあったから良かった。鼻の穴をおっぴろげた写真なんかが飾ってあったら、あまりにも間抜けだっただろうから。
 俺達は、どこかのお坊ちゃまみたいな白いシャツに黒い半ズボンをはいて、お上品に並んでいた。
 これほどしゃべらず、これほど動かずにいたのは、はじめてのことだった。
 泣いている。黒い着物を着たオバサンが。
 白いハンカチに顔を埋めて。白いうなじが震えている。
 オバサンは、たった一度だけ顔を上げ、俺達の方へ目を向けた。
 梅雨の日の、紫陽花の下に転がったかたつむりの抜け殻を、俺はなぜだか思い出した。干からびた粘液が穴のふちにこびりついた、薄っぺらな空虚を。

     *

 全学年が校庭に集められた。
 静まりかえる生徒を見下ろし、校長先生が朝礼台の上で、深刻な顔でしゃべっている。
 長い話。
 すでに何人かが貧血で倒れ、先生に抱えられて保健室に退場していた。
 朝礼台の後ろに花壇が見える。コスモスが揺れている。
 コンクリが敷かれているのは、花壇と校舎の間のわずかな通路だった。
 一度そちらに目をやってしまったら、目を逸らせなくなった。
 ピンクの花が揺れている。頼りなげに揺れている。はかなげに揺れている。
 工藤と斉藤は来ていない。豊上は来たけれど挙動不審だ。
「皆さんも、自分の命をくれぐれも大切にしてください」
 校長先生の話がようやく終わった。
 咳ばらいひとつない静寂。
 そのまま教室には入らず、集団下校するように言われた。
 クラスの下校班で固まって、ぞろぞろと校門に向かう。
 俺の班の奴等は、みな下を向いてとぼとぼと行く。俺はそいつらをおいて、さっさと家に向かった。安岡がいない下校班。早足に、たった一人で家に帰る。たったひとり。安岡がいない。俺は走りだす。安岡はいない。たったひとり。走る。走る。走る――

     *

 一週間の休校が明け、久しぶりの教室に入ってみると、安岡の机の上に花が飾られていた。
 ちくしょう――
 なんだか無性に苛ついた。
 どんよりとしたクラスの奴等に。担任のしめった説教に。机の上のいやに華やかな花瓶に。
 工藤も斉藤も豊上も来ていたが、俺と目を合わせようとしなかった。
 ちくしょう――
 苛つく。
 噛みつき、引き裂き、めちゃくちゃにしたい。
 ちくしょう――
 誰も彼も。みんな。ぜんぶ。
 ちくしょう――
 ちくしょう――
 ちくしょう――

     *

 放課後。下校班とは一緒に帰らず、俺は花壇の所へ行った。
 見当違いの場所に供え物が置かれている。
 菊の花束。
 いちご牛乳。オロナミンC。
 かっぱえびせん。マーブルチョコ。あたり前田のクラッカー。
 メンコ。ビー玉。ベーゴマ。チェーリング。アメリカンクラッカー。仮面ライダースナックのおまけカード。
 先端が欠けた機関銃や、タイヤが取れたレーシングカー、尾翼が折れた零戦のプラモなどもあり、押し入れの奥から引っ張り出してきた想い出の捨て場のようだった。
 テレビ漫画の主題歌のソノシートや、今はやりの漫画本も何冊かあった。「トイレット博士」に「もうれつア太郎」。「おろち」に「ヘビ少女」。楳図かずおのおどろおどろした表紙絵に、やけに昔懐かしい鉄人28号のシールが貼ってある。鉄人の体に正太郎の顔を合体させて貼ったヤツは、まさかこんな所に供えることになるとは思ってもいなかったはずだ。笑いを取るための行為だったろうものが、あまりにも場違いな場所で、しらけた沈黙を生み出している。
 俺は、ポケットに突っ込んである岩波文庫を、それらのがらくたの山に混ぜようかと思ったがやめた。あいつがO・ヘンリーなど喜ぶとは思えなかったからだ。
 山をなす供え物。しかし、あいつが一番好きだった石森章太郎の「家畜人ヤプー」も井上陽水のレコードも、それらの中にはなかった。
 あの場所に立つ。
 運動靴の足底が、わさわさする。
 じっと目を懲らし、足もとのコンクリを見詰めたが、そこには何もなかった。
 何ひとつ。まったく、何も。
 コスモスが揺れている。
 あの日と同じコスモスなのか、それとも、新たに咲いた花なのか。
 ランドセルがやけに重い。
 花の中から白い蝶が現れ、ふわふわとさまよったあと、どこかへ消えた。

     *

 半月も経てば、あの日の沈黙が嘘のように、みな教室で、ふざけ、わらい、はしゃいでいる。
 俺はみなの遊びには混ざらず、ほおづえをついて、安岡の机の上の花瓶を見詰めていた。
 花瓶は一回り小さなものに変わっており、花はみな、こころなしか項垂れていた。
 ふと、工藤と視線があった。工藤は何か言いたげな目でしばらく俺を見ていたが、やがて、不貞腐れたような顔で、視線を逸らした。

     *

 学校が終わると、毎日俺は、下校班とは別れて、コスモスが揺れる花壇に行った。
 見当違いの場所にある供え物の菊は茶色く変色し、オロナミンCや菓子の袋は泥が跳ねて汚れ、漫画本はぶよぶよにふやけて、めくれていた。楳図かずおの絵が、余計不気味に見える。
 コスモスの花の数は減っていた。
 蝶は現れない。あの日から、一度も蝶の姿は見ていない。

     *

 秘密基地に行くのは半月ぶりだった。
 ランドセルを背負ったまま、一人通学路から離れ、竹藪の中を通り抜け、墓地を横切る。屈んで植え込みをくぐり、古ぼけたアパートの、草がぼうぼうと茂った庭を抜けて裏へ回ると、空き地に出る。
 その空き地に、俺達の秘密基地はあった。
 積み上げられた土管と土管の間。道から空き地を覗いても見えない場所。ボロアパートの二階の窓からは丸見えだったが、そこに人の姿を見たことは一度もなかった。俺達の秘密基地は、秘密のまま守られていた。
 段ボールを土管と土管の間に渡して屋根を作り、拾ってきたゴザを敷いた二畳ほどの空間。世界から隔絶された、そこは俺達だけの天国だった。
 豊上が集めたきれいな石。斉藤のメンコを入れた空き缶。工藤が集めたビールの王冠。
 みながそれぞれ持ち込んでは、そのまま増えていったがらくたの山。カラスの羽根。ガラスの破片。銅線。ねじ回し。壊れたラジオ。乾電池……
 安岡が拾ってきたエロ漫画雑誌が積んである。
 俺は、土管に寄りかかって座ると、一番上の一冊を手にとり、パラパラとめくった。
 ぎゃはははと、安岡が笑う声が今にも聞こえそうな気がする。
 ふと顔を上げると、入り口から工藤が中を覗いていた。
「入れよ」
 言うと、工藤は、黙って中に入ってきた。
 俺の隣に腰を下ろす。
「来てたんだ……」
「うん……」
 工藤も、エロ漫画を一冊手にとった。
 二人で黙々とエロ漫画を読む。
 しばらくしてから、工藤がぼそりと言った。
「つまらないな……」
 俺は黙って頷いた。そう。つまらない。ちっとも面白くない。
「昨日は斉藤が来てた」
「お前、毎日来てるのか?」
「ううん。たまに。……ここへ来れば会えそうな気がして……」
 しばらくの沈黙のあと、工藤は言った。
「俺って、バカだよな」
「ああ、バカだ……」

     *

 翌日も、学校の帰り、秘密基地に寄った。
 工藤と斉藤がいた。
 やはり、とくにしゃべるわけでもなく、三人で並んで黙々とエロ漫画を読んで過ごした。

     *

 翌々日は、工藤と豊上が来た。
 その次の日には、四人が揃った。来ないのは安岡だけ。安岡だけは来ない。永遠に来ない。

     *

「俺さぁ……」
 四人が、秘密基地で毎日顔を合わせるようになって何日かしたある日。
 豊上が、ぽつりと零した。
 俺達は一箇所に集まってはいたが、ほとんど口を利くこともなく過ごしていたので、豊上の声は耳にくすぐったかった。
 誰も顔を上げて豊上を見ようとはしなかった。俺も、父親の本棚から抜いてきた五味川純平の「人間の条件」をさも熱心に読んでいるようなフリをした。
「俺さぁ……」
 と、豊上は言った。
「あの時、手ぇ離していたんだ……」
 工藤がビクッと肩を震わせた。
 俺は、無関心のフリも忘れて、思わず顔を上げていた。
「みんなは一生懸命支えていたのに……俺は、いいやって。大丈夫だろうって……最初から、掴んでなんていなかったんだ……」
 豊上は、おどおどと視線をさまよわせたあと、がっくりと首を垂れた。
「安岡が来るんだ……」
「おいっ!!」
 斉藤が、裏返った声で叫んだ。
「み、見たのかよっ」
 豊上は俯いたまま首をふった。
「そんな気がするだけなんだと思う。でも、誰もいないはずの階段を上る音がしたり、夜、カーテンの向こうで変な音がしたりすると、思うんだよ。ああ、安岡だって……」
 胡座の上で握りしめた両手が震えている。
「俺ンち、共稼ぎだろ? 恐いんだよ。一人で家にいるのが。でも、学校へ行くのが辛い。あの教室に入るのが辛い……あいつ、俺のこと恨んでいるだろうな……」
 工藤が、豊上の震える手を握った。
「お前のせいじゃないから」
 豊上は顔を上げ、工藤を見た。
「俺も……なんだ……」
 工藤は絞り出すような声で言った。
「急に重たくなって……俺、手を離しちゃったんだ。掴むんじゃなく、離しちゃったんだ……。あの時、俺が、もっと力を入れて掴んでいれば……」
 工藤は、拳をきつく握りしめ、斜め上をグッと睨み付けた。泣くのを堪えているのか、下唇を噛みしめている。
「俺も……」
 斉藤が小さな声で言った。
「足を掴んでいたんだけれど、滑って……手が滑って……」
 斉藤は自分の両手を見詰めた。
「あの時の感触がまだ残ってる気がする……」
 俺は、あの瞬間、笑ってしまったことを思い出した。
 胃のあたりが、ギュッと押しつぶされるような感じがして、声がもれた。
「お……」
 俺も一緒だと言おうとしたが、胸が塞がれて言葉にならなかった。
 涙が溢れて止まらない。
「安岡ぁ……ゴメン。ゴメンよぉ……」
 豊上が声を立てて泣き出した。
 工藤も泣いた。
 斉藤も泣いた。
 俺達は、四人で肩を抱き合って泣いた。
 俺達が殺した。
 安岡を殺した。
 あいつを、死なせてしまった――

     *

 散々泣いたあとには、灰のようなからっぽの自分がいた。
 世界は白々しく、たった今感じていた悲しみすら、そらぞらしいものに思えた。
 工藤も斉藤も豊上も、土管に背をもたせかけて、ぼんやりと天上の段ボールを見ている。
 安岡が見つけてきた段ボール。安岡が作った天上。
 基地を作ろうと言い出したのは安岡だった。
 あいつは、本当に、よく色々な事を思いついた。
 ケンカもいたずらも、最高だった。
 あいつと一緒にいると楽しかった。
 俺のカラカラになった心の底で、何かが疼いた。
「あれ、やってみないか?」
 三人は、怪訝な顔で俺を見た。
「あいつが、やってみたいって言っていたヤツだよ」
 三人は、ようやく思い出したらしく「ああ」と声を揃えて溜息まじりに呟いた。「あれか……」
 事故の数日前から、あいつは計画を練りはじめていた。俺達も計画に乗り、さあ、いつやろうかと言うときに、あいつは死んでしまった。
「そうだな……いっちょ、やるか……」
 工藤が、眉間に縦皺を寄せながら同意してくれた。
「うん。俺達がやってみせれば、あいつも、喜ぶかもしれないしな」
 斉藤が真剣な眼差しで言う。
「え……でも……」
 豊上は、怯えた目で俺を見た。
「危なく……ない?」
「嫌ならいいよ。俺、一人でもやるつもりだから」
 俺が立ち上がると、豊上も慌てて立った。
「お……俺も、やるよ……」
 その目は酷く怯えていた。それでも、奥の方に何か熱い塊のようなものが見えた。
 俺は、俺を見詰める三人の瞳を、一人ずつしっかりと見た。
「行くぞ」
 俺は、基地の外へ出た。
 三人があとから付いてきた。

     *

 駅前に去年できたばかりの百貨店のビル。
 この辺りでは一番高い七階建てだった。
「あそこから上がるっていうんだろ?」
 工藤が、ビルの横にある非常用の外階段を指さして言った。
 安岡の計画は、非常階段から屋上へ出るというものだった。見れば、確かに、非常階段は、屋上まで続いている。
 俺達は、非常階段の方へ行った。が、階段の入り口には鉄格子の扉があり、鍵が掛かっていた。横からよじ登って入ろうにも、登れる範囲は鉄の柵で囲われている。
「こういうところは、中からしか開けられないんだよ。たしか」
 斉藤が言った。
「エレベータで七階まで上がって、非常扉から外へ出ればいいんじゃないか?」
「ここで考えていたって仕方ない。とにかく行ってみよう」
 俺達はぞろぞろと、デパートの中へ入っていった。
 婦人服やら化粧品やら宝石やらが並ぶ、居心地の悪いフロアをつききって、エレベータに乗った。
 七階で降りる。
 本屋や、レコード店。文房具売り場や、手芸用品店が並ぶ通路を抜けて階段に出た。立ち入り禁止のロープがかかる昇り階段を、試しに上ってみる。てっぺんに、いかにも重そうな鉄の扉がある。
 力を込めて引いてみたり、押してみたり。
 扉はびくともしなかった。
 諦めて階段を下りる。
 エスカレータの所へ行き、その側の柱に貼られた案内図を見て、非常口の場所を確かめる。
 非常口は四つあった。
 ひとつ目の場所へ行くと、さっきの階段だった。
 二箇所目は、扉を開けて覗いてみると、広い場所に品物や段ボール箱が積み重ねられていて、従業員が歩き回っていた。そのうちの一人に「関係者以外は立ち入り禁止」と言われて、追い払われた。
 三つ目も同じような場所だった。
 四つ目の扉は重たく、開けた途端、外の大通りを通る車の音がした。
 首だけ出して見てみると、上と下に鉄の外階段が続いている。
 俺達は、扉をくぐって外に出た。
 がしゃんと、いやに大きな音を響かせ、扉が閉まる。
「開かないよ」
 豊上が、取っ手を引っ張って見せた。扉はびくともしない。
 上か、下か。
 俺達が行かれる方向は限定された。
 俺達は、鉄の階段を上りはじめた。
「高いな……」
 豊上が言った。
 段と段の間から、下が見える。落ちるような心配はまったくないが、見ると足が萎える。
「あ!」
 叫んだのは斉藤だ。
「ヤバそうじゃないか?」
 どこかのオバサンが、お巡りさんを掴まえて、こちらを指さしながら何か話しているのが見えた。
 周囲の人も何人かこちらを見上げた。
 俺達がここにいることを知られてしまったようだ。
 お巡りさんが非常階段を目掛けて駆けてくる。
 俺達は、駆け足で階段を上った。
 あのお巡りさんが、エレベータで七階まで上がり、非常口からここへくるまで、そう大して時間は掛からないだろう。
 見つかれば、やめさせられる。
 捕まる前に、計画を実行してしまわなくては。
 登り切った所には、扉も柵もなく、俺達はあっさりと屋上に出ることができた。
「どこがいい?」
 工藤が、すばやく目を走らせる。
 屋上は、俺達の肩ぐらいまであるコンクリの塀で周りを囲ってあった。塀の幅は十五センチほど。よじ登ってその上に立つのはムリそうだ。
「あそこは?」
 斉藤が指を差す。
 空調設備のファンが並んだ場所。一番奥は塀に接するほど近そうに見えた。あそこならば行けそうだ。
 俺達は駆け寄り、空調機のてっぺんに手をかけ、足を機械のパイプに引っかけてよじ登った。
 バランスを取りながら空調機の上を歩き、塀に近付く。空調機と塀の間には二十センチほどの隙間がある。
「ちょっと遠そうだな」
 工藤が言った。
「ぎりぎり、一番端に立って、それで足りなきゃ塀に片足だけでもかければいい」
 俺は、見本をしめすべく塀に近付いた。
 思っていた以上に恐い。
 塀の五十センチぐらい手前でも、大通りの車が見え、目が眩みそうになる。
 これ以上近付けば、本当に落ちてしまうかもしれない。
 足が萎える。
 でも、塀にできるだけ近付き、真下をのぞき込めるぐらいでなければ、計画は頓挫する。
 空を見上げた。
 あの日と同じぐらい青い空。
 安岡の顔が思い浮かぶ。
 この計画を楽しそうに話していたあいつの顔が。
 いたずらも、ケンカも、あいつと一緒なら楽しかった。
 どんなことでも楽しかった。
 最高だった。
 大きく息を吸い、そして、吐く。
 吹き上げてくる風が冷たい。
 歩く人々の姿が小さい。
「安岡が、怒っているなら、俺は落ちるかもしれない。でも、安岡が許してくれているなら、俺は落ちない」
 俺が言うと三人はギョッとした顔をした。
 ビルの壁を安岡の黒い手が這い上がってきて、俺の足を掴んで引き摺り落とす様が思い浮かんだ。
 恐怖に体が縮む。
 俺は、歯を食いしばり、その幻影を打ち払った。
「あいつは、俺達を恨んで、殺そうとするような、そんなヤツじゃない。俺の大事な友達は、そんなヤツじゃなかったはずだ」
 斉藤が驚いたような顔で俺を見た。工藤はちょっと斜め上を睨んだ。豊上は困ったような顔で俯いた。
「やるぞ!」
 俺は叫び、片足を空調機の上に残し、反対の足を一歩踏み出して、塀に掛けた。
 直ぐ横に工藤が並んだ。
「俺も行くぜ」
 工藤は、俺の顔を見てニヤリと笑った。
「俺は、ここからやってみる」
 塀に足をかけず、空調機一番端に立って斉藤が言った。
「ゴメン。俺、やっぱりダメだ。恐い。ダメだ。足が動かない……」
 豊上がしゃがみこんで泣きだした。
「いいよ、お前はそこで見ていろ。安岡と一緒に見ていろよ。俺達はみんな一緒だ。大丈夫だよ。みんな一緒だ」
 俺達は、せーの! とかけ声を掛け、ズボンに手をやった。

 最高に面白いことをやろうぜ――!

 安岡の声が聞こえた気がした。
「お前達、なにしてるっ!!」
 背後で、大人が叫ぶ声がした。
 俺達は声を無視してズボンを下ろすと、パンツの中のものを解放した。
 一気に放水する。
 眼下で、人々が右往左往するのが見えた。
 俺達は、安岡の計画どおりに、主人公のピンチに現れたテレビ漫画のヒーローよろしく、体を仰け反らして笑った。声高らかに笑った。
 笑いながら俺の目からは涙が溢れた。
 零れた涙は、しょんべんと一緒に、キラキラと光りながら、透明な空気の中を下へ下へと落ちていった。
 俺達は、お巡りさんやデパートの従業員に引き摺り下ろされるまで、空に向かって笑い続けた。

 昭和四十九年、小学六年の秋。
 俺達は、ゆらゆらと、頼りなげに、はかなげに、揺れ惑うコスモス(宇宙)の中で生きていた。
 俺達は、確かに、生きていた――



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