ふたたび肩寄せるその日まで
紫雲正宗



 1、
 ええ、夫の遺骸は宇宙葬にしました。
 それは、当時のニュースでも報道されましたからご存知でしょう?
 ただ、みなさん勘違いされているようですけれど、夫が乗せられた箱舟はいまフォボスの大地に安置されてますのよ。ええ、火星のまわりをまわる第一の月 に、です。
 本当は、夫は火星の“第3の月”として火星の周回軌道をまわることを望んでいたようですけれど、やはりスペースデブリ抑止法に触れるということでそれは 叶いませんでした。火星と地球とのあいだの往還船も増えてきていますし、それは致し方のないことでしょう。
 それでも、本来ならフォボスに墓標を立てることも禁止されていることなのですから、夫のアンドレ・ケイジに対する優遇は本当にありがたいことです。
 それにしても、あれからもう五年近い月日が過ぎてしまったのですね。……あ、いいえ、地球時間に変えると十年になるのですね。ごめんなさいね、生まれが こちらなものだからどうしても火星時間でものを考える癖がついてしまっていて。
 でも、どうしてかしら。あの人といっしょに過ごした日々の方がよっぽど長いはずなのに、わたしにはあの人を失ってからの方がずっと長く感じられる。歳を とるほど時間の流れは早くなるって言うけれど、きっとあれは迷信ね。
 え? なぜ、宇宙葬だったのか、ですか? 彼がそれを望んだ理由はなんだったのか、ということでしょうか? ……さぁ、実のところ、わたしにもその理由 は分かりません。わたし自身、アンドレからその話を聞かされたとき「なんで?」って思ったくらいですもの。
 そうそう、それでね。わたしが「なんで宇宙葬なの?」って聞いたら、あの人なんて答えたと思います?
「目立つことをして、世間の目を驚かしてみたいんだ」ですって。まるで子供みたいなこというでしょう? まあ、昔から目立ちたがり屋な気質でしたから ねぇ。
 ほら、この写真なんか見て。これね、わたしたちが婚姻三十年目に――だから、あの人が逝ってしまう五年前に撮ったことになるかしらね、そのときに記念で 撮った写真なのだけれど、あの人ったら白髪のまま撮るのは年寄りくさくてイヤだっていって前の日に髪の毛をぜんぶ真っ赤に染めてきちゃったのよ。おかしい でしょう。
 ……でも、ほんとうに、なんで宇宙葬だったのかしらね。有名なアストロノーツや宇宙開発技術者とかだったらまだ分かるけれど、ご存知の通りあの人は宇宙 (そら)にはなにもかかわりのない医学博士だったし。
 まさか、ほんとうに目立ちたいためだけの宇宙葬とも考えられないけれど……。
 あら、お気付きになった? そう、わたしはアンドレ・ケイジの妻であると同時に彼の患者でもあったのよ。
 生まれながらに骨の組織が脆く、メラニン色素の欠如で頭髪は白く虹彩が赤くなる病。火星生まれの人たちに見られることからマーシアン・シンドローム(火 星人症候群)なんて呼ばれているわね。言ってしまえば、白子症と先天性の骨粗鬆の合併症のようなものだけれど、原因はそれらとはまったく別みたい。遺伝子 の異常で起こるってところは同じなようだけれど。
 骨の発育にも影響を及ぼすから、だから見てのとおり、わたしの身長も十二歳くらいでピタッと止まってしまって。
 まるで、小学生がおばあさんの格好をさせられて座っているように見えるでしょう? ふふふ、いくつになっても若く見られるというのは女性にとっては嬉し いものね。それでも、私の場合は極端すぎるけれど。
 こういう異常が起きる本当の原因は、つまりはどんな理由で遺伝子の異常が引き起こされるかに関してはまだわかっていないようね。けれど、ひとつだけ確か にいえることは、この病気はまだ地球での発症例はないってこと。一説では、火星の痩せぎすの土壌で育てた作物が原因じゃないかって言われているけれど、本 当のところはどうなのかしらね。
 それでも、症状としてははっきりしているから対処法がないわけでもないのよ。幼いうちに地球の医療機関などで治療を受けたり根気よく体力づくりに取り組 めば、髪が白いのや瞳が赤いのまでは治らないけれど、日常生活にはなんら支障のない様になるんですって。もっともそれは応急処置みたいなもので、病気を治 すというよりは病気とうまく付き合っていくという程度のこと。
 ……なんて、これくらいのことはご存知よね? それでも、車椅子の生活を生涯続けることを考えればよっぽどいいのよ。
 でも、地球で治療を受けられるほど裕福な家庭ばかりとも限らない。
 ただ地球に行くというだけでも結構な費用でしょう? そのうえ、長期間の治療が必要となればその費用はかなりの負担になる。そんなお金、どこからも沸い て来たりはしないもの。
 ウチもそうだった。
 別に日々の生活に困るほど困窮してたわけじゃないのよ。どちらかといえば、そこそこ裕福な暮らしだったし、火星で受けられる治療はできるかぎり受けさせ てもらうことができた。
 もちろん、気難しい歳の頃にはそれでも親を怨んだこともあったし、産まれてきたことを後悔したこともあったわ。でも、それはもう昔の話。
 それに、火星で治療を受け続けたことで彼にも会えた訳だし。
 わたしがあの人に初めて診てもらったのはわたしが十八歳のとき。初めてあった時から変わった人でね、初診のときにわたしに向かってなんて言ったと思う?
「ぼくは火星人症候群に苦しむ一人の少女を救うために生まれてきたんだよ」ですって。そういって、手にしてた体温計を手の中でバラの花に代える手品を見せ てわたしに差し出すのよ。ご丁寧に片膝まで付いちゃって。可笑しいったらなかったわ。
 でも、病気のことで塞ぎがちだったその頃のわたしにとって、その手品はほんの子供だましだったけれど、なによりも効く処方薬だった。
 現に、それからのわたしの人生はとても明るいものでした。
 自らに生きる意味を問い、むなしさと精神的孤独に喘いできたというのに、彼の型破りなくらいの明るさや気ままな性格にふれて、それまでの悩みや苦しみな んてちっぽけでどうでもいいように思えてしまったの。わたしにとって彼は、ヒトはこんなにも明るく輝くことができるんだっていう良い見本だったのよ。
 そんな、彼を慕う気持ちが恋心に変わるのにそれほど時間は掛からなかった。それでも、想いを伝えるまでずいぶん長い間迷ったわ。だってそうでしょう?  考えてもみて。あの人にとってわたしは患者の一人にしかすぎず、わたしはまっとうな人間とは言えない身体をしていた。そんな二人の関係がうまくいくはずな んてないもの。
 自分の想いを口にして、居心地の悪い空気を生んでしまうのが恐かった。あの人との関係がぎくしゃくとしてしまうなら、いっそいまのままのふたりが続いた ほうがどんなにいいか。終わってしまうことを恐れて、ならばいっそのこと始まりすらいらないと思った。
 でもね、理性で心を思い通りに抑制できるほど人間は器用じゃない。でしょ? 押さえようとすればするほど想いは日に日に大きく育って、ついにはわたしの 小さな身体に納まり切らなくなってしまってた。ほんとに、あれは弾け飛んだって感じだったわ。なんの前触れもなく想いが暴発しちゃったのよ。自分で言って しまってから、ハッ、って気付いたくらいだったから。
 言ってしまってから後悔してももうどうしようもなくてね、涙が出そうなくらい顔は紅潮してるのに頭は真っ白。冗談めかして誤魔化してしまおうかとも思っ たんだけれど、ただ、急にちょっとした悪知恵が働いてね。
「もし、わたしと結婚すれば、わたしの身体を使って、わたしの病気のことをもっと詳しく調べられるでしょう?」って言ったの。
 つまり、わたしを妻にすれば一般の患者にはできない危険を伴うような診察や研究ができるんじゃない? って嘯いてみたのよ。ほんと、いま考えてみると突 拍子もない話でしょう? 実際、あの人の診察の手も固まっちゃってしばらく動かなかったわ。口も開きっぱなしで、『なにを言ってるんだコイツは?』って露 骨に顔に出てた。
 けど、呆れたような驚いたような表情はすぐに消えて、彼がすぐさま返した答えはYESだった。今度はこっちが面食らう番になったわ。また、いつものよう に冗談を言ってるんじゃないかと思って「ほんとうにいいの?」ってしつこいくらいに問いただしたりもしたわね。それこそ、カウボーイロケッツがワールドシ リーズ連覇をしちゃうような奇跡。にわかには信じられなかった。
 え? ああ、アンドレがね、好きだったのよ。なぜだか毎年最下位のロケッツがいたくお気に入りで、だから優勝をしたときなんてそりゃあすごいはしゃぎよ うだったのよ。火星(マーシアン)リーグも年々レベルが上がってきてるって言うけれど、やっぱり本場のメジャーは違うもの。さすがに地球まで野球観戦にい くまではできなかったけれど、でもいつかはふたりで行ってみようかなんて話してたくらいだったのよ。お掛けでわたしも、ベーブ・ルースやハンク・アーロン がすごい選手だってことくらいは覚えたわ。
 ……すこし、話がそれてしまったかしらね? とにかく、わたしたちはそんな感じで結婚することになった。私が彼に対して話した結婚の理由も含めて、まわ りからはずいぶん反対されてた。それを押し切っての結婚だったから、あまり祝福はされなかったわ。結婚したあとも、ユートピア平原の片隅に建てたラボで ひっそりと暮らしてた。
 それはそれで、研究をするにはいい環境ではあったけど、その頃の生活に幸せを感じていたかと聞かれると、正直いまでも答えには詰まるわね。収入といえば 彼が大学の臨時講師をやって得るくらいのものだったし、町医者を開業しても場所が場所だったから患者さんが来るのなんてほんとうに数えるくらいでしかな かった。生活は決して楽ではなかったわね。
 知らなかったでしょう? あの人は不幸自慢がなによりも嫌いで、マスコミの取材に対してもあまりそういった事は話したがらなかったから。
 そんな状況が変わったのは、やっぱり彼が火星人症候群の治療法を開発してからね。
 実を言えば、治療法自体は発表される十年も前に完成していたのだけれど、幼少期の頃からの継続的な治療を行って始めて意味のあるものだったから、わたし ではその治療法が有効なのかどうかの実証は難しかったのよ。結局、あちらこちらの産婦人科を当たって火星人症候群の認定を受けた新生児を探し、母親に協力 を得ることから始めるしかなかった。
 でも、努力の甲斐もあって彼の治療法は予想していたよりも早い段階で有用性が証明された。
 それからのことはあなたの方がお詳しいでしょう? 火星人症候群の治療法の発見というニュースは火星はもとより月や地球にも届けられ、アンドレ・ケイジ は一躍して時の人になった。特に、火星においての彼の知名度はとても大きなものよ。なにしろ、これから産まれくる火星の子供たちの未来を、彼は救ったんで すもの。誰もが彼の偉業を喜び、称え、賞賛した。
 ……でも、運命っていうのは本当にいたずらで残酷なものよね。
 治療法を確立したあとも、彼はそれに驕ることなくさらなる研究を進めた。けれど、そんな彼の身体を病理は秘かに蝕んでいた。本当に静かに、それでも着実 に、彼を死に染めていった。
 初めのうちは、そんなに対したことじゃないってわたしも彼も思ってた。握力の低下とかちょっとした身体の倦怠感というのがその症状だったのだけれど、そ んなの歳を重ねれば誰でもみな同じだし、その頃の彼は前にもまして忙しかったからすこし疲れてるんでしょうって、それくらいにしか思ってなかった。だけ ど、マグカップが持ち上げられなくなったり、席を立つにもひどく苦労するようになって様子がおかしいことに気付いたの。そこで、はじめて同僚の医師に診断 をしてもらった。
 そこで下った病名は、ゲーリッグ病。
 正式な名前は、筋萎縮性――、なんて言ったかしらね? とにかく、徐々に全身の筋肉が萎縮して行って最後には肺や心臓の筋肉も止まって死んでしまう難 病。発症すると長くても5年と持たない、現代医学をもっても治せない不治の病だった。
 ねぇ、運命って皮肉でしょう? 同じ不治の病と言われていた火星人症候群の治療法を発見した医者がいまだに治すことのできない不治の病に掛かるなんて。
 その病名を聞いたとき、わたしは心から神を呪った。いったい彼がなにをしたというのかしら。いったいどんな罪を犯したというの? これはなんのためにあ る罰なの?
 答えなんてどこにもなかった。ただただ悔しくて、年甲斐もなく声を上げて泣いてしまった。
 でもね、そんな時でもあの人はあの人のままだったわ。
 知人の医師から自分の病名を聞いて、あの人ったらなんて言ったと思う?
「……素晴らしいじゃないか! あのルー・ゲーリッグと同じ病だなんて!」
 まったく呆れるでしょう? 偉大な大リーガーと同じ病気になったんだなんて普通はしゃがないでしょう?
 でも、それがあの人のあの人らしさってところかしらね。どんな逆境に置かれても平然とした顔でそれを乗り切ってしまう。軽快に笑い飛ばして、すべてのこ とを好転させてしまうのよ。たぶん、アンドレが生まれ持っていた才能だったのよね。
 ただ、それでも覚悟していた部分もあるのでしょう。彼の口から宇宙葬の話が出たのはその頃のことよ。もっとも、その口ぶりはとても本気とは思えなかった けれど。
 不治の病を告知されてからも彼は塞ぎこむことなしに、今度は自らの身体を使って新たなる敵と闘い始めた。同僚や助手に働きかけて、徹底的に自らの身体を 調べさせ、ベットに横になったまま彼は闘い続けたわ。
 でも、今度の相手は悪すぎた。闘いに勝つのに相手はあまりに掴みどころがなくて、闘い抜くための時間はほんのわずかしか残されていなかった。
 それまで徐々に進行していた症状がある時に一気に悪化してね、結局病気がわかってから二年と経たないうちにあの人は逝ってしまったわ。
 それでも、あの人は満足げな笑みを浮かべて眠るようにして横たわっていた。
 ここまでが、わたしが彼の――アンドレ・ケイジのことについて話せるすべて。
 映画の好みとかガーデニングの趣味だとか、彼の顔のどこにホクロがあるかとか眼鏡を掛けなおす時の癖とか彼について話せることならまだたくさんあるけれ ど、残念ながら宇宙葬にした理由はわたしにもよくわからないというのが正直なところよ。
 ごめんなさいね。せっかく取材に来てくれたというのに力になれなくて。どれだけ長い時間を共にしてもわからないことってあるものなのよ。寂しいことだけ れど。
 ……たとえば、彼はわたしのことを愛してくれていたのかどうか、とか。
 あ、いいえ、なんでもないわ。……ただ、ちょっとね。時々、考えてしまうことがあるの。
 いまも話したとおり、わたしと彼は夫婦である以前に患者と主治医という立場だった。そして、もしかしたら、その立ち位置はあの人の中では一生変わらな かったんじゃないかって……。結婚して夫婦になったあとも、彼の目にはわたしは一患者としてしか映っていなかったんじゃないかって時々思ってしまうのよ。
 なにより、わたしはこんなだから、妻として女性としていったいどれほどのことが彼にしてあげられていたか。考えてみれば、夫婦らしいことなんてなにひと つ出来てはいなかったんじゃないか、って……。
 それは、彼と結婚してからずっと抱き続けてきた思いでもあった。最後の最後までそれを問いただす勇気をわたしは持つことができなかったけれど。
 でも、そう考えるとね、もしかしたら彼が宇宙葬を望んだのはわたしから自由になりたかったからじゃないかって。わたしだけじゃなく、彼のまわりを取り巻 いていたすべての柵から自由になりたくて宇宙に逃れようとしたんじゃないかって。……なんて、考えすぎかしらね。



 2、
 取材記者の青年を玄関先まで送り、リビングに戻ると静寂が待っていた。一人きりの静かな生活は慣れると気ままでよいものだが、奥底には常に名状しがたい 寂しさが漂っていて、それはふとしたときに表層に現われてアンジェリカの心に影を落とす。
 今日みたいに、たまの来客があったときには特にそうだ。
 火星特有の青い夕日がリビングを冷たく染めている。木目のフローリング。ふたり掛けのソファー。ガラス張りの天板が乗った小さなテーブル。少々型の古い テレビモニタ。キッチンとの仕切り壁に貼られたカレンダーは彼女の夫が亡くなった月で止まったまま。その隣には結婚三十年を記念して撮った夫婦の写真。紅 白の髪をした老夫婦が幸せそうに微笑んでいる姿がそこにはあった。
 それらすべてが青白く染められて、普段はキレイだと思えるその光景もいまはなんとなしに物悲しさを感じてしまう。
 リビングの入り口、車椅子に深く身を沈めたまましばらくその光景に見入っていた。
 アンドレがいた頃にはこの部屋にも物が溢れていた。大量の研究資料を持ってきてリビングで読みふけってそのままリビングに置きっぱなしにしたり、知人か ら預かったんだけどぼくの部屋には入りきらないからと言って研究用の植物プランターを並べてみたり、とにかく散らかすことに関してもアンドレは天才的才能 を発揮していた。おかげで、アンジェリカは一日中彼の後を追って散らかさないように注意して回らなければならなかった。
 それもいまは昔。
 あの頃とは違い、この部屋はだいぶ変化に乏しい場所になった。最低限必要なものしかなく、生活感に欠けるくらい閑散としている。たったひとり人が抜けた だけだというのに住み慣れた自分の家がずいぶんと広く大きく感じられた。彼女の小さな身体には広すぎる。
 それに音がしない。
 それまでは奥の研究室においてある機械の音が常に聞こえていたものだけれど、いまではそれも聞かれない。なにより、あの人の声が、あの人の生活音が、自 分以外の誰かがそこにいるという気配がなくなってしまった。
 なにもかもが変わってしまったんだと、いまさらながらに思わされる。
「どうしたんですか? 体調でも優れないのですか?」
 ふと声を掛けられて目を向けると、テレビモニタにはいつのまにかナヴィの姿があった。この家に住み始めてから共に過ごしてきたもうひとりの伴侶である。
 姿といっても、モニタに映し出されているのは青白く明滅する球体のまわりをふたつの小さな球が周回しているという無機質なグラフィックが表示されている だけだ。もちろん、そこに表情のようなものを読み取ることはできない。対人の会話に対応したセキュリティー用のA.Iにしては物足りない感がある。
 それでも、ナヴィの気遣いの言葉にアンジェリカの顔も思わずほころぶ。
「大丈夫よ、ナヴィ。心配してくれてありがとう」
「いえ、とんでもないです」
 実を言えば、壁に貼られたカレンダー同様、ナヴィもこの家の中で時間を止めてしまったもののひとつである。数年に一度の頻度でバージョンアップがされる ナヴィプログラムもこの家では十年以上も更新がされていない。そこには、いまのままでも充分に機能していて更新の必要性を感じないという建前と、生前の夫 を知る人(もの)を失いたくはないという心情が混じり合っていた。
「それよりも、あまり無理はなさらないでくださいね。――脈拍も血圧も正常値よりすこし高いようですし、体温も平熱より若干高い。おそらく、疲れからくる 体調の変化かと思われますが、風邪の前兆のようにも見えます。今日は、できるだけ早くお休みになった方がよいかと思いますが」
 すこしお節介に過ぎる住宅セキュリティーA.Iの忠告を聞きながら、アンジェリカは来訪者に出したコーヒーカップを片付けている。片手で電動の車椅子を 動かし、膝の上に載せたお盆にカップを載せキッチンへと運んでいく。
「そうね。たまのお客様だったから確かにずいぶんと疲れたわ」
 すべての家具が彼女の座高にあわせて作られていることもあって、慣れた手つきで数分としないうちに片付けを終えてしまった。キッチンからリビングへと 戻ってきて、テレビの上の時計に目をやる。
「それでも、まだ眠るにはすこし早いんじゃないかしら?」
 時刻はまだ、夕方の8時をまわったばかりだった。
「それに、まだ眠りたくない気分でもあるのよ」
「そうですか。いずれにしても、ご自愛ください。この前も、お風邪を召したばかりなのですから」
「ええ。ご忠告、感謝するわ」
 アンジェリカは車椅子から腰を浮かせ、テーブルに両手をついて身体を支えながらゆっくりと立ち上がり、そのままソファーへと身体を預けた。適当に番組を 選んでつけてちょうだい、とナヴィにリクエストすると、ほどなくしてヒーリングミュージックを扱う専門チャンネルが点けられた。どうやら、おせっかい A.Iはどうあってもアンジェリカを早めに休ませたいらしい。
 靄にかすむ深い森の中。細い白樺の木々の合間を縫って小川がサラサラと流れている。染み入るような水の音。小鳥たちの囀り。小動物の鳴き声。森に住む小 さな住人たちの歌。
 テレビモニタには火星にある人工的な自然とは違う、自然なままの森の映像が映し出され、ソプラノ歌手の清らかな歌声が流れてくる。
 意図はどうあれ、たまにはこういうのを聴くのもいいわね、とアンジェリカは思うのだった。このまま心地よい眠りに付くのもいいかもしれない。
 もしかして、「ソファで寝てはいけません」とナヴィに起こされてしまうかもしれないが、その時には「あなたが眠りに誘うような音楽を掛けるからいけない のよ」くらいは言い返してやろうか。
 同居人へのちょっとした意地悪を心に秘めながら、アンジェリカは静かに瞼を閉じる。
 そこでふと心に浮かんだ想いを、いまもこちらの様子を窺っているであろうナヴィに向けて口にした。
「……そういえば、あなたとの付き合いもずいぶんと長くなるわね、ナヴィ。いままで一緒に付き添ってくれてありがとう。あなたがいてくれたお陰で、どれだ け助けられたかわからない」
「どうしたんですか急に? なにか、あまりに唐突な言葉のように思われますが。――脳波には特に異常はないようですし、なにかしらの精神障害を発症するに はあまりに突然に過ぎますし。わたしのほうでなにか話を聞き漏らしていたでしょうか?」
「……いやねぇ、バカにして」
 洒落で言っているのか大真面目に心配してなのかはわからなかったが、ナヴィの大げさな言葉が可笑しくてアンジェリカは思わず笑ってしまった。
「すみません。話の筋が通らなかったといいますか、話の流れが読めなかったもので。というか、まるで突然に辞世の口上を聞かされているような気がしてしま い」
 その言葉を聞く限り、どうやら大真面目だったらしい。アンジェリカはもう堪えきれないといった様子で、目元には薄っすらと涙まで浮かべている。
 これ以上はなにを言っても逆効果と悟ってか、ナヴィは沈黙に徹することにしたようだ。
 しばらくのあいだ、アンジェリカの笑い声が続く。こうなると、ヒーリングミュージックも流麗なソプラノも台無しである。
 ひとしきり笑い終え、アンジェリカは手の甲で目元を拭いながら、
「……でも、ほんとうよ。あなたには感謝している。とくに、アンドレを失ってからはね。わたしにとってあなたは息子のようでもあるし、もうひとりの夫のよ うでもあるし。なにしろかけがえのない存在よ」
 そこでいったん区切り、モニタの隅に縮こまっているナヴィを見つめ、いたずらっぽく微笑みながら付け足した。
「ただ、ちょっと融通の効かないところとか、お節介に過ぎることがあるのはたまにキズだけれど」
 もちろん、本気でそう思っているわけではない。ときどき行き過ぎていると感じることはあっても、それは自分の身を案じてのことだと充分承知している。
 しかし、
「そう、ですか」
 からかい半分のアンジェリカに対して、ナヴィの声は急に張りをなくしてしまう。それは本当にわずかな変化だったが長年いっしょに過ごしているアンジェリ カにはハッキリとわかった。同時に、ナヴィがそこまでハッキリと感情を現した姿をアンジェリカは見たことがなかった。
 普段であれば「融通が効かないのは基本設定(デフォルト)です」とか「主人のお世話をしたり、お節介を焼くのもわたしの役割ですから」などとそっけな い答えが返ってくるところが、予想外の反応を返されてアンジェリカは戸惑う。
「いやだ、そんな深刻に受け止めないでちょうだい。ほんの冗談のつもりで言っただけなんだから」
「わかっています。わたしが言葉を詰まらせたのはそのことに関してではないんです、アンジェリカ。――ひとつだけ、お聞きしたいことがあるのですがよろし いでしょうか?」
「え? ええ。なにかしら?」
 アンジェリカの戸惑いはさらに深まる。ナヴィの声はとても真剣なものに聞こえたし、なによりナヴィからこれほど改まって質問を投げかけられるなんて初め てのことだった。
 テレビから流れていた音楽は消され、画面にはナヴィの姿だけが映し出されている。
 アンジェリカに苦痛にも似た緊張が走る。そして、
「さきほどの取材記者の方に話していた、『彼はわたしのことを愛してくれていたのかどうか』という疑問は、あなたの本心なのでしょうか?」
「…………」
 言葉が胸をえぐる。心の軋む音が聞こえた。
 ――彼はわたしのことを愛してくれていたのかどうか。
 その疑問を長年抱き続けてきたことに嘘はない。けれど同時に『そんなはずはない』と、『愛してくれているはず』と信じたい気持ちもあった。しかし、それ を信じるに足る言葉を彼から聞くことはついにできずじまいだった。半世紀近い月日をともに過ごしてきて果たして、「愛している」というそのたった一言を彼 の口から聞いたことはあっただろうか? 思考の行き着く先はいつも袋小路。
 ――彼はわたしのことを愛してくれていたのかどうか。
 袋小路に行き着くたびに、その疑念は色濃いものになっていた。それに呼応するように、膨れ上がる不安に押しつぶされるように、『そんなはずはない』とい う想いは霞んでいく。それでも、信じたい。時になじり合い、時に相手を悲しませたりしながらも、ふたり笑顔で過ごせた日々を。表面的なものではない、深い 心の繋がりがそこにあったんだと、信じたい。
 しかし、
「わたしにも、わからないのよ。彼がほんとうに私のことを好いてくれていたのか。ううん、違うわね。わたしが本当に聞きたかったのは『わたしと一緒になっ てほんとうに幸せだったのか?』ってことだと思う。もしかしたら、あの人にはもっと別の未来があって、あの日わたしが変なことを言って「結婚しよう」だな んて言い出さなければ、あの人はもっと自由に幸せに生きられたんじゃないかって。もっと違う人生を送れたんじゃないかって、そんなふうに考えてしまう と……」
 あとはもう言葉にならなかった。アンジェリカは沈痛な面持ちで口を瞑り、深く俯く。言いようのない静寂があたりを包む。
 しかし、その重苦しい沈黙はほどなくして、ナヴィの意外な言葉によって破られた。
 あなたが抱えていたその不安をもっと早くに知りたかったと前置きしてから、
「それならば心配することはありません。大丈夫、アンドレはあなたと過ごせてとても幸せであったし、あなたのことを心から愛していました」
 言っておきますけど、わたしには嘘をつく機能も備わっておりませんから、と後付けまでする。アンジェリカの方は、いきなりなにを言い出すのかと困惑した 表情でナヴィを見るばかりだ。アンジェリカの訝しげな視線を受けて、それでもナヴィはいつも通りの調子で続ける。
「ここでひとつ、ヒトの生き死にについて考察したいのですが。―― 一寸先は闇ということわざにもあるように、ヒトの人生というのは非常に予測が難しいもの です。先ほどまで元気だったヒトが事故で亡くなってしまう。昨日まで元気だったヒトが急病に倒れる。ヒトはいつ何時、どのような不幸に見舞われて命を落と してしまっても不思議ではない。アンジェリカ、それはあなた自身にも言えることですね?」
「ええ、まあ。その考えからすれば、わたしも明日死んでしまってもおかしくはないけれど――」
「『わたしも明日死んでしまってもおかしくはない』」
 アンジェリカの言葉を遮るようにテレビモニタから割り込んできたその声は紛れもなくアンジェリカ本人のものだった。どうやらナヴィが彼女の声を録音して いたらしい。
 いったいなにがしたいの? とアンジェリカが問いかける間もなく、矢継ぎ早にナヴィが続ける。
「上手に引っかかってくれてありがとう、アンジェリカ。おかげで非常に重要な証言を簡単に手にすることが出来ました」
「……ちょっと、ナヴィ。変なこと言ってからかうのはよしてちょうだい」
「決してからかってなどいません。アンジェリカ、聞いてください。実はわたしはとある故人から遺言を預かっているのです。しかし、その故人との間で、その メッセージを伝えるのは相手の死期が近づいた時にしてくれという約束を取り交わしていました。わたしはこの十年あまりの間、その約束に乗っ取って遺言の内 容を秘匿してきました。そして、いまその約束が果たされる時が来たのです。わたしは故人との約束を遵守し、先程の『わたしも明日死んでしまってもおかしく はない』という言葉を根拠にその相手に“死期が近づいた”と判断し、故人アンドレ・ケイジからの遺言をその妻であるアンジェリカ・ケイジ――あなたにお伝 えします」



 3、
 Title:“ふたたび肩寄せるその日まで”
 Sub:From André to Angelica.
 STYLE-MMPver8.0
 FILE-00152 SIZE:13.2MB
 Extract the file and start message.

 やあ、アンジィ。久しぶりだね、ととりあえずは言っておこうかな。
 ぼくからの突然のメッセージ、驚いてくれたかな? そうでなければ、死んだあとまで人を驚かすようなことしてくれるなって怒っているかな? もしそうだ としたらすまない。これはどうにもならないぼくの性みたいなものだからね。
 このメッセージを君が見ている時点で、おそらくぼくはもうこの世にはいないだろう。君も知っての通り、ぼくの身体を侵しつつある病魔は実にしつこいから ね。願わくは、ぼくやまわりの仲間とやってる研究がうまくいって、奇跡的に病気を治せたりなんかして、「実はこんなブイまで撮ってたんだよ」なんて笑いな がら君とこの映像を見られる日が来るとよいのだけれど、それはすこし難しそうだ。
 いま、君がこの映像を見ている時点でぼくが死んでしまってからどれくらい経っているかはわからないけれど。二年? 三年? ということはないだろうね。 どうだろう?
 ……っと、どうにも話がとっ散らかってしまってうまく本筋に入れないなぁ。
 とにかくだ。死んだあとまでこうして君の前に現れたのは、どうしても君に伝えておきたいことがあったからなんだ。
 本来なら面と向かって直接君に伝えたいところなんだが、なんというか、照れくさくてね。ついつい話をはぐらかそうとしてしまってどうにもうまく話せない んだな、これが。で、考えあぐねてこういう方法しか思いつかなかった。
 それで、……まずは君に謝らなくちゃだな。一緒に連れ添った四十年近く、ぼくは研究ばかりで夫としての役割を果たせていなかったんじゃないかと、いまさ らながら後悔している。ぼくは君といられてほんとうに幸せだった。けれど、君はどうだっただろう? もしかしたら、ずいぶんと寂しい思いをさせてしまった かもしれない。ほんとうにすまなかった。
 それでだ、非常に身勝手でなんの償いにもならないんだがひとつ提案があるんだ。
 ぼくの身体が宇宙葬にされるというのはもう君も知っていると思う。その理由について、君には「目立ちたいから」と言っていたと思うけれど、それは嘘だ。
 ほんとうの理由はだね、「夜空のお星様になって君のことを見守っていたいから」さ。どーだい、ロマンチックだろう? ……またなにかの冗談だと思ってい るかな? これでも本気だよ、ぼくは。
 それともうひとつ。もし君がこちらの世界に旅立つときになったら、その時にはぼくの遺骸と揃えて太陽葬に臥して欲しいと申請しているんだ。
 でもその時までにはぼくの身体はたぶん骨だけになってしまうからね。君も骨だけになってしまったぼくとご対面、なんてイヤだろう。そのための宇宙葬でも あるんだ。水分がぬけて多少しわしわになってしまってるかもしれないけれど、骨だけになってしまうよりはマシだと思う。
 どーだい、人生の最後に夫婦ふたりで太陽までハネムーンなんてステキだろう?
 ……もちろん、これはぼくのわがままだ。君には拒否権がある。イヤだと思ったなら、気にしないでいい、素直に断ってしまっていいよ。さんざん寂しい思い をさせてくれた男と死んだあとまで付き合いたくはないだろうからね。
 それでも、ぼくは信じて待ってる。なぁんて、こんなセリフ使うのは卑怯かな? でも、ほんとうだ。ふたたび肩寄せるその日まで、ぼくはフォボスから君の ことを見守りながら待ってるよ。
 さて、あまり長話をしていても仕方がないから、そろそろ終えるとするよ。じゃあ、また。
 …………。
 最後にもうひとつだけ。たぶん、これも面と向かっては最期までいえないだろうから。



 ぼくは、君と一緒にいられたことをとても幸せに感じています。愛しているよ、アンジェリカ。……心の底から、君を愛してる。



−END−



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