楡崎瞬


 父の古くからの友人に、素也という一風変わった人間がいた。私自身は話に聞くだけでお会いしたことはなかった。その素也氏の秘密について父が話してくれたのは、偶然なのだろうか、父が心不全で急死する数日前のことだった。
 もっともこの話は、素也氏自身が隠していたわけでもなく、父と仲の良かった大介氏や博之氏も周知であったが、父はこれまで私には言わないでいた話だった。


 素也氏が大学を中退して定職に就き始めた頃、体調が思わしくなく、入退院を繰り返していると聞いた。ある日突然、素也氏から電話がかかってきた時の成り行きで、そのうちに一度遊びに来るということになった。
 正直、一風変わり者と表されはじめてからの素也とは、あまり関係を持ちたくなかった。よって、そのような人物が来訪してくることは、まさに嬉しくない。電話口でもあまり歓迎しない口調と気持ちで接したのにもかかわらず、相手は自分の言いたいことだけを述べて一方的に電話を切ってしまった。そして素也は律儀な性格の通り、早速、私を訪ねてきたというわけだ。おまえの生まれる前の話だ。
 断っておくが、外見的に素也は『変わり者』には見えない。精神を煩っているような雰囲気も醸し出してはいない。目つきは鋭いが薄気味悪いわけでもないし、少し太めの体も、その辺りを歩いているサラリーマンそのものだった。
 久しぶりの歓談だったので、私は徐々に身構えていた心の氷も溶け、気を許し始めた時のことだった。素也は急に話題を転換して、こんな事を言いだした。
「夜中に頭が胴体を離れて飛び回る種族がいるっていうのを、信じるかい?」
「噂には聞いたことがあるが、変わった病気だな」
「いいや、病気じゃない、種族だ」
「妖怪や物の怪の類の間違いではないのか?」
「あぁ、そうかもしれない…ところで君は独り身なのかい?」
「いいや、君を結婚式へ呼んだと思うが、結婚している。生憎、妻は急用で一昨日から実家に帰っている」
「そうか、実は僕も女と一緒に暮らしていたのだけれどね」
「なぜ過去形なんだ?」
「女と言ってもまだ十六の少女だった、名は瞳というんだ」
「あぁ、大介から聞いた気がする、たしか孤児院から引き取った少女だそうだな」
「そうだ。汚れを落として整髪し、化粧を施したら、もの凄い美少女だった」
「そうか、そして君はその少女を酒の肴にした、と?」
 相手のその友人は、精神状態が不安定になりやすいと言うことを忘れてすっかり口が滑ったが、彼は寂しそうに苦笑した。
「僕らは夫婦にはなれなかった…戸籍上、僕の娘と言うことになっていたしね。それに…」
 素也は一瞬躊躇して、言葉を飲み込んだようだった。
「…それでもある日、僕は瞳の部屋に忍び込んでいった。一人で寝たがる娘だったしね、年齢的にも養父と二人きりで一つ屋根の下で暮らすというのには、やはり抵抗があったのかもしれない」
 私は煙草に火をつけて、明らかに次の言葉を待ってしまった。密やかではあるが、彼の話に引き付けられ始めていたのだ。
「さぞや可愛い寝顔をして眠っていることだろう。そう思うととてもじゃないが堪らない。寝顔をちょっとだけ見るだけだからと、自分に言い聞かせて忍び込んだのさ…ところが、そこには寝顔がない」
「…寝顔がない?」
「正確に言うと、首から上…そう、頭がないんだ。殺人事件かと思って一瞬取り乱したが、血が流れしたたり落ちている風でもない。それどころか、胴体は生きているらしくて、程良く膨らんだ胸が上下しているのが月明かりに照らされてよく判った…」
「…」
「一体どこで息をしているのかは判らないが、恐る恐る近寄ってみると、胸の谷間にはうっすらと汗が光っている。でも、首から上はないんだ」
 私は火をつけた煙草を口に持っていくことすら忘れてしまっていた。灰が卓袱台に落ちた瞬間に、指の先が軽くなったのに気づいて、慌てて台布巾で払いのけ、素也の顔をまじまじと見つめてしまったのだ。
「…君もおかしな奴だと思うだろう。でも、それほど愕いていないようだから良かった」
「いや、十分に愕いている…」
 そろそろ一風変わった人格が姿を現し始めたのだろうと思い、私は刺激しないように努めることにした。今は、彼の話を最後まで聞いてやることが必要だと思ったのだ、下手に刺激して、彼が予期せぬ行動に出られることが怖かったからだ。
「心底、驚愕したよ、僕は。同時に頭が混乱したけれど、それを押さえつけるほどの魅力を、瞳は持っていた…」
 素也がここで大きく息を吸うと茶を口に運んだ。一挙一頭足を私は注視していた。
「よからぬ気持ちが蠢動し始めて、頭頂が一気に熱くなって、体の底から何かが麻痺してしまった。首のない瞳は意識も思考もなしに生きている。彼女の手を取ってみると生暖かいし、しばらく握りしめていると汗ばんでくる。月明かりに照らされて、布団の下にある胴体が手に取るように把握できた。どうやら軽く脚を開き加減にして投げ出している。今の若者の脚は、よく伸びてすらっとしていて良い形をしている。とても、華奢で端正なのだよ」
「…」
「それでも何とか思いとどまり、その夜は何事にも発展しなかった。朝になって彼女と顔を合わせると、瞳はいつも通りに起きていて、僕に朝食を作ってくれていた。夜中にあのような変事があった様子はどこにもなく、それからしばらく、僕は彼女の様子を夜な夜な観察したのだ。そして僕は、一つの結論を出した」
「結論とは?」
「どうやら瞳は、夜中に自分の首が胴を離れてどこかへ飛んでいっていることを知らないらしいことだ」
「…ということは、首が躰を留守にしている間に悪戯されても気づかないということか?」
「その通りだ…だが、胴は知っているはずだ。」
 私は生唾を飲んでいた。
「ある夜、私はとうとう彼女の胴を抱いてしまった。それから毎晩、彼女と男女の交わりを愉しんだ。そう、久しぶりだったからね、たがが外れたのかも知れない…。結果、一晩で可能な限り貪り続けた。ましてや、首のない躰は無抵抗だ。寧ろ何回か繰り返しているうちに迎え入れてくれるような反応があった。そのうちに快楽を覚えたのだろう、お互いに良い具合になった、と思う。少なくとも僕にとっては非常に良い具合だった」
「相手が若い娘だったからということではないのか?」
「そうかも知れない…でも、蒲田や五反田あたりで遊ぶのとは格別に違うのは事実だ。それに最も良いのは、このような行為が一切、首のある瞳自身には伝わっていないらしいことだった。胴は夜毎の体験を首や頭に伝達するすべを持ち合わせていないというわけだ」
「と、ところで…」
 私は堪りかねて話を別の方向に外らした。
「首は…頭は一体どこへ飛んでいくのだ?」
 素也は妙な含み笑いをしながら、私を直視した。一風変わっている男のそれは、何とも気味の良いものではない。
「ある日、瞳が真剣な顔をして告白してきたのだ。『好きな人ができた』『毎晩、その人の家へ密かに通う夢を見る』とね。勿論、彼女の恋人とは僕のことではない」
「…そして君は、猛烈に嫉妬した…」
「いや、そのような単純な感情ではなかったな。僕は些か父親のそれらしい感情を抱けた。お前が嫁に行きたいのなら行ってしまえ、その代わり躰はここにおいて行けと言いたかったのが本音だったがね」
「相変わらず悪い奴だな、君は」
「口になんて出せないさ、ところが瞳は嗚咽しながら『その人とは結婚できない』という。なぜならその人には家庭があるからだというのだ」
 私はこれ以上、彼の話を聞いてはいけないと思った。いや、彼の話を聞きたくなかったのだろう。だから体よくあしらうために、素也に結末を急がせることにしたのだ。結局、結末はこんな案配だった。
「君が嫉妬のことを言ったのは正しいな。やはりこんな僕でも人並み以上に嫉妬したよ。嫉妬が高じて僕は大切なものを失ってしまった…」
「失ったとは…?」
 私の手は、明らかに震えていた。
「ある明け方、瞳の首は逢瀬から帰ってきた。首から上が実際に飛んでいるところを見たのは、それが初めてだった。しかし彼女のそれは明らかに恋する乙女の顔をしていた。いかにも喜びに満ち満ちている様子だったから、僕は心の底から怒り狂ってしまったのだ。とっさに胴の下にあるシーツを引っぺがして、それを首が収まるところにぐるぐる巻きにしてしまったのだ。首と胴体が戻れないようにね。彼女の表情はみるみる曇り、狼狽して部屋中を飛び回っていたが、胴と意志疎通ができないのだから、胴は何もすることはない。彼女は僕の姿を見つけてじっと見つめたけれど、許しを請うような様子もない。しばらくすると、首から上の瞳の表情がみるみる苦痛に歪み始めた。そして朝日が完全に昇ると同時に、彼女は僕の足下に首を転がして事切れてしまった…」
「むごい…」
「…すでに後の祭りだった。首は見る見る生気を失って、あたかも古代へと遡るように乾燥し、皺だらけになってしまった…そして小さく小さくなってしまったのさ」
 素也の尋常でない乾いた笑い声が、部屋に響きわたった。私は目の前が真っ暗になった気がしていたのさ。そんな矢先だった。おもむろに素也は持ってきた鞄のふたを開け、何やら卓袱台の上に茶色いものを置いたのだ。
 思わず叫び出しそうになたが、制止する暇もないくらい唐突なものだった。土偶のようなミイラのような、でも間違いなく首だった。私はそれを見ると目を外らすことができなくなってしまった。たぶん、それは私だったからだろう。何しろ、それは毎晩のように私の元へ飛んできてくれた、忘れられない顔のなれの果てだと確信してしまったからね。

 これより先の話は、父が素也氏にはしなかった部分である。瞳という名の美少女の首は、夜毎に父のところへ飛んできて、逢瀬を繰り返したのだという。
 父の話では、最初、何か鳥のようなものが窓ガラスにぶつかったのだろうと思っていたらしい。それが毎晩、決まった時間に起こるようになったことに気づき、その後には必ず甘える仔猫の鳴き声に似た声が聞こえたといっていた。
 父が窓外を見ると、首が空中に浮かんでいた。最初は驚愕したようだが、あまりの美しさと、その悲痛な表情から、ある夜よりその窓から迎え入れたらしい。
 深夜、書斎で小説を書きながら父は冷たく冷え切った彼女の髪を撫で上げる。そしてどのような睦言を交わしあったのだろうか。そのあたりの出来事を、父は多くを語らなかったが、想像してみては胸の奥が少し痛んだ。何故なら、その瞬間の父の顔を思い浮かべると、たぶん正視に耐えるものではなかろうことが判っていたからだった。
「死んだお母さんは、このことを知らない。しかし、お前にはいつかちゃんと話しておかなければならないと思っていた。何故なら…」
 言いかけて、父は咳き込んだ。たぶん一瞬のうちに思いを巡らせ、躊躇った結果だったのだろうと、今になって思う。
「その前に素也のことだが…彼は瞳の首から上を殺したことになるが、それから何日間か、胴の方は生きていた。やがて胴の方も弱って死んでしまったのだが、その死の直前に女児を産み落とした。お前も大介や博之から聞かされて知っているとおり、当時、素也は大変な猟奇殺人を犯したと言うことで逮捕され、先日死刑執行されたな。分裂症と診断されれば不起訴処分だったかも知れないが、奴の運が悪いのは、彼女の死のおかげで正常に戻ってしまったことなのだろうと、私は今でも思っているよ…」
 一瞬、父の呼吸が苦しくなったように見えた。それでも父は話すことを止めなかった。
「そしてその女児は、私が引き取って自分の子供として育て上げたのだ。ここまで話せば判るだろう…」
 父は大きく息を吸った。
「…お前が…その…、例の『病気』を受け継いでしまっているのかどうかは定かではない。そしてそれを確かめてみる勇気を私は持ち合わせていない…きっとこれからも素也のように確かめるようなことは、決してしないだろう」

 父が急死したあと、私はこの話を毎日のように反芻している。
 幸いにも私には過去にも現在にも恋人はいない。自分から恋心を抱いたことなどさらさらない。
 ましてや、夢で恋人との逢瀬を繰り返しているような、そんな出会いも身に覚えがない。だから、首はまだ飛び始めていないと思う。異性に限らず、人を性的に愛することさえしなければ、私の首は決して飛ぶことはないと思っている。


―― 終 ――


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