「カフカ」
武石大介
目が覚めると、私はゴキブリになっていた。
寝巻きの間から這い出して、布団の隙間を潜り抜けると、部屋は少し明るくなっていた。どうやらそろそろ夜が明けるようだ。
生後十ヶ月の倅が目を覚ましかけてもぞもぞしている…が、暫く見ていると、また寝息を立てはじめた。そうか、もう少し眠るのか。可愛いものだ。
妻はまだ目覚める気配が無い。今のうちに食事を摂っておこう。
私はベッドから這い降りる…頭を下に向けて。すごい。なんと軽く強い体なのだろう。人間だったら逆さまに墜落してしまう。
寝室の扉は閉まっていたが問題無い。扉と床の隙間で十分だ。とても便利だ。
お次は階段だ。どうやって降りようか。壁を這うのもいい。段差通りに床を這うのも捨てがたい。あるいは二階の床から一階の天井へと這ってみるのも粋というものか。そうしよう。
私は胸ときめかせながら壁を伝い、階段の吹抜けの壁まで向かう。この家には四年住んでいるが、この壁に触れるのは初めてだ。
大丈夫だろうか。落ちたりしないだろうか。少々恐怖心もある。無理もない。昨夜まで私は人間だったのだ。
私は恐る恐る腕を伸ばす…おお!全く問題無い!私は今、天井に張り付いている!これは素晴らしい!今や私は、天井をも這えるようになったのだ!
これがどういう事かお解りだろうか。単純に考えて、私は二倍の広さの家を手に入れたようなものなのだ。これからは天井が延床面積に含まれるのだ。
とはいえ、よく考えてみると、今の私は狭い所の方が好きかもしれない。
私は気を取り直すと、台所に向かう。さて…ここは妻によって、よく管理されている。ゴキブリとなった私が食料を見つけ出せるだろうか。
残念ながら、冷蔵庫の扉は私の力では開ける事が出来ない。野菜室に潜り込めれば、キャベツの切れ端にありつけるのだが。
シンクの下はどうか。この扉は閉まっていても、今の体なら這い入る事は難しくない。
私はそこに入り込む。今の私はこういう場所の方が心が安らぐ。さて…辺りを見回してはみるものの。ここにあるのは鍋や調味料ばかり。食料は無さそうに見える。
しかし、なんだろう。嗅覚というか第六感というか…これがゴキブリの能力だろうか。何かが私に告げている。御馳走はすぐ近くにあると。
私は何を食べられるのだろう…瓶に入った醤油ではあるまい…他にはサラダ油のボトルくらいしか…サラダ油。
サラダ油のボトルだ。私はそこに駆け寄る。ボトルからほんの少し垂れた油が床に…これだ。私はそこに口をつけて啜る。美味い。美味い。
こうしてみると、人間の暮らしには、なんなりと隙というものがあるものだ。我等が繁栄するわけである。
二階で泣き声がする。行かなくては。こんな姿でも私はあれの父親だ。シンクの下からキッチンの床、壁、天井、そして吹抜けから二階へ、私は素早く這って行く。しかし速い。素晴らしい体だ。
扉の隙間から寝室に戻る。倅は起きかけてグズッている。やれやれ。起きるなら起きればいいじゃないか。そういう所がまた可愛いのだが。
さて。倅のところに駆け寄ってはみたものの。この体では倅の体を起こしてやる事が出来ない。起きぐずりをしている倅を泣き止ませるには、上半身を起こして座らせてやるのが一番なのだが…早くしないと、妻が目覚めてしまう。もう朝なんだし目覚めてもいいのだが、なるだけ自然に目覚めさせてやりたいのだ。
とりあえず、もう一度寝かしつけるか。私は倅の体に這い上り、胸のあたりを、とんとんと、叩いてみる。眠れ、眠れ、良い子よ。
倅が突然泣き止んだ。と思うと、渇と目を見開いた。起きたか…ややっ!しまった。
なんという早業。倅よ、見直したぞ…私は倅の手に捕らえられていた。起き抜けに一閃である。素晴らしい。倅は私をつまみ上げ、しげしげと見つめている。嫌な予感がする。
駄目だ!ポイしなさい!私はゴキブリだぞ!食べるな!食べられない!汚いから、捨てなさい!
ニンマリと、倅が笑った。可愛い。次の瞬間、私は凄い勢いでベッドに叩きつけられていた。正確には、倅が機嫌を良くして腕を振り回し、その手から私が滑り落ちて、つまり投げ捨てられた格好になり、その先にベッドのマットレスがあった、というわけだ。ゴキブリでなければ、全身打撲になっていたかもしれない。
やれやれ。ともかく、倅は機嫌を直して泣き止んだ。これで一安心だ…とはいえ、切ないものだなあ。ゴキブリになってしまうと、倅と触れ合うのも一苦労だ。
ふと、私は窓の外に目をやる。ああ、とてもいい天気だ…そうだ。空を飛ぼう。仲間達はそんな事はしないらしいが、私はただのゴキブリではない。こんな日に大空を飛んだら、きっと気持ちがいいに違いない。
私はさっそく、エアコンの排気口の隙間から外に這い出る。眩暈がする程空が青い。さあ、翼を広げて飛び立とう。何故ゴキブリになったのか、どうすれば人間に戻れるのか…それが解らないのが、少々不安ではあるが。