冬の白猫
Taku
雪が降ってきていた。
外。はらはらと舞い散る粉雪が、道路を白く染め始めている。このまま降り続ければ、積もるのも時間の問題だろう。去年の終わりまでは晴れていたのに、今年に入って、一月二日あたりから本格的に雪が降り出してきた。世界的な暖冬だったのが嘘のように、今では、毎日のように雪が降り、冷たい風が吹いている。
私は、ダンボールハウスの中で、毛布を二枚重ねて身体に掛けていた。
ダンボールハウスの中は寒い。床には、ダンボール板を二枚敷き、さらにその上にゴザを敷いているのに、冷気が身体に沁みてくる。外で吹いている風が強いためか、ダンボールハウスの隙間からでも冷たい風が入ってきていた。
私は一度身体を震わせてから、はぁ、と息を吐いた。白い吐息がハウスの中で霧散していく。
ハウスの中は狭かった。胡坐をかいていても、頭が天井に届きそうなくらい低く、私一人が座っているだけでも、窮屈に感じてしまうくらいに狭い。ホームレスになって五年ほど経つが、いまだにこのハウスの狭さには慣れていなかった。
もう一度息を吐いた。それから欠伸をした。睡眠は充分にとってあるはずなのに、眠い。おそらく、気温と身体冷えているからだろう。目尻に溜まった涙を指先で拭って、私はゆっくりと両眼を閉じた。そのとき、ダンボール版で出来たドアが、外側からノックされる音がした。それから声が聞こえてきた。
「星野さん、起きてる?」それはまだ若い声だった。
聞き覚えのある声。二つ隣のダンボールハウスに住むホームレス仲間、倉本 哲也の声だ。私は両眼を開けて答えた。
「ああ、起きてるよ、哲。なにか用かい?」
「いや、ちょっとね。もう、昼ご飯を食べたかなと思ってさ」
声には、かすかな躊躇いの響きが感じられた。だが私はそのことよりも、もうすでにお昼になっていることのほうが驚きだった。聞いた。
「昼? もうそんな時間なのか?」
「なにいってんの、星野さん。もう一時過ぎてるよ」
「そうか。もうそんな時間か」
「あ、もしかして眠ってた?」
「ああ」
「じゃあ、起こして悪かったかな」
「いや、ちょうど起きようと思っていたんだ。それで、昼ご飯がどうかしたのか?」
「ああ、ちょっとさ、コンビニ弁当が手に入ったから、一緒にどうかなと思ってね」
「そうだな」と私は答えた。「迷惑でなければ、一緒にいただこう。最近、まともなご飯にありつけていなくてね」
「ま、確かにこの辺は、生ゴミの規制が厳しいからね」という呑気な声のあと、哲は言ってきた。「オーケー。それじゃあ、出てきなよ。俺のところで食べよう」
「わかった」私は頷いて、毛布を身体に掛けたまま、ハウスから這い出た。
最初に見えたのは、眩しさだった。視界いっぱいに刺激的な光が飛び込んでくる。思わず眼を細めた。光の正体は雪だった。コンクリートの道路に積もった雪が、陽の光を反射して、眩しく輝いている。私は空を見上げた。さきほどまで降っていた雪はいつのまにか止んでいる。
「おはよう、星野さん」
しゃがみ込んだまま空を見上げてると、声が聞こえてきた。そのほうに顔をやった。私と同じように、哲も身体に毛布を掛けて立っていた。
哲は、三十歳前後の男だった。正確な年齢は分からないが、私より十歳は若い、ということは知っていた。黒色のニット帽をかぶり、顎には髭を伸ばしている。私のような無精髭ではなく、ちゃんと手入れされている顎髭だ。
私は立ち上がり、伸びをした。そのとき欠伸が漏れた。それは大きな欠伸だった。
「眠たそうだね、星野さん」と哲が言ってきた。「やっぱり、起こさないほうが良かったかな?」
「いや」と私は首を振った。目尻に溜まった涙を拭いてから言う。「さっきも言ったが、最近、まともなご飯を食べていなくてね。ちょうど、お腹が空いてたんだ」
「そうか、よかった。じゃあ、行こう」
そう言って哲が歩き出した。私もそのあとに続いた。天気が良かった。だが風が吹いている。その風は弱いが、肌を切り裂くような冷気を感じられた。
哲のダンボールハウスは、ここら辺の中では一番立派なものだった。一メートルくらいの高さに、四畳ほどの大きさ。ダンボール板を二重三重に重ねて頑丈にし、どこにも隙間がない。つねに隙間風が入ってくる私のハウスとは大違いだった。
「さ、入ってくれよ」
哲がドア代わりのダンボール板を開けて、言った。私は遠慮せずにその中に入っていった。私が入ってから哲も入って、ドアを閉める。
室内は広かった。その中に様々なものが置いてあった。缶ビールの空缶に、何年か前の雑誌。小型のラジオに、カセットウォークマン。ヘミングウェイの文庫本。一番古い型のゲームボーイ・・・・・。
室内は乱雑としていた。私は何冊かの少年誌を隅のほうにやり、その空いたスペースに腰を下ろした。胡坐をかく。哲も、私と向き合うようにして胡坐をかいていた。
哲が、端に置いてあるダンボール箱の中から、コンビニ弁当を二つ、取り出す。そしてそのうちの一つと割り箸を、私に差し出してきた。すまない、と礼を言って受け取った。それから聞いた。
「ところで、この弁当はどこで手に入れたんだ?」
「買ったんだよ、コンビニで。ちゃんと金払ってね」
「しかし、そんな金」どこにあるんだ、と言いかけて、私はひとつのことを思い出した。そのことを口にする。「そうか。そういえば、去年の有馬記念、当てたそうだな。その配当金で買ったのか?」
私がそう聞くと、哲はおかしそうに笑った。
「おいおい、星野さん。いつの話をしてるんだよ。もうあれから、三週間は過ぎてるよ。それに、あのときの有馬記念は一番人気のディープインパクトが来て、あまり儲からなかったしな」
「なら、この弁当はどうしたんだ?」
「だから買ったんだって」
「金は?」
「恵んで貰った」
「恵んで貰った? 誰からだ?」
「神社の神主さんからさ」哲は言った。「この近くにさ、神社があるだろ? ここから歩いて五分くらいのところにさ」
「ああ」
「俺さ、元日にそこにお参りにいったんだよ。初詣ってやつに。そしたらさ、そこの神主が良い人でさ。ホームレスだからお金が無い、って言ったら、お賽銭の一部を恵んでくれたんだよ。二千円ほどね」
「なるほどな。なら、私もあとで行ってみようかな」
「多分、あの神主さんなら、星野さんにもお賽銭の一部を恵んでくれると思うよ。ま、そういうわけだから、食べようぜ。まともなご飯、久しぶりなんだろ?」
「確かにな。それじゃあ、いただこうか」と私は言った。
お互いに、いただきます、と言って弁当を食べ始める。私は身体に毛布を掛けているものの、手がかじかんでしまっていて、上手く割り箸を使えなかった。ご飯粒がぽろぽろと落ちた。だが哲はそんなことを気にしなかった。彼の手もかじかんでいるようで、上手く弁当を食べれていなかった。私はなるべくご飯粒を落とさないように注意して、弁当を食べながら聞いた。
「そういえば、最近、老人たちの姿が見えないな。どこにいったか知ってるか?」
「留置所だろ」と私の問いに、哲が顔を上げて言ってくる。「あの人たちはいつも、年末年始は留置所で過ごすようにしてるからね」
「ああ、そういえばそうだったな」と私は頷いた。
老人たち、というのは、ここら辺に住む年寄りのホームレスのことだった。彼らは六十歳をとうに過ぎている老人たちで、冬になるとその寒さが厳しいらしく、つまらない小さな事件を起こし、警察の世話になるのだった。私は言った。
「留置所はいいところらしいな。私は入ったことがないが」
「うん、まあ、いいっていえば、いいんじゃない。暖房は効いてるし、ご飯は食べさせてくれるしね」
「なら、私も来年あたり、世話になってみるかな」
私が何気無くそう言うと、哲はあからさまに不機嫌そうな顔になった。その顔のまま言ってくる。
「おいおい、星野さん。ホームレスが警察の世話になるなんて、恥知らずもいいとこだぜ。俺らホームレスにとって、警察は敵なはずだろ」
「そう思っているのは、哲だけだろう?」
私がそう言うと、哲は相変わらずの不機嫌な顔のまま、押し黙った。彼は警察のことを嫌っていた。なぜ嫌うのかは分からないが、昔、彼が暴走族をしていたときに色々あったらしい、ということは聞いて知っていた。私は言った。
「だがまあ、老人たちにとってはいいことだろうな。警察の世話になるのは」
「そうかな?」
「そうさ。今年はまだないが、去年はホームレス狩りがひどかったからな。老人たちからしてみれば、ここにいるよりも、留置所にいるほうが安全だろう」
「まあ、それはそうだけど」と、哲が曖昧に頷いた。
去年の秋くらいから、中高生によるホームレス狩りが多発し、何人も死人が出ている。そのニュースは哲も知っていた。ホームレス狩りをする理由は、ただの遊びやいくらかの金欲しさなのだろうが、狩られる立場の人間からしてみれば、武器を持っている数人に一斉に襲われるのはたまらないし、せっかく集めた金を持っていかれるのは何よりもつらい。私たちホームレスにとっては、百円だろうが大金なのだ。
不意に、哲が小型のラジオのスイッチを入れた。雑音が流れ始める。たまに音楽や声が聞こえてくるものの、ほとんどは雑音だけだった。
「やっぱダメか」スイッチを切って、哲は言った。
私は聞いた。「そのラジオ、どうしたんだ?」
「拾ってきたんだよ。ゴミ捨て場から」
「ほう、そんなものも捨てられているのか」
「うん。まあ、半分壊れてたのを、俺が直したんだけどね。でももう、無理みたい。電源は入るけど、受信しないもん。やっぱ、アンテナがないとダメなんだろうな」
そう言って哲は、カセットウォークマンを手に取った。イヤホンを耳にする。かすかに音楽が漏れて聞こえてきた。それはひと少し前に流行った、ロックバンドの曲だった。哲は音楽を聴きながら、指でリズムを取っている。私はそれを見て、懐かしい思いが胸に去来してきた。それは幸せだった過去の名残のような想いだった。私は聞いた。
「哲」
「ん?」
「そのウォークマンも、拾ってきたのか?」
「いや、これは自分の持ち物さ。東京に来るときに、家から持ってきたんだ」
「そうか」
「星野さん、これがどうかしたのかい?」
「いや、ちょっとな」と私は首を左右に振った。「昔、娘に同じものをプレゼントしたことを思い出してね」
「へえ」と哲が驚いた声を上げた。「星野さん、あんた、娘がいたんだ。ていうか、結婚してたんだ」
「ああ、ずいぶん昔のことだがね」
そう言って私は昔のことを思い出した。
今からだいたい十年ほど前のこと。私は結婚し、子供もいて、幸せだった。小さな工場を持っていて、仲間がいて、一緒に働いていた。仕事は大変だったが、それでも幸せだった。正月は家族三人で過ごした。貧乏だったため、あまりたいしたお祝いも出来なかったが、それでも家族がいれば、それだけで幸せだった。そんな時代があった。だがそんな時代も、まるで幻のように一瞬で消え去ってしまう。バブルの崩壊。長引く不況。それらのせいで景気が落ちて、借金が出来て、工場は倒産。仲間は私の元を去り、妻も、娘を連れて家を出て行った。一人残された私には、なにも無かった。なにも無くなっていた。もう一度工場をやる根気もなかった。そして私は悪質な金融屋から全てを奪われ、ホームレスになった。今でもあのときのことは思い出す。そしてあの幸せだった時代も。もしもあのまま、会社が倒産しなかったら・・・・・。
私は首を左右に振って、割り箸を置いた。思い出しても仕方のないことだった。所詮、過去は過去なのだ。いくら思っても、やり直しが聞くわけでもないし、そのときに戻るわけでもない。ただ過ぎ去った時間の感傷に浸るだけで、そこからはなにも生まれはしない。分かっていた。分かっていたが、それでも、ほんの一瞬だけ思うときがある。もしもあのまま、と。
私はダンボール板で出来たドアを開け、哲に向かって言った。
「それじゃあ、私は自分のところへ戻るよ。昼ご飯、ありがとう」
「いや、いいよ、気にしなくて」
哲は笑ってそう言った。私はダンボールハウスから這い出た。
外は、晴れていた。だがまだ雪が積もっている。完全に解けるには、一晩は掛かるだろうか。私がそう思っていると、不意に、雪の塊が動いた。いや、雪の塊だと思っていたのは、一匹の猫だった。雪のような白い毛並みをした猫。それが雪が積もっている外の景色とまじりあっていた。
猫が顔を上げた。私のほうを見る。するとすぐに、こちらに走ってきた。後ろ足で蹴られた雪がはらはらと舞っていた。
猫は私の足に身を寄せて、何日も洗っていないズボンに顔をすり合わせてきた。どうしたものかと私が立ちすくんでいると、後ろから声が聞こえてきた。
「どうしたの、星野さん。ぼー、と突っ立ってさ」それは哲だった。
ダンボールハウスから顔を出して、哲は私のほうを見ていた。
「いや」と私は言って、足に身を寄せている猫を抱きかかえた。「猫がいたんでね」
「猫?」哲は眼を瞬かせてから、私が抱いている猫に眼をやった。言ってくる。「あ、本当だ。こいつ、野良かな?」
「いや、捨て猫みたいだ。首に、首輪をしていた跡がある」
「ふうん。で、そいつ、どうするの?」
「どうするって?」
「星野さん、飼うの?」
「なんで私が」
「だってそいつ、星野さんに懐いてるじゃん」
そう言って、哲がまた猫のほうに眼をやった。私も猫のほうを見た。猫も私のほうを見ていた。まんまるな純真の色をした黒の瞳が、まるでご主人様に会えたときのように輝いていた。私はため息をついた。哲が言ってきた。
「いいじゃん、猫ぐらい。そいつ、捨て猫なんだかさ、ここで飼っても誰にも文句は言われないだろうし。それに、そいつだって一人で寂しいんだよ、きっと」
哲が言い終わると同時に、猫がニャーと鳴いた。私は、分かった、と返事をした。
「確かに、捨て猫のようだしな。このまま放って置くのも可哀想だし、私が飼おう」
「ああ、それがいいね。ホームレスが猫飼ってたって、誰も文句はつけないしね。あ、そうだ、これ、やるよ」
そう言って哲は、コンビニ弁当を差し出してきた。それはさきほど食べたものと同じ弁当だった。哲が言ってくる。
「これ、猫と一緒に食べなよ。きっとそいつも、腹減ってると思うからさ」
「ああ、そうだな。ありがとう。このお礼は、いつか必ずするよ」
「別にいいよ。俺が好きでやってるんだから。それよりも、猫と仲良くね」
「ああ。それじゃあ」
私はそう言って、弁当を受け取り、猫を抱いたまま歩き始めた。すぐ後ろからは、ダンボール板のドアが閉まる音が聞こえてくる。私は猫の背中を撫でて言った。
「まず、お前の名前を決めないとな」
私の言葉に、猫はニャーと鳴いて答えた。空では太陽が眩しく輝いている。冬に似つかわしくないその陽射しは、春のように穏やかだった。雪が解けるのも時間の問題だろう。私は猫を抱いたまま歩き出した。
太陽の光を反射して、路地に積もった雪がきらきらと光り輝いていた。