幻肢痛
Taku


 二月の終わりに、少し雪が降った。
 僕は病室でただ横になっているのも退屈で、ベットから起き上がり、両脇に松葉杖を挟んで、中庭に出かけた。
 外は晴れていた。降り注ぐ陽射しはまるで春のように、ぽかぽかとしている。これなら、かすかに芝生に積もった雪もすぐに解けるだろう。僕は松葉杖と自分の左脚を使って歩き、ベンチにまで行き、その上に積もっている雪を手で払い、腰掛けた。
 中庭には、僕のような入院患者の姿が数人、見える。リハビリか、それともただの散歩か、もしくは僕のように退屈しのぎに来たのか、判断はつきかねたが、とにかく、中庭には数人の入院患者の姿があった。
 僕は松葉杖をすぐ隣に置いて、大きく伸びをした。それから欠伸をした。目尻に溜まった涙を指で拭いたとき、後ろから声が掛かってきた。
「佐藤さん」それはまだ若い女性の声だった。
 僕はベンチに座ったまま振り返った。こちらに向かって歩いてくる、若い看護婦の姿が見えた。
 年齢は二十歳半ばくらいだろうか。すらりとした細身の身体に、ベリーショートの黒髪。その整った顔立ちは美しく、活気に溢れた大きな黒瞳が印象的だった。
 彼女は僕の近くまで来ると、腰に両手を当てて、少し怒ったような表情をした。彼女のそんな顔も可愛いと、僕は思っていた。
「まったく、ここにいたのね」彼女が言った。「リハビリの時間なのに病室にいないんだもの、驚いたわ」
「ああ」と僕は言った。「今日は天気がいいね。雪が解けるのも、時間の問題かな」
「話を誤魔化さないで。早く病室に戻るわよ」
「僕はここにいたいな」
「ダメよ。リハビリをしなきゃいけないもの」
「ここにくるまでに、結構歩いた。僕の病室は三階にあるからね。それがリハビリの代わりにならないかい?」
 少しのあいだ沈黙があってから、彼女がため息を吐いた。それは盛大なため息だった。彼女が言ってくる。
「先生に怒られても、私は知らないからね」
「ああ、いいよ。それより、少し話をしよう。退屈で仕方ないんだ」
「昨日買った小説は?」彼女は僕の隣に腰を下ろして聞いてきた。「確か、ヘミングウェイの小説」
「武器よさらば、かい? あれはもう読み終えたよ」
「ふうん、ずいぶんと早いわね」
「面白かったからね。一気に読んだんだ。あれはいい小説だった」
「へえ、なら、今度貸してよ。私、ヘミングウェイって、読んだことないんだ」
「ああ、いいよ」僕はうなずいた。
 それからいっときの沈黙が訪れた。ちらっと、彼女の眼が僕の右脚に向かれた。僕の右脚は、膝から下の部分が無い。切断したのだ。彼女が聞いてきた。
「まだ、痛む?」
「どこが?」
「右脚」
「いや」と僕は首を振った。「痛みは無いね。ただ、足の感覚がある。まるでそこに切断した足があるかのような、そんな感覚がある。なにかの後遺症かな?」
「幻肢痛よ」
「幻肢痛?」
「ええ」彼女が言った。「手とか足とか、そういうところを切断した人って、しばらくそんな感覚があるらしいの。切断したはずなのに、まるでそこにあるみたいな、そんな感覚。それを幻肢痛っていうの」
「へえ、初めて聞く話だな」
「もし痛むんだったら、先生に言ったほうがいいわよ。痛み止めの薬を出してくれるはずだからね」
「分かった。痛み出したらそうするよ」
 そう言って僕は、そっと彼女の手をとった。それはごく自然な行為だった。彼女はちょっと恥ずかしそうに頬を紅潮させながらも、目だけで辺りを見回し、周りに誰もいないことを確認してから、僕の手を握り返してきた。
 僕たちは、恋人同士だった。

 彼女と初めて会ったのは、僕が事故に巻き込まれ、重体でこの病院に運ばれたときだった。そのときは半分意識が無かった。交通事故。雪が降って、道路に氷が張ってある日のことだった。
 僕はその日、いつものようにコンビニで弁当を買い、アパートに帰るところだった。いつも通る交差点の信号が赤になっていたので、足を止めて、青に変わるのを待っていた。その日は朝から雪が降っていて、辺りの景色が白く染まっていた。そのことはよく覚えている。信号が青に変わった。僕は歩き出した。吐く息が白かった。横断歩道を半分ほど渡ったとき、猛スピードでこちらに向かってくる車の姿が見えた。その車の色は赤だった。雪が積もった道路に映える爆走する深紅。それが見えた。
 そして僕の身体は、強い衝撃を受け、宙を舞っていた。
 意識が途切れた。気付いたとき、最初に見えたのは白い天井だった。意識がぼんやりとしていた。ここはどこだろうか。そんな疑問が頭の中に生まれてきた。そのとき、ぼやけている視界に人影が映った。ぼやけてはっきりと見えなかったが、それは女性のようにも見える。そしてもう一人、人影が出てきた。それは男のようだった。二人はなにか会話をしていた。もしかしたら僕に話し掛けていたのかもしれない。だがその言葉はよく聞き取れなかった。頭の中に靄がかかっているみたいに、その話し声がただの雑音のようにしか聞こえてこなかった。
 僕は目だけを動かして、辺りを見回した。ぼんやりとしか見えなかったが、僕を中心として、様々な器具が置いてある。どうやらここは手術室のようなとこらしい。そして僕はベットに横たわっている。一体なにがあったのか。なにが起きたのか。頭の中に疑問が生まれてきた。そのとき、会話をしていた二人が僕の足のほうに眼を向けた。つられて同じほうに視線を向けた。そして愕然とした。僕の右脚、膝から下の部分が、無くなっていたのだ。信じられなかった。自分の身体に何が起きのか理解できなかった。僕は眼を閉じた。きっと見間違いだ。そう思った。視界がぼんやりとしているから、無くなっているように見えただけなのだ。そうに決まっている。僕はゆっくりと心の中で十秒数え、ふたたび眼を開けた。右脚に眼を向ける。そして絶望を感じた。
 やはり右脚の膝から下の部分が無くなっている。それは綺麗に無くなっている。それは不思議な光景だった。そして最悪な光景だった。不意に気持ちが悪くなってきた。言葉に出来ない絶望が頭の中をぐるぐると回っている。僕は眼を閉じた。きっとこれは悪い夢なのだ。そう、きっとそうだ。心の中でそう思った。これは悪い夢だ。だから次に眼を覚ましたときには、全て元通りになっている。これは夢なのだ。悪い夢なのだ。だから、早く夢から醒めるように、僕は祈り、そして眠りについた。
 だがそれは、夢なんかではなかった。残酷な現実だった。
 次に眼を覚ましたとき、頭の中はクリーンだった。靄が全部なくなったみたいに、すっきりとしていた。眼を開けた。最初に見えたのはやはり、白い天井だった。それから白衣を着た女性の姿が見えた。彼女はなんとも表現しがたい表情を浮かべていた。僕はなにか言おうと口を開きかけた。だが言葉は出てこなかった。そのとき、開いているドアから白衣を着た男が入ってきた。それは中年の医者だった。彼は僕の意識がはっきりとしているのを確認してから、事の経過を説明してくれた。
 医者の話はこうだった。僕はスピードを出しすぎた車に激突され、意識を失った。そしてそのまま救急車で病院に運ばれた。気を失っていたが、幸いにして、命に別状は無かったらしい。そのことについて医者は、奇跡に近いことだ、と言っていた。だが命に別状が無くても、右脚に異常があった。病院に運ばれてきた時点で、僕の右脚は完全に潰れていたらしい。それはもはや、足としての機能を完全に失っていたほどだった。医者はすぐに決断した。切断しかない、と。
 説明を聞いて、僕は言葉を失った。本人の確認なしに切断するとは、と思ったが、彼の話を聞くと、その判断が正しいようにも思えてくる。頭では納得しているが、心ではそう割り切れない。そんな感覚が胸の中にある。僕は右脚に眼を向けた。膝から下が無い足。悲しさや、精神的な痛みが胸に込み上げてきた。僕はなんて言ったらいいのか分からなくなっていた。心の中には虚無感がある。虚脱感もある。言葉に出来ないやりきれなさ。そんなものが頭の中にあった。
 医者はそんな僕の気持ちを汲んでくれたのか、それからなにも言わずに病室を出ていってくれた。看護婦も彼について出ていった。正直、嬉しかった。今は一人でいたかった。誰とも話をしたくなかった。また右脚を見た。今まであったはずのものが無い。言葉では表現できないほどの様々な感情が込み上げてきた。僕は叫びかった。心の底から叫びたい感情に駆られた。だが黙った。そのかわりに泣いた。泣きじゃくった。涙はいつまでも止まらなかった。
 それからの僕の入院生活は、決して快適なものではなかった。片脚しかない生活は不便だった。いつかの日に、僕を轢いた運転手が謝罪しにきたときもあった。その彼はまだ若い青年だった。髪を金に近い茶色に染め、形だけは深々と頭を下げて、謝ってきた。だがその態度に誠意は感じなかった。自分がやったことに対して罪の意識をまったく持っていない、といった感じの態度だった。僕は呆れて文句も言えなかった。だからただ一言だけいった。もう二度と、僕の前に現れないでくれ、と。
 退屈な入院生活も、それなりに楽しいことはあった。それは僕に付いた看護婦と出会えたことだった。彼女はまだ若く、僕と同じ二十六歳だった。そのせいか彼女とは話があった。彼女は美しかった。そして献身的だった。看護婦という職業は彼女には天職にように思える。彼女は自分の仕事に誇りを持って働いていた。
 僕たちはよく話をした。それは他愛ない話だった。だがそんな話でも彼女と一緒にいる時間は楽しかった。足を無くした心の痛みが癒されていくのを感じた。気が付いたとき、僕は恋に落ちていた。彼女のことを好きになっていた。こんなに女性を好きになったのは初めてのことだった。彼女と一緒にいる時間は楽しかった。彼女の笑顔は美しかった。そしてある日のこと、僕は彼女が押す車椅子に乗って、中庭に出ていた。真冬なのにその日は暖かかった。雪も降っていなかった。そのことについて彼女と話をしていた。雪が降らないと冬って感じがしませんね。彼女はそんなことを言っていた。僕は、そうだね、と頷いていた。
 彼女がベンチのすぐ隣に車椅子を止め、僕と隣になるようにベンチに座った。それから少し話をした。毎日のように話をしているのに話題は尽きなかった。まるで溢れ出る水のように、些細なことから話が広がっていった。だがそのときは、ひとつの会話が終わり、いっとき沈黙が訪れていた。僕は彼女のほうを見た。彼女も僕のほうを見ていた。互いの眼が合った。そのときなにかを感じた。言葉にしなくても伝わる想い。そんなものが眼が合っただけで伝わっていた。僕は車椅子に座ったままで身を乗り出し、彼女の顔に自分の顔を近付けていた。それは無意識の行動だった。彼女はなには言わなかった。ただ頬を朱に染め、静かに眼を閉じた。僕は彼女の唇に、自分の唇を重ねた。それはある種の儀式のようなものだった。言葉が無くても伝わる、好きだ、という想い。互いにそんな気持ちが胸の中にあった。長いようで短いキスが終わったあと、僕たちは病室に戻った。そのあいだ会話は無かった。だが二人のあいだには、言葉にしなくても伝わる想いがあった。それはとても幸せな想いだった。
 その日の夜、彼女は僕の病室にやってきた。深夜、夜も遅い時間のことだった。開いたカーテンから月の光が差し込んでいた。彼女が僕のベットに腰を下ろしてきた。病室の照明は消してある。暗い部屋の中で、僕たちは愛し合った。何度も愛し合った。何度も何度も愛し合った。数え切れないほどのキスをした。激しいキスをした。愛してる、そんな言葉も言い合った。彼女は綺麗だった。そして素敵だった。なによりも美しかった。その日は忘れられない夜になった。そんな日があった。
 その日をさかいに、彼女は僕に対して敬語を使わなくなった。それは彼女なりの愛情表現だった。僕は彼女のことを愛していた。彼女も僕のことを愛してくれていた。
 それから何度か、彼女は僕の病室に深夜やってきて、愛し合った。彼女と一緒にいる時間は幸せだった。触れ合う肌。体温のぬくもり。ただ抱きしめているだけで幸福だった。胸の中いっぱいに彼女への思いで溢れていた。
 そしてその思いは、今も続いている。

 少し強い風が吹いた。冷気を含んだ風だった。
「これから寒くなるかもね」彼女は言った。「また雪が降るかしら?」
「さあ」と僕は首をひねってそう答えた。じっさい、そんなことには興味が無かった。
「そろそろ病室に戻らない?」彼女が言ってきた。「冷えてきたから、風邪でも引かれたら困るし」
「分かった」僕は頷いて、松葉杖を両脇に挟んで立ち上がった。
 そして歩き出した。彼女が支えてきてくれた。
「ありがとう」僕は言った。
「どういたしまして」彼女はそう言って微笑んだ。
 二人で、支え合うようにして歩いた。こんななんでもない時間が幸せだと感じた。ずっと彼女と一緒にいたいと思った。
 吹く風は冷たいが、太陽の光は暖かい。まだ右脚に違和感を感じるが、それもいずれなくなるだろう。彼女は言っていた。幻肢痛はいずれ消える、と。ならきっとそうなのだろう。彼女の言葉は、彼女の言葉なら信じられる。
 幻肢痛はいずれ消えるだろう。太陽に照らされ、解けゆく雪のように。
 僕たちは病院の中に入った。そのとき彼女が耳元でそっと、今夜行くから、と呟いてきた。僕は、待ってるよ、と答えた。エレベーターに乗った。個室の中に二人きりになった。僕は彼女の唇に軽くキスをした。彼女は静かに眼を閉じていた。
 僕はそのとき、幻肢痛が消えるまでに、彼女にプロポーズをしよう、と思っていた。
 これかも二人で、ずっと二人で、いつまでも一緒にいたい。そんな思いが胸いっぱいに溢れていた。


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