闇鬼伝
Taku
−1−
刀を抜いた。
夜の闇の中で、月の光に照らされた刃が、きらりと光る。
青葉 一哉(あおば かずや)は、両手で握っているその刀を、正眼に構え、大きな深呼吸を、三度、繰り返した。
ここは、公園だった。真夜中の公園。
夜も遅い時間のせいか、人は誰もいなく、風に揺られたブランコの、繋がった鎖が軋む音だけが辺りに響いている。
一哉は、二十歳くらいの青年だった。長身で、すらりとしている体格。髪と眼の色は黒で、長袖のシャツと、色褪せたジーンズを穿いている。腰のベルトには、朱色の鞘を差していて、切れ長の眼を、半眼にして、前方を見つめていた。
瞬間。唐突に、闇が、歪んだ。
ぐにゃり、という表現が相応しいほどに、一哉の見つめている場所が歪み、まるでそこに、なにかの入り口があるかのように、歪んだ場所が、きらきらと虹色に光っている。
一哉は、その歪曲した場所に向かって、正眼に構えた刀を、袈裟に振り抜いた。ひゅん、という音がして、闇の中に、刃のあとを追った、銀の軌跡が描かれる。それと同時に、歪んだ場所に亀裂が走り、虹色に光っている場所が、音も無く、まるで鏡が割れるようにして、破裂した。虹色に光る粉が、はらはらと舞い落ちる。
そして、歪曲が無くなり、闇が元に戻った。
袈裟に刀を振り抜いたままの姿勢の一哉は、それを見届けてから、ゆっくりと、刀を朱色の鞘に納めた。
夜の公園に、もう、気配は感じない。どうやら今夜も、奴らが現れるのを、事前に阻止できたようだ。ふう、とため息をひとつ吐いて、家路についた。
誰もいなくなった公園には、ブランコの鎖が軋む音だけが、ずっと響いていた。
古来より、人は、闇から生まれし者に、ずっと悩まされ続けてきた。
闇から生まれ、人を喰らい、また闇に消えていく。その正体も、目的も、種族さえも不明なその存在のことを、いつしか人は、闇から生まれし鬼、闇鬼(あんき)、と呼ぶようになっていた。
闇鬼は、人間にとって、天敵だった。闇から現れ、闇に消えていく。現世にいるあいだに、人を襲い、その肉を喰らい、そして、攫っていく。人々は、闇鬼の存在に恐怖し、怯えていた。
そして、それを憂慮した、当時の天皇、一条天皇は、かの有名な陰陽師、安部 晴明に、闇鬼のことを徹底的に調べさせた。
そして出た答えが、大江山に、配下の鬼を従えて棲んでいるという、酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼の存在だった。この酒呑童子は、平安時代中期、都を恐怖のどん底に突き落とした、有名な鬼の王だった。
一条天皇は、酒呑童子討伐に、豪傑と名高い、源 頼光を任命した。
命令を受けた頼光は、五人の部下を従えて、大江山に向かった。そして、山伏に変装した頼光らは、神便鬼毒酒という、人には妙薬、鬼には毒となる酒を持って、酒呑童子らがいる、大江山の岩屋へと辿り着いた。
突然の訪問に警戒した鬼たちだったが、大好物の酒の匂いに気を許し、頼光一行を、盛大な酒席で歓迎した。そして、神便鬼毒酒を飲んだ鬼たちは、その神酒の力によって、身体の自由を奪われてしまっていた。
今が好機、と判断した頼光は、配下の五人とともに、刀を抜き、鬼どもを次々と斬り伏せていく。そして、最後に残った酒呑童子も、頼光の一太刀によって首を落とされ、ついに、死に絶えた。
その後、鬼を退治した頼光らは、帝から厚く、恩賞賜ったという。
だが、それだけで、全ての鬼たちが滅んだわけではなかった。
一時的に、闇鬼が出没しなくなったものの、時が過ぎて、生き残った鬼たちがまた、人々を襲いだしたのだ。
だが、そのことを想定していた頼光は、日本全国から、有能な霊能者や退魔士を集め、対鬼用の戦闘集団、<神薙(かんなぎ)>を結成していたのだった。
それから、<神薙>は、現在に至るまで、人知れず、闇鬼と戦い続けているのだった。
夜の街の中を歩いて、一哉は、二階建てのアパートの前まで来ていた。
手すりが付いてある階段を、音を立てないようにして上り、二階の、一番の端の部屋の前まで行く。そして、その部屋の前で立ち止まり、ジーンズのポケットから、キーを出して、ドアノブに差し、鍵を開けた。ドアを開けて、部屋の中に入る。
部屋の中は、六畳一間に四畳のキッチンという、狭いところだった。
靴を脱いで、明かりをつける。部屋の隅に畳んである布団を、中央に敷いて、その脇に、ベルトに差してある刀を置いた。朱色の鞘に納められた刀。童子切安綱(どうじきりやすつな)。源 頼光が、酒呑童子の首を刎ねたという太刀で、室町時代には、天下五剣にも数えられた名刀である。一哉が、家を出てこの街に来るときに、宗家から持ち出してきた刀でもあった。
一哉は、平安時代から続く、対鬼用の戦闘集団、<神薙>の一員だった。小さいときから、徹底した戦闘訓練を受けていて、実際、何度か、闇鬼とも戦った経験がある。
ため息をひとつ吐いて、タンスの上に置いてある、置時計に眼をやった。十一時五十七分。たしか、この部屋を出たのが、十時半前後だったので、一時間半近く、外にいたことになる。身体が冷えているのは、そのせいだろう。今は五月とはいえ、夜は冷えて、吹く風は冷たい。
タンスの中から、寝間着代わりのTシャツと、ジャージのズボンを出して、それを持って、風呂場に向かった。
脱衣所で服を脱いで、全裸になって、シャワーを浴びる。浴槽に湯を張るつもりはなかった。熱いシャワーを浴びれば、それだけでいい。
しばらく、頭から、熱いシャワーを浴びていた。
身体が温まってくる。シャワーを止めた。風呂場から出る。バスタオルで髪を拭いて、脱衣所の鏡に映っている、自分の身体を見た。
シャワーを浴びたあとだからか、肌が紅潮している。だが、身体には、一切の無駄な脂肪がついていない。引き締まっている腹筋。いつも通りだ。この稼業をしていると、どうしても、必要以上に筋肉がついてしまう。刀は、見た目と違って、意外と重量があるのだった。
ジャージのズボンだけを穿いて、Tシャツを右手に持ち、六畳一間に戻った。窓を開ける。この時間だ。誰も見ている人間はいないだろう。
開け放った窓からは、すぐに風が吹いてきた。かすかにカーテンを揺らした。冷たい風が、火照る身体に涼しかった。身体が乾くまで、風に吹かれていた。
しばらくして、窓を閉める。カーテンも閉める。Tシャツを着て、キッチンに向かい、小さな冷蔵庫から、缶ビールを一本、取り出した。足で冷蔵庫の扉を閉めて、六畳一間に戻り、布団の上に座り、胡坐をかいた。缶ビールを開ける。一口飲む。冷えていた。冷たいビールが喉を通っていくのが、心地よかった。もう一口飲んだ。
しばらく、ちびちびとビールを飲んで、それから、布団の上に横になった。
睡魔は、すぐに襲ってきていた。
−2−
朝。ちゅんちゅん、という小鳥の鳴き声で、眼を覚ました。
かすかに開いたカーテンの隙間から、陽の光が差し込んできている。まだ微睡んでいる意識のままで、布団から起き上がり、窓のところまで行って、カーテンを開けた。
すぐに、窓全体から、眩しい光が入ってくる。空は晴れていた。太陽も眩しく輝いている。雲ひとつ無い澄んだ青空。今日は快晴だった。
一哉は、窓越しに陽光を浴びながら、大きく伸びをした。それから、欠伸をする。目尻にたまった涙を指で拭った。徐々にだが、意識が覚醒し始めてきている。
窓から離れ、脱衣所にある洗面台で、顔を洗う。冷たい水が、寝惚け眼の顔に心地良かった。タオルで顔を拭いて、鏡を見る。寝癖は付いていない。髪をそこそこに整えて、脱衣所を出て、キッチンに向かった。
冷蔵庫の中から、缶コーヒーを取り出す。朝はコーヒーを飲む。習慣みたいなものだった。だが、自分で淹れるつもりは無かった。だからいつも、缶のコーヒーを飲んでいる。
コーヒーを持って、六畳一間に戻った。布団の上に座り、胡坐をかく。そして、欠伸をひとつしてから、よく振って、缶コーヒーを開けた。一口飲む。ブラック。この苦さで、すっきりと眼が覚めるのだ。
もう一口飲んで、時計に眼をやったとき、突然、携帯電話が鳴り出した。充電器に差しっ放しの、黒色の携帯電話を、充電器から引き抜き、耳に当てる。ちらりと見た時計の針は、九時十二分をさしていた。一哉は言った。
「はい、青葉ですが」
「あ、カズ? 私だけど」聞こえてきた声は、若い女の声だった。それだけで、誰だか分かった。
安部 紅葉(あべ もみじ)。一哉の幼馴染で、<神薙>の一員である。だが、戦闘要員ではなく、宗家との連絡係で、一哉の監視役でもあった。
「なんだ、紅葉か」と一哉は言った。
「なんだって、なによ」と批判じみた声が聞こえてくる「昨日は連絡してこないでさ。それなりに心配したんだからね」
「ああ、悪かった。それで、用件は?」
「ん、ちょっとね。それより、朝御飯、もう食べた?」
「いや、まだだ。朝は食べない主義でね」
「じゃあさ、駅前のレストランに食べに行かない?」
「食べない主義だ、って言ってるだろ」
「じゃあ、待ってるからね。なるべく早く来てね」それじゃあね、と最後に残して、電話が切れた。
一哉は思わず、ため息をついていた。彼女の、人の話を聞かず、自分勝手に話を進めていくその性格は、昔からなんら変わっていない。そのおかけで、小さいころはよく、振り回されたりもした。だが、この街に来て、そんな彼女とも離れ離れになれる、と思っていたら、監視役として、彼女も一緒に、着いて来てしまっていたのだった。
携帯電話を充電器に差し、缶コーヒーを、一気に飲み干した。少しぬるくなっていた。
服を着替える。白のシャツに、色の濃いジーンズ。携帯電話は持たない。もともと持たない主義なのだ。だが、この街に来たときに、無理矢理、紅葉から買い渡されたのだった。
布団をたたみ、部屋の隅に置く。その中に、刀、童子切安綱を入れる。泥棒が侵入してきたときに、盗まれないようにしておくためだ。ここら辺は治安が悪く、よく、泥棒に入られた、という話が聞こえてきていた。
財布をジーンズのポケットに押し込み、部屋のキーを持って、部屋を出る。ドアノブにキーを差し、鍵を掛けた。鉄階段を下りる。
空は、相変わらず晴れていた。太陽も輝いている。ときおり風が吹いてくるも、その風は優しく、涼やかなものだった。
一哉は歩き出した。電線の上にいる小鳥たちが、いまだに鳴いていた。
駅前には、人が少なかった。休日の、まだ早い時間ということだからだろう。もう少し時間が経てば、人が増えてくる。
一哉は、少し歩いて、駅の近くにある、レストランに入った。
派手な外見、内装の、いかにも若者向けの店だった。店内には、流行りのJ−ポップが流れている。思わず、耳を塞ぎたくなるほどの大音量で、流れている。
入り口で立ち尽くしていると、すぐにウエイトレスがやってきた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」と愛想笑いを浮かべて聞いてくるウェイトレスを、一哉は無視した。
店内を見回す。さして広くない、けれども狭くも無い店内には、それなりの客がいる。おそらく、朝食を食べに来た客だろう。そして、その中の一人に、紅葉の姿があった。
二十歳くらいの女。黒髪を長く伸ばしていて、首の後ろのところで、ひとつに纏めている。着ている服は、プリントTシャツの上に、黒のジャケット。テーブルに隠れて見えないが、スカートははいていないだろう。スカートをはくくらいなら、下着のままでいい、と断言する女だ。
彼女は、右手側、窓側の一番後ろのテーブルに座っていて、スパゲッティに、フォークを絡ませている途中だった。
一哉は、そのテーブルにまで行って、紅葉と向かい合うようにして、椅子に腰を下ろした。彼女が、こちらに顔を向けてきて、にっこりと笑ってくる。眼が大きくて、普段は気が強そうに見えるが、笑うと、どこか子供っぽく見えた。
「おはよう、カズ」と彼女が挨拶をしてくる。
「おはよう」と頬杖をついて、挨拶を返した。
そして、そのときちょうど、近くを通っていたウエイトレスにコーヒーを注文し、一哉は聞いた。
「それで、俺を呼び出した理由は?」
「その前にさ、コーヒーだけでいいの? 遠慮しないで、なんでも好きなもの食べていいよ。ここは、お姉さんが奢ってあげるからさ」
気楽な口調で言う彼女に、軽く肩をすくめて返した。
幼馴染で、ひとつ年上のせいか、彼女はよく、一哉のことを弟扱いしていた。子供のころからのことなので、あまり気にしていないが、それでも時々、止めてほしいと思うときもあった。
窓から見える交差点に眼をやりながら、一哉は、先程と同じ質問をした。
「それで、用件は?」
「ん、あのね、昨日の報告と、宗家から聞いた話をひとつ」
「宗家から? どんな話だ?」
「それは、昨日の報告をしてからよ」
そう言って、彼女は、フォークに巻き付かせたパスタを食べた。白い喉が隆起を繰り返す。彼女の咀嚼を見届けてから、一哉は報告した。
「昨日は、ひとつ鬼道(きどう)を見つけて、すぐに破壊した。それだけだ」
「闇鬼とは戦った?」
「いや。闇鬼が出て来る前に、鬼道を破壊したからな」
「そう。分かった」と頷いて、彼女は、ストローに口をつけて、グラスに入った薄茶色の液体―おそらくウーロン茶だろう―を飲んだ。グラスに入っている液体が、二センチほど下がる。
鬼道、というのは、鬼の世界と、こちらの世界とを行き来できる、唯一の道のことだった。<神薙>の仕事は、基本的には闇鬼と戦うことだが、鬼道が完全に開く前に、その出口を破壊して、闇鬼を、こちらの世界に来させなくさせるのも、仕事のひとつでだった。
「それで」と一哉が口を開いたとき、ちょうど、ウエイトレスがコーヒーを運んできた。
テーブルに置かれたコーヒーを、砂糖を入れずに、直接グラスから飲む。苦味があった。だが、その苦味が悪くない。やはり缶コーヒーとは違う。香りも、それなりのものを放っている。
しばらく、コーヒーを味わっていると「それで」と彼女が聞いてきた。「さっき、なにか言おうとしてたみたいたけど?」
「あ、ああ。宗家から聞いた話ってやつが、どんなものか聞こうと思って」
一哉がそう言うと、ああ、と紅葉は頷いて、言葉を続けてきた。
「じつはね、大江山でのことなんだけど」
「ああ」
「大江山で、<神薙>の精鋭二人が、やられたの」
「鬼に、か?」
「うん、そう。しかも、たった一匹の鬼にね」
「その二人の名前は?」
「坂田 真吾と藤原 薫。名前ぐらいは聞いたことあるでしょう?」
「ああ、知ってる。<神薙>の戦闘要員で、二人とも、かなりな腕のはずだ」そう言った声は、少し、震えていた。
実際、驚いていた。その二人は、<神薙>の中でも、五本の指に入るほどの、剣の実力の持ち主である。それが、たった一匹の鬼にやられている。その鬼は一体、どれほどの強さを持っているというのか。考えると、嫌な気がしてきた。
「そのときの状況を、話してくれるか」一哉は聞いた。
「ええ」と頷いた紅葉が、ストローでウーロン茶を飲んでから、言ってくる。「私も聞いた話だから、詳しくは知らないけど。確か、三日前くらいに、いつものように、大江山の見張りをしていたら、山の奥に、一人の少年がいたんだって」
「少年?」
「そう、少年。それで、その少年は着物を着ていて、全身から、血の匂いを漂わせていたらしいの。それで、不審に思った二人が、その少年に声を掛けたら、いきなり、鬼の姿に変身して、襲われたってわけ」
「応戦はしたのか?」
「さあ」と紅葉は首を傾げた。「でも少しは、戦ったんじゃないかな。坂田さんはその場でやられたらしいけど、藤原さんは、ボロボロになって戻って来たらしいから。もっとも、宗家に戻ってすぐに、息を引き取ったらしいけど」
そう言って、紅葉は、一気にウーロン茶を飲み干した。紙ナプキンで口を拭いて、聞いてくる。
「で、どう思う?」
「なにが?」
「鬼のことよ。<神薙>の精鋭二人を倒した鬼。この鬼を、どう思う?」
「そうだな。ま、強いことは間違いないだろう。どのくらい強いかは、想像できないが」
「それだけ?」
興味津々、といった感じで聞いてくる彼女に、ため息をひとつついて、一哉は聞き返した。
「なにが言いたんだ、紅葉」
「その鬼のことについて、私なりに、色々と考えてみたの。聞いてくれる?」
「ああ」と頷いた。嫌だ、と言っても、勝手に話すだろう、という言葉は飲み込んだ。
「私ね、その鬼のこと」紅葉は言った。「酒呑童子だと思うの」
「はあ?」と思わず、素っ頓狂な声が出ていた。「酒呑童子? どこからそんな発想が出てくるんだ?」
「まあ、聞きなさいよ」
彼女が、指を三本立てて、説明をしてくる。
「酒呑童子だと思う理由、ひとつめ。大江山にいたこと。知ってると思うけど、酒呑童子は、大江山に、配下の鬼とともに暮らしてたわ」
「ああ、そうだな。もっとも、平安時代のことらしいがな」
「でも、今でも大江山には、鬼が棲み付いているわ。それで、理由ふたつめ。その鬼が、少年に化けていたこと。酒呑童子はその名前のとおり、よく子供に化けていたわ」
「確かに、そういう話もあるな。それで、みっつめは?」
「強いこと。それが理由みっつめ。酒呑童子は鬼の王よ。いくら不意打ちとはいえ、<神薙>の精鋭二人を倒すなんて、普通の闇鬼じゃあ出来ないわ。それこそ、酒呑童子くらいにしか、ね」
「それが、理由の全部か?」
「ええ」と紅葉は頷いた。
一哉は、ため息をついていた。ありえない、と思っていた。酒呑童子は、源 頼朝に、首を刎ねられ、殺されたはずだ。もし紅葉の言うとおり、その鬼が、酒呑童子なら、現世に甦ったことになる。ありえない。やはり、そういう思いしかなかった。
「その話」と一哉は聞いた。「宗家のほうに、するつもりか?」
「まあ、一応は」
「どういう反応をすると思う?」
「驚くか、呆れるかの、どちらかでしょうね」
「俺なら、呆れるがな」
「ありえない、って思ってる?」
「まあな」そう言って、軽く肩をすくめて、コーヒーを飲んだ。
紅葉は、なにかを考えている顔付きになっている。昔からこうだった。突拍子も無い考えを思い浮かべては、周りの人間に呆れられる。たまに、その発想が当たることもあるが、今回は間違いなく、違うだろう。そう断言できる。
一哉は、コーヒーを飲み干して、椅子から立ち上がった。彼女が顔を上げて、聞いてくる。
「あ、もう行くの?」
「ああ」
「これから大学?」
「いや、今日は休みだ」
「なら、もっとよっくりしていけばいいのに」
「日曜日くらい、ゆっくり休みたいさ」そう言って、ジーンズのポケットから財布を取り出し、五百円玉を、テーブルの上に置いた。「これ、コーヒー代」
「奢ってあげる、って私、言わなかったっけ?」
「自分の分は、自分で払うさ。それに、そこまで金に困っていない。宗家のほうからも、仕送りされてるしな」
「ふうん。ま、いいや。あ、カズ」
「なんだ?」
「携帯電話、持ちなさいよ。なにかあったとき、すぐに連絡取れないと困るから」
その言葉に、軽く手を上げて答えて、一哉は、店から出た。
外は、相変わらず晴れていた。だが、風が、少し強く吹き付けてきていた。
アパートに戻った。
鍵を開けて、部屋の中に入る。畳が敷かれている六畳一間には、タンスと本棚、オーディオ、そして、テレビくらいしか置いていない。あまり、部屋の中に、いらないものを置きたくなかった。
玄関で靴を脱いで、畳の上に、ごろんと寝転がる。
横になったまま、リモコンを使って、テレビの電源を入れた。朝のニュース番組がやっていた。チャンネルを変える。五年ほど前に流行ったドラマの再放送をしていた。興味が無かった。テレビを消した。沈黙が訪れた。
組んだ両手を枕代わりに、仰向けになって、意味も無く天井を眺める。頭の中では、レストランでの、紅葉との会話を思い出していた。
酒呑童子。彼女は、その鬼の名前を口にした。そして、大江山に現れた、少年に化けていた鬼のことを、酒呑童子だと思う、と言った。
ありえない、というのが、話を聞いたときの、率直な感想だった。だが今は、何故か、その話を信じてきている。もしかしたら。そんな思いが、心の中に、生まれてきている。
紅葉の予想は、たまに、的確に当たるときがある。それは、予知、と言っても過言ではないくらいに、正確なものだ。
そして、そのことが、一哉を、不安にさせていた。
いくら鬼とはいえ、首を刎ねられては、生きていけないだろう。酒呑童子は、首だけになっても、頼光に襲い掛かっていったが、そのあとすぐに、息絶えた。つまり、酒呑童子は、死んでいるのだ。死んだ者を、甦らせる方法は無い。すくなくとも、一哉は知らない。だがもし、あったとしたら? いや、ありえない。だがあったとしたら? 酒呑童子が甦っていたら? 死んだものは甦らない。それは自然の摂理だ。だがもし。そんな思いが、脳裏を巡り巡っていた。
そんなとき、キッチンのほうで、小さな物音がした。
寝転がったまま、そちらのほうに眼をやる。キッチンの入り口のところに、灰色の小さな生き物がいた。ネズミだ。まだ小さいところを見ると、子供なのかもしれない。
ネズミは、しばらくこちらを眺めていて、そして、不思議そうに首を傾げてから、キッチンのほうに走っていった。おそらく、冷蔵庫の下にでも潜るのだろう。冷蔵庫の裏の壁には、小さな穴が開いていて、たまに、黒い虫なんかが出てくるときがあった。
一哉は、また、眼を天井に戻した。ネズミを見ても、あまり驚かない。ここは古いアパートだ。あちこちにがたが来ている。ネズミの一匹や二匹、いてもおかしくはないだろう。夜になると、天井裏を、なにかが走っている音も聞こえてくるくらいだ。そのなにかが、ネズミであっても、おかしくはない。
眼を、天井から、タンスの上に置いてある、置時計に移した。十時三十七分。昼寝には少し早いが、まあ、いいだろう。たいして眠たくも無かったが、このまま、昼寝をすることにした。
今日は大学が休みだ。予定もなにも無い。夜にも、また、街の中を徘徊することになる。それに備えて、体力を温存しよう。そう思って、眼を閉じた。
睡魔は、すぐには襲ってこなかったが、頭の中には、つねに、酒呑童子のことが思い浮かんでいた。
夜になった。
十一時三十分。一哉は、畳んだ布団の中から、刀、童子切安綱を取り出し、腰のベルトに差した。これから、いつもの、徘徊の時間だった。
この街に来てからの、一哉の仕事。夜の街を徘徊し、鬼道を見つけ、闇鬼が出て来る前に、入れ口を破壊する。闇鬼が出てきていたら、童子切安綱を以って、闇鬼を斬り捨てる。それが、一哉に与えられた、使命だった。
部屋のキーと、携帯電話をポケットに押し込んで、明かりを消して、部屋を出る。
外は、当然ながら、暗かった。
空を見上げる。夜の空には、無数の星が瞬いていた。だが、暗い雲が、月の姿を隠している。夜の街の中で、街灯の明かりが、幻想的に輝いていた。
腰に差した朱色の鞘を、左手で握って、走り出す。雲に隠れた月が、朧に霞んでいた。
夜の街の中は、静かだった。
この街では、こんなに遅い時間まで、営業している店は、コンビニくらいしかない。ほとんどの店が、十一時前後に店を閉める。街の中を歩いている人も、いなくなる。この街の夜は、本当に静かなものだった。
二十分くらい、街の中を歩いた。駅に続くメインストリート。寂れかけている商店街。一哉が通っている大学。この街で唯一の病院。どこにも、鬼道は無かった。今日は、なにも無く終わるかもしれない。そんな思いが、胸の中に生まれてきた。それでも、歩き続ける。
そして、昨日の夜、鬼道を破壊した、公園に辿り着いた。
そこで、さきほど生まれてきた思いが、間違いだと気付いた。誰も人のいない公園。その中にある、ふたつ、隣同士に並んでいるブランコのひとつに、一人の、女性が座っていた。
年齢は、二十代後半くらいだろうか。黒髪を結わえていて、唇に、血のような真っ赤な紅を引いている。着ている服は、紫色の着物で、あずき色の帯を巻いていた。華奢に見えるほど身体が細く、白いうなじが、妖しい魅力を放っている。
時代錯誤のような格好をしているその女性は、ブランコに座り、ゆっくりと揺られていた。ブランコが揺れるたびに、ブランコを繋ぐ鎖が、キィ、キィ、と軋む音がしている。
一哉は、その女の近くまで来ると、左手の親指で、刀の鯉口を切り、右手を、柄に添えた。いつでも、抜ける態勢を取っておく。
女の身体からは、血の匂いが漂っていた。鬼の気配も。人間ではない。それは、一目見て分かっていた。
女が、ブランコから降りる。そして、こちらに向かって、一歩を踏み出してきた。一哉は、刀の柄を握った。二歩目。身体を捻り、重心を下げる。三歩目。矢を撃つ前の弓のように、全身の筋肉を撓ませる。四歩目。雲のあいだから、月が顔を覗かせる。
五歩目。それと同時に、踏み出した。
だんっ、と強く地面を蹴り、一足飛びで、間合いを詰める。抜刀。鞘走りの音が響き、横薙ぎに振られた刀身のあとを、銀の軌跡が追う。一瞬の居合い。避けられる一撃ではない。確実に仕留めた。そう思った。
だが、手応えは無かった。
刀が斬り裂いたのは、紫の着物だけで、女は、斬られる前に、着物を脱いで、後方に跳んで、斬撃を避けていたのだった。
一哉が、振り抜いた姿勢のままで、その方向に眼をやる。着地した態勢のまま、白の長襦袢姿の女が、顔を上げて、こちらを見ていた。その表情は、その顔は、すでに、人間のそれでは無くなっていた。
耳まで大きく裂けた口からは、鋭い牙が立ち並び、長い前髪のあいだからは、紅色の双眸が光っている。さらに、額からは、二本の角が生え、耳も、長く鋭く伸びている。
やはり、この女は、鬼だった。
一哉は、刀を両手で握り、右八相に構えた。すぐに、女が跳び掛かってくる。驚異的な跳躍力だった。一瞬で、間合いを詰められていた。
突然の突進に、虚を突かれながらも、突き出される右の拳を避けて、なんとか、刀を袈裟に振るう。切っ先に、なにかを掠った感触があった。刀身に、白の長襦袢が巻き付いていた。刀を振って、長襦袢を振り払う。それから、身体ごと、後ろに振り返った。
二メートルくらい離れているところに、完全にその正体を現した、鬼の姿があった。
身長は、優に二メートルは超えているだろう。手足は丸太のように太く、筋骨隆々の身体は、やや黒みがかかった青色の肌をしている。三本しかない指から生えている爪は、長く鋭く伸びていて、月の光を浴びて、鈍く光っている。顔は、大きく角張っていて、額からは、二本の角が伸びている。凶悪なその面構えは、さきほどの女の顔からは、まったく想像出来ないほどに、醜悪なものだった。
鬼が、口の端を上げて、下卑た笑みを浮かべながら、言ってくる。
「流石は、源 頼光。よく、この、茨木童子(いばらぎどうじ)の変化を見破ったな」
「なにっ」驚いて、思わず、一哉は叫んでいた。
源 頼光。鬼はそう言った。一瞬だけ、握っている刀に眼をやる。童子切安綱。頼光が、酒呑童子の首を落とした刀。おそらく、この刀を見て、自分のことを、源 頼光だと勘違いしたのだろう。別に、訂正する気も無かったので、一哉は黙って、右八相に構えた。
問題は、この鬼の、名前だった。茨木童子。鬼は、自分のことを、そう言った。もし、それが本当なら、この戦いは、相当、苦戦するはずである。
茨木童子。酒呑童子の一番の配下で、右腕的な存在だった、鬼である。頼光が、大江山に討ち入りに行ったときも、最後の最後まで戦い、そして、唯一、逃げることに成功した、鬼でもある。宗家のあいだでは、その強さは、酒呑童子に匹敵するだろう、とも言われていた。
巨躯な鬼、茨木童子が、両手を広げ、月に向かって、咆哮する。それと同時に、その身体から、眼に見えない威圧感が放たれる。それは、踏ん張らなければ、後退りしてしまうほどの、強いプレッシャーだった。
瞬間、茨木童子が、突進してきた。
一気に間合いが詰められる。一哉は距離を取ろうと、後ろに跳ぼうとした。だがそれよりも早く、横薙ぎの爪が襲い掛かってくる。茨木童子は、ボクシングのフックのように、連続で爪を振るってきた。
大きなスイングの右フック。刀を縦にして防御した。ギィン、という激しい音が響き渡る。強烈な一撃だった。爪の攻撃は防いだものの、その衝撃までは殺しきれず、防御した体勢を崩される。すぐに間髪入れずの左フックが襲ってきた。防御は間に合わない。瞬時にそう判断した一哉は、崩れた体勢のまま、上半身を後ろに反らして、スウェーバックで避ける。鋭い爪の一撃が、風を切って、顔の前を通り過ぎていく。茨木童子の動きは止まらない。上から振り下ろすような右フック。その速く鋭い打撃を、横に転がって避ける。すぐに起き上がり、刀を振った。横薙ぎに振られていた左の爪と激突し、激しい音を響かせる。そして、次の瞬間には、後ろに跳んで、間合いを広げた。茨木童子は、追ってはこなかった。
距離を取って、一哉が、刀を構え直す。やはり、強い。右八相に構えながら、そう思った。
巨躯の見た目以上に、パワーがある。一撃一撃が重い。もし、一発でも喰らえば、それだけで終わるだろう。それだけの破壊力のある攻撃をしてくる。そして、打撃が速い。身体が大きなくせに、スピードがある。コンビネーションは単調だが、その予想外の速さは、一発の重みと相まって、相当やっかいだ。
自然と、刀を握る両手に、力がこもる。頭の中に、死、という文字が浮かんできた。茨木童子は、強い。その身体から放たれるプレッシャーは、今まで戦ってきた鬼の中で、一番、威圧感がある。
一哉は、右八相から、正眼に構え直した。八相は、攻撃主体の構えである。それに対して、正眼は、攻撃も、防御も可能な、攻防一体の構えである。抜群の攻撃力を誇る茨木童子には、この構えのほうが合っているだろう。
月が、また、雲に隠れて、その姿を朧に霞ませる。
瞬間、茨木童子が、踏み込んできた。一瞬で間合いが詰められる。驚異的な脚力、爆発的な突進力だ。
茨木童子が、右手を振るう。スピードの乗ったフック。すぐに、返しの左フック。一哉は、フックの連撃を、後ろに下がりながら、スウェーで避けていった。茨木童子がさらに踏み込んでくる。低い体勢からの、右アッパー、左ストレート。アッパーを刀で弾き、ストレートを、身体を横にずらして躱した。打撃が繰り出されるたびに、鋭い爪が、闇の中に、銀の軌跡を描いていく。
茨木童子の身体が沈む。体勢を低くしての、中段の右フック。一哉は、ボディ狙いのその一撃を、刀を袈裟に振って弾き、返す刀で、横薙ぎを放った。茨木童子も左を出す。響き渡る激突音。刀と、左の爪が激突し、火花が飛び散った。間髪入れずに、茨木童子の右が伸びてくる。横に転がって避けた。すぐに起き上がる。刀を振るう。左の爪と激突。茨木童子の右フック。袈裟に振った刀で弾き、後ろに跳んだ。距離が開く。
すぐに茨城童子が追ってきた。間合いが詰められる。後手に回ってはやられる、と判断した一哉は、今度は、先に手を出した。
踏み込んでの袈裟斬り。左の爪で防御される。鳴り響く激突音。間髪入れずに、茨木童子の右フック。上体を沈めて躱した。頭上を、鋭い風を纏った爪が通り過ぎていく。一哉は、体勢を低くしたまま、刺突を放った。茨木童子が、身体を横にずらして避ける。予想通りの動きだ。躱された刺突を、すぐに、中段の横薙ぎに変化させる。狙いは脇腹。突然の太刀筋の変化に、一瞬だけ驚いた茨木童子だったが、すぐに後ろに跳んで、その一撃を避けた。が、避けきれずに、切っ先が脇腹を掠った。青色の肌から、青色の血が滲み出てくる。
一哉は、刀を後ろに引いて、踏み込んでいった。一瞬で距離を詰め、袈裟に刀を振り下ろす。躱された。だが、すぐに斬り上げる。茨木童子が後ろに下がって避けた。闇の中に、刀のあとを追った銀の軌跡が描かれる。間髪入れずに、さらに踏み込んでの横薙ぎ。逆袈裟。横薙ぎは躱されて、逆袈裟は、左の爪で防がれた。ギィン、という激しい音が響く。
一哉が、さらに斬撃を出し続ける。斜め下からの斬り上げ。返す刀で唐竹。一歩踏み込んでの横薙ぎ。斬撃が銀閃となって、闇の中に軌跡を描いていく。だが、高速で繰り出される連撃は、全て、爪で防御され、弾かれていた。そのたびに、激突音が鳴り響き、鮮やかな火花を飛び散らせる。
横薙ぎを弾いた茨木童子が、いきなり、強引に踏み込んできた。低い体勢からの、打ち下ろしの右フック。虚を突かれた攻撃に、一瞬、一哉の反応が遅れた。だが、紙一重の差で、後ろに下がって避ける。顔の前を、鋭い風とともに爪が通り過ぎていった。だが、茨木童子の動きは止まらない。踏み込んできての、中段の左フック。速い打撃だった。避けれない。そう判断して、刀を縦にして防御する。
次の瞬間、響き渡る激しい音とともに、強い衝撃を受けて、体勢を崩されていた。
防御の上からでも、ダメージを与えてくる、強烈な一撃だ。刀越しに受けた衝撃で、一瞬だけ、腕が痺れていた。
体勢が崩れたところに、茨木童子が、中段の右フックを放ってくる。すぐに地面を蹴って、後ろに跳んだ。だが、躱しきれずに、脇腹に、爪の先が掠る。鋭い痛み。飛び散る鮮血。
一哉は、さらに後ろに跳んで、距離を開けた。茨木童子は追ってこなかった。右手で、脇腹を押さえる。指のあいだから、血が流れ出ていた。出血は多いが、深い傷ではない。血が多く出るのは、傷口が広いせいだ。傷自体は、浅いはずだ。
はあ、と大きく息をついて、正眼に構え直す。
疲れていた。肉体的に、ではなく、精神的に、だ。敗北すれば死、という状況での戦闘は、つねに集中力を保っておかなければいけないため、精神的な疲労が激しい。それに、相手は、あの、茨木童子だ。いくら、厳しい戦闘訓練を受け、何度も実戦を経験しても、精神にかかる負担は大きい。額から流れる汗が、頬を伝って、顎から落ちていた。
次の瞬間、獣の如き咆哮を上げ、茨木童子が突進してくる。
大きく踏み込んでの、右ストレート。相変わらずの、小細工なしの、パワーファイトだ。身体を横にずらして、ストレートを避ける。返しの左フックを、刀で弾き、下から斬り上げる。躱された。続けざまの袈裟斬り。右の爪で防がれる。激突音。茨木童子の左。右。左。フックの連撃。それぞれを、後ろに下がって避けた。そこに伸びてくる右ストレート。刀を、逆袈裟に振って弾く。飛び散る火花。返す刀で、踏み込んでの横薙ぎ。首を狙った上段の横薙ぎは、しかし、上体を沈めて避けられた。闇の中に躱された銀閃が走る。
茨木童子の左。突き上げるようなアッパーだ。バックステップで避ける。同時に、刀を横薙ぎに振る。右の爪で防御された。すぐに、袈裟、斬り上げ、横薙ぎ、と連続して斬撃を放つ。袈裟と斬り上げを避けられ、横薙ぎを弾かれた。すぐに、茨木童子が左を出してくる。鋭いストレート。逆袈裟に振った刀で弾いた。右のフック。バックステップで避ける。中段の左フック。斬り上げで弾く。響く激突音。右ストレート。身体を沈めて躱し、瞬時に、踏み込んでいった。脇腹を狙った横薙ぎ。切っ先が掠った。噴き出る血。すぐに斬り上げ。茨木童子が、後ろに下がって避ける。刺突。躱された。だが、すぐに太刀筋を変化させて、袈裟斬りを放つ。
振り下ろした刀越しに、肉を斬り裂く感触があった。
一瞬の呻き声。茨木童子の右腕、肘から下の部分を、斬り落としていた。斬られたところから、勢いよく、大量の血が噴き出してくる。茨木童子の顔が苦痛に歪み、その動きが止まった。
好機。そう判断した一哉は、踏み込んで、上段の横薙ぎを放った。だが、首を狙ったその一撃は、ただ闇を斬り裂いただけに終わる。強く地面を蹴った茨木童子は、驚異的な跳躍力で跳び上がり、その一撃を避けたのだった。
すたっ、と体重を感じさせない身軽さで、三メートルほどの高さの、すでに枯れた桜の木の、その枝の上に着地する。斬られた右肘を、左手で押さえていたが、青色の血は、とめどなく溢れ出ていた。
一哉は、刀を正眼に構え直し、頭上にいる茨木童子を、睨みつけた。だが、茨木童子は、そんな視線を気にせずに、腕を斬り落とされたにもかかわらず、ニヤリとした笑みを浮かべただけだった。右腕に眼をやり、低いが、よく通る声で言ってくる。
「流石は、頼光、といったところか。だが、この程度で、勝利したと思うなよ。我らは、ついに、酒呑童子様を復活させたのだからな」
「なんだとっ」
思わず、驚いて出た声に、茨木童子は、さらに下卑た笑みを浮かべた。左手の、三本しかない指の真ん中で、こちらを指差して、言ってくる。
「覚悟しておけ、頼光。我ら鬼の一族、あのときの恨み、酒呑童子様が甦った今こそ、晴らしてくれよう」そう言って、茨木童子は、大きく後ろに跳んだ。
「待てっ」と一哉が叫ぶ。
だが、茨城童子は、木から木に飛び移りながら、その場から離れていった。青色の巨躯の姿が、どんどん小さくなっていって、そして、闇の中に消えていく。
あとに残ったのは、いまだに、指が動いている、斬り落とされた腕だけだった。一哉は、嫌悪感を感じ、その腕の、手の平に、刀を突き刺した。肉を貫く感触。青色の血が飛び散り、腕が痙攣を繰り返し、そして、動きを止める。
終わった、とは、思わなかった。勝った、とも。茨木童子は逃がし、そして、酒呑童子の復活を知った。ふう、と大きく息を吐いてから、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、おぼろげな記憶を頼りに、番号をプッシュする。二回のコールのあと、もしもし、という女の声が聞こえてきた。一哉は言った。
「もしもし、紅葉か? 俺だ」
「あ、カズ?」という驚いた声のあと、からかいに似た声が聞こえてくる。「こんな時間に、なにか用? あ、デートのお誘いなら、明日はダメよ。予定がいっぱいだからね」
その気楽な口調の言葉に、思わず、笑みがこぼれていた。何故だろうか、彼女の声を聞いた途端に、ほっと、安心したような気持ちになっている。ふう、とひとつため息をついて、一哉は言った。
「デートのお誘いはともかく、大変なことが起きた」
「なに?」
「酒呑童子が、甦った」
「えっ」と一瞬、受話器越しに大きな声が聞こえ、それから、なにも聞こえてこなくなった。
おそらく、驚いて、声も出ない状態なのだろう。今朝、レストランで、酒呑童子が甦った、と言っていたのは彼女のほうだったが、それは、冗談半分だったのかもしれない。刀で貫かれた、もう動いていない茨城童子の腕を見ながら、一哉は言った。
「それで、紅葉」
「え、あ、なに?」
「そのことを、紅葉のほうから、宗家のほうに報告してくれるか?」
「あ、ええ、うん、分かった」と、しどろもどろに頷いたあと、大きく、深呼吸をする音が聞こえてきた。「あのさ、カズ」と聞いてくる。「その、酒呑童子が甦ったこと、誰から聞いたの?」
「茨木童子から」
「えっ、茨木童子って、あの?」
「ああ」
「なんで、茨木童子から」
「ついさっきまで、戦ってたから」一哉は言った。「もっとも、腕一本斬り落としたら、どこかに逃げていったけどな。おそらく、大江山にでも行ったんだろう」
「ちょっと待って、カズ。戦ったって、茨木童子と戦ったの? 無事なの?」
「ああ」と頷いたあと、茨城童子にやられた、右の脇腹に触れた。いまだに血は流れているが、その勢いは弱い。痛みも、さほど感じない。たいした傷ではなかった。そのことを伝えた。「まあ、怪我はしたが、たいした傷じゃない。かすり傷程度だ」
「本当?」
そう聞いてくる声には、心の底から心配している響きがあった。微笑が漏れた。
「大丈夫だ」と安心させるように、一哉は言った。「本当に、たいした怪我じゃないから。血も、もう止まり始めてるし」
しばらく沈黙があった。それから、「うん」という声が聞こえてきた。その声は、いつもどおりの、元気なものに戻っていた。「それで」と聞いてくる。「茨木童子が、酒呑童子が甦った、って言ってたの?」
「ああ。はっきり言ってたな。復活させたって」
「復活、させた? つまり、甦った、じゃなくて、甦らせた、ってこと?」
「言葉からすると、そうだろうな。まあ、どんな手段を使ったかは知らないが。それで、紅葉」
「なに?」
「そのこと、宗家のほうに」
「報告しろ、ってことでしょ。分かってるよ。でも、これから、大変なことになるでしょうね」
「ああ」と一哉は頷いた。
宗家は、必要以上に、鬼のことを警戒している。酒呑童子復活の報告を聞けば、間違いなく、<神薙>の総力を持って、大江山に討ち入りに行くだろう。源 頼光が、五人の部下を連れて、大江山に行ったときのように。
「まあ」と一哉は言った。「これから、本当に、大変になってくるだろうな」
「なによ、他人事みたいに。大江山に討ち入りに行くことが決まったら、カズだって、呼び出されるかもしれないわよ」
「呼び出されなくても、自分から行くさ。茨木童子とは、まだ決着がついてないしな」
それに、俺のことを頼光と勘違いして、復讐したがってたからな、という言葉は、飲み込んだ。別に、そのことは、彼女に話すことではない。意外と、心配性の紅葉には、あまり、心配をかけたくなかったからだ。
「まあ、そういうことだから」と一哉は言った。「とにかく、宗家への連絡を頼む。それと、なにか新しい情報を聞けたら、すぐに教えてくれ」
「ん、分かった」
「それじゃあ、これで」
「うん。おやすみ」
「ああ」と短く返事をして、電話を切った。
携帯電話を、ジーンズのポケットに押し込む。紅葉との会話のおかげで、だいぶ、心が落ち着いてきていた。
茨木童子の右腕を踏んで、刀を抜く。切っ先に、青い血がついていた。手首のスナップを使って、刀を軽く振って、刃についた血を振り払う。青い雫が飛沫となって飛び散り、コンクリートの地面に、点々とした染みをつくった。刀を、鞘に納める。
それから、大きなため息をついて、空を見上げた。
いつのまにか、雲のあいだから、月が顔を覗かせていた。夜の空には、どこまでも続く闇の中に、無数の星たちが煌めいている。それは、とても綺麗な光景に思える。だが、吹きつけてくる風は、弱いが、冷たい。汗をかいている、というのもあるかもしれないが、それでも、冷たい。まるで、これから起こる、大きな戦いを予感しているかのように、冷たい風が吹きつけてくる。
一哉は、茨木童子の右腕を、思いっきり蹴り上げた。闇の空に、右腕が大きく舞う。そして、放物線を描いて、池の中に落ちた。ボチャン、という水音とともに、水飛沫が上がる。右腕は、池の底に沈んでいき、池の表面には、波紋が広がっていた。
一哉は、家路についた。誰もいなくなった公園には、ブランコの鎖が軋む音だけが、ずっと響いていた。