冷たい雨
Taku
その店に入ったのは、十一時半をいくらか過ぎている時間だった。
外では雨が降り続いていた。だが傘を差すほどの激しいものではない。小雨というやつだ。私はジャケットを頭から被った格好で、その店の扉を開けた。
店の中は狭かった。十人ほどが座れるカウンターがひとつあるだけで、テーブル席なんてものは無い。都会の中にひっそりと存在している酒場。そんな感じの店だ。そして店の中はがらんとしていた。客が一人もいない。初めて来た客なら、今日が休みの日だと勘違いするだろう。そのくらいに店内は静かだった。
店の中に入ると、カウンターの内側にいる男が、眼だけをこちらに向けてきた。
初老、という感じの男で、きちんとウエイターの格好をしている。六十を超えているくせに、体格はがっしりとしていて、背中は曲がっていない。白髪をオールバックにしていて、目尻にある皺が、柔和な雰囲気を醸し出していた。
男は私の姿を認識して、無言で頷いた。これが、必要以上に客に媚を売らないこの男の、いらっしゃい、という挨拶だった。
私はジャケットを脱いで、男と向き合うようにしてスツールに腰を下ろし、言った。
「ビール」
再び男が無言で頷いて、カウンターの下にある冷蔵庫から、冷えたビールを取り出し、栓を抜いた。コップと一緒にカウンターの上に置いてくる。
私はコップの中にビールを注いで、ひとつ隣に置いた。男が眉を顰めて、聞いてくる。
「なんの真似だ?」
「弔い酒です」
私がそう答えると、男が、なにかを思い出したかのような表情を浮かべた。
「ああ、そうか」と懐かしさに眼を細めて言ってくる。「今日は、彼女の命日だったな」
「ええ」
「亡くなって、何年経った?」
「今日で、五年目です」
「早いもんだな」男が言った。「私には、ついこのあいだのように感じる」
その言葉に、私は微笑みで答えた。
彼女、私の妻である真美が、交通事故にあって亡くなったのが、今から五年目の春のことだった。あのときはちょうど桜が見ごろで、休みが取れたら花見に行こう、などと二人で話していた。
「ワイルド・ターキー」と私は言った。
男が、後ろにある酒棚から、浅井、というプレートが掛かったボトルを取り出して、グラスの中に、大きめな氷と一緒に注いでくる。オン・ザ・ロック。探偵をはじめてからの、私の飲みかただった。
一口飲む。灼けるような熱さ。それが喉に流れてくる。グラスを軽く振った。氷が澄んだ音を立てた。真美は、このウイスキーを飲めなかった。不意に、思い出が甦ってきた。
彼女をこの店に連れてきたのは、大学を卒業したあとだった。当時、私は叔父が残した探偵事務所を継いでいて、彼女はそこで、事務的な仕事を手伝ってくれていた。あれは春の、桜が満開のころだった。仕事が早く終わり、私は彼女を連れて、この店に来たのだ。ワイルド・ターキー。私はいつもどおり、それを注文した。彼女も同じものを頼んだ。やめておいたほうがいい。私は言った。どうして、と彼女が聞いてきた。きつい酒だからさ。私は答えた。ウイスキーはアルコール度数が四十を越えてる。ビールもまともに飲めない君が飲める酒じゃない。彼女は口を尖らせて言ってきた。そんなの分かんないじゃない、飲んでみないとさ。それは勝気な彼女らしい言いかただった。なら好きにするさ。私はそう言った。
彼女が、ワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックを一口飲んだ。そしてすぐに咳き込んだ。喉を押さえていた。私はバーテンに水を頼んだ。すぐにバーテンが、氷と水の入ったコップを差し出してくる。彼女は勢いよく水を飲み始めた。すぐにコップの中の水はなくなっていた。はあ、と彼女が大きく息を吐いた。私はそれを見ながら自分のグラスでワイルド・ターキーを飲んだ。彼女が言ってきた。よく平気でこんな酒飲めるわね。味覚がどうかしてるんじゃないの。私は答えるかわりに苦笑を浮かべた。忠告したはずなのに、彼女はそれを無視して飲んで、灼けるような熱さに咳き込んだ。自業自得だろう、と思った。だがそのことは口にしなかった。その言葉は、ワイルド・ターキーと一緒に飲み込んだ。彼女はまだ喉がひりひりとしているのか、水ばかりを飲んでいた。そんなときがあった。
昔のことを思い出しながら、私はグラスをカウンターに置いた。
シャツの胸ポケットから、煙草の箱を取り出して、一本を引き抜き、口に銜える。ジッポライターで火をつけた。ところどころが錆び付いた銀色のジッポ。これは、彼女からのプレゼントだった。
あれは彼女が亡くなる三年前の秋だ。冬の訪れを告げる冷たい風が吹き始めていたころ。私の誕生日に、ハードボイルドの探偵を気取るには、百円ライターじゃあ格好つかないでしょう、そう言って、彼女がジッポライターを贈ってきたのだった。その当時、私は煙草に火をつけるのに百円ライターを使っていた。そしてハードボイルドの探偵を気取っていた。だがジッポを貰ってからは、ずっとそのジッポを使っている。鈍い銀色に光るジッポライター。今はところどころに錆があるが、悪い錆びかたではない。年季を感じさせる錆びかただった。
煙を吐いた。苦笑が漏れた。男が聞いてきた。
「どうした?」
「いや、女々しいな、と思って」
「なにが?」
「五年経った今でも、彼女を忘れられないでいる」答えて、また煙を吐いた。
実際、そのとおりだった。マンションの部屋は、一緒に生活していたころとなんら変わっていない。彼女が世話をしていた植木鉢。好きだったヘミングウェイの小説。よく聞いていたジャズのCD。彼女が集めたもの全てが、今も処分できずに、部屋の中でそのままになっている。
銜えていた煙草を灰皿に置き、ワイルド・ターキーを呷った。男が言ってきた。
「悪くない、と思うがな」
「そうですかね」
「忘れられない、ということは、それだけ大切だった、ということでもある」男が言った。「いいじゃないか、忘れなくても。大切な思い出は忘れる必要がない。彼女は亡くなった。だが私たちの心の中では生きている。生き続けている。それでいいじゃないか」
優しげな声の言葉に、そうですね、と微笑して、灰皿に置いた煙草を銜えた。確かにそのとおりかもしれない。そんな思いが心のどこかに生まれ始めてきていた。
煙を吐いた。紫煙が天井に広がって霧散していく。それから静寂が訪れた。二人とも黙っていた。男はグラスを磨いている。私はワイルド・ターキーを呷った。静かな店内に雨の音が聞こえてくる。さきほどよりも雨足が激しくなってきていた。雨の音がハードなBGMのように聞こえてくる。どうやって帰ろうか。私はそれを考えた。タクシーを呼ぶか。それもいいかもしれない。だが雨に降られながら帰るのも悪くない。激しく冷たい雨が、心の中にある哀しさを洗い流してくれるのならそれも悪くない。洗い流したあとに哀しみが消えるのならそれもいい。そのあとに空に掛かる虹のように澄んだ気持ちになれるのならそれも悪くない。ワイルド・ターキーを呷った。紫煙を吐いた。男はグラスを磨いている。隣にある、コップの中に入ったビールの表面がかすかに揺れている。雨は降り続いている。激しい雨が降り続いている。
冷たい雨はいつまでも降り続いていた。