春の陽光
Taku
―1―
差し込んでくる朝日が眩しかった。
さんさんとした陽光。表面に水滴がついた葉がその光を浴び、きらきらと光っている。やわらかな陽射しが朝の公園に降り注いでいた。透明で眩しい光がきらきらと降り注いでいた。
俺はダンボールハウスから頭だけを出して、空を見上げた。
どこまでも広がっている澄んだ青空。輝く太陽。昨日の雨のことなど微塵も感じさせないほどの快晴だ。首を動かして辺りを見渡せば、ハトの群れが公園のベンチのところに出来ている。ベンチに座っているサラリーマン風の男がパンを細かく千切って地面に投げていた。それをハトは食べていた。噴水の周りでは老人がひとりで佇んでいる。いつもこの時間に散歩をしている老人だ。そしてこの公園に来てしばしの休憩を取るのだった。
俺はダンボールハウスから抜け出すと、立ち上がり、大きく伸びをした。
すぐに身体全体に陽光が降り注いでくる。春の陽射しは穏やかでぽかぽかとあたたかい。欠伸をひとつしてから、目尻にたまった涙を拭いて、這い出てきたダンボールハウスに眼をやった。
公園の隅、桜の木々が生えている場所に、いくつかのダンボールハウスが並んである。その中で自分のハウスが一番立派だった。誇張でもなんでもない。誰が見てもそう思うだろう。このハウスにはそれなりの手間と時間が掛かっている。
俺はダンボールハウスの上に被せた毛布に手をやった。毛布はぐっしょりと濡れている。昨日の雨のせいだ。だがハウスの中までは雨が漏れてきていない。ダンボール板や新聞紙は雨に弱いが、毛布は意外と雨を遮断してくれる。ここら辺では雨の日が続くと、上に毛布を被せているダンボールハウスが多く見られる。濡れても、干せば元通りになるもの都合が良かった。ダンボール板や新聞紙は、雨を吸うともう使えなくなるのだった。
俺は歩き出した。公園は、風に吹かれた桜の花びらが舞っている。噴水の噴き上がる水が陽光を浴びてきらきらと光っている。いつのまにかベンチにいたサラリーマンがいなくなっていた。会社にでも行ったのかもしれない。日曜日に出勤するサラリーマンがいるくらいこの街では普通のことだった。
ベンチに向かった。パンくずを突っついていたハトが一斉に飛び去っていった。白い羽が舞っていた。ベンチに腰を下ろした。隣にあるゴミ箱に眼を向ける。スポーツ新聞が捨ててあった。あのサラリーマンが捨てていったのかもしれない。俺は躊躇することなくその新聞を拾い上げた。一面にメジャーリーグの話題が載っていた。日本ナンバーワン投手の大リーグ初登板。初球は百五十キロのストレート、ど真ん中だ。そして空振り三振。八回を投げて失点は一、奪三数は十。初登板で二ケタの三振は日本人投手では三人目の快挙、という記事だった。堂々の内容だが、前評判通りという見方も出来る。結局は、これからの活躍しだいだろう。そんなことを思いながら、新聞をめくっていった。ボクシングの話題があった。ミニマム級の統一戦。日本人同士による一騎打ちだ。試合のほうは判定にまでもつれ込み、王者が、暫定王者を下して統一王者になっている。試合のほうはなかなか白熱した内容のようだった。記事を読んだだけでそのくらいのことは分かる。
俺はさらに新聞をめくった。競馬の話題。そうだ。今日はG1の桜花賞だった。一番人気は牝馬戦負け無しのウォッカ。単勝オッズは一・五倍。圧倒的な一番人気といっていいだろう。だが圧倒的な一番人気ほど信頼できないものもない。あのディープインパクトでさえ負けたことがあるのだ。ここはやはりウォッカを外して、二番人気の馬から。そんなことを考えていると「あのう」と声が掛かってきた。
新聞から眼を上げて、そのほうを見る。俺の前方に、一人の老人が立っていた。
年齢は六十後半、七十にいってるかもしれない。身体が小さくて、腰が曲がっている。着ている服はよれよれで、ところどころに汚れが見える。洗っていないのか、嫌な臭いが鼻をついた。
俺は聞いた。「なに? なんかよう?」
「ひとつ、お願いがあるんですが。私に空いているダンボールハウスを貸してくれませんか」
「なんで俺に聞くのさ?」
「あなたがあのハウスから出て来るのを見ていました」老人が俺のダンボールハウスを指差した。「あそこにはいくつかのハウスがある。その中であなたのハウスが一番立派なものだ。おそらく、ここら辺を仕切っている人なんじゃないかと思って、それで声を掛けました」
「ふうん。まあ、間違いじゃないかな。確かに俺は、ここら辺のホームレスのリーダーみたいな立場のもんだからね。もっとも、自分でなりたくてそうなったわけじゃないけどさ」そう言って俺はスポーツ新聞をゴミ箱に捨てた。言葉を続ける。「あんたにハウスを貸すのはいいよ。いまちょうど、ひとつ空きがあるからさ。それを使えばいい。でもその前に、ちょっと聞きたいことがあんだけどさ」
「なんですか?」
「あんた、どこから来たんだ。ここら辺じゃあ見ない顔だよな。ホームレスには間違いないんだろうけど、この街の人間かい?」
「いいえ」と老人が首を横に振った。「私はふたつ隣の街からやってきました」
「なんでまた、そんなところから。ここからあの街までじゃあ、結構な距離があるだろうに」
「ええ、そうですね。ここにまで来るのに、まる一日掛かりました」
そうだろうな、と俺は思った。この老人がお金を持っているようには見えない。バスや電車ではなく、歩いてきたならそのくらいの時間は掛かるだろう。それにこの老人は衰弱している。頬は痩せこけて、首や手首は血管が浮き出ているほどに細い。なにも食べていないか、内蔵になにかを患っているのだろう。そんな人間が何故、歩いてまでこの街にやってきたのか。俺は聞いた。
「なんか事情があんだろうけどさ、聞いてもいいかな?」
「ええ。私がここに来た理由ですね」老人はそこで言葉を切って、それからはっきりと言った。「ホームレス狩りです」
「え?」とんでもないことを平然と言う老人に、俺は驚いて、聞き返していた。「ホームレス狩り?」
「ええ。あれは一週間ほど前でしたか。夜、私がハウスの中で眠っていたら、いきなり声が聞こえてきたんです。警察だ、出て来い、と。私はすぐに出て行きました。でもそこに警官はいなかった。いたのは金属バットを持った少年たちでした。彼らは言いました。金出せ、と。私は、持っていない、と答えました。そしたら少年たちは私のハウスを壊し始めて」そこで言葉が途切れた。いつのまにか老人の眼には涙が溢れている。だがそれは頬に流れることはなかった。流れるギリギリのところで目尻にたまっている。老人がそっと指先で涙を拭って言葉を続けてきた。「それからはもう、酷かったです。少年たちはハウスを壊して、貯めておいたお金を持っていった。二千五百三十八円。彼らからしてみればなんてことのない額でしょう。じっさいその通りのことを言ってました。だが私からしてみれば大金だ。それを持っていかれた。悔しかったです。怒りもあった。でもどうすることも出来なかった。私が向かっていったところで、返り討ちにあうのが目に見えている。もしかしたら殺されるかもしれない。そう思うと怖くて動けなくなっていた。結局私は、ハウスを壊され、全財産を持っていかれるのを見ていることしか出来なかった。私は」
「もう、いいよ」
掠れた涙声に耐えられなくなって、俺は言葉を途切れさせた。老人がまた涙を拭う。泣きたいのを必死に堪えているのは、堪えられるのは、この老人の強さだろう。俺は公園の隅にあるダンボールハウスの群れの、一番端のハウスを指差して言った。
「あの一番端のハウスなんだけどさ、あんたが使っていいよ。今は誰も住んでないから。前に住んでた人が三日前くらいから行方不明なんだけど、もう戻ってくる気配もないからね」
「その人は、どこにいったんでしょうか?」
「さあね。新しいねぐらを見つけたか、もしくはホームレスをやめたか。あ、警察に捕まった、っていうのもあるかな」俺は冗談めかして肩をすくめて言った。「まあ、今は誰も使ってないんだからさ、あんたが使ったらいいよ。前の住人が戻ってきたら、事情を説明して、新しいハウスを作ればいいことだしね」
「そうですか、分かりました。ありがとうございます」
そう礼を言って、老人が深々と頭を下げた。俺は少しの居心地の悪さを感じながらも、その隣のハウスに人差し指を移動させた。
「それとさ」と言う。「あのハウスに、星野さんっていう、白い猫を飼ってる人がいるからさ。なんか困ったことがあったり、問題が起きたりしたら、その人に言うといいよ。大抵のことは解決してくれるはずだからね」
「分かりました」そう言って、ふたたび老人が頭を下げた。「色々親切にしてくださって、本当にありがとうございます」
「ん、いいよ、別に。袖振り合うも他生の縁とか、困ったときはお互い様とかいうしね」そう言って俺は立ち上がった。「それじゃあ、俺はちょっと用事があるから、これで」
「はい。ありがとうございました」老人がみたび頭を下げた。
俺は、ああ、うん、と曖昧に頷いて歩き出した。感謝の言葉に対して、どう対応していいのか分からない。礼を言われることに慣れていないのだ。ずっと人に迷惑を掛けて生きてきた。それがホームレスになってからは、感謝されることのほうが多くなっている。人生は不思議なもんだ。そんなこと思いながら、足を止めて振り返った。
老人が、ダンボールハウスに向かって歩いていた。その背中はひどく弱く、そして小さく見える。そこで気付いた。歩き方がおかしい。右足を引きずるようにして歩いている。もしかしたら怪我でもしているのかもしれない。それでも老人は歩いていた。おれはその背中に「あのさっ」と声を掛けた。
老人が足を止め、振り返り、「なんでしょうか?」と聞いてくる。
俺は言った。「いまさらだけどさ、自己紹介がまだだったね。俺は倉本 哲也。みんなからは、哲、って呼ばれてる」
「そうですか。私は斉藤といいます。斉藤 正蔵です」
「オーケー、分かった。斉藤さんね。これからよろしく」
「こちらこそ。倉本君には、色々とお世話になると思いますが」
「そんな堅苦しくなんないでさ、もっと気軽に、哲、でいいよ。あんたは今日からここの住人になったんだからさ。仲間になったんだから。そんなペコペコしないでさ、もっと気楽に話してもいいんだぜ」
「これでも一応、普通に接してるつもりなんですが」
「ふうん。それがあんたの素ってやつか。ま、いいか。とりあえず、あんたはもう仲間なんだからさ。困ったことがあったら、すぐに言いなよ」
「ええ、分かりました」
それじゃあね。はい。最後にそんな会話をして、俺は歩き出した。
公園には相変わらず陽光が降り注いである。吹く風に乗って桜の花びらも舞っている。日曜日の午前十時の公園の風景。それはいつもどおりの代わり映えしない光景だ。だがそれこそが平和であることの証明でもある。ホームレスにとっては、いつもどおりこそが一番平和なことなのだ。俺はまた振り返った。あの老人、斉藤さんがダンボールハウスの中に入っていくのが見えた。しゃがみ込んで、屈みながら狭いハウスの中に入り込んでいくのが見えた。大丈夫だろうか。不意にそんな思いがよぎった。いや大丈夫だろう。だがすぐに思い直した。隣のダンボールハウスには星野さんがいる。なにかあったら星野さんがどうにかしてくれるだろう。俺は、止めた足を歩き出させた。
ぽかぽかとした陽の光がいつまでも公園に降り注いでいた。
―2―
街の中はいつもと変わっていなかった。
だが日曜日ということで、商店街には人の姿が少ない。地元で買い物をするよりも、車で遠くのデパートに行くほうがいいのだろう。人の姿が少なくとも、行き交う車の数は多かった。
俺は駅前にある、酒屋の自販機の前までくると、つり銭が落ちてくる場所に手を突っ込んだ。指先に硬貨の感触があった。取り出してみる。それは五百円玉だった。躊躇わずに投入口に入れた。マイルドセブンのボタンを押す。落ちてきた煙草の箱を取り出す。封を切って、一本を口に銜えたところで、火を持っていないことに気付いた。前に公園で拾った百円ライターはダンボールハウスの中に置いてある。仕方ないか。俺はため息をついて、煙草を銜えたまま、来た道を戻りだした。そのとき、遠くから一人の青年が走ってくるのが見えた。
年齢は二十歳くらいだろうか。長袖の黒のジャージを着ていて、両手にはバンテージを巻いてある。その格好には見覚えがあった。ボクサーだ。
青年がこちらに向かって走ってくる。俺はちょっと後ろに下がり、道を開けてやった。どこからスタートしたのかは分からないが、結構な距離を走っているようだ。開いた口が荒い呼吸を繰り返している。
擦れ違う。そのときに「よう」と俺は声を掛けた。青年が足を止め、こちらに顔を向けてきた。髪を短く刈り上げた精悍な顔付きだった。
真っ直ぐな瞳に疑問の光を浮かべ、青年が聞いてくる。「なんですか。なにかようですか?」その声にはかすかな苛立ちが込められていた。
無理もないだろう。銜えた煙草を吐き捨てて、そう思った。ランニングの途中で声を掛けられ中断させられる。俺が現役のときだったら、間違いなくシカトをしていただろう。だが彼は足を止めた。不審そうな表情を浮かべていても、そういう意味ではまだ紳士的な対応ともいえるかもしれない。
「お前さん」と俺は聞いた。「プロのボクサーかい?」
「そうですが」
「階級は?」
「フェザーです。フェザー級」
「そうか」俺は口の中で呟いた。フェザー級か。
偶然だろうが、俺も現役のころはフェザーだった。今はウエルターほどはあるが、あのころは痩せていた。よく見ると、青年は俺と同じほどの身長がある。フェザー級では高いほうだ。手足も長い。リーチがある、というのは立派なアドバンテージだ。
「あの」と青年が聞いてきた。「なにかようですか?」
「いや」と俺は答えた。「特にたいした用事があるわけじゃないんだ。ただ昔のことを思い出してね。俺も八年前まではボクサーだった。プロのね。日本チャンプにもなったことがある」
その言葉に、青年の顔が驚きに変わった。それからこちらを凝視してきた。
「もしかして」と言ってくる。「倉本さん、ですか。フェザー級日本チャンピオンの。倉本 哲也さん、ですか」
「へえ、よく知ってるな」
「テレビや会場で試合を見たことがありますから。それに、不沈艦の哲、といえば有名ですから」
「不沈艦ね」苦笑が漏れた。「懐かしいニックネームだな。確かに、昔はそう呼ばれてたけどね」
不沈艦の哲。デビューから無敗で、しかも一度もダウンせずにチャンピオンになったボクサー。頑丈で打たれ強くて、タフさが売りのインファイター。そして、八年前にタイトルを奪われ、ボクシング界から追放された男。
「お前さんは」と俺は聞いた。「いま、ランカーかい?」
「はい。日本フェザー級の三位です」
「じゃあ、タイトルマッチまであと少しだ」
「はい。来月の後楽園で、挑戦者決定戦が決まってます」
そう答えた青年の顔は、希望に満ち溢れていた。太陽に照らされて顔にかいた汗がきらきらと光っていた。まだ見ぬ未来に不安ではなく、期待を抱いている若者の顔がそこにはあった。
「そうか」と俺は言った。「来月、試合があるのか。なら、ランニングの途中を邪魔して悪かったかな」
「いえ」と青年が首を振って言ってきた。「気にしないで下さい。自分も、倉本さんに会えて光栄でしたから」
「そうか。ま、来月の試合、頑張ってな。お前さんなら勝つような気がするからさ」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあ」
「はい」と返事をして青年は走り出した。俺はその背中をずっと見ていた。
青年は早いペースで走っている。どんどんと小さくなっていくその背中には、希望の光が満ち溢れているように思える。その背中には夢を叶える力があるようにも見える。俺は公園に向けて歩き出した。たまに通り行く街の人々が、擦れ違いざまに侮蔑の視線を向けてくるときがある。それはホームレスという存在に向けられた軽蔑の眼差しだ。だが気にせずに歩き続けた。あの青年の顔を思い出した。額にかいた汗がきらきらと輝いていた。俺も八年前までは。ふと口の中でそんなことを呟いた。
そう、俺も八年前までは。
―3―
公園に戻ると、一人の女性がベンチの上に座って文庫本を読んでいた。
年齢は三十代前半くらいだろうか。上下の紺色のスーツを来ていて、黒の髪を後頭部のところで結わえている。OLだろうか、そんなことを思いながら彼女の前を横切った。そのときに彼女が読んでいた文庫本から顔を上げた。ちょうど顔と顔を見合わせる形になった。そして俺は驚いた。彼女も驚いていた。大きな瞳をさらに大きく見開いていた。懐かしい記憶が脳裏に甦ってきた。風に吹かれた桜の花びらが二人のあいだでひらひらと舞って地面に落ちた。そのあいだ声を発することが出来なかった。懐かしさと驚きだけが頭の中にあった。
しばらく見詰め合って、そして最初に硬直が解けたのは彼女のほうだった。「倉本、さん?」と問い掛けてきた。「倉本さんでしょう、倉本 哲也さん」
俺はまだ声を出すことが出来ず、ただ頷いただけだった。
「やっぱり」彼女の驚きの顔が笑顔に変わった。「やっぱり倉本さんだ。すぐ分かりましたよ。だってぜんぜん変わってないんだもん。あ、私のこと覚えてます?」
そう聞いてくる彼女の顔は、やはり笑顔だった。その表情は初めて会ったときとなんら変わってはいない。今の彼女の年齢は三十を過ぎているはずだ。だがその笑顔は初めて会ったときと、まだ短大を卒業したてのころのあどけなさを残すあのころの彼女と同じ純真なものだ。子供のような無邪気な笑み。不意に思い出が甦ってきた。初めて会ったときのこと。あれは彼女が国選弁護人としてやってきたときのことだ。初夏を思わせる涼しげな青色のスーツを着て、まだあどけなさを残す顔で俺と向かい合って座っていた。そういえばあのころは髪が短かった。ベリーショートの髪形をしていた。彼女の第一声は屈託のない笑みでこうだった。はじめまして、これから倉本さんの弁護人を担当することになりました、葉月です。よろしくお願いします。そう挨拶をした彼女の笑顔は真夏の太陽のように輝いているように見えた。今の彼女はあのころと髪型以外は変わってないように見える。もしかしたら彼女は歳を取っていないのかもしれない。あのころとまったく同じなのかもしれない。そんな錯覚さえ起こしそうなほどに彼女はまったく変わっていなかった。
「覚えてるよ」と俺は答えた。
彼女の名前は、葉月 沙織といった。今はどうだか知らないが、あのころは弁護士をやっていた。熱血な新米弁護士。それが初めて会ったときの第一印象だった。
彼女が読んでいた文庫本を閉じて言ってきた。その文庫本はアーネスト・ヘミングウェイだった。「久しぶりですね、倉本さん」
「ああ」俺は短く答えて、彼女の隣に腰を下ろした。
だいぶ気持ちは落ち着いてきている。マイルドセブンを口に銜えた。隣から火が差し出された。眼を向けた。彼女が百円ライターの火をこちらに差し出していた。少しの躊躇いのあと、その火を使って煙草の先端に火をつけた。喫い込み煙を吐き出す。それを見ていた彼女もポケットから煙草の箱を取り出して、その中の一本を口に銜え火をつけた。喫い込んで煙を吐き出す。煙草を喫い慣れている動作だった。意外に思って俺は聞いた。
「煙草、喫うんだな」
「はい。いつもは喫わないんですけど、たまに喫いたくなるときがあるんです」
彼女はそう答えてまた煙を吐いた。その横顔を見てやはり月日が流れているのを実感した。数分前までは彼女が昔のままだと思っていた。なにも変わっていないと思っていた。だが煙草を喫っている今の彼女の横顔は歳相応なものに見える。それは社会の厳しさと残酷な現実を知った大人の顔でもある。彼女がまた煙を吐いた。俺も煙を吐いた。春の公園、快晴の空に二本の紫煙がゆらゆらと昇っていく。それをぼんやりと眺めていた。彼女と初めて出会ったのが遠い昔のように思えてくる。いや、じっさい遠い昔のことなのだろう。あれから八年の月日が流れている。そのあいだ俺は刑務所の中にいて、それから出所してホームレスになった。八年。そのあいだの彼女の人生は分からない。だがその月日は間違いなく彼女にも流れている。それは今の彼女の横顔を見ていれば分かる。あのころの、出会ったころのあどけなさは今はもうない。その顔にあるのは疲労の色だ。そういう顔には見覚えがある。人生になんらかの悩みを抱えている人間の顔だ。いや、人生に悩みを抱えていない人間はいない。なにも考えずに生きていけるのは子供のときだけだ。ただ無邪気に生きていられる唯一の時代。それが大人になるにつれて、色々な悩みが生まれてくる。無邪気ではいられなくなる。結局そういうことなのだろう。歳を取り、大人になった。そういうことなのだ。
俺は短くなった煙草を吐き捨て、足で踏んで揉み消した。彼女がなにか言いたげな視線を向けてきたが、結局なにも言わずに銜えていた煙草を胸ポケットから出した携帯灰皿で揉み消した。
「そういえば」と聞いてくる。「倉本さんって、どこに住んでるんですか? この近くですか?」
「まあ、近くっていえば近くかな。あそこが俺の家さ」
そう言って、公園の隅、桜の木々が生えている場所を指差した。そこには艶やかに咲く満開の桜の下に似つかわしくない、ダンボールハウスの群れがある。彼女はその群れに眼を向けたあと、こちらに視線を戻してきた。瞳の中にかすかな驚きの光があった。
「変わった場所に住んでますね」彼女は言った。「どれが倉本さんの家なんです?」
「一番立派なやつ」
「あ、あれですね」彼女が俺のハウスを指差した。
ああ、と頷こうとしたそのとき、俺のハウスの二つ隣から、一人の男が這い出てきた。歳は四十半ばほど。無精髭を生やして、いかにもホームレスといった外見をしている。着ている灰色のセーターもよれよれで、肘の辺りがほつれていた。
男はハウスから這い出て、立ち上がり、両手を上げて大きく伸びをした。ここら辺のホームレスはみんな、ハウスから這い出てくると同じように伸びをする。まるで冬眠から目覚めた動物みたいに。
男は欠伸をして、目尻にたまった涙を指で拭った。そのときにちらりとこちらを見たが、見て見ぬ振りをしてくれた。その気遣いが少し嬉しかった。
「倉本さんは」不意に彼女が聞いてきた。「今、仕事はしてるんですか?」
「いいや。ホームレスはどこも雇ってくれないからね」
「じゃあ、どうやって生活を?」
「競馬」と俺は答えた。「この近くにウインズがあるんだ」
「ウインズ?」
「場外馬券場のことさ。週末はいつもそこで、馬券を買ってる」
「へえ。儲かるもんなんですか、競馬って」
「それなりに、かな。先々週は五百円が二万円に化けたけど、その前は五千円賭けてひとつも当たらなかったしな」
「ふうん。でも、それなりに生活していけるくらいは儲かってるんですね」
「まあな」そう頷いて俺はマイルドセブンを銜えた。だが今度は彼女は火を差し出してきてくれなかった。仕方なく銜えた煙草を引き抜いて、意味もなく指でくるくると回した。彼女が聞いてくる。
「まともな生活をしよう、なんては思わないんですか?」
「思わない」即答を返した。「今の生活はそれなりに気に入ってるし、なにより、まともな生活がどんなものなのか知らない」
「ダンボールで出来てないちゃんとした家に住んで、土日以外は会社に行って真面目に働く。それがまともな生活だと思いますけど」
「それを俺にしろと?」
「いいえ」
「じゃあなんで聞いてきたんだ?」
「特に意味はないです。ただ、むかし弁護をした人にはちゃんとした生活をしてほしいなあと思って」
俺は肩をすくめて返した。彼女が小さくため息をつくのが見えた。
眼を公園の隅、ダンボールハウスの群れに移動させる。四十過ぎの男は、自分のハウスの前で胡坐をかいて座っていた。その膝の上に白い猫が身体を丸めて乗っている。男は猫の背中を撫でていて、猫は気持ちよさげに眼を細め、大きく口を開けて欠伸をしていた。俺は聞いた。
「そっちのほうは、まだ弁護士やってんのか?」
「はい。個人で事務所開いてやってます。あ、事務所、この近くにあるんですよ」
「そうか。ま、なんか問題を起こしたら相談しにいくよ」
冗談めかしてそう言うと、彼女は左手を口元に当てて小さく笑った。そのときその左手の薬指にきらりと光るものが見えた。飾り気のないシンプルなシルバーの指輪だった。驚いて俺は聞いていた。
「その指輪、結婚、してるのか」
「え? ああ、はい。五年前に結婚したんです、見合い相手と。苗字も葉月ではなく、青葉になりました」
「へえ。やっぱ相手も、弁護士なのか?」
「いいえ」彼女は首を振って否定したあと「主夫です」と答え「夫のほうですけどね」と付け加えた。その言葉にはどこか皮肉が感じられた。
俺は聞いた。「旦那さんと上手くいってないのか?」
「はい、というか、もう醒め切ってますね。向こうも私のいないときに、家に女連れ込んだりしてるみたいですしね」
「ふうん。まあ、夫婦間のことはよく分からないが、別れたいとは思わないのか?」
「思いますよ。思ってますよ。でも、いろいろ問題があるじゃないですか。世間体とかもあるし」
「世間体ね」俺は言った。「一番嫌いな言葉だな。俺なんて毎日、街の人から白い眼で見られてるぜ」
「それは、倉本さんの生活に問題があるからだと思いますけど」
そう言って彼女は苦笑を浮かべた。俺は肩をすくめてから言い直した。
「まあ、俺が言いたいのは、変なプライドなんて捨てちまえってことだ。世間体なんか気にして生きるよりは、他人からどんな目で見られようとも、自分の好きなように、思ったままに生きるほうがいいってもんだ。実際、俺だってまっとうな職業に就こうと思えば就ける。でもずっとホームレスをやってる。自由になりたいからさ。誰にも干渉されずに、社会に束縛されずに自由に生きたいからさ。俺は自分の好きなように生きている。だから現状に不満がない。ま、食べもんが手に入りにくいとか、そういう不便な生活ではあるが、それでもこの生活を止めるつもりはないね。自分の好きなように生きてるからさ。思ったままに生きてるから。あんたもさ、いろいろ問題はあるだろうけど、自分の好きなように生きてみろよ。そうすれば、今までとは違う何かを見つけれるかもしれないぜ」
俺がそう言い終ると、彼女はなにか不思議なものを見るような光をその黒い瞳の中に宿し、それから顔を伏せた。沈黙が訪れた。静寂の中で桜の花びらだけが舞っていた。やがて、数秒後、彼女が顔を上げてきた。その瞳の中には今までとは違う、新しい光が宿っているようにも見えた。
「そうですね」彼女は微笑みながらそう言って「それもいいかもしれないな」小声でそう呟いた。
彼女がベンチから立ち上がる。それから両手を空に高く上げて大きく伸びをした。透明な陽射しが彼女の身体いっぱいに降り注いでいた。金の髪留めがきらきらと光って眼に眩しかった。立ち上がったまま彼女が振り返り、こちらに顔を向けてくる。陽光に照らされたその顔は輝いているように見えた。
「本当はもっとお話したかったんですけど」彼女は言った。「事務所に帰らなきゃいけないので、これで失礼します」
「日曜日なのに仕事かい?」
「ええ」
「大変だな」
「そうですね」彼女は頷いて、それから優しく微笑んだ。「でも、なんだかやる気が出てきました。最近、家庭のことで悩んで、それでちょっとやる気がなくなってたんですけど。でも昔みたいに、そう、初めて弁護士の仕事をしたときみたいな、とりあえず一生懸命頑張ろうっていう、そういう気持ちになってきました」
「そうか。そいつは良かったな」
「はい。あ、それじゃあ、これで」
彼女はぺこりと頭を下げて、そして背を向けて歩き出した。だが五歩ほど歩いたのち、不意にその足を止め、肩越しに振り向いてきた。
「あの」と言ってくる。「これからも倉本さんとお話しに、この公園に来てもいいですか?」
「好きにしろよ。ただ、来るときには弁当でも持ってきてくれるとありがたいね」
ふふ、と微笑んで彼女は言った。「分かりました。それじゃあ明日のお昼にでも、お弁当持ってまた来ますね」
それじゃあ、また明日。そう言って彼女は小さく手を振って、ふたたび背を向けて歩き始めた。どんどんと小さくなっていくその背中をずっと見ていた。吹く風がピンク色の花びらを舞い上がらせ、桜の香りを運んでくる。彼女が公園から出て行った。不意に寂しさに似た感情が込み上げてきた。俺はそれを振り払うかのように公園の隅、ダンボールハウスの群れに眼をやった。すると白い猫を抱いて四十過ぎの男がこちらに近付いてくるのが見えた。俺はベンチの隅のほうに移動し、スペースを空けてやった。男が一人分のスペースを空けて隣に座る。白い猫が膝の上で丸くなっていた。その背中を優しく撫でてながら男が声を掛けてきた。
「おはよう、哲」
「おはよう、星野さん」俺は挨拶を返した。「それにしてもずいぶんと早起きだね。いつもは昼過ぎまで寝てんのにさ。なんかあった?」
「いや、なにもないさ。それより驚いたよ」
「なにが?」
「哲に、あんな美人な知り合いがいるとはね」
星野さんが公園の出口に眼をやって言った。俺は首をかしげて聞いた。
「彼女、美人なのかな」
「哲がどう思っているのかは知らないが、一般人からしてみたら美人の部類に入るだろうな。すくなくとも、私が見たことのある女性の中では二番目に美人だ」
「へえ、一番は誰なのさ?」
「別れた妻」星野さんが即答した。
俺は呆れたように肩をすくめた。それで、と星野さんが聞いてくる。
「哲は、彼女とどういう関係なんだ。これか?」そう言って小指を立てた。女、という意味だ。
俺は首を振って「そんなんじゃないさ」答えた。「彼女は、むかし世話になった弁護士でね」
「ほう。なにをやらかしたんだ?」
「殺人」と俺は答えた。「八年前、つまんない喧嘩で人を死なせてね。そのとき世話になった」
星野さんが驚いた顔をしてこちらを見てきた。その眼は大きく開かれていた。だがすぐに顔をそむけた。それから、そうか、と頷いただけだった。
「なんも聞かないんだ」俺は言った。「いろいろ聞きたいことがあんじゃない?」
「確かに、その話を聞きたくはある」星野さんは言った。「だが、哲が自分から話さないかぎりは、私のほうから聞こうとはしない。私がここに来たとき、哲はこう言ったはずだ。ホームレスに過去は関係ない、とね。私は今でもその言葉を憶えているよ。過去のことをなにも聞かずに、無条件で仲間に入れてくれたあの日のことを。だから私もなにも聞かない。哲が話したくなったら話せばいいさ」
そう言って、猫の背中を優しく撫でた。気持ち良さげに眼を細めた猫がにゃーと鳴いた。俺はそのときのことを思い出そうとしていた。だがおぼろげな記憶しか浮かんでこなかった。それでもそんなことを言った憶えはあった。それはぼやけた輪郭のような曖昧な記憶だったが、それでも断片的に憶えている。ホームレスに過去は関係ないさ。確かにそう言った。いや、もしかしたらその言葉は、星野さんではなく、自分自身に言い聞かせるために言ったのかもしれない。あのときはまだ罪の意識に悩まされていた。人殺しという罪の十字架。それを背負ってあのころは生きていた。
俺は火のついていない煙草を銜えた。そういえば、と星野さんが言ってくる。
「さきほど、斉藤さんという老人がやってきたよ。丁寧な口調でね、お世話になりますと挨拶をしてきた。今日からここに住ませてもらいますとね」
「ふうん」
俺は興味なさげに銜えた煙草を箱に戻した。ちらりと眼を向けてきた星野さんが言葉を続ける。
「そのとき、哲のことをいってたよ」
「なんて?」
「優しい若者だ、と。初対面の私にダンボールハウスを貸してくれて、仲間だとも言ってくれた。ホームレスになって久しいが、あんなに優しく接してくれた若者はいなかった、とね」
「ふうん」
「哲は昔から変わってないな。優しくてタフなままだ」
「そうかな?」
「ああ。フィリップ・マーロウみたいだ」
「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない?」
俺がそう言うと、星野さんはにやりとした笑みを浮かべた。思わず肩をすくめて言ってやった。
「星野さん、チャンドラーなんて読むんだ。なんか意外だね」
「それはお互い様だろう。哲だって、ヘミングウェイを読んでるんだしな」
「まあ、確かにね」
「それより、哲」
「なに?」
「今日は競馬に行かないのか」
予想していない問いに、少しの驚きを含んだ視線を星野さんに向けた。それから聞いた。
「星野さん、いつから競馬するようになったのさ」
「いや、今日からはじめようと思ってね。よく哲が、競馬で儲けてコンビニ弁当なんかを買ってくるだろう? それを見て、やりたくなってきたんだ」
「ふうん。ま、当たるかどうかは運次第だけどね。いいよ。オーケー。今日はG1の桜花賞だからさ、早速ウインズに行こうか」
「ウインズ?」
「場外馬券場のことさ。いつもそこで馬券を買ってるんだ」
「競馬場には行かないのか?」
「電車賃がもったいない」俺は言った。「それに、競馬場に入るには入場料が要るんだよ。たった二百円だけどね。それでも俺たちからしてみたら結構な額だし、入場料を払うくらいならその分を賭けたほうがいい」
「その、ウインズというのは、タダで入れるのか?」
「うん。有料なとこもあるけど、俺がよく行くところは入場料タダだから」
「分かった。それじゃあ、ちょっと待っててくれ。シロを預けてくる」
そう言って星野さんが猫を抱いて立ち上がった。シロ、というのはこの猫の名前だった。
星野さんがシロを抱いてダンボールハウスの群れに向かっていく。俺は空に眼を向けた。
どこまでも続く青空の真上には太陽が輝いている。それは眩しく輝いている。春なのにまるで初夏を思わせるような快晴の空だ。白い雲がゆっくりと流れてもいる。ぼんやりとそれを眺めながら、今日、出会った人たちの顔を思い浮かべてみた。
ホームレス狩りにあった老人。将来に希望を抱いている若いボクサー。そして、彼女と星野さん。ホームレスは自閉的な生活を送っており、あまり街の人々との関わりを持とうとはしない。だがふとしたことや、ささいなきっかけで知らない人と出会うことがある。知り合いと再会したりもする。どの人間も様々な過去を積み重ね生きている。薄っぺらな人生を過ごしている人もいれば、誰にも言えない過去を持っている人もいる。様々な人間がいる。俺もそのひとりだ。そう思った。ボクシングの日本チャンプになりながら、つまらない喧嘩で人を死なせ、タイトルとライセンスを剥奪され、刑務所の中に入れられた。そして四年後、出所したのちホームレスになった。そんな過去がある。だがそれもいいだろう。そう思った。そんな生きかたがあってもいい。
俺はベンチから立ち上がって大きく伸びをした。身体いっぱいに降り注ぐ春の陽光が眼に眩しかった。