a lost genertion
Taku
まだ残暑がきびしい九月のなかば、ぼくは屋上に向かう階段を上っていた。いまは授業中で、階段や廊下には人の姿がなかった。みんな真面目に授業を受けているのだろう。校内が静まり返っていた。ぼくは階段を上りきり、屋上に続くドアのノブに手をかけた。ひねって開く。つと風が吹きつけてきた。太陽の熱気を含んだなまぬるい風だった。
屋上には、いまは授業中なのにひとりの女生徒がいた。ぼくと同じでサボりの生徒だろう。彼女は手すりに背中を預け、コンクリートの床に座って、文庫本を読んでいた。あぐらをかいているせいで、短いスカートの中がいまにも見えそうだった。ぼくはドアを閉めた。その音ではっとしたように彼女は読んでいた文庫本から眼を離し、こちらのほうに顔を向けてきた。その顔には見覚えがあった。ぼくは思わず、あっ、と小さく声を出していた。その声に彼女の、あっ、という声が重なった。彼女のほうもぼくの顔を見て驚いているようだった。
彼女はぼくと同級生で、同じクラスの生徒だ。茶色がまじったショートカットの髪に、欧米人のような彫りの深い顔立ち。右の耳に光る金色のピアス。それが陽光を浴びてきらきらと輝いていた。
「やあ」とぼくは小さく手を上げて言った。「サボり?」
彼女が読んでいた文庫本にしおりをはさみ、「ええ」とうなずいた。それから制服であるブレザーの胸ポケットからタバコの箱を取り出し、そのなかから一本を引き抜き、口にくわえた。ライターでタバコの先端に火をつける。ぼくはそのあいだに彼女のとなり、一メートルほど距離を取ったところに座った。あぐらをかいて手すりに背中をあずける。彼女が煙を吐いた。紫煙がゆらゆらと空に昇っていき霧散する。彼女のわきには蓋の開いた缶コーヒーが置いてあった。そしてそのとなりに文庫本、彼女がいまさっきまで読んでいた文庫本があった。本のちょうどあいだくらいにしおりがはさまれていた。その本はヘミングウェイの『日はまた昇る』だった。彼女がまた煙を吐いた。
いまは昼休みの終わり、午後の授業がはじまっている時間だ。真上にある太陽が眩しく、さんさんとした陽光を降り注いでいる。今年は残暑がきびしく、ぼくは九月のなかばなのに、まだ半袖の白いYシャツを着ていた。それでも陽の光を浴びると汗がにじんでくる。だが彼女のほうはブレザー、冬服を着ていて、それでいて汗ひとつかいていない。
「こんな暑い日に、ブレザーなんか着て、暑くない?」とぼくは聞いた。
彼女が顔をこちらに向けてくる。タバコをくわえているその顔はとても綺麗なものだった。
「暑くないわ」と彼女が答えた。それから「どう?」とタバコの箱をこちらに差し出してきた。
ぼくは、どうも、と礼を言って一本を引き抜いた。口にくわえる。彼女がライターの火を差し出してきたので、また礼を言って、その火を使ってタバコの先端に火をつけた。吸い込んで煙を吐く。空に昇っていく紫煙が吹く風によって霧散していった。
それから沈黙が訪れた。といっても居心地の悪いものではなかった。不思議な気分になった。彼女とは同じクラスなのに、ほとんどまともな会話をしたことがない。それなのに、こうして屋上でふたりきりでタバコを吸っている。ふたりのあいだの空間には居心地の悪さがまったくない。すくなくともぼくは感じていない。こういうのは初めてだった。おそらく、ふたりのあいだには、授業をサボったもの同士、仲間意識のようなものがあったのかもしれない。
それからぼくは、よく授業をサボり、彼女とふたりで屋上にいるようになった。彼女は無口だった。だから、最初のころはまったく会話がなく、ただタバコを吸っているだけだった。だがぼくのほうから話しかけるにつれて、彼女のほうも話をするようになっていった。
その日、ぼくらは互いの寮生活について話していた。ぼくも彼女も学生寮で生活していた。ふたりとも相部屋で、彼女の同居人は、彼女の中学時代からの友人だという。だから気を使わなく楽よ、と彼女が笑った。ぼくは、いいね、と言った。ぼくの同居人はひどい男だった。まず、彼はきれい好きだった。それも潔癖症といっても過言ではないくらい、きれい好きな男だった。たいていの場合、男の二人部屋は汚くなるものである。だが彼は、ほこりが床にひとつでもあるだけですぐに掃除をはじめようとするから、ぼくらの部屋はいつもきれいなままだった。だが、それはべつに悪いことではない。問題は、彼がその潔癖症をぼくにまで押し付けてくることである。彼は週末にはいつも部屋の掃除をするのだが、それをぼくも一緒にさせられるのである。彼は徹底した男だった。掃除のときはいつも、ベットの下まできれいにしないと気が済まない男だった。週末の掃除は、大晦日の大掃除のように、いつも丁寧かつ徹底的にしなければいけなかった。
「だから週末が近付いてくると、うんざりしてくるんだ」とぼくは言った。
「ふうん。大変だね」と話を聞いていた彼女が、苦笑しながら言った。
それからぼくは彼の夜のことについて話した。彼は就寝時間が早い。おそろしく早い。いつも午後九時になると、明かりを消して、布団の中に入る。彼は早寝早起きをモットーとしていた。そうなると当然、ぼくも早く寝ることになってしまう。だがべつに早い時間に寝ることについて問題はなかった。問題は、彼のいびきがひどいことだった。
「そんなにひどいの?」と彼女が聞いてきた。
「ひどい」とぼくは答えた。「あれを言葉で形容するなら、ゴジラの鳴き声、かな」
「ゴジラ? 怪獣の?」
「そう。怪獣の」とぼくは言った。
じっさい、彼のいびきはそれ以外の言葉では表現できないほどに、ひどく、そしてうるさかった。ぼくらは二段ベットで寝ていて、彼はぼくの上で寝ている。だから上から響いてくるそのいびきは、ひどい不快音のようなもので、ぼくはいつもそのせいで寝付けないでいるのだ。だから大変だよ、とぼくは言った。ほんのすこしなにかを考えていた彼女は、それならさ、と言ってきた。きょうの夜、わたしの部屋に来てみない?
その唐突かつ大胆な言葉に、ぼくは驚いて、言葉を失くしていた。だがそれでも、うん、とうなずいていた。
その日の夜。ぼくは自分の部屋を抜け出し、消灯した廊下をひとり歩いていた。
ぼくが部屋を抜け出すときには彼はもう眠っていて、あいかわらずのひどい不快音のいびきをかいていた。ぼくは音を立てないようにして静かにベットから降り、ドアを開け、廊下に出た。そのとき彼のようすをうかがったが、熟睡していて、起きる気配は微塵にも感じなかった。
暗い廊下を歩く。日中は暑かったものの、深夜になると冷えてくるので、ぼくは長袖のジャージを着ていた。窓から見える外の景色は完全に闇に染まっており、遠くの空に三日月がぽつんと浮かんでいるのが見えた。廊下を歩いていると、各部屋のドアから、ときたま笑い声が聞こえてくる。こんな時間なのにまだ起きている寮生がいるのだろうか。いや、この時間に起きているのが普通なのかもしれないな。そんなことを思いながら、ぼくは廊下を歩き、階段を上り、彼女の部屋の前までやってきた。すこし胸が高まった。軽くドアをノックする。ガチャと内側からノブが回る音がして、ほんのすこしドアが開いた。そのすきまから彼女が自分の顔を三分の一ほどのぞかせる。ぼくは小さく手を上げた。警戒の視線をおくっていた彼女の顔が安心したような微笑に変わり、やっとドアを開いてくれた。彼女もジャージの長袖を着ていた。ぼくは、やあ、と言った。彼女が、来てくれんだ、さ、入って、と言ってぼくを部屋の中に招き入れた。
部屋の中に入る。すると、狭い室内に女生徒がひとり、男生徒がひとり、いた。ともにジャージ姿だった。彼らのまわりには、蓋が開けられたビール缶がいくつか置いてある。それを見つけ、すぐに悟った。彼女らは、この部屋でこっそり飲み会を開いていたのだ。彼女が、さ、座って、と言ってくる。それから、ビールでいいよね、と聞いてきたので、ぼくは、うん、とだけうなずいた。
男生徒のとなりにあぐらをかいて座る。彼とは顔見知りだった。もうひとりの女生徒のことは知らない。だがこの部屋にいる以上、彼女の同居人だろう。そう勝手に判断した。ぼくと向き合うようにしてあぐらをかいた彼女がビール缶を差し出してくる。礼を言って受け取った。それから四人で乾杯をして、ビールを飲んだ。ぼくはすぐにこの仲に打ち解けていった。それは顔見知りがいたせいかもしれないし、アルコールのせいかもしれない。もしかしたらその両方かもしれない。理由は分からない。だがすぐに友達になり、そして楽しい気分になれた。ぼくにとってこの日の夜は、いままでの寮生活の中で、一番楽しい夜になった。
夜が明けて、ぼくは若干の酔いを残してまま、自分の部屋に戻った。ドアを開けると、ちょうど眼を覚ましていた同居人があくびをしているところだった。目尻にたまった涙をぬぐいながら、どこに行ってんだ、と彼が聞いてきたので、トイレ、とだけ答えて自分のベットの中にもぐりこんだ。時計を見ると、まだ二時間ほどは余裕で眠れそうだった。
それからぼくは、夜になったら彼女の部屋に行き、彼女らと飲み会をするようになっていた。いつも四人で飲んでいた。寮を抜け出し、学校のグラウンドで花火をしたこともあった。季節はずれの花火はひどくきれいだった。
九月の終わり、ぼくはいつものように授業をサボり、学校の屋上で彼女と二人きりで話をしていた。そのときはお互いの家庭のことが話題になっていた。なぜその話題になったかは分からない。ぼくらの話は、大きな木から枝分かれする枝のように、ひとつの話題のある部分からそれをもとにべつの話題になり、そしてそのべつの話題のある部分からまた違う話題がはじまるというように、最初の話題がべつの、まったく関係ない話題に変わっていくのだ。それは今回も同じで、最初は寮生活のことについて話していたのに、それがいくつも枝分かれして、そして互いの家庭のことについて話すようになっていた。
彼女は、自分が寮で生活していることについて、両親の仲が悪いから、と教えてくれた。彼女の両親は離婚間近の夫婦らしく、あるきっかけ、ほんのささいなきっかけでも生まれれば、修復不可能な関係にさらにひびが入り、そして割れた陶器のようにもう二度ともとには戻らないだろう、と話した。
「だから」と彼女が言った。「わたしが寮生活をはじめたのは、そんな両親がいやになったから。そんな両親のもとで生活したくなかったから」
「ふうん」とぼくは言った。「親のこと、きらいなんだ」
彼女はしばらくの時間をおいて「ううん」と首をふった。「たぶん、両親のことは好き。ふたりとも好き」そう言ったあと、やるせないような感じで下唇を噛んだ。「でも、ううん、だからこそ、わたしがいるとダメなの。両親が仲悪いの、わたしのせいだから。わたしってさ、不真面目な生徒じゃない。タバコも吸ってるしさ、ピアスもしてる。夜遊びもする。だからよく、一年のときなんかは、母さんが学校に呼び出されたりしてた。職員室にさ、生活指導とかなんかでね。で、そのときからわたしの育てかたで両親が喧嘩しはじめてさ。お前の育てかたに問題があるんだ、って父さんが怒ってね。それで母さんも母さんで言い返してさ。すごい喧嘩になっちゃって。ま、いまは平面上では仲良くやってるけど、なにかあったら本当に、本当に離婚しちゃうからさ」
「だから、親元から離れて、寮で生活してる?」
「うん」と彼女がうなずいた。それから口にくわえたタバコを、右手の人差し指と中指ではさみ、口から離して煙を吐いた。ゆらゆらと紫煙が空に昇っていった。ぼくは黙っていた。彼女の言いたいことは分かる。なんとなくだが分かる。だが完全には理解できないだろうし、おそらくそれ以外にも、それこそ人には言えないような理由がありそうな口調だったので、ただ黙っていた。ちらりとこちらに眼を向けてきた彼女が「あなたはのうちは?」と聞いてきた。
「親は、いないんだ」とぼくは答えた。
「いない? お父さんも、お母さんも?」
「うん」とぼくはうなずいた。
じっさいそのとおりだった。ぼくの母親は、ぼくが五歳のときに交通事故で亡くなり、父親は三年前に心臓の病気で他界した。それからぼくは親戚の家に引き取られ、いまこの高校の学生寮で生活をしているのだ。
「そうなんだ」と彼女が言った。それから「ごめんね」とつぶやいた。
ぼくは「いいよ」と答えた。
彼女が指ではさんだタバコを、わきに置いたコーヒー缶の中に落とした。火のついた先端がまだ半分ほど残っているコーヒーの表面に触れ、じゅという音を立てて、コーヒーの中に沈んでいった。それから彼女が、もういっかい、みんなで花火したいね、と言った。
その日の夜は、彼女の要望どおり、四人で寮を抜け出して、学校のグラウンドで花火をした。まえのときと違い、派手なものはやらず、線香花火だけをした。すると彼女はいきなり線香花火を持って立ち上がり、ゆっくりと線香花火を動かしはじめた。ぼくらは呆気にとられ黙ってそれを見ていた。彼女の動きがだんだんと大きくなり、まるで踊っているみたいになってくる。優雅に、そして大きく、身体を、線香花火を持った右手を動かして、踊る。夜の闇の中で、光の尾を引きながら線香花火のまるい光が自由に動き続けた。それはまるで夏の夜に飛ぶ蛍の光に似ていた。彼女は踊り続けたが、やがて線香花火の光が落ちて、地面に消えていった。異常なほど暑すぎた夏がようやく終わりを告げようとしていた。
もうすこしで、秋になる。
残暑がきびしかった九月が終わり、十月になった。通学路の緑樹が紅葉に変わったように、ぼくと彼女にもささいな変化があった。まずぼくが、冬服であるブレザーを着るようになった。九月のあいだは暑くてYシャツだけでもよかったが、十月になると吹く風が冷たくなり、さすがにブレザーを着ないと風邪を引いてしまう。そのくらい寒くなってきていた。
彼女のほうは九月いっぱい読んでいたヘミングウェイの『日はまた昇る』を読み終え、『武器よさらば』を読みはじめた。ならつぎは『誰がために鐘は鳴る』を読むのかな、とぼくが聞くと、それはもう読んだわ、と彼女が答えた。
ぼくと彼女のあいだにも、ささいな変化があった。それは進展したといってもいいことかもしれない。屋上で二人きりでいるとき、ぼくらは手すりに背中を預け、一メートルほどの距離を取って座っている。だがいまは、その距離が半分ほど短くなっていた。
屋上には冷たい風が吹いていた。いまは昼休みが終わり、午後の授業がはじまっている時間である。ぼくらの真上にある太陽が眩しい陽光を降り注いでいた。だがあたたかさは感じなかった。それは吹く風が冷たすぎるせいだろう。十月になると、異常なまでに暑かった夏が、まるで嘘のように寒くなってきていた。
彼女が缶コーヒーを飲んだ。きょうの缶コーヒーはホットだった。ぼくらは相変わらず話をしていた。話題は尽きることがなかった。が、この日は違った。ひとつの話題が終わり、沈黙が訪れた。きょうの彼女はあまり喋らなかった。ぼくはくわえたタバコを口から離し煙を吐いた。冷たい風が紫煙を流していった。
とつぜん、寒くなったね、と彼女が言ってきた。眼を向ける。彼女は自分の両手の手のひらを重ね合わせ、そこに息を吐いていた。はあという音が聞こえてきた。ぼくは、そうだね、と答えた。彼女がこちらに顔を向けてくる。眼が合った。黒の純真な瞳。それはいっさいの濁りのないきれいな瞳の色だった。彼女が微笑む。やさしげでおだやかな微笑。胸が高まった。寒いね。彼女がもう一度言った。それから身体を寄せてきた。空気が重くなった気がした。濃度が増したような感じがした。彼女が自分の頭をぼくの右肩に乗せてくる。さらさらした髪が頬を撫でた。すこしくすぐったかった。白いうなじが艶かしい。ごくりとつばを飲んだ。眼下にある彼女の顔はとてもうつくしい。眼が合うと微笑まれた。ふたりのあいだにはそういう雰囲気が生まれてきている。彼女が眼を閉じた。かすかなためらい。そのあとぼくも眼を閉じて顔を近づけた。そしてキスをした。はじめて触れる彼女の唇はやわらかかった。
そのあとのことは、あまりよく憶えていない。だが彼女とセックスをしたのは確かだ。ぼくははじめてだったが、彼女のほうはヴァージンではなかった。行為が終わったあとはふたりで抱き合っていた。火照った身体に秋の冷たい風が心地いい。どれほどの時間そうしていたか、それはよく分からない。だが気が付いたとき、午後の授業の終わりを告げるベルが鳴っていた。
いきなり、彼女がぼくの両腕からするりと抜けだすと、もういくね、と微笑んだまま屋上のドアの向こうに消えていった。ぼくの頭はまだぼんやりとしていた。それからタバコをくわえた。ライターで火をつける。吐いた煙が空に昇り、風に流されていった。
その日の夜、ぼくは気恥ずかしさを感じて、彼女の部屋には行けなかった。自分の部屋で、上から聞こえてくる同居人の不快ないびきの音を聞きながら、ずっと起きていた。不思議なもので、いままでは不快だと思っていたそのいびきも、ひさしぶりに聞くとなぜか懐かしく感じられる。ぼくは眼を閉じた。濃い闇の中にぼんやりと彼女の姿が浮かんできた。それから屋上での出来事。情事。この日の夜、ぼくは興奮してなかなか寝付けなかった。
つぎの日、彼女が学校に来なかった。学生寮の彼女の部屋の同居人に話を聞くと、きのうの下校時に喫煙を教師に見つかり、一週間の停学になったという。よくあることよ、とその女生徒は笑いながら話してくれた。ぼくは相槌を打つようにして微苦笑を浮かべた。
だが一週間たっても、彼女は学校に来なかった。ぼくはまた女生徒に彼女のことを聞きにいった。すると、あの子、転校したの、という答えが返ってきた。ぼくは驚いてその場に立ち尽くしていた。女生徒がくわしく説明してくれた。
彼女が停学処分になったことにより、彼女の教育および育成のことで、彼女の両親が激しく討論し、そして喧嘩になったという。もともと険悪で最悪なほど仲の悪かったそのふたりは、そのあとついに修復不可能なほどに罵りあい、そして離婚に踏み切ったという。それで彼女は母親のほうに引き取られ、実家のあるA県で暮らすことになったらしい。でもね、と女生徒が言ってきた。彼女の両親の仲が悪かったのは、父親のほうが不倫をしていたからなのよ。それでね……。
それから女生徒は、彼女の家庭環境についてことこまかに説明してくれた。父親が不倫をしていたこと。母親にも愛人がいたこと。離婚の原因はふたりの関係が完全に冷えきっていたことなど、こちらが聞いていないことまで話しはじめた。だがぼくはその話の三分の一も聞いていなかった。彼女の家庭のことには興味がなかったし、知ろうとも思わなかった。ぼくの頭の中にあったのは、彼女が遠くに行ってしまった、そのこと、その事実だけだったからだ。
十一月になった。ぼくはあいかわらず屋上でタバコを吸っていた。通学路の紅葉が枯れ落ちて、味気ないコンクリートの地面を色褪せた赤に染めている。そんな通学路をブレザー姿の学生たちが歩いている。そのなかにはもうマフラーを巻いている生徒もいた。季節がめぐり変わりゆくように、彼らの生活も環境も日々、変化していっている。だがぼくはあの日から、なにも変わることなく屋上でタバコを吸っていた。
彼女がいなくなってから一ヶ月がたった。それが長いのか短いのか、ぼくにはよく分からなくなっていた。彼女がいなくなってからのぼくの学校生活は、まるでドーナツのように中心が空洞になってしまっていて、なにをやるにもやる気が起こらなかった。ただ空虚だけが胸の中にあるだけだった。彼女がいなくなってほどなくしてから、ぼくの携帯電話に一通のメールが入っていた。それは彼女からのメールだった。そこには面倒なことが嫌いな彼女らしく、シンプルな言葉が三つ、ならんであるだけだった。さようなら。ありがとう。たのしかった……。
ぼくはその場に座り込み、手すりに背中を預けた。タバコの煙が空に昇っていった。それを眼で追った。十一月の空はいつもと変わりない青空だった。斜め上には太陽も眩しく輝いている。だが気温は低い。吹く風も冷たい。空の青さがひどく冷たいものに見える。それはいまのぼくのこころが醒めているせいかもしれない。もういちど煙を吐いた。空に昇り、風にかき消される紫煙。ゆらりと昇り、ふわっと消えていくその煙を見ていると、九月の終わり、寮を抜け出して学校のグラウンドで花火をしたことを思い出した。あの日、彼女は線香花火を手に持って、いきなり夜の闇の中で踊りだした。濃い闇の中で光の軌跡が踊る彼女のあとを追っていた。あのとき彼女は、なんの目的があって、なにがしたくて、なんのために、踊ったのか。それはわからない。いまはもうわからない。ただぼくは、あの日の彼女の姿を、その光景を思い出すたびに、なぜか、ひどくやりきれない感情をいだくのだった。
ぼくはタバコをくわえたまま、ブレザーのポケットから文庫本を取り出した。ヘミングウェイの『日はまた昇る』。彼女が読んでいた本だ。この本を読み終えた彼女が、面白かったから読んでみたら、と言って貸してくれたのだ。結局、この本を返さないまま彼女は遠くに行ってしまった。ぼくはまだすこし残っている缶コーヒーの中にタバコを捨てて、しおりをはさんだところから本を読みはじめようとした。いまは半分ほど読み終えていた。
読もうとした矢先、いきなり強い風が吹き付けてきた。とつぜんのことだった。その風のせいでページが開き、はさんでいた黒いしおりが宙を舞っていた。とっさにぼくは手を伸ばした。だがしおりは、ぼくの手のひらを、そして指のあいだをすり抜け、はるか遠くの空に飛んでいってしまっていた。それはこの屋上ではじめて彼女を抱いたあと、ぼくの腕の中からすり抜けてドアの向こうに消えていった彼女の姿を思い出させた。指をにぎると虚空を掴んだだけだった。指をひらくとなにもにぎっていなかった。当然のことだった。ぼくはしおりが飛んでいったほうをずっと眺めていた。黒いしおりはもう見えなくなっていた。なにかが終わろうとしている。不意にそう感じた。それは秋だろう、と思った。季節はめぐる。夏が終わり秋が来て、その秋も過ぎ去ろうとしている。
あとすこしで、雪が降ってくる季節、冬が訪れる。