空海の皇女
神月蒼
登場人物紹介
クロッカス帝国内部の人間
シャルナーク=シルベストリ=クロッカス・・・クロッカス帝国第一皇女。帝位第一継承者だったが、帝位を小父であるヒシロウに奪われた。物語初めではまだ十歳。プラチナブロンドの髪に金色の瞳。
ウォルカーン=シルベストリ=クロッカス・・・物語中では『ラナウ七世』。シャルナークの今は亡き父であり、良き皇帝だった。シャルナークと同じ瞳、髪の色。
ヒシロウ=シルベストリ=クロッカス・・・クロッカス帝国皇帝。前皇帝ラナウ七世亡き後、帝位第一継承者であるシャルナークを差し置いて皇帝になった。
ウォルトサーク=シルベストリ=クロッカス・・・シャルナークの妹。騎士カーン一族の助けで、七歳にして国を離れる。シャルナークと同じ瞳、髪の色。
フィルナーク=シルベストリ=クロッカス・・・シャルナーク、ウォルトサークの母。ラナウ七世前皇帝の后。シャルナークと同じ髪の色だが、瞳は灰色だった。
アイビー=ポトス・・・シャルナークの忠実な侍女。学友頭でもある。物語初めでは十三歳。赤い髪と、オレンジがかった瞳をしている。
ディバイソン=イシアルガ・・・ヒシロウを裏から操る、帝国の法務大臣。ラナウ七世前皇帝一家を暗殺しようと目論んだ。
クリムゾン=カーン・・・カーン(騎士の中でも一等高い位)の称号を持つ一族の末子。ウォルトサークと同じ歳だが、誇り高い騎士の心を持つ。シャルナークと同じ瞳、髪の色。
スレイヴ=ガブリエル・・・皇帝の側近として八百年仕えてきた要職の一族出身。外務大臣。後に首相となってクロッカス国を守り続ける。
セルダ・カーン海賊船の乗員
シャルア=ラナウ・・・シャルナークが船に乗る際改名した。父帝ラナウ七世の遺志と誇りを組み込んだ。
アイビー・・・船に乗る際にポトスの名を捨てた。現在はお転婆なシャルアのお目付け役。
フィグリア=カーン・・・カーン海賊船の現船長。誇り高き『海竜の長』。立派な体躯と傷跡だらけの浅黒い肌。戦闘は体術を駆使して行う。
ユリス=カーン・・・奴隷として売られるところをフィグリアに助けられ、現在は『次期船長候補』のしるしである『継承器』を持つ。戦闘の際は不思議な体術を使い、武器はほとんど用いない。フィグリアの義理の息子。
ロック・・・知的な青年だがひとたびタガが外れるとこれほど恐ろしい者も無し。くすんだ青い髪と灰色の瞳。サーベル使い。基本は舵取り。
ジョーン・・・もとは他国の軍人だった。得物(武器)は鉈や棍棒を主に使う。浅黒い肌の大男。シャルアを姫と崇める。
ヤン・・・黒髪黒目、クロッカスのある地方では珍しい外見なので、見世物小屋に売られそうになったところをフィグリアに助けられた。ユリスの兄貴分。ナイフ使い。
クリス・・・子供を大国の奴隷商人に殺された過去を持つ、金髪の壮齢の男性。大酒豪でアイビーになぜか弱い。
リーズ・・・弓が得意な青年。ロックとは船に乗る前からの知り合いらしい。ロックと違い怒りっぽい人間で、よく喋る。港町で噂などを仕入れてくるのは大抵このひと。
1
波の音が聞こえる。
暗くなり始めた空を見上げ、まだ幼い皇女は侍女の次の言葉を待った。
崖にせり出すようにして造られた城。八百年もの間、風雪に耐え、潮風に耐え、皇帝一族を守ってきた鉄壁の城砦。
だが。
いま、城砦は内部から崩壊を始めている。クロッカス帝国第一皇女シャルナークは、この日侍女のアイビーから罪の告白を受けたばかりだった。
「母上様、妾、ウォルトサークの三人を亡き者にしようとしたという話し、……アイビー、嘘偽りはないな?」
「はい。姫様方、妃殿下にヒ素を毎日少量ずつ盛るよう、わたくしの父が命を受けました。皇弟殿下の腹心、イシアルガ大臣の命です。
ラナウ七世皇帝陛下が戦場で亡くなり、皇弟殿下が帝位に即位してからというもの、妃殿下、姫様方を帝位に推す声は引きもなし。
臣民たちが望んでいるのは横暴な皇弟殿下が皇位を継いで即位することではございません。妃殿下が起ち、いまの荒れた戦況を打開することなのです」
「だが、母上様はそなたの父が毎日食事に盛るヒ素によって体が弱っていくばかり。床に伏し、起ちたくとも起てぬ状況にある。
妾とて同じ、まだ十の子供が帝位に着いたとて、付いてくる臣民がどれほどおるものか。ウォルトサークはまだ七つ……、あれには今の妾たちの状況なぞ、分からぬだろう。
せめて我が妹と臣民だけでも……助けたいものよの」
シャルナークは日の沈みいく海を見て、カーテンを握り締めた。
「姫様。僭越ながらこのアイビー=ポトスめに、ウォルトサーク姫様と妃殿下をお守りするための提案がございます。」
シャルナークは無音で彼女を振り返った。プラチナブロンドの髪と金色の瞳が、夕日に照らされて血飛沫を浴びたように紅く染まって輝いた。
「……提案、とな?それで、我が妹ウォルトサークと母上様をお守りするために、何ができる?……いや、もはや我が妹と母のことなど良い。アイビーよ、その提案とは……この国のためになることか?」
アイビーは唇を噛みしめた。
言いたくない。言ってしまえば、この聡明な第一皇女は、自らの命を差し出して、臣民を救おうとするだろう。
まだ十歳の幼い姫。しかし、その本質は王家のなかでもずば抜けて高い知能と、臣民を思いやる心があった。臣民と家族ならば臣民を取り、形だけの名誉より公平な平和を望む。
だからこそ、アイビーは口にすることを躊躇っていた。
シャルナーク皇女の父、前皇帝ラナウ七世が常々口にしていたこと。
『我が娘ら、ことにシャルナークは、余の娘にしては出来すぎだ。あれはきっと、いずれ良い女王となってこの国を治めるであろう。』
ラナウ七世は立派な皇帝だった。だが、そんな立派な人ほど、早世なものだ。クロッカス帝国に侵略してきた他国との戦いの中で、ラナウ前皇帝殿下は命を落とした。
そして。
ラナウ七世殿下の弟君、ヒシロウ殿下の即位。ヒシロウ殿下は、ラナウ前皇帝ほど人徳がなかった。人望も薄かった。
まるで亡くなった兄に見せ付けるかのように、臣民の税を重くし、徴兵制度も以前より簡単にテストをパスできるようにしてしまった。……つまり、軍人以外の人間のほかに徴兵する場合、以前は体に障害があるものは戦場に行かずに済んだものを、現在は『皇帝の名の下に』無理やり戦場に送り込むようになったのだ。
そのために臣民たちからは失望の声があがり、内乱も起きはじめた。最早、クロッカス帝国は沈み行く泥船であった。
シャルナークは現在皇位についている小父が、おそらくは彼の腹心の部下、イシアルガの体の良い操り人形であることに、すでに気付いていた。
「のう、アイビー。」
「は、シャルナーク姫様。」
「そなたは妾を信じてすべてを告白してくれたのであろう?ならば、ここで止めるのは良くないぞ。たとえ妾の命が危ういような提案であろうとも、妾は喜んでこの身を差し出そう。それが臣民のためになるのならば。
……いずれかはこの国に立ち戻り、イシアルガ共々小父上を倒して見せようぞ。なんとしても!」
アイビーは下を向いたまま、もう一度きりりとくちびるを噛みしめた。決心するしかない。この人物の前では、自分の感傷など薄いものだ。
忠実な侍女は、感傷を押さえ込んで自分の主を見た。
「……シャルナーク姫様には、わたくしと一緒にこの国を出奔していただきます。
表向きはわたくしがシャルナーク姫様を暗殺したと見せかけ、……そうすれば、我が父母や親族は見せしめのために処刑されましょう。
少なくともこれで、妃殿下とウォルトサーク姫様がヒ素を盛られる心配はなくなります。
……妃殿下に毒を盛れと命ぜられたとき、父が抵抗できなかったのは、イシアルガに弟を人質として取られていたからです。アイビーの親族が処刑されれば、臣民の反発は最骨頂に達するはず。内乱が起きますが、その際ラナウ前皇帝一家の方々に手をかける者はおりますまい。
前皇帝陛下がお亡くなりになってから二年もの間、妃殿下に毒を盛り続けた罰だと思えば、この罪は我が父母の清算しなければならぬもの。軽いものです。
イシアルガの命とは言え、ラナウ皇帝殿下から任された『妃殿下をお守りする』務めを放棄したのですから。
ウォルトサーク姫様は、騎士、カーンの人間が守り抜きます。あれらはイシアルガにも現皇帝陛下にも臆しませぬ。いざとなったらウォルトサーク姫様を連れて逃げろと、カーン一族に密書を出しておきました。
わたくしは、父母や弟が処刑されることで、罪が許されるとは思いませぬ。ですが、シャルナーク姫様だけは、この身を盾にしてでも守り抜く所存であります。弟も自分が人質に取られたことを悔やんでいるのでしょう。何度も自ら命を絶とうとしたようですから……」
侍女アイビーの一族は古くから皇帝一家に仕える家だ。アイビーの一族ポトス、ガブリエル、カーンの三家族は、代々皇帝一族に命を捧げてきた。
ポトス家は従者として、ガブリエル家は大臣などの要職に付き、いざというときは皇帝への注進も行った。カーン家は騎士として戦場で道を切り開いてきた。
八百年にもわたるクロッカス帝国の歴史。その中で、三つの一族は常に皇帝一族の背後を支え続けてきたのだ。
「この国は……もう終いなのだ。小父上方は皆、権威にばかり固執して臣民の心を見ようともせぬ。臣民の平安なくして何が皇族か、問うてやろうぞ。」
シャルナークは不穏な笑みを浮かべ、呟いた。無論アイビーには聞こえていたが、アイビーは何も返さず、幼く美しい姫に頭を垂れた。
「……では、姫様。わたくしと共にこの帝国を出奔いたしましょう。」
シャルナークは力強く頷いた。
「うむ。だが、アイビーよ……そなたの家族に咎は及ばせぬ。妾は自ら出奔するのだ。妾の命、母上様の命、ウォルトサークの命……どれも大切なものに変わりはなかろうが、そなたらの命もまた同じ。
妾にとっては大切な臣民の一人ぞ。」
先とは打って変わった優しげな微笑みに、アイビーは胸を打たれた。
自分の母を亡き者にされようとしたというのに、この皇女は自分の身をかけてポトス一族を守ろうとしているのだ。
「カーン一族に密書を出したと言ったな。ウォルトサークの無事を確かめ次第、妾は国を出奔する。思い切り派手に逃げてやろうぞ。この国の臣民がこれ以上搾取されないため、小父上とイシアルガに反旗を翻し、この国を内側から叩き壊すのだ。」
「内側、から……?」
「クロッカス帝国はもう終いだ。妾がこの手で、幕を下ろそう。のう、……クリムゾン?」
カタリ、と部屋のどこかで音がした。
豪奢な部屋の今は火の入っていない暖炉の奥から、小柄な少年が顔を出す。その顔は煤に汚れていたが、シャルナークと同じプラチナブロンドの髪と金色がかった瞳が、心なしか嬉しそうに弾んでいる。
「姫様、ついに出奔の決意をなされたのですね?」
少年は小さな声で訊ねた。
シャルナークはうむ、と頷いて、アイビーに目を向けた。
「クリムゾン=カーン。そなたは顔を知らぬであろうが、カーン一族の末子だ。ウォルトサークと同じ歳になる。妾はこれと以前から、ある計画を立てていたのだ。」
もっとも、そなた無しでは起こせぬ計画ではあったがな……と後に続く。アイビーは虚を突かれた状態のまま、凍っていた。
「四百年前、ラナウ三世がある『海賊』にカーンの称号を授けた。『海竜の長』セルダ・カーン。そなたも知っておろうが、『カーン』は元々騎士の称号からきた名前だ。有事の際はクロッカス帝国の王たるものの下にはせ参じる、と約束をした。……まさか妾も、四百年も経っていまだにその約束を彼らが引き継いでいるとは思わなかったのだが。」
「海竜の長は快く引き受けてくださいました。現在の船長はフィグリア・カーン。継承器は現在、息子のユリス・カーンのもとにございます。それから……」
クリムゾンの報告の途中で、大きな爆発音が響き渡った。地響きとともに押し寄せてくる、人々の声。
「な、なんだ!?」
クリムゾンが小さな体一杯でシャルナークを守る。窓の外に突然広がった赤い海に、アイビーは焦りをあらわにした。
「姫様、避難を!」
「いや、様子を見よう。焦るでない、アイビーよ。クリムゾンも落ち着くのだ。……どうやら、臣民の内乱分子が城に乗り込んできたようだ」
「なっ」
落ち着き払ったシャルナークの言葉に、焦ったのは二人の忠実な僕だ。
まさか密談の最中にことを起こされては、計画も何もあったものではない。
「……少し早いが……アイビー、そなたは妾に付いてきてくれるな?」
シャルナークが優しく微笑んで、アイビーに手を差し伸べる。その間も、地響きは止まらない。
「姫様!行かれるのならば今しかありません!ウォルトサーク様と妃殿下は必ずや我がカーン一族の名の元に守り通してみせます!さあ!!」
まだ声変わりも遠い幼い少年。しかし、彼は立派な騎士であったと、後にアイビーは思ったのだった。
この夜、シャルナーク=シルベストリ=クロッカス第一皇女は、動乱を起こした臣民たちの目前で、小父であるヒシロウ=シルベストリ=クロッカス皇帝を討ち取り、宣言した。
「今宵、クロッカス帝国は終幕を迎えた!我が父ラナウ七世の名の下に、クロッカス帝国は人民主義の国へと生まれ変わろうぞ!皇族は最早この国には無用のもの、そなたら臣民が戦争に赴く必要も無い!
ガブリエル外務大臣が現在侵略国と協議しておる。侵略は間もなく止むであろう。ガブリエルを先頭にし、自由に、そして平和に、生きるのだ。さらば、我が帝国よ!!」
まだ十の少女が起こすには大きすぎる事件。そして、この夜を最後に、ラナウ七世前皇帝一家の娘二人の消息は途絶えた。
イシアルガ法務大臣はこの後処刑され、ヒシロウ皇帝の一家は国外追放の刑に処された。
クロッカス帝国はガブリエル外務大臣が首相となり、クロッカス共和国に生まれ変わった。
『いつかシャルナーク第一皇女がお戻りになるその日まで』、共和国であり続けようという、臣民たちの願いのもとに。
**** ****
ヴヴヴヴ。
羽の音がとても近く聞こえる。
海竜の長、フィグリア=カーンの船は、砲台を持たない代わりに空を飛ぶ羽を持っていた。
アイビーは風に巻かれる髪を押さえ、船内でフィグリアと話しをしているシャルナークのことを考えていた。
この船は、海賊船というにはあまりに美しい船だった。
二百年前から変わらない設計だという。それは、四百年もの間、カーンの名を引き継いできた海賊の誇りとも取れた。
砲台を持たず、そのため他の船と比べて軽量に出来ている。追われても逃げ切ることができる。
狙った獲物を殺すことはほとんどなく、金品さえ頂戴すれば、人間に手はつけず、その後は乗員が陸に着くまでの水と食料を残して去っていく。
変わった海賊だ。賊ならば、金品はおろか食料も水も根こそぎ奪い、女子供は娼館や他の国に奴隷として売り払うのが定例というものだろう。
それをせず、四百年間ずっとクロッカス帝国ラナウ三世との約束を守り続けてきた海賊。いや、低空とは言えこの船は空も飛ぶのだから、単純に『賊』と呼んだほうが良いのかもしれない。
こんなところに姫様がお隠れになるなんて……。
アイビーは親指の爪をかじった。
内乱を起こした臣民の眼前で、ヒシロウ殿下の頚動脈を掻き切った素早さ。血飛沫を浴びながら、声高に臣民の『自由と平和』を主張し、クロッカス帝国の終幕を自らの手で引いた潔さ。
だが、ヒシロウを殺したことで、シャルナークは人殺しになった。自ら選んだ道とは言え、あまりにも惨い。
「何を考えておる?アイビー」
下方から声がかかった。星のように煌く金色の瞳が、アイビーを見上げていた。
「ええ、姫様。船が空を飛ぶということに、驚いておりました。」
「ははは。そなたは知らぬのだな、海竜は海を裂き空を割る。この船の速さは他のどの船も追いつけぬ。だからこそ海竜と呼ばれるようになったのだ。」
血に濡れた顔と髪は綺麗に洗われ、服も変えていた。
ぼろぼろの布を巻きつけただけのような服に、破けた半ズボン。
「姫様、そのような格好をなさって……!」
絶句したアイビーに彼女はあどけない笑みを見せる。アイビーの横までやってきて手渡されたそれは、シャルナークと似たようなぼろぼろのの乗組員服だった。
「忘れるでない、妾は逃げてきたのだ。逃げてきた人間が高価な布を纏ってなんになる?」
それから、とシャルナークは言って微笑んだ。
「妾は名を変えることにした。シャルナークではない。これからは……」
「シャルア=ラナウ?」
シャルナークの声を高めの声が遮った。
見ると金髪の少年がこちらを見上げている。さっきまでシャルナークがいた場所から、彼は割り込んできた。
「姫様ってことを隠したいんなら、まずはその言葉遣いから直したほうがいいぜ。」
アイビーより少し年下、十二歳くらいだろうか。
「俺、ユリス。そっちの姉ちゃんは?」
「アイビー=ポトス。妾の……いや、わたしの、侍女で学友頭だった。これからはわたしとともにこの船に世話になる。よろしく頼む、ユリス。」
「……ま、世話してやるよ。クロッカスに有事ありしは駆けつけろ、がうちの船の口伝だからな。知ってたか?戦争中もずっと、この船はクロッカスの敵国の武器商戦ばかり狙って動き回ってたんだ。カーン一族の長から『協力求む』の密書が届くまでな。」
「カーンの長から?」
アイビーが驚いていると、ユリスは不思議そうな顔をして二人を見た。
「なんだ、あんたらも知らないのか……俺もよく知んないんだけどさ、なんか船長になると同時にカーン一族との密伝を教わるらしいんだ。」
砕けた口調で話すユリスに、アイビーは不満を隠せなかった。
「お待ちなさい!いくら姫様が出奔なされた身とは言え、その言葉遣いはあまりにも乱暴です。少しは身の程をわきまえて……」
「くくっ」
言ったそばからシャルナークが笑い出す。堪えきれないといった風情で、腹を抱えていた。
「良いのだアイビー。妾はこれを気に入った。ユリスよ、おまえのいうとおりにするぞ。この船のしきたりや、ふつうの言葉遣いとやらをわたしに教えてくれ。」
にぃっと彼は笑った。
船は低空をゆっくりと飛んでいく。赤い恒星が東の空に輝いて、なにやら不吉な色味を帯びていた。
2
……動乱の三年が過ぎた。クロッカス近隣の海は、夏暑く冬寒い。年に二度ある白夜をはさんで、夏と冬にきっぱりわかれている。
「親父、届いたか?」
ユリスがフィグリアに訊ねる。髭面の浅黒い体に無数の刀傷を持つ男フィグリアは、渋面を崩さぬまま首を振った。
「カーン一族からまったく音沙汰がなくなって半年か……」
すっかり男言葉の身についたシャルナーク、改めシャルアが言うと、男二人は目で頷いて考え込んだ。
「イシアルガの残党がカーンの一族を討ったという話、本当かもしれないな……だが、カーンの一族は大きい。数人は落ち延びているだろう。」
シャルアの口調は極めて落ち着いていたが、アイビーには彼女の哀惜の表情がありありと窺えた。
クリムゾンをあの日置いて国を出たことが、いまだに心に引っかかっているのかもしれない。
それでも、ウォルトサークを守るためには、彼を置いてくるしかなかった。彼も、望んであの場に残ったのだ。
あれから三年。
クロッカス国は、シャルナーク皇女ウォルトサーク皇女姉妹の母、フィルナークが起ち、ガブリエルとともに政治の中枢を担うようになっていた。
それでも、たった三年で戦争や疫病、飢餓の被害がなくなったわけではない。尽力してもまだ足りぬ、とフィルナークは言ったそうだ。戦争も内乱も終わったが、大きすぎる後始末に政界は右往左往していた。
カーン一族、ポトス一族がいまだ健在であれば、もう少し復興は早かったはずだ。だが、そのカーン一族とだんだん連絡が取れなくなって、半年前――最後の密書には、こうあった。
『姫様とポトス家最後の忠臣をどうあっても守り抜いてくださるようお頼み申す。ウォルトサーク姫も無事な場所にお連れした。カーン一族はまもなく、騎士の名の下に最後の戦いに赴くでしょう。』
最後の戦い。
それが、イシアルガの残党との戦いだとわかったのは、ある港町に船を寄せたときだった。
ギル大陸の南端リラック港。そこでカーン船の船員たちが集めてきた話の中に、懐かしのクロッカス帝国のものがあった。
『クロッカス国で二年前起きた暴動を煽ったのは、恩赦を受けたイシアルガの残党だった』と。
ラナウ前皇帝妃殿下フィルナークが起ち暴動を治めたが、その際前クロッカス帝国時の皇帝一家を支えてきたポトス一族、カーン一族ともに、滅亡の一途を辿ったという。
話しが事実なら、アイビーはポトス一族の最後の一人だ。
そして、クリムゾンは……。
アイビーは強く目を瞑って首を横に振った。
そんなことはない。そんなはずはない。
あの晩の、煤に汚れて笑っていた幼い少年が。生きていれば十になるはずのあの少年が。
死んだかもしれない、なんて。そんなはずはない。
どうか、生きていて――。
アイビーの強い願いも空しく、クリムゾンの消息は途絶え、カーン一族からの連絡も途絶えたままだった。
「後悔、しているかもしれないな」
シャルアが呟いた。
男二人とアイビーが顔を上げると、言葉のわりに無表情な顔で、彼女は天地に広がる青い空と大海原を見つめていた。
「フィグリア」
ふいに名を呼ばれて、船長が立ち上がる。
「なにか来るぞ」
「……そのようですな。うかつだった。行くぞ、ユリス!」
船長ですら気付かなかった他の船舶の接近。シャルアは危険に特別敏感だ。無論、元々皇女という生い立ちもあるだろうが、持って生まれた戦闘本能のようなものがある。
三年前にイシアルガの首を掻き切った。真正面から飛び込んでいって、自分の三倍はある男を一瞬にして血の海に沈めたのだ。
あの時イシアルガとヒシロウ皇帝に対する刃を臣民たちが納めたのは、シャルアが目の前でイシアルガを殺して見せたからではないだろうか?
臣民たちに罪を犯させないために。咎を及ばせないために。
自ら先陣を切ってイシアルガの首を取ったのではないか。
「羽を起こせ!帆をあげろ!」
フィグリアが大声で命令を出す。船員たちはときのこえをあげて彼の声に従った。
「右舷方向に目標接近!あれは……海賊ミスガ船です!」
「なにぃ?ミスガだと!?」
「親父、もしかしてばれてるんじゃないか?この船にシャルアが乗ってるってこと」
「ばれてるに決まってんだろ!海竜の長カーン船はクロッカスに有事ありしはかけつける!この近海の海じゃ知らねえやつぁいねぇ!!」
もういったい何度目だろう。シャルアとアイビーがこの船に乗ってからというもの、他の海賊船に襲われる回数の多いこと。
「うーん……一遍おもいっきり外に出て暴れてやろうか」
シャルアが真面目な顔で言ったのを見て、アイビーは本気で彼女を止めたのだった。
**** ****
「親父ぃ、あの船ミスガだけどミスガじゃないぜー?」
ユリスの声が上からする。マストの上の見張り台から、息子は父親に怪訝な声をかけた。
ミスガだがミスガではない。どういう意味だろう、とアイビーが考えていると、猛スピードで黒い船が接近してきた。肉眼で確認できるほど接近されて、アイビーは思わず手近な場所にあった槍を手に取った。
「おっ、姉ちゃん戦うのか?やるねぇ」
船員のジョーンがからかうように言ったが、目は笑っていない。
この船は砲台を持たない。代わりに空を飛ぶ羽を持つ。
だから、早い。今までもいつだって、危険な目に遭えば戦いながら逃げてきたのだ。
「アイビー、おまえはやめておけ。」
シャルアが冷静な声で言って、槍を手からもぎ取った。
「こーいうのはわたしのほうが得意だ。」
「そうですね。シャルア様のほうが得意ですね。」
「ジョーン、様付けで呼ぶなと言ってるだろ?」
「あいすいません。つい癖でして」
ミスガ船に乗った何者かが、羽を出して振るわせ始めたカーン船に横付けする。ヴヴヴヴ、と小さく振動を重ねる羽の音の中で、アイビーは数名の男の声を聞いた。
「ちっ、この船に皇女たちが乗ってるって噂は本当なんだろうな?」
「そう力むな、まず間違いない。」
「攫ってくりゃいいんだろう、なんだってこんな重装備なんだ。夜にでも来れば良いだろうが」
「ただ攫えば良いってもんじゃないんだよ。きちんと皇女様ってお墨付きを貰ったうえでこの船から攫うんだ。海竜の長の船が昼日中に襲われて、大事な虎の子お姫様を奪われたってことになりゃぁ、オレたちの名前は世界中の海に轟くぜ。ついでに海竜の長は年貢収めだ。」
失念していたが、アイビーが彼らの声を聴けたということは、ジョーンとシャルアにも、もちろん聴こえていた。そして二人は、彼らの不穏な会話に大層腹を立てたのだった。
「ひ、ひめさまっ!?」
「アイビーはここにいろっ!この痴れ者どもがぁっ!!!」
「シャルア様に加勢いたす!!この海竜の長の船に乗るもの、すべて誇り高き海の者よ!!」
槍を持ってシャルアとジョーンは勢い良く飛び出して行った。残されたアイビーはへなへなと腰が砕けて、立ち上がることすら出来ない。
なんとか膝で這って二人の後を追うと、そこは大変なことになっていた。
「はぁぁぁぁぁぁっ!」
シャルアの身長ほどもある槍が、まるで鳥の羽のように軽々と彼女に使われている。ジョーンはその背中を守るように背中合わせで立ち、鉈のような得物で相手をのしていた。
槍が黒衣の男の肩を突き刺し、そのまま持ち上がって海へぶんっと放り投げる。黒衣が破け、血が飛び散った。そして男は、空に浮き始めたカーン船から見事に海へと放り出された。
「我が名はシャルア=ラナウ!海竜の長カーン船に住む、海の女ぞ!!この首欲しくば正面からいつでも来い!」
堂々と宣言したシャルアに辟易した黒衣の男たちは、ジョーン、フィグリア、マストから降りてきたユリスに蹴散らされた。
「全員海に落とす!運が良けりゃ生きられるぜっ!」
笑いながらユリスが一人を放り出した。既に船は空に浮き始めている。
ユリスとフィグリアはほとんど得物を使わず相手を降伏させる。羽があるために、船の外に相手を放り出す場合は得物を使わないのが、この船のしきたりだ。
「はーん、なるほど……ユリスが継承器を持たされたのはこういうわけか。」
シャルアが呟いたのを聞きとがめて、アイビーは彼女のもとに近寄った。
「四百年続くしきたりを引き継げる人間にしか、カーンの名は冠されない。この船で今、得物を使わずに相手を潰せるのは、フィグリアとユリスだけだ。三年目にして初の発見だな。」
「……。」
たしかにジョーンも他の船員たちも、得物無しで戦うことはできない。が……。
「姫様、あんなことを仰っては……」
呆れた顔で文句を言おうとすると、シャルアが両手を広げてそれを制した。
「聞かん!」
「お聞きください!」
「聞かん!」
「……今夜のお食事はトマト尽くしにしましょう」
「……聞く」
大国の皇女が何よりも恐れるものが、たかが野菜のトマトだと知ったら、痴れ者どもは喜び勇んでトマトを大量に抱えてやってくるに違いない、と思ったアイビーだった。
その後、三時間にわたりアイビーから説教を喰らったシャルアは、結局トマト入りのスープを飲まされてげっそりしながら寝室に行く羽目になった。
「あーあ、かわいそうに……」と、ユリス。
「なにもあそこまで怒らなくても……」
ジョーンが言い、フィグリアが苦笑しながら言う。
「アイビーはシャルアのことになると目が三角になるな。」
「当然です!わたしはシャルア様のお目付け役です!!大体なんですか、シャルア様があんなこと言ったらこの船だって危なくなるんですよっ!?わかってるんですかっ」
この船が危なくなれば余計にシャルアの身も危なくなる。あんな宣言をしてしまっては、まるで「襲って来い」とでも言っているようなものではないか。
「なんですか、騒がしい……」
操舵室から一人の青年が顔を出して、アイビーは慌てた。
くすんだ青い髪、灰色の瞳の青年ロック。今回は舵を任されていて、戦闘には参加しなかったが、彼もかなり戦いなれている。
他にもヤン、クリス、リーズと言う乗員がいるが、別の場所で別の相手をしていたため、シャルアの宣言は耳にしていなかったはずだ。
「姫様が大変な宣言をしたもんでな。お目付け役のセンセイは大層お怒りなんだ。」
ジョーンが笑いながら言う。ロックは海の男というには理知的な青年で、戦闘向きには間違っても見えない。が、ひとたび戦闘となればいつもは隠している爪と牙を剥き出し、勇敢に戦う。
アイビーはそんなロックに憧れていた。しかし、船長っ子のロックに自分が船長に意見したと知られては、嫌われてしまうのではないかと、不安だった。
「ああ。シャルアの声ならこっちまで聞こえました。あの声じゃこの船全体に響いたんじゃありませんか?……海に落としたやつら、全員無事じゃなければいいですね。」
眉一つ動かさずにそんなことを言ってのけるあたり、充分危険人物なのだが。それでも、アイビーは彼に憧れてやまないのだ。
「それより船長。ミスガ船ですが……先ほどミスガ当人から通信がありましたよ。船を奪われたそうです。」
「ああ、だろうな。乗っていたのは俺らの仲間じゃなかった。海賊でもねえ、空賊でもねえ……たぶん、クロッカスの敵国の手先かイシアルガの残党だろう。」
黒髪黒目、海賊になる前は見世物小屋に売られかけていたというヤンが、ナイフを磨きながら言った。
「シャルアが啖呵切ったから、あいつらはもう来ないんじゃないか?どう見てもお姫様のやることじゃねぇからな」
「どうでしょう……逆に、プライドを傷つけられて再び乗り込んでくるかもしれませんよ?」
「そしたらまた今日みたいにシャルア様と二人でくだしてやらぁ!」
ジョーンががっはっはと白い歯を見せて笑い、船倉は笑いに満たされた。ただ一人、アイビーだけが引き攣った笑みを顔に貼り付けていた。
「しかし、海賊の中でも名の通ってるミスガの船を奪うたぁ……並の度胸じゃねえな。そんで、ミスガどもはいまどうしてんだ?」
フィグリアに聞かれて、ロックは困ったように笑った。
「情けない、申し訳ないとしつこく打ってきたので、反省してしばらく静かにしていなさいと返答してしまいました。先日無国籍の船舶を襲ったばちがあたったんでしょう、と。」
リーズが「ははっ、違いねえ!」と笑ったのを、フィグリアがぱこーんと殴り飛ばした。
「あのな、一応これでも海賊なの!無国籍船は元々海賊船に狙われやすいの!俺たちはカーンの船だから義賊で通ってるけど、困っていたら同じ海賊同士助け合うのも必要なの!」
「すみません。」
真顔で返したのは何故かロックで、リーズは殴られたところを押さえて涙目になっている。
「船長そんな怒らなくても……」
「ジョーン、船長は正しい。セルダ・カーンの船は騎士の船。だが、海賊でもあるのだから、ミスガをこのまま置いておくわけにも行かないだろう。」
「んなこと言ったってロックよう、ミスガの船はこないだ人死にを出しちまったし……ちっとは痛い目見てもいいじゃねえか。」
「リーズは甘いのだ。いや、若いのだな。」
クリスが樽から酒をグラスに注ぎながら言う。彼は若い頃に夫人と子供を奴隷商人に殺された辛い過去を持つ。それ故か、女子供には決して手をかけない。
だが、年の頃はフィグリアより少し上で、海賊になってもう長い。海賊の冷酷さもあわせ持っていた。
「海賊というのはそもそも冷酷なものだ。船にあるすべての金品を奪いつくし、女子供は大国や娼館に売りつける。顔を見られたら面倒だから残る男たちはすべて殺していく。それが本来の海賊だ。恐怖という法律を自分たちに課しているのだ。」
「だけどクリスさん、このカーン船は人を殺さないことで通っている『義賊』で海賊なんでしょう?」
アイビーが聞くと、クリスがにこりと微笑んだ。酒樽の酒をほとんど飲んでしまったので顔が赤くなっていたが、この男は何故かアイビーにはほとほと弱い。そして自分の子にするように優しい。
「セルダ=カーンの船は私を助けてくれたのだ。私がこの船に乗っているのは、妻と……子供たちを殺した大国の名を忘れずにいるためなのだよ。カーン船は『義賊』でなければいけないのだ。クロッカスの平和のためにも。」
クロッカスに『奴隷』という身分はなかった。平民、貴族、皇族と大きく分かれてはいたが、奴隷の使役だけは皇室が認めなかったのだ。
隣国のヒルマーヤや、バレイシャ、アギ国には奴隷制度が存在する。どれも王が政権を執る大国だ。
「アイビー!アイビー!」
突然ばたばたと走ってくる音と悲鳴のようなシャルアの声がして、その場にいた全員が驚いた。
ジョーンがドアを蹴破るようにして声のほうへ走っていき、ユリス、フィグリア、アイビー、ロックと続く。
「大変だ!クリムゾンがっ、クリムゾンの二親が殺されたっ」
「はい?」
何かが起きたわけではない、らしい。ただ、シャルアのあまりの怯えようと、錯乱ぶりに、追ってきた者皆一様にクエスチョンマークを頭の上に載せた。
「シャルア様、船内に戻りましょう。悪い夢でも見たのでしょう?」
アイビーの胸にすがり付いて、シャルアは泣くのをやめない。クリムゾンを残してきたことが、今さらになって余計に悔やまれた。
「く、クリムゾンの父母が……あれは、軍属の者だ。突然入ってきて、あれの前で二親を殺したのだ。あれの二親は軍属だからとて背中を容易に切られるようなものではない、が、二人は間違いなく切られた……母がクリムゾンを隠し倉庫に押し込んで、その上に被さるようにして息絶えた。クリムゾンは、暗い中で……母の死を見ていなければならなかった!」
反逆じゃ、とシャルアが啜り上げた。
「妾があの時クリムゾンを連れて逃げておれば……臣民の内乱分子はウォルトサークと母上には手をかけなかっただろうに。連れて逃げるべきだったのだ、クリムゾン……!」
何を言っているのか、と皆不思議そうな顔で二人を見ている。
だが、幼い頃から学友頭を務め、侍女として側仕えしてきたアイビーは、すぐにその意味がわかった。
カーン一族は、元々皇族から別れた血筋の人間が成した一族なのだ。そのため、遠くはあっても皇族と血のつながりがある。髪と瞳の色を見れば一目瞭然だ。
シャルアは幼い頃から、カーン一族の夢を良く見た。それも、正夢というようなリアルな夢で、違えたことは一度もない。
「クリムゾン……」
シャルアの小さな体を抱きしめ、震えそうになる自分を戒める。
「姫様、姫様の夢のとおりならば、クリムゾンは生きております。……父母をなくしても、あの勇敢な騎士が生きることを捨てるはずはありません。」
半分は自分に言い聞かせるためだった。
だが、シャルアは焦点のあわなかった目をアイビーにあわせ、こくりと頷いた。
アイビーは男たちを振り返り、まっすぐに船長の瞳を見据えて言った。
「クリムゾンを……一緒に探してください。姫様の妹君のこともお母上のことも、彼に任せて私たちは出てきてしまいました。あの子を探す務めがわたしたちにはあるはずです。」
「頼む、フィグリア。わたしもできることは何でもする。あれを探してやらねば、わたしは父上の娘ではない……」
二人に頼まれては、嫌とはいえない。
この晩から、セルダ・カーン海竜の長の船は、クリムゾン捜索に四方手を尽くすようになった。
3
名前のない島。
大陸と大陸の中間にある、三日月形の小さな島は、遥か昔からそう呼ばれていた。
クリムゾン捜索を始めてから五年目、薄桃色の見たこともないような美しい花が咲くその島に、一行は降り立った。シャルアとジョーンだけは、念のため船に残っている。
「ウォルトサーク姫がこちらにおわすという情報、本当なのかしら……」
心配そうに言うアイビーに向かって、ユリスは苦笑しながら言った。
「ウォルトサーク様じゃなくってもカーン一族の生き残りかもしんないだろ?容姿だけならシャルアにもウォルトサーク様にも、例のクリムゾンにも当てはまるんだぜ。」
ここに来るまでに、アイビーはもう二十一歳、シャルアは十八歳、ユリスは二十歳になっていた。ロックとリーズももう三十路まであと三つ、というところだ。
八年。クロッカス帝国を出奔してから、長い時が経っていた。
「綺麗な花ですね。」
地に落ちた薄桃色の花弁を掬い上げ、ロックが言った。そのまま彼がすっとアイビーに向かって花びらを差し出したのを見て、船員一様に顔を赤らめる。アイビーは彼の意図がわからぬまま、その花びらを受け取った。
にこり、とロックが微笑む。赤面したアイビーを見て、男衆は二人を置き去りにしてさっさと歩き出した。
「……船長、変じゃないか?」
「なに?」
「港についてからこっち、人っ子一人いねえ。いくら小さな島でも、もう家並みも見えてるんだ。ここまで来て誰にも会わないっつーのはおかしいんじゃねえか?」
リーズの言うとおりだった。
船を下りて早三十分は経っただろうか。
もうすでに港を遠く離れ、ぽつぽつと離れて建つ民家が見えている。
それなのに。
「……その疑問、わたくしがお答えしましょう」
頭上から声が聞こえて、一同はぎょっとして歩みを止めた。
フィグリアだけは平然と、他の船員たちは明らかな不審を抱いて空を見上げる。
腰まであるゆるやかなプラチナブロンドが輝いている。
そして、彼女の瞳は――硬く、硬く閉じられていた。
閉じた瞳の代わりのように、額に飾られた紅い石。それが世にも稀な「魔鉱石」であることを、船員たちは一瞬で悟った。
「俺たちを殺そうって腹かい?」
落ち着いた声でフィグリアが訊ねる。
まだ十七歳くらいのその宙に浮いた少女は、無言で頭を振った。
「セルダ・カーンの船が来る。海竜の長がやってくる。この、杖が」
す、と左手に持った細長い杖を掲げた。
「わたくしに教えてくれました。」
杖の先端に、額にあるのと同じ紅い鉱石が嵌めこんである。
手に入れるのも難しい石なのに、この若さで二つも所有している少女がいるなら、もっと噂になっていてもおかしくないはずだった。だが、海賊たちは誰もこのことを知らなかった。
「誰も知らないのも仕方ありません。わたくしはこの島を守ってきた魔女、ホワイトルフィーネ。この島に来たものは、魔鉱石のことを忘れるようにしています。ですから、誰も覚えていない。ここに、伝説の魔鉱石があることを……」
音もなく彼女の左腕がしなり、杖を振るう。
一陣の風が吹き、フィグリアの左横にあった大きな石柱が粉微塵に砕けた。
「魔鉱石のことを忘れさせても、わたくしのことを忘れさせたことはありませんでした。ですからこれまで、何度か勘違いした荒くれ者たちがこの島に乗り込んできたのです。そのたび、わたくしはこうして彼らを追い払ってきました。」
けれど、と彼女は続けた。
「あなた方に敵意はない。ですから、皆には家に籠もっているように言い……跡継ぎを決めて出てまいりました。
ウォルトサーク第二皇女、そしてカーン一族末子のクリムゾンを探しておられるのでしょう?」
音もなく少女は地に降り立つ。白い肌に、つるつるして真っ白な長袖のロングワンピースが、よく似合っていた。
「残念ながら、わたくしはウォルトサーク第二皇女ではございません。先に申し上げたとおり、この島を代々守る魔女。ホワイトルフィーネはこの島での魔女の敬称です。」
「ほわい……とるふぃーね?長ったらしいな、どっかで切っちゃダメか?」
リーズが言ったので、彼女は初めて明るい笑い声を立てた。
「そう訊ねられたのは初めてです。では……フィーネとおよびください。ところで皆さん。船まで案内してくださいませんか?わたくしは皆さんの船に乗らなくてはなりません。」
**** ****
フィグリアに案内されて連れてこられた少女は、ホワイトルフィーネと名乗った。自分と同じ髪、同じ瞳の色は、クロッカス帝国でも少ない。これまでいくつもの港に身を寄せたが、大陸でもそんなに多い人種だと思ったことはなかった。
ホワイトルフィーネ――名前のない島を守る魔女は、シャルアほどではなかったが、美しく聡明であった。
「杖がわたくしに言いました。この船に乗り、シャルナーク皇女殿下をお守り致せ。そして、彼女の捜し求めるものを共に探せ、と。」
「わたしを守る?」
シャルアが不思議そうな表情で問う。
ホワイトルフィーネは島を守る魔女だと、先に彼女自身の口から説明があったばかりだからだ。
くす、と彼女は笑った。まるで幼い子供のような微笑みで、見ている者の心が表れるような清々しい笑顔だった。
「もうすでに、次代の魔女を決定しております。わたくしは、これまで二十数年あの島を守ってまいりました。そして、杖がこの船に乗れと言った時、それまで候補に挙がっていた魔女候補の一人を、次期ホワイトルフィーネとして指名したのです。ですから、本当はもうホワイトルフィーネではないのです。」
「それじゃ、おまえの本名は何と言うんだ?」
シャルアに聞かれて、「困りました」と彼女は言った。
「実は、わたくしはホワイトルフィーネになる以前の記憶がないのです。最初の記憶は業火の中で、先代のホワイトルフィーネに救われて、そのまま跡目を継ぎました。ですからわたくしに名はありません。先ほど……リーズさんも似たようなことを仰いました。わたくしはこれから、フィーネと名乗りましょう。」
ホワイトルフィーネは長いから、どこかで切ってはどうか。そんなことをリーズに聞かれたと話した。
意外にすんなりと、名前の無い島の魔女は船の一員となることが決定した。
魔鉱石を持つシャルアと同じ人種の少女。いや、実際には外見年齢の二倍生きているらしい。
彼女を得て、どう変わったものか。疑問を覚えなくもなかったが、五日後、船員は皆彼女が船に乗り込んだことを歓迎するしかなくなった。
事件が起きたのだ。
クロッカス帝国に弓引いた大国アギ。そのアギ国を後ろ盾に持つ海賊船が、船員たちの寝静まった夜に、突然乗り込んできたのだ。
異変にまず気付いたのがフィーネだった。「誰か、敵意を持った者が近づいています」という彼女の警告を受けて、ヤンがマストの上で見張りをしていた。
黒髪黒目で浅黒い肌の彼は、夜の見張りに適任だった。遠くから見ても、白い肌に金髪のユリスより、目立たないヤンのほうが敵性分子を引き付けやすいのだ。
「これは……魔女の言ったとおりだったな」とヤンは呟くと、船の内部に広がった通信網を使って、仲間をたたき起こした。
「アギの私略船、ドーラだ。敵意満載だ。心してかかれよ。」
『船は動かしますか?』
ロックの声に、フィグリアが眠そうな声で応える。
『うんにゃ、ここでやろう。全員倒して海に叩き込め。あっちの船にはジョーン、クリス、ユリス、行って壊してこい。残りは全員眠気覚ましだ。やるぞ。』
『うっす!!』
全員が応じて、方々に飛び出していく。この八年で多少の体術と剣使いを覚えたアイビーも、参加するつもりでシャルアとフィーネとともに寝所を飛び出した。
「シャルア殿、アイビー殿、わたくしの後ろに少し隠れてください。」
フィーネに言われて、とっさに身を伏せて彼女の背後に回る。
船上に出た途端、数人の男に囲まれた。
「……愚か者。この魔女に誇り無きものが勝てるものか」
呟き。
そして、彼女の固く閉ざされた瞳が、初めて見開かれた。
シャルアと同じ金色の瞳。だが――額の魔鉱石と、杖先の魔鉱石が、それを隠すかのように輝き始めた。
一陣の風が吹いた。フィーネとシャルア、アイビーを中心にして、半径五メートルほど遠くまで、男たちは一人残らず吹き飛ばされ、泡を吹いて白目をむいていた。
「……フィーネ……おぬし、なかなかやるのう……。」
呆然と言ったシャルアに、優雅な一礼を彼女が返したとき、すでにその瞳は再び硬く閉ざされていた。
同じ頃。
ロックとリーズも数名の男相手にやりあっていた。
サーベルの先が相手の肩口を裂いたが、妙に手応えがない。リーズも得意の弓でマストの上から男たちを狙い打つが、撃っても撃っても倒れない。
ロックの苛立ちが最高潮に達したところに、シャルアたち女性陣が駆けつけた。
「はぁ―――っ!!」
とび蹴り。
元皇女とは思えない素早さでシャルアが男の一人にとび蹴りをかます。ひっくり返った男の心臓部に、ロックが最後の一撃と言うようにサーベルをつきたてた。
ほぼ同時に、アイビーがリーズの射抜いた男を狙って短剣で飛び掛る。これも、頚動脈を掻き切ったところで、男はごとりと動かなくなった。
残った三人の男たちは、ロックのサーベルで三枚卸しにされ、フィーネに杖でみぞおちを強打され、リーズの弓とシャルアの武道の前に力尽きた。
「無事か!?」
フィグリアの声がして、五人はすべて終わったことを知った。
「不死身かと思ったぞ。やってもやっても起き上がって来るんだもんな」
珍しく息の切れた船長を見て、五人は意味深な視線を交し合った。
確かに、奇妙な襲撃だった。
「おそらくはあちらにも魔術を使うものが付いております。襲撃者は皆、殺して海に沈めるがよろしいかと」
フィーネが硬い声で言った。
「うん、まあ……誰も生きちゃいねえな。少なくとも、ここにいる五人は」
リーズが息を確認して言うと、一人ずつ弔いの言葉を告げながら海に落としていく。五人全員落とし終わったところで、ロックがフィグリアを振り返った。
「ユリスたちは?」
「あっちも似たようなもんだったよ。俺たちも久しぶりに全員殺して海に沈めてきた。あっちの船も間もなく沈む。ロック、舵頼む。」
「わかりました。」
素早く操舵室に駆けて行ったロックを、アイビーは一瞬の躊躇もなく追った。なぜそうしたのかは本人にもわからない、だが、どうしても追いかけたかった。
4
魔鉱石を持つ魔女の威力は、当代の座を譲ったと言っても相当なものだった。
襲い来る他の海賊、イシアルガ残党の追っ手、名誉欲しさにやってくる海賊狩り。それらの人間が束になっても、彼女の使う魔術には叶わなかった。
セルダ・カーン船は大きな戦力を得た。
ある晩、フィグリアとユリス、ロック、アイビー、シャルアが揃った船内のキッチンで、彼女がテーブルの上に地図を置いて言った。
「隣の大陸……北のほうですね。この鉱石のペンダントが回る位置に、お探しの方のどちらかがいます。」
くるくると小さく円を描くペンダント。それが指し示した場所は、「ヤンの出身地だな」ということだった。
港町にはたくさんの船が係留され、交易の盛んな都市だった。
海賊とわかると普通、大多数の人間はよそよそしくなるものだが、この町は違うらしい。セルダ・カーンの船と言わずとも、大きな歓迎を受けた。アイビーが見た限りでは、今までで一番待遇が良い。
「船長がヤンの出身地って言っていましたけど……」
「ああ、俺の出身はここよりもっと奥地のほうだよ。けっこう前に戦争があって、隣大陸から来たやつらに子供は奴隷として引っ張られていったんだ。侵略してきたやつらを蹴散らしてくれたのが、ほかでもない海賊様だった。そういう俺も、売られそうになったところを前カーン船長に助けられて船に乗った。まだ十だったかな。シャルアと同い年の頃だなぁ。」
「ロックやリーズも、事情があって船に乗っているのよね?……聞いちゃいけないかしら。」
「さあなあ。だがアイビーよ、ロックなら聞いてもいいんじゃねえか?この前花をもらったろ?」
「花?……フィーネの島で貰ったあの花?」
「そうさ。ロックとリーズの故郷じゃ、花を渡すのは好いた人間への証なんだとよ。……くくくっ」
かぁーっと顔が熱くなるのがわかった。
「そそっそんな、別にっ」
「照れるな照れるな。あっはっは」
余計に顔が熱くなる。気付いたときには、掌も熱を持っていた。ばちん、というイイ音も聞いた気がする。
「…………。」
「…………。」
「きゃ――――――!」
「っなんで、なんで殴られた俺のほうが叫ばれにゃならんのだ……?」
悲鳴をあげて走り去ったアイビーの後姿を見ながら、ヤンはげっそりと溜息をついた。
肩を落としてアイビーとは別の道に入る。先ほどアイビーがあげた頓狂な悲鳴のおかげで、じろじろと嫌な視線が追いかけてきたからだ。
いくつめかの角を曲がり、拓けた空き地に出たところで、ヤンは懐から葉巻を出した。空が随分と青い。
「女でも買いに行くかぁ……。」
言いながら、草むらに寝転がった彼は、いつのまにか睡魔に引き込まれていた。
タタン、タタッ。タッ。
規則的な音がして、目が覚めた。
ヤンが起き上がると、シャルアと同じ髪と瞳の色をした子供……近めに見ても男か女かわからない――が、小さなナイフを壁に取り付けた的に向かって投げていた。
腰まであるふわふわとウェーブのかかったプラチナブロンドの髪。猫の様にきゅうとすぼまった、ハンターのような瞳。まだ十五歳くらいだろうか。
ヤンが驚いたのは、何よりもその腕の良さだった。
壁に付けられた的のほぼ真ん中に、すべてのナイフが刺さっている。
「ほう、たいしたもんだ……」
ヤンが呟くと、その人物は無言で振り返った。つい今しがたまでのハンターのような気配は最早無く、その性別不明の人物はヤンに声をかけるでもなく、ただ黙って的を外し、すべてのナイフを回収した。
一本。
ヤンの足元に、一本だけ、ナイフが落ちていた。
銀髪の人物が足元をきょろきょろと見回している。コレを探しているのだろうか、とヤンはナイフを取り上げて、その人に近づいた。
「よう。」
「……、……。」
ナイフを見せると、その人物はきょとんとした顔で彼を見上げてくる。ヤンはもう一度ナイフを見せながら、「アンタが探してんの、これじゃねえのかい?」と言った。
こく、と首を縦に振り、口を開くが声が出ない。呼気がすーはーと漏れただけだった。
やおらその人は地面に座り込み、土の露出した部分に指を滑らせた。
『ありがとう』
「あ?ああ。あ……あんた、もしかして口が聞けねえのか?」
こくり、とその人は頷いた。口が聞けないと分かっても、ヤンはなんとなくその人物と話しを続けてみたくなった。
「あんた、この辺の出身じゃねえよな。俺の知り合いにクロッカスから来たやつがいるんだが、あのへんの出身かい?」
にこりと笑う。笑うと尚更性別不肖で、美人に拍車がかかった。
女を買いに行く必要もねえなあ。こんな美人と話せるならよ……。
ヤンがそう思った矢先。
野太い女の声が、空き地の向こうから響いてきた。
「ジーン!ジーン!!どこにいるんだいっジーン!!」
パッと相手が顔をあげたのを見て、ヤンはその人物の名がジーンと言うことを悟った。
「あんたの名前か?」
心なしか寂しげな顔をして、その人物は数秒の間を置いてから、こくりと頷いた。
そのままヤンの顔を見ようともしないで、声のしたほうに走っていく。
「おい、待てよ!」
ヤンはアイビーに次いで、二度までも置いてきぼりにされてしまった。
その人が走っていったほうに向かって、自分もゆっくり歩き出す。ジーンと呼ばれてはいたが、「あんたの名前か」と聞いたときの奇妙な『間』が、ヤンの中で染みのように広がっていた。
「ジーン!あんた、今日の晩の用意はできてんだろね!海賊さんのおなりだよ!女たちの世話をしな!」
シャルアと同じ髪の色、同じ瞳の色。
そして、恐ろしいほどのナイフ投げの腕前。
何か、引っかかるものがあった。だが、何がひっかかっているのかわからない。
ヤンは女の声を追って、ひとつの窓を覗き込んだ。
酒場――海賊たちの憩の場だ。それに、ここは娼館も兼ねているらしい。
こりゃいいや、といつものヤンなら小躍りするところだが、今日はそうはいかなかった。
自分の気に入った人間が、女だろうが男だろうが他人に奴隷のようにこき使われているのは見たくないものだ。
ジーンという名は男名だから、おそらく男性なのだろう。だが、ヤンは性別如何の問題よりも女将のジーンに対する態度が気に入らなかった。
「おい、女将。」
黒髪に派手なソバージュをかけた化粧の濃い女が、窓越しに振り返って口をぽかんと開けた。
「ああ、あんた海賊さんじゃないか!悪いね、うちのはちょっと頭が足りてなくて用意がまだ出来てないんだよ……」
「違う!!」
ヤンの怒声に、女将が驚いて恐縮した。
「そ、それじゃ、なんかうちに用でも……?」
用。
何も考えていなかったヤンは、そこでようやく自分の熱しやすい部分を反省した。
しばしの逡巡の後、彼は手持ちの金をすべて酒場のテーブルにたたきつけた。
「そこの……ジーンとかいうやつ。そいつを、俺にくれ。」
女将はぽかんとした様子で、だが初めて目にする大金を前に舞い上がった様子で、色々と言い始めた。
「そりゃ海賊さん、いいけどサ、あの子は女じゃないよ?買うったってねえ……てんで役にも立ちゃしないけど、いなくなったらそれなりに困るんだよ。一応世話役だしね。」
どうやら女将はジーンを安く売るつもりは無いようだ。ジーンは二人のやり取りなどてんで無視して、酒場のテーブルを拭き酒の準備をし、料理の下ごしらえまで始めていた。
自分のことなどお構いなし、という彼の態度も、ヤンには気に食わなかった。
「俺はあのジーンってやつをアンタより高く買ってる。海賊の才能ってやつのほうをな。こんな酒場でこいつを終わらせちゃいけねえって、俺の勘が言ってんだよ。」
それとも、とヤンはずかずかと酒場に入っていき、スツールに腰掛けて、女将の目を見据えて言った。
「あんた、この金じゃ足んねぇってのかい?……俺ぁ海賊だ。海賊ってのはなぁ、基本奪っていくもんなんだ……奪っていったほうがいいなぁ。俺ぁ海賊だからなぁ……。」
口の端を上げて笑うと、女将が引き攣った顔ですっ飛んで行った。すぐさまジーンを引っ張ってくる。
「いいよ、いいよ!こんだけ貰えりゃ充分店もやっていける。どうせこんな口も聞けない見た目だけの木偶の棒だ、いずれ娼婦が足りなくなったら体売らせようって話しだったのさ。女の代わりでも小間使いでも、好きに使ってやってくんな!」
ジーンがテーブルの上に出された金を見て眉をひそめた。失望したような、諦めたような目をして、女将から離れる。
「……それでいい、女将。あんたはその程度の人間だ」
ヤンは溜息をつきながら言うと、テーブルの上にぶちまけた金を集めた。
「ちょ、あんた金は払うって……」
「言ったろう?俺ぁ海賊だ。だがなぁ……人間の命を蟻ほどにも思っちゃいねえやつに、払う金なんてねえんだよ。だいたい俺はコイツをもらいに来たんだ。女の代わりにしようなんざ思っちゃいねぇよ。てめえも人間なら、もう少し人間をきちんと扱いなクソババァ!!」
ヤンの鬼気迫る表情に恐怖を感じたのか、女将は床に座り込んでしまった。その隙に、ヤンはジーンの腕を掴んで酒場を出た。
しばらく歩いていくと、あの女将のわめき声が聞こえてきた。耳が穢れそうな罵詈雑言に思わず笑みが漏れる。
「俺はヤンってんだ。おまえ、本当にジーンって名前か?」
少年は綺麗な二重を重そうに持ち上げて、ヤンを見上げていた。しばらくの沈黙のあと、彼はヤンの確認を否定した。
「本当の名前は……あ、そうか……喋れないのか」
「……、……」
ジーンが沈みいく太陽を指差した。
「太陽?」
またしても否定の返事。
「……もしかして、色か?」
こくん、と彼は頷いた。赤――レッド。
「レッドか。」
ふるふると首を振って、再び否定の返事。
「……すまん。俺はあの色で、レッド以外の呼び名を知らねえんだ……」
仕方がない、と言いたそうな顔で、ジーンは苦笑して見せた。
まあいいか。
気を取り直したヤンは、ジーンを連れて船に戻った。
5
「と、いうわけで。ジーンだ。みんなよろしく。」
ヤンが言って、隣の美少年が丁寧に頭を下げる。
フィグリア、ユリス、ジョーン、リーズ、クリス、アイビーは呆気にとられた顔で、ヤンと美少年を交互に見つめた。ロックはサーベルの打ち直しに、シャルアとフィーネは新しい布を買いに行っているらしい。
「ヤン、男を買うほど女に苦労していたのか?」
真面目な顔でリーズに尋ねられて、とっさに拳でぶん殴る。それを見てアイビーが悲鳴をあげた。クリスとフィグリアは「これ男なのか?」と言い、やはりヤンに一発喰らうはめになった。
「冗談に決まっているだろう!なぜ殴るっ」
「ジョーダンも過ぎると良くねえんだよ!」
それからヤンは、ジーンが口を聞けないことを皆に説明し、その上でナイフ投げの上手さを話して聞かせた。
「あのナイフ裁きは尋常じゃねえ。きっと、クロッカスのカーン一族の生き残りだと思うんだ。髪の色も目の色も、お姫……じゃねえ、シャルアと一緒だろ?」
「う、む……」
フィグリアが渋面のまま頷く。たしかに、同じは同じだが……口がきけないというのは、大変なことだ。実際にどの程度の腕かもわからない。カーン一族の人間かどうかも、フィーネと外出したシャルアの帰ってきていない今、確かめようがなかった。
ふらりと少年がよろめいたのを見て、ヤンが言った。
「あのよ、船長。こいつ酒場の女将に散々こき使われてたんだ。まるで奴隷みたいによ……。ちょっと休ませてやっても良いか?」
「そうなのか?そりゃあ難儀だったな、お前。まあこれからは仲間だ。今日は寝ていて、夜にパーッと久々の宴会でもやろう!っちゅーわけで、寝てきなジーン。」
フィグリアの許可を得て、二人は船室を出た。
「アイビー」
「はい、船長。」
「お前さん、あれがクリムゾンって可能性はあるか?」
「……申し訳ありません。わかりません」
正直にアイビーは答えた。クリムゾンとアイビーが顔を合わせたのは、八年前の出奔の際、一度きりだ。しかも、ほんの数分のことだったのだ。
「シャルア様ならばわかるのでしょうが……わたしはクリムゾンと会ったことが一度しかないのです。ですが、あの子は話すことができました。もしもジーンがカーン一族の生き残りであっても、生まれつき口がきけないのであれば、違うでしょう。」
「ふーむ……むつかしいな。とにかく今日は……と、シャルアたちか?」
船の近くで女の声がする。間違いようもない、シャルアとフィーネだ。
船上に飛び出して見ると、黒服の男たちを相手に二人が戦っていた。十人近い相手に、杖を持たないフィーネと武器を持って出なかったシャルアが苦戦している。
とっさにユリスが船から飛び降りた。と―――
ユリスの飛び降りた反対側の船上から、もう一つ小さな影が飛び降りた。
「ジーン!!」
何人かの声が重なる。
ひゅ、と空を切ってナイフが黒服の男の額に刺さった。ユリスがその隙にもう一人を一本背負いで倒し、そのままローキックでもう一人のバランスを崩したところに、再びナイフが狙ったように黒服の首筋を切断する。
たん、と短く矢の走る音がした。リーズが弓を持ってきて参戦したのだ。
シャルアも仲間の助けを得て、数人目の男の頭をぶん殴った。そのまま背後に肘を突き出し、男のみぞおちをついたところでフィーネが組んだ両手を後頭部に叩きつける。
「ああ、もう皇女様の面影もない……」
ぼそりとアイビーが呟いたが、それを聞いていたものは誰も居なかった。
「なにしてるんですかっ!?」
言いながら帰ってきたロックが乱闘に飛び込んだ。新調してきたらしいサーベルが華麗な切れを見せ、襲撃者の腕をばっさり切り落として、十人近くいた襲撃者は一人残らず息絶えるか、体の一部分を失って逃げ帰った。
「あ、待ちなさいこらっ!」
待ちなさいと言われて待つ襲撃者はいねえなあ、とヤンが呟きながら降りてくる。
「なんですか、今のは?というか、この子は誰ですか?」
ロックが指差したのはジーンだ。
だが、ジーンはシャルアの前に進み出たまま微動だにしない。瞬きひとつしない彼に、誰も声をかけられなかった。
「……く、さ……ま」
ひゅぅ、と喉の奥から声が漏れる。
シャルアも何故か、彼の前から一歩も動かない。
「……おぬし……」
プラチナブロンドをひとつに結い上げた髪を、シャルアはぱさりと落とした。手の甲を彼に向け、無言で差し出す。
それは、まるで絵のようなワンシーンだった。
差し出された手の甲を、ジーンが跪いて手に取る。そして、声のほとんど出ない声帯を使って、必死に何かを伝えようとしていた。
「……が、み……。」
「うむ。……生きていて嬉しいぞ。……クリムゾンよ。」
ジーンがシャルアの手の甲にキスをして、もう一度深く頭を垂れたとき、満月が空に昇って二人を照らし出した。
「クリムゾン……この子が!?」
アイビーの声にシャルアは頷いた。
「うむ。クリムゾンよ、そなた、……父母を亡くした傷で、声を失ったのだな……?」
シャルアの喋り方が「皇女」だったときのものに戻っていることに気付き、ユリスは父を見た。
フィグリアは無言で首を振る。皇女の言うことならば、間違いない。それを無言で、親子は伝え合った。
ジーン、否、クリムゾン=カーンは、八年のときを経て、ようやく守るべき人の場所に帰ることができたのだ。
「シャルナーク様、我が君よ。再びあいまみえることができて光栄です、と彼は言っております。」
フィーネが言った。
「おぬし、これの言葉がわかるのか?」
「わたくしは魔女ですが、今のは心を読んだのではなく、彼の言葉の端から想像しました。クリムゾン殿、わたくしの通訳はあっていますか?」
目を閉じたままの彼女を見上げて、クリムゾンは頷いた。しかし、ややあって困ったような表情になった。
「ああ、心配なさらずに。わたくしは目が見えないわけではありません。勘違いさせてしまったようですね。クリムゾン、あなたの声はきっと戻るでしょう。それまで、シャルア様をわたくし達とともにお守りする……その務め、全うしますね?」
彼は力強く頷いた。
アイビーの覚えている、あの城が破られた日の力強い笑顔と、まったく同じ笑顔だった。
「生きていて良かった……。」
船上から皆を見下ろし、呟いたアイビーの肩に、暖かな手が添えられた。
「そうですね。……あのお転婆な皇女様は、なかなかわたしたちの手には負えませんが……一緒に守っていきましょう。クリムゾンと、ともに。」
ロックだった。いつの間に船上に上ってきたのかわからないが、月夜の晩。船の陰になっているのをいいことに、二人は優しく微笑みあった。
シャルナーク第一皇女は、守られるような姫ではない。
守ってくれというような人でも絶対にない。
臣民のために、家族も国も捨てる本物の皇女だったから。
今は、海竜の長、セルダ・カーン船に乗る空海の皇女。
シャルア=ラナウは、そんな少女だ。
クリムゾンが入り、一向はさらに北に向かう。
ウォルトサーク第二皇女の消息を知るために。
冒険は、まだ、始まったばかりだ。
――― 終 ―――