のり子の花簪
神月蒼


 祖母が死んだ。八十八歳、大往生だった。
 仕事中から体がだるく、熱に浮かされながら帰宅した私を出迎えたのは、久方ぶりの母だった。
 腸炎で熱がひどかった。痛みもあるし、仕事は休めと医者には言われたが、簡単に休めるはずもなく。早朝に出勤して、熱のせいでガタガタ震えながら帰ってきた私に、母は言った。
 「お祖母ちゃんが死んだ。明日は休みなさい」
 私たち家族を捨て、一人で家を出て行った母が、突然帰ってきて前触れもなく祖母の死を告げる。
 予想しなかった、終わり。
 私は熱があるのも忘れて祖母の部屋へ走った。痴呆症で私のことを忘れてしまった祖母。だけど、昔から何かにつけて可愛がってくれた。
 実際のところ、彼女が可愛がっていたのは、私が彼女の気に入っている女性によく似ていたからだと知ったのは、痴呆症のかなり進んできたころだ。
 「のり子」。
 痴呆になってから、祖母はいつも私をそう呼んだ。私は「違う」と言えぬままに、祖母に逝かれてしまった。
 のり子が誰なのか、私は知らない。祖父も痴呆が進んでいたが、彼はのり子を知らなかった。両親も、親戚の誰も彼女を知らない。
 そうして、「のり子」は私の一番身近で一番遠い人になった。




 朝、雨の音で目を覚ますと、涙が頬を伝っていた。
 夢を見ていた。
 祖母が死んだ日の夢。
 雨音の激しさがカーテン越しにわかる。夏も近いがまだ肌寒いといえるこの季節、私は一人で布団をかぶったまま、ぼんやりしていた。
 祖母の葬儀のとき、私の熱は大分下がっていた。まだ全快とは言えなかったが、葬儀は滞りなく進み、……何事もなく終わった。
 わたしは、一度も、涙を流さなかった。

 「なんて情のない子なんだろう」

 母は私を罵った。私たちを捨てて出て行ったくせに、こういうときは責めるんだな、とぼんやりした頭で考えた。
 父も姉も一度たりとも涙を見せなかった私に、何かしら不満はあったようだが、何も言っては来なかった。
 私は、泣かなかった。
 いや、泣けなかった。

 父も泣いていたあの日、家族全員が憔悴して泣き腫らした顔でその場にいた。誰も来客の挨拶や相手などできるような状態ではなかった。
 だから、私は自分が立たねばならないと一心に思った。
 祖母は生きた。最後に微笑みを浮かべながら息を引き取ったと言う。
 大往生なのだから、悲しんではいけない。
 むしろ、今まで生きてくれてありがとうと言うべきなのに。
 涙は最後まで流さなかった。
 溢れそうになる涙腺に蓋をして、しっかりと。
 私はずっと、弔問客の相手をし続けた。
 情がないと言われても仕方ないかもしれない。けれど、私なりの祖母を送る精一杯の気持ちだった。
 のり子。
 その名前を、心の端に引っ掛けたまま。

 おばあちゃん、この花簪、二十歳になったらもらってもいい?
 いいよ。のり子に使ってもらえるなら、その簪も喜ぶだろう……。

 花簪。
 祖母に譲り受けた花簪は、翌年、私が二十歳の成人式を迎えても、晴れの日を見なかった。梅模様の美しい、緋色の花簪。
 だって、この簪を譲り受けたのは私じゃない。のり子さんだもの。
 私は結局、成人式はわざと働き詰めにして、振袖を着ないことにした。
 そして手元に残った花簪、ひとつ。私は自分で着物を着て、一度だけ仏壇の前に立った。

 「おばあちゃん、……のり子よ。」

 髪には梅の花簪。灰色の地に緋色の梅模様の着物には、とてもよく似合っていた。

 おばあちゃん。
 わたしは、本当はね。
 のり子じゃなくて、私にこの簪を譲って欲しかった。
 最後に、一度でいいから。
 私の名前で呼んで欲しかった。
 百合華、って。

 ……のり子じゃないよ、百合華だよ。

 言えなかった、後悔と。
 言わなくて良かった、と思う、不思議な達成感にも近い感情。

 次に夢に出てくるときは、きっと、私のほんとうの名で呼んでほしい。
 百合華、って。
 おばあちゃん、のり子じゃないよ。

 本当は、生きているうちに言いたかったけれど。
 言わなくて良かったのだ。
 彼女は微笑んで逝ったのだから。

 情のない子と言われても、私は彼女の孫だった。
 花簪はのり子さんの物。百合華、つまり私の物ではない。
 だからせめて、のり子さんのふりをして、花簪をつけて、おばあちゃんに見せる。

 生きているうちに、見せてあげたかった。
 それがたとえ、嘘であっても。のり子さんだと思われていても。

 今、花簪は祖母の形見の抹茶椀と一緒にしまってある。
 抹茶椀は幼い頃に私――百合華が、直接彼女に買ってもらった物だ。だから、私にとって彼女の形見はその抹茶椀になる。
 渋い深緑色の抹茶椀と、緋色の花簪を並べると、なんだか不思議な感じがした。
 のり子。
 祖母が亡くなって早三年のときが過ぎた。
 いまだに、そのひとがどこの誰であるのか、不明である。だけど、いつか会えるような気がして――私は、いまも花簪を自分のために使ったことは一度もない。
あの、のり子のふりをして仏壇の前に立った一度きりだ。
 いつか、のり子さんに出会えたとき。
 祖母の形見として、彼女に渡すために。

 涙を拭って布団から這い出す。
 祖母を追うようにして、半年後に祖父も亡くなった。
 私は今も時々、こうして祖母の最後の日を夢見る。

 せめて、最後が繰り返しでなく、まだ生きている祖母に出会えたら、と思いながら。
 
 「のり子じゃないよ、百合華だよ……」

 いつかあの世に行った時、祖母は笑って私のほんとうの名を呼んでくれるだろうか。そして、そこにはのり子さんもいるのだろうか。
 そうであってくれれば良い。
 これがわたしの孫の百合華だよ、のり子。そう言って、紹介して欲しい。
 そう思いながら、私は冷たい水で顔を洗うのだった。

 ―― 終 ――


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