ドッペルゲンガーの怪異
神月蒼
うん、俺はもう、一度死んだ人間だから。
ヤツはそう言った。「もう一人の俺」が、こちらに背を向けたヤツの前に立って、俺とは思えないほど不気味な笑みを湛えていた。
死ぬことは怖くなかった。つい、最近まで。
俺はほとんど死んだように生きてきたし、これからもそうだと思っていた。
兄の貴一さえ生きていれば、親は喜ぶ。むしろ俺一人くらい、居なくなった方が都合いい。
だけど――俺を守ろうとしているコイツ。
その背中は、小さくて、とても小さくて、俺なんかが寄りかかれるようなものには到底思えないのに。
守られて。
……ああ、今。
俺は、生きてきて、初めて。
「生きたい」と、心の底から、思った。
*** ***
私立桐林学院、高等部一年四組在籍、美坂隼人。通称、ミハヤ。
年子の兄、貴一はミサキと呼ばれ、桐林学院内では有名な兄弟だった。
明のミサキと暗のミハヤ。
貴一は小等部からサッカー部に所属、高等部進学と同時にイギリスに留学。
隼人は中等部から剣道部に所属、今年の春に高等部に進学した。
二人が有名だったのは、まずその容貌にあった。一卵性双生児と言われれば大抵の人が信じて疑わない。それほど、二人は顔も背格好もよく似ていた。
代わりに、性格は正反対だった。要領よく何でもこなしながら、問題を起こしても比較的大きな事態にはならずに済む貴一。勉強は中の上あたりを行ったりきたりしていた。
比べて、隼人は些細な問題でも大事にされることが多かった。要領の悪さからか、それとも生真面目さからか、常に両親は隼人のことを問題視していた。しかし、成績は常に上位で、学年十位以内から漏れたことはない。
親は隼人を『気難しくて扱いにくい子』と決め付けてかかった。友人たちに言わせてみれば、大した問題ではないそうだが。
それでも、親から見ての問題点というのは、子供にとって大きな意味を持つものだ。
いつしか隼人は、「兄さえいれば自分なんていなくても良い」と思うようになっていた。
薄ぼんやりと感じていたその想いが、完全な重さを持ったのは、中学二年のときの「あの」事件だった。
母が、隼人と兄を間違えたのだ。
土曜の昼過ぎに学校から戻った隼人を、母が珍しく呼び止めた。
土曜お決まりのティータイムは、母と兄だけのものだと思っていたから、声をかけられたときは、くすぐったいような気分になったものだ。
だが、そんな気分はほんの数十分で壊された。友人の話し、先輩の話し、自分の話し。楽しく過ぎたのは、本当に僅かな時間だった。
『隼人もあなたくらい良い子なら良かったのにねぇ、本当に、どうしてあんな暗い子になっちゃったのかしら。そうそう、あなた、留学先はイギリスに決まりで良いのかしら?父さんはドイツもいいって言ってたわよ。』
血の気が引いていく音が耳の奥でした。微笑んで振り返った母は、顔色を変えた隼人を見て心底不思議そうな顔をしていた。
『母さん、僕、は……隼人だよ?』
突然母が豹変した。カシャンと音を立てて倒れたティーカップ。中身の茶色い液体が、ガラステーブルを伝って床に滴り落ちる。
『なんですって!?あなた、貴一のふりをして母さんと話しをしていたの!?そんなに兄さんが羨ましかったの!?』
何を、言っているんだ。この人は。
間違えたのは。
『間違えたのはっ、そっちのほうじゃないか!!勝手に産んで、勝手に間違えて、それで今度は僕のせいなのか!?わかったよ!あんたが二度と間違えないようにしてやるよ!!』
家を飛び出した。時間は午後三時過ぎ。帰宅途中の兄と道の途中ですれ違った。
血相を変えて走る自分に、兄は不思議そうに声をかけてきたけど、無視して駅まで行った。
ポケットの中には定期入れと、小銭入れの中に小さく畳まれた三千円。
定期でとりあえず学校まで行った。片道十五分の電車に揺られている間に、ふと思い出した光景。
学校よりももっと郊外に行くと、電車の窓から林と大きな白い建物、そしてそこからそう遠くない位置に、綺麗な古びた洋館が建っている。
あそこに、行こう。前から、ずっと興味のあった場所だ。最後に一度だけ、行ってみよう。
死ぬつもりだった。
学校の教室からカッターナイフを盗んだ。
生まれて初めて盗みをした。
心臓から血液が逆流して、体が爆発してしまえば良いのに。
実際に起きるはずもない事態を想像して、自嘲した。
そう、いつだって。
悪いのは、産まれてきた僕のほうなんだ。
そうして、電車から見たなんとなくの光景から導き出して辿りついた場所は、林の中の病院と、隣り合ったぼろぼろの洋館。遠目には綺麗に見えたけど、夕日の中で見るとどこか薄暗くて不気味だった。
洋館を通り越して林の中に入る。
林の奥、もう森と言っても良いような場所まで来て、むき出しの左腕にカッターナイフを付きたてた。
何度も、殴り付けるように掻き切った。
初めのうちぷくりと玉になった血は、すぐに溢れて幾筋もの流れを作った。
血だらけになった腕を見て笑った。夕日も、真っ赤だった。
『ワン!』
犬の声が近くでして、はっと我に返った。野良犬だろうか。噛み殺される?それも良い。
だが、そんな想像はあっさりと壊された。
がさがさと鳴った茂みの向こうから顔を出した白い犬はまだ子犬で、その上を掻き分けて現れたのは、自分より少し年下に見える、銀色の瞳と黒い肩までの髪の美少女だった。
『……だれ』
無感情に、無表情に、彼女は口を開いた。問いかけは明らかに隼人に向いていた。
『ましろ、おいで』
子犬を呼ぶ。ましろという子犬は大人しく、少女の足元に走り寄った。
『なにを、しているの』
一見すれば何をしていたかなんてわかるはずだ。それなのに、わざわざ訊ねるなんて、病気か何か――。そう考えて気付いた。
少女の服装は、白い病院着にカーディガンを羽織っただけだった。
『僕、は』
『しにたいの』
先を見越すかのように彼女は言った。
慌てて血だらけの左腕を隠したが、彼女はもう見てしまった。遅かった。
『……でも、あなたはいま、きっと死んだ。』
彼女は言って、隼人が隠した左腕に手を伸ばした。白い掌が血に塗れるのも構わず、彼女は血の溢れる左腕から手を離さなかった。
右手は固まったようにカッターナイフを握り締めて離さない。
彼女は突然、隼人の右手にも手をやると、カッターナイフを素手で刃先からもぎ取った。パキン、と鈍い音がして、彼女の左手から血が溢れ出した。
驚いて握った掌が開いた。彼女も手を開いて、二つに割れたカッターナイフは血まみれになってぼとりと草だらけの地面に落ちた。
『わん!』
子犬が鳴いた。
隼人はポケットからくしゃくしゃに丸まったハンカチを出すと、彼女の血だらけになった掌を包んだ。
『……ありがとう』
肩まである髪の毛が、ふわりと香った。
彼女が病院に戻ると言うので、そのまま病院について行った。思えば、あれは隼人のためもあったのかもしれない。二人は洋館から少し離れたところにある病院内で手当てを受けた。
閉められたカーテンの向こうで、彼女が医師に叱られているのを聞いて、何度もごめんなさいと看護師に言った。
すべては、自分が悪いのだと言って。
ぼろぼろ泣いた。万華鏡のような銀色の瞳の少女は、何も言わず、手当てを受けてからは、ただ隼人の傍に座っていた。
それから隼人は一度も人前で泣いていない。きっと、彼女が言ったように、あの時隼人は『死んだ』のだ。だから、もう出る涙も無いのだ。
二人は夜まで一緒にいた。暗くなった病棟内で、なぜ医師や看護師が隼人の身の上を確認しなかったのかは今もって謎だが、そのおかげで、隼人は彼女と夜になるまで共に過ごすことが出来た。
母との一連の出来事を話すと、彼女は窓枠に手をかけて、半身振り返りながら、言った。
『もったいないひと』
彼女は瞳を揺らし、隼人を見つめた。巻かれた包帯がお互いに痛々しかった。
『もったいない?』
『あなたは、こんなに優しいのに。おかあさんは、もったいない』
そんな言葉のほうこそ、もったいないと思った。隼人は「間違い」で産まれてきた、いけない子供なのに。
『痛い、でしょう』
『あ……腕?僕より、君のほうが』
『ちがう。こころ』
心のほうが。傷つけた、腕よりもよほど。
もう涙は出なかった。だけど、ずしりと重い言葉が。
隼人の心が、本当に傷付いて壊れる寸前だったのだと、教えてくれていた。
二年の時はあっという間に経った。
隼人の左腕には、くっきりとカッターナイフで刻んだ傷跡が残っている。だから、母はあれ以来一度も隼人と貴一を間違えていない。
あの日、隼人は宣言したとおり、兄と自分を『間違えないように』して、帰ってきた。そして、それを母も悟ったのだろう。遅くに帰宅して、左腕に巻かれた白い包帯を見て、彼女は何も言わなかった。
興味がない。そんな感じだった。むしろ、兄のほうが真剣になって心配していた。父は包帯にすら気付かなかった。
兄が昨年初めに留学してから、もう一年少し経った。あと三ヶ月、いや、二ヶ月半ほどすれば兄が帰ってきてしまう。
彼がいなくなってから、美坂家は火が消えたように静かになった。
両親はほとんど帰らず、自分は、桐林学院幼稚舎から幼馴染で、腐れ縁仲間の山岸徹や海野由宇と共にいることが多くなった。
剣道部の活動に精を出し、委員会活動も学級委員を進んで引き受け、家になるべく帰らなくて済むように、自分で自分を追い立てていた。
そんな折り。
一通のメールが、生徒会室で居残り雑務をしていた隼人の携帯電話に届いた。
『桐林メル』。
桐林学院のコンピュータ室から送信されてくる、桐林学院の生徒にしか送られてこない不思議なメール。可愛らしいおまじないもあれば、ただの噂のこともある。……意味不明な、不気味なことが書いてあるだけのことも。
隼人が受け取ったのは、こんな文面だった。
『あなたは近いうちに、もう一人の自分に出会う――そして出会えば、確実に狂気に触れるだろう。
断言しよう。
あなたはもう一人の自分に出会うたびに、自分自身を見失い、大切なものを傷付けて失っていく。
すべてを失って地に這った時、あなたはもう一人の自分に呑み込まれ、生まれ変わるだろう。
おめでとう。
あなたは、“選ばれし者”だ―――。』
なんだ、これ。
もう一人の自分とは、兄のことではないか。九月に留学を終えて帰国すると、彼は自分と同じ学年になる。そうすれば、負けるのは――奪われるのは、確実に自分のほうだ。
狂気に、触れる。
兄は悪くないのに、周りがそれを許さない。親が。周囲が。
放っておいてくれない。きっとそういう意味だ。
……何が「選ばれし者」だ。
舌打ちをして、生徒会室を後にした。
五月も終わりだというのに、まだ六時にもなっていない外は薄暗く、雨がぱらついていた。朝は曇り程度だったから、傘は持ってきていない。一旦外に出たものの、再び戻り生徒会室の隣の備品室に入った。忘れ物の傘を物色する。一日借りるくらいなら許してくれるだろう。
ふと、視線を感じた気がして、振り向いた。夕闇の入り込む時間帯、残っているのは隼人以外にいない。
だが。
頭の後ろに、また視線を感じた。備品室の奥に人はいない、あるのはグラウンドに面した窓だけだ。
再び視線を感じた方向を向く。やはり、あるのは雨を受ける窓だけだ。窓に映りこんだ外廊下の光が眩しく見える。
「……え?」
一歩、窓に近づいた。鏡のようになった窓ガラスが、隼人の顔を映す。
その、表情が。
にたり、と。
不気味に歪んだのを、確かに見た。自分の顔ではない。そう思った瞬間、脳髄で何かが弾けたように感じて、気が遠くなった。
眩しい光が、どこかから漏れている。カーテン越しに誰かが会話している。二年前のあの日を思い出して、ふと隼人の口元に笑みが浮かんだ。
「あら、起きた」
「あ……」
養護教諭、木村十和子の声だ。もう一人は……擦れた半音高めのアルト。どこかで聞いた声だ。二年前のあの銀目の少女の声にも似ているが、もっと最近、身近なところで聞いた声だった。
「マジ!?」
もう一人いる。これはすぐにわかった。幼馴染でクラスメイトの山岸徹だ。
「美坂君、貧血で倒れるなんて君らしくないわよ。ちゃんと朝食摂ってる?」
「え……?」
貧血?そんなバカな。
自分はあの「もう一人の自分」を見た途端に気が遠くなったのだ。
「起きたかミサカぁ!うわー、ほっとしたよ。見つけたとき真っ青でさぁ、死んでるのかと思ったもん!」
山岸がカーテンを跳ね除け、感嘆の声をあげて隼人に飛びつく。「こら、病人なんだからちょっと気を使いなさい!」と木村先生が呆れた声を出した。
「……死んでなくて良かったね」
ぽつり、とアルトの声が言って、とっさにその声の主を探した。……雪深紅葉(ゆきみもみじ)だ。彼は山岸と違い、半分開いたカーテンの向こうに佇んでいた。
雪深紅葉。学年一、いや、桐林学院随一の変人と名高い、隼人のクラスメイト。
高等部から入学してきて、入試はもちろん、それ以降のテストもすべて学年トップ独走中の天才児である。天才であり、異端。周囲から異常に浮いて見える存在の少年だ。
入学式からサボった唯一の人間でもある。それに、桐林学院は高等部から私服通学が許可されているが、本当に翌日から私服で通学してきているのは彼一人だけだ。しかも、今日この日まで彼の制服姿を見た人はまだ一人としていない。
いつでも手の甲まで隠す長袖のTシャツとジーンズか綿パンツという出で立ちで、露出部分が異常に少ないのも特徴の一つだ。
外見はひ弱そうで、鼻先まで伸ばした前髪が彼の表情の一切を隠している。後ろ髪もまるで女子のように腰まであるが、それは襟元できつく括られていた。
無口、無愛想、無感情。そんな単語が似合う少年だった。もちろんそんな彼だから、周囲からは敬遠されているというか、嫌われている。
隼人も例外ではなく、彼を一方的に嫌っている一人だった。
だが、ゴールデンウィークが終わった頃から、突然山岸と仲良くなった。一方的に山岸がちょっかいを出しているのだけど、それなりにきちんと会話は成り立っているようで、それがなんだか悔しかった。
山岸は、いつでも貴一より隼人を見ていてくれた唯一の友人だったから。
『おれはミサキも好きだけど、お前のほうが好きだよ。楽しいヤツだもん、おまえ。』
笑ってそんな風に言ってくれる、受け入れてくれる存在だったから。
だから。
突然現れて、山岸を目の前から奪っていくような、そんな雪深が許せなかった。何もない、人形みたいなヤツなのに。なんで、いきなり出てきて一番大切なものを奪っていくんだ。
……まるで。貴一の、ように。
兄と雪深が重なったわけじゃなかった。ただ、大切なものを奪っていく、という一点に置いて、限りなく今この少年は恐怖の対象だった。
『断言しよう。あなたは確実に狂気に触れるだろう』
ぞくりと背筋を這う悪寒。
「いやあね、雨が酷くなってきちゃった。」
木村先生が窓の外を見て眉をひそめた。
「三人とも、今日は車で送っていくわ。今日はもう暗すぎるから。」
ラッキー、と叫んだ山岸に対し、雪深は「ありがとうございます」と小さな声で言った。その声が、二年前の銀目の少女の声と、なんとなく重なったような気がした。
*** ***
車のフロントガラスに当たる雨粒が、だんだん大きくなっていく。雷も鳴り始めて、いよいよ嵐の様相だ。
「台風来てんだっけ、そういや」
山岸が言ったので、朝のニュースを思い出した。台風六号接近中。
後部座席の奥でしっかりシートベルトを締めると、隣で雪深が妙にもたもたしていた。うまくベルトが差し込めないらしい。
「……おまえ、もしかして不器用?」
訊ねると、小さな頷きが帰ってきた。焦っているのか、余計にもたもたしている。
車はゆっくりと発進し、まだ雪深はシートベルトと格闘中だ。溜息をついて、隼人は彼の手からベルトをもぎ取り、嵌めてやった。
こんな小さな動作の一つももたもたするなんて、ガリ勉君はよく理解できない。
「ありがとう」
小さな声で言われて、再び二年前のあの少女を思い出した。
おいおい、コイツは男だぞ。どうしてさっきから、あの子を思い出すんだ?
思って、気付いた。顎の形と、声の質だ。雪深のほうがやや声が低くはあるものの、彼女と顎のライン、そして声質がそっくりなのだ。
俯いている彼を横目に見つめる。瞳の色は伺えないが、隠れていない尖った顎と長い前髪から飛び出した鼻筋はよく通っていて、やはり人形を思わせた。
「……あれっ?」
山岸が助手席で素っ頓狂な声を出した。同時に、木村先生の悲鳴と急ブレーキ。
ドン!と衝撃が走って、車がスリップしたことを知った。横から咄嗟に雪深が隼人の腕を引いて頭を庇った。その刹那。
確かに、見た。
フロントガラスの向こう側、道路の真ん中に立って笑っている、自分自身を。
*** ***
「……人が飛び出してきて、先生が急ブレーキをかけました。多分イタズラだと思います。……はい。見ましたけど、顔までは……。先生が急ブレーキかけたら、すぐに走って行っちゃったので」
雪深が隣で証言している。あの場にいた三人には、明らかに嘘だとわかる証言を。
しかし、隼人の兄、貴一が今、日本にいない以上、あの道端に立っていた少年は、隼人以外に有り得なかった。そして、隼人が木村先生の車に乗っていた以上、それが隼人であるわけもなかった。
淡々と話す雪深を見ながら、ずっと考えていた。
あれは、なんだ。
俺か?いや、俺はここにいる。だけど、確かにあの道路にいたのも俺で、そして倒れる直前に窓ガラス越しに見たあの不気味な笑みの少年も、俺で……。
「美坂君、今日はもう良いそうだから、帰りましょう。ごめんなさいね、事故なんて起こしちゃって。」
先生は優しかった。自分のせいで事故にあったのに、それを警察には話していない。山岸も、もちろん、今証言していた雪深も。
いや、違う。
信じられないのだ。
自分達の見たものが、隼人だと。
山岸は父親が迎えに来た。今度は山岸の父が送ってくれると言ったが、やんわりと断った。また事故が起こりそうで、怖かった。
『あなたはもう一人の自分に出会うたびに、自分自身を見失い、大切なものを傷つけて失っていく』
ぞくり、と背筋を這い登る寒気は。
間違いない、「あれ」は。俺、自身だ――。
「……送っていく」
感情を排したような声が頭上でして、顔を上げた。雪深が傘を二本持って立っていた。隣に山岸もいる。
「ドッペルゲンガー……」
警察署を出る時、山岸がそう呟いた。
「まさか……、だよな。な、雪。」
縋るような目で雪深を見る彼が不思議に思えた。なぜ、山岸はこんなにも雪深を信頼しているのだろう?
「……違う。俺に心当たりがあるから、徹は心配するな。帰って、寝たほうがいい」
頭一個分低い位置にあるのに、山岸の肩を叩いてそう言った雪深の背中は、大きく見えた。山岸は父親に呼ばれて、不安そうな顔のまま、二人に見送られた。
ドッペルゲンガー。もう一人の、自分。
……出会ったら死ぬと言う、あのドッペルゲンガー?
「はい」
真っ白な手がビニール傘を差し出す。無言で受け取った隼人の顔は、蒼褪めて今にも倒れそうだった。
「離魂病、というものがある。」
「は?」
唐突に話しだして歩き始めた雪深の後を追う。
「魂が分裂して実体を持つ病気だ。『あれ』には明らかな悪意があった。……恐怖や羨望、嫉妬が溜まった時、人間の魂が分離して実体になる。それが離魂病。……何か心当たりは」
「なんだ、それ……」
ぐい、と手を引かれた。傘の下で、雪深の濡れた黒髪が鼻先に近づく。そして、囁かれた。
「……このままじゃ、ミハヤ、お前殺されるぞ。自分自身に」
「……は」
「でも、あいつはきっとお前自身よりも、お前が大切にしている人間を狙ってくる。それが、お前が一番傷付くからだ。あんな悪意の強い剥離魂、見たことがない」
「ハクリコン?」
「体には霊魂と幽体がある。魂の一部が剥離した物を、剥離魂という」
呆然としていると、突然雪深がふいと自分の背後に目を向けた。
不思議に思って雪深の視線を追うと、……またしても、隼人が立っていた。あの、不気味な笑みで。
『よくわかってんじゃん。じゃ、雪深も俺の大事なものだって言ったら、雪深、お前どうすんの?』
が、っと手を掴んで駆け出された。傘が二人の手から離れて、二人分の足音がばしゃばしゃと夜道に響く。横の大通りを走り去っていく車のテールランプが異常なくらいゆっくりに見えた。
「気付かれたっ。あいつ、お前の記憶を持っているから俺が誰なのかわかったんだ!お前はあの時女だと思ってたみたいだから気付いていないだろうけど、あいつは……」
地下鉄の駅に駆け込んで、二人はびしょ濡れのまま向かい合う。
「何だってんだ、一体。リコン病だとかハクリとかっ、心当たりなんてっ、」
息切れがひどい。見ると雪深のほうはそんなに息も切れていない。落ち着いた様子で周囲を窺っている。
運動はけっこう自信があったのに、まさか全力で走った自分よりも、雪深のほうが体力があるとでも?それじゃあ、まるで自分に勝ち目はないじゃないか。
突然頭に血がのぼるのを感じた。
くらくらする。二年前もこんな風になって、家を飛び出したんだ。
「お前だ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。雪深がびくりと身を引いたのがわかった。
「お前がっ、俺から山岸や海野を盗っていこうとするから!兄貴みたいに!必要とされてるから!」
白い手がゆっくりとあがって、顔に張り付いた長すぎる前髪を分けた。
銀色の瞳。人形じみた、精気を感じさせない顔。
「……俺が?」
電車が来た。
「そう、だったん……。」
雪深は小さな声で呟くと、俯いて電車に乗りこんだ。
慌てて後を追う。
この顔は。
二年前、出会ったあの少女。あれは。
「ハンカチ」
俯いたまま、隣に立つ彼が口を開いた。隼人は涙が出そうで出ないのを感じて、二年前に自分が一度死んでいることを、今さらながらに思い出していた。
「まだ……返してない」
それきり、二人の会話は途絶えた。
途中の駅で乗り換えになって、雪深とは無言のまま別れた。
ショックだった。
あの優しい時間。だけど、自分が一度死んだ日に出会った彼女が、まさか、雪深紅葉だったなんて。
一晩が経つのは早かった。
重い足取りで学校へ向かう。
『あいつ、悪いヤツじゃないぜ!お前は嫌いだって言うけど、昔のお前に似てるもん。』
山岸が前にそんなことを言っていた。
ああ、どうして。
昨日、雪深は傷付いた顔をしていた。きっと、隼人が傷つけたのだ。無表情だったけど、わかった。自分が傷付けたのだと。
ばしゃばしゃと後ろから水を撥ねる音が近づいてくる。振り返らないでいたら、ばちーんと肩を一発叩かれた。痛い。
「おはよ!昨日、十和子センセの車で事故ったんだって?」
幼馴染で腐れ縁の、海野由宇だ。今、徹と同じくらい大切なもう一人の友人。
「心配してたけど、大きなケガ無さそうで良かったよ。うん、良かった!」
飴玉をぽんと寄越し、自分も口に放り込む。
「海野!」
「ん?」
海野由宇は、学院内でも有名な美少女だ。実家が老舗の和菓子屋で、「お菓子や小町」とあだ名されている。が、今まで隼人は海野を女性として特別視したことはなかった。
先のような一発を毎日喰らっていれば、どんな美少女でも特別な友人として以上は見られない。
そして。……彼女が隼人にとって特別な友人である以上、次に狙われる可能性はかなり高い。
「頼む。何も聞かないで……しばらく、俺に近づかないでくれ」
「嫌。」
意を決して言ったのに、海野は傘をくるりと回して、そこに立ち止まった。
「ドッペルゲンガーでしょ?聞いたよ、山岸から。でも」
明らかな決意の目が、まっすぐ見つめてくる。優しい微笑みを浮かべて。
「私も山岸も、離れないから。だって、雪がどうにかしてくれる」
「なっ」
また、雪深だ。どうして雪深のことを、こいつらはこんなに信用しているんだ。
焦りと怒りがないまぜになって、突き上げる。けれど、突き破ることはなかった。またしても思い出す。もう、二年も前に自分が一度死んでいることを。
海野は穏やかな表情で立っていた。
そして、ひと言。山岸と同じことを、言った。
「雪って、昔のミハヤに似てるよ。だから、信じるんだ。雪は悪いヤツじゃないよ。」
だから?
驚いた。嬉しくて涙が出そうになったけど、やっぱり涙は出なかった。もう自分は死んでいるから、もう泣けない。残念だった。
「雪ね、あたしのことも山岸のことも、必死になって助けてくれたんだ。だから、きっとミハヤのことも助けてくれる。あたしは雪もミハヤも信じる。山岸も、多分同じこと言うと思う。」
「助けてくれた……」
二年前。
そう、二年前も、彼は自分を助けてくれた。
昨日、「隼人」が言っていた。
雪深もまた、隼人にとって大切な者の一人なのだと。
それじゃあ――。
*** ***
――お前だ!!
怒鳴られて、全身が冷たくなるのを感じた。
二年前、手に巻いてくれたハンカチは、今もきちんと取ってある。べったりとついた血は綺麗には落ちなかったけど、いつかもう一度会えたら、そう思っていた。
そして、一年四組で彼の顔を見つけた時。お礼を言わなきゃ、と思ったのに、声をかけることができなかった。
彼が自分を覚えていないようだったから。
純粋に女の子だと思っていたのだろう。まさか男子の自分がアレと同一人物なんて、気付くわけもない。当時は本当に、女と間違われることが多かった。
名乗らなかった。そのことを、後悔した。
それに、ミハヤは特別、自分のことを嫌っているようだった。いつも、山岸や海野と話していると感じる嫌悪の視線。わけもわからず、ただ怯えた。
ミハヤの兄、貴一のことは、二年前に聞いて知っていた。何でも要領よくこなして、勉強は自分のほうができるけど、兄は人望が篤い。カリスマ性のようなものがある、と。
自分はいらない人間なのだと言った。左腕を切りつけて、泣き叫ぶように笑っていた彼に。
生まれ変わる意味で、『もう死んだ』と、言った。
あれは、間違いだった。きっと。
傘を閉じて靴箱を振り返ると、校内は恐ろしく静かだった。二時間目の途中だ。静かなのも、当然。
傘立てに傘を入れ、上履きに履き替えようとしたところで、彼は動きを止めた。
「……俺と勝負しろ、ドッペルゲンガー」
ミハヤの声が、聞こえたから。
*** ***
憎しみがあった。必要とされる人間が妬ましかった。羨ましかった。
常に両親が必要とする兄、必要とされないことに慣れてしまっていた自分。そして、そのことにすら気付かなかった自分が情けなかった。
桐林メルは切欠に過ぎない。隼人の中に押し込められていたもう一人の自分を、呼び覚ますためのタイマーだったのだ。
一時間目の途中、「隼人」が窓の外にいた。
休み時間に教室を出て、靴箱でまだ学校に来ていない雪深を待つ。昨日、狙われたのは雪深だった。あいつは知っていたのだ。雪深が、あの少女――いや、あの子だったことを。
そして、あの子が自分の中で、自分を殺してくれた特別な人であったことを。
だから先回りして待った。雪深が来るのを狙って「隼人」は来るに違いない。
先読みは当たりだった。二時間目を十五分ほど過ぎたところで、「隼人」が現れた。
「俺と勝負しろ、ドッペルゲンガー。」
腹は決まっていた。勝っても負けても、この「隼人」にもう誰も傷付けさせない。雪深も。海野も山岸も。
「隼人」はにやにやしながら黙っていた。隼人を通り越して、何かを見ているようだった。
何か。気配は、今のところない。誰もここにはいないはずだ。
黙っている「隼人」の視線は一点で止まっている。背後。酷く希薄な気配と、息を呑む声。
……まさか!
そう思った時、眼前に「隼人」の顔があった。首に冷たい手がかかって、息がかかるほど近くに、彼は詰め寄っていた。
「あかん!」
雪深の声がした。そして。
白い傘が。
隼人と「隼人」の間に割り込んで、パンッと勢い良く開いた。
「あかんっ、ミハヤはもう一遍死んでるんだから、もう二度と死んじゃだめだっ」
突然の割り込みで、もう一人の隼人がぎょっとしたように身を引いた。締め付けられた首を開放されて、げほげほと咳き込む。
にやり、と「隼人」が笑った。
「へえ……庇うんだ?俺が生まれたのは、お前のせいなんだぜ。一度死んだこいつに、また命を吹き込んだのはお前なんだぜ?」
「わかってる……、でもっ」
雪深は開いた傘を閉じて、剣道でするような型を取った。
「俺はミハヤにもう一度生きてもらうために、一遍死なせたんだ。それに……」
「隼人」の顔色が変わった。
「お前、……死んでる?」
「隼人」が言った。
「なんだ、お前も死んでたんだ。あはは、狙って損したなぁ。」
不気味な笑みを貼り付けたまま、「隼人」は雪深と対峙している。本物の隼人は、雪深の後ろで三組の靴箱に背中をつけて、動けないでいた。
「うん。……俺はもう、一度死んだ人間だから。……ミハヤと違って、本当に、一度死んだ人間だから。怖くない。」
「隼人」の顔から不気味な笑みが消えた。と、同時に、雪深が傘の先端を剣のように彼に向かって突き出していた。
すんでのところでかわす。「はははっ、雪深ぃ、おまえバカだぜ!俺を刺したらそいつも死ぬ!」
げらげらと笑う「隼人」。そして、二人の戦いを見つめる隼人。
どくん、と血液が逆流した。
「いき、たい」
「え?何だって、隼人ぉ。最後の言葉、言ってやれよ!コイツ、お前のことを俺ごと殺そうとしてやがる!はははっ!!」
――もったいない。おかあさんは、もったいない。
耳の奥に蘇る言葉。雪深がかけてくれた、優しい言葉が。
『死ぬため』ではなくて、『再生するため』だったなら。
「雪深っ!俺は!」
銀色の瞳が一瞬、隼人を捉えた。
「生きたい!もう一度、ここからっ……兄貴が帰ってきても!俺の、ミハヤのまま、生きて行きたい!!」
そうだ。ずっと、生きたかったんだ。
だから、こんなに羨ましがって。大切なものがなくなってしまうのが怖くて。
生きていたんだ。今までだって。死んだと思っていた、あの日からも。
再生、していたんだ。
「そうだ」
雪深が言った。
「生きたいと願え!こいつは、お前の過去ごと俺が持っていってやる!」
どすっ。
白い傘の、先端が。
「隼人」の胸を、貫いた。
そして、「隼人」から漏れる光。幾筋もの光が、「隼人」から隼人に。
流星のように、還ってきた。
がくんと雪深が膝をついた。
「雪深っ!」
「堪忍な……」
小さく呟いて。
彼は、駆け寄った隼人の胸に、倒れこんだ。
*** ***
憎悪。妬みや嫉み、羨望。
人間だから、そんな物を持っているのは、当然のこと。
そんなことに気付かないでいたのは、俺が潔癖すぎたからだ。
俺は、勝手に誰からも必要とされてないと思い込んで、勝手に自分を貶めた。
そのツケが、今、まわってきたんだ。山岸も海野も、近くにずっといてくれたのに。
雪深が守ってくれた。小さな体で。
倒れた体は高熱を発していて、保健室に運んだら即効で救急車が呼ばれた。肺炎を起こしていた身で「俺」と戦っていたなんて、凄いヤツ。
最後の「堪忍な」が、雪深の必死さを物語っていた。
雪深は病院に三日ほど入院することになって、山岸と海野と三人で、今、病室への廊下を揃って歩いている。
「俺、この病院、前に一回来てるんだ」
「え、マジ?」
「うん。そんで、……雪深にそん時、会ってた。なのに、気付かなかった。」
海野が俺の肩を軽く叩いた。
「仕方ない。だって、雪は学校で目を隠してるもん。わかんなくて仕方ないって、前言ってた。」
俺が驚くと、二人は笑っていた。
「あたしたちね、雪から少しだけ、話し聞いてたんだ。大分はしょられてるんだろうけど、あんたと会ったことがあるって。でも、あんたは気付いていないって言ってたから、そういう事かって今思った。」
「……ああ。そういう事さ。」
笑って。
病室のドアを開けたら、今日は銀色の瞳を隠していない雪深が、俺たちを出迎えた。
「来てくれたんだ」
相変わらずの無表情。でも、この無表情の裏に、たくさんの感情が隠されていることを俺たちは知っている。
溢れるほどの優しさがあることも。
あ、と雪深が呟いて、ベッド脇のテーブルの抽斗からある物を取り出した。
「これ」
……雪深が俺のカッターナイフをもぎ取った時に、出血したのを応急処置した、あのハンカチ。
「なによ、それ?」
「秘密。」
「んだよぉミハヤ!教えろよ!」
「じゃあ雪、教えてよ。それ何?」
海野の問いに雪深もしらばっくれて、しばらく海山コンビはぎゃあぎゃあ言ってた。ジュースを買いに行かせるという名目で二人を追い払って、少しだけ二人きりになった。
「……あの時」
「二年前か?」
雪深は頷いて、続けた。
「俺のせいで、ミハヤは自分が一度死んだ、って思った。でも」
わかってるんだ。だから、俺はそれ以上をヤツに言わせなかった。
「もう一度、やり直そうぜ。あの二年前の日から、今度は改めて自己紹介して」
そう、互いに名前も言わずにいたから、こんなにややこしくなったんだ。
「俺、美坂隼人。あだ名はミハヤ。桐林学院に幼稚舎から通ってて、中等部から剣道やってる。お前は?」
雪深は目を丸くして、それからほんの少し首を傾げた。
「……雪深、紅葉。俺も、剣道……部活入ってないけど、やってる。あと、霊能者」
「は?」
レーノーシャ?
「こういうの……専門家なんだ。親戚みんなこういう仕事やってる。だから、山岸と海野が前に巻き込まれた時、助けて。……で、霊能者ってバレた」
「あー……」
だから、リコン病とかハクリコンとか、専門用語に詳しかったのか。
納得したところで、山岸と海野が帰ってきた。ジュースの他に菓子も買ってきたらしい。
「……一応病室だから静かにしろ。」
「いーじゃん個室なんだし!盛り上がろうぜっ」
押し切られて言葉を失っている雪深の顔を見ながら、こいつらとこれから面白おかしくやっていくのも悪くない、と思った。
兄貴が帰ってきても。多分、もう一人の「隼人」は、現れない。
もう、負けない。
俺は生まれ変わったのだから。
―― 終 ――