死神のルーレット
神月蒼
1
白くて眩しい光が、視界一杯に広がる。
闇を切り裂いた閃光と重なって、耳の奥までえぐるような甲高い音、そして鈍い痛みが全身を走る。
一瞬、のち。
世界が反転して、意識が遠のいていく。
目が覚めると見覚えのない和室にいて、周囲には黒い服を着て沈痛な表情を浮かべた家族、親戚、友人たちがいる。
正面に大きな写真たて。
微笑んでいるのは、まぎれもなく自分自身。
ああ、わたし、もうここにはいられないんだ。
驚きとか、哀しみとか、あってもいいはずなのに。
何も感じない。ただ、事実だけが目の前にあった。
ひとつだけ、不思議に思う。
――わたしの半身は、どこにいるのだろう?
いくら探しても、彼女だけが見つからない。
誰にも見えない手を伸ばして、彼女を呼ぶ。呼び続ける。
探して部屋を出ると、外は真っ暗で何も見えなかった。
手探りで歩いていくと、唐突に一筋の光が射す。
走る。
光を抜けると、白い毛皮に黄金色の瞳の猫が一匹、座っていた。
しっぽをぴんとあげて、こちらを見上げている。
一緒においで、と言われている気がした。
彼は音もなく立ち上がり、歩き始める。
――待って。置いていかないで。
叫ぶと同時に目が覚める。
緑色の遮光カーテン、ぎっちりと中身の詰め込まれた本棚、古びた木の電気傘。黄色いチェックのシーツにくるまっていることを、改めて確認する。
帰宅してベッドにもぐりこんでから、まだ二時間と経っていない。
こんな不吉な夢を見るのは、きっと自分が不安だからに違いない。
森下あかりはつぶやく。
こんな夢、現実になんてなりっこない。
実際に交通事故に遭ったのは、あかりではなく双子の妹ひかりのほうで。
ふた月、意識が戻らず病院のベッドでチューブに繋がれたままだ。
死んだりなんかしない。ひかりは、絶対に死なない。
本来ならばとうに意識が戻っているはずなのに、いつまでも目を覚まさない妹。
どうしてこんなことに、と何度も壁を叩き、泣き喚いても、ひかりは眠ったままだ。
右足のギプスは取れ、頭の包帯も来週取れるのに。
呼吸も脈拍もしっかりしている。医者は首をひねるばかりだ。
――全部、悪い夢だったら良いのに……。
あかりは目を閉じる。しばらくは寝返りばかり打っていたが、一時間後には再び眠りの世界の住人になっていた。
ダイニングカフェ蘭蝶は、東京都内の小さな雑居ビルにある。ビルは一階から三階までは居酒屋にキャバクラなどの飲食店、四階から上は居住区である。蘭蝶は二階の奥にあって、昼は喫茶店、夜はダイニングバーとして営業していた。
「あかりさん、今日は妹さんのところ行かれるんですかぁ?」
甘ったるい声で後輩に話しかけられ、森下あかりは顔をあげた。おしぼりの巻きなおしをしている最中だった。
「五時までにあがれれば。」
後輩は灰皿を拭いている。
ランチタイムも間もなく終わる、午後二時四十五分。新規の入店はゼロに等しい。
「このままならあがれますよぅ。心配しないで妹さんのお見舞い行ってあげてくださいー」
「ありがとう」と言っておしぼりの束を保温器に仕舞う。
あかりは二十五歳にしてランチタイムのフロントチーフを引き受け、バータイムはバーテンダーとして修行している。アルバイトでありながら、すでに在勤五年目の古株である。
もっともこのひと月は、ほとんどバータイムに出勤していない。双子の妹、ひかりが事故に遭って以来二ヶ月も眠り続けているからだ。
「あ、雨ですよう。傘ありますぅ?」
後輩が言いながらコーヒーメーカーにポットをセットする。
大通りに面した大きな窓に、ぽつぽつと水滴が付き始めて、はるか上空に白い光が走った。
「持っていないけどたぶん平気。駅まで走ってあとはバスだし」
窓の外を見やって、あかりはふと動きを止めた。
向かいのコンビニの前に、一匹の白い猫がいる。長いしっぽをゆらゆらさせながら、まるでこちらを見つめるかのように、じっと座っているのだ。
「ねえ、まいちゃん。」
「なんですかぁ?」
「あの猫、またいるよ。」
「……あかりさん、すっかりなつかれちゃいましたねぇ。猫の恩返しとかあるかもしれませんよぉ」
からかうように言われて、あかりは憮然と窓の外に目をやった。
捨てられたのか逃げてきたのか、どちらかはわからないが、その猫は数日前から出没するようになった。ゴミを出しに行くと必ず現れるので、なんとなく残り物を与えていたのだが、この二、三日はよく正面のコンビニ前でああしているのだ。
「あかりちゃーん、六卓さんデザート出るよー」
「はーい、ただいまー」
恩返しなら、ひかりの目を覚ましてくれればいいなあ。
そう思ったが、口にはせずにパントリーに入ったあかりだった。
2
Cafe時空館。
木彫りの小さな看板を持ち上げて、矢南(しなん)はカウンターの奥でかがんでいる男に言った。
「スミトモさん、これ本気だったんですか?」
ここは運命管理局、裏庭のはずれにある一軒家の中である。
「冗談だったんですけどねえ。まさか実現するなんて思わなかったものですから……」
男は立ち上がると、スーツの裾を何度か払った。埃がついて白くなっている。
呆れ顔で矢南は指摘した。
「なんというか、掃除にスーツって不向きですよね。」
「楽なものですから。制服で来るあなたも負けていないと思いますがね。」
眼鏡を直しつつスミトモは言う。髪を見事な七三分けにして、真面目なサラリーマン然とした雰囲気が漂っている。
矢南は自分の着ている服の裾をつまんで持ち上げた。
「ああ、これ。さっき転生課に顔出さなきゃいけなかったんで、仕方なく着てきたんですよ。スミトモさんもたまには着たらどうです?制服を絶対に着用しない時空管理官って、最近有名ですよ。」
白いローブに紅色の玉環。銀髪紫眼の矢南が着ると、どこか天使めいた風体になる。
「わたしはこれが楽なので。それにしても、矢南のその格好は詐欺ですねえ。間違っても死神には見えませんよ。」
「……まあ、否定はしませんが。」
運命管理官、天界での通称は『死神』。
エリート中のエリートでありながら、天界一評判の悪い職業である。
イメージが悪いわりには毎年多くの応募があるのだが、万単位の志願者の中から、一次書類審査で千五百人に、それに続く二次審査三次審査で十人前後までふるい落とされる。最終的に、合格者は多くて九人、少ないときはゼロという厳しさだ。
「ところで、晦(みそか)にルーレットを持たせたとか」
「おや、さすがは矢南、耳が早いですね。それじゃあ今回呼び出された理由もお気づきで?」
十中八九、手伝いを任じられるんだろうな、と思っていたのだ。
運命管理官の中でも特にランクが上の時空管理官。スーツに七三眼鏡のこの青年は、その気になれば大抵の管理官を顎で使える。
「嫌なら嫌と言ってくださってかまいませんが、どうします?」
命令一つで嫌と言わせないこともできるはずなのに、それを絶対にしないスミトモの姿勢が、矢南はけっこう好きだ。
死神としては散々「できそこない」と言われている矢南なのだが、不思議とこの真面目な先輩とは馬が合う。彼のほうもわりと矢南を気に入っているようで、ことあるごとに呼びつけるのである。
「光栄ですよ。しかし、あの子にルーレットはまだ早いんじゃないですか?」
「そうですねえ。でも、運命管理官になった以上、いずれは通る道ですから」
冷静な声のわりには、沈んだ表情で彼は言った。それは、ほとんどつぶやきに近かった。
「晦が行って、もう一週間くらい経つのだがね」
髪の長い少女――木音は言う。
なまじ綺麗な顔をしているだけに、不機嫌な表情だと剣呑な雰囲気がある。
運命管理局の東南にある温室の一角で、矢南と彼女は白いテーブルに向き合って座っていた。卓上には写真や書類が散乱しており、それなりの地位にある二人の忙しさを物語るようである。
木音が書類の一部を読み上げる。
「名前は森下あかり。いま二十五歳、独身だ。一卵性双生児の妹がいて、そっちは宮園ひかり。」
「宮園?結婚してるのか?」
書類をめくりながら訊ねると、しばらく沈黙した後、妙な質問が返ってきた。
「おまえ、『二人のロッテ』という児童文学書を読んだことがあるか?」
「えーと、ドイツの?エーリヒ・ケストナーだったか。」
たしか、両親の離婚で離れていた双子の姉妹が、偶然夏休みの学校で再会する物語だ。
運命管理で下界の小学校に行った時、一度読んだ。
そう言うと、木音は不機嫌な顔のまま続けた。
「日本版ふたりのロッテ、という感じだな。両親は二人が一歳で離婚、中学二年のときに再会。で、今に至るわけだが、ひとつ違うのは……」
みなまで言わずともわかった。言い終える前に、矢南は彼女の言葉を引き取る。
「両親が再婚しなかった、てことか。」
「そうだ。で、ここから先が重要だな。この妹、ふた月前から入院中だ。」
写真の森下あかりは、顎までの髪にウェーブをかけて、くっきりした二重瞼が重そうな、わりと整った顔をしていた。
二十五歳というわりには、大人びた雰囲気がある。てっきりもっと年上かと思っていた。
「ひかりの写真は?」
「ない。その写真で髪が長いのを想像しろ。」
「ハイハイ。」
適当に返事してさらに書類をめくる。妹に関する事項はほぼ空白だ。
一通り書類に眼を通して、ひかりに関する記述がないと知り、しかたなく質問する。
「重要っていうのは?」
「病ではない、ということだ。」
コーヒーのカップに口をつけて、木音の眉が跳ね上がった。矢南も口をつけて、眉をひそめる。
なんというか、しみじみと不味いコーヒーだ。備え付けとはいえ、もう少しまともな味はないのだろうか。
「……病ではない、というと」
「車に撥ねられて全治二ヶ月。相手が心筋梗塞で、避けられない事故だったんじゃないか?」
運命管理官が避けられないと言うのも奇妙だが、事実彼女は眠っているのだから、避けようがなかったのだろう。
それにしても、二ヶ月意識不明とは。
「意識が戻る予定は?」
木音は肩をすくめた。
「さあな。本来ならばとうに戻っているはずだ。」
人間の運命なんてわからないものである。
結局神様っていないんだなぁ、と不味いコーヒーに口を付けながら考える矢南だった。
3
あかりは、ずっと父と二人で生活していた。母は死んだと聞かされていたが、それまで墓参りをしたこともなければ、仏壇に写真も位牌も置いていなかった。奇妙といえば奇妙だが、ひかりに会うまで、それを本気で信じていたのだ。
出会いは中学二年の春。
困惑顔の教師たちに呼び出されて、何かと思って向かった職員室。そこに、ひかりがいた。
『あたしはママと暮らしてるの。』
素敵な偶然だが、やはり現実はそう甘くない。
父と母は、「二人のロッテ」のロッテとルイーゼの両親のように再婚もしなかったし、あかりとひかりも一緒に暮らしたいとは言わなかった。
両親がよりを戻すことを考えなかったあたり、二人は非常に冷静だった。
十年来の親友は、「姉妹揃ってさめている。現実的過ぎてたまに怖い」と言う。
べつに、まったく望んでいなかったわけではない。できれば父と母には一緒にいてほしかったし、自分たちも一緒に暮らしたかった。ただ、自分たちのわがままがどこまで通じるか、二人ともよくわかっていただけである。
ひかりはよく笑い、よく泣き、よく怒った。口の悪さは天下一品で、喧嘩っ早くて手も早い。口癖は「ばーか」である。
大した妹だが、あかりにとってはたった一人の大切な妹だ。幸せになってほしいし、なるのだとずっと信じて疑わなかった。
蛍光灯の冴えた光が、意識のない彼女の顔を照らしている。
蒼褪めて、ぴくりとも動かない体。体のいたるところに巻かれた包帯が痛々しい。
一階の売店に行くと、近くのソファーに父が座っていた。
「お父さん」
呼びかけると、父は顔をめぐらせてあかりを見た。ぼんやりとしていたようだ。
「おお、あかり。来てたのか」
「お母さんは?」
「ああ、夜勤でな。今日は来れないんだ。」
二ヶ月の間に、すっかり仲が良くなった父と母。ひかりが起きていたらさぞ喜んだだろう。
家族四人がそろうことを、誰よりも望んでいたのは、おそらくひかりなのだから。
「いつのまにか、すっかり夫婦ね」
あかりが笑うと、父は弱気な笑みを浮かべた。早いうちにそうなっていれば、と思ったのかもしれない。何しろ、ひかりが撥ねられたのは、あかりと父が住むマンションに来る途中だったのだから。
「お母さん、忙しそうね。」
あかりが言うと、父は小さく頷いた。
「本当は、少し休んでほしいんだが」
意識の戻らない娘を見ているのが、辛いのだろう。母は以前にもまして忙しく働いている。
「……あの子、起きるわよね」
売店で買ったばかりのパンを握りしめて、あかりは呟いた。
父は何も言わなかった。
晦(みそか)が下界に来て、もう八日が経過している。
父と娘の会話を背中越しに聞きながら、彼はココアの缶を弄んでいた。
運命のルーレットを使い、森下あかりの未来を変えること。そう命じられはしたものの、どうやって運命を変えたものか、まるで見当が付かないのだ。
蘭蝶で働く彼女を見張り、病院に見舞う彼女を見張り。
ちょっと息抜きに傍を離れたら、今度は偶然あかりの父の後ろに座ってしまった。
どうしよう、話しかけるわけにもいかないし……。
途方に暮れていると、ココアがつるりと手から落ちた。
「あっ」
かららん。思った以上に大きな音をたてて、床に落ちる。
背中合わせに座っていた二人が、音でこちらを見た。
あかりがすぐに立ち上がって、ココアを拾う。人間の姿で、真正面からあかりの顔を見るのは、これが初めてだ。
「ぼく、大丈夫?」
幸いココアの蓋はまだ開けていなかったので、床を汚すことはなかった。
ぼくと呼ばれたことに抵抗を感じたが、受け取ってから、自分が人間としては小学生くらいの姿であることを思い出す。
「あ、ありがとう。」
「どういたしまして。」
何も知らない笑顔が、晦の心を締め付ける。一週間見つめてきて、あかりの優しいところをたくさん知ってしまった。
自分がずっと見ていたなんてこと、彼女は知らない。そう思うと、なんだか後ろめたい気持ちになった。
「まだ小学生かな?ご家族が入院されているのかね?」
父親に話しかけられて、口ごもる。言い訳を考えていない。
とっさに浮かんだのは、いつも不必要なくらい笑顔の、運命管理官の先輩だった。
「お、お兄ちゃんが」
お兄ちゃん!あの、出来損ないと有名な死神が?ただの変人なのに!
ありえない、と思っても、言ってしまったものは仕方がない。
「そうか、それは大変だねえ。」
灯の父の大きな手が、晦の頭を撫でた。
温かくて、がっしりとしていて、なにより優しくて。
唐突に、晦は自分が泣いていることを悟った。
何が悲しいのか。
きっと、この優しい親子を、再び悲嘆の底に突き落とさなくてはならないから。
「あらあら、我慢してきたのね……。えらいわね、さ、涙を拭いて……」
あかりがハンカチで涙を拭き取ってくれた。
背中をゆるやかにたたく彼女の手は、慈愛に満ちていてた。
信じられない。
この優しいひとが、持って十年の命だなんて。
そして、なんと言うことだろう。
自分は他でもない、彼女にそれを突きつける死神なのだ。
ルーレットは、寿命が十年以内の人間にしか回せない。しかも、回せる回数は一度限りと決まっている。
晦の持ってきたルーレットは、二十六から三十五までの九つの数字が載っていた。年齢を考えても、回せるのはあかりだけのはずだ。
あかりは死に、ひかりは眼を覚まさない。
そんな不幸、あっていいんだろうか。
*** ***
ひかりは夢を見ていた。
どこまでもどこまでも続く一本道の先に、一軒の家がある。
他にどこに行くわけでもないので、ひかりは仕方なく、その小さな家に向かって歩いていく。
ドアの前に立つと、取っ手に小さな看板がかかっていることに気付いた。
Cafe時空館。
ガラス戸の向こうに人影が見える。
取っ手に手をかけた瞬間、中の人影が近寄ってきて、ひかりよりも早くドアを開けた。
「おかえ――」
暗闇に輝く銀の髪に、まるでアメジストのような紫の瞳。
ドアをいち早く開けた青年は、ぽかんと口を開けたまま、ひかりを指差した。
「森下――あかりさん?」
「……あかりは姉だけど」
夢の中でさえ間違われるのか。一卵性双生児とはいえ、中学で再会して以来、間違われることの多さといったらない。時々うんざりしてしまう。
「まいったなぁ。開店もしてないのに繋がっちゃうなんて……あ、とりあえず中へどうぞ。それにしてもひかりさん、どうやってここに来たんです?」
名前を呼ばれたので、ひかりはほんの少し気を直した。
「あたしのこと、知ってんだ。」
「ええ、まあ。」
青年はひかりよりも少し年下に見える。二十三歳くらいだろうか。
家の中をぐるりと見回す。どうやら喫茶店らしく、正面にパーテーションの付いたカウンターが五席、玄関の左右にあるフランス窓に面して二人がけのテーブルが二つずつ、置いてあった。
「ここ、どこ?」
「天界運命管理局の、裏庭です。」
「はぁ?」
思わず背後のドアを振り返ると、あら不思議。ドアの向こうも窓の向こうも、鬱蒼とした緑が繁っている。真っ暗だった道はどこにもなく、白く霞んだ空が上に覗いていた。
「ここ、どこよ」
「……天界運命管理局の、裏庭です」
同じ問答を繰り返して、二人は互いの顔を見る。
青年は嘘をついているように見えない。それどころか、本気で困っているようだった。
「あんた誰なの?あかりのダチ?」
日本人には間違っても見えないし、服装もずいぶん変わっている。床までひきずるくらいの長さの真っ白なローブで、腰のところに紅くて丸い宝石のようなものがついているのだ。
「ええと、運命管理官、俗に死神とか呼ばれている者です。私は矢南。あなたのお姉さんは資料に写真があったので」
「死神ぃ?」
いよいよ胡散臭い。しかし、矢南はひとつも嘘を言っていないのだ。
ひかりは怪訝な顔で青年を見る。外見だけならむしろ天使と言ったほうが似合いそうな彼が、死神と言うのもどこか胡散臭い。
奥のドアが開いて、大きなダンボールが現れた。ぎょっとしたひかりに気付く様子もなく、ダンボールが喋った。
「矢南、さっさと終わらせて行きますよ!」
「行かなくてもいいかもしれませんよ。」
矢南は振り返りもせずに言い返す。
ダンボールが怪訝な声を出した。
「なに言ってるんです?」
「ひかりさんがご来店です。」
短い間があって、もう一度ダンボールが聞き返した。
「……なに言ってるんです?」
カウンターにダンボールが積み上げられて、後ろから七三眼鏡でスーツの男が顔を出した。
視線がひかりの顔で止まる。
「宮園ひかりさん……?」
さっきの矢南とまったく同じ表情で、男は呟いた。
夢にしてはずいぶんリアルだ、とひかりは思った。
4
泣きすぎて目がごろごろする。あかりと父に会ってから、三時間ほどが経過していた。もうすっかり夜だ。
目をこすりながら、晦は洗面所をあとにした。
顔を見られてしまった以上、これ以上小学生の姿でいるわけにはいかない。
とりあえず姿を変えることにして、それからどうしようか。
あかりに渡されたハンカチを握りしめて、彼はどんよりと背中を壁に預けた。
「どうしろって、言うんだよ」
「どうするの?」
独り言に、返事が返ってきた。
「…………え。」
顔をあげると、角からのぞく顔がある。十五歳くらいの、銀髪銀目の美しい目鼻立ちの少年である。
「え、え?」
戸惑う晦に向かって、少年はにっこりと笑いかけた。
つられて笑い返してから、はたと気付く。
「だ、だれ?」
はちきれんばかりの笑顔を見せて、彼はくるりと踵を返した。非常階段に向かって小走りに駆けていく。
「待って!」
動物の本能だろうか。晦はとっさに彼を追っていた。
非常階段を駆け上る音。一階から四階の踊り場まで休まず駆け上った彼は、五階フロアに少年が消えたのを見た。
息を切らして五階フロアに飛び出す。
入院病棟に続く渡り廊下を、銀髪の後ろ姿がゆったりと歩いて角を曲がって行く。
「廊下は走らないでください!」
駆け抜けざまに看護師に叱られて、「はいっごめんなさい!」と謝りながら後を追う。一瞬看護師に気がそれたせいで、少年を見失ってしまった。
どこに行ったのだろう。
あたりを見回しながら歩いていく。中庭に面した窓の向こうに、雷が走るのを見た。
「あ、雨……」
小さな水滴がガラスに当たって砕けていく。今日何度目の雨だろうか。
「ちょっと電話してくるわ。」
聞き覚えのある声がした。
振り返った晦の前に、見たばかりの女が出てくる。
「あら、さっきの」
彼女の出てきた病室の表札は、512号室、宮園――。
あかりだった。
自然と足が動いて、晦は彼女に近づいた。
「君のお兄さんもこの階なの?」
声もなく首をふると、彼女は「そう」と言って外を見やる。暗い廊下で、あかりの表情はいつも以上に陰を感じさせた。
「私は妹がここにいるの。」
「妹、さん……」
宮園ひかり。
本当ならもう目を覚ましても良いはずなのに、いつまでも目覚めない彼女。
「眠っているだけなんだけどね。双子なのよ」
晦はまだひかりの顔を見たことがない。ついでに言えば、双子もあまり見たことがなかった。
「顔、似てる?」
「そうね。一卵性双生児だから、同じ顔があるみたい。」
あかりと同じ顔。ぼんやりと彼女の顔を見つめる。
「会って、みたい」
口に出してから、しまったと思った。
ひかりに会ってどうするというのか。大体見も知らぬ自分が突然会いたいなんて、あかりだって気分を害するに違いない。
失言のあまり内心パニックでいると、あかりはぷっと吹き出した。
「そうね、新しいお友達が来たら、あの子も目を覚ますかしら。会ってやってくれる?」
予想外の言葉。
呆然としている晦の手を、彼女が引っ張った。あたたかい掌だ。
「きみ、名前は?」
「み、晦。」
「へえ、めずらしい名前なのね。」
興味を持ったようなので、晦は少し嬉しくなった。
「月の名前なんだって。あ――お姉ちゃん、は?」
「あかりよ。森下あかり。妹はひかりって言うの。」
病室の窓際には父が座っていて、晦を見ると彼も驚いてから微笑んだ。
初めて見るひかりの顔は、なるほどあかりとそっくり同じだ。
ただ、ひかりの顔は青白く、頬がこけて唇が乾いている。腕も細くなり、血管が浮いて見えていた。
電話は終わったのかい、と父に聞かれ、あかりは改めて部屋を出て行った。
雨の音がとても大きく聴こえる。
こんなに同じ顔で、辛くないはずがない――。
細い指を胸の上で組んだまま、ひかりはびくともしない。死んだように眠り続ける彼女の姿は、まるであかりの未来を見せ付けるように見える。
ルーレットに示された数字は、二十六から三十五までの九つ。遠くない未来、こうして手を組んで横たわるのは、ひかりではなくあかりなのだ。
「そっくりだろう?中学のときは、二人ともちょうど髪の長さが同じでね……入れ替わって、担がれたこともあった。あかりが本を読んで思いついたらしいのだがね……。」
父親の言葉を聞いて思い出した。下界に降りるとき、木音が言ったことだ。
「二人のロッテ?」
「そう、それだ。」
ロッテと言うには二人ともお転婆が過ぎる、と木音は言ったのだった。
「……どんな話し、だっけ」
本当は内容なんて知らない。けれど、なんとなく黙っているのも妙で、晦は必死に話を繋げようと努力した。
「両親の離婚で離れ離れになった双子が、夏休みに訪れた子供の家でばったり再会するのさ。誕生日に両親をそろえたくて、二人は夏休みが終わったとき、入れ替わってそれぞれの家に行くんだ。でも、二人はなにしろ性格が正反対で、行く先々で問題を起こすんだよ。」
あかりとひかりも正反対なのだろうか。
じっと見つめていると、彼は察したように「ああ」と言った。
「二人とも、ロッテのように大人しい性格ではないなあ」
弱々しい微笑みが、晦の胸に染みた。
翌朝、一階フロアでぼんやりしてると、ぽんと肩を叩かれた。
「おはよ、晦くん。君も泊まり?」
冷たいココアを晦に渡し、自分はコーヒーのプルトップを引く。
朝日の中で、あかりの顔色はずいぶん悪く見えた。昨日もそうだったが、眼の下のくまがひどい。
きちんと寝ているのか聞こうとして、やめた。死神の自分があかりの心配をするのは、筋違いのような気がしたのだ。
「あら、それなあに?ルーレット?」
言われてハッと気付く。ルーレットを抱えたままだったのだ。
慌てて隠そうとする晦の腕を、彼女が捕まえた。
「いいじゃない、隠さなくても。……あら、かわったルーレットなのね。」
白い円盤に金色の数字。数字は常に九つしか存在しない。
このルーレットは、標的に回させることで任務を完了する。
あかりにルーレットを回させることができれば、それで晦の任務は終わるのだ。
「ねえ、回してみてもいい?」
あかりの手がルーレットにかかる。瞬間、晦は慌ててルーレットを抱え込んだ。
「まだダメ!」
この道具を使うには、冷酷でなければ務まらない。先輩たちのそんな話を思い出していた。
晦は自分が優しいとは思わないし、今まではどんな残酷な未来でも決定してきたつもりだ。それが、この程度の任務で思い切りがつかないなんて、どうしたことだろう。
「……ぼく、あかりさんに死んでほしくない」
予想外の言葉が口から漏れた。
「……やだ、いきなりなに言うの?」
あかりの笑顔が凍りつく。
晦は突然確信した。あかりは、ひかりさえ助かるなら、自分の命もいらないと思っている。
未来の見えざる手が自分に迫っていることに、無意識ながら気付いているのではないか。
「あかりさん、ぼくは、ぼくはね」
心臓が早鐘のようだった。
言わなくてもいいことを、言おうとしている。
ルーレットを握る手に力がこもる。
頬を生暖かいものが伝って、膝に落ちた。
あかりの笑顔から硬さが消えた。
「また、泣くのね。」
「だって……」
猫の姿で、蘭蝶で働くあかりを見ていた。あかりの手から食べ物をもらい、頭を撫でてもらった。
人間の、少年の姿で病院に入り込み。両親と会話し、妹を心配する彼女を見て。
芽生えた感情は、何だったのか。
――運命管理官になった以上は、誰もが通る道です。
ルーレットを渡すとき、時空管理官はそう言った。
命を扱う、その重さをよく知らなければならない。
たとえばその相手が、どんなに自分にとって大切であろうとも、定められた運命の前にはすべて平等でなければならない。
「ぼくは死神だから……」
ルーレット使用時の絶対条件。
運命管理官は、標的に対し自分の身元を明らかにし、目的を明らかにしたうえで、ルーレットを回すように命じなければならない。
「これをまわしたら、あなたの寿命が決まっちゃう」
管理官の先輩たちは、晦がルーレットを使うと聞くと、同情の眼差しを向けた。
たいしたことないと思っていた。
ルーレットを回させるだけ。ただ、それだけだと。
5
眼が覚めると、そこは病院のベッドだった。
ついさっきまで、運命管理局とかいう不思議な庭の一軒家にいたのに、本当に夢だったのだろうか。
ひかりはゆっくりと体を起こすと、自分の全身を確かめた。
頭にも足にも包帯が巻かれ、腕には点滴の針が刺さっている。立ち上がろうとすると、力が入らなくて難儀した。
二ヶ月も眠っていたのだ。体が動かなくても無理はない。
「だあっこんちくしょー!」
腹立ちまぎれに怒鳴ると、誰かが後ろで噴出した。振り向くと、矢南が病室の入り口に立っている。
「笑うな!んなヒマあったら手伝ってよ!」
「ごめんごめん。」
言いながら彼がひかりの手をひくと、全身のだるさがやや軽減した。
「ナースステーション通ったら、看護婦さん驚くだろうな。いっそ窓から出るかい?」
それは良い提案のように思えた。
あかり達は一階フロアから屋上へと移動している。この病室からだと、八階までエレベーターで行き、そこから階段になってしまうのだ。いまのひかりでは、屋上まで辿り付けるかどうか、怪しいものだ。
ひかりが頷くと、矢南は窓を開けて身を乗り出した。軽妙な動作で柵の上に乗り、ひかりの体を持ち上げる。
「ちょっと怖いかもしれないけど、我慢してね。」
言うなり、矢南の背中が音をたてて割れた。大きな白い鳥の翼が、朝日の中にあらわれる。
「……まるで天使ね。」
大抵のことにはもう驚かない。何しろ、ひかりは間違って天界まで行ってしまったのだ。目の前のこの美しい青年が、死神であろうと天使であろうと、どちらでも構わないのである。
「白い翼は、運命管理官でもめずらしいんだよ。わたしも自分以外は二人しか見たことがない。」
「あの晦って子は?」
「さあ。いつも抱いて来てたから」
「抱いて?」
「基本仕様が猫なんだ。」
猫。
背中に翼の生えた猫を想像して、なにか妙な気分になった。
矢南の首に腕をまわすと、二度三度と翼を大きくはためかせて、彼は柵を蹴った。
強風がひかりの顔を叩いて、思わず眼を閉じた。風が緩やかになって眼を開けると、眼下にバス停と車止め、公園のような緑の敷地が広がっていた。
「うわ、高……!」
うわずった声が漏れて、ひかりは腕に力をこめる。落ちたら間違いなくあの世行きだ。
お姫様抱っこで空を飛んで、あげくの果てに落ちて死ぬなんて末代までの笑い話になりそうだ。そんなことを思っていると、矢南がひかりの心を読んだように言った。
「間違っても落とさないから、大丈夫だよ。」
「死神が心を読めるなんて知らなかった。」
「……それは私も知らなかったな。」
人間なら誰でも、高いところに行けば落ちると思うのが普通だろう。そう言われて、なるほどと納得する。
高さは徐々に増していき、三十秒も経たないうちに二人は屋上に辿りついた。
給水塔の横に着地する。
矢南の腕から離れて、ひかりはよろめきながら歩き出した。
二十メートルほど離れたところに、あかりと晦の姿がある。二人は柵の向こうを眺めながら話していて、ひかりが来たことに気付く様子はない。
「……あたしはいつ死んだってかまわないわ。だからひかりを助けてほしいの」
悟ったような口ぶりで、あかりは言う。ひかりはムッとしたが、黙って二人に近づいた。
あかりも晦も、背中をこちらに向けている。晦の手にルーレットがあるのを見て、ひかりは狩場のライオンのように目を細めた。
「前もって自分の寿命がわかるなら、覚悟もできるじゃない?きっと、悪いことだけじゃないはずよ。」
言いながらあかりの手がルーレットに伸びる。
晦が諦めたようにルーレットを差し出したのを、ひかりは見逃さなかった。
勢いをつけて飛びつく。
一秒後、ひかりは音を立てて二人の間に飛び込んでいた。
「取ったァ―――!!」
呆然とする晦と、驚いてひかりの名を呼ぶあかりと。
突っ込んで、ルーレットを奪った勢いそのまま、腕をふりあげる。
「晦!ひかりさんを止め……!」
「えっ、矢南!?」
時すでに遅し。
矢南の制止の声が飛んだ瞬間、ルーレットは屋上の床に叩きつけられていた。
「なぁーにが『覚悟もできる』だ!ざけんなばーか!人間なら人間らしく死ぬ直前まで足掻いとけ!いつ死んだってかまわないだぁ?ざけんなこのバカ、そんなんこっちも同じ気分なんだよ!!」
ほぼ一息に言い切って、ひかりは勝ち誇ったように笑った。
鮮やかな笑顔だった。
天界、運命管理局の裏庭にある一軒家の中。
テーブルの上で書類を広げて、木音は苦笑した。
「ルーレットは修復不可か。とんでもない娘がいたものだな。」
ルーレットをまわす、まわさないの二択しかないはずの選択肢を、ひかりは『壊す』という想定外の方法で回避したのだ。
「壊す、ねえ。考えてなかったけど、たしかにそういう道もあったよね。ひかりの言うこともよくわかるし。」
真面目な顔で矢南が言い、スミトモが苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そもそもルーレットが決定するのはあかりじゃなくてひかりのほうだった、なんて、今更言われても困りますよ。結局わからないことだらけですしね。」
そう、寿命が十年以内だったのは、あかりではなくひかりのほうだったのだ。
どちらにしろ、ひかりならルーレットは回さなかったろうな、と誰もが思ったが。
同じ頃、下界ではひかりと晦が蘭蝶を訪れていた。
夕方六時を過ぎると、蘭蝶はバータイムの営業になる。
ひかりに引っ張られて、晦は初めて人間の姿で蘭蝶の門をくぐった。今日は二十歳くらいの姿をしている。
「あかりのカクテルはうまいんだ。人間じゃないならちょっとくらいいけるだろ?」
「そりゃ人間じゃないけど……。もしかして大人で来いって、そういうこと?」
テーブルに着くと、シェイカーを振っているあかりの姿が見えた。
手を振ると、どうやら気付いたらしくこちらを見る。ぼろりとあかりの手からシェイカーがこぼれた。
「あれ、なにやってんだ?」
「……やっぱり来なかったほうが良かったんじゃない?ぼく、帰ろうかな」
耳まで真っ赤にして、あかりはぶちまけたカクテルを片付けている。
人間でないことがばれてから、晦はすっかり双子と仲良くなってしまった。ひかりにいたっては「晦とあたしは親友!」などと公言して憚らない。
初のルーレット破壊事件で、晦はしばらく謹慎の身だ。その間、双子の監視をするように命じられている。
「どっちにしろ、寿命決まっちゃうけど。ひかりは良いの?」
「あかりが幸せなら、あたしはいつ死んだっていい。」
「……ほんとに姉妹だね。よく似てる。」
運命なんて、わからない。
出会ったところであっという間に人間の寿命は来てしまうけれど、それでも関わって、生き様を見届けるのもひとつの道だ。
運命管理は辛い仕事だと言うけれど。
それでも、この仕事をしてきて良かったと思える出会いが、たしかにあると思うから。
いまは、ただ傍にいたい。
それだけを願って。
―― 終 ――