一週間の休みに
松浦由香
「今頃お昼?」
昼には十分遅くなったと話していたときだった。それも、取引相手の社長が、単なるわがままで急に出かけただの、居なくなっただのに振り回された結果だった。すでにイライラは頂点に達していたときに掛けられた言葉にむっとして顔を上げる。
オフィスのあるビルに一番近い喫茶店の店員。長い髪を後ろに縛っただけの、薄化粧の娘。
「悪かったな。それより、」
「はい、サンドイッチと、ハンバーグの特別メニュー。それに消化を助けるオレンジジュース」
と娘は机に置いた。
「気が利きますね、いつも」
そう言ったのは彼の秘書であり、無二の親友である江戸川だった。彼は秘書を上目遣いで睨む。
「今しっかり食べると、今日は大事な取引先とのディナーでしょ? 食べられないと大変じゃない? 一流商社さん?」
娘、リサはそう言ってカウンターの中に居る主人のもとへと行った。
彼が相当気に入らない顔でもしているのか、江戸川が小さく吹いた。
「なんだよ、」
「ん? 君はどうしてリサちゃんに敵意をむき出すのかなぁと思ってね」
江戸川が首を傾けて微笑んだ。
「敵意? そんなものはないが、でしゃばりな女は嫌いだと言うだけだ」
「でしゃばり? リサちゃんが?」
「じゃなきゃ、ただの世話好きだ」
彼がそう吐き捨てるのがよほど面白いのか、江戸川は再び笑った。
「確かに、この前は駅のホームにいたホームレスに弁当を差し入れていたしね、人がいいのもたいがいにしないと痛い目にあうだろうね」
江戸川はそう言って店主と話しているリサの方を見た。リサは口を開けて笑ったり、テレビを見て泣いたり、怒ったり忙しい。―喜怒哀楽の激しい女だ―
「あ、ちょっと出てくるね、」
「あぁ、」
リサは決まってこの時間、四時になる時間にどこかに出かける。ここ数日、毎日。
「それで、」
今度は彼が江戸川に首を傾けた。
「取り引き、あの社長を頷かせるのは厄介だぞ」
「そうだな」
「そろそろ、正体ばらしたら?」
「まだだめだ。前社長の一年が過ぎるまでは、」
彼はそう言って窓の外を見た。
会社に戻れば上司が取引先とのことを報告しろとうるさく怒鳴ってきた。愛想よく頷き、机に座る。ここに座っていられるのもあと数日だ。
そう思えばこの部署と別れるのも寂しい。上司は酷くうるさい男だが、間違ってはいない。アメとムチをしっかりと解っている。そしてそれを上手に使い分けている。こういう人がいることは会社にとってプラスだ。
「山田」
上司に言われて彼の机へといく。
「部署配置願い届けが受理された。一年なんてあっという間だったな」
彼には自分の正体を話していた。こうして引継ぎをしてもらわなければ、やりっぱなしではいけないだろうからと。そう、江戸川が言った言葉だ。
「あと数日ありますから」
山田 大介はそう言って自分の机に戻った。
山田 大介は家に戻った。一年ぶりだった。今までは安アパートで寝泊りしていたが、父親との約束で一年したら戻ってくると言う日が、今日だった。
「まぁ」
感嘆の声を上げたのは、山田 大介が子供の頃から世話を焼いてくれていた家政婦の鈴木 三重子だ。
「やぁ、みえさん。元気だったかい?」
「もちろんですよ、ぼっちゃん」
「ぼっちゃんという年じゃないって」
笑いながら山田 大介は一年ぶりに自室に入った。
自分の部屋の匂いだ。懐かしい。部屋は一年前と変わっていない。
六畳二間の安アパート生活から開放されていきなりこれは、落ち着かない。
「甲斐琉様?」
家政婦が首を傾げて後ろに立っていた。
「どうかしましたか? お掃除はいたしましたけれど、何も触っていませんですよ」
「解ってる。ただ、あまりに広い部屋だと思ってね」
「そうでしょうね、伺いましたわ。古い畳の、辛気臭いアパートだったとか、」
「途中入社社員が住むにはちょうどの物件だったよ。いや、少し贅沢だったかもしれないな」
山田 大介、いや、鏑木 甲斐琉はやっと「いつもの」ソファーに腰を下ろした。
「それで、もう暫くはこの貧乏スーツですか?」
甲斐琉は笑って、
「それはそれで機能的なんだよ。それより、お婆様が来ているようだけど、」
家政婦が少し口を尖らせた。何か面倒を持ち込んできたようだ。
父方の祖母は、今の会社の会長を兼任している。八十を越えてなお経営者としての手腕は確かだ。
「えぇ、会長はいらしてますよ」
「その言葉尻だと、なんか面倒ごとを持ち込んできたな?」
「甲斐琉様にとってのね」
「俺?」
家政婦は、自分からは言えないと下がっていった。
応接間に行けば、祖母と母が居て、甲斐琉が入ってきたのを大いに喜んだ顔で迎えた。
「何の面倒ごとですか?」
「まぁ、せっかく帰ってきたのだから、お座んなさい」
祖母はそう言って給仕にカップを見せた。
一年前まではこれが普通で、たいした環境だとは思わなかったが、一度家に出て、「カップヌードル」がご馳走だと言う生活を過ごすと、これが非常に贅沢に思えてくる。いや、実際贅沢なのだが。
コーヒーが運ばれてきた。
「お酒より、頭がすっきりするでしょうからね。さて、山田 大介、だったわね? 営業成績もぼちぼちで、上司評価も「優」でした。さて、今度の条件は、」
「ちょっと待った。条件? 一年、身分を明かさず親父の会社の社員でいれば会社は引き継がせる約束はちゃんと果たしたぞ? 現場での仕事は確かに勉強になったし、いい経験だったが、もう約束は、」
「もちろんですよ、甲斐琉。会社はあなたに引き継がせるようすでに段取りは進んでいます。主要な上役たちにはすでに話をしていますし、あなたのその仕事振りでしたら任せられると言うものですよ」
「だったら、追加のような条件は、」
祖母が指を甲斐琉の目の前に一本立てた。
「一年間の修業の後、会社はあなたのもの。一年後、結婚していたら、私の財産もあなたのもの。覚えていない?」
甲斐琉は一年前を思い出す。自由奔放な留学生活をしていたとき、父親の危篤、死。そして祖母から言われた条件。
「思い出した」
「そうよかったわ。で、相手は見つけた?」
「はぁ?」
「はぁ? じゃなくて、そうしてもらわなきゃ、あたしだって死のうにも死にきれないでしょ、」
「その元気でですか?」
「あら? あたしだって棺おけに片足突っ込んでいるようなもんですよ。まぁ、もう一年ぐらい待てるかもしれないけど、私だって八十は超えてるんですからね」
祖母の言うことはよく解るが、はいそうですかと相手が見つけられるわけがない。
いや、当面この家と、この家に付属する財産は甲斐琉のものだが、それは祖母の財産に比べたら微々たる物だ。そして、今会社でやろうとしているプロジェクト―甲斐琉もそのメンバーになっている―それにつぎ込める資金が「祖母の財産」だというのに。
甲斐琉は一年前の「彼女」たちに連絡を取った。
「あら、一流会社の社員はいいわねぇ。こんな場所でブランチ?」
この声は―。やっぱり。
リサが買い物袋を抱えて立っていた。
「買出し?」
「そう。そこの八百屋が一番安いから。車……じゃなさそうね」
「自転車は?」
「ないわよ」
「店までだいぶあるぞ?」
「そうね。でも、買えるお金ないし、健康のために毎日歩いてるのよ。ま、サボってても怒られない社員さんとは違うから、私は帰るわ」
リサはジーンズにスカジャンを着て、大きな袋を抱えて歩いていく。見えるに耐えない大きな袋だ。
「一体何を買ってこの荷物何だぁ?」
甲斐琉は横からリサの荷物を取り上げる。
「お?」
「持ってやるよ。どうせ外回り中だし、」
「ありがと」
リサは微笑んだ。
「江戸川さんとは一緒じゃないのね。珍しい」
「あ? あぁ」
―何で今、修吾が出てくるんだ?―甲斐琉は一瞬よぎった言葉に苦い顔をする。
「だって、いっつも一緒に居て、あなたたちホモ? とか思うほど親密なのに、もしかして喧嘩した?」
「バカにしてるのか? これでも、」
「冗談よ。ほんとすぐに真に受けるんだから」
リサが店の戸を開け、甲斐琉は中に入った。すると秘書の江戸川 修吾がカウンターに座っていた。
「何? 外回りとか言って、待ち合わせしてたんじゃない」
リサはふふふと笑いながらカウンターに向かい、中から甲斐琉の荷物を受け取った。
「やっぱり、ひと時と離れて居たくないのかしら?」
「おい!」
リサが笑う声が奥の厨房に消える。
「何?」
修吾が聞くのを、甲斐琉はさっきあったことを話して聞かせた。すると修吾は笑いながらも、
「確かに、この半日は寂しかったよ。なんせ、いとしの、」
「気味が悪い、それで、どうした?」
「プロジェクトの資金面に問題があると言い出してね、」
「ったく、あのたぬき」
「早急にそれなりの資金のめどを見せてもらわなきゃ、大金をつぎ込んでまで援助する気がないってさ」
「もともとないだろうに、」
甲斐琉は深くため息をつく。
「簡単だと思うがね、君が結婚さえすれば」
「バカか? お前は、」
修吾にそう言って甲斐琉は頭を抱えた。
家に戻ると、祖母と母親たちが大量の見合い写真を広げて待っていた。
援助のことで修吾と一緒に帰っていたので、さすがの修吾もその数には驚いたようだった。
「甲斐琉、あなただってこのまま独身じゃないんだし、」
「だから、そういうデリケートなことは、」
「あたしが倒れたあとじゃ、遅いでしょ? 結婚とまではいかなくても、その手前、お付き合いをする相手でも、」
「だから、何をそう急いで? 会社は継ぐんだし、それが軌道に乗ってからでも、」
「早く玄孫を抱いて死にたいのよ。向こうにいるあの人に自慢するためによ」
そうはっきりと言わなくてもいいだろうと思いながら甲斐琉は椅子に座った。
「あ、この人は、」
「ん? あぁ、相楽重工の一人娘の確か、瑠璃さん。そう、瑠璃。どうかした?」
「相楽? ……今プロジェクトでただ一人頷かない相手ですよ」
「あぁ、そうね。彼は……、紀三さんをうちの子と取り合った仲だから」
「はぁ?」
母親が頬を赤めて父親の写真を眺めている。
「あまり聞きたくはないが、つまり、あの社長はそれを恨んで頷かないと?」
「さぁ。そこまでひねくれては居ないだろうけど、でも、そうかも。あなた、紀三さんに似てるからすぐに解っちゃったかもね」
祖母は楽しそうにそう言って紅茶を口に含んだ。
「あ……」
修吾が写真を手にして声を出した。
「知り合い?」
「え? えぇ、リサちゃんだ」
それは店の前を掃除しているリサの姿だった。いつもの、シャツとジーンズと、赤いエプロンとバンダナ姿の、薄化粧のリサだ。
「何で?」
「彼女? 彼女は、年頃の娘さんを写真にとってきてって頼んだうちの一人ね。知り合いなの?」
「お婆様、そういうのって、犯罪って言われますよ。プライバシー侵害とか、ストーカーとかって、」
「あら、そう? でもばれなきゃどうって事ないわ。それに、あなたが知ってるなら彼女も呼びましょう」
「何?」
「この中で最低でも一人を選び、別荘へ行きます。そこで一週間暮らすのよ」
「はぁ?」
「その中であなたに合う人が居るかもしれない。彼女たちには、一週間バカンスしませんか? と誘うだけ。鏑木家の名前を出せば一週間ぐらい仕事休みますよ。セレブでいる事しか脳のない人たちでしょうから」
「あのねぇ」
祖母の暴言に甲斐琉は頭を抱える。
修吾と二人部屋に酒を持っていく。
「とんだ話になってきた」
「結構ボクとしては楽しいがね」
「おまえって絶対サドだよな」
「だと思うよ。だけど、驚いたなぁ。リサちゃんの写真を撮っていたとはね」
「彼女に気があるなら、」
「あぁ、だめ。ボクにはすでに片思いの人が居るからね」
「はぁ?」
親友だと思っていた男の衝撃の告白だ。誰だと野暮なことは言わないが、それにしても唐突な話だ。
「で、僕がリサちゃんを誘うことになるのかい?」
「俺は反対だ。何でそんな十数人と一週間も?」
結局あのあと祖母と母、修吾が寄ってたかって、美人だとか、高学歴だとか、そういうことを基準にして二十人近くを選び、最後に甲斐琉が適当に十二人をトランプのように引いた。それに、リサも呼ぶということになったが、リサを知るのが甲斐琉と修吾なので、直談判をしろという話になったわけだ。
「どの人も気に入ってなかったんだろ? じゃぁ、リサちゃんに内容をばらし、一週間後そういうような振りをしてもらうように頼めば、金も融通が利く。そうじゃないか?」
「何で、あのじゃじゃ馬に?」
「ほかの人がやってくれると思うか? 大学教授の娘に、外交官、社長令嬢といった良家の娘が、やってくれると思うか?」
「あのじゃじゃ馬がするとでも?」
「親切だよ、彼女は、」
翌日、修吾と二人でリサの店へ行った。
「はぁ? 何で私が?」
「だから、こいつがまだ結婚する気ないんだよ。でも、資金は要る。資金が入り次第破談していいから、この作戦に乗ってくれないかな?」
修吾の説明はかなり
「バカっぽい作戦。そんなんでそのお婆様は納得すると思うの?」
甲斐琉が次期社長であると宣告した昼、ブランド物のスーツに身を包み、「鏑木 甲斐琉」と名乗ったがリサは
「それが何?」
と切り返し、早速の話にもつまらなそうな顔で甲斐琉たちを見返していただけだった。
「それって偽装しろってこと? 人をだますのって好きじゃないし、その間この店マスターだけじゃ大変だし、あたしだって収入なくなるし、」
「それは心配しないで、迷惑掛けるであろう分の金額はここに計上してる。もしそれを上回れば後で出す」
甲斐琉は話を進める修吾を見た。
「これも、あんたが彼女のひとりも持っていないからですよ。アメリカでは散々女をとっかえ引返していたあんたが、日本に来たとたん音沙汰がなく、彼女たちを激怒させ慰謝料だのなんだのとばかげた電話の応対をさせられ、今度はこんな茶番をすることを、あんたの代わりに頭を下げてんですからね」
修吾はそう言って甲斐琉を横目で睨んだ。
「いや、それは、」
リサが噴出した。
「いいわ。まるで童話かなんか見たいね。シンデレラとか、白雪姫とか、お城で過ごせることも無いしね。でも、九時から夕方の六時までは自由にさせて。必ずそっちに帰るから」
「引き受けてくれるんだね」
「えぇ。面白そうじゃない? セレブなお嬢様たちが奮闘するんでしょ? どんなものか見たいし。でも、あたし、かっこいい服ないわよ。いいのよね?」
甲斐琉はポケットからクレジット・カードを出した。
「必要なものがあれば揃えるといい。他の参加者にも渡している。あんただけじゃない。だから必要なものを揃えるといい」
「気前いいわね。金持ちってそういう点で気に入らないけども、ま、一週間ね」
リサはカードを手にして微笑んだ。
「不気味だ」
鏑木家の別荘は中世ヨーロッパの古城を彷彿させる造りにしている。自然豊かで庭はきれいに刈り込まれ、美しい窓からの景色が売りの応接室から見える情景は、眉をひそめたくなる女の群れだった。
一週間わが別荘で過ごしませんか? という誘いにやってきた彼女たちをサポートする何人かの付き人、彼女たちの荷物を運んできた車。結論として、かなり気合の入っている顔を見れば、「甲斐琉の嫁探し」という目的は知られているようだった。
祖母が丁寧に付き人、車を返させたあと、応接間には十人の女性が集められた。中にはリサの姿もある。
「ようこそ。わが別荘へ。この休暇、ゆっくり過ごしてくださいませね」
祖母はそう挨拶をした。
リサは頷いて辺りを見た。他の人の関心は絶えずこの部屋の高価なものへと目が向くようだ。特に、天使の像が手にしている五連の真珠のネックレスはその光度が見たことがなかった。だがリサにそんなものへの関心はなく、ただただ彼女たちの行動を見ていた。
彼女たちはモデルのようにじっと座り、かすかに微笑を浮かべている。同じように。まるでマネキンのような格好にリサは顔をしかめた。すると不意に立ち上がり、ワゴンにあったお茶を入れ始めた。
「どうぞ、喉、渇きません?」
側に居た誰とも知らない人に手渡す。
「あなたも、参加?」
「……えぇ。一応」
相手はリサの格好、ジーンズにスカジャン姿を何度も見たあとで小さく鼻で笑った。
「どうぞ。あのぉ、お婆様、質問していいですか?」
リサがそう言ったとたん、一人が噴出した。
「あなた、その方が鏑木会長だと思っていたわけ?」
「違うの?」
「当たり前でしょ、たぶん家政婦か何かよ。そして、本当の鏑木会長はきっとどこかでこの様子を見ているの。かわいそうだから言っておいてあげる。平凡な家庭に入ることをお勧めするわ」
彼女は棘のある口調でそう言って鼻で笑った。
リサは首をすくめ、家政婦呼ばわりされた女性を見た。
「どっかで見てるんですか? 趣味悪。まぁいいや。質問していいですか?」
「えぇ、何なりと」
「甲斐琉って変な名前ですよね?」
「え?」
「甲斐じゃないんですよ、琉がついてるの。琉が。しかもなんか日本人離れしてるし、名付けた理由って知ってます?」
「それは、」
「あなた、うるさいわよ。そんなこと知ってどうする気か知らないけど、私たちの邪魔はしないでくれる?」
リサは首をすくめた。
そこへ本物の祖母と、甲斐琉が入ってきた。
すると、彼女たちは祖母の側へ行き手を取ったり、椅子を用意したりと甲斐甲斐しく世話を焼く。リサは立ち上がろうとした偽の祖母の手をとって立たせ首をすくめて微笑みあった。
「よく、私の顔を知っていたわね」
「いずれ、私のお婆様になる方ですもの」
リサは彼女たちに背を向け、家政婦の鈴木に向かって舌を出した。
「そう、では、七時にディナーにしましょう。それまではご自由にね。三重子さん、手伝って」
祖母はそう言って部屋を出て行くと、彼女たちは甲斐琉に近づき、呼んでくれた事の礼を言って出て行った。
「忙しい人たち」
リサと甲斐琉だけになってリサがつぶやいた。
「彼女たちはあなたの為にうーんとおしゃれをしてくるに違いないわよ。あなたのために。その人たちの中に居ないの?」
「……、今は」
「じゃぁ、出てきたら教えてよ。なんだか疲れるわ。私とあなたとは住む世界が違うのよ」
先ほどから突っかかってきていた女、相楽 瑠璃の真似をしてリサは部屋を出て行った。
彼女たちの到着を「なんだ、この異様な光景は」と言った時一緒に見ていた修吾が言った。
「アメリカ時代の君の彼女たちはあれより酷かったですよ。まだ、日本人だとわきまえているけれど」
確かに、アメリカで知り合ったのはあんなものじゃなかった。あと数センチで胸が見えるような服、振り掛けすぎの香水。甘い言葉と誘惑。今はそれがいかにも陳腐に見える。
「年を取ったのか、本当に仕事バカになったか。どちらにしても、僕には関係ないですがね」
修吾はそう言った。
甲斐琉は机に手をつきため息をついた。
―あの中から見つけるだと? 見つかるわけがない。それに、恋愛というものは、こう、お膳立てして見繕われるもんじゃないはずだ。物凄く、癪に障る―
夕食の席で一席、リサの席だけが空いていた。
「あら、そこのお嬢さんはまだ?」
「いえ、それが……」
メイドが言葉を渋りながら戸の方を見た。すると、リサがワゴンを押して入ってきた。鈴木と笑いながら。そして皿を祖母から順に彼女たちの前に置き、最後に甲斐琉の前に置いた。
「あなた、普通、主が最初でしょ?」
「……、お婆様は熱いのより少し冷めた方がいいでしょうけど、甲斐琉は熱めのスープが好きだと思いますよ。なんせ、上に膜があるよりは数段おいしく飲めるし」
リサはそう言って皿を次々に置いていく。
「手馴れたものね」
「ウェイトレスしてますから」
「喫茶店の手伝いだろ?」
「それでも立派なお運びさんよ」
リサはそう言って甲斐琉の皿ににんじんをたくさん乗せた。
「風邪引きかけているようだから、どうぞ」
リサの言葉に甲斐琉が顔をしかめる。
「その年でニンジンさんが食べられませんかぁ?」
リサは子供を相手にするように話しかける。
「うるさい。さっさと座れ」
甲斐琉はくいっと歯を噛み締めて、笑いながら席につくリサを見た。
食事はなんとも奇妙なものだった。祖母が質問する。彼女たちは順に答える。よそよそしい食事ではおいしさなんか解らない。だが、祖母はリサには何も聞かず、リサも何も喋らなかった。
「甲斐琉、一人一人のお嬢さんとゆっくりとした時間をお過ごしなさいね。さて、明日からほとんどのメイドが居ません。居るのは食事を作る鈴木と、秘書の江戸川、あとのことは自分たちでしなさいね」
「と、いいますと?」
「相楽さん、うちだって、いつ不況の波が押し寄せてくるか解りませんのよ。いつ何時放り出されるか。でも、食事を作ったことのない方たちだけで一週間なんて、うちの大事な甲斐琉の身にもしもがあってはいけませんからね。食事だけは用意します。しかし、それ以外はご自分でやってくださいね。もしいやならば、明日にでも帰ってもらって結構ですからね」
祖母はそう言って口を拭き、ナプキンを下ろすと、側にリサが立っていて耳打ちをした。祖母が頷くと、リサは祖母の手をとり立たせ、部屋を出て行った。
「お婆様はどうかしたのか?」
入ってきたリサに聞く。
「どうとは? ただ、フォークをそろえて置かれたから終わったんだと思っただけよ。何? なんかあった?」
リサは眉間にしわを寄せて席に座り食事を再開した。
リサの目は確かだった。いろんなところに気が尽くし、すぐに動く。他は立派なお嬢様だから余計にそう思うが、身動きがやたらと軽い。落ち着いた食事をしていないように思えるが、彼女はそれを苦痛だとは思っていないようだった。むしろ楽しんでいるように見える。
「思いも寄らない展開だわね。でも、この一週間を乗り切ればどうって事ないのよね? 結局、主婦らしいところを見るということね。そういうことならば簡単よ。ハウスキーパーを呼べばいいだけだし、たいしたことないわ」
相楽 瑠璃はそう言ってワインを傾けた。
父親から、甲斐琉をものにすれば一生遊んで暮らせると言われた。顔は好みだし、金もある。申し分ない男だ。だから逃げ出す気はない。
堅田 しほり。某大学教授を父に持ち、有名女子大までノンストップのお嬢様。イギリス留学の経験もあり、慎ましやかで器量持ち。それはたいそういい遺伝子をお持ちだろう。祖母が一押しした人だ。
「しほりさんはなぜ参加を?」
「え? お父様にいい方がいるからと薦められましたの」
「会ってどうです?」
「いい方だと思いますわ」
しほりは満面の笑みをたたえた。
しほりの趣味は音楽鑑賞だといい、特にモーツアルトが好きだといった。
今風の少し色を入れた髪、おとなしそうな含み笑い。大口を開けて笑ったり話したりしないだろう。
―あのじゃじゃ馬のように―
甲斐琉は微笑みながら一瞬リサのあの姿―喫茶店で笑っている顔―を思い出していた。
「あの、甲斐琉さんはどういった方が好みなんですか? あまりよく解らないのですけど、他の方と私って合わないというか、その、」
「私の好み、ですか? 私の好みは、そう……気立てがよくて品があり知的で、三歩下がって付いて来る様な古風な人。ですかね、」
「そうなんですか」
しほりの目に一瞬光が宿った気がした。気のせいかもしれないが、きっと都合よく自分を候補者に当てはめようとしているのだろう。
水野 里奈。東北の良家の出で、本人は小学校教員免許を持っている。今は臨時明けで春から学校就職を希望していると言う。
教師にありがちなゆっくりとして、わかりやすく、丁寧な口調で話す。時々バカにされているかもしれないと思うような丁寧さが覗くのは、里奈がまだ低学年しか教えていない所為だろう。
趣味はもっぱらドラマを見たり、買い物をしたりと、普段子供と接するため実年齢をわきまえる為にあえて大人びた行動を取りたいといった。
会話はそう長くは続かなかった。
彼女は会社経営には興味がなく、甲斐琉は教職には興味はなかった。趣味も合わず、ただ、親の勧めで参加したのだということがはっきりとわかった程度だった。
甲斐琉は里奈の部屋を出て一階にあるバーカウンターが設置されている応接間に入って驚いた。
「何をやってる?」
振り返ったのはリサだった。気分よさそうに鼻歌を歌いながら、洗いざらしの髪、肩にはタオルを掛け、ジャージ姿のままバーの冷蔵庫を開けていた。
「何って、カフェ・オ・豆乳を作ろうとしているところよ。みえさんに許可もらってるの。なんか飲む?」
「……ウィスキー」
「お酒? 自分で用意して。私解らないから」
リサはカフェ・オ・豆乳をレンジに入れ、手際よく棚を物色してお菓子を見繕って出した。
「食べる?」
「……、甘いのはいい」
甲斐琉はウィスキーをグラスに注ぎ、甘そうなおかしに目を細める。
「いずれ要るようになるわよ。疲れがたまってきたらね。じゃ、おやすみ」
リサはカップとお菓子を持って出て行く。
「少し、少し話さないか?」
「あたしと? 何を?」
「いや、……いい。おやすみ」
甲斐琉は窓の見えるソファーに座った。
リサは側の椅子をそのソファーの近くに置き、お菓子を机の上に置いた。
「しほりさんはいい人よ。可愛いし、頭いいし。性格も良い。ちょっと欲を言えば可愛すぎて寛大じゃないと疲れるかな。まったく頼り切られると、甘えたいときって意外に多かったりするから、もう少し強さみたいなのがあっても良いかとも思う。まぁ、付き合いだしたら性格変わるかもしれないし、性格を変えていくほど影響しあえるのが理想ではあると思うけど」
「えらく詳しいな」
「この年で処女だとかって思ってる?」
リサの言葉に、ありもしない幻想を抱く。そりゃ、思いの外、年だった―と言っても三十前ではあるが、思っていたよりは二、三個は上だった―で、恋愛経験がないとは思えない。だが、リサからそういうのを聞かされるのはなんとも複雑なものだ。たとえば、妹や姉のそういうシーンは想像し難いし、ましてや普段女というより弟のような、喧嘩相手のような感じで接している相手ほど、余計にそう思う。
「それに、喫茶店の店員や、接客していると、お客を見るものよ。まぁ人によるだろうけど。常連なら特にね。だって、その人の好みとか、趣味を知っていればこそ常連になってくれるのだし、そうすると、観察するようになるのよね。そこで推理したわけよ。話題が盛り上がらず、切り出した話も一言で終わって気まずく帰ってきて疲れたってところ? よくそれで営業してたわね、」
「仕事の話という共通の話題が合った、趣味の話をしても、そう、音楽鑑賞という趣味にしたって、俺はクラシックは好きじゃない。アウトドアといってもキャンプが好きなわけじゃない。車を走らすのが好きなだけ。相手に話をあわそうとしても、こちらに引き込もうとしても、難しいときは難しい」
「あら、江戸川さんの話じゃ、アメリカじゃ目があったらすぐにホテルへ直行してたらしい人が?」
「若気の至りだ」
「一年でえらく年を取るものね? まぁ、いいけど。確かに趣味が会話の取っ掛かりだと思う。それ以外で話題をなんて、よほど遭遇した環境のことについて意見がないと続かないわね」
「まったく、こういう馬鹿馬鹿しいことは早く終わってもらいたいものだね」
「あらそう? あたしは結構楽しんでるけど」
リサは首をすくめて笑うと立ち上がった。
「じゃぁね、おやすみ」
リサが居なくなった応接室は酷く静かだった。
翌日は土曜日で、仕事をしている人も休みのはずだが、八時過ぎ、すでに居なかった。
「他は?」
リサが一人だけ食事を取っていた。
「みんな大変よ。あなたに気に入られようとエステだの、買い物だの、そりゃ、大騒ぎ。あなたも罪作りね」
「で、あんたは一人で朝食?」
「えぇ。出かけるのにこ一時間はかかるから」
「歩くのか?」
「方法はそれしかないからね」
「送らそうか?」
「運転手つきかぁ……でもいいわ。迎えに来てもらうの気が引けるから。さてと、今日一日何するかな」
リサはそう言ってパンをかじった。
「おはようございます。ぼっちゃん」
「みえさん、」
「あぁ、失礼しました。甲斐琉様。お食事どうします? 皆さん要らないと出かけられちゃったんですよ。家から車をよこさせたり、あぁ、そうそう。昨日の夜の食事の席で甲斐琉様がおっしゃっていたこと、えっとなんでしたっけ? 会社経営に必要な要素とか何とか、ああいう難しいお話は止めた方がいいですわね、お三方帰られましたから。難しい話はいやだとかおっしゃって、」
「そう、……で、結局あと何人?」
「三人お帰りですから、七人ですわね」
甲斐琉は黙って置かれたサラダに手を伸ばした。
「もしかして、わざと難しい話をして辞めてもらおうとしてない?」
甲斐琉はリサを上目遣いで見た。リサはカップに息を吹きかけていた。
化粧を本当にしない女だ。少し血色の悪い唇を尖らせ、湯気が息で揺れる。
「ま、どうでもいいけど。居なくなれば私もすぐに返してもらえるんだよね?」
「あぁ」
「じゃぁ、そっけなくさっさと頼むね」
唇がカップについて喉が動いた。
甲斐琉は視線をそらしパンを取った。
リサは一日中、食事以外部屋を出てこなかった。
出かけていた彼女たちが帰ってきたのは夕方だった。手には買い物袋を持っていたり、髪型や、服装が変わっていたりしたが甲斐琉にはそれを変化だとは見えなかった。同じような化粧と服。よく代わり映えのしない姿を競おうとするものだとしか目には映らなかった。
「これ、うちで教えているんですけど、生けみましたわ」
「……きれいですね。いい感じだ」
華道家の娘。自らも師範代の免許を持っているとか言っていた。性格がきつそうな目をしている。あごを上げて話すようなそぶりを必至に抑えているような、威圧感を感じるのは、彼女が大手企業で主任職をしているからだろうか? と言ってもそこは父親の会社、彼女の実力での主任職かは怪しい。
―人のことは言えないが―
華道家、吉崎 霞は応接室にいくつもの花を飾った。確かに殺風景だった応接室は華やいだが、そのいけ方の良し悪しがまるで甲斐琉には解らない。
「ただ、花を飾るだけなのに、それを習うのにお金がかかるのね。やっぱり私には無縁だわ。センスないし、お金ないし」
そう言ったのはリサだった。半日ぶりぐらいに見た気がする。相変わらずジャージのままで、髪も束ねただけ。大きな欠伸をして椅子に座ると手を合わせて食べ始めた。
「皆さん、お食事は?」
「ごめんなさい、私外で済ませたから」
「私も」
華道家の霞と、個人病院の娘である向坂 朱美だけが座った。
「皆さん、連絡してくださればいいのに」
家政婦の三重子が愚痴った。
「忙しいのよ。みぃんな甲斐琉の好みに合わせるために。そのために努力して、気付けば朝も昼も食べてない状態なんでしょ、しょうがないわよ」
リサが首をすくめて笑った。
「あなたは、……あなたは何かしてますの? その、」
朱美が聞いてきた。
「何も」
「何も? ここはそれが目的のはずでしょ?」
「いまさら張り合っても、金持ちになれるわけじゃないし、着飾っても、一日、二日のエステで効果が出るとは思えない。それじゃぁ諦めてこのままで居た方が楽。一週間と言う休暇は私の懐には大きすぎるけど、それでも、休みがあると言うのは明日の活力になるわけだしね」
「本当に休暇をしに?」
「そんなところ」
リサはそう言ってパイを口に入れた。
霞の部屋はすっかり模様替えされていた。名器に飾った花、新しい器に飾るためにそろえたと言う水引などが机の上に置かれていた。
「散らかしてまして。それで、今夜はどのようなご用で?」
「一週間で相手の方と知り合うには、個人的に話をした方がいいかと思いましてね」
「賛成ですわ。私、甲斐琉さんとお話をしたかったのですけど、えっと、そう、相楽さん? あの方がいつも口を挟むでしょ? それに、あの人。リサさん? あの人がよく話しているようだから、」
霞はそう言って椅子を指した。甲斐琉がそこに座ると、すぐに、
「コーヒー? それともお酒? 三重子さんに持ってきてもらいますけど」
「いや、話をするだけだから、」
霞は首をすくめて向かいに座った。
細くて長いきれいな指をしている。それでも、所々赤くなっているのは水を使うためだろう。
五分ほど経って、霞が身動きとともに、
「あの、何のお話をしていいのか、」
「そうですね、花と、あなたを見ていたので」
「まぁ……、でもお花には興味ありませんでしょ?」
―自分に見とれていたと言わせたいのか? 別に話すことがないだけだとは、さすがに言えないがな―甲斐琉は小さく頷いた。
霞は首をすくめ、側の机から花器を手に取った。
「これ、百年前の花器だそうです。お父様が買ってくださったの。色の印象が甲斐琉さんのようだったので持ってきたんですの」
「私の? どういう印象ですか?」
霞はふふと笑い、
「これ一見したら黒でしょ? でもよく見るとここには青、ここには緑、ここにはかすかですけど赤があるの。なんていうのかしら、外見では解らない内面みたいなもの。そういうものが見えましたの」
―子供と大人の両面。じっくりと私はあなたを見ている。系の暗示か?―
「それより、今日の、夕飯の知らせをしなかった人をどう思いますか?」
「え? そうですね、でも大人ですもの、いい時間を過ぎたら食べてきますでしょ? そんなに困ることもないと思いますけど」
向坂 朱美の部屋に向かった。
霞の部屋とは大違いで、もともとの部屋のままだった。
「ご自身も医療の?」
「いいえ、母が、あなたは手先が不器用だから、少しでも良家に嫁げるようにと小さい頃から家事手伝いをしてました」
「では、結婚願望が強いんですね」
「母が言うには、若いうちに子供を育てておいた方がいいと。母親が若い方がいいと」
朱美は自覚しているのだろうか、彼女に自分の意思はない。母親の意見に相違ないのだ。もし、母親と衝突するような相手を連れてきたら、もしかすると彼女なら母親の意見を取るだろう。そのくらい朱美の中の母親の存在は特別なようだ。
「趣味は?」
「母が言うには、華道やお茶をたしなむのがいいと。もちろんやりました。母が甲斐琉さんは音楽鑑賞をするのでと、クラシックも一通り聞いてきました。まだよく解りませんが、これから理解しますわ」
甲斐琉は苦笑いを浮かべた。
「そうだ、さっきの、夕食に連絡しない人をどう思います?」
「さぁ、私あまり外に出ないので、遅くなることもないですから。解りませんわ」
―あ、そう―なんて意見のない女だろう。意見がありすぎるのも疲れるが、意見がなさ過ぎるのも考え物だ。話題がない夫婦は冷めるのも早いと聞く。趣味を無理やり理解したフリをして会話されて楽しいと思っているようだ。味気ないことをしらなすぎるのも、いや、気付かないままならそれが幸せなのかもしれない。
甲斐琉が朱美の部屋を出て応接室に向かうと、昨日と同じくリサがカフェ・オ・豆乳を作って持っていくところだった。
少し話さないかと引き止め、リサは昨日と同じく椅子に座った。霞と朱美との会話、それに対する自分の感想を話した。
リサは噴出し、
「どこまで人を斜めに見るのかしらね、あなたって。霞さんは本当にあなたの二面性を見たんでしょうよ。だいたいの人が表と裏を持っているものだけど、あなたのそれははっきりとしない、混沌だと言いたかったんじゃない? 裏を見せてくださいと言うことよ。ちらちら見えてるんですからねっていう。向こうからのアプローチをそう斜めで見ちゃぁ甲斐がないわ。それに朱美さんの場合は、彼女は確かに母親に依存しすぎてるし、母親もちょっと干渉しすぎるてると思う。なんせ、食事のメニューを母親に連絡しないと食事をしようとしないんだから。ちょっとお客として来ての礼儀には欠けるとは思うけどね。すぐに電話するから」
リサはそう言ってコーヒーを口に含む。
「本当に恋人とかを探す気ないみたいね。だったら初めからこういう馬鹿馬鹿しいことをするべきじゃないんじゃない? いくら周りが言おうと、自分はまだだと言えば済むんじゃないの? そうすれば仕事休まずに済んだでしょうし、みえさんだって、食事を作って無駄にすることはなかったと思うわよ」
リサの言うとおりだ。何故押し切られたのか今もって謎だ。面倒で、今はそういうことよりも早く仕事の方を何とかしたいじきだと言えば済むことだったはずだ。
リサは首をすくめて部屋へ戻っていった。
翌日、全員が朝食をとっているところへ甲斐琉が遅れてやってきた。
「夕食が要らない、遅くなる。そう言ったことを連絡していただく。それが最低限のマナーです。以後気をつけておいてください」
甲斐琉の言葉には酷い棘を感じた。全員が顔を見合わせ首をすくめるほどの威圧感を受ける。不機嫌極まりない。
だがリサは気にせずにパンをほおばった。
甲斐琉も椅子に座りパンを手にした。
甲斐琉と修吾はいつもの喫茶店、リサのあの店の席で向かい合って座っていた。
「まったく、人間の態度と言うものは、」
うんざりするほど変わった。今まで能無しだの、見たくれがいいから女にもててきただろうと苛めていた先輩や上司の手の平の返し方。得意先の面子も、「何かあると思ってたんだよ」と言いたい放題。これで会社が破綻でもしたら彼らは手を差し伸べてくれるだろうか? まったく、人とは勝手なものだ。
「そんなの、今に始まったことじゃないじゃない。それとも、すべての人がいい人だとおもっていたわけ?」
「って、おい、」
家にいるはずのリサが働いていた。
「何? 他の人たちみたいに代替がいるわけないじゃない」
リサがカウンターへと行き、マスターと仲良く微笑んでいる。
「さらに不機嫌度が増しましたが、何かありましたか?」
「はぁ?」
「リサさんが休まず働き続けるのは最初からの契約でしたよ。見てませんか? 履歴書にちゃんと書いてますよ。もしかして、彼女たちの履歴書見てないんですか?」
「……、就職面接かなんかじゃないから」
「それでよく会話をしましょうといってきましたね、驚きですよ」
甲斐琉は落ち度だと認めて窓の外に目をやる。窓に映るマスターとリサの楽しそうな姿。しかも、マスターがリサの肩を触ったり、リサがマスターの肩を揉むなど、雇い主と従業員の関係じゃないじゃないか。と憤怒してくる。
食事を終えてからも胸焼けのようなイライラを抑えながら仕事をしていた。
移動する社内から街を見たとき、マスターとリサが仲良く並んで歩いていた。
甲斐琉は視線をそらし、落ち着こうと深呼吸をする。―馬鹿馬鹿しい、彼らは職場が一緒なんだ、そりゃ歩くさ。仕入れとか、何とか、いろいろ―と思ってみても、仲良く笑って話す必要は無いだろうと思うと、やはりまた胸のむかむかが復活してくる。
夕食。甲斐琉は酷く機嫌悪そうに食べた。あまりの機嫌の悪さに誰も何も言わない。
その夜、女医の佐伯 香苗と、代議士の秘書をしている谷崎 麗華の元に甲斐琉は居たが、会話が弾むことはなかった。
酷く疲れて部屋へ向かうとき前を通る応接室を通ったが、今日はリサは居なかった。リサを待ってマスターとの関係を聞くほど野暮ではないが、―何で待つ必要がある? 彼女に恋人が居るかどうかなど聴かずに頼んだことだ。居てもおかしくはない。もらった報酬で午後からの営業を休んだとしても、それは向こうの勝手だ。だが、恋人が居るのに、こんな馬鹿馬鹿しい話を受けることはないだろう、いや、実は単なる雇い主と従業員かもしれない。仲良く歩くだろう。長年やってきていれば―甲斐琉は部屋にそのまま入った。
不機嫌のまま迎えた朝が過ぎ、昼が過ぎ、弁当を頼んだのでリサには会わず、夕飯も一人遅かったためにこの日はリサに会っていない。
最後の一人だ。相楽 瑠璃。手ごわい取引相手の娘。最初から思った。自由奔放なわががまなお嬢様。彼女中心に世界は回るであろう美貌を兼ね揃えている。
「ですからね、私の意見としては、」
父親譲りの商業センスも悪くはない。会社運営のノウハウも、部下を使うコツも心得ている。会話は飽きず、討論さえも出来る。だがふと思う、これはディスカッションに似ている。討論、議論、会議を思い出させる会話方法だ。相手を思いやって甘く和むような会話じゃない。
そういう会話をしていても、どこか気分を害すような高圧的なものを感じる。
「私、思いますの。あなたをしっかりとサポートできるのは私ぐらいだと。だって、他の方ではサポートなんか出来ませんわ。世間知らずのお嬢様と、私たちとは比べられない環境の方とじゃ、どうしても私以外にいませんわ」
はっきりという瑠璃を見た。なんて自信に溢れているんだろうか。しかも酷くずれた自信だ。わがままで野放しに育つと人間はこうなるんだろう。
「それじゃ、君は彼女たちが能無しだと考えるんだね?」
「能無し? とまでは言いませんわ。でも、そうですわね、社長婦人になるにふさわしいかどうかといえばふさわしくないんじゃないかしら」
明らかに悪意ある攻撃だ。ただし対象が居ない点でただの陰口であるが、こういうのが甲斐琉は一番嫌いなのだが、
「そう、そうかもしれないね」
瑠璃は甲斐琉が同意したことでさらに自信を持ったかのように含み笑いをした。
翌日の昼。甲斐琉は椅子にもたれて目を閉じていた。
社員だった頃に進めていたプロジェクトが再び暗礁に乗り上げたのだ。あの相楽社長が再び融資の件を断りに来たのだ。理由は娘がぞんざいに扱われているためだろうと思うが、そんなことは口に出さず、企画書の再度検討をしたがどうしても利害が一致しないと言い出した。
早急に金が要る。金が入るのは甲斐琉が恋人を作ればいいだけだ。だが入ってすぐにそうですかではさようならといく相手は居ない。―いや、一人居た。居たんだ。最初にそう宣言すれば容易かった。向こうは承諾してくれていたのだから。
馬鹿げた見合いをしたかったわけじゃない。あってみたらいい人がいるかもという甘い期待も持っていなかった。では何故馬鹿げたことをしている? 何故リサを最初にそう宣言しなかった?―
修吾が入ってきた。
「どうしても頷こうとしません。娘さんを良きに計らえ的な言葉を含んでましたよ」
「合うと思うか?」
「合いませんね」
「結婚したとして一週間でいや、結婚する時点ですでにだめだと解っているのに、金と名声、建前なんかで結婚できるか」
「だがそうすればプロジェクトは完成するし、相楽との提携はわが社にとっても大きなものとなりますよ」
「少し考える」
「これも視野に入れてみてください。厚木商事。規模は小さいですがいい人材を持っています。社長の理念は、焦らずに丁寧な仕事をすることだそうです」
「そこは前に上司と話したさ。もちろん申し分は無いが、畑違いで相手されないだろうという結論だ」
「ま、再度検討してみては? 向こうに話を持っていったわけではないのだし」
「解った」
甲斐琉はそう言って、その日会社に泊まった。
翌日、修吾が着替えと朝食を届けてきた。
「リサさんが持ってきてくれましたよ。仕事があるからと代わりに持ってきましたが、昨日帰らなかったんですか?」
甲斐琉は頷く。
「どうです、社員に意見を聞くのは?」
「はぁ? 何を?」
「誰を社長婦人にしたらいいかですよ」
「何でそんな必要がある?」
「決めかねてるんでしょ? 会社の資金面を取るか、自分の好みを取るか。まぁ、後者が居ない点を除いて、会社のために犠牲になるか、それとも、それを切り捨て何とか私たちでがんばりましょうと思ってくれるか」
「馬鹿馬鹿しい、俺のことでなんで他人の意見を聞かなきゃいけない?」
「会社のことですよ。そのために社長が苦労することは伏せておけばいい。ただ、自分の会社を見学してほしいと言えばいい。セレブな連中は会社見学などしたことないから、どうか見学させてもらいたいといえばいい。もしかすると意外なことが解るかもしれませんよ」
修吾はそう言って、本日一時から彼女たちが団体で来ることを伝えた。
が、結局来たのは、相楽 瑠璃と、吉崎 霞と、向坂 朱美の三人だった。華やかなスーツに身を包んだ三人は酷くこっけいにも見えるほど場違いだった。
「ここが営業一課です」
三人と、甲斐琉、修吾が一緒に歩き、修吾が丁寧に説明をしている。だが三人ともそれほど興味がないそぶりだった。
「お待ちどう。清水さんと、畑さんと、やっくん」
リサが声を上げて入ってきた。
「あら皆さんおそろいで」
リサはそう言って清水、畑山、鳥山のもとに弁当を運ぶ。
「リサちゃん、マスターは?」
「いつもの調子で。明日か、明後日か、休むかもしれないけど、」
「大変だねぇ、リサちゃんの顔見れなくなるの寂しいけど、まぁ、がんばって」
「上手だよね、やっくんて、おまけに漬物置いておくね」
「さすが美人」
おだて声に周りから笑いがあがる。
「リサちゃん、これ(取引相手)向こうからもらったお菓子のおすそ分け、」
「ありがとう。ダイエット順調?」
「かなりだめ、もうあきらめそう」
「あと一ヶ月、がんばれ」
来月結婚式を挙げる彼女が首をすくめた。
だれかれリサに声をかけ、リサはそれに答えながらそこをあとにした。他部署でもリサに声をかけ笑う声が廊下にまで聞こえてくる。
「なんなの、あの人」
瑠璃が苦々しく呟く。
営業部の連中が瑠璃をひと睨みしたが本人は気付いていなかった。
三人が帰ったあとの社長室で甲斐琉と修吾は応接ソファーに向かって座っていた。
「酷く疲れた」
「そうですね」
「お前の案だぞ。彼女たちはまるで興味を持たない。連れて来て失敗だった」
「そうですね、説明もろくに聞いてなかったし、従業員にねぎらう言葉もなかった。将来の社長婦人候補であるのにね」
甲斐琉は修吾を見た。
「何を考えてる?」
「何をとは?」
「何で彼女たちを連れてきた?」
「あなたが決めかねているからですよ」
「それだけじゃないだろう? なんか、どういうのか」
「社長婦人は社員すべての上で一人ご満悦に過ごされたんじゃ、従業員がどう思うかってことですよ。一般常識などがあってこそのもの。それを見抜ける力のないものを、指導者として尊敬の念を置けるとは思いませんがね」
「つまり、俺の結婚相手を見る目が会社経営を見ることにもつながると?」
「それが社長でしょ? いやならいやだと言えたはずだ。一年前にね。それを解った上であなたは、代々続く会社をつぶす気はないし、親父以上のものにすると宣言したんじゃなかったですか?」
甲斐琉は黙って俯いた。
「みえさんの連絡で、今日また三人帰られました。残ったのは、相楽 瑠璃さん。吉崎 霞さん、向坂 朱美さん。そしてリサさんだけです」
甲斐琉は片手で顔を撫で、
「何が目的で残ってんだ?」
「あなたとの結婚ですよ」
甲斐琉はため息をついた。
「いやなら、リサさんに公言することの許しをもらうことですね、一週間ぐらい付き合ったとして別れたら済むことですよ」
修吾の言葉が胸に痛んだ。
―最初に頼んだことだとはいえ、すぐに別れたとしてリサは傷つかないだろうか? あんなに人気があるリサと付き合うといったあとで別れたら、それこそ不適切ではないのか?―
甲斐琉が何も言わないのを黙って修吾は見つめた。
―何で気付かないんだろうか?―少しの意地悪としてやったことを本当に信じている。ここまで信じられると、いまさら嘘だとは言いにくい。そう、リサの写真を紛れ込ませたのは修吾だ。何枚か写真が混じっていたので、それを紛れ込ますのは容易かった。会長も、元社長婦人も入れたことにすぐに気付いたのに、甲斐琉はまるで気付かない。自身の気持ちも。恐ろしく鈍いやつだ。
「とにかく、どうしようにも、社長の判断しだいですよ。今日は約束があるので先に帰らせていただきます」
修吾はそう言って席を立った。
甲斐琉は一人残った部屋で、もう一泊過ごした。
朝食を取りに外に出て、なんという目覚めの悪い出来事か。向こうの歩道でリサがマスターに抱きしめられ、そのままタクシーに乗り込んだ。行き先はまるで見当がつかない。とはいえリサの顔は興奮していて赤く、満面の笑みさえ浮かんでいる。
甲斐琉は押さえがきかない苛立ちを沈めるためその日一日行方をくらませることにした。
今まで住んでいたアパートの契約は今月いっぱいまである。まだ荷物を運び出していない。寂しい、でも懐かしい我が家だ。
甲斐琉は畳に寝転んだ。
リサの笑みと、マスターが元気よく手を振りタクシーを止める姿。思い出しても腹立たしい。
携帯が鳴るが取る気はない。どうせ、修吾だと解っていたし、一日消えても奴なら巧くやってくれるだろう。
だがすぐに修吾は見つけてきた。
「何してるんですかね? いい大人が。何が気に入らないか知らないが、仕事に支障をきたすなど甲斐琉らしくない」
「そうか? いやになればすぐに逃げ出す奴だよ、昔から」
「とにかく、別荘に帰ってください。明日の夕方、各界の方を招いての社長就任の披露パーティーをするそうです」
「はぁ?」
「会長じきじきに手を回していました。すでに」
修吾の言葉に甲斐琉は胡坐をかいて項垂れた。
「何もかもお婆様の思惑通り」
「そうでもないようですよ」
甲斐琉は顔を上げて修吾を見る。
「まぁ、予測はあくまでも予測ですからね。さ、立って別荘に戻ってください」
甲斐琉は仕方なく立ち上がった。
別荘に帰ればリサが居る。―顔を合わすのはいやだ。いや、マスターとあんなに仲が良いのだ別荘に居る必要は無いといえばいいじゃないか、だが、そんな人が居て参加するなんて、酷い女だ―頼んだのを棚に上げては打ち消し、甲斐琉は硬く目を閉じて別荘まで車に揺られた。
二十二時半。祖母が明日の打ち合わせを長引かせたのが理由だ。候補の三人と、甲斐琉たちは応接室に集まっていた。ここは玄関からは正面に当たり、誰かが入ればすぐに解る。
鍵が開き、戸が開いてリサが帰ってきた。
「あ、……ただいま。あ、これ、みんな食べる?」
リサは手にしていたケーキの箱を開けた。家政婦の三重子さんが小皿を用意した。
おいしそう。という声が上がり好き好きにケーキを選ぶ。
「遅くなるなら、」
口をついた不満が止まることは出来ない。
「遅くなるなら連絡をしろといったはずだ」
解っている。理不尽だ。自分は連絡もせずに二晩も外泊した。今日だって行方をくらまそうとした。解っている、酷い話だということは。だがどうしても頭から離れないのだ。マスターと抱き合っている姿がどうしても、頭から離れないのだ。
「それは、」
三重子がさえぎるのをリサが止めるように、
「ごめんなさい。遅くなるつもりはなかったんだけど、お詫びにケーキを、」
甲斐琉は差し出されたケーキの箱を打ち払った。
「規律を乱すものはいらない。今日は遅いから明日の朝出て行ってもらう」
三重子と修吾が慌てて身動きをする前に、リサは彼女たちの方を振り返り、
「もう寝た方がいいかも。お婆様も」
と三重子さんに合図を送った。
「私も寝ます」
リサが甲斐琉の方を見て言った。
甲斐琉は何も言わずに立っている。
「どんな理由があるにせよ、食べ物を粗末にする人は嫌いよ」
リサはそう言って部屋に帰っていった。
彼女たちも帰っていく。
「リサさんはちゃんと夕飯前に連絡があった。帰る時間は解らないが夕飯は用意しておいてくれ、温める事ぐらいならできるからと。今日、彼女の姉が出産した。マスターは彼女の姉の夫。つまりリサさんの義理の兄。そしてそこでぐちゃぐちゃになったのは子供のお祝い用のケーキで、皿にとり損ねた私と、三重子さんと、お前の分」
修吾はそう言って部屋に帰っていった。
―義理の兄? 子供? それなら言い訳すればいいじゃないか、何故言わなかった?―
甲斐琉はリサの部屋へと行き戸を叩いた。
迷惑そうな顔をしてリサが顔を出した。甲斐琉は気付いていないが、ジーンズだけを履き替えてジャージになっている。着替えの途中だったのだ。
「何?」
「何で言わなかった?」
「何を?」
「子供、遅くなった理由だ」
「言ってどうなったの? みえさんには連絡はした。でもあなたにはしていない。それは間違いじゃないわ。ただそれだけよ。それが?」
「それがって、その、」
「あ、みえさんありがとう。取りに行ったのに」
「温めておきましたからね」
「ありがとう。あたしみえさん大好き」
三重子はくすぐったそうに笑って甲斐琉を見て会釈をして向こうへ行った。
「怒鳴って悪かった。理由は聞いた。……明日、だが」
「なんかするんでしょ? お婆様から出かける前に聞いた。いい服なんて持ってないって言ったんだけどね。ま、それに出たらすぐに帰るわ」
甲斐琉は頷いてリサを見た。いつもくくっている髪を解いている所為か印象が違う。
「あ、」
「何?」
「いや……、最初に頼んだことだが、」
「必要なくなった?」
「……あぁ」
「そう、よかったじゃない。明日発表? 楽しみにしてる。じゃ、」
「あ、ちょっと待った」
閉まる扉に手をはさんでこじ開ける。
「何?」
「……、芝居じゃなく、付き合って欲しい。どうも、気になって仕方が無いんだ」
「……、だめよ。私の事知ったら、……だめ」
リサは戸を閉めた。今度は手をはさむ余裕は無かった。
部屋に帰り甲斐琉は考え込んだ。
―だめの理由―
マスターは彼氏ではなかった。では他に彼氏が居るからだめなのか。だがそういう相手は見えない。では、片思いの相手とかが居るというのだろうか? 考えは収拾がつかずに気持ち悪くなる一方だった。
翌朝、酷い騒ぎで目が覚めた。枕もとの時計はまだ六時をさしたところだった。
甲斐琉は迷惑そうな顔で会場となる玄関すぐの応接間に向かった。会場には業者に混じって各令嬢の下々が集まり、一週間ほど会わない間に起こったことの情報交換やら、衣装やらなんやらの搬入に追われていた。
応接室に隣接している食堂ではリサが迷惑そうな顔でコーヒーを飲んでいた。
「あの人たちは苦にならないそうよ」
リサの言葉に甲斐琉は頷いて向かいに座った。
「みえさんはおばあちゃんのところに行ってるから、コーヒーはそこ。セルフよセルフ」
甲斐琉はカップにコーヒーを注ぎながら欠伸をするリサを見た。ジャージに寝起きの髪をまとめた髪、眠そうな目に、頬杖をついた上にある唇。
何かを落とした音に応接間を見ればソファーの移動やら、すっかり応接間は模様替えさせられていた。
「ここまでやる必要があるのか?」
すでにスーツをパリッと着た修吾に聞くと、修吾は大きく頷き、
「社長就任の披露とも重なってますしね、しょうがないでしょ?」
甲斐琉が嫌そうな顔をするのを、リサはカップに隠れて笑う。
「随分と楽しそうだな、」
「あなたがそういう顔をするのは江戸川さんだけなんだなぁと思って。やっぱり二人って怪しいよね」
「僕は嫌ですよ、こんな鈍感優柔不断男」
修吾の言葉に甲斐琉が修吾を見上げる。リサが肩を震わせて笑う。
とんかちやドリルの音は昼を過ぎ、十五時にようやく終わった。それからは料理やら、スタッフやらが入ってきて人の雑音が酷い。
甲斐琉自身も、16時には服に着替えさせられたり、式の打ち合わせにと忙しく動いていた。そんな中にあってもリサは着替えることなくジャージ姿のまま気ままにコーヒーを注ぎ、イライラと状況把握をしている甲斐琉を見て笑っていた。
18時。来賓が入ってきた。
テレビで見たことがある政治家や、実業家、経済界や芸能界、見事にセレブリティーなパーティーは幕をあげた。
この宿泊に参加していた瑠璃は赤い目の覚めるようなドレスを着ている。霞は華道家らしく着物を着ている。朱美はおとなしい彼女らしく地味だが質のいいドレスを着ていた。しかし、彼女たちは皆、若き病院部長となると評判の医師と話をしている。甲斐琉の側に居るのはこれに参加しなかった人だが、会話の疎通が図れないのかすぐに居なくなる。だがすぐに有名人たちがすぐに挨拶に来る。
「つまり……金持ちならば誰でもいいんですね?」
リサの声に会場が静まり返った。違う、リサの格好に、その姿に魅入っているのだ。
赤いロングドレス。首から下がった五連の長い真珠のネックレス。見事に張った胸とくびれた腰、そして緩やかにまとめた髪。
「あ、あなたは何よ?」
瑠璃が咳払いをしていった。
「私は誰でもじゃないわ。甲斐琉がいいの」
そう言ってリサは甲斐琉の側に行った。
「父が来てますの。会ってお話をしたいそうなの、会ってくださいます?」
「え? ……あぁ」
リサが微笑みテラスの方を見た。
そこに居たのは甲斐琉の会社が次に提携をと打診していた会社の社長が立っていた。その業界でも大手でありながら職人を大事にする会社で、急ぐことはない丁寧なことが一番だという信念を持っている言葉どおり、納期ぎりぎりまで冷や冷やさせられるが出来上がったものは絶対に満足するというものだった。
「お父様、甲斐琉さんです。父です」
甲斐琉はリサを見た。
「始めまして鏑木さん。厚木といいます」
そう言って名刺を出した。
「娘、さん?」
「えぇ。娘の理沙です。いろいろとお世話になったようで。ところでここではなんだが、あなたの会社のやる気を買って、今プロジェクトされている話に加わりたいんだがどうだろうか? うちでもああいったものを進めたいと思っていたんだがどうも頑固爺の集まりらしく、新しいものを作ろうとする頭がない。どうだろう、一緒にやってみないか?」
リサが咳払いをした。
「仕事の話は後日なさったら? 今はそういう話をする場じゃないわ。それから、お父様、少しお話がありますの、あちらへ行きません?」
リサはにこやかにそう言って父親の腕を引っ張っていった。
「驚いた」
「言いませんでしたか? 厚木さんところのお嬢様だって、言ったはずですがね」
修吾はそう言って近づいて来た瑠璃の父親、相楽氏の方を見た。
「あれは厚木社長じゃないか?」
「えぇ、今度のプロジェクト参加を申し出てくれました」
修吾の言葉に相楽社長の顔色が代わる。
「いい腕の職人を抱え、大企業の社長であるのに少しもおごらず、でも娘には物凄く弱いようですがね」
修吾がくすりと笑って秘書的俯きぎみに目を伏せた。
テラスに行ったリサと、父親は確かに娘に弱いそうで一方的に責められているように見えた。事実責めているのだろう。―あの姿で―
「お姉ちゃんに会いに行ったんでしょ?」
「ん?」
「まったく、孫が出来て、思いの外可愛かったもんだからすぐに手の平返して、お兄さんから聞いたんでしょ、」
「彼は心配して居たんだよ、いい人だが彼が誘った理由が酷すぎるって、」
「困っていたからよ。そうじゃなきゃ彼は私に見向きもしないわよ」
「リサ、お前は十分いい女のはずだが、」
「口が悪いせいで売れ残る可能性は高いわよ」
「見合い、するか?」
「……、三十五になっても結婚してなかったらね」
父親は首をすくめた。リサは笑って父親の腕を組んだ。
「ありがとう。持ち合わせのワンピースで出るところだったのよ」
「それの方がよかったかもしれん」
「そう?」
「鏑木氏が本気になる気がする。いや、彼はいい男だ。お前にはもったいないと思うが、そうそう立て続けに手放したくはない。解るかな?」
「あと二人居るでしょ?」
「小百合と理香はまだ高校生だから」
「じゃぁ大事にしてあげてください」
二人は笑いあうと中に入ってきた。
「もう帰るよ、どうも苦手だ」
「そうね、その方が、晴美ちゃんもうれしいだろうし、」
父親はにやりと笑い、リサを抱きしめて帰っていった。
「晴美ちゃんは私の母よ。まだ大好きなの、あの人」
リサは首をすくめ甲斐琉の側に近づく。そしてすっと甲斐琉の袖をつまみ、
「喉が渇いたの、お茶、飲みたいのだけど、あった?」
「……、いや、無いだろう。取りに行こうか?」
リサは微笑み、甲斐琉に腕に絡まってリサの部屋の方へと歩く。
会場がどよめく中で会場ではなにやら声が上がっている。甲斐琉たちが消えても気にならないような何かの声がするが二人はリサの部屋まで歩いてきた。
「ありがとう。もう着替えるわ。これ、寒いのよね」
「着替えるのか?」
「えぇ。そして帰るわ」
「急だな、」
「昨日は出てけといったわ」
「昨日は、昨日はすまない。まだ根に持っていたのか」
「結構根深い性質なのよ」
リサがドアノブに手をかける。その手を甲斐琉が握った。
「何をしようというの?」
「芝居じゃなく、付き合ってほしい」
リサがゆっくりと顔を上げる。
「厚木 理沙だと知ってもそういうの?」
「それで申し込んだわけじゃない」
「でももれなく協力はついてくるはずよ」
「だろうが、無くてもいい。一緒に居たい」
「変わった人ね、本当に」
リサは笑いながら甲斐琉の胸に飛び込んだ。
最初見たときに変わった人だと思ったの。味覚音痴だったんだもの。酷く辛いものが好きかと思えばドレッシングも山のようにかけるし、適度という言葉を知らない人だと思った。
他の人が右を向いているのに左を向いたり、白を黒だと言ってみたり。でもそれでも笑顔が素敵だった。楽しそうに笑うその顔が好きだった。一時だけでも彼女となれるならって思っていたのよ、私。