三日月の下
松浦由香
三日月が浮かんでいた。青白くて細いその月の下に小さな星が寄り添うように光っていた。いや、月に照らされているだけかもしれない。細く、細く、か細い光の星が振り子のようだ……。
彼はつまらなそうに口をとがらせ歩いていた。外気温はこの冬最高を示すほどに冷たくて寒い。風は肌を刺すように痛い。それだからと言うだけで機嫌が悪いわけではない。この不況下でやっと見つけた職場から、今朝行ってすぐに辞任を言い渡されたのだ。
つまらない職場ではあったが、食い繋ぐ為には仕方が無いと諦めて仕事を始めた。それでも、仕事を覚えたてと言うわけじゃない。すでに一年が来ている。そろそろ社員試験を受けたらどうだ? とさえ言われていた矢先の解雇だった。理由は―解らない。理不尽な仕打ちにあって彼は反論の余儀なく寒空の町に放り出された。
この街に来て五年。田舎がいやになって飛び出てきたが、ここもすっかりいやな場所となってきている。もう一度場所を変えようか? 寒さの厳しくない、もう少し暖かい場所へでも……。
荷物はこの五年で増えもせず、減りもせず。ただ一個のボストンバックのみ。所持金はたったの70ドル。後数日分しかない。飢え死にか、運良くホームレスか。どちらにしてもこの街にいても仕様がないと思えてきた。
この街に友達は居ない。狭いくせにやたらと人の多いこの街に彼を知っている人は居ない。
行きかう車と人。罵声と騒音。俯いてしまったからすっかり背中の丸まった自分の姿をショーウインドーに映し、彼はかすかに笑った。もう、笑顔すら出来なくなっている。
―もう、死のうか……―
生きながらえたところでどうせこんな感じに繰り返し、年を取って、ずっとホームレスのままだったなら、楽でいいじゃないのか? とさえ思ってくる。
「あなた、死ぬわよ」
急にそんなことを言われたら驚くだろう。顔を上げて目を向ければ人形のような娘だ。黒い髪に黒い目。多分、日本人だと思う。年は、解らない。日本人はおおよそ嘘のような年齢が実年齢だと言うことがあるからだ。
「お前、死ぬぞ」
「いつ?」
「その調子じゃ、あの角を曲がったら」
彼の行く手にある交差点を右折すれば彼のアパートがある。その角から彼女に目を落とす。
「あの角かい? 何かの占いの結果?」
「事実だ。ただ、そうなると気分が悪いから声をかけた。普段はしないが、少しぐらいあがらいたくなったから。まぁ、暇つぶしだな」
そう言ったあと何かの落下音と悲鳴が上がった。彼はすぐに角へと走ると多くの野次馬が集まる中その路上には驚いて腰を抜かしているおばさんと、その前に落ちたペンキの缶が転がり、中の黄色のインクが散っていた。
彼はすぐに野次馬の中から出てくると彼女と居た場所を見た。彼女は歩き出していた。赤いワンピース。白い帽子。時代錯誤のいい加減な格好はかなり目立つ。彼は彼女を追いかけた。
通いなれた道を走り、職場だった建物の手前の角を曲がり、ハーレム外に行く手前をまた左に曲がる。黒人外の手前だが、もうここは容赦なく危険地帯だ。
彼女はふと立ち止まり右手にあるフェンスの方を見た。
フェンスの向こうはバスケットコートになっていて黒人たちがバスケをしている。
「元気だな、こんな寒空に」
彼女はそう言って彼の方を振り返った。
「どうかしたか?」
「いや……、俺の命がなかったかもしれないのは、あのペンキがふってきた所為?」
「そうだ。それ以外、あの場所で不幸の気は起こっていない」
「不幸の気? それも変な仏教的な教え?」
彼女は首をすくめフェンスへと目を向ける。
「あの緑の彼、シュートをはずし仲間に殴られる。軽く。でも、倒れた瞬間打ち所が悪くて死ぬ。まぁ、初期処置が出来れば別だけど、」
彼女の言葉のあと、ボールが板を打ち返した音がした。そしてそれにあわせて仲間が叱責の意味を込めて頭を殴る。そのとき、その側に転がってきたボールに足を取られてひっくり返った。
「おい、動かさずに911に連絡するんだ! 頭を打ってる!」
彼の大声に仲間が携帯を取り出した。
彼が彼女を見れば彼女は微笑み歩き出した。
だんだんと裏路地に入り、ますます薄暗く、まだ昼間だと言うのに閑散としていて不気味な場所だ。それがふっと途切れたとき、見たことの無い森に出た。
「ここは?」
この街にあった記憶がない。日の光を受けてキラキラと葉が風に揺れ、生命豊かな森だ。彼女のあとを追ってきたはずが見たことのない場所に出た。しかも、彼女の姿がない。
彼は辺りを見ながら歩くと、草原に出た。そしてその草原の中に一本だけある大きな木の側に彼女は居た。
「すごいな、初めてでここまで来るとは」
彼女の言葉に彼は眉をしかめる。
「ここ、は?」
「生命の森」
「生命の森? こんな場所、この町には、」
彼女は笑い、空を指差した。つられるように見上げれば空に今まで居た街が見える。逆さに、そして映像のように。
「な?」
絶句して見上げていると、風が吹き、木を揺らし、鈴のような音が鳴った。
彼が木を見れば木にはたくさんの葉。だと思っていた光るものが小さく鳴っている。よく見ればその小さな光たちは星型をしている。
「なんだ、この木」
「生命の木」
「生命の木? なんなんださっきから、生命の森だの、木だの」
「落ちる」
彼女が指差しているあたりから一個、いや、一枚星型の葉が落ちてきた。もう光っていない。星の形をした緑の、いや、彼は色の、いや、枯れた葉が落ちた。
「オー・マイ・ゴット!」
上を見上げれば先ほどのバスケットをしていた仲間が打ち震えている。あの彼が倒れたまま動かない。
「どういう、ことだ?」
「彼の命はやはり落ちたということだ」
彼女をゆっくりと見下ろした。
「お前は何者だ?」
「的確な質問だ」
と彼女は鼻で笑った。
「私は生命を管理するもの。人によっては死神だとか言うがそんな物騒なものではない。ただ、寿命を迎えようとするものを見に行くだけ」
「見に行ってどうする?」
「見に行ったら、確認をする。その人の一生を」
「確認したら?」
「枯れ葉となるか、再生するかを木に報告する」
「枯れ葉と再生? どう違うんだ?」
「枯れ葉となればもう再生はしない」
「どういうことだ?」
「もう、人として生まれ変わらない」
「じゃぁ、あいつは、」
彼は空を指差した。
「彼は人として全うした。再生するにはいくつかの条件が居る。人生において業を背負うか、再生を強く願うか。彼はすべての業を消化し終えた。彼の今度の人生は善行だった。そして再生を望まなかった」
「望まない場合どうなる?」
「星になる」
「ほ、星? 空に浮かぶ、あの星?」
彼女は頷いた。
「あ、あのさぁ、そう簡単に惑星が誕生することはないんだぞ」
「どこの星のことを言っている? 銀河がすべてではないと、うすうすお前たちも気付いているだろう?」
彼は黙った。そう言ったようなことを聞いたが興味がないので詳しくは知らない。どこか物凄く遠い場所にいくつもの銀河系に似た惑星群が存在しているらしいということが発見されたが、彼にその真意を確かめるすべなど持っていない。
彼は彼女を見下ろした。
「それで、俺は……」
「助けた気は毛頭ない。声をかけても気付かないものは山ほど居るし、あえてそれに立ち向かおうとするものも居る。お前のように素直に聞き、そしてついてきた奴は始めて見た……いや、一人、いたなぁ」
彼女は小さく笑うと彼を見上げた。
「お前はどうする? このままここに居ても構わないが、ここは何もない。何も無いから欲求すら存在しない。暇という概念がないから思考することもない。ただ、風が次の寿命を終えるものを教えてくれるときにちょいと出かけていくだけだ。それ以外にすることも無い」
「戻ったら?」
「お前の寿命は延びた。あといくらということは私には解らん。私は「神」ではなく星作りなのだから」
「……ここに居ても構わないのか?」
「あぁ。別に困ることは無い」
「じゃぁ、ここに居させてくれ。職を失い住む家を無くしたばかりだから」
「そう。構わないよ」
彼女はその場に腰を下ろした。ぺたんと座りどこを見るわけでもなくただ居る。
彼は鞄を地面に置いた。
風が吹いていく。小さく鈴の音が聞こえる。見上げれば星の葉たちがゆらゆらと動いている。
「ずっと、一人なのか?」
彼の言葉が空しく過ぎて暫くして彼女が首を彼に向けた。
「何?」
「いや、ずっと一人なのかって、大丈夫か?」
「……、さっきも言っただろう? ここには欲求は無い。しゃべりたいという気も無ければ、誰も居ない。喋らなくても構わない」
「それは喋るなということか?」
「喋ったところで相手が居ないんだから、喋る必要が無いだろう? 喋るという言語力は相手の感情や行動の真意を感じれない下等動物が用いた手段の一つだ」
「お前は違うって?」
「風はゆっくりと吹いていて問題は無い。空は青く澄み、緑豊かである。問題は無い。何が不満だ?」
「不満ってわけじゃ……」
彼女はまた遠い目になった。
「おい、名前、なんて言うんだ?」
「……星作りの民」
「それが名前? なんかあるだろう? 日本人らしいから、えっと、ナオミとか?」
彼女の顔はぴくりともしなかった。それよりもじっと彼を見続けたままだった。
「……違う? じゃぁ……」
「お前は?」
「俺? あぁ、俺は、ジャスティス。ジャスティス・レイガー」
彼はそう言ってふと欠片が落ちた気がした。空を見上げれば見たことの無い人が映っていた。病院らしい白い部屋。昼間だというのに誰も側に居ない。ベットの中の老人はただ硬く目を閉じている。
「ん?」
空に彼女が映った。ジャスティスが顔を戻してみれば彼女の姿は無かった。
「もう、終わりだ。どうする?」
「……死神か、出やがったな」
ジャスティスは空を見上げた。
「お前はまだまだ、少なくとも百万は再生をしなきゃいけないようだ。毎回毎回よくもまぁ業を増やす奴だな」
「性分だな。この性分を洗ってくれないの神様が悪い」
彼女は鼻で笑うと、もう一度聞いた。
「どうする?」
「もちろん、戻るさ。もう一度」
彼女は男に手を突き出すと男の身体から光るものが出てきた。多分、この側にある木と同じ星型の「生命の星」なのだろう。
彼女の姿が消えてすぐ、心電図の単調な音が響き、医者たちは急がずに歩いてきてその機械を取り外した。
顔を戻すと彼女がすでに側に居た。その手には光る星型の葉があった。
「さっきの、」
「そうだ」
「業を増やすって?」
「この男の人生はどうしても壊れている」
彼女が葉を摘んで見せた。確かにひびが入っている。
「この所為でどうやっても業を背負い込んでしまうようだ。強盗強姦、恐喝殺人。生きている価値が無い男。だがもう一度やり直したいらしい。しょうがないから作り直そうと思ってね」
「それを?」
彼女は頷くと地面の土を少し取り葉に塗りつけた。
葉は奇妙な形になったがひびは見えなくなった。
それを近づいてきた鹿に食わせる。
「おい、鹿に食わせるのかよ」
「何か?」
「いや、なんか、もしかしてそれが再生? 鹿の子供になるのか?」
「否。人間だ。これは再生する機械。私の趣味で鹿にしているだけだ」
「趣味? 機械? 随分と乱暴な、」
「そういうものだ」
「いや……。どうかと思うが、それで、鹿が食べたものがどうなるんだよ」
「機械の中を通り、転生という場所に行く。そこで親を見つけて生まれ出る。それだけだ」
「なんだ、それ?」
「ここは魂だけが通るから誰も居ない。転生場所は姿を与えられ、言語を持つ。だから賑やかだ」
「……、ずっと一人でここに?」
「私しか星を作れないからな」
「寂しくないか?」
「ここにはそういう欲求は無い」
「と言っても、誰かと喋りたいとか、遊びたいとか」
彼女が笑った。
「お前、まだ生きたいようだな」
ジャスティスは黙った。
「もう死のうか。と思っていた男の言葉とは思えんし、私に話しかけてくるのを見ると、まだまだ生きたいのじゃないのか?」
ジャスティスは俯いていたが小さく頷いた。
「だが、金も、住む場所もない。あのままホームレスになったら俺は死ぬ。それこそ死ぬ。だけど、向こうに居たら何かあるかもしれない。そういう気はする」
「帰るか?」
「そうだな、帰る」
ジャスティスは立ち上がり荷物を手にした。
「ここをまっすぐに行けばいい。そうしたら出られる」
「解った。ありがとう」
ジャスティスは歩き出した。彼女が示した方へ。
「そうだ。まっすぐに行けば逝けるさ。運命の場所へ」
真っ暗な空を見上げている。星が煌き、三日月がまるで笑った口のような形をしている。その側に小さな星が見える。三日月が口ならばあの星はほくろで、三日月が中心ならばあの星は振り子だ。
あぁ、もう何もかも終わるんだ。
悲鳴。絶句。黄色のペンキがジャスティスの赤い血に混ざる。
―ほら、ジャスティスの葉が落ちた―
教えてはいけないよ。死神に自分の名前を―。