梅香
松浦由香
庭には植木職人が植樹するために穴を掘っている。その向こうで木を構える為に数人が荷車の前で待機している。
その風景を家の広縁から腕組をして見ているこの家の主人塚野森 香月(つかのもり かつき)は指示をしている棟梁の後ろで満足げに庭を見ていた。
「南方に梅の木を植えると福が来るそうだ」
香月は右眉尻を上げて笏で口元を隠したまま、
「いつから陰陽師(物の怪使い)になりおうせた?」
と嫌味一つ言った。
「なぁに、平安の世を預かる検非違使大将殿の第三妃に男児が生まれたとあっては親友の私が出向かないわけには行くまい?」
不案内にも屋敷に上がりこんできた夜威(よい)はそう言って香月の横に並んだ。
「勝手知ったるなんとやらか」
香月は吐き出しながら棟梁が按配を伺う顔に頷いた。
棟梁の指示で庭に梅が植えられる。
「見事な枝振り」
「あぁ、妃の大叔父である長筒の大臣からの贈り物だ」
夜威は見事、見事と言いながら広縁側の柱にもたれ、すすす。と腰を下ろした。
「やぁ、王子はいかがです?」
香月が振り返れば産後の肥立ちの経っていない第三妻が甲斐甲斐しく女房を従えて酒の用意をしていた。
「寝ていていいのだぞ」
「他の方ならば。でも、夜威様は旦那様のご親友ですから」
第三妻はそう言って微笑み、一献酌んで下がっていった。
とくとくとく
白濁した酒が注がれていく。程よい加減で合図もなく汲み終わる。
「それで、風情人が都くんだりに如何した?」
夜威はひと音出してくいっと杯を空け土を掛けられている梅を見た。
「暇だから」
そんな事だろう。と言わんばかりに香月も杯を空ける。
「しかし、見事」
梅の枝ぶりは確かに見事だった。
早春の肌寒い中、小さな花がいくつも付いてめでて楽しませてくれるに違いない。と確信するものであった。
塚野森 香月は検非違使の大将を仰せ付かっている。
検非違使は都の警護や安全を見回るものたちだが、このところ多くなってきた。検非違使たちが聞く「噂」。
噂は必ずしも嘘八百とは限らない。真偽のほどが怪しいとしても、真実があったりする。噂が絶えず同じで幾人もの、しかも年齢、性別、場所を違っているときてはそれが如何なものかと思える。
鬼を見た。
陰陽師からの報告はない。
この噂、やはり偽者か?
香月は暦を見た。
今夜は新月。禍々しい物が徘徊する時で、そういえば先ほどから外がやけに慌しいのは、皆日没までに家に帰りたいということなのだろう。
「今晩辺り、出てみるか」
屈強な輩でさえ今晩出るのはまかり通る。仕方なく付いていくしか能がない下男と夜に出る。
月も無く、挙句に雨が降りそうな湿気。下男が照らす微かな堤燈の明かりだけでは心もとない道を南、朱雀門へと向う。
二人の沓の音だけがする。
「女?」
下男が先に気づいた。
堤燈を翳し少し向こうへと照らせばかなり後姿のいい女が立っている。
香月は柄に手を置く。
「こんな時分に何をしている?」
「何って、喰らうためさ」
振り返った女はくわっと毒々しい赤い口を広げて香月たちを見た。
ふわっと匂いが流れる。
女は口を袖で押さえ恨めしそうに走り去った。
香月が振り返れば梅を一枝持った夜威が立っていた。
「やぁ、お散歩かい?」
香月の言葉に夜威は笑みを浮かべながら歩き出した。行き先は朱雀門ではなく、夜威が都に用があれば下宿する文枝という宿屋だ。
こじんまりとして趣のある宿屋で、主人の文枝だは男っぷりのいい奴だった。
夜威と香月に酒を注ぐと、女が鬼の化身だと知り歯の根が合わないでいる下男に酒を注いだ。
「お前が出てくるとなると、妙な噂は本当か?」
「最近特に邪気を感じてな。だがどこでどうか解らんからお前の家にあちこち寄ったら、この枝が切れと言う。切って持ってきたならば見事に咲き、香で鬼を追い払った。だが今はただの梅の枝だ」
「鬼が梅の香に弱いとはしらなんだぞ」
「俺もだ」
香月は眉をひそめて夜威を見た。
ほどいい程度の酔いで顔が桜色を帯び、潤んだ目が行灯に照らされて酒の上に映る。
「旦那方が仰っている鬼って言うのは、偉く別嬪の鬼じゃございませんか?」
香月は文枝の方を見る。
文枝は炙った魚を皿に乗せて持ってきた。
「かなりの噂ですからね。物凄く美人で、そのくせ人の肝を食らうとかで?」
「誰か食われたか?」
「食われたというより、」
文枝の案内で鬼に遭遇したという男の家に出向いた。
十川長屋に住む大工の末松。祝言を上げてまだ一ヶ月と経たないある日あの鬼に遭遇したという。
長屋の近づくに連れてすすり泣く声がし、末松の家の前に来ればその声がはっきりと解る。
「大家や大工の棟梁とも話した上でこれがいい方法だろうと、」
そう言って文枝の要求に答えた家内が戸を開けた。
家の中には柱と柱の間に末松を縛り付けていた。まるで蜘蛛の糸に絡まった虫の様なようそうだ。
泣き声は家内の様だった。
「新月になればなるほど暴れて、昼間はいたって普通なんですけどね、夜ともなると、そんなんでああやって縛り付けておかなきゃ、」
家内は泣き崩れるのを文枝が支えてやる。
末松の目に正気は見えなかった。とろんとした目は白濁と濁り正気は愚か生気すらなく、無駄に開けた口からはだらだらと涎を出している始末。時々思い出したように体を動かしてみるが、その尋常でない縛り上げに程なくして静まる。腕や手からは血が滲み出ているが今の末松に痛みの感触は無い様だ。
「鬼に遭ってからだって?」
「えぇ。朝になっても帰らなくって、探しに行った時に倒れてて、鬼を見て、食われるかと思ったって、でも、でも」
家内はうっぷして泣き出しそれ以上のことは言えなかった。
「昼間はいい奴なんですよ。腕はいいし、棟梁も自分の組を持てるほどだって太鼓判を押してるんですがね、何せ夜となるとこうなっちまって、末松はうちの常連で人事じゃなくて首突っ込んで」
文枝の言葉に香月は頷く。
夜威は腕を袖に入れ腕を組み容赦なくだらしない末松を見た。
末松がくいっと顔を上げて香月たちを見る。
「おい、末松?」
文枝の言葉に末松はゆっくりと文枝を見る。
「ほぅ、見てるか?」
夜威の方を見る。
「鬼だよ、末松の目から俺たちを見てる。そりゃお前行けねぇさ。お前んとこ行くより女房の方が良いに決まってらぁな」
夜威の言葉に末松が激しく泡を吹きながら暴れだした。首を動かしまわり、泡があちこちに飛び散る。
「押さえろ」
香月が末松に飛びつきその動きを止める。文枝と香月の下男三人がかりで抑えると末松はぱったりと動かなくなった。
「あんた」
「少々待ってな。あれはまだ末松とは言えねぇから」
夜威はそう言って末松が吐き出した泡を避けて歩きながら末松に近づく。
「まったくきったねぇなぁ。足の踏み場もないほど唾飛ばしやがって」
夜威はそう言うと末松の鼻先に先ほど有効的な効果を見せた梅の枝を翳した。
がたがたと前後に触れると末松は全身の痛みを訴えるかのような声を出し、暫くしてふと力が抜けたように項垂れた。
「梅が効くのかねぇ?」
夜威はそう言いながら立ち上がり、再び泡を避けながら土間に下りた。
「これ、やるよ」
夜威はそう言って梅の枝をぽっきんと折り家内に手渡した。
「明日まではあの姿でいたほうが良いだろう。明日になりゃどうにかこうにかよくなるだろう。ならなきゃ、香月の屋敷に文句を言いに来な」
夜威はそう言って外に出て行った。
香月たちもあとから出てくる。
「おめぇたち、くせぇぞ」
香月は眉をしかめながら、確かに他人の唾液を嫌というほど浴びた体は臭い。こりゃ、水浴びをして香を焚かねば消えまい。
「にしても、鬼が見ているだの、梅の木が良いだのよく解ったな」
「ありゃ、感だ」
「感? ですかい?」
文枝が呆れた声で聞き返す。
「末松の目が一瞬変わったんだ。こりゃ意識ある目だと。だが末松からは意識は感じられねぇから見てるんだろうと。梅の木はさっき香月たちに会ったときに逃げ出したから、あの鬼ならばどうにかなるかと思ってな」
「じゃぁ、なんかの裏付けてやったわけじゃ、」
「ねえぇねぇ。そんな事あるわけねぇよ」
文枝が呆れかえる。
「そういう男だ」
香月の言葉に夜威は小枝を振りながら歩いた。
第三妻の屋敷に湯浴みをした体をゆっくり脇息にもたれかからせ、煙草をやっている夜威をぼんやりと見ていた。
「なぁ、鬼というのは居るんだな」
「まぁな。とは言ってもちと違うんだがね」
「違うとは?」
「異形なる物を総じて鬼と呼び、それらを退治するもの陰陽師という。だがあれは陰陽師じゃ手が出せねぇ。いや、中には居るさ、安部の何たらとかね、でも特異過ぎる」
「お前ならどうにかできるのか?」
「さぁね、あれがそうなら話は早いが、なんせ梅だ」
夜威の言葉に香月は眉をひそめた。
ときどき香月は恐ろしく親友から疎外感を受けるときがある。夜威が何処の誰でどういった素性なのかよほど知りたいとも思わないが、それを知ったところで何の役にもたちゃしないからだが、でも、それでも、こいつは何者だ? とか、何なんだろうなぁ、こいつは。と思ったときにその感じを受ける。俺はこいつの何も知らない。それがどれほどの疎外感か夜威が知るはずもない。
夜威はゆるりと煙を燻らせながら空をぼんやりと眺めている。そこに熟した満月でも見ているかのように目を細めて。
末松の女房がやってきたのはその日の昼前だった。
一晩中大人しくしていたし、朝も大人しくて、ごくごく普通のことを言うものだから。と縄を解くと、女房を手酷く突き飛ばしてどこかへ消えたという。女房のこめかみには真新しい青痣が出来ていて涙ながらに香月の屋敷の敷居の上で泣き崩れた。
香月は女房を慰めながら夜威を見上げた。
夜威は腕を組み空を仰いでいた。どうやらどこかへ思考が飛んでいっているようだ。
ああして腕を組み空を仰ぐときは決まって別な事を考えているもので、これは暗黙の了解となり香月はそれ以上何も言わない。暫くすれば夜威のほうから何か言葉を発してくる。それまでは黙っている。
「今夜にでも、行くかね?」
よほど緊迫感のない言葉。香月は夜威のほうを見て頷くと、夜威も笑顔を見せた。
一夜月の細々とした明かりの中では、やはり心もとなく、どうにもこうにも側をあやかしの類がうろついている様に感じられて心地が悪い。
靴の音は三つ。香月と夜威、それに文枝の足音だけだ。
文枝は堤燈を翳し二人の前を歩く。
「にしても、薄暗くっていけませんやねぇ」
文枝が小さくこぼす。
行き先は最初に聞いた。朱雀門を正面にした大通りの七辻だと言う。なぜそこなのか行けば解るとしか言わない夜威に促されるまま三人は歩いた。
砂利を踏む三人三様の不規則さだけがそこに存在する。
七辻が見えた。
六辻辺りに差し掛かる頃妙な体のだるさを感じて文枝は眉をしかめている。香月も少しのどの奥が重いような感じに夜威を見た。
夜威は何事の変化も無いのかただ歩き、七辻前で立ち止まった。
「さぁて、香月と文枝は此処に居ろ」
「お前だけで行くのか? それじゃ、私たちが来た意味がないじゃないか」
「馬鹿を言え、俺が倒れた後始末は任せると言うだけだ。それに、文枝は事の顛末を見たいだろうし、あの中に入ってお前に何かあれば、子供たちはててなし子になってしまうだろうが」
夜威はそう言うと香月の肩をぽんと叩き、七辻に向けて一人で歩き出した。
文枝が堤燈を翳し、夜威がまだ夜目が効く様にしてやったが、所詮一夜月夜、堤燈から数歩離れただけで真っ暗闇と化す。
恐ろしく寒々しくて暗い夜だ。
「邪魔した人」
闇から妙にはっきりと浮き上がってきた女が恨めしそうに夜威を見た。
「持っていないようだね、」
「あ? あぁ、梅か? あぁ無いよ」
香月たちの所に二人の声だけは聞こえてくる。
「あいつ、無いのか?」
香月は苦々しく呟く。
「そう」
女のあからさまに馬鹿にしたような喜んでいる声が響く。
「それよりも教えてくれまいか? なんだって梅の木を恐れるね?」
「あれは香を発する。香は嫌いだ」
「香は、拘を呼ぶか」
女が夜威を睨む。その酷い目と言ったら、浅ましさと醜さを併せ持った、不美人の目だ。毒しか感じられず、女という可愛らしいものを取っ払った目だ。
「それで、お前さんはなんだね?」
「あたしはあたしさ」
女はそういうと不敵に口の端をあげた。
「あんましいい女だとはおもわねぇけどな」
夜威の言葉に女は火を噴いた。まるで猫のように毛を逆立て夜威に飛び掛ろうと身を低した。
夜威は相変わらず腕を組み女を見ている。
「夜威、」
香月は痺れを切らし文枝から堤燈を奪うと近づいてきた。
夜威からため息が出る。
女はにやりと笑い、夜威から香月へと目標を変え飛び掛った。
女が香月に抱きついた。
「は、放せ」
堤燈が手から落ち、紙を破って辺りがぼっと明るくなった。
女はせせら笑っていたが紙が燃えて行く中で苦悶の表情を浮かべだした。
「放せ?」
香月は眉をしかめた。
女はしがみ付いていない。逆に手を放そうともがいている様に見える。
「なんだな、喋り過ぎって奴だな」
夜威はそう言うと、紙が無くなり枝だけになった堤燈を持ち上げた。
「ささ、どこぞへなりと消えるか、さもなくば消えろ」
枝で女の背中を引っ叩いた。
女は悶絶に声を上げて姿を消した。
耳を劈く静寂が辺りを占め、香月は女の声でおかしくなった耳を塞ぎながら夜威を見た。
ぼうっと明かりが点き振り返れば文枝が新しい堤燈に火を入れたところだった。
「どうなったんだ?」
夜威はにこやかに微笑み、香月の腕を掴んで屋敷へと歩かせた。
「耳は、もういいかい?」
香月の耳が戻ったのはそれから三日後だった。
その間夜威は何も言わずに微笑んで側に居ただけで、耳がおかしい所為で気が変になることは無かった。勿論この間、検非違使大将の職は休んだので多大なる迷惑を掛けているのだが。
香月は静かに頷き、夜威を見た。
「それで、どうなったんだ? あれは何で、どうしてこうなったんだ?」
香月の言葉に夜威はほくそえみ、空に向けて一本指を立てた。
「まず一つ。あれは色魔というまぁ言うならば鬼としよう。他の分類を作ってややこしくする事もあるまいからな」
「色魔?」
「好色を好むものをひと括りにした呼び名だ」
「好色、ねぇ」
「あの女はたぶん男にだまされ捨てられて命を落とした女だと思う。その女の情念が色魔、この色魔という奴はよく何処にでも姿を見せる。大なり小なり我々だって色魔に憑かれる事はある。妙な色気を出してみたり、そういう気を起したり、まぁそれぞれさ。それゆえに色魔は色物に触れると直ぐに人に憑く。女の死に際多分いいように使い古された事を恨み辛みに思って居ただけだろうが、どういうことをされたか知れないが、その思考は色魔にとっていい塩梅だったのだろうよ」
「それがどうして、」
「末松はたまたまあの辻に居合わせたんだろう。結婚して間が無いと聞いた。恋女房のことを考えて足早に帰ってたんだろう。その色物に色魔が、誠実に女房を思う気持ちに女が嫉妬し、取り憑いたという事だ。末松は少し先の民家でぐったりしていたのを文枝に連れてこさせ梅を嗅がせて正気に戻した」
「その梅だが、」
夜威はにこやかに庭に植えたあの梅を見た。
「香は拘、つまり拘束を意味する拘を連想させる響きがある。鬼―面倒だからそう呼ぶけども―あれらは音で生きているところがある」
「音で生きる?」
「霊媒師やら陰陽師たちが使う言葉、呪言だが、あれらは言葉の音によって鬼を封じる力がある。そりゃ今はやりの仏の教えも同じこった。音、声にはそれを封じたり激励したりする力が備わっている。むやみやたらに適当な言葉を発せばやがては我に返ってくる。そんなもんだろう? 鬼たちが酷く嫌うのはそれを想像させる単音だ。「コウ」だったり「メツ」「カイ」なんかは拘束、滅亡、除界を連想する。そういう言葉を嫌うのさ」
「じゃぁ、梅でなくても、」
「ま良いわけだが、あれはお前を守るためには有効だったのさ」
香月が首を傾げる。
「三妃の加護があったのさ」
香月は納得したように頷いた。
そして、この不思議な男夜威に、再び疎外感を感じるのだった。
― 梅香 終―