それでも僕らのめぐる日々
紫雲 正宗
0、ニート野郎に核ミサイルをぶっ放せ
2015年4月。
あるニュースが世界中を駆け巡っていた。
それは、その8年前の2007年に演じられた世紀の大天文ショーから始まる。
大天文ショーの主役を務めたのは、地球から遥か遠くの宇宙からやってきたと推測される巨大な彗星。
1965年に観測された池谷・関彗星にも引けをとらない大彗星になると天文ファンから熱い視線を送られた憎いヤツである。
名前はNEAT・織田・ヒューイック彗星。
なんでもNASAの小惑星探査プログラム・NEAT(ニート)と日本とドイツのアマチュア天文家の3者がほぼ同時に発見したことからこの名
前がついているのだそうな。念のため断っておくが、発見者の織田さんがニートだったというオチはついていない。
年が明けた2008年1月から2月に掛けて、このニート彗星は地球に接近し長い尾を夜空に描いて再び宇宙へと飛び去っていった。
しかし、天文ファンのみならず世界中の熱い視線を一身に集めた憎いヤツは地球に接近した7年後のある日、突如として終焉の悪魔へと姿を変え
た。
当初、遥か遠方から飛来してきたこの彗星は太陽系外へと飛び出し、二度と戻ってくることのない彗星だと予測されていた。しかし、その5年後
にニート彗星は再び地球の間近に姿を現した。
ただ、この時点ではさして大きな騒動にはならなかった。言ってしまえば簡単なもので、遠くに飛び去っていくはずの彗星が木星か土星の引力に引き摺られ軌道
を大きく変えられて、また地球方面に戻ってきたのだろうと多くの学者が語っていた。
問題だったのはその変更された彗星の軌道。いかなる運命のいたずらか、天文学的な確率を撥ね退け、人類の熱視線を受けていた憎いヤツは地球にフレンチキス
をかます軌道を描き出していたのだった。
彗星の軌道変更が確認されてからの2年間、各国の研究者が計算しつくした結果、地球への衝突確率は9割強。その確率はなにをどう足掻いても
変わることはなかった。 ニート彗星の直径は約40km。富士山が4km足らずなのを考えれば、それがいかに巨大な氷の塊なのかがイヤでもわかるだろう。
衝突した際の被害は予測不可能。
人類始まって以来の未曾有の大災害が起きることは間違いなかった。
ウィスキーのグラスにニート彗星をカチ割って入れたらいったい何杯飲めるかな? なんて言ってる場合ではないのです。
『まあ、あれだね。ウィスキーで何杯分の氷なんだか試してみたいよね』
2015年4月。運命の宣告日。
ホワイトハウスの記者会見場で米国大統領は軽快にアメリカンジョークを飛ばしていた。
大統領のそのお気楽能天気なコメントはしかし、全世界に向けて発信されているがため、あえて余裕であることを取り繕い混乱が生じるのを避け
たものだという見方がある一方で、『あのドラ息子プレジデントじゃ仕方ないよね』という意見が大半を占めていた。
とりあえず、でっかい彗星が地球近辺を徘徊してそのうち地球にぶつかっちゃうみたいなんだけどさ、要はぶつかんないようにすればいいわけだ
よ。そこで登場するのがこのボクちゃん。アイアムアメリカンプレジデントにして世界の救世主? みたいな。やることは簡単でさ。核ミサイルを何発か撃ち込
んでニート野郎の軌道をほんのちょこっとだけ弄くっちゃえばいいわけ。ね? 簡単でしょ? ただねぇ、ウチが持ってる核ミサイルだけじゃ足りないかもなん
だよねぇ。それに、ウチの打ち上げ基地だけじゃ間に合いそうもないのさ。そこで、世界のフレンズに頼みたいんだ。お願い! ボクと一緒にニート野郎に向け
て核ミサイルをぶっ放してちょうだい! 一緒にこのピンチを乗り切ろう! ね? ねっ? ボクと一緒にサクセスしようぜ!
実際には会見は英語で行われたわけだし、いくらなんでもここまで軽いノリで話してはいないだろうけれど、記者会見で世界に向けられた大統領
のメッセージは要約するとそんな感じだった。これでもし、隣に控えていた国務長官やNASAのお偉いさんが補足説明することなく終わっていたらと思うと
ゾッとする。
ともあれ、その日から人類の存亡を掛けた一大プロジェクトが動き出した。
目標はニート彗星。期限は3年と7ヶ月。
つまりは、2018年の11月某日が人類のXデイとなった。
2015年4月。世界一笑えないアメリカンジョークが産まれた日。
その日、全人類の脳裏に深く刻まれたのはニート彗星の回避の仕方でも大統領の戯言でもなく、彗星が地球に衝突する確率90%以上という明確
な数字とそれに伴う大災害の予測値だった。
それでも、人間は自分に都合の悪いものは目に映らないようにできている。
この半月ほど、一部のオカルト教団に奇行が見られたり、行く末を憂いて自ら命を絶ってしまう人が出ているものの、多くの人々が「もしかした
ら人類は滅んでしまうかもしれない」という不安を内在させたまま、そんなこと気に止めもしないようなフリをしてそれまでとさして変わらない日々を送ってい
た。
2015年4月。
巨大な彗星が地球に衝突する可能性と、それを回避するためのプロジェクトを発動するという宣言がニュースとして伝えられた日。
もしかしたら世界は終わっちゃうかもしれないという認識が奥深いところで世界中に広まった日。
2015年4月。
だけど、僕たちの日常はそんな大きな出来事とは別の場所で、地球の滅亡から比べたらそれはそれは取るに足らない些細なもので、けれど僕たち
はそんな些細な日常をそれなりに真剣に生きている。
2015年4月。
場所はニライカナイのすぐ近く、日本の南の端にある仁良伊島。
ここで僕らの高校生活がスタートした。
1、朝一番のマウントポジションと女子には分からない深い痛み
朝起きる時間が少し早くなる。寝ぼけ眼に拍車が掛かる。
着る制服が学ランからブレザー&タイに変わる。詰襟から開放されたよりも首もとには心もとなさが先にたつ。
いままで歩きで登校していたのがバス通学になる。そうなると当然、月1でバス定期を買うという雑用がひとつ増える。
中学から高校へ。小学生から中学生へのステップよりもよりいっそう大きな格差を感じる。まるで、いままでとは違う異世界に旅立とうとしてい
るようだ、なんていうとちょっと言い過ぎだろうか。
これまでの日常とは違うこれからの新しい日常。慣れていかなければならないとは言うけれど、現在進行形でこの新しい日常に挑んでいる生徒た
ちにしてみればそれほど容易なことではない。こういうとき、自分たちの時は苦もなくこなせたのにという大人たちの頭ごなしの言葉は無性にカチンと来る。新
しい生活への不安と反抗期というヤツはもしかしたら一心同体なのかもしれない。
だからそれらのことを総合すると、朝一番で母親の起こす声に反抗し、気付いてみたらバスの時間ギリギリで朝飯を食べる余裕もなく、パン一枚
にジャムをぬったくって咥えそのまま家を飛び出し、間に合うだろうかとよくよく時間を見てみたら実は時計の見間違えで大してあわてる必要もなくて、結局バ
ス停で寝ぐせ全開の髪とよれよれのネクタイに苦戦しながらもさもさとパンを食むことになる。
唯一、救いなのは利用客の少ない路線ということだろうか。
市街地から離れた海沿いの小さなバス停に拓磨以外には利用客は見当たらなかった。
「ふゎ、……ねむぃ」
遅刻の危機を前にフル稼働していた頭と身体が再び眠りを欲しているようだった。
瞼が重い。目元が腫れぼったい。ふつうの呼吸より欠伸の方が多いくらいだ。
バスが来るまであとちょっと。手持ち無沙汰で、仕方なくバス停の時刻表の台座に腰を下ろしケータイを弄る。しかし、これといってやることもなく、すぐにポ
ケットに戻した。
国道の向かい側。道路っぱたの茂みの中から出てきたのはアカショウビンだろうか。涼しげな鳴き声を残して飛び去っていった。赤い鳥を追って
視線を移せば、背後には白い砂浜と淡い翠色のオーシャンビューが広がっている。さざ波に乱反射する朝の日光が目に眩しい。まだ四月の、しかも朝だというの
に気温は少し汗ばむほどだった。
南の島の朝の風景。雲ひとつない青空はすがすがしくて、眠気を引きずる身体には少しパンチが強い。
「……うぅ〜。なんっか、ダルくなってきた」
しばらく夜更かしは控えよう。拓磨は思うのだった。夜行性の傾向がある高校生にとって眩しい太陽はむしろ毒なのです。
やがて、学校行きのバスがやってくる。待っている客も少なければ、乗っている客もこの辺ではまだまばらだ。これで市街地に近づけば客の数も
少しは増えるけれど、観光シーズンのそれとは比較にならない。
まだいくらか緊張気味に慣れない手つきで定期を運転手に見せてバスに乗り込む。
ガラガラの車内。一番奥の席に見知った顔を見つけ、そのとなりの席に座る。
「うおーい、起きろカイトォー、朝だぞぉ」
「う? おぁ、神前か」
座席に着きながら手に持ったカバンで軽く小突いてやると、窓際にもたれかかって寝息を立てていたクラスメイトの和才快人が、これまた実に眠
たげにもぞもぞと身体を起こした。しかし、通学バスでアイマスク装備で寝込むなんてどういう神経をしているのか。しかもアイマスクの下に黒縁メガネを掛け
たままというのだからなにかウケを狙っているとしか思えない。
「おまえさ、そこまで全力で寝てて平気なのかよ。そのまま寝過ごして学校に遅刻するとか考えないわけ?」
「いや、神前が起こしてくれるってオレは信じてるから。それにまあ、寝過ごしたら寝過ごしたでそのままサボっちまえばいいし」
拓磨の訝しげな問い掛けに対しても快人は平然としたものだった。
出席日数が足りてればいいんだよ、高校なんて。そんなことをわけもないといった風に言ってのける。
これが入学して半月足らずの新入生の言葉だろうか。
天才と変人は紙一重。中学からの付き合いだけれど、コイツは間違いなく変人の類いだな。隣で大きく伸びをする同級生に、拓磨は呆れを通り越
し尊敬の眼差しを送るのだった。
「そういや昨日のニュース板見たらさ。今度の種子島から打ち上げられるヤツには核を積んでるらしいぜ」
「え? だって、あれはニートを見張るための人工衛星だって話だろ? ずっと前から作ってたヤツをニート専用に改造したとかっていう」
「公式発表ではそうなってるな。でもいくらなんでもタイミングよすぎだろ? みんな結構怪しいって言ってる。むしろ、核だって言ったほうが信
憑性があるって」
「いやいやいや。もしそうだとして、どっから核を持ち出してきたんだよ? まさか、日本は秘かに核を保有してたとかいうオチ?」
「いや、実はその核はノウスコリア製とかな」
「うわ、どういう流れでそうなるよ? ぜってぇありえねぇ〜」
今日も今日とて、流れ出てくる話題はそんな他愛もない噂話の類いばかりで、表向き世界はどこまでも平和そのものだった。
海と林とに囲まれた国道。道はいったん海沿いから離れ、短いトンネルを抜けたあと再び海沿いを走る。ここまでの道のりで通り過ぎたバス停は
ふたつ。乗る人間も降りる人間もいなくてバスはノンストップで走っている。
ちなみに、このバスはお年寄りにもやさしいノンステップバス、ではなかった。近年ますますの高齢化に対応するために導入する予定はあると回覧板でちら見
した気が、とかそんなことはまぁどうでもいいことではあるが……。
やがてバスは石徳町の街中に入っていく。
去年まで拓磨たちが通っていた石徳中学のある街。
今年から通う仁良伊北高校はここよりさらに先の笠木名町にあった。
いままでの通いなれた道、見慣れた風景をバスの窓から眺めていると、なんとなく島流しにあう流刑人か国外に逃れようとする犯罪者のような心持がしてしまう
から不思議だ。なにか悪さをしたわけでもないだろうに、それまでの日常から爪弾きにされたような、あるいは留まる事が叶わず静々と自らの馴れ親しんだ土地
を後にするような。
それはどうやら快人も同じようで、
「思えば、遠くまで来たもんだ。……いや、正確には行くもんだ、かな? 高校に上がっただけでこんだけ距離が離れるってことは、この先はいよ
いよ飛行機通学かなにかするハメになりそうだな」
「……いや、そうなったら1人暮らしだろ、普通。それに、もうすでに親元離れて高校の寮に入ってるやつだっていんだから、それ考えりゃまだオ
レたちはいいほうさ」
「まぁな」
そうこうしている間に、バスは懐かしの街を通り過ぎようとしていた。
石徳中学前を通り過ぎ、石徳東の交差点を越え、その先には再び海と林とに囲まれた国道が続く――、
はずなのだが、
「……お?」
「……誰か乗るな」
今日に限って、バスは石徳町内の最後のバス停で停車するようだ。車線から歩道の方へ寄ってゆるゆると止まる。誰か客を乗せるようである。見
ればバス停の前にぽつねんと1人、客がいるのが見えた。
別に客がいること自体はさして珍しいことではない。いくら利用客の少ない路線だからと言って「おいオレたち以外に客が来たぞ!?」「ヤバ
イ! 奇跡だ、奇跡だよこれ!」と抱き合いながら狂喜乱舞するほど酷くはないのだ。
ふたりが興味を引いたのは、その乗客の姿。
「……あれって、ウチの制服、だよな?」
「……なんか病気してるみたいに色白だな?」
ほぼ同時に出てきた二人の言葉はまるでちぐはぐだったけれど、乗り込んできた少女の容姿をそれぞれ的確に捉えた言葉だった。
平均よりは少し低いように思われる身長。体つきは少しメリハリには欠けるがまあまあ。顔立ちも少し幼い印象を与える。花飾りのヘアピンがさ
らに幼さを助長している気もする。が、なによりも目に付くのが肌の白さ。インテリチックであまり外で活動するのを好まない快人もここの島人の中ではかなり
白いほうだと思うけれど、彼女の白さはいままで二人が見た事がないくらいのものだった。快人が「病気してるのか?」と言ったのも頷ける。
それでも、おそらくは自分たちと同い年くらいには見えた。
そして、彼女の服装は――ベージュのブレザーに深緑と紺色のストライプ柄のスカート、赤いタイ、胸元にあるエンブレムは間違いない、拓磨た
ちと同じ仁良伊北高のものだった。
しかし、拓磨には彼女の顔に見覚えはなかった。
「……あんな子、ウチの学校にいたか?」
「さぁ。……少なくとも、オレは知らん」
違う学年なら、あるいは違うクラスなら顔を知らなくても、とも思ったけれど、同じ路線のバスを利用していながら3週間ものあいだ一度も顔を
合わせなかったというのは考えにくい。それとも、単にいままで気づかなかっただけだろうか?
いや、それでもこのバス停から乗ったのなら知らないはずはない。同じ中学の学区内の生徒とはほとんどが顔見知りなのだから。
謎の少女は客のまばらなバスの中、中程の席にひとり静かに座った。こちらに気を止めることも気付いたふうもない。
「う〜ん。わからん」
「ひょっとしたらあれか? 白蛇のあやかし?」
「なんでそうなるよ、おまえは」
席に付いた謎子さんをまじまじと見つめて、快人はかなり真剣な顔つきをしていた。こいつに言わせたら見知らぬ八重歯さんはドラキュラの末裔
で、そばかす少女は赤毛のアンの生まれ変わりに違いない。
学校に近づくにしたがってバスの乗客も増えていく。
大半は近辺の中学・高校に通う生徒で同じ学校に通う顔見知りの姿もちらほらと見受けられる。
しかし、そんな中にあっても例の謎子さんは誰と話すでもなく1人きり座席に座り、窓の外の風景に目をやっていた。国道沿いに続く白い砂浜と
青い海を見つめたままピクリとも動かない。まわりにいる女子生徒と比べてもひときわ目をひく色白の肌もあいまって、その姿は端から見ていても妙に浮いてい
た。
そうこうしている間に、バスは笠木名町の街の中に入ってきた。高校前のバス停までもうすぐ。こういうとき『バスが停車するまで立たないでく
ださい』というアナウンスを無視して立ち上がるのは2・3年生。ネクタイが緩んでいたり、ボタンがひとつふたつ多めに外れていたりするので一目でわかる。
謎子さんは、……まだ座ったままだった。
『次は仁良伊北高校前。仁良伊北高校前。確かな実績と安心の診察の戸樫歯科、サーフボードの格安リペア・ブルードルフィンに御用の方もこちら
になります。次は仁良伊北高校前――』
無機質な音声アナウンスと共にバスはのんびりと停車、と同時にみんないっせいに降車口に押し寄せる。
「……うおーい、この期に及んで寝てんじゃねぇっつーの」
隣を見れば、いつのまにか快人はまた夢の世界へと旅立たれていた。ふたたびカバンで小突いてやると
「う? ……ああ、着いたか?」と実に呑気なものだ。こいつ、ほんとうに大丈夫か?
もうため息も出てこない。
グータラしている快人を引きずるように連れ立って拓磨も降車口へと急ぐ。あまりもたもたしてたらそれこそ本当に降り損ねそうだった。
――そして、事件は起きる。
それは、もしかしたらもう二度と帰ってこなかったはずのニート彗星がその軌道を変えて、あげく地球とフレンチキスをかますに至る、それより
も遥かにありえない出来事だったに違いない。
この世にいったい、こんなことが起こりえるということをみなさんは予想できるだろうか?
降車口へと急ぐ拓磨。高齢者の仇な降車口のステップを駆け降りる。
が、その最後の一段を降りようとした際、ほどけていた靴紐がステップの微妙な隙間に絶妙に挟まり拓磨は足元を掬われた。
思いっきり前のめりになりながらバスを飛び降りる拓磨。
その目の前にいたのは、件の謎子さんだった。
「!」
衝突の危機を回避しようと反射的に伸ばした拓磨の手は謎子さんの肩に掛かる。
一方の謎子さんも拓磨が漏らした叫び声に気付いて後ろを振り返ろうとしていた。
それは千載一遇の絶妙なタイミング。
振り向いた謎子さんと拓磨は真正面から見つめあう形で対峙した。
しかし、拓磨の躓いた勢いがまだ止まらない。さらにいうなら、謎子さんが立っている位置もまたこれ以上ないほど絶妙に悪い位置だった。
迫る拓磨に押される形で半歩さがった謎子さん。その足は道路と歩道との段差に引っかかり、結果として謎子さんも後ろ向きに倒れこむことになる。
これに対し、拓磨は瞬時に押す動作から引く動作へと移行する。いまだ見ず知らずの謎子さんにヘタに怪我を負わせるわけには行かない!
なけなしの正義感が、拓磨の内に眠る潜在能力までをも総動員して謎子さんの身を守ろうと必死でもがいた。結局はそれが裏目に出てしまう。
謎子さんの身体を引き寄せ、彼女が倒れてしまうのを防ぐことはできた。が、今度は拓磨自身が歩道の段差に蹴躓いてしまう。
そこで「じゃあ今度はわたしがあなたを助けるわ!」といって謎子さんが拓磨の身体を支えてくれるかというと到底それは無理な話で、ふたりはそのままもつ
れ合うようにして倒れこんだ。
それでも、これだけの状況の中で拓磨の危機回避はよく出来ていたほうだと言っていい。とっさに、ほとんど無意識に謎子さんの後頭部をかばうように手を指
し伸ばしていたし、これまたほとんど無意識のうちに両膝と残った左手の3点で衝撃を分散し、自らもなるべく怪我をしないようにしていた。
出来栄えとしては着地10点満点のその体勢はしかし、端から見ていたら押し倒した女子生徒の上に馬乗りになる男子生徒の図以外のなにものでもなかった。
もちろんそれは、当の謎子さんにしても同じことだった。
弁解するならなにも立ち上がってからでよかっただろうに、
「…………」
「あ、いや、ゴメン! これにはいろいろと深い因果関係が存在しているわけで――」
「イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
ドフッ
脳天にまで響く鈍い音。
完全にテンパッてた拓磨はマウントポジションキープのまま言い訳を練り出し、謎子さんから下腹部のさらにちょっと下あたりに痛恨の一撃を叩き込まれるの
であった。
この痛み、女子には永遠に分かるまい。
はじめのうちはなにが起きたのか分からず、徐々に徐々に腹の底から湧き上がってくるこの痛み。K-1ファイターとかがローブローを受けたときに一瞬だけ
間を置いてから蹲るのはつまりそういうことなのだよ女性諸君。
一説によれば瞬間的には末期がんや盲腸の痛みを上回ると言われている。
どちらの病気にも幸い縁のなかった拓磨に比較の余地はないが、比較する余裕もないだろうか。
額に脂汗を浮かべながら蹲る拓磨。その間に謎子さんはすでに逃げさっていた。
「ぺ、ぺれすとろいかぁ」
「……ああ、旧ソ連の革命運動か。たしか、ロシア語で“建て直し”の意味だったかな? 確かに、いまのお前には建て直しが必要そうだ」
混濁を極める思考活動の末、なにゆえか湧いて出てきた単語に快人はひどく冷静な受け答えを返してくるばかり。
「そんなことより遅刻するぞ。早く来いよ」
しかも、助けるでもなく励ますでもなく後ろ手に手を振ってひとりすたすたと校門を潜って行ってしまう。拓磨としてはもう泣くしかなかった。
空は晴れ渡っていると言うのに気分はどんよりと沈んでいた。というより、いろんな意味でヘコんでいた。
下腹部の痛みは徐々に引きつつあるけれど、なにぶんこの痛みは後を引く。おなかの辺りを手で押さえながら前かがみに歩く男子がいたら察してあげてくださ
い。
抜けきらない痛みを引き摺りながら教室に入ってきた拓磨に友人数人が気遣いの声を掛けてくる。いわく、「大丈夫か? なんか知らんけど、顔が青いぞおま
え」
まさか、校門の前で女の子を押し倒し金的をもらいました、なんて言えるはずもなく、拓磨は「だいじょぶだいじょぶ」を繰り返しながら自分の席に付いた。
カバンから授業に使うノートパソコンを取り出し、机から生えている電源コードとLANケーブルを繋げて立ち上げる。学校の授業はいまやノートパソコンが
主流。教科書も電子データで配信されてくる時代だ。「先生! 教科書を忘れちゃいましたー!」はすでに考古学用語である。
OSソフトが起動したことを知らせる画面のあと、各アイコンが並んだ通常のデスクトップが一瞬だけ表示され、すぐに学校のエンブレムが左上に表示された
画面に切り替わる。どうでもいいけれど、画面上を流れる「きょうも元気に健やか学習!」というテロップはなんとかならないものだろうか。
ふと、自分の隣の席に目を移したときにあることに気付いた。
昨日まで空席で、使われるはずのなかった机。その机から昨日までなかったはずの電源コードとLANケーブルが生えていた。
「? なあ、これ。いつからこうなってた?」
空席のはずの電源コードを指差しながら、拓磨は手近いにいたクラスメイトに訊いた。しかし、それに答える声は、
「あれっ? そこって空席じゃなかったっけ?」
「……ほんとだ、いつのまに?」
「いや、オレが見たときにはもうそうなってたよ」
と、拓磨と似たかよったかの反応が返ってくるばかりだった。が、寄り集まってきた数人の男子生徒の背後から女子生徒の声が割り入ってきた。いわく、
「そういえば、転校生が来るかもって噂になってるよ」
『転校生ぃ?』
その場にいたほとんどの声が被った。みな一様に訝しげな表情だ。
まあ、無理もない。
これが夏休み明けに、とかならまだ納得はいったのだろう。
けれど、いまは自分たちが入学式を終えてからまだ1ヶ月と経っていない時期だ。
「時期的にビミョーじゃね? こんなタイミングで転校ってアリなんかな?」
「っていうか、その噂ってどうなの?」
「わかんないけど。でも、昨日かその前に職員室で見かけない生徒を見たって誰かが」
「……誰かって誰だよ?」
「えぇ〜、わかんないよ。わたしもまわりのみんなから聞いただけだもの」
みなの間に「なぁんだ」という空気が流れる。友達の友達から聞いた話の類いか、と。
例えば都市伝説などはそういった根も葉もない噂話の寄せ集めだったりする。その手の噂話は「これはみんなが話していることなんだけど」とか「友達の友達
から聞いた話なんだけどね」といった具合に始まることが多い。
その手の話が好きでよくしたがるのは女子の方が多くて、火のないところに煙は立たない的な論拠で話を進め尾びれと背びれをくっつけて次の相手にまわすの
だ。彼女たちに掛かれば幸薄顔の教頭の湯飲みに茶柱が立ったことを発端にして世界崩壊の危機が語られるに違いない。
始まりのチャイムが鳴ったこともあり、それ以上話は続かずみな自分の席へと戻っていった。
が、その中にひとりだけ転校生の噂話を無視しきれず自分で組み上げてしまった脳内パズルに引き攣った笑みを浮かべているヤツがいた。言うまでもない、拓
磨だった。
誰かが職員室で見たという見知らぬ生徒。
通学バスで見かけた色白の謎子さん。
彼女は確かウチの学生服を着ていたような。彼女は確かウチの学校に入っていったような。そして、トドメとばかりに用意されている隣の空席。
――そんな、まさか。
そのまさかは、わずか数十秒後に結実する。
教室のドアが景気よく開けられ担任の沖田、通称ゴリラが入ってきた。
その後ろに連れ立って入ってくる女子生徒がひとり。
クラス中が彼女に沸き立ち、脚光が浴びせられる。
バスの中でなくても、その肌の白さは際立っていた。
ゴリラのとなりに立つと親と娘を通り越し、誘拐犯とその誘拐された女の子といった感じだ。
ざわめく生徒たちを宥めながらゴリラが話しはじめる。
「えぇ、入学式を終えてまだ間もないこの時期に、ではあるが。えぇ、今日から仲間がひとり、増えることになった。えぇ、東京から来た薗原佳乃
花くんだ。えぇ、じゃあ、薗原くん。自己紹介をたのむ」
ゴリラに促がされ、謎子さん――薗原佳乃花は半歩前に出て小さく頭を垂れた。
妙に緊張した空気があたりに漂う。
その第一声にみな神経をとがらせた。
「東京から来た、薗原佳乃花です。見知らぬ土地で、慣れないこととか戸惑うこととかたくさんあると思います、ので、みなさん仲良くしてくださ
い。よろしくお願いします」
その幼さを窺わせる面立ちとは裏腹に、緊張からかすこし詰まりながらではあったけれど、その声はしっかりとしたものだった。ゴリラよりよっぽどよく通る
澄んだ声に、クラスのほとんどの人間が心の中で感嘆の声を上げていたに違いない――ただひとり、心の中で悲鳴をあげていた拓磨を除いて。
「えぇ、じゃあ、まあそんな感じで、みんなよろしく頼む。えぇ、と。薗原の席は、アイツだ。あのなんか呆けた顔してるヤツの隣」
言いながらゴリラがビシッと指差した先にいたのは、もちろん拓磨だ。
ゴリラの指先を追って鮮烈転校生の視線が拓磨のもとに辿りつく。
目を反らす余裕もありはしない。
居並ぶ生徒たちの頭上を越え、互いの視線がかち合った。身の置き場もありゃしない。
「えぇ、ってことで神前。……カミサキくぅん、聞こえているのかなぁー? えぇ、なにかわからんことがあったら、ちゃんと手取り足取り教えて
やるんだぞ。いいなぁ?」
「…………はぃ」
手取り足取りの部分がやけに強調されたゴリラのアンニュイなエロトーク。いつもなら失笑ひとつで流せるそのセリフも、バス停でのことを思うと泣くに泣け
ない。本当に穴があったら入りたい。むしろ、誰かオレを埋めてくれ。
薗原佳乃花はそんな朝の珍事など知らぬ風にすたすたと歩いてきて拓磨の隣の席にすとんと納まった。
気まずい。
実に気まずい。
なにか話しかけたほうがいいのか?
それとも、知らぬフリを続けたほうがいいのか。
突然現われた美人の転校生。その転校生があろうことか自分の隣の席に座るなんて!という意味合いで心臓がドキドキ言うのならわかるが、拓磨のドキドキは
まったく違う類いのものだった。なんか知らないけど、金的くらった時よりよっぽど変な汗かいてます。
「えぇ、じゃあ。まあ、そういうことで、さっそく出欠の確認から行きますかね」
ゴリラが出欠の確認を始める。そのあいだ、薗原は隣で静々とノートパソコンをセッティングし始めた。ずいぶんと慣れた手つきだ。このへんの設備は東京と
さして変わらないのかもしれない。
「……ああ、こっちが電源のコードでそっちがLAN回線な。ちなみに、ウチの学校の授業用ソフトはもうインストールしてある? もしまだだっ
たらいまのうちにオレのソフトをコピーしてそっちにやるよ。……あ、そういや、名前がまだだったっけ? オレ、神前拓磨。よろしくな」とかそんな軽快な語
り口で切り出す余裕も、余地も、ついでに器量も、悲しいことに拓磨には備わっていなかった。かといって、ふたりの間のこのどうにも嫌な沈黙に耐えるのも限
界で、
「――あのぉ。薗原さん」
「……はい?」
拓磨のかなり精一杯の呼びかけに、薗原はきょとんとした顔でこちらを向いた。その表情にはなにも感情が出てないような気がする。少なくとも、嫌悪とか軽
蔑などの表情はない。
――あれ? これってもしかしてひょっとする?
もしや、さっき自分を突き倒した男子生徒がオレだとは気付いていないのではないだろうか?
そうだ。あんなことが突然起きたところで、相手の顔を確かめるなんて彼女には無理だったんじゃないだろうか?
その可能性は充分あるように思えた。真っ暗闇の中で一筋の光明を見つけた気持ちになる。ああ、ありがとう。神様はまだ、オレを見捨ててはいらっしゃらな
かったのですね!?
「あぁ、……オレ、神前拓磨。神様の“神”に前後の“前”でカミサキ。よろしくな。なんか、わかんないことがあったら、なんでも聞いてくれよ」
そうなれば話は早い。
切り口なんてもうすでにどうでもいい。要は普通に接しさえすればそれでいいんだ。
いままで暗澹たる気持ちで、いやな心臓の鼓動を聞き続けていたのが嘘のように、拓磨はいたって普通に話しかけた。が、
にこっと柔らかい笑みを浮かべながら薗原が発した言葉は、
「仲良くしてくださいね。……でも、わたしの半径5メートル以内にはなるべく入らないようにね。ゴウカンマくん」
――くぁwせdrftgyふじこp;@:「」!?
天国から地獄とはまさにこのこと。
その瞬間、拓磨の全身に駆け巡った稲妻のような絶望感はマリアナ海溝よりも深くエアーズロックより重い。その悲壮感を表現できる言葉はこの世には存在し
なかった。
強姦魔くん。
拓磨の人生の中で最初にして最悪の汚名が付いた瞬間だった。
2、ちょいと早めの海開きと兎亀軒のうわさの看板娘
人間にとって重要な3大要素は衣・食・住と有史以前から相場は決まっている。この3つ無くして人間の生活は成り立たない。かつて、これら3つの要素を引
き金にしていったいどれだけの戦いが繰り広げられてきたことだろうか。
特に、食に関する戦争は常日頃、世界中のいたるところで繰り広げられている。
それは、例えばお昼時の学食など。
ここ、仁良伊北高校で食の戦争の火種となっているのが食堂の鶏飯(けいはん)というメニュー。カリカリに焼き上げた地鶏のスライスをメシと共に盛り、そ
の上からダシスープを掛けて食べるというこの地方の郷土料理みたいなものだった。
どのメニューにしても数に限りがあるのだけれど、とかくここの鶏飯は学食のわりに安くてうまいと評判で、それゆえ競争率がバカみたいに高いのだ。
入りたての1年生も諸先輩方や教師からそのうわさを耳にいれ、一度は食べてみたいという意気込みを持ってみずから鶏飯争奪戦の戦火のなかに飛び込んでい
くのであった。
ちなみに、拓磨はいまのところ全敗中である。
「くっそ、早ぇな。もう終わりだってよ」
「……おまえも懲りないな」
「ホントホント。鶏飯くらいウチでだって食べられるのに」
しかたなく、いつものねぎラーメンと半ライスをお盆に載せテーブルまで戻ってくると、そこではすでに快人と大洋と花純の3人――中学時代からの顔なじみ
が各々の昼飯を頬張っていた。
大洋などはもうすでに食い終わりそうな勢いだった。
「……っていうか、おまえら待ってないのな? ヒトが鶏飯争奪戦に果敢に挑んできたっていうのに。みんなでいっしょにおいしく食べましょう!
とかないわけ?」
「えー、だってぇ。冷めたら美味しくないしぃ〜」
「いや、ざるそばは冷める要素なくね?」
「なにを言うか。学食のおばちゃんたちが魂削って込めてくれた愛情という名の温もりが冷めてしまうではないか」
「……快人。おまえってホントにステキングだよ。“ミスター減らず口”だよ」
「――あー! ウマかったー。ごちそーさま」
「早ッ」
見れば大洋のお盆はほんとうにスッカラカンになっていた。
カツ丼定食大盛。所要時間にして約10分。
「……大ちゃんは、もうちょっと味わって食べたほうがいいんじゃない?」
「んやぁ、ウマいものってどうにも食が進むっつーか? 止まんないんだよね」
カレーを食ってたスプーンで指し示しながら花純が抗議するも、大洋が意に介するようすはまったくない。
「ちょっとジュース買ってくら」
そのまま空いたお盆を手に立ち上がり行ってしまった。大洋というよりはまるで小さな嵐が動き回っているような感じがする。
「まったく。せわしないヤツだ。飯くらいもっと落ち着いて食えんのか」
「そういうおまえは飯を食いながら本を読むな」
「ホントだよ、ワッキー。それ、すごくお行儀悪いよ?」
「……おまえはオレのお袋か? っていうかその“ワッキー”ってやめてくれないか。どっかの芸人みたいだ」
快人にとってはそうとう嫌なことなのだろう。メガネを押し上げながらそうとう鋭い眼光を花純に向けている。しかし、花純の方ももうなれたもので「えー、
だってワッキーはワッキーだもの」とまるでとりあわない。
そんな二人のやりとりを横目に拓磨はねぎラーメンの消費に取り掛かる。中挽きのブラックペッパーを一振り、箸立てから割り箸を一箭取りパキッと割ると見
事に真っ二つ。おみくじで言えば大吉から中吉といったところか。そのまま、麺から入るのではなくお椀を両手に持ちスープを啜り、
「そういえば拓ちん。朝、バス停のとこで女の子を押し倒したってホントッ!?」
ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!
啜っていた途中のスープが一気に逆流。一部が鼻にまわり鼻腔の奥の方がジーンと痛くなってきた。咳き込むのと鼻を咬むのとでてんやわんやしながら、
「――快人ッ! おまえ花純にどんな風に吹き込んだんだよっ!?」
「? いや。単に“朝、拓磨がバス停のところで女子に抱きつきーの押し倒しーのでマウントポジションをとった”とありのままを話して聞かせた
だけだが?」
「バカ、おまっ! 違うっつってんだろ! あれは事故だっつの!」
「えぇーっ! じゃあ、マウントポジションはホントだったの!?」
「…………ああ、もうっ!」
拓磨はそのまま頭を抱え込んでしまう。
まあ無理もない。
この昼休みまでの4時間、その当の本人と隣りあわせで座り、ずっと気まずい雰囲気を抱えながら午前中を過ごし、ようやく解放されたと思ったところにこの
追い討ちだ。拓磨としてみればたまったものではない。
しかたなく、弁解する意味も込めて、拓磨は朝からいままでの流れをぽつぽつと話した。
「……うわぁ〜、ヘヴィーだぁそれ。ゴウカンマくん、って」
「……神前。おまえってホントにステキングだよ。“ミスター・世界中の不幸背負っちゃってます”だよ」
ひと通り話し終えると、驚きだか励ましだか分からない言葉が返ってきた。言葉は違えどふたりとも揃って好奇の目を輝かせているのが腹立たしい。
「――ってか、なんだよその“ミスター・世界中の不幸背負っちゃってます”ってよぉ」
「なんだ不満だったか? なんなら“ミスター・世界中の女の子をマウントポジションで落としてみたい”でも――」
「泣くよ? オレ。マジで」
本気で半ベソ気味に声を詰まらせながら訴えると、見ていたふたりはドッと笑い出した。ちくしょう、他人事だと思いやがって。
人間とはかくも残酷な生き物だ。ヒトの不幸だといくらでも笑える。
「お? 拓磨どうした? そんなうな垂れちまって? ラーメンのびるぞ」
そこへ、ジュースを買いに出ていた大洋が戻ってくる。こいつはまだ和才から吹き込まれていないのか、このテーブルの一画でなにが起きているのかまるで理
解できていないようだった。
「――大ちゃん、ちょっと聞いてッ! 拓ちんがねっ! 拓ちんが――」
刹那。
拓磨の抜き放った割り箸ソード・ラーメン汁込みはきれいな弧を描き花純を襲う。
しかし敵も然る者、相手は中学時代に剣道部主将を務めたことのあるツワモノだ。
拓磨の脆弱な割り箸ソード・ラーメン汁込みは花純のスプーンシールド・カレールー込みに簡単に阻まれていた。
「ふふふふふっ。拓ちんもまだまだ甘いわねっ。初動のムラがまだまだ大きいすぎるわ。そんなんじゃ、その先の行動パターンも丸分かりよっ」
「ぬうぅ。……と、とりあえず、その強姦ネタだけは、それ以上広めるのは控えてもらおうか?」
「――っていうか、おまえらふたり、なにしてるん?」
「……さぁて、オレもごちそーさん。福添ぇ、そのふたりの後始末はまかせるな。よろしくー」
いいながら快人は空いたお盆を手に立ち上がり、にらみ合うふたりと呆然と立ち尽くす大洋を置き去りに、大洋の肩を軽く叩いてそそくさと退散してしまっ
た。戦の火種を自ら起こし燃え広がるのを確認して自分は早々と戦線を離脱する。しかも自分の代わりの仲立ち人を立ててからの離脱という、実に快人らしい戦
術である。
数分後、快人に継いでカレーを完食した花純も「クラスの友達に話すことあるから、先に行くねぇ」といってその場を後にしていた。退場際、「強姦ネタはヘ
タにばら撒くな!」と釘を刺すことは刺したが果たしてどうだろうか?
ちなみに、善戦むなしくこの場での感染拡大を食い止めることはできず、拓磨・転校生をいきなり押し倒しちゃった事件は大洋も知るところとなってしまっ
た。
「ああー、もうなんか死にたい。いますぐこの場で首吊って死にたい」
なんか今日のお昼はまるで食べた気がしなかった。さんざ騒いでいたせいでラーメンは伸びてしまい、精神的ダメージとあいまって味なんて少しも分からな
かった。
「拓磨も大変だな。あのふたりに始終弄くられてたんじゃ」
そういう大洋も、あのふたりとの付き合いは拓磨と変わらないはずなのだ。にもかかわらず、かぶる火の粉は圧倒的に拓磨の方が多いのはいったいどういうわ
けなのだろうか?
――人柄? いわゆる人徳ってヤツか?
たしかに、悪いヤツじゃないとは思う。短く刈りそろえられた黒髪に程よく焼けた黒い肌。かっこいいともかわいいとも形容できそうなその爽やかな笑顔は好
青年と呼ぶに相応しいだろう。自分もあやかりたい。
「はぁ、なんか。高校生活始まったばかりだってーのに散々だよ。泣きそうだよ大洋さん、オレどうしたらいいぃ?」
「はははっ、ホントにやられちゃってるな? まあ、元気出せ!」
そう言って励ましながら、大洋は拓磨の肩をバシバシと叩く。拓磨には彼の思いやりの心が痛いほど――いや、実際ちょっと痛いくらいに伝わってくるのだっ
た。
「ところで、拓磨は高校入ってからもう海には行ったか?」
「ん? ああ、そういや受験シーズンに突入した頃から全然行ってなかったな。……っていうかもうすぐ海開きか。どうする? 今度の日曜あたり行くか?」
ここで言うふたりの“海へ行く”は単に海に浸かって泳いでくること、ではない。
このふたり、背丈も性格もまったく違うがひとつ共通の趣味を持っている。それは中学1年の夏休みから始めたサーフィンだ。
切っ掛けは、大洋の家の物置から大洋の父親のお古のサーフボードを見つけてから。
始めたころはその一枚をふたりで順番に使って練習していたが、一昨年、拓磨の両親が営むペンションを手伝うかたちで手にしたバイト代をはたいて中古の
サーフボードを購入。まわりの先達にちょっとずつ指導を仰ぎながらお互いにしのぎを削っている。
しかし、それもさすがに高校受験をひかえる時期に入り一時休止、この半年くらいの間はふたりとも海には行っていなかった。
「高校に入っての初サーフか。この時期に波の状態がいいのってどのへんだっけか?」
「ん? まあ、しばらくブランクがあったし、手始めに石徳中前の砂浜でいいんじゃね?」
“ブランク”なんてまるでプロサーファー気取りだけれど、こういう気持ちの問題というのは結構重要だと思う。野球少年は小さな大リーガーを気取るし、
サッカー少年は誰もがエースストライカーに成り得る。そんな子たちの中から、将来ほんとうにメジャーに渡ったりセリエAで活躍したりする子が出てくるのだ
から。
「それじゃ、今度の日曜。……お昼前くらいでいいか?」
「だな。……そうだ。ついでだからさっき花純が言ってた噂も確かめに行って見るか?」
「…………は? うわさ?」
なんのことだろう。拓磨にはさっぱり分からなかった。
今日ここまでで、噂と聞いて思い出すのは転校生のことくらい。その転校生を、事故とはいえ押し倒しそのうえに馬乗りになってしまったのは他でもないオレ
自身であって、教室でいきなり隣同士の席とか、神様って本当にこういう運命の悪戯とかお好きですよね、あははは、あはははははっ。あげく見事に強姦魔とい
うありがたい汚名を――。
やめた。
いちど考え出すとどんどん思考がブラックに落ち込んでいく。こういうときは他の事で気を紛らすに限る。
「うわさって? ……ゴメン。オレ、途中ぼーっとしてて聞き漏らしたくさい」
「拓磨、ホントに疲れてんだな。……まあいいや。さっきな、花純が帰り際に言っていったんだよ。兎亀軒に女の子のアルバイトが入ったって」
「はぁ? あの年季の入ったボロラーメン屋にか?」
「そうそう! しかも、どうやらかなり可愛い子らしいぞ!」
「……ホントかよそれ? っていうか、だいたいバイトなんか雇う金あるのか、あそこ?」
兎亀軒といえば、石徳中学近くにある古びたラーメン屋として近隣の住民に慕われている店だ。味は悪くないし、客入りもそこそこいい。
しかし、いかんせんその佇まいが古過ぎる。もう拓磨たちが石徳中に入学した頃から「今度の台風で倒れやしないか」と噂されていた店だった。ついでに言う
と、中で働くおやっさん夫婦も店に負けないくらい年季が入っていた。
「それ、誰からの情報だって? まさか、花純自身が兎亀軒に食いに行って確かめてきたわけじゃないんだろ?」
「ああ、たしか山ちゃんだか誰かが一昨日あたりに行ってみたらいたとか? なんかそんな話だったな?」
「はぁん。信じられねぇけどな」
「まあ、いいだろ? それに、あすこんチのラーメンもひさしぶりに食ってみたいしさ!」
「まあね」
こうして、高校初のサーフの日取りと兎亀軒の視察の日取りが決まった。日付はどちらも今度の日曜日。4月を締めくくる最後の日曜日だった。
高校初のサーフの日。
砂浜を走りぬけ、海へ飛び込め! そこには楽園のビッグウェーブが唸りをあげてオレたちを待っているぜ! さぁ、今日の一番星は誰だ! 自信のあるヤ
ツァ名乗りを上げな! そして、あの大波にトライしろ! 波乗りボードの上でコサックダンスが眩しいぜ!!
――のはずが。
「……凪いでるな」
「……はははははっ。うん、まあ。しゃーねぇよな」
白い砂浜に、サーフボードをもった高校男子がぽつねんとふたりきり。頭上の空は晴れ渡り、目の前に広がる海はこれ以上ないほどに凪いでいた。
乗れる波なんてひとつもありゃしない。
「……帰るか」
「……おう」
そのまま回れ右をして、とぼとぼと砂浜を後にする少年ふたりの背中はひどく物悲しい。
しかし、ここまで来たのになにもしないで帰るというのももったいない。せっかく近くまで来てることだし、ちょっと母校の様子でも見ていくか?
どちらともなく出てきたその提案にのっとってふたりは去年まで通っていた学び舎、石徳中学を訪れた。
それぞれが所属していた部活に顔を出し、見知った後輩の顔を見つけては首根っこを掴まえて頭をくしゃくしゃ撫で回したり、「元気でやってるかー!」とか
ちょっと先輩風を吹かせてみたり、せっかくサーフィンしにここまで来たのに波なくて最悪だよとか笑い話のひとつもしてみたりした。
そのあと職員室にもまわり、ふたりが3年のときに担任になった浜川先生――通称ハマセンに顔を見せに行った。
「おー、少し見ないうちになんかまたひとまわり大きくなったなぁ? えー、田中に松下ぁ」
「スイマセン先生。盛大に間違えてます。オレは神前でこっちは福添です」
ハマセンのお惚けっぷりも相変わらずだった。それを、まだ半年もたっていないのに「懐かしい」と思えてしまうことに少なからず寂しさを覚える。こうして
人は成長していくのだろうか、なんて変に感傷に浸ったりして。
そんなこんなで、中学では1時間くらい過ごしただろうか。
「また、ヒマな時にでも遊びに来いよー! 漆原に遠藤ー!」
「神前と福添でーす!」
校門前まで送りに出てきたハマセンに別れを告げて中学を後にする。
国道沿いに歩き近くのバス停まで移動。バスの時刻を確認する。ふたりの家の方向が真逆にあるため実質ここでお別れとなるのだが、
「うはぁ、さすがローカル路線って感じだな」
「そういや、休日はさらに本数少なくなるんだっけか?」
お互いのバスが到着するまでにはまだかなりの時間があった。まあ、いざとなれば二人とも歩きで帰れない距離ではないのだが、さすがにビーチサンダルに
サーフボードを抱えた状態では少しキツい。
ということで、なにかしら時間を潰す手立てを考えなければならないのだが、
「…………」
「…………なんかこのへんあったっけ?」
とりあえずここには海がある。砂浜がある。振り返れば山もある。自然と融和して遊ぶにはなにひとつ不自由しない。しかし、イマドキの高校生男子が遊ぶよ
うなところはなにひとつなかった。かといって、バス待ちの椅子にふたり並んで腰かけてしゃべって時間を潰すというのもなんだかむなしい。これで、話し相手
が意中の異性とかなら話は別なのだろうけれど。
「……なんかねぇか。なんか」
「……あっ! そういや忘れてた! 兎亀軒!」
「……それだ!」
そうだその手があった。
まるでなにか新しい遊びでも開発したかのような笑顔でふたりは顔を見合わせた。実のところサーフィンのことで頭がいっぱいで、花純の話した兎亀軒のこと
はすっかりと忘れてしまっていたふたりだった。
時間は、おやつを食べるにはちょうどいいぐらいだった。ラーメンでおやつ、というのもいかがなものかとは思うがこの際わがままは言ってられない。
「んじゃまあ、ひさびさの兎亀軒に――」
「――行ってみますか?」
そうと決まれば話は早い。
噂の兎亀軒に向けて、ふたりはさっそく移動を開始する。 が、
「……あれ?」
「? どした?」
「そういやぁ、兎亀軒て、どこにあんだっけ?」
バカだなぁ、兎亀軒は……、と言い掛けて拓磨もそのまま言葉が出てこないで固まってしまった。
そういえば、改めて聞かれるとどこだったか思い出せない。だけどなにか、どっか記憶の片隅に引っかかっている気がする。
それは、大洋も同じなのだろう。ふたり揃って唸りながら記憶を辿っていく。
あれは、確か学校のすぐ近くにあったはずだ。国道沿いにあって、そうだ!
バス停のすぐちかく。たしか、仁良伊市方面行きのバス停の真後ろ、……って?
バス停の真後ろ!?
「…………」
「…………」
『あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!』
拓磨と大洋が素っ頓狂な声を上げてその建物を指差すのはほぼ同時だった。
それは、道路を隔てた向こう側、【石徳中学前・仁良伊市方面行き】のバス停のほぼ真後ろに、確かに存在していた。
ラーメン屋・兎亀軒。
あまりの老朽化具合にてっきり廃屋かと思い込み目に映らなかったほどだった。
とりあえず国道を横断し、店の真ん前に立つ。兎と亀の絵柄の入った暖簾が出ていなければ、いや実際にこうして暖簾が出ているのを見ても、これで営業して
いるというのが本当に信じられない。店全体が斜めに傾いでいる気がするのは、はたして気のせいだろうか?
「……なんか、吹いただけで倒れちまいそうだよなぁ」
「……ってか、ホントにやってるのか?」
母校近くのラーメン屋を前に拓磨も大洋もいかんとも形容しがたい微笑を浮かべていた。こうなってくると入り口の戸に手を掛けるかどうかさえ戸惑われる。
それこそ、戸に手を置いた瞬間、まるでどっかのコントみたく戸だけ残して倒壊してしまいそうな気がした。
この時点でもうすでに、兎亀軒にアルバイトが入ったなんて噂話の件はふたりの頭の中からどこかに吹っ飛んでしまっていた。おそらく予感なんて微塵もな
かっただろう。
それは拓磨自身が心の中でひとりぼやいた言葉でもある。
神様は本当に運命の悪戯というやつが好きなのだ。
「まあ、こうしてても仕方ねぇし、とりあえず入るか?」
さんざ戸惑ったあげく、意を決して拓磨は兎亀軒の戸に手を掛けた。
自ら抉じ開けた運命の扉はガタガタと立て付けの悪い音を響かせていた。
第一声からして違っていた。
いや、店の位置すらうろ覚えだった人間が果たして店の中の情景をどこまで憶えていられたかというと確かにそうなのだけれど、しかしその第一声はどうあが
いても拓磨の記憶の中に残っていた兎亀軒のイメージとはミスマッチな声だった。
「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」
――何名様でしょうかぁ?
たしか、拓磨の記憶が確かなら、兎亀軒の第一声はおやっさんの「らっしゃい! なんにするね?」のはずだ。それに声質からしておやっさんのそれとはまる
で別物だった。
と、ここにいたってようやく拓磨は花純の噂話を思い出した。
――まさか。ほんとにバイト雇ったのか?
果たして、厨房との境目を区切っている小さな暖簾を潜って出てきたのは、
『…………え?』
お互い、そこにありえないものを見た感じで凍りついていた。
厨房から出てきた噂のアルバイト。学生服姿が水玉エプロンと三角巾に変わってはいるものの、その際立った肌の白さは見間違えようもない。
そこにいたのは、薗原佳乃花だった。
「……薗原、さん?」
「…………ゴウカン、じゃなかった。……ええっと?」
「……神前です」
「あぁ、そうそう。神前くん!?」
うん、まあまあ、確かに。
初日の事件勃発からここまで気まずい空気を引き摺りっぱなしでロクに挨拶すら交わさないような状況でしたよ? でもさ、どうなのよ? 強姦魔くんで通し
てるって言うのは? なんだか無性に泣きたくなってきた。
またあの日の下腹部に受けた痛みが蘇えってくるようで、拓磨は居た堪れない気持ちになる。そんな拓磨の心持に気付く様子はまるでなく、薗原は無邪気な笑
顔を浮かべて、
「えぇ!? なんでなんで? どうして神前くんがここにいるの?」
「……いや、それはオレらの方が聞きたいですよ?」
「えー、だってここ私の家だもの」
「へぇ、そうなんだ。ちなみにオレらはすぐそこの石徳中学……。ってなに!? どこが家だって!?」
「いや、だからここここ」
言いながら薗原は地面を指差している。もしこれが、わたしが住んでいるのは地球ですよー、というギャグかなにかでない限り、薗原が指し示す“ここ”とは
この兎亀軒のことなのだろう。しかし、しかしだ!
「いやいやいやいや。だって、えぇ!? おやっさんに孫がいるなんて聞いたことないけど!?」
「……あぁ、えぇと。わたしは、ここのおじいちゃんの一人娘のその娘。つまり、ここのおじいちゃんはわたしにとって母方の祖父、になるの。そんなことよ
り、せっかく来たんだしなにか食べていくんでしょ? ご注文は? なににしますか?」
いや、そちらにとっては“そんなこと”程度このとかもしれないけど、こっちにしてみれば一大ニュースですよ?
けれど、まあこのまま突っ立ってても始まらない。拓磨と大洋はそろって一番奥のテーブルにつきメニューを眺めた。とはいってもそれほどたくさん食べられ
るような腹具合ではない。ふたりとも普通のラーメンを頼む。
「ご注文ありがとうございます」
手早く注文をとり終え、薗原は厨房の中へと引き返した。厨房に入りながら、それをする必要があるのかどうか、受けたばかりの注文を繰り返した。
彼女が厨房に引っ込んだことを確認してから大洋が小さめの声で訊いてくる。
「……ところであれか。あの子が例の、拓磨が押し倒したとかいう彼女か?」
「なんで知ってんの!? なに、どこかで以前会ったことがあるとか!?」
「いや、さっき彼女が強姦魔くんって言いかけたのを聞いててなんとなくそう思っただけ」
「……ああ、それね」
なんだか強姦魔くんというあだ名が出るだけで気分がだいぶ滅入ってしまう。せめて、もうちょっと違う名前はないのだろうか? まあ、あだ名をやめてくれ
るならそれに越したことはないのだけれど。
やがて大きなトレイに載せられてラーメンが運ばれてきた。が、見るとラーメン以外にもいくつか乗っかっている。
ふたりの前にそれぞれラーメンを置き、その間に餃子と野菜炒め、最後に薗原は隣のテーブルの椅子をひとつ引っぱってきて半ライス1つをなぜか自分の手元
に置いてそこに座った。
そのまま、薗原は割り箸を手に取り、
「いただきまーす」
「いやいやいやいやいやいや。ちょっっっっとまった!」
「――全っ然、状況が理解できないんだけど!?」
ひとり勝手に食べ始めようとする薗原に拓磨も、さしもの大洋も揃って突っ込みを入れた。頼んだ憶えのない料理にふたりとも面食らっている。
そんなふたりを交互に見ながら薗原は、あぁ、となにか合点がいったようにひとつ手を打ち、
「ゴメンね。ちょっと、ふたりにね、試食をしてもらいたかったのよ」
「はぁ」
「試食?」
「そう。この餃子と野菜炒めの試食。ああ、ラーメン以外はわたしが奢るから心配しないで」
うん。まあ、そういうことなら。
拓磨も大洋も訝りつつも、目の前に出された餃子と野菜炒めに手を伸ばした。
はて? 野菜炒めなんて前々からあった気がするし、餃子もさして変わらない普通の餃子だった。いったいなんのための試食なのか。
「どう? どんなかんじ?」
「え? いやぁ、おいしいけど。なぁ?」
「ん? ……まあ」
「ホントに? 実はそれ、私が作ったんだけど」
――ああ、なるほど。
試食の意味がようやく分かった。つまりは料理の腕試し、そしてオレたちは――言い方は悪いかもしれないけれど、いいとこにやってきたカモ、ってとこだろ
う。
すべてのことが明らかになり、拓磨たちに安堵の表情が浮かぶ。なんかビビッて損した。
「へぇ! そうなのか。すごい、ウマいじゃん!」
「……それならそうと、先に言ってくれればいいのにさぁ」
「うーん、ゴメン。でも、先に言っちゃうとなんていうか先入観とか出来ちゃうじゃない? 正確に判断してもらいたかったから」
3人の間の空気が一気に和んだ。これまでの気まずい数日間も含めて張り詰めていたものが嘘のように溶けて消えていく。まったく、あの胃が痛くなるような
思いはなんだったのか。
そのあと、薗原と大洋が初対面ということもあり、改めての自己紹介をした。
それによると、薗原は両親とは離れ、単身でこちらの学校に転校してきたらしい。
「まあ、ちょっとした家庭の事情でね」とか嘯いていたけれど、いったいどんな家庭の事情があってひとりでこんな僻地の高校に転校してきたのか。結局最後ま
で聞けずじまいで終わった。
次にお互いの趣味の話になった時に、薗原は早々と男子ふたりが手にしていたサーフボードに食いついてきた。
すごいねーとか、結構高いんでしょ?とか、しきりに頷いていた。
「薗原さんはなにかマリンスポーツとかやんないの?」
「んー、わたしは特に。シュノーケリング、くらいかな」
「へぇ。じゃあウェットスーツとかも持ってる?」
「え? まあ、一応。それっぽいのは持ってるけど」
「なんだ充分だよ! じゃあ今度さ、みんなで行かない? っていうか、いまからでも行く?」
ここにきて大洋のテンションが妙に上がっていた。
……なんつーか、まあ分かりやすい。っていうか、オレの存在忘れてね?
これ以上ほっとくと止まらなくなりそうだった。拓磨はやんわりとあいのてを入れる。
「大洋、焦りすぎ。それに時間的にも……て、ヤベッ! 大洋、バスバスッ!! これ逃したらまた2時間はこねぇぞ!」
ふいに壁に掛けられた時計を見たら、店に入る前に確認してきたバスの時間とほとんど変わらない時刻を指していた。特に、先に来る大洋のほうのバスはもう
ギリギリの時間だった。
「やべぇ! とりあえず全部食っちまわないと!」
「いや、食ってる場合でもねえよ! ――ああ! 薗原さん悪い! ラーメン代はツケといてくんない? 明日、学校で必ず払うから!」
結局、あいのてをいれるどころではなくなってしまった。取るものもとりあえずといった状態で拓磨と大洋は大急ぎで兎亀軒を飛び出していた。
3、ダイビングスポットパラダイスの悪夢
突然、春が訪れたような心持ちだった。
それまでずっと引き摺っていた気まずい空気はいったいなんだったのか。
別にシカトを決め込まれていたわけでもないし、お互いになんとなく話しかけづらい距離に身を置いてしまっていただけなのだろう。しかし、初日からここま
で会話らしい会話をしたことなんてなかったのに、たったひとつのきっかけでこうも変わるものなのだろうか。
兎亀軒で薗原と遭遇したその翌日、学校の玄関口で顔を合わせた彼女は華やかな笑顔で話かけてきた。
「神前くんおはよ。昨日は、試食に付き合ってくれてありがとね」
「お!? ……おう」
「あ、でも無銭飲食は感心しないわよ。払うものはちゃんと払ってもらいますからねぇ。はいこれ! 昨日のラーメン代」
「…………」
胸ポケットから取り出した小さな紙切れを、拓磨は素直に受け取った。そこには掠れてもうほとんど読めないくらいの薄い印字で「ラーメン*2 ¥780税
込」と打ち込まれていた。
「帰りまでにくれればいいから。それじゃね。――あー、涼子ちゃん待ってぇ!」
それだけを告げて、薗原はクラスメイトの女子に呼ばれて駆けて行ってしまった。
あとには、突然のことに驚き呆然と立ち尽くすばかりの拓磨が取り残されていた。
まだ一週間足らずではあるが、この学校の生活にもだいぶ慣れてきてはいるようだった。すでに友達も何人かいる。それでも、まだまだ日の浅い薗原に男友達
というのは少ない。
そんな中にあって、隣同士に席を並べながら打ち解ける風もなかった拓磨が急に彼女と親しくなったことに対して数人の男子生徒から「おまえ、どんな裏技
使ったんだ!?」という問い合わせがそれからしばらくの間続いた。
しかし、裏わざと言っても拓磨自身がなにかをやったわけでもなく、
「いや、別に。……なんてーか、自然にそんな感じになった、みたいな?」と曖昧な返答を繰り返し、そのたびに「もったいぶるなよぉ」と批難の声が上がるの
だった。
まあでも、最初で思いっきりズッコケたのを除けば、これまでの高校生活1年目はだいぶ順調に進んでいた。
そんなある日のこと。
大洋とふたりで再び兎亀軒に訪れることになった。ちょうどその日は、再び石徳中学近くの海岸で今年2度目のサーフィンに挑んでいた日だった。
言いだしっぺは大洋。
「今度さ、彼女も誘って海に行かね?」とのこと。
まあ、ほんとうにわかりやすい性格をしていると思う。早々にサーフィンも切り上げて兎亀軒になだれ込む。
波乗りを楽しんだ後ということもあって、ほどよく小腹が空いていたふたりはラーメン・半チャーハンのコンボをオーダーした。厨房の方からはいつかと同じ
薗原の注文を繰り返す声が聞こえてきた。
やがて、盆に載せられて注文した品が運ばれてくる。今回は試食はないようだった。
「ゆっくりしてってね。なんならまたツケでもいいから」
「いや、払う払う。っていうか、あん時だってちゃんと金は持ってたんだぜ」
「ほんとかなぁ?」
これはあとから聞いて分かったことなのだけれど、前回ふたりで兎亀軒を訪れた際にバスの時間に間に合わないからと急いで飛び出していった件について、薗
原はてっきりふたりが無銭飲食をごまかすために取った行動だったんじゃないかと勘ぐっていたようなのだ。
つまり、バスに間に合わないからと言って大急ぎで飛び出し、お金を払わずに済む口実を作ったのだと。
「『ボクたち、そんな悪さをする子じゃありませーん』」
「神前くん、完全に棒読みなんだけど」
「よけい怪しまれるだろそれ?」
「『えーっ』」
「『えーっ』じゃねえよ!」
「あははははっ」
三人の間に笑顔がこぼれる。
笑いあい小突きあい、お互いのことをぽつぽつと語り合いながら時間が過ぎる。いつもの倍、大洋にいたっては通常の5倍くらいの時間を掛けてラーメン・半
チャーハンをやっつけると、ようやくそこで大洋の口から本題が話された。
「実はさ、来週の日曜あたりに知り合いに頼んでボートトリップでもしようかって計画してるんだけど、薗原さんどう? 一緒に行かない?」
「ボートトリップ? なにそれ?」
「……んー、まあ。手っ取り早くいったら無人島散策ってところかな? 關内島っていう小さい島なんだけど、そこまで船で行って1日遊び倒そうってこと」
「大丈夫なの? そんな、無人島とか行って危険だったりしない?」
「ああ、それなら大丈夫。大洋んチの親父さんがスキューバの教室を開いててね。その教室のスタッフ――さっき大洋が言った知り合いのことね。そのスタッフ
の何人かに声掛けてあるから安心していいと思うよ」
「…………んー」
ふたりの申し出に対して薗原は口元に軽く指をそえて押し黙ってしまった。そのまましばらく考え込み、やがて「……うんっ」とひとつ大きく頷いてから、
「わかった。私も行くよ!」
その返答をもらった瞬間の大洋の表情は、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい晴れやかなものだった。グッと親指を立ててみせ、バッチリとウィンクまで
咬ましてきやがった。こいつ、本当に楽しそうだ。
そのあと、大まかな日程と準備するもの等を話し合い、今日はこのへんでお開きということになった。
「ごちそーさまでしたー」
「あいよっ! またいつでも来いよ、坊主ども!」
カウンター越しに器を戻すと奥からおやっさんの景気のいい声が返ってきた。そのままレジで、今度はほんとうにツケなしで代金を払い兎亀軒を後にする。
「また詳しい日程が決まったら連絡するから!」
「はーい! 待ってまーす!」
いいかげんもういいんじゃねえか? と突っ込みたくなるくらい長々と手を振る大洋に、薗原も応えて両手を振っている。なんだ、この和む風景は?
はてさて、このふたりの恋路は果たしてうまく行くのかな? なんて、まるで第三者の位置にいた拓磨は、そんなふたりの様子を見て嫉妬している自分にこの
ときはじめて気付いたのだった。
ボートトリップ当日。
五月晴れのまぶしい太陽を背景に、青い海はどこまでも青一色だった。サーフィンするには物足りないが、ダイビングにはもってこいの晴天が仁良伊島の上に
広がっていた。
その日、集まったメンバーは拓磨たち3人と大洋の父親が開いているダイビングスクールのスタッフが3人。
始めは、サーフィンを楽しむメンバーとシュノーケリングのメンバーとで別々に行動する予定で動いていたのだが、サーフィン組のなかのふたりが「いや、今
日はオレ、潜る方にしようかな」と言い出したのを発端にして、それじゃあどうせだからと皆がシュノーケリング組に移行していた。
ちなみに、そのふたりとは実は拓磨と大洋だったりする。いつもなら率先してサーフボードに飛びつくふたりがこれいかに? と彼らをよく知るスタッフたち
は訝ったものだが、3人のうちの紅一点、女性スタッフだけは直感でその理由を悟っていた。
また、どうせ潜るならボンベ背負って本格的に、という話も出たのだが、未経験者が2人いたために「あまり危険なことはできない」と、その案も却下となっ
た。
ちなみに、そのふたりとは実は薗原とスタッフのなかのひとりだったりする。その彼は事務的な仕事を専門にしていて、スクールの中で唯一のダイビング未経
験者だった。
「それではでは! 關内島シュノーケリングツアーに出発いたしまーす!」
『いぇーい!!』
スタッフ紅一点にして一番の年長者である京子の号令で皆、手に荷物を持ちいっせいにボートに乗り込む。
まあ、手荷物と言ってもみんなウェットスーツはすでに着用済みだし、他に持つものったらシュノーケルと足に付けるフィンくらいだ。
ちなみに薗原が着てきたウェットスーツなのだが、見た目は拓磨と大洋が着用しているハーフスーツと同じなのだが、上と下できれいに分かれていてお腹のあた
りが見えてしまっている、ウェットスーツにしては変に露出度の高い珍しい代物だった。っていうか、ホントにウェットスーツか?
「……にしても、薗原ってほんとに色白だよな」
普段、制服に隠れて、顔とか手先くらいしか覗いていない状態でも際立って見える白さが、ここにきて余計に目立っている。自分の茶色く焼けた肌と見比べて
みて、同じ人間のものとは思えない。
「うーん、それがねぇ。どうも遺伝的に焼けない体質みたいで、焼こうと思っても真っ赤に火照っちゃうだけで色が付かないのよね。なんか病気持ちみたいに見
えるから、わたしはあんまり好きじゃないんだけど」
「えぇーっ、いいじゃない? わたしなんかからすればその白さは羨ましい限りよ」
「……まあ、たしかに京子さんとくらべると、ほんとうにこれがおなじ女子なのかと疑いたくなぐほぉ」
余計な一言を口にした大洋に天誅が下る。口は災いの元、これでひとつ勉強になった。
6人を乗せたボートは盛大に海水を巻き上げながら一路、關内島を目指す。
皆には秘密だが、船酔いのひどい拓磨は島に行きつく前にダウンしてはしまわないかとひとりヒヤヒヤしていたのだけれどそれも徒労に終わる。
ほどなくして、6人は無事に關内島に到着。
都合のよさそうな岩場にボートを係留して、いよいよ島へと降りたった。
「んんー、ようこそ! ダイビングスポットパラダイスへ!」
「なに? そのダイビングなんとかって?」
「いまオレが勝手に付けた!!」
「……はい。大洋くん、はしゃぐ気持ちは分かるけど落ち着こうね」
まあでも、大洋のはしゃぎようも分からなくもなかった。
正直、拓磨もいますぐ海の中に飛び込んで行きたい気分をなんとかして抑えつけているようなものだった。
ひと通りの準備を終えていよいよ海へ。
と、その前に、海に潜る際のパートナー決めが行われた。ダイビングにしてもシュノーケリングにしても大概2人1組で潜るのが基本で「えー、別にみんなで
入るんだからわざわざパートナー決めなんてしなくたっていいだろうよ?」という約一名の反対があったものの、「まあこういうのは、形から入るのが重要だか
ら」ということで、いつのまに準備していたのか、くじ引きによって決められた。
その結果、京子と大洋、スタッフ男子同士、そして拓磨と薗原という組に分かれた。
ちなみに、パートナー決めに異議を申し立てたのはスタッフ男子のダイビング経験アリの方。
彼曰く、
「うわぁ、やっぱりだよぉ。昔っからくじ運ないからなぁ、オレ。ぜってぇ健吾と組むことになると思った。……あぁあーっ、オレも佳乃花ちゃんと組みた
かったなぁ〜」とのこと。
かくして、いよいよ關内島での海中散歩がスタートした。
とはいうものの、本格的なダイビングのように20分も30分も潜っていられるわけはないのだけれど。
水面をプカプカと浮かびながら海底に目を落とし、なにかめぼしいものを見つけたら潜行して浮き上がるの繰り返しなのだけれど。
それでも、ほんの1分足らずの潜行でも、海中を遊泳する楽しみは充分に味わえる。5mも潜ればそこにはさんご礁が広がっていて、色とりどりの魚や様々な
生き物のなかに入ると自分もその自然に溶け込んだような感覚を味わえる。
最初はみな、自分がいま一体となっている海の底知れない大きさと深さに圧倒され、飲み込まれてしまうかもしれないという恐怖からなかなか潜って行くこと
が出来ない。けれど、徐々に海水の冷たさ温かさに慣れ、波のリズムに身を任せられるようになり、海への恐怖心が和らいでくる。すると、さっきまで自分で狭
めていた視野が広がり、海の深さを知るようになる。見えていなかった海の底が見えてくるとやがて恐怖心はきれいに消えている。
そして、手を伸ばしてみたくなる。
そこにあるものに触れてみたいと心がざわめく。あとは、心が決まれば自然に潜って行けるようになるだろう。
水の中。ほぼ無音の世界。
音のない世界に言葉は存在しない。
けれど、ただ泳いでいるだけで、まわりにいる生き物たちと疎通できている気になってしまう。
そうなったら占めたもの。時間を忘れ、心の赴くままに海と戯れればいい。ここに退屈という概念は存在しない。なにしろ、この広い大海原を遊びつくせた人
間は誰ひとりとしていないのだから。
……だが、時に母なる海は、人間に対して鋭く牙をむくことがある。
「……すごい! キレイッ! わたし、こんなにきれいな海に潜るのなんて、はじめて! こんなことだったら、もっと早くに来るんだったなあ」
ゴーグル越しに、薗原の満面の笑みが見て取れる。
いままでに、見たことのないくらい明るくて無邪気な笑顔。
ほんとうに来てよかった。
「おーい! ふたりとも、あんまり離れちゃだめだよー!」
振り返ると、京子がこちらに大きく手を振って合図していた。たしかに、ちょっとみんなから離れすぎたみたいだ。
これ以上はなれるとマズイから戻ろう。
ふたたび薗原のほうを向き、声をかけようとして、
「…………………………あれ?」
彼女の姿はそこにはなかった
また潜って行ってしまったのだろうか?
拓磨は水面で揺らめきながら水中を漁った。
そこに、薗原の姿があった。しかし、その体勢はあきらかに異常だった。
力なく手足を伸ばしたまま、水を掻くことも蹴ることもしないで、うつぶせのままゆっくりと沈んでいく。
――まさか、溺れている!!?
あわてて拓磨は薗原を追って潜行する。
近づいて身体に触れてみると、なんの抵抗もなく水の中を漂って言ってしまう。完全に気を失っていた。
大急ぎで薗原の身体を抱え、水面まで引き上げようとして、
――!!
薗原の身体にまわした腕に激痛が走った。見ると、まわした右腕に青い糸のようなものが絡み付いていた。
――これは、クラゲの触手か!?
見れば、薗原の背中当たりにも同じような青い糸状のものが絡み付いていた。これでようやく事態が把握できた。クラゲに刺されたときの激痛で意識が飛んで
しまい、そのまま沈んでしまったんだ。
――ヤバイ。とにかく、早く水面に!
今度は薗原の身体に絡み付いているクラゲの触手に注意して、彼女の身体を抱きかかえ海底を蹴って一気に水面へ。
「おいっ! 薗原、しっかりしろ! おい!」
水面に出て、薗原のゴーグルを外す。意識が戻るようすは、ない。とにかく、このままじゃ埒があかない。砂浜まで引き返さなければ、
「どうしたの!? 大丈夫!?」
向こうでも異変に気付いてたのだろう。振り向くとすぐそこに京子の姿があった。薗原の身体を泳いで浜辺へと運びながら、それまでの経緯を手短に話す。
あとから思い起こすと、そのときよく自分は取り乱さなかったものだと半ば不思議でならない。そのとき、自分を突き動かしていたものがなんだったのか。
ふたり係りでなんとか砂浜までたどり着いた。その場に薗原を横たえ、京子がすばやく状態を見はじめた。残りのメンバーも集まり、事態の深刻さをひと目で
見抜いてか、みな一様に慌て始める。
「静かにして! なにも聞こえない!」
京子の苛立ちの声。場が一気に静まり返った。
脈拍の確認、呼吸の有無。実に手際よくこなしていく。
果たして結果は、
「……呼吸も、脈もない」
「ど、どうすんだよ!?」
「や、ヤバいぜ。ヤバくないか、おい!」
「とにかく、彼女を助けないと! 福添くん、あなたこのあたり一帯を見てまわって! もしかしたら他にもこの島に来てる人がいるかもしれない! もしいた
ら、緊急事態だからって、協力してもらえるように頼んで! そっちのふたりは、係留してあるボートをこっちに廻して頂戴! 海難救助隊へ救助の要請も忘れ
ないで! で、神前くん。人工呼吸をやった経験は!?」
「え、あ、学校の救難訓練で一度だけ」
「それで充分よ! わたしが教えながらやるから、ゆっくり落ち着いて! いい?」
「……はい!」
京子の的確な指示でみながいっせいに行動し始める。
希望を求めて、絶望から逃れるために、各々がそれぞれのできる限りのことをするために。
それが、長い長い悪夢の始まりだった。
京子と拓磨の心肺蘇生措置は結局、10分近く続いた。その甲斐あってか、薗原の呼吸はなんとか戻った。しかし、安心したのもつかの間、クラゲの毒による
ものか今度は全身が痙攣を始める。いったん戻った呼吸もまた乱れ始め、口からは掠れたような息が漏れ始めた。
そして、ふたたび呼吸は停止。
2度目の人工呼吸をおこなっている時が一番辛かった。
全身に痙攣を起こし、ガクガクと振るえる薗原の姿をまじまじと見てしまったためか、絶望感に苛まれ心が挫けそうだった。人ひとりが目の前で死ぬかもしれ
ない。ただそれだけの事実がこんなにも恐ろしいものだと、拓磨は生まれてはじめて知った。
そのあまりの恐怖に涙が止まらなかった。漏れ出る嗚咽のせいでうまく息を送れない。京子の叱責の声がなかったら、あるいは拓磨はそのまま泣き崩れなにも
出来なくなっていたかもしれない。
2回目の人工呼吸でもなんとか呼吸を取り戻すに至ったが油断はできない。そこでようやく海難救助隊の船がやってきた。
「……あとは、彼らに任せるしかないよ」
救助隊によって引き上げられていく薗原を見送りながら、京子に背中を擦られて、とうとう拓磨は立っていられずにその場にへたり込んでいた。
もう、そのあとのことはよく憶えていない。
残りの5人で仁良伊まで戻り、言葉少なのまま別れ、気付いた時には家の自分の部屋にいた。
搬送先の病院から、大洋のところを経由して連絡があったのは午後10時をまわったころ。
「なんとか、一命は取りとめた、ってさ」
力ない大洋のその言葉を聞いて、拓磨は力なくしゃがみこみ、電話の受話器を抱え込んだまま声もなく泣いていた。
4、それでも僕らのめぐる日々
薗原は結局、その日のうちに意識は戻ったものの、念のため検査入院ということで5日間の入院生活を余儀なくされた。同時に、薗原の入院に合
せて拓磨と大洋にも5日間の自宅謹慎が言い渡された。
まあ、しかし。 峠さえ越えてしまえばこっちのもので。
地域一帯を巻き込んでの大騒動を起こした当の3人は、そんなこと微塵も感じさせない軽い足取りで、6日目に揃って登校して来た。言い方は悪いかもしれな
いが、どちらかといえば生死の境から生還したヒーロー気取りなところがあった。
それはまあ、囃し立てるまわりの生徒にも問題があるわけだが、まわりの大人たちがそれを黙って見過ごすはすもない。
3人の復帰1発目の登校は、校長室での説教に始まり、反省文の執筆、まわりの心配なり迷惑なりをかけた各方面へのお詫びとお礼まわりで明け暮れた。
それでもしばらくすると、学校の生活も事故以前の落ち着いたものに戻った。
全然懲りていないのか、あいかわらず3人で連れ立って海に行ってたりするが、ちゃんと事故を教訓に生かして行動はしている。ウェットスーツはロングに限
るのだ。
そんなある日のこと。帰りのバスでの出来事。
いつもどおりのローカル路線は人もまばらで、拓磨と薗原以外にはほとんど乗り合わせていなかった。
「そういえば、まだ言えてなかったよね」
「ん?」
「ありがとうの気持ち。京子さんから聞いたよ。人工呼吸してくれてたの、神前くんなんでしょ?」
「えっ!?」
ドキッとした。まさかこのタイミングでその話が出てくるとは思いもよらなかった。
意味もなく鼓動が早まっているのが、自分でも恥ずかしい。
「ま、まあ。そうだけど」
「だからね、そのお礼。……ありがとう。あなたはわたしの命の恩人よ」
「……大げさだな」
「ねぇ。ところでどうだった?」
「なにが?」
「わたしの、くちびるの感触。ファーストキスを奪った感想」
「はぁっ!? おまえ、なに言って――」
「もう一度、確かめてみる?」
見れば、薗原は頬を紅潮させゆっくりと目を閉じてこちらに顔を寄せてきた。
早鐘のように打ち始める鼓動。握った手のひらに妙な汗が湧いてきた。
それでも、本能は実に素直に働く。
琢磨も目を瞑り、彼女の方へゆっくり、ゆっくりと顔を近づけていく。
そして、
「?」
唇と唇が触れる感触。
それが、どうにも想像していたものとだいぶ違う。
あの時は気が動転していて感触なんて気にしている余裕なんてなかった。「薗原との人工呼吸の味はどうだった?」なんて聞かれても覚えてなんていない。果
たして、
――女の子の唇って、こんなザラッとしてるんだっけか?
引っかかるものを感じゆっくりと目を開くと、そこには、
「…………」
目の前には薗原の唇、の変わりに彼女が翳したカバンがあった。その先にはカバンに口付けしている琢磨の様子を覗き込む薗原のにやにや顔。
「……うーわー、ほんとに引っかかったー」
「はぃ?」
なんですと? 引っかかった? なに? なにに引っかかったって?
わけがわからない。
だって、「もう一度、確かめてみる?」なんてセリフの後に目の前の女の子に目を瞑られて顔を向けられたらそりゃあふつうは男の子としては取る行動はひと
つなわけで、それが下から割り込んできたカバンに妨害されてしかもそれが「引っかかった」というのはどういうことですか?
まるで状況が飲み込めず、自分がしようとしていたことに恥ずかしさが湧き上がり、顔を赤らめておたおたし始める琢磨に、「あのね、京子さんに『試してみ
な』って言われたんだけど」とおもしろそうに話し始める。
つまりは、あのふたりに「あの時はありがとう」とかなんとか言って、その場で目をつぶったフリをして待っててみな、と。そうすれば、男ってヤツは単純だ
からすぐに口を近づけてくるから、と。そのようなご教授が京子姉さんからあったそうだ。
「……って、それってもう大洋にも試したのか?」
「うん。福添くんも神前くんとまったく同じ反応だった。いやぁ、それにしても、これほど見事に引っかかるとはねぇ……」
――女って……!
女性にはそうやすやすと気を許してはいけない。琢磨は実に貴重な人生の教訓をその時学んだのであった。
直径40kmもある巨大彗星。もしかしたら、それが衝突して人類に壊滅的な影響を及ぼすかもしれない、この廻る日々。
それでも、それはまだ見ぬ未来の話。来るか来ないかわからない終わりの日に怯えて暮らすなんて馬鹿げている。
だからきっと、いつまでも僕らは僕らのままで日々を過ごすのだろう。
-END-