それでも僕らのめぐる日々・謎 〜真夏の夜の幽霊図書室〜
紫雲 正宗



 1、本は消えるし犯人は幽霊か もしれない昼休み

 

 世界はこの先どうなっていくの か。文明はどこまで繁栄を極め、あるいは衰退し、人類はいつまでこの地球にとどまっていることができるだろうか。その答えは誰にもわからない。

 ただ、ここにひとつ、明確な数 字として示されているものがある。

 二〇一八年十一月某日。巨大な 彗星がこの地球に突っ込むかもしれない、と予測される日付がそれだ。

 人類を絶滅に導きうる、宇宙か らやってきたその悪魔の使者の名前は、NEAT・織田・ヒューイック彗星。通称ニート彗星。その核の直径は約四十キロと推測されてい る。

 直径四十キロにもなる氷の塊が 地球に降り注ぐ。その際の衝撃は計り知れない。

 人類の目の前に突如として提示 されたXデ イ。

 現在、各国の政府首脳が協力し あってこの悪魔の死者を門前払いにしようと対策を急いでいるが、それもどうなるか、その日が来るまでは誰にもわからない。

 世界が終わってしまうかもしれ ない。その日を三年後にひかえ、人々の間には不安と恐怖が静かに渦巻いている。なかには恐慌をきたし、世を儚んで自らの命を絶つ人も少なくない。調べによ れば、このニート彗星騒動で自殺に至った人の数は全世界で十万人を裕に越えると見られている。その数はいまだに増える傾向にある。それは、日々映されるテ レビに、流れるラジオに、読まれる新聞に、『彗星の衝突はかならず回避されるものです。みなさん、早まった行動はどうか謹んでください』という旨の言葉が 見受けられることに如実に表れていた。

 あと三年で、なにもかもが消し 飛んでしまうかもしれないという事実。それは、この世に具現化した悪夢にほかならない。

 それでも人間は、幽かな希望と 能動的な楽観とを駆使し、事態に対する無関心を装って生きることを選ぶ生き物だ。

 おそらく、終わりなんてものは 来ないだろう。きっと、彗星の衝突は回避されるはず。あるいは、なにかの偶然で彗星の軌道は反れるかもしれない。

 約束されぬ未来を念頭に置きな がらも、どこかでそれを否定しながら、人々はそれまでとほとんど変わらない日常を送り続けている。

 場所は、ニライカナイのすぐ近 く。海のかなたに神々の住まう死後の世界があるという民話と伝承の根付く土地。日本の南の端にある島、仁良伊島。

 この島でも、終末への不安を内 に抱きながらも、連綿と続いてきたそれまでの生活とほぼ同じ日々が続けられていた。

 

 

 茹だるような暑い日が続いてい た。

 まだ七月になったばかりだとい うのに、連日のように猛暑日が続いていた。じっとしているだけで汗ばむような粘り気を含んだ暑さ。教室の窓を全部開け放っておいても、時折生暖かい潮風が 入ってくるくらいでさして違いはない。シャツはべたつき、下敷きを団扇がわりに扇いでもいっこうに汗は引かない。

 こんな陽気に外で飛び回ってい る連中の気が知れない、と琢磨は思う。ヘタに動き回ったら熱中症にもなりかねない。それでも、教室内を見渡せば、クラスの半分もここには残っていなかっ た。まさか全員が全員、外で汗だくの青春を謳歌しているわけではないだろうけれど、昼休みの時間帯に見られるこの光景が琢磨には不思議に思えてならない。 いったい、みんなどこでなにをしているのか。

 一年三組の教室の左隅。後方の 窓際の席。誰のものとも知れない机の上に腰掛けて、琢磨は持参したペットボトルの水を口に含み、額の汗を拭った。

「暑いな」

うな垂れるようにして一言、神前琢磨(かみさき たくま)はだらしなく下ろしていた学校指定のネクタイをさらに引き下げながら、擦り切れたカセッ トテープのように呟く。すると、

「言うな。よけい暑くなる」

 琢磨が腰掛けた机の隣の席に座 り、学校指定のラップトップの画面を睨み続けていた和才快人(わさい かいと)が一度だけ視線を琢磨の方に逸らしてから鋭く口にした。この地方の人間にしてはかなり色 白な快人の肌。その額にも、いまはびっしりと汗が浮かんでいる。それでも、銀縁メガネを掛けた理知的なその顔立ちは、まるで暑さを感じていなさそうな涼し げな表情だった。

「やっぱ、お前も暑いのか」琢磨 は思わず聞いてしまう。

「おれが冷血動物かなにかに見え るか? この汗を見てみろ。暑くないはずがないだろう」心外だと言わんばかりに鼻を鳴らす快人。今度は琢磨の方に視線を送ることもせず、軽快にキーを叩い ている。覗いてみると、開かれた検索サイトに『シーカヤック 沖縄 宿』と入力してあった。キーワードを打ちおえ、検索ボタンをクリック。新しいウィンド ウが開き、検索結果が表示される。

 いくつかの項目の中からひとつ を選んでクリックし、

「誰かさんが傷心旅行を企画して くれなんて言い出さなければ、俺がこんな汗だくになりながら、ちまちまとネット検索なんかする必要なんてなかったんだがな? だいたい、失恋の傷を癒した くて現実逃避に走るなんて、痛々しいにもほどがある」快人は相変わらず画面に目を向けながら、淡々と毒を吐くのだった。

 琢磨は背中を鋭利な刃物で一突 きされたような心持ちになる。快人の吐いた毒はいまの琢磨には殊更に堪える。

「……なんか、刺さった」嘆息と ともに琢磨は肩を落とす。まるで、精も根も尽き果てたボクサーのような悲壮感。真っ白に燃え尽きるって、こういうことなのかな、と琢磨は思うのだった。

 事の発端は、数日前の琢磨の失 恋劇。となりの席に座る、転校して間もない女子生徒にフラれたことに始まる。

思い返せば、その女子生徒が転校してからわずか一ヶ月で、彼女との間にはいろいろなこと が起きた。なによりも大きな出来事は、海で溺死しかけた彼女のことを救ったことだろうか。今となってはそれも、話の種のひとつに過ぎなくなっている。「わ たしのファーストキスは、琢磨くんの人工呼吸」という逸話もすっかり笑いのネタのひとつだ。まわりの生徒たちが冷やかしで、唇が触れた時の感触だとか温か さなど、そのときの感想を求めるのだが、気が動転しきっていた琢磨に語れるほどの感想はなかった。

むしろ、琢磨にとっては思い出したくない記憶だった。

 海から引き上げた少女の蒼白な 顔。途切れた呼吸。微動だにしない身体。蘇生措置を施し、息を吹き返したかに見えた少女は、しかし再び呼吸は止まり、その身体は壊れたカラクリ人形のよう な痙攣を始め。頭は真っ白になり、言いようのない恐怖に身体が震え、涙で視界は歪み続け――。

もしもあのとき、たまたま同行してくれていたプロのライフセイバーがいなかったら、と考 えるといまでもゾッとする。

あれから、まだ一ヶ月と経っていないのか。はるか遠い日のことを想うように琢磨は思い出 すのだった。

彼女を助けることができたのは、もちろん琢磨ひとりの力ではない。まわりの人たちの助け と、事故に対する迅速な対応と、なにより彼女自身が持っていた生きようとする生命力、それらすべてが合わさって初めて為し得たことだ。

 それでも、形としては間違いな く、琢磨は彼女にとっての命の恩人となる。

 この状況がそのまま恋路へと繋 がるのではないか? 多少卑しいながらも年頃の少年としては実に率直な想いが琢磨のなかに生まれなかったはずもない。もとより、それが意中の相手なのだか らなおさらだった。

 しかし、

「しかし、正直意外だったよ。ま さかあのふたりがくっつくなんてさ。俺はてっきり、彼女もおまえの方に気があるもんだと思ってたけど」ラップトップに向き直りながら、快人は相変わらずの 涼しい顔で言葉に棘を含ませる。回想にふける琢磨を現実に引き摺り戻すに、その一言は充分な威力を持っていた。再び背中を刺された気がする。

 数日前に起きた失恋劇。純情な 少年にとっては終末的な悲劇といっても過言ではない失恋の記憶は、往々にしてなかなか忘れ去れるものではない。まして、わずか数日前に起きた惨劇だ。その 凄惨な情景を脳内に鮮明に呼び起こし、

「言うな。とりあえず、傷に塩を 塗りこまないでくれ」琢磨はますます意気消沈してしまう。机からくずおれるように床に座り込み、救いを求めるように手が空を彷徨う。

それでも、快人は止まらない。

「あぁ、そうだ。なんだったら、 この旅行に薗原と福添も誘うか?」

 琢磨にトドメが刺された。

 追い討ちを掛けるように快人が 口にしたふたりの名前。それはまさしく、琢磨をフッた女子生徒の名前と、その彼女といま付き合っている幼馴染の名前だった。そのふたりの名前は今の琢磨に とっては呪詛に他ならない。

「えーと、ふたりのアドレスは、 と」

「っておい、マジかよ?」あわて て琢磨は身体を起こし、快人を押し退けるようにして画面を覗き込んだ。

 そこには、先ほどと変わらない 検索画面。

「ウソだよ、冗談だ。あたりまえ だろ。俺だって出来立てほやほやの修羅場になんか首を突っ込みたくないからな」軽く手を振って快人は画面の操作を続ける。相変わらずのポーカーフェイスで 果たして本当に冗談なのかどうか、琢磨には測りかねた。

 こいつはたまに冗談だか本気だ かわらかないときがあるから怖い、と琢磨は思うのだった。

 それからしばらく、ふたりは傷 心旅行の計画を練ることに専念した。しかし、ふたりの意見は見事に食い違い、行き先も二転三転した。同時に、他に誰を誘うかについても難航する。

 ペットボトルの水もすでに空に なり、吹き出る汗は後を絶たず、耐え難い暑さも手伝って琢磨はなかなか決まらない旅行計画に徐々にいらいらしてきた。昼休みもあと少し。なんでもいいか ら、とにかく気分転換にさえなればいいとなげやりになり、もう適当に決めてしまおうと思い始める。

「ここでいいんじゃないか?」と 琢磨が検索画面を指差した。

 そのときだった。

 近くに雷でも落ちたような大き な音が室内に響き渡った。しかし、窓の外は変わらぬ晴天。夕立の気配も窺えない。立ち上がり音のしたほうを見ると、そこには開け放たれた入り口のドアに手 を掛けて教室内を睨回す女子生徒の姿があった。さきほどの大きな音はどうやら、彼女が力いっぱいドアを開けた音らしい。

 頭の左側だけ髪を結った左右非 対称な髪型の、小学生かと見間違えそうな小柄なその女子生徒。しばらく教室内を見渡し、やがて琢磨と快人のふたりを見つけると、

「拓チンとワッキー発見!」ふた りを指さしながら駆け寄ってきた。なにをそんなにあわてているのか、ずいぶんと息を切らしている。

 ちなみに、拓チンとは琢磨のあ だ名であり、ワッキーとは快人の苗字、和才をもじったものだ。このあだ名でふたりの事を呼ぶのは校内で、――いや、全世界を探しても彼女ひとりしかいな い。

「そのあだ名で呼ぶのはやめろ」 快人は駆け寄ってきた少女に開口一番こう告げた。どこかのお笑い芸人みたいだからと言って快人は『ワッキー』というあだ名をひどく嫌っている。みれば、快 人は片方の眉を持ち上げ幾分細めた鋭い視線を少女に向けていた。変化に乏しいポーカーフェイスがこの時ばかりは表情を露わにする。もっともそれも、目の前 の少女に対するものではなく彼女が繰り出すあだ名に対するものだからすぐにもとの、なにもかもを悟りきったような表情に戻るのだが。

 一方の少女は、快人の忠告を聞 いていたのかいないのか、フルマラソンを終えたランナーのように両膝に手を置き、頭を垂れて息を切らすばかりだった。

「どうしたんだ花純? そんなに 慌てて」覗き込むように琢磨が様子をうかがうと、肩で息をしていた少女――百合草花純(ゆりくさ かすみ)は、琢磨が持っていた空のペットボトルをむしり取り、底に残っていた数滴の水を、犬のよ うに舌を出しながら口に入れてから矢継ぎ早に言うのだった。

「あのね、事件なのよ事件。図書 室でね、本が消えて犯人は生徒の幽霊なのよ」

 

 

 

 最初はなにを言っているのか まったくわからなかった。気持ちばかりが先に立っているような、興奮ぎみの花純の言葉は要領を得ない。それでも、彼女が落ち着きを取り戻すにつれて、だん だんと話の内容がわかってきた。

 これは、さっきお昼を食べてい るときに友達から聞いた話なんだけど、と前置きをしてから花純は話し始めた。

 いま学校内では、特に女子の間 ではある幽霊の噂が話題になっているというのだ。数カ月前、巨大彗星が地球に衝突するかもしれないというニュースが全世界に向けて報道された。世界の終末 を予告する一大ニュース。テレビ画面の中で、米国大統領は「この衝突は必ず回避されるもので、なにも心配することはない」という旨をことさらに強調してい たが、すべての人がその言葉を信じられたわけではなかった。

 人間は明日を夢見なければ生き ていけない唯一の生き物だ。

それは絶望を知る理性に帰結することなのかもしれない。

そこに必ずあるものだと信じ続けていた未来を奪われて、人々は絶望し自らの命を絶ってし まう。人類滅亡の危機が人々の前に提示されてから今までの間に、全世界で十万人を越える自殺者が出ていると言われている。

 琢磨たちの通う仁良伊北高校でも失意の果てに飛び降り自殺をはかり命を絶ってしまった生徒がいた。当時、三年生に進級し たばかりの、物静かでまじめな生徒だったという。

  いつの頃からか、部活上がりの遅い時間にその生徒の霊を見たという噂がまことしやかに囁かれるようになった。場所は、学校の南棟の屋上。件の生徒が身を投 げた、その場所である。

「そ れで、図書室の本が消えるっていうのは?」琢磨が軽く手を挙げながら尋ねると、花純はすこし上擦ったような早口で、「それはね、いっしょにお昼食べてた図 書委員の友達が話してたんだけど」と続ける。

  幽霊の噂を聞いていたその図書委員の生徒が思い出したように話し始めたのだという。あまり多くの生徒には知られていないことだが、ここ最近、いつのまにか 図書室の本が消えてしまうという事件が立て続けに起きているということだった。それらの本は、貸出記録には名前がなく、当初は誰かが黙って持って帰ってい るのではないかと考えられていた。

そこで、しばらくの間、図書委員は利用者の様子を窺い持ち 出している生徒がいないかをチェックしていたのだそうだ。もともと、それほど利用者は多くなく、貸出の件数も大したものではない。犯人はすぐに見つかるも のだと誰もが思っていた。

しかし、どんなに気を配って注意を向けてみても、それらし い生徒は一向に見つからなかった。その間にも、本はつぎつぎと消え続けていた。ここにいたって図書委員たちは事態の奇妙さにようやく気付いたのだそうだ。

制服に本を隠せるような余裕があるとは思えない。重い鞄を 持ったまま書架の間をたむろする生徒も見かけなかった。どう考えても、黙って本を持ち出せるような状況ではなかったという。授業中に抜け出して本を盗む生 徒がいるのかもしれないということも考えられ、図書室の開放は昼休みと放課後だけに絞られ、それ以外の時間は締め切るようにした。それでも、事態に好転は みられなかった。

「そ こで幽霊の登場、というわけか」快人が腕組みをしたままひとり頷く。

「い や、なんでそこで幽霊に話が飛ぶんだよ?」机に腰掛けながら琢磨。

  話を聞いただけでは釈然としないが、消えるはずのない本が消えているという状況だけは理解できた。見張っていても犯人が見つからない以上、相手はよほど巧 妙な手口明名いてきたのかのこと知らないんだね。に対する無関心を装って、を使っているか、あるいはその相手自体が普通でないかのど ちらかを疑うしかない。

  しかし、だからといって、先ほど話に出てきた幽霊が犯人だとするにはやはり納得がいかない。本泥棒と学校の幽霊。その両者を繋ぐ線が琢磨にはどうしても見 えてこなかった。

  苦手な数学の授業を受けている時のような、難しい顔の琢磨。それに対し、

「拓 チン、ほんとに噂のこと知らないんだね」ようやく落ち着いてきたのか、花純はその場にしゃがみこみ幾分抑えた声で続ける。

「あ のね……、さっき話した飛び降り自殺しちゃった女の子、すごい読書好きで有名だったんだって。その目撃された幽霊もね、本を持って立っていたって言うの よ。それで、すごく悲しげな声で本を読んでるんだって」

「な んだそれ? じゃああれか、その自殺した女子生徒の幽霊が図書室から本を持ち出してるっていうのか。本がなくなっているのはそのせいだって?」

「だっ て、それ以外考えられないじゃん。幽霊が出るのは図書室の真上なんだし」

  得意げに「そうに違いないよ」と繰り返す花純の自信はいったいなにに根ざすものなのか、琢磨にはまったく理解できなかった。

  仁良伊北高校は築二十年ちょっとの比較的新しい学校だ。コンクリート打ちっ放しの、無機質だが現代的な佇まいをしている。校舎は北棟と南棟にわかれ、おも に北棟には各学年の教室が、南棟には理科室や被服室、音楽室といった特殊教室が収まっている。

  図書室はその南棟のいちばん東側の二階にあった。もっとも、その上の三階には視聴覚室があるので花純の言った「幽霊が出るのは図書室の真上」というのは正 確ではないのだが。

  読書好きだったといわれる女子生徒。その女子のものと噂される幽霊の存在。目撃された場所と図書室との位置関係。そして、いつのまにか消えてしまう本の 謎。ここまできて、琢磨にも本泥棒と学校の幽霊を結ぶ線がようやく見えてきた。しかし、

「し かし、仮にその幽霊が犯人だったとして、なんでわざわざ屋上まで本を持って出るんだ? そのまま図書室で読んでいればよさそうなもんだが。それに、持ち出 すまでは認めたとしても、その本が返ってこないっていうのは解せない」

  快人が机に正対したまま独り言のようにつぶやく。軽く握った拳を口元に置き、その視線は虚空に向けられたまま動かない。彼が思考にふける際の癖だった。

「だ いたい、いくら幽霊だからって、わざわざ学校の屋上で本なんか読んだりするんかな? っていうか、なんのために化けて出てんだ、そいつ」

琢磨も快人の考えに同意した。といっても、拓磨の方はもう 事件への興味も薄れ、どうでもいいという投げやりな感じが言葉にも含まれていた。

「知 らないよ。そんなの、幽霊さんに聞いてみなくちゃ」

快人と琢磨の連続攻撃に晒されて花純は完全に拗ねてしまっ た。床に屈んだまま、快人の机に顎を乗せ頬を膨らませた。

まるで、なにごとか親に諭されていじける小さな子供のよう だ。本当に、自分と同じ高校生なのだろうか。顎を伝う汗を拭いながら琢磨は思うのだった。

しかし、しょぼくれていたのも束の間、花純はなにか閃いた と言わんばかりの顔で猛然と立ち上がった。

「そ うだ……」と自分の思いついた考えを噛み締めるようにひとつ小さく呟く。

そして、この先ここにいる三人がちょっとした夏の珍事に関 わることになる、その決め手となる一言を口にした。

「ねぇ!  だったら、あたしたちでその犯人を捕まえようよ。そうすれば、犯人が幽霊かそうでないか、盗んだ理由までまとめてはっきりするじゃない?」

 

 

 

2、心穏やかなる静かな時間を荒らすものたち

 

  ゴンズイ。硬骨魚網、ナマズ目、ゴンズイ科。

  ナマズのような八本の口ひげと、黄色い縞模様のある黒い身体が特徴。密集群を作って海底をゆっくり移動する海水魚。暖海性の魚で、本州中部以南の浅い海に 広く分布している。嗅覚・味覚が発達していておもに海底の小動物や小魚を食べる。

  体には毒を持った棘があり、正しく処理をすれば食べられなくはないが多くは釣り上げてもリリースするしかない磯釣りの嫌われもの。

  たしかに食欲をそそるような姿ではなかった。魚類図鑑に載っていたゴンズイの写真を見ながら、「食えないやつだ」と琢磨はひとり呟いた。

図書室の中は、当然といえば当然だが、蛍光灯の唸る音が聞 こえるくらいに静かだった。教室ふたつ分をぶち抜いた奥行のある空間。その奥の方の、四分の三の空間に書架が林立し、残り四分の一、入り口から入ってすぐ のところに貸出しカウンターと読書用のスペースが設けられている。

  琢磨はいま、その読書スペースで肘を突きながら『日本産魚類検索』なる大型本を興味なさげに流し読みしていた。

  クーラーが効いているので教室とはくらべものにならないくらい居心地がいい。それでも、本を読むなんて習慣を持ち合わせていない琢磨には退屈でしかたな い。だいたい、本を読むことのなにがいいのか。あの、文字を追いかける作業のどこに楽しみを見出せるというのだろう。あんなの苦行僧がやる修行といっしょ だ、と琢磨は常々思っている。

  おそらく、大抵の生徒にとってもそれは同じだろう。こんなにも手軽に涼める部屋なんて他にない。しかし、ここに来てもやれることは本を読むことくらいだ。 まさか、友達と涼みながら楽しくおしゃべりというわけにも行くまい。入り口のドアに貼られた『図書室では静かに!』の注意書きがこの部屋をなおいっそう神 聖で近寄り難いものにしていた。

いまも図書室を利用している生徒は、琢磨が見渡す限りでも 数えるほどしかいない。

図書室独特の匂い、雰囲気、静けさ、退屈。

こんなことなら、炎天下の校庭に走り出て汗だくの青春を謳 歌していた方がよっぽどマシかもしれない。硬骨魚網のページをめくりながら、琢磨は思うのだった。

「に しても、こいつなにがやりたいんだか」

  ページをめくる手を止め、溜息混じりにとなりの席を窺う。先ほどから寝息の音が規則正しく聞こえてはいたのだが、見ればやはり、花純がとなりの席で机に つっぷし完全に夢の世界に旅立っていた。枕代わりに赤いハードカバーを敷いている。背表紙のタイトルは『夏目漱石全集』となっていた。いったい、なにを基 準にしてその本をチョイスしたのかはわからないが、三十秒ともたずにむこうの世界へと旅立ったに違いない。

「っ たく、犯人探しはどうなったんだ?」琢磨は誰にともなく呟き深くうな垂れた。

  そもそも、琢磨がこの耐え難い退屈に耐えながら図書室に留まり続けているのはもちろん、本泥棒を見つけ出し捕まえるためである。きっかけは昨日の昼休み。 花純が口にした「あたしたちで犯人を捕まえよう」という一言だった。

「あ たしたちって、オレたちも含まれてんのかよ?」

  いきなり出てきた犯人捜しのアイディアに、しかも自分も必然的に参加することになっているのに驚いて琢磨が聞き返した。しかし逆に、当然でしょ? なにそ んなに驚いてるの? という顔をされてしまう。

意外だったのは花純のこの提案に快人が乗り気になったこと だ。ほんとにやるのか? と琢磨が聞くと、快人はメガネを中指で押し上げながら厳然として答えた。

「面 白そうなことには首を突っ込め。人間の鉄則だ」

「あぁ、 そうですか」

  相変わらずどこまで真面目に話しているのかわからない親友に、琢磨は形容しがたい薄笑いを浮かべるしかなかった。

  そのまま話しは、どのように犯人探しをするかということになり、うやむやのうちに琢磨も引きずり込まれる形となった。とりあえずは、図書室に張り込んで怪 しい人物を探すことから始めようということになり、今日に至るのだが、いまにして、あのときキッパリと断ればよかったと琢磨は思う。犯人探しという言葉の 響きに、子供じゃあるまいに、妙な高揚と期待感を抱いた自らの愚かしさを呪った。

  本当ならいますぐにでも抜け出したいところだが、快人と花純を相手に途中棄権をして果たして無事で済むかどうか。なにせ、ふたりとは小学校の頃からの付き 合いになる。お互いに握っている弱みはひとつやふたつではない。まして、失恋劇という新たな弱みをつい最近つくったばかりだ。そこを穿り返されでもしたら 泣くに泣けない。

  もちろん、そればかりが理由ではないのだけれど。面白くなさそうにページをめくる琢磨も内心では謎に包まれた本泥棒の正体が気になっているのだった。

  ひと通り、食べてもおいしくなさそうな魚の図鑑を見終え、重たい本を閉じる。思いのほか大きな音がして自分でも吃驚し、となりの様子を窺うが相変わらず花 純は夢の世界から戻ってこない。

  その幸せそうな寝顔を少し疎ましく思い、こいつ叩き起こしてやろうか、とも思ったがやめた。それもなんだか馬鹿馬鹿しい。退屈で人は死ねると言うけれどあ れは本当かもしれない、と琢磨は思った。

  頭の後ろで手を組み、椅子に深くもたれながら図書室内をぐるっと見渡す。いままで数人の生徒が出入りを繰り返していたが、見えるかぎりいまは利用者はひと りもいなかった。

  ちなみに、快人はいまここにはいない。昼休みの始めにいったん顔を見せたものの、「他に調べることがあるから。こっちはふたりに任せる」と言い残し、その まま図書室を後にした。快人のことだから、どこかでサボっているということもないだろうけれど、調べると言っていったいなにを調べているのか、琢磨には見 当もつかなかった。

  ちょうど真後ろ、天井近くに掛けられた壁時計は昼休みがまだ半分ほども残っていることを示していた。まだしばらくは退屈と格闘しなければならなそうだ。ほ かの本を漁るべく、琢磨は漬物石にも使えそうな重い魚類図鑑を手に立ち上がろうとして、

「神 前くん、ごめんね」とふいに声を掛けられた。

  振り向くと、さっきまで貸し出しカウンターの中にいた図書委員の与那城久琉美(よなしろ くるみ)がいつのまにかすぐそばに立っていた。「花純がなにかへん なこと頼んじゃったみたいで」と言いながら彼女は胸の前で手を合わせて、ほんとうに済まなさそうに笑みを漏らした。

「あ あ、気にすんな。オレも好きでやってることだから」琢磨は嘘をついた。高校生の交友にも社交辞令は必要である。それでもなお、ごめんね、と繰り返し「わた しも、できるだけ協力するから」と話す与那城に、琢磨は当たり障りのない受け答えをしながら本を手に席を立つ。

  立ち上がると、それでも与那城の顔は見上げる位置にあった。一七〇センチを越える身長にすらっとした体型、腰まで届く長い黒髪。落ち着きのある物腰は、花 純には微塵もない大人っぽい雰囲気を持っているし顔かたちも美人と言っていい。惜しむらくは、度の強そうな半縁メガネがそれらを台無しにしていることだろ うか。

  彼女は花純のクラスメイトで、花純の保護者役をやらされてるんだろうな、というのが容易に想像できた。先ほどの、ごめんね、の意味は『ウチの子(花純)が犯人捜しに神前くんを巻き込んじゃったみたいで……』く らいの意味だろうけれど、花純の保護者役というのを考えるとむしろこっちの方が、ごめん、と謝りたい気分だった。

「そ れにしても、物好きがいるもんだよな。図書室の本を盗むなんてさ」

  与那城を連れ立ったまま魚類図鑑を棚に戻し、足はそのまま自然とその場所へと向いていた。魚類図鑑を戻したすぐ近く。分類9類の書架。本来なら多くの文学 作品が収まっているはずのその区画はいまはほとんど書籍が残っていなかった。

「し かも、かなりの偏食家ときてる」がらがらの書棚を前にして琢磨は呟いた。

  集中して狙われたように、その一画だけが無残な空虚を晒していた。

  誰かがこの区画の文学作品を大量に借りている、わけではもちろんない。犯人はこの区画にある文学に分類される本だけを集中的に盗み出していた。そこにどう いった目的があるのか、そこにどういう理由が存在するのか、琢磨たちには知るよしもない。そこにはただ、あるべきものが消えてしまった異様な空間が残され ているだけだった。

「な んでこの区画の本だけ盗んでいくのだか。本当にわからないわ」

すでに数えるほどしか本の残っていないスチール製の書棚に 手を掛け、与那城が眉を寄せ大人びた表情を険しいものにしていた。

  そのあと、ふたりは書架の森を散策しながら読む本のことで話をした。退屈しのぎでなにを読めばいいか琢磨が相談すると、与那城は図書委員らしく琢磨のリク エストに的確に答えてくれた。趣味でサーフィンをやっていることを話すとマリンスポーツ関係の書籍がそろう書架に案内してくれるし、逆に与那城のオススメ でなにかないかと尋ねると英米文学の森に招待された。

「た ぶん、このあたりならとっつきやすいと思うから」と与那城は慣れた手つきで書棚から一冊の本を抜き取って琢磨に手渡した。タイトルは『緋色の研究』となっ ている。

  受け取りながらも、拓磨のなかで読書嫌いの遺伝子が激しい拒絶反応を起こしていた。

そんな琢磨の様子を敏感に感じ取ってか、

「そ れね、ホームズが登場する最初の作品なの。とくに、ホームズとワトソン助手が出会う場面は一読の価値ありよ」与那城がにこやかな笑みで説明した。

「ホー ムズ、って。シャーロックホームズのことか?」

「そ う」

  自分でもわかる名前が出てきたことで琢磨はすこし安心する。と同時に、目の前の長身の彼女はかなりの読書家だろうと琢磨は推察した。こういったオススメの 本が瞬時に出てくるには相当量の本を読んでいなければできない事だ。

  これだけあれば充分だろう。薦められた本を手に席へ戻ろうとして、そこでふと、琢磨はあることに気付いた。

「そ ういえば、おなじ文学の棚なのにここからこっちは全然盗られてないんだな」すぐとなりのスカスカになった書棚を指差しながら琢磨が指摘する。与那城も空に なっている書棚に目を向け、「うーん」と小さく唸った。頬に手を当てながら小首を傾げ、

「そ う、なのよね。どういうわけか、日本文学の本しか盗られていないのよ」

「あ あ、ここからむこうが日本文学の欄になるのか」

  振り向きながら聞くと、与那城は小さく頷いた。

「あ れ、でも花純が枕代わりにしてるの。あれも、日本文学の分類だよな?」琢磨が思い出したように呟く。

「枕 代わり?」

「夏 目漱石全集だよ。赤い表紙のやつ」

「あ あ、それは全集だから、同じ日本文学でも分類としては0分類になるのよ」言いながら与那城は踵を返し、「こっちこっち」と手招きしながら歩き出す。

  行き着いたのは図書室の一番奥。窓の下に背の低い書棚が並び、棚のいちばん端には『0分類』の貼紙がしてあった。重厚ないかにも難しそうな書籍がびっしり と収まっている。その中で一冊分だけ空いた隙間を「ここでしょ?」と与那城は指し示した。見ると確かに、隙間の両側を埋めているのは『夏目漱石全集』の赤 い背表紙。花純が枕代わりにしているのはその隙間に収まっていた本に間違いない。

「こ こが0分類の棚。文学の本でも全集とかだとこっちになるのよ」

「な るほどね」夏目漱石全集の隙間を凝視しながら琢磨は頷いた。

「そ れにしても、与那城はやっぱ詳しいな。図書室のことならなんでも知ってるって感じするよ」

「そ、 そう? 図書委員としては、これくらいは、当然かな、ってわたしは思ってたけど」照れているのか、与那城は頬を赤らめながら俯いた。身長のわりになかなか 可愛い仕種をする。こういうのを清楚っていうんだろうな、と琢磨は思う。出来ることなら、彼女の爪の垢を煎じていまだ夢の世界から戻ってこない花純に飲ま せてやりたい、と真剣に思うのだった。

「そ ろそろ戻るか。オレ、ここにいるとなんか、本の圧迫感で酔いそう」琢磨がおどけて見せると、与那城はクスッ、と小さく笑みをもらし、「神前くん、大げさ」 と微笑みながら貸出しカウンターのほうへと歩を向けた。

  そのとき、図書室の入り口からけたたましい音が響いてきた。

 

 

 

「図 書委員のひとりもいないなんて、はっ、これじゃあ本が盗られても当然じゃないですか?」

「い や、いつも必ず図書委員はいるはずなんですが、おかしいな。たぶん……、トイレにでもいってるんじゃないかと」

「言 い訳は結構です!」

  乱暴にドアの開けられた音。それに続いて聞こえてきたヒステリックな怒鳴り声に、琢磨も与那城もおもわず書架の影に隠れてしまう。注意深く覗き見ると、 入ってきたのは教頭の谷代(やしろ)と現国担当の『シズせん』こと、雫石大瑚(しずし だいご)教諭だった。

  全体的にキツネを思わせる細身の谷代と、生徒たちから兄貴分として慕われる雫石。ふたりの姿は、並んで立つとかなり対称的だった。

  ふたりはいま、貸出しカウンターの前で盗まれた本のことについてなにか話し合っているようだった。といっても、谷代教頭が一方的に怒声を張り上げているだ けだが。

  近くで花純が寝ているのに気を止める風もなく、谷代は、いったいどういう危機管理をしているのか、とか、あなたの指導がなっていないからこういうことにな るんだ、といったようなことを繰り返し叫んでいる。

  それに対して、雫石は時折口を挟むものの、すいません、と頭を下げることに終始していた。

「な あ、なんでシズせんが怒られてるんだ?」ふたりの様子を窺いながら琢磨が聞く。

「雫 石先生、司書教諭も兼任してるの」琢磨の背中に小さく蹲りながら、与那城がやっと聞こえるくらいの小さな声で答えた。

  なるほど、シズせんはこの図書室の責任者というわけだ。琢磨は内心呟きひとり納得する。谷代の教師いびりは生徒の間でも有名だった。雫石教諭はその餌食に なったというわけだ。

「し かし、あのキツネおやじも無茶苦茶言うな。あれじゃ、図書室に寝泊りして見張ってろって言ってるようなもんだぜ」谷代の粘着質な説教を聞きながら、あきれ たように溜息を漏らした。

「言っ てることに間違いはないんだけど、ただ、正論と持論の区別をつけないのよ。唯我独尊というか。言葉にもトゲがあるし、誰彼構わず噛みつくし。なのに、校長 先生にはいつもニコニコしちゃって」与那城のその言葉にも少なからぬ嫌悪感が滲んでいた。

  言いたいことを言い終えたのか、やがて谷代教頭はおもむろに向きを変え入口へと歩き出す。

「はっ、 ほんとうに、しっかりしてもらいたいものですね!」その捨てゼリフを残し、谷代教頭は鼻息荒く図書室を出て行った。

  入ってきたとき同様、のぞき窓が割れるんじゃないかというくらいの大きな音が図書室内に響いた。

  にわかに図書室内は静まりかえる。ひりひりと痛みを伴った静けさ。谷代の発散した怒気でそれまでとは違う、緊張感を伴った重い空気が漂っているようだっ た。

  しばらく、琢磨も与那城も動くことが出来なかった。不可抗力とはいえ、話を盗み聞きしてしまったてまえ、出るに出れない。一方の雫石も谷代を見送ってから ずっと、カウンターに背を預けたまま俯いている。動き出す様子はない。

「ど うしよう。なんか、出て行きづらくなっちゃったね」与那城は床にしゃがみ込み、カウンターのほうを窺う。

「こ りゃ、シズせんが動くまで待つしかないかな」琢磨は与那城の隣で、書架を背に腰を下ろし、長期戦の構えを見せる。しかし、

「そ こにいるやつ、もう出てきてもいいんだぞ。嵐は過ぎた」

  唐突に投げかけられた言葉にふたりは驚いた。見ると、いつのまにか雫石はしっかりとこちらの方に視線を向けていた。軽く手招きまでしている。

  琢磨と与那城は顔を見合わせ、しかたなく書架の森から出ることにした。ずっと持ったままだった本は掌にかいた汗ですこし湿っていた。

  ふたりそろってカウンター前まで行くと真っ先に、「すいませんでした」と与那城が頭を下げた。

「本 当は、隠れるつもりはなかったんですけど、あの、教頭先生がすごい剣幕で怒ってらっしゃったもので、なんというか、ちょっと出て行きづらくなってしまっ て。それに、わたしが受付にいなかったばっかりに、よけいに雫石先生が怒られて……」と早口でそこまで口にし、最後にもう一度「ほんとうにすいませんでし た」と深々と頭を下げた。琢磨もそれに倣って頭を垂れる。

  しかし、雫石は気を咎めたふうもなく、「いやいや、こっちこそすまなかったね」と逆にふたりにむかって謝り始めた。これには、琢磨も与那城もきょとんとす るほかない。

  雫石が自分たちに対して謝らなければならないことなど思い当たらなかった。

  そんな当惑の表情をあらわにしたふたりを置き去りにして、雫石教諭はしゃべり続ける。

「ふ たりにはちょっと格好悪いとこを見られちゃったな。っていうか、アイツ絶対わざとでしょ? 図書室にまでやってきてあんな説教ごと始めるなんてさ。きっ と、もっと生徒がいるところで、僕に恥を掻かせようとしてたんだろうな。ま、いいけどね。こっちはもう慣れっ子だし」なにをテンパっているのか、いつもは 落ち着きはらっている雫石がガラにもなくあわてた様子でしゃべり続けていた。

「い やぁ、しかしほんと、ふたりの邪魔しちゃって悪かったね。けど、こんなこというのもあれだけど、ちょっと意外だったよ、与那城が隠れてこういうことしてる なんてさ。え、もしかして、知らないのは僕だけだったりする? っていうか、ふたりはよくここで会ってたりするの?」雫石はそこでようやく息をつく。

「シ ズせん、なに言ってるんだ?」話が見えず、琢磨は首を傾げた。

「わ たしたちの邪魔って、なんのことです?」与那城もまったく話しについていけない様子だった。

  雫石も話がかみ合っていないことに気付いたのか、困惑気味にふたりの顔を交互に見比べている。「あれ、僕なにか間違ってる?」頭を掻きながら苦笑いを浮か べ、

「い や、てっきり僕はふたりが、その、いわゆる図書館デートの真っ最中なんだとばっかり」

「ち げーよ!」

「な、 なに言ってるんですか!」

  ふたりの声は同時に図書室内に響いていた。

  まあ、でもシズせんの勘違いも仕方ないか、と琢磨は思う。他に誰もいない図書室でふたりきりという状況。人の気配を感じて隠れるという行為。それが、青春 真っ盛りの男女となれば、雫石の想像も無理からぬことだった。

「で も、じゃあ、ふたりでなにしてたの?」という雫石の疑わしげな視線を交わすのもひと苦労だった。とりあえず、ふたりして本泥棒の犯人探しから始まるここま での流れを雫石に話して聞かせた。

「ほ んとうかなぁ?」それでも雫石教諭は納得できないと言いたげな意味深な笑みを浮かべている。

「ほ んとうに、違いますからね」

「ま あ……、いいや。そういうことにしておいてあげよう」

「し つけーな、いいかげん」

「も う、ほんとうに違うんですから!」

  与那城のその一言は、なんだかとても切実な響きを含んでいるようで、なにもそこまで否定してくれなくてもいいのに、と琢磨はすこしやるせない心持ちになっ た。

「と ころで……、その本泥棒のことなんだけどさぁ」心機一転、話題を変えるべく琢磨が本泥棒についての話を始める。

「シ ズせんはなにか心当たりとかないわけ?」

「心 当たりと言われてもなあ、僕にもさっぱり」雫石は苦笑いを浮かべながら、お手上げというジェスチャー。

「ん な気楽なこと言ってる場合かよ? 誰がやってるか知らないけど、このままじゃ図書室の本がみんな持っていかれちまうぞ」

「そ んな、大げさだよ神前。そりゃあここの冊数は学校図書としては少ない方だけどさ、それでもひとりの人間が盗み出すには相当なもんだ」

「い いのかよ、そんなことで」雫石の煮え切らない態度にさしもの琢磨も憤然とするが、それでも雫石は、

「ま あ、たしかによくはないな」

  相変わらず引き締まらないにやけ顔で答える。ただ、その目は、琢磨と突き合わせているその目だけは、憂いや悲しみを混ぜ合わせたような鈍い光を宿してい て、琢磨がさらに言い返そうとして口から出そうとしていた言葉を押し止めた。

  そのまま、雫石が続ける。

「よ くはないが……、どうすることも出来ないんだ、現状では。僕も、図書委員のみんなにも手伝ってもらって、本がなくならないですむ方法を考えながらやって る。当番を組み替えて、なるべく複数の委員に受付に入ってもらうようにして、全生徒に疑いの目を向けるようなことまでさせてしまっている。それでも……、 駄目なんだよ」

  振り向き、雫石教諭が静かに視線を送る。その先には、そこだけ忘れ去られたようにぽっかりと隙間が空いている書棚。炎天の続く夏の図書室、その中にあって その一画は不気味と謎が混ざりあった肌寒さを纏っているようにも思えて、

「こ のままじゃ、駄目なんだ」

  雫石の物憂げな眼差しは、その不可思議な空間をじっと見つめていた。

 

 

  結局、捜査初日には事態の進展はなにもなかった。放課後も閉室時間いっぱいまで図書室で張り込みを続けたが、捜査の取っ掛かりひとつ掴めぬまま終わってし まった。

  図書室に鍵を掛け、与那城に付き添って職員室まで鍵を戻しにいく。

「犯 人探しをしてくれるのはありがたいけど、おまえら勉強はちゃんとしろよ」

  与那城から鍵を受け取った雫石が、うしろで待機している琢磨と花純にもっともらしく釘を刺した。

「神 前は特にな」ボールペンで琢磨を指し示しながら雫石。

「え、 なんでオレだけ」名指しされて心外至極の琢磨がなにか言い返そうとして、言葉に詰まる。名指しされる理由があることに自分でも気付いたのだ。雫石がその理 由について、押し殺した声で言及した。

「お まえ、このまえの小テスト、何点だっけ?」

「え え、まあ……、その。正直すいませんでした」蚊の羽音にも劣る掠れたような呟きが琢磨の口から漏れた。

  とりあえず、犯人捜しはほどほどに、という忠告を再度受けてから琢磨たちは職員室を後にした。

  各々の下駄箱で靴を履き替え、正面玄関を後にする。正門前の広場にある柱時計は午後五時を指していた。西の空には赤い夕日が輝いているが、東の空はまだ青 い。花純と与那城、女子ふたりでとりとめのない話しをしながら並んで歩く。なんとなく、ふたりのいかにも女子高生といった話題について行けそうになくて、 琢磨はふたりから少しはなれその背中を追うようにひとり歩いていたが、ふと気になって南棟の校舎を見上げた。

  南棟の二階。先ほどまで自分たちがいた図書室。いまはカーテンも閉められ人の気配もない。その上の階の、めったに使われることのない視聴覚室も同様、ひっ そりと静まりかえっている。そのさらに上の天体ドーム。銀色の半球体は夕日をうけて黄金色に輝いていた。そのさきのフェンスも張られていないむき出しの屋 上。未来を憂い、ひとりの女子生徒が自らの命を絶った、その場所。そして、図書室から本を持ち出しているかもしれない幽霊が目撃された場所。

  事件があった当初は警察の関係者と思しき人たちで、物々しい雰囲気に包まれていたその場所もいまでは静寂を取り戻していた。

  ほんとうに、あんなところに立って本なんて読んでいる幽霊がいるんだろうか? 

  幽霊の騒動だけが形を残し、元の事件の記憶は徐々に風化を始めている、いまはなにも残されていない屋上を見上げながら、琢磨はひとり想いをめぐらせた。

「拓 チン、なにしてんの? 置いて行っちゃうよー」

  呼ばれて振り向くと、前を歩いていた二人はすでに校門を出るところだった。軽く手を上げて応え、琢磨は小走りに駆けて校門を抜けた。

「じゃ あ、わたしはここで」与那城がにこりと微笑み、ふたりに背を向ける。琢磨や花純とは帰る方向が逆になるのだ。その背中に向けて、「じゃあな」とか「また明 日ねー」とふたりが声を掛けると、与那城はもういちどこちらに向き直り手を振った。

  与那城を見送り、しばらくしてから来た市営バスにふたりして乗り込む。さきほどまではまだ青かった東の空も、もうだいぶ赤く染まってきていた。

  他には乗客もなく、琢磨と花純はいちばん前に通路を挟んで隣り合って座った。

「拓 チン、ぜったいくるみちゃんのこと好きになったでしょ?」座席について早々に、花純は与那城の印象について琢磨に尋ねてきた。「拓チン、意外と惚れやすい からねー」といって探るような視線を送ってくる花純に、

「ん な簡単に行くか、バカ。オレだってそんなに単純に出来ちゃいねぇよ」琢磨は辟易する。眉根を寄せてそっぽを向き、あきれたように吐息を漏らした。それを、 どのように受け取ったのか、「またまたぁ、ムリしちゃって」と花純は茶化し、歯を見せて愉快そうに笑うのだった。

  そのあともなにかにつけて恋愛ごとに話を持っていこうとする花純にうんざりするものの、適当に聞き流しているとやがて花純の声も途絶えた。見ると、大きく 口を開けた、かなり不細工な顔をして花純はまたしても夢の世界へと旅立っていた。

  こいつも快人も、ほんとよく寝るよな。

  ここまで惰眠を享受できるというのもあるいみ驚きだ。いったい彼らの身体のメカニズムはどうなっているのか。

  こんなに寝てたら、オレだったら夜寝られないけどな。となりで間抜けな寝顔を晒すど同級生を見ながら、琢磨は不思議に思うのだった。

  やがてバスはふたりが降りる停留所に到着した。

  いまだ寝息を立てている花純を起こし、その背中を蹴立てるようにしてバスを降りる。夕日はすでに背後に迫る山の向こう側、濃紺の空が夜の訪れを告げ星々が 瞬きはじめ、涼を含んだ海風が頬にやさしい。

  まだ覚醒しきっていないのか、目を擦りながら家路に着く花純に一声掛けてから、琢磨はバス停そばの海岸へと続く小路へ入っていった。あちこちにヒビの走 る、車一台がようやく通れるほどの舗装路。左手にはサトウキビ畑が続き、右手の小さな丘の上に根付くガジュマルの木は枝葉を大きく広げ頭上を覆っていた。 そのガジュマルの丘を大きく回りこむように道を進むと、サトウキビ畑と防風林を抜けた先には白い砂浜が広がり、道の先の開けた白い砂地には一軒の家屋が 建っていた。

  周囲の砂地に溶けるような白い壁に青い屋根。小さな三角屋根を被った木枠の窓。海辺にせり出したテラスには二本のパラソルと木製のビーチチェアが四席。家 屋のまわりにはハイビスカスの花が咲き、アダンの樹が寄り添うように佇んでいた。舗装路が途切れ砂地に変わる境目の、ちょうどその脇には一平米ほどの石垣 が組まれていて、中には木でできたやけにシンプルな看板が立てられている。

  看板には白い文字で『ペンション・しるさりしゅかぜ』と記されていた。

それが、琢磨の自宅に付けられている屋号である。

このペンションは琢磨が生まれたちょうどその年に始めたも ので、両親の気さくな人柄ゆえか、宿泊客と変わらぬくらい近所の年寄りが出入りし屯する場所になっていた。

ちなみに、名前の『しるさりしゅかぜ』はこの地方の方言で 「白い潮風」を意味している。

いつもなら、この時期には必ず客が入っているのだが、珍し くいまは宿泊客の姿はない。シーズン本番をまえにちょっとした小休止といったところだろうか。

  裏手にまわり家へ入ろうとしたとき、自分の家の車がない事に気付いた。そういえば、今日は組合の会合があるとか言っていたか。

  会合といっても黒糖焼酎を酌み交わして世間話をするだけのものなのだが。

  まさか、それだけのために客の予約を入れなかったわけじゃないよな。短く溜息をつき、ウチの両親ならありえるかも、と琢磨は思うのだった。

  家の中に入りひと通り見回してみたが、案の定、両親の姿はなく真姫(まさき)の姿も見えない。こちらはおそらく部活で遅くなっているの だろう。妹の真姫は琢磨が卒業した石徳中の二年生で軽音楽部に所属している。どういうわけだか三線(さんしん)にご執心で、いまでは客前で演奏を披露するほどになってい た。

  海辺の見渡せるダイニングルームに足をはこぶ。大概は琢磨も、宿泊客と入れ替わりでこの部屋で食事をとっているが、いまは灯りも落とされ中は薄暗い。

  手探りで壁のスイッチを入れると、天井扇付きの電灯が部屋の中を照らし出した。

  壁に沿って設けられた長椅子に数脚のテーブル。対面にも丸太椅子が並んでいる。いちばん奥のテーブルの上にラップに包まれた皿がふたつ用意されていて、見 るとゴーヤと魚肉ソーセージのスパゲティが盛られていた。側には母親の字で「温めて食べてね」のメモ書きが添えられていた。

  とりあえず、冒険的な創作料理でなくて良かった、と琢磨は内心胸を撫で下ろした。母親は思いついた試作料理をまず夫や子供たちに振る舞う癖がある。ほとん どは美味しく頂けるのだが、たまに出てくるハズレはかなりの精神的ダメージを伴うものなのだった。

  テーブルに載せられたふたつの皿をしばらく吟味し、若干ボリュームの多い方を手に琢磨はキッチンへと入っていく。電子レンジに突っ込み、あたためのボタン を押す。

  廊下の方で電話が鳴り始めたのは、ほとんど同時だった。

  宿泊の予約だろうか? 舌打ちひとつを残して、琢磨はキッチンを離れ受付カウンターまで向かう。メモとペンを用意し、なるべく明るい声を意識しながら受話 器をとった。

「も しもし。ペンションしるさりしゅかぜです」

  空腹に起因する苛立ちなど微塵も感じさせない柔らかな声音。十六年間もペンションで暮らしているとさすがにこのへんは手馴れたものだった。あとは相手の名 前と住所電話番号、それから宿泊の日時を聞いてメモすれば終わりである。のはずなのだが、

「?  もしもーし」

  電話の向こうからは一向に声が聞かれず、もういちど琢磨が呼びかける。それでも、応答はない。ただのイタズラ電話か、それとも相手がケータイで電波状態の 悪いところにいるのか。

いずれにしろ、いったん切ったほうがいいか。これでもし前 者なら留守録機能に任せればいいし、後者なら再び営業ボイスで対応すればいい。そう思い、琢磨は受話器を戻そうとして、

刹那、

『図 書室の調査を、止めろ。どのみち、おまえにわたしは捕まえられない。それでも、止めぬというなら……、おまえを呪い殺す』

  苦しげな女の声が、電話の向こうから確かに聴こえた。息を押し殺したように掠れた、腹の底からの怨念を込めたような不気味な低い声。琢磨の身体に戦慄が駆 け巡った。

  まさか、この電話の相手は例の幽霊なのか? 詮索されることを嫌い、邪魔されることに怒り、わざわざ自分のもとに電話なんてしてきたというのか? そんな ばかな!

おまえ、誰だ! 電話に向かい声を上げようとして、しか し、

「…… くそ」

琢磨が問い返す間もなく、電話は唐突に切れていた。

 

 

 

  3、やっぱり本は消えてしまうし幽霊には遭遇する夏の夕暮れ

 

  翌日、早々に昼食を終え図書室に向かうと、すでに数名の図書委員が来て慌しく作業をしているところだった。どうも様子がおかしい。まさか、と思いながらも 琢磨は同じクラスで図書委員をしている山渕の顔を見つけ、なにかあったのか? と聞いてみた。

「あ あ、神前か」山渕は琢磨の顔を見止めるとそっと近づいてきて、その必要もないだろうにその肥えた身体を縮込ませ、耳元で内緒話をするように囁いた。

「ま た、本が消えたんだ。いま図書委員が総出で間違いじゃないか確認してるとこさ」

  悪い予感というのは、得てして当たりやすいもののようだ。琢磨はさきほどの、まさか、の思いが現実のものになったことを噛み締めた。そして、昨夜の電話の ことを思い出す。

  あとでわかったことだが、呪いの電話は琢磨だけでなく、花純や与那城のところにまで掛けられていたという事だった。

『お まえにわたしは捕まえられない』電話の向こうで、相手はたしかにそう告げた。これは、それを見せしめるためのものだとでもいうのか。『それでも、止めぬと いうのなら……』

  今度は、殺される?

  馬鹿馬鹿しい。

  おもしろいじゃないか、と今朝方、快人は答えていた。通学バスに揺られながら、琢磨が昨夜の電話の話をしている時のことだ。普段なら表情ひとつ変えない快 人が愉快そうに、

「も し仮に、その相手が幽霊だったとして、呪い殺すというのならどうやって呪い殺してくれるのか、知りたいね。そして、もしその相手がただの人間なのなら、た かだか書籍数冊のために呪い殺すとまで口にした、その真意を知りたいもんだ。もっとも、呪いなんていう非科学的な施術が存在しない以上、呪い殺される心配 もない。まあ、ただの脅し文句に過ぎないだろう」

  そう。ただの脅し文句に過ぎない。それは、琢磨も同感だった。しかし、そうは言っても、ただの脅し文句と完全に無視できるものでもない。快人が言うよう に、たかだか図書室の本ごときのことではあるが、そこにどのような深い意味が隠されていないとも限らない。大した意味もなく殺人が起きる世の中ならなおさ らだった。

「今 度のも、やっぱ日本文学に分類されてた本なのか?」昨日見た、異様に冊数の少ない書棚を思い出しながら琢磨は尋ねる。すると、山渕は、妙に詳しいな、と視 線で訴えながら「そうだ」と短く答えた。

「と ころで、本がなくなったってそんなにすぐわかるもんなのか?」琢磨はすこし気になったことを山渕に尋ねた。数万とある図書室の本棚からたった数冊が消えた だけで、それとすぐわかるものなのかどうか。

「そ りゃ、もう何冊も残ってないからな。ウチらも徹底的にマークしてるし、無くなればすぐわかるよ」

「そ れは……、例の場所以外で盗られててもわかるもんか?」

「い や、たぶんわからん」山渕は即答だった。

「ん だよ。全然ダメじゃんよ」あまりにあっさりな返事に琢磨は拍子抜けしてしまった。

「ん じゃあ、あそこ以外の場所でも盗られてるかもしれないわけか」

「い や、たぶん、それはない」と、今度はすこし考えてから山渕。

「な んでだよ? だって、盗まれたかどうかもわからないんだろ」

「あ あ、それはだな」と言いながら山渕はすこし面倒くさそうに説明し始めた。

彼が言うには、ここの図書室では月に一度、本の入れ換えを 行っているらしい。校舎の新しさとは対照的に、この図書室に納まっている本はどれも版が古いらしく、段階的にそれを新しい版や新書に入れ替える作業をして いるということだった。

そして、その際に書籍の欠落がないかもチェックしていると いうのだった。

「だ から、もしかしたら今度ので、日本文学以外のとこから盗られているかもしれないし、盗られていたとしてもウチらもわからないんだけど……。少なくとも先月 の入れ換えのときに調べた限りは、そういうのはなかったな」

 

 

 

  それからも、琢磨と花純は連日のように図書室で張り込み警戒を続けた。昼休みと放課後の二回、ふたりは必ず図書室入り口近くに陣取り、閉室される時間まで 出入りする生徒たちに目を光らせ続けていた。また、与那城も時折、図書委員の当番以外でも顔を見せ、ふたりと一緒に様子を窺う日もあった。その成果、とは 到底言い難いものの、初日以降に本が消えるようなことはなかった。

あいかわらず快人は、調べることがあるから、といって張り 込みには参加していない。いったいなにを調べているのか、琢磨が聞いても「さあ、なんだろうな」と言葉を濁すばかり。ただ、ひとつだけ得られた情報として 「本が無くなり始めたのは昨年の初めころからだそうだ」と快人はなぜだか得意げに話した。

  昨年の初めといえば、琢磨も快人もまだ中学生で、この学校についてのことはまだなにも知らない頃のことだ。花純の話を聞いただけで、少なくともここ数ヶ月 の間に起きたことだと思い込んでいたから、齎された情報の意味合いはたしかに大きい。いま話題になっている生徒が自殺したのも今年に入ってからということ を考え合わせれば、その幽霊が本泥棒の犯人だとするには矛盾が生じてくる。これで、幽霊犯人説は完全に消えたわけだ。

  しかし、琢磨同様、快人にしても幽霊のことなど端から問題にはしていなかったはずだ。快人のもたらした情報はもとから斜線をくれられていた選択肢をさらに 修正液で消したようなものだ。なにひとつ進展などしていないに等しかった。

  なんの手掛かりもなく、事態も動きを見せず、捜査は十日目に突入していた。

 

 

 

  十日目の放課後。

花純はこの日、用があるからといって帰ってしまい、入れ替 わるように調査上がりの快人が張り込みに参加した。いつもどおり、読書スペースの中の受付にもっとも近いところの机に腰かけあたりに気を配る。が、それも 初めのうちだけで、しばらくもしないうちにふたりは捜査とはまったく関係のないことをやり始めた。いまは数名の文芸部が、琢磨たちからはいちばん離れた机 に集まって「次回の刊行物をどのようなものにするか」について話し合っている。それ以外には、利用者も出入りする生徒の姿もなかった。

見張るべき生徒がいないのではどうしようもない。

  快人はノートを広げそこになにかを書き付けている。覗いてみると、ページいっぱいに「Motive(動機)」や「Method(方法)」や「When?(いつ?)」などの単語が書き込まれていた。それらの単語が丸で囲わ れ、さらに線で結ばれて、まるで言葉の葉を茂らせた樹が描かれている様に見えた。単語の中に「Criminal(犯人)」「Ghost(幽霊)」「Book()」などもあるので事件に関することだろうと推測できるがそ れ以上のことは琢磨にはわからない。

  だいたい、なんで英語でわざわざ書いてあるんだか。英単語だらけのノートをつまらなそうに覗き込みながら琢磨は欠伸をかみ殺した。ちなみに、どうでもいい ことではあるが、琢磨に理解できた単語は「Ghost(幽霊)」と「Book()」だけだった。

  そんな琢磨の様子を気にとめる風もなく、快人はノートにさらに単語を書き加えた。

 Master,Pupil or Outsider?

  その一文を大きく丸で囲み、他の単語と同じように線で言の葉の樹木に繋げた。

  まったく、頭のいいやつが考えることはわからない。もはや、なにをやっているのかと突っ込む気にもなれず、琢磨はしかたなく手にした文庫本を広げた。

  開いたのは、初日に与那城に薦められた「緋色の研究」。やはり、読書嫌いの血は色濃いものがあるらしく、上から下に文字を追いかける作業は琢磨には若干荷 が重かった。十日かかってやっと第二章に入ったところ。それでも、この本を読むことでいくつか分かったことがあった。

  ひとつは、シャーロック・ホームズは自分が連想していた探偵像とはかけ離れた、おしゃべりで自信家で鼻持ちならないヤツだということ。

  もうひとつは、読書という行為は苦行僧が積む修行なんかじゃなく、どこかの暇人が底なしの退屈を解消するために苦し紛れに考案した暇つぶしだということ。

  おおよそ、人間が生み出した趣味というやつは、やるべき仕事を終え余暇を持て余した際に、その退屈をしのぐ目的で作られたものだ、となにかの授業で聞いた ことがある。だとするなら、読書という趣味を考え付いた人間は――そして、そんな趣味のために物語文を書こうなどと思い至った人間は、そうとうな暇人で あったに違いない、と琢磨は思うのだ。

  本の中ではいま、ワトソン医師がアフガニスタンあがりの軍医だと見抜いた際の推理の道筋をホームズが得意げに説明しているところだった。要するに、相手の 顔かたちや体型や身なりを自国の情勢等とすり合わせて考えれば、相手の正体などすぐにわかるもんだ、とホームズは話している。

  果たして、現実にはそんなにうまくいくだろうか。琢磨には甚だ疑問であった。

  しばらくして、椅子から立ち上がる音がいくつか聞こえて振り向く。どうやら、文芸部の部活が終わったようで、部員たちが立ち上がり帰り支度を始めていた。 すると、どういうわけか、いちばんの上座に座って部員たちを取りまとめていた部活顧問の沖田惣二郎(おきたそうじろう)――通称ゴリラと目があってしまった。屈強な身体つきと体 毛の濃さ、そして彫りの深さは渾名されるとおりの容姿をしている。

琢磨のクラス担任でもあり、入学してまだ半年と経たないう ちに琢磨はこのクラス担任から不良生徒のレッテルを貼られていた。今日日、不良とは素行の悪さではなく成績の悪さを指して言う。悲しいかな、琢磨自身にも その自覚はあった。

特に、沖田が教鞭をとる古文の成績はとてもじゃないが公言 できるようなものではない。そのせいもあってか、このクラス担任をまえにすると琢磨はどうにも居心地の悪さを感じるのだった。

「さ よなら」

「せ んせー、おつかれさま」

  挨拶ひとつを残して三々五々帰っていく部員たちに「おつかれさーん」と軽く答えながら、沖田は琢磨のところまでやってきた。そして、珍しいものを見る目で 琢磨の手元を覗き込んだ。

「おー、 コナン・ドイルか。おまえにしてはまた、珍しいの読んでるじゃないか」と沖田。琢磨の読書嫌いを知る沖田には、琢磨が小説を読んでいる姿は新鮮に映ったら しい。

「ど ういう心境の変化だ? もしかして、おまえも読書の楽しさに目覚めたとか?」

「え、 いや、べつに、そういうわけじゃねえけど」と琢磨は苦笑い。

  他にやることもないし仕方なく、とはさすがに言えなかった。渋い表情の琢磨に、今度はテーブルの向こう側から声が掛かった。

「あ、 それ。神前くん読んでくれてたのね」

  振り向くと、目の前には与那城の姿があった。彼女も文芸部員のひとりとして部活に参加していた。

「え、 なに? どういうこと?」話の見えない沖田は、与那城と琢磨を交互に見比べる。

「あー、 実はこれ、与那城に薦められた本なんだ」と琢磨。それでも合点がいかないのか、「なんでまた?」と沖田は訝る。なにしろ、部活もちがえばクラスも違う、趣 味もまるでかみ合わないふたりだ。このふたりの接点が沖田にはどうしても思い浮かばないようだった。

「そ れは、ですね」と遠慮がちに与那城が口を開いた。肩に掛けていた鞄を椅子に降ろし、彼女は『緋色の研究』を琢磨に薦めるにいたった経緯を手短に話して聞か せた。女子の間で噂になっている幽霊のこと。図書室から本が消える謎。その調査に乗り出した花純と琢磨のこと。その初日にふたりは顔を合わせ、本を薦める に至り、そのままの流れで教頭と雫石の件まで話し終えてから、

「と いうことがあったんです」と締めくくった。端で聞いていてもしっかりと要点を抑えたわかりやすい話し方だった。はたして、同じ内容を説明しろと言われてこ こまですんなりとできるだろうか、と琢磨は感心した。

「なぁ るほどね」とこれまた渾名そのままの仕種で頭を掻く沖田。ひと通りの説明を聞いて、納得はしているようだった。しかし、

「で……、 ほんとのとこ、どうなの?」

「ど うって、なにが?」

「?」

「い や、だっておまえ、だれもいない図書室で男と女がふたりきりで、それでなにも起きないなんて」

「な にも起きてねぇよ!」

「な にもありませんから!」

  ふたりの叫びは見事な協和音となって響いた。まったく、この学校の教師はみんなこうなのか? 呆れるのを通り越してもはや虚しさすら感じる琢磨であった。 また、雫石の時のようにくだらない押し問答をやらなければならないのかと思うと泣けてくる。

  しかし、その流れを断ち切ったのは、それまでずっと沈黙を通していた快人だった。

「と ころで――」と快人が口を挟むと、おまえいたのか? という視線が三人から送られる。それらの視線を受け流して、

「沖 田先生には、なにか心当たりとかありませんか。本泥棒について」静かで、それでいて張りのある、落ち着いた声音で快人は沖田に問うた。

「先 生たちの間でも話題にはなっているでしょう。図書室の本がいつのまにか誰かに持ち去られている話は」

「まぁ な。学校側としてはまあ、頭の痛い話ではあるよ。しかし……、心当たりと言われてもなぁ」

沖田も一転して真剣な表情になった。眉根をよせ、しばらく 思案してから、「心当たりというか、これはあくまでオレの勘だけど」と一言。いったん言葉を区切り、三人の顔を見まわし、「ただの仮説だぞ。それでもいい か?」と同意を求めた。

三人がなにも異論を唱えないのを確認してから、ひとつ息を 吐く。そして、やりきれない思いを吐露するような、苦虫を噛み潰したような顔つきで、沖田は慎重に言葉を選びながら話し始めた。

 

 

 

  正直なところ、どういう方法で図書室の本を盗み出しているのかは、オレにはわからない。けれど、動機から考えるなら多少はできる。

  もう一回言っとくけど、これはあくまでオレの勘だからな。話はここだけにしておいてくれよ。

  まあ、あまり大きな声では言えないが、オレはこの事件の犯人は生徒じゃなく教師なかの誰かだと思ってるんだ。つまりはしっくりと説明のつく動機があるかど うかってところさ。ありていに言っちまえば、雫石のことをおもしろく思っていないヤツが教師の中にはいるってこった。

  おまえらも知ってのとおりアイツは生徒には人気があるだろ? そりゃあ、教師の間でだってそんな悪い評判はないさ。オレも、同じ国語教科の担当ってだけで なしに、人として付き合ってみて、アイツはいいやつだと思ってる。けどな……、とくに古株の連中のなかにアイツのこと毛嫌いしてるヤツがいるんだ。なん つーか、ものの考え方が違うっていうか、意見の相違っていうの? そういうので、対立とかしてたりしてさ。雫石は、ああ見えてなかなか頑固なとこあるし。

  まあ、生徒の中にアイツを嫌っているのがいないとも限らないけど。でも、さっき与那城が話してくれたとおり、どんだけ見張ってても見つけられないとなれ ば、生徒の利用がまったくない時間帯に犯行を行うって考えた方が妥当だろう? となると、やっぱり教師のほうがあやしい。

  だから、オレはその本泥棒の正体は雫石に対してよくない感情を抱いている教師の中の誰かが、嫌がらせ目的でやってるんじゃないかって踏んでるんだ。

 

 

 

  戸締りをし、しっかりと鍵が掛かっているのを確認して、四人は図書室を後にした。与太話も含めずいぶんと話しこんでしまったらしく、時刻は通常の閉室時間 を一時間もオーバーしていた。廊下から差し込む日差しもすでに黄金色に染まり、反対側の窓からは朧に輝く月が見えた。

  揃って一階まで降り、沖田とはそこで分かれる。

「オ レぁ、今日は当直だから、ちっと見回りにまわってくら」背中を向け手を振りながら校長室のほうへとつづく廊下を歩き出す沖田。しかし、数歩進んだところで 振り返り、

「お まえら、犯人捜しもいいけど、勉強はサボるなよ」

「な んか、どっかで聞いたようなセリフだ」琢磨はいやな予感がしていた。そして、いやな予感はよくあたる。

「神 前、特におまえはちゃんと勉強しろよ」沖田はまっすぐに琢磨を指さして先程より幾分かきつく言いつけるのであった。

  琢磨、快人、与那城の三人はそのまま玄関へと向かう。もうだいぶ薄暗く、自分の足音が耳につくくらい校内は静まり返っていた。静寂に耐えかねて琢磨と与那 城は互いのクラスで起きた小事などをしゃべっていたが、自分たちの声が思いのほか大きく反響するのに自分で驚くくらいだった。

  おのおの靴に履き替え、玄関から外に出る。外気は肌に纏わりつくようで、この時間になってもじわりと汗を掻くくらいに蒸した。今日は、とくに蒸し暑い日 だった。

  濃紺の空に浮かぶ月を見上げながら、校門を出る。琢磨と快人は小走りに高校前のバス停まで向かい、帰りのバスの時間を確認した。

「ど う? バス、すぐに来そう?」その必要もないのに、与那城は律儀にふたりに付き合ってバス停までついて来た。一緒になって時刻表を覗き込みふたりに尋ね る。

「あぁ……、 一歩遅かった。ついさっき出たばっか」琢磨は額を時刻表に押し付けうな垂れる。

「つ ぎ来るのは……、五十分後、だな」時刻表と腕時計を見比べながら快人は静かに呟いた。

「ど うする? 小一時間も待ってるくらいなら、歩いて帰っても大して変わらなくないか?」脳天を時刻表に置いたまま琢磨は快人に振り向く。歩きで家までだいた い一時間半。五十分待ってバスで揺られて十五分から二十分。単純に計算して、それほど大差ないように琢磨には思えた。しかし、それに対して快人は、冗談だ ろ? と片目を細め、

「こ こから家までなんて歩いたら、オレ筋肉痛で明日寝込むぞ」

「い や、さすがに寝込むまではいかないだろ? っていうか、おまえどんだけ温室育ちだよ、それ」

「お まえは単純に時間だけで考えてるからそんなこと言えるんだ。考えてもみろ、ここからおれらの家まで八キロもあるんだぞ。歩数にしてだいたい一四二八〇歩、 消費されるエネルギーは三〇〇キロカロリーになる。食事一食が平均八三〇キロカロリーだから、その失われた分のエネルギーを補填するには通常の三割り増し の食事が必要だ。その分の食費を浮かすことは家計の足しになるわけだし、突き詰めれば自然界からの搾取をわずかながら軽減することにも繋がるんだ」快人は どこまでも真面目な顔をしていた。

「で たよ……、ミスター減らず口」付き合いきれんとばかりに琢磨はよりいっそう深くうな垂れる。

「ふ たりの会話、聞いてるだけでおもしろい」与那城の小さな微笑が夏の夜風に溶けるように広がった。

「な んだったら、ひとりで歩いて帰ってもいいんだぞ」停留所のベンチに腰を掛けた快人に軽くあしらわれて、それもなんだか寂しく思え「いや、やっぱりオレもバ ス待つわ」と琢磨もそのとなりに腰を落ち着けた。

「じゃ あ、わたしも、ふたりのバスが着くまでお供しようかな」と最後に与那城。

別にオレたちに気を使う必要ないよ、という快人の一言に、 それでも与那城は、観たいテレビもないし帰っても暇だから、とそのまま琢磨のとなりに腰掛けた。

  結局、三人並んで停留所の椅子に納まる。

  目の前の通りを行き交うのは、家路を急ぐ車なのかどれもずいぶんと飛ばしている。対照的に歩道を歩く人影はまったくない。この停留所が小高い山の麓、笠木 名の町の南端にあるためだ。通りの向かいにはサーフボードのショップが一軒あるだけでまわりは畑ばかり。ぽつぽつと街灯が立っているあたりは薄暗く他には なにもない。

話を聞けば、与那城の家は学校のすぐ脇をながれる川の向こ う側、笠木名町のほぼ中央にあるという。徒歩でわずかに二・三分の距離だった。

「へぇ、 与那城のウチって歯医者なのか。知らなかったよ」

「で も、なんとなく、そんな雰囲気はあるね」

「そ、 そう、かな。自分では、あまり意識したこと、ないんだけど」与那城は恥ずかしそうに頬を紅潮させて俯いてしまう。快人が言うように、その仕種には確かにま わりの女子にはない清純さがあった。隣にいるこっちの方が恥ずかしくなりそうだ、と琢磨は思うのだった。

  しばらく、お互いの家庭環境のことで話が進んだ。快人がこのごろ少し生意気になってきたという弟の話しをし、琢磨が三線に夢中な妹の話しをすると、一人っ 子だという与那城は「わたしにも、弟か妹が欲しかったな」とひとしきり羨ましがるのだった。

「そ れにしても、空がきれい」おもむろに与那城が空を見上げる。つられて見れば、目の前の東の空はだいぶ夜に染まり、都会では見られないほどの多くの星が瞬い ていた。

「こ の時期に見える星座ってなんだっけ」呆然と星空を見上げながら、誰にともなく琢磨が問いかける。

「こ の時期だと、そうだな、オペラ座とか歌舞伎座とか」快人がメガネを掛けなおしながらしょうもないことを口にした。

「ス カラ座とか、楽市・楽座なんていうのもあるかしら」与那城が快人に合わせる形で冗談を言う。

「こ のさい、ギョーザでもやくざでもなんでもいいよ」琢磨の結びは締まりもなにもありはしなかった。三人の笑い声がいっせいに沸きあがった。

楽しい時間はあっというまに過ぎる。時計を見れば、バスが 来るまであと五分ほどに迫っていた。

「じゃ あ、わたしそろそろ……」与那城が鞄を手に立ち上がった。

「あ あ、悪かったね、こんな時間までオレたちにつき合わせちゃって」

「う うん、ぜんぜん。とても楽しかったよ」快人の言葉にかぶりを振る与那城。そのまま踵を返し「また明日ね」と軽く手を振って歩き出す。

「ま た明日」

「気 をつけて帰ってね」

 琢磨と快人の声に、しかし、与 那城の反応はなかった。

 ベンチから腰を挙げ、数歩行っ たところでぴたりと止まり、微動だにしない。だいぶ暗くなってきたのでよくは見えなかったが、どうやら本当になにもせずにただ立っているだけのようだっ た。

「与那城、どうした? なにか忘 れ物?」様子を窺うため、琢磨は彼女のとなりまできて顔を窺う。

体だけでなく、与那城は表情まで固く凍りつかせていた。

目を見開き、乱れた吐息、唇は小刻みに震えて、

「そんな……、なん、で……、そ んな、はず……」震える口から漏れる言葉は意味をなさず、「与那城! どうした?」琢磨が肩を揺すると、

「あ……、あれ」まるで痙攣した ような手。それでも、彼女の右手はしっかりとその方向を示していた。